日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

夏の夜の雨(続)

2011年07月31日 | 日記
 昨夜も雨がふり、呟くような雷が、ときに大きく鳴って、いつまでも響いていました。大げさに言えば、まるで雷雨が再訪してきて、「先日の歌は気に入らないから、作り直すように」と言われたのかもしれません。ともかくも、読み直してみると、先に用いた「呟く」という言葉は、現代語の響きが強いように思いました。

 さらに推敲して、「くぐもる」「くくむ」「こもる」といった言葉に代えてみると、悪くありません。このうち「こもる」が一番わかりやすく、音の並びも素直なので、これを決定版としておきましょう。


夏の夜の 降りしく雨の をちこちに こもりて響く いかづちの音(麟伍)
(夏の夜、窓を開けて、長く続く雨に聞き入っていると、遠くのほうで、物思わしげに呟くような穏やかな雷が、ときに強くいつまでも鳴り止まず、雨音の中を静かに響いています)


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***



 ついでに、昨日の散歩で見た、地平線から立ち上がる黒雲の情景を、歌ったものを載せておきます。とくに心が動いたというよりも、技能の稽古に風景を描いたものです。

山並みと 見紛ふ雲や 天離る ひな土に伏す をちの黒雲(麟伍)
(遠く地平線に、白い曇り空の下に、山脈と見間違えるほど、黒雲が低く伏して、地を覆っているのが見える)


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***




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夏の夜の雨

2011年07月29日 | 日記

激しい雷雨ではない夏の雨は、穏やかな雷が長く鳴り続けることがあります。昨日(7月28日)の夜は、ちょうどそのような、物思いを誘う雨が、ひとしきり降っていました。


なつのよの ふりしくあめの おちかたに つぶやきやまぬ いかずちのおと
夏の夜の 振りしく雨の をち方に 呟きやまぬ いかづちの音(麟伍)


2、3句目の「てにをは」を入れ替えて、読み比べてみると、つぎの歌の調べのほうが、雨音を聴いているときの実感に近いように思います。こちらを最終版にしましょう。


なつのよの ふりしくあめに おちかたの つぶやきやまぬ いかずちのおと
夏の夜の 振りしく雨に をち方の 呟きやまぬ いかづちの音(麟伍)

(夏の夜、窓を開けて、長く続く雨に聞き入っていると、遠くのほうで、物思わしげに呟くような穏やかな雷が、いつまでも鳴り止まず、雨音の中を静かに響いています)



***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***


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迢空短歌について

2011年07月25日 | 日記
 近代短歌で、独特な境地と高い技法という、二つの意味で圧倒的なのは、釈迢空(折口信夫)の短歌でしょう。「文学史的な意味」では、啄木や晶子や白蓮の歌も価値があるでしょうが、啄木の歌について折口が、「人臭い」と評し、自らの類似の「人事の歌」について、「私は非常に醜い作物を作り作りした」と自己批判しているように、また短歌のピークは「叙景」と「叙情」をないまぜにした作風と述べているように、人事を詠み込んだ和歌は、詩歌としての価値は数段劣ります。

 このような基準から、高く評価されているのは、万葉集の中では、たとえばつぎのような雄略帝や赤人の歌で、「非常に静かな、瞑想的な」「聴覚による写生」「霊を捉えた歌」と、折口らしからぬ稚拙なほめ言葉で解釈しています。どちらも、夜(の闇)、音(の静けさ)がモチーフの、解釈の仕方によっては、近代的な作品です。

夕されば 小椋の山に 伏す鹿の 今宵は鳴かず 寝にけらしも(雄略帝)
ぬばたまの 夜の更け行けば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く(赤人)

 ところが他方、折口が万葉集の中で最も高く評価しているのは、「瞑想的」というより、生理心理的と言うべき感覚を詠んだ、つぎのような、大伴旅人の従者の歌でした。

家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてしをれば おくか知らずも(万3896)

 これについて折口のコメントは、「思想において優れている。傑作」というものでした。「思想において」とは、生命=霊が身体から遊離していこうとする古代信仰的な不安感を、みごとに表現した歌、という意味です。

 近代的で瞑想的な歌と、古代的で心理生理的な歌では、ずいぶん趣が違いますが、この歌論から迢空短歌を見てみると、釈迢空が二通りの価値を目指して、歌を実作していることがわかります。


     人事の歌
 自己批判の対象となるべき筆頭は、つぎのような「人臭い」歌です。1首めは、「山の際」という人界離れた空間から、夕日を受けた町並みに視線が引き戻され、「人臭く」なっています。2首めは、人界に沈み込んだ歌です。3首めは、出だしはともかく、投げやりな結びが、人事の歌の運命をあらわにしています。

山の際にほこりたなびき うらがなし。夕日あらはに、町どころ見ゆ(迢空)
住みつきて、/この家かげに、あたる日の/寒きにほひを/なつかしみけり(迢空)
はまなすの赤き つぶら実をとりためて、手に持ち剰り、――せむすべ知らず(迢空)

 人界にあって、感覚が先鋭化し、人事を離れたものが、つぎの有名な歌です。

葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり(迢空)

 この『海やまのあひだ』冒頭にある、人口に膾炙した歌は、しかし、迢空の独自な感性が前面に出たもの、とは言えません。したがってわかりやすく、教科書にも載り、多くの人が鑑賞、共感できるわけです。人間的なものを離れて遠ざかろうとする方向(山道)が、たくまずも描写されていると思います。

     古代的、生理的な歌
 古代的な生理心理的な迢空短歌として、つぎのような一群のものがあります。実験学習的な印象を受けるのは、これが「折口信夫の古代研究」の応用という側面を持っているからでしょう。古代信仰の追体験を、余裕をもって楽しんでいるような様子すら見えます。

生きの身の/しゝむら痛く、ひゞき来る/人うつ人の/たなそこの/音(迢空)
山深く ねむり覚め来る夜の背肉―。冷えてそゝれる 巌の立ち膚(迢空)

     近代的、瞑想的な歌
 他方、近代的な瞑想的な歌、とくに「音による写生」、「水」の歌、「霊を捉え(ようと目指し)た歌」としては、つぎのようなものがあります。古代研究の応用ではなく、未知の美的時空間に踏み入る緊張感に満たされているのがわかるでしょう。

山岸に、昼を地虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり(迢空)
おそろしき しゞまなりきな。梢より、はたと、一葉は おちてけるかな(迢空)
山の際の空ひた曇る さびしさよ 四方の木むらは 音たえにけり(迢空)
山の葉のそよぎの音と 松蝉と 聴きわきがたし。山に満ちつゝ(迢空)

     生理心理と瞑想の融合
 古代的な魂の「たゆたひ」の感覚と、近代的な「音」「水」の瞑想が、緊密に融合したものとして、つぎの歌などが、最も完成度が高いものでしょう。

心 ふと ものにたゆたひ、耳こらす。椿の下の暗き水おと(迢空)


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『歌物語 花の風』自注(1)

2011年07月22日 | 日記
『花の風』の歌を、時節ごとに1,2首ずつ、解説していきましょう。初回は「夏の風」の歌。

芳しき 吐息のごとき 夏の風 心に重き 露をふゝみて(麟伍)

湿度の高い夏の風は、体にまとわりつき、不快でもある一方、生き物のような、人がそばにいるような存在感が、高まることがあります。遠く離れた愛しい人を思う時と重なると、暖かい息に包まれる、切ない嬉しさに満たされます。

巻く風に うれ葉のゆらぎ 匂ひたつ 手折りて妹が 形見とやせむ(麟伍)

夏の風は、葉繁き枝を大きく揺らがせ、熱と湿り気、草と土の混ざった匂いを、吹き散らします。手に届くほどに茂った梢を触りながら歩くうち、ひときわ懐かしい思いのするところで、愛しい人の記念に、その一葉をちぎり取ったことがあります。




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詠み人知らず

2011年07月19日 | 日記
 詠み人知らずの歌には、わかりやすく、かつ気持ちが深いという、芸術の理想に近い、すばらしいものがあります。たとえば、玉葉の雑歌5にある、つぎの歌など、宣伝もなく伝わってきたのは、時を超えてそのつど共感を呼んできたからです。

憂きながら いく春秋を 過ごしきぬ 月と花とを おもひでにして(読人しらず)
(つらいことはあったが、月や花の美しい思い出を重ねて、長い年月を過ごしてきたことだ)

 ときに人生を振り返る、万人の感情を代表する歌です。この歌は、通俗的でありながら高雅、平凡でありながら時空を超えた雰囲気を持っています。
 私が連想するのは、芭蕉の「さまざまのこと思い出す桜かな」という句や、かなり連想が飛びますが、ボブ・ディランの「風に吹かれて」という歌です。
 玉葉の編者、京極為兼になると、同じような情緒はつぎのような歌になります(春歌、秋歌、冬歌)。人生や人情の描写は、為兼の得意とするところではないので、いずれも上出来とは言いがたい作品です。

めぐり行かば 春にはまたも 逢ふとても 今日のこよひは 後にしもあらじ(為兼)

心とめて 草木の色も ながめおかん 面影にだに 秋や残ると(為兼)

木の葉なき むなしき枝に 年暮れて まためぐむべき 春ぞ近づく(為兼)

 過ぎ行く時間、繰り返す時間、さまざまの出来事を、こうして遠目に見る心境は、時空を超えた世界に近付いていく、最初の一歩になります。このような歌を詠むときの無名の人は、人生の頂点にいると思います。

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