古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

裏山の仕事を「一段落」(今度はほんとに)にします。

2015年03月07日 03時31分21秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 じゃーん。
 写真では下のほうに平屋のうちの屋根がみえます。この冬がんばった池やデッキは家の裏にあるのですが写ってません。裏山につけた階段を1~2分とんとん(「よっこらしょ!」)と登り、頂上に着いてさっと振り返るとこの景色が見えます。「田舎の家家、田んぼ」に西日があたって絵のようです。こころがひろがります。遠くの山山の木々、裏山の木々は梢の芽がふくらんで赤みをおびてきました。
 もうすぐ若葉の季節です。
 裏山の仕事に精を出してきましたが、畑仕事も待ってます。ここらで山仕事は一段落して、畑にかからねば。まえに書いたな。今度はほんとに。
 
 そうそう、東条の図書館に本を返しに行って、すごい本を見つけました。入口に『持ち帰り自由』の古い本が置いてあるのですが、その中に『責任 ラバウルの将軍 今村 均』(角田房子著 新潮社)があったのです。「今村均」の伝記を読みたいとずっと思っていました。保坂正康は今村のことをこう書いています。


 今村は巣鴨プリズンにあって、(ラバウルの裁判で10年の禁固刑になり「戦犯」として収容された)「私を部下が服役しているマヌス島に帰してほしい」という訴えをだした。部下たちはこの条件のわるい孤島で生存に脅えながら、いつ日本に帰れるかと不安にさい悩まされている。司令官であった自分もそこで服役すべきである、とGHQに訴えた。それを聞いたマッカーサーはすぐにそれを認める一方で、「私はゼネラル今村が部下とともに服役することを希望してマヌス島に行きたいと言っていることを知り、日本にはまだ武士道が生きているとの感を深くした」との声明を発表した。 ……
 このマヌス島収容所は、講和条約発効の昭和二十八年春に閉鎖された。今村は、将兵百六十五人とともに横浜港に戻ってきた。その後の刑期は巣鴨プリズンで服役することになったが、実際には自由にプリスンを出たり入ったりして、収容所にいる、という事実だけがつくられればよかった。しかし、今村は決して外出しようとせず、刑期の残りの分を律義に守りつづけた。そして昭和二十九年十一月に刑期満了となって初めて家に戻ったのである。
 その後も東京・豪徳寺にある自宅の庭に三畳一間の小屋を建て、そこで日常生活をすごした。(自らを幽閉した) …… そういう律義な、あまりにも律義な将官のもとに、ときに部下が慕ってくることがあっても慰霊の言葉を口にし …… 。
 (『陸軍 良識派の研究』見落とされた昭和人物伝 光人社NF文庫)

 牟田口(インパール作戦の)とか富永(陸軍特攻で多くの青年を死地へ飛び立たせた)とか、碌でもない将軍の話ばかりではやりきれません。時間をかけて読みます。
 もう一つ。コメントに「クララの種蒔きの時期と発芽率」について問い合わせがあり、コメントに返信しましたのでよろしく。
コメント
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