虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

「復活」雑感

2008-09-17 | 読書
「復活」は結末に聖書を出してきたりして、唐突に終わらせた、という感じをもつ。「え、もう終わりかい」という感想だ。

物語は、まだまだ続きそうで、その後のカチューシャの運命やネフリュードフにも興味を持つのだが。前半はロマンなのに、後半から、社会評論、ルポルタージュの比重が多くなり、ちょっと破格の作品だ。

トルストイは、「復活」の続編、ネフリュードフのその後の人生も書きたかったようだ。トルストイのメモによると、「彼の活動、疲労、目覚める貴族根性、女の誘惑、堕落、失敗・・・」という言葉が書かれ、ネフリュードフのその後の新しい人生も容易ではないようだ。
しかし、トルストイこそが、ネフリュードフのいう自分の霊にしたがって人生をやり直した男、トルストイの人生そのものが、「復活」のその後といえるかもしれない。

カチューシャは、ドストエフスキーやツルゲーネフを読んだ、と本文にある。ことに、ツルゲーネフの「静寂の宿」という作品が好きだったそうだ。どんな作品やろ?

イタリア版の映画「復活」は最後の場面あたりを原作と変えている。あの映画は、かなり原作に忠実に描こうとはしていたが、カチューシャ役の女優がちょっと地味すぎた。原田美枝子に似ているが、16歳のカチューシャを演じるのは苦しい。ネフリュードフ役の男性も魅力がない。ネフリュードフは今でいえば空気を読めない変人なのに、まわりをはらはらさせるような存在感がない。

トルストイの文章には随所にそのまま格言になるような文章があちこちにあるが、一つだけ、メモしておこう。

「人間も川のようなものなのだ。水はどの川でも同じで、どこでもただ一つであるが、どの川も狭くて速かったり、広くて緩やかだったり、澄んでいて冷たかったり、濁っていて暖かだったりする。人間も同様である。各人はその内部に、すべての人間性の萌芽を秘めていて、ある時はある性質、またある時はほかの性質が現われ、しばしば同一人物が、まるで別人の観を呈したりするのである。ある種の人々の場合は、その変化がことのほか激しい。そしてニェフリュードフもそうした種類の人間の一人だった」

今度は、ドストエフスキーをして「完璧」といわしめた小説、「アンナ・カレーニナ」を北御門訳で読んでみたい。