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2010年4月11日、大阪城周辺に残る西軍に関わる史跡を巡るイベントと、大阪中央公会堂で戦国に浸るイベントを通して『大坂春の陣』というイベントが行われました。
天気予報では雨とも言われていた大阪は、熱いくらいに晴れ、大阪城もその雄大な姿を示していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/52/13fb826603644c81b02bfb073792d97c.jpg)
そんな大阪は桜の満開も過ぎ、葉桜があちらこちらで逆転の美を醸し出しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/25/68418f2cf59dcaf200a9a1c5ffea6016.jpg)
大阪城内には、豊臣秀吉・秀頼そして秀長を祀った豊国神社があり、その秀吉公の像の近くで昼の史跡巡りイベント『難波のこと』が始まりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/03/abc7d9b19deed6464c07e5d4befafb4a.jpg)
ガイドさん付きのツアーで行かれる方もおられたり、地図を貰って思い思いに散策される方もおられたりで個々の楽しみ方で歴史を感じるイベントでした。
そのメインは真田幸村(信繁)の史跡です。
真田の抜け穴が伝わる三光神社には幸村の像があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/bf/1fd3f97508be10a821e6ca98cb7c2d51.jpg)
現代の幸村も、約400年前の武功にあやかって同じポーズでお出迎え、そしてここと幸村最後の地の安居神社では“いしだみつにゃん”たちも登場しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/45/006c03eaac6ea498a6ce31d6af864a0b.jpg)
この史跡巡りは他にも心眼寺や円球寺、細川屋敷跡なども巡り、安居神社でゴールです。
安居神社は、幸村終焉の地で、そんな幸村を示した像が2009年12月に建てられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/52/b8445616f8e54cd5f851e57def96729c.jpg)
ここで全てをやり終えたのでしょうか?それともまだ心残りはあったのでしょうか?
それは幸村のみぞ知る事です。
幸村はこの辺りで越前藩士に討たれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/22/380b801859aadd12fa520bbc3b50cdd5.jpg)
さて、夜の部『夢のまた夢』は舞台を大阪市中央公会堂に移します。
しばらく時間が有ったので周りを散策すると、
大阪の大商人淀屋の屋敷跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/bd/a22b986c6c9b42786b96a6c0038b5639.jpg)
幕末に多くの著名人を輩出した緒方洪庵の適塾
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/9f/f5cf3d33de674aa377da30fd1c528d22.jpg)
そして、これは帰りに見つけたのですが、彦根にも縁が深い木村重成の碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/b4/47b408e87d335f59d4bc98f475302e6d.jpg)
などなど、様々な歴史遺跡の宝庫でした。
「あぁ、昼と夜に間があるのは、これらの歴史を認識する時間か、主催者の歴史好きに対するささやかな心配りを感じる」と、もしかしたら見当違いであろう感謝の意を心に置きつつ、18時から夜の部が動き始めました。
この中での注目は、石田三成と真田幸村の子孫の方による西軍ぶっちゃけトーク。
三成の長期滞在先には子どもができていて、子孫が石田さんに連絡される話や、真田幸村は九度山では貧乏生活を送っていなかった話など、びっくり・笑いなどありました。
また三成の頭蓋骨のレプリカと復顔の登場に、一瞬会場の空気が凛と張り詰める場面もあり、その二つの首が会場の中を移動する様はまるで略式首実験のようでもあり、不思議な時間でした。
その後、太閤秀吉が天正遣欧使節が持ち帰った楽器で聞いたという音楽を堪能。
『千々の悲しみ』とのタイトルが付いた曲を秀吉が気に入ってリクエストしたそうで、この曲の名を尋ねた時に、石田三成がすかさず『皇帝の歌』と答えたエピソードがあります。
実際に曲を聴くと、皇帝というよりは田舎の風景の方が似合いそうな曲で、当時も都などでは歌舞音曲に溢れていたとして今の音楽的風景と同じ感覚を持っていたならば、秀吉がこの曲を気に入ったのは出自の尾張中村の風景を思い出したからなのかもしれません。
だからこそ三成は、太閤を音楽に合わすのではなく、音楽を太閤に合わすために『皇帝の歌』という仰々しい曲名を言ったのでしょうか?
