古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

《魚の棚》に年の瀬の買物に行きました。

2010年12月28日 04時27分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは明石の《魚の棚》に年の瀬の買物に行きました。九十七歳のわが母妙子さんは魚が大好きで、魚の鮮度によって食いつきがちがいます。新鮮な魚でお酒を飲んでいると、もうすでに極楽にいるような顔になるので、ささやかな親孝行で魚を買ってきます。(妙子さんはお酒大好き。ぼくは250ミリリットルの缶ビールを持て余すので週に一度も飲みません。)三木に引っ越してからは近くのスーパーで買っていたのですが、やはり明石に行こうと、月に一度は魚の棚に買物にくるようになりました。神戸に住んでいた頃は、くぎ煮をつくるイカナゴを買いに、年末の買物に、ときどき来ていましたから、勝手はわかっています。近くの駐車場に止めてあれこれ買い込みました。
 写真は『魚秀』の店先で、ずらりと鯛を並べて炭火で焼いています。ここは大晦日が近づくとすごい人だかりで、焼鯛をゲットするのに一苦労します。
 きょうは娘たちや孫たちがやってきます。
 自分の帰省を思い出します。親は山陰の片田舎に暮らし、自分は阪神間で働いていましたから、盆暮れには必ず帰省しました。はじめは『大社行き』の夜行列車でした。昭和30年代後半の大社夜行はよく混んでいました。夜10時に出発するのですが、夏も冬も環状線ホームの隣りに一時間並んで列車を待ちました。一時間待っても座れないことがよくありました。そんなときは新聞を通路に敷いて寝ます。ぼくはどこでも寝られるのでかえって通路のほうが体が伸ばせてよかったかも。
 帰省するようになったはじめの頃は蒸気機関車でした。大阪から福知山線を通り、山陰線を走るとたくさんのトンネルがあります。夏は汽笛が聞えるたびに窓を閉めたり、あるいは夏でも閉めたままだったりしたものです。
 夏なら窓の外が白々明ける頃に、汽車は田んぼの中の上井(あげい)駅に着きます。(いまは倉吉という駅名です)明治の頃は「汽車が通ると米ができなくなる」と大地主が反対して、城下町の中心部には汽車が通らないことがよくありました。倉吉もそうです。上井という駅を田んぼの中につくり、あとでそこから倉吉線という支線を市街地まで引きました。その支線が次々と廃線になり、町は廃(すた)れていったのですが。
 でも、都会の喧騒から遠く離れて早朝の駅に降り立ち、空気を胸いっぱいに吸い込んだあの感慨は、いまも記憶に残っています。あんなに苦労した帰省ですが、いまでは違う路線で三時間足らずで着いてしまいます。
 
コメント (1)
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