虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

原発安全宣言

2011-06-19 | 新聞・テレビから
海江田経済産業相が、原発の安全宣言をし、定期検診で停止中の原発の運転再開を要請する方針だとか。安全宣言?だれが審査したのだ?あの保安院だろう。何考えているのだ、といいたい。
腹がたって、これ以上、書けない・・・。

おじいさん、おばあさん

2011-06-19 | 日記
道を歩いていると、あ、おじいさんだ、よろよろとして歩いているけど大丈夫かな、などと思うが、いや、同じ世代なのかもしれない、と思うこともしばしば。

子供の時からおじいさんおばあさんといっしょに生活したことがないからか、どうも、おじいさん、おばあさんは、別次元の人たちと思っていたようなところがある。引退した人々というイメージもあったかもしれない。

子供のときは、子供同士が、なによりも関わり深い人たちで、おじいさん、おばあさんは、遠い存在だった。わるいけど、眼中になかった存在というべきか。
中高校生の時もそう。いや、社会人になっても、関わりを持ち、同時代を生きる人として意識したのは、現役で働く人たちで、おじいさん、おばあさんは、自分たちとは違う世界にいる人たちと思っていたふしがある。おじいさん、というと、映画の笠智衆や志村喬のような老人で、自分とは共通性がない別格の人たちと思っていたようだ。
ところが、別格でも特別の存在でもないのだ。自分が年を取るとよくわかる。

はっきり言って若い頃とまったくかわらない。学生や社会人となんら変わらない。同じ人間(あたりまえだ)。自分についていえば、20歳くらいの精神年齢から少しも成長していない。80歳の人でも、20歳のころと気持ちは少しも変わらない、ときっと言うはずだ。

年相応のふけ方をしたい、とか聞いた風なことをいう人もいるが、年をとって変わることはあるのだろうか。
ロマン・ロランが「魅せられたる魂」を完成したのが67歳。トルストイが「復活」を完成したのが71歳。ロマン・ロランもトルストイも老人になって、変わってしまった、ということはない。
老子は、きっと若いころから老子の哲学を持っていたにちがいない。
あの内田裕也を見よ。どこが年老いているか(笑)。


ただ、肉体は変わる。若い頃は、空手の蹴りを修練し、頭の上まで足があがったものだが、今はあがらん。中高年のアイドルきみまろが、「朝、元気、昼はまあまあ、夜ぐったりの中高年」といっているが、たしかに夜はぐったりして、早く寝るようになった。だから、早起きになる。ここだけ変わったな。