色んな解釈が頭を過ります。
今は倖わせですね。400年前は権力の中枢に居る者しか味わえなかった物が、簡単に身の回りにあるのですから。
様々な国の音楽の演奏が終わり、そんな事を考えました。
天気予報では雨とも言われていた大阪は、熱いくらいに晴れ、大阪城もその雄大な姿を示していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/52/13fb826603644c81b02bfb073792d97c.jpg)
そんな大阪は桜の満開も過ぎ、葉桜があちらこちらで逆転の美を醸し出しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/25/68418f2cf59dcaf200a9a1c5ffea6016.jpg)
大阪城内には、豊臣秀吉・秀頼そして秀長を祀った豊国神社があり、その秀吉公の像の近くで昼の史跡巡りイベント『難波のこと』が始まりました。
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ガイドさん付きのツアーで行かれる方もおられたり、地図を貰って思い思いに散策される方もおられたりで個々の楽しみ方で歴史を感じるイベントでした。
そのメインは真田幸村(信繁)の史跡です。
真田の抜け穴が伝わる三光神社には幸村の像があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/bf/1fd3f97508be10a821e6ca98cb7c2d51.jpg)
現代の幸村も、約400年前の武功にあやかって同じポーズでお出迎え、そしてここと幸村最後の地の安居神社では“いしだみつにゃん”たちも登場しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/45/006c03eaac6ea498a6ce31d6af864a0b.jpg)
この史跡巡りは他にも心眼寺や円球寺、細川屋敷跡なども巡り、安居神社でゴールです。
安居神社は、幸村終焉の地で、そんな幸村を示した像が2009年12月に建てられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/52/b8445616f8e54cd5f851e57def96729c.jpg)
ここで全てをやり終えたのでしょうか?それともまだ心残りはあったのでしょうか?
それは幸村のみぞ知る事です。
幸村はこの辺りで越前藩士に討たれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/22/380b801859aadd12fa520bbc3b50cdd5.jpg)
さて、夜の部『夢のまた夢』は舞台を大阪市中央公会堂に移します。
しばらく時間が有ったので周りを散策すると、
大阪の大商人淀屋の屋敷跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/bd/a22b986c6c9b42786b96a6c0038b5639.jpg)
幕末に多くの著名人を輩出した緒方洪庵の適塾
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/9f/f5cf3d33de674aa377da30fd1c528d22.jpg)
そして、これは帰りに見つけたのですが、彦根にも縁が深い木村重成の碑
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などなど、様々な歴史遺跡の宝庫でした。
「あぁ、昼と夜に間があるのは、これらの歴史を認識する時間か、主催者の歴史好きに対するささやかな心配りを感じる」と、もしかしたら見当違いであろう感謝の意を心に置きつつ、18時から夜の部が動き始めました。
この中での注目は、石田三成と真田幸村の子孫の方による西軍ぶっちゃけトーク。
三成の長期滞在先には子どもができていて、子孫が石田さんに連絡される話や、真田幸村は九度山では貧乏生活を送っていなかった話など、びっくり・笑いなどありました。
また三成の頭蓋骨のレプリカと復顔の登場に、一瞬会場の空気が凛と張り詰める場面もあり、その二つの首が会場の中を移動する様はまるで略式首実験のようでもあり、不思議な時間でした。
その後、太閤秀吉が天正遣欧使節が持ち帰った楽器で聞いたという音楽を堪能。
『千々の悲しみ』とのタイトルが付いた曲を秀吉が気に入ってリクエストしたそうで、この曲の名を尋ねた時に、石田三成がすかさず『皇帝の歌』と答えたエピソードがあります。
実際に曲を聴くと、皇帝というよりは田舎の風景の方が似合いそうな曲で、当時も都などでは歌舞音曲に溢れていたとして今の音楽的風景と同じ感覚を持っていたならば、秀吉がこの曲を気に入ったのは出自の尾張中村の風景を思い出したからなのかもしれません。
だからこそ三成は、太閤を音楽に合わすのではなく、音楽を太閤に合わすために『皇帝の歌』という仰々しい曲名を言ったのでしょうか?
色んな解釈が頭を過ります。
今は倖わせですね。400年前は権力の中枢に居る者しか味わえなかった物が、簡単に身の回りにあるのですから。
様々な国の音楽の演奏が終わり、そんな事を考えました。