古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『責任』の <あとがき> を読んで涙が流れました。

2015年03月08日 01時28分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 天気予報にはなかったと思うのに起きてみたら雨。きのうは一日家の中で過ごしました。角田房子『責任』(ラバウルの将軍・今村均)のあとがきを読んで、涙が自然に流れました。引用します。本文のほうはまだ読みはじめたところですが。


 世間の一般常識からいえば、今村は軍司令官としてなすべきことを立派に果たしたというだけで、罪に当たるものは何一つないのだが、それで安居できる人ではなかった。 …… 部下を死地に投じたことも、″君国のため″といえばそれまでのことなのだが、今村はそれで済まされる男ではなかった。人から指摘されることもない罪ではあっても、彼は心中で己を罰し、三畳ひと間の小屋に自分を幽閉しなければいられなかった。
 特に私が感動したのは …… 数多い旧部下の中には、あやし気な理由で支援を求める者もあった。ある人から「大分、だまされておられますよ」と注意された今村は、「わかっています。だが私は多くの部下を死地に投じた身です。今は黙ってだまされていなければ……」と答えたことである。
 私はこの話には本当に驚いた。指揮官であった軍人のほとんどが、多かれ少なかれ部下たちを危険にさらしただろうが、その中の誰がここまでの責任を感じただろうか。今村は敗戦のラバウル以来、ただその罪だけを見つめ、それを日常の行為に現わして生きたと、私には思われる。
 韓国に住む旧部下(今村は一兵であった彼の名前も顔も知らないのだが)から、来日の希望を述べた手紙を受けとると、今村は脳卒中の後遺症の不自由な足をひきずって、自ら交渉に走りまわった。その痛々しい老いの姿を想像すると、記憶にはない一兵にまで及ぶ彼の愛と責任の行為に、私は頭を垂れるほかなかった。
 戦後の今村は、旧部下全員のために生きたように思える。それは戦死した者、刑死した者、生還して戦後の荒波の中に生きる者すべてが含まれている。地位、階級の上下も問わず、国籍も同列であった。いっさい差別はなく、今村にとってかつての部下は誰も同じく大切であり、すべてが出来るだけの償いをすべき対象であった。 …… 
 私は今村にのめり込んで三年を費やした。 ……
 今村が指揮した地域の戦死者(私の従兄弟二人を含む)と、戦犯としてラバウルやマヌスで刑死した人々への鎮魂の思いをこめてこの作を書き終えた今、私の戦争拒否の祈りはいっそう切実である。
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする