彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:井伊直弼葬儀(4月9日)

2010年04月09日 | 何の日?
萬延元年(1860)4月9日、井伊直弼の葬儀が執り行われ、彦根藩邸上屋敷から出棺され、翌10日に豪徳寺の井伊家墓所に葬られました。

諡は『宗観院柳暁覚翁』
これは死後に付けられた物ではなく、安政2年に直弼が彦根から江戸に出府する際、自ら書いた法号を側役の三浦十左衛門に託していたので、その号から付けられました。

また、これと同じ頃に桜田門外の変の後で直弼が血を流した付近の土を四斗樽四杯に詰めて彦根に送られました。天寧寺に残る大老供養塔がこの樽を埋葬した場所です。


さて、桜田門外の変後の直弼の出来事については3月28日にも書きましたので、今回はちょっとした関連豆知識をご紹介します。

3月3日の桜田門外の変の記事の時に、直弼の首が偽首だったかもしれないとの話の中で、

“星亮一さんの『井伊直弼』という小説のあとがきに面白い話があります。
桜田門外の変から、直弼が豪徳寺に埋葬されるまでの2カ月間(3/3から閏3月を含んで4/9まで)、直弼の遺体はどうなっていたのか?との疑問です。
これを母利美和さん(当時の彦根城博物館の学芸員)が「塩漬けにしたという話がある」と回答されたと書かれていました。
2ヶ月間、塩漬け状態で直弼の遺体が残っていたのなら、幕府の検視(直弼の死は公にできないので建前上は見舞)や跡を継いだ息子の直憲、そして正室の昌子など直弼の顔を見れる人物は少なからず存在したと思います。また宇津木六之丞あたりなら首が偽物だったなら藩士に密かに探させたのではないでしょうか?
それに、もし偽首なら事情が分かった重臣クラスが密かに火葬してしまうと思います。

塩漬けの話が本当なら、首は本物。火葬した形跡があるなら偽物と考えられるかもしれませんね。”

と、直弼の遺体が塩漬けにされていた可能性があると紹介しました。
そうでなければ、2ヵ月間の遺体保存が難しいからです。


…では、塩漬けはどのように行うのでしょうか?
遺体は、そうなった時点から腐敗が進んできますので、塩漬けは急務の作業ともいえました。
その方法は、まずは節を繰り抜いた竹を遺体の肛門に突き刺して、心太と同じような要領で塩を詰め込んでいきます。
成人男性で、だいたい1斗(18リットル)くらい入るとお腹の辺りが膨張して塩が入らなくなります。
すると次は口に竹を入れて、また塩を詰め込むのです。
こちらも1斗くらいで入らなくなるそうです。こうして36リットルの塩を詰めた遺体を、樽に入れて、その樽も塩で一杯にして遺体が塩で埋まった形にします。
そのままひと月ほどすると、水分が抜けた人間が完成するのです。要はミイラですね。

実は桜田門外の変に関わる塩漬けは、もう一つお話があります。
それは、襲撃した水戸浪士側のお話。
水戸浪士の同志として、京で活動をしていた高橋多一郎親子は、事件の後で追われる立場となり追いつめられて切腹して果てたのです。その遺体は埋葬を許されず塩漬けにして放置されました。
3年後の文久3年、この処断を哀れに感じた会津藩は、高橋親子の遺体を水戸藩の墓地に埋葬するように許可を出したのです。こうして親子の遺体は京から中山道を伝って水戸まで運ばれました。
つまり、彦根藩領も通過したのです。文久3年の彦根藩は前年に10万石を減知され、直弼から引き継がれた左近衛権中将の官位を辞した時でした。ある意味で言うならば直弼の治世を消して新たな彦根藩を建築している時期でしたがその一方で「桜田門外さえ無ければ…」と悔しい想いをしている藩士も多かった筈です。そんな時に彦根藩領内を前藩主の敵の同志の遺体が通る様子とはどのようなモノだったのでしょうね。


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