虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

「復活」はやはりおもしろい

2008-09-14 | 読書
北御門二郎訳の「復活」、もうすぐ読み終わる。

やはりおもしろい。なぜ、「復活」を何度も読み直しているか、わかった気がした。「戦争と平和」や「アンンア・カレーニナ」より短い(1冊で終わる)。登場人物が他の2作品に比べて少なく(ロシア名はおぼえにくい)、筋も理解しやすい。トルストイの回心後の作品で(トルストイは「戦争と平和」も「アンナ・カレーニナ」も自分で否定した)、前2作品に比べて、国家、社会に対する批判、抗議など革命思想家トルストイの怒り、思想が直裁にわかる。

なかでもすばらしいのはやはり、第一部のネフリュードフ(北御門訳ではニェフリュードフとなっているが)が裁判所でカチューシャを目にし、カチューシャに許しを乞うまでのドラマの流れだ。

「まぎれもなく、それはカチューシャであった。ニェフリュードフとカチューシャの関係は以下のごとくであった」とわずか20ページだが、そこで語られるカチューシャとネフリュードフとの初々しく、そして悲しい恋の描写だ。何度読んでもすごい。感嘆する。この魅力的な20ページで読者はネフリュードフと共に物語を最後まで読もうとする。

第二部は、カチューシャやその他の囚人を助けるために、国の支配階級に属する人々と接触せざるをえず、その特権階級の人々、また、農民や労働者などを描き、裁判制度、国家制度に鋭い筆誅を加える。

第三部は、シベリアへと同伴する中で観察した政治犯(革命家たち)の群像だ。献身的に大衆に奉仕するすばらしい女性革命家たちもいれば、ただやはり権力欲にかられたエリート革命家の存在にまでふれる。人民の意志党、あの「ナロードニキ運動」の志士たちだ。

1を聞いて10を知る、という人がいるが、わたしは10を聞いてやっと1を知るタイプなので、今度、読んではじめて知ったことも少なくない。

あのネフリュードフ。「霊性」(精神世界)と「獣性」(俗物性?)の二つの内部世界を持つ(みんな、そうだろうが)ネフリュードフは常に魂が揺れ動く。

カチューシャの裁判に出る前は、婚約者がいて、人妻との関係をどう解消しようか、などと考えている男。婚約者との結婚を迷っているが、それは、もっといい女性が現れるかもしれない、また、相手は過去に今までも恋愛したことがあるにちがいない。もし、そうだったら、いやだな、なんて考えるヤツ。

カチューシャに会って、赦しを求めようと回心したときも、それは自己満足のためで、カチューシャのためではなく、自分のために涙を流す(すぐに、そういう自分の醜さに気づくのだが)。カチューシャから、「わたしをネタにして自分を救わないで」なんていわれる。「どこの貴族令嬢でも結婚したがっているこのおれが、結婚しようとしてるんだぞ」なんて心の動きもある。実際、カチューシャの救出活動をしているときも、ある貴族婦人から誘惑されそうになったりする。

この作品は10年かかったそうだ。途中で、トルストイは書くのはいやになったそうだ。それは、このネフリュードフをどう書くかでいき詰まったのだと思う。一歩まちがえば自己中心主義、偽善者にもなりかねない。揺れ動く青年。

でも、ネフリュードフはトルストイのいう「霊性」の勝った人で、陽明学ではないけど(笑)、自分の内部の霊性に導かれて行動していく。

ある人々を救うための資金をかせぐためにトルストイは後編を書き始めるが、トルストイの筆はカチューシャとネフリュードフの心理よりも、国家権力の犯罪をネフリュードフの目を通して告発する。それはまるでルポルタージュだ。その告発は、今日でもまったく的を得ている。
「蟹工船」がブームになったそうだが、この「復活」の社会告発は、現代日本にも
あてはまる。「復活」は現代でも危険な傑作だ。