M馬日記(元、日曜レーサー)

塩噴きじいさんの独り言
※2011年11月をもって一時停止
 (再開未定)

道の途中

2011年11月26日 | Weblog
押入れを整理しようと引っ張り出していたら奥から梱包された
ままの5年前の引っ越し当時のダンボールが出てきて驚いた。

そんなものがあることさえ今日まで気が付いていなかったのだ。
5年間陽の目を見ることもなく押入れの奥でじぃ~っと持ち主
が思い出すのを待っていたであろうダンボール。でも結局、思い
出されもせず再び引っ越しをする今日、ようやく畳の上に置かれ
ることになったのだ。


開けてみた。

「あ、あぁぁ・・・」
思わずため息が出たと同時になんだか顔がほころんでしまった。
それは数本のカセットテープ。
タイトルは「課題曲 84年 シンフォニエッタ/オーパスワン」
そして「19thサマコン 89年」

一瞬で私を”あのとき”に引き戻すとてつもない力をもった
タイムマシーンだった。


高校生時代の私は毎日毎日ラッパばっかり吹いていた。
朝も、昼も、夕方も。学校を休んでも部活には出ていた。
野球部よりも休みがない部活動だった。部員数は50名ぐらい。
そんなに練習をしてもコンクールでは県大会の金賞止まりの
いわゆるダメ金というレベルだった。でも当時の私たちはそれを
悔しいと思ったことはなかった。なぜならコンクールの1か月前
に開催するコンサートにすべてをかけていたからだ。コンクール
には「出がらしのお茶っ葉」のような感じで参加していたので
顧問の教師からはちゃんとやれば1度くらいは九州大会に行くこと
ができるのにと言われていた。それが伝統だった。

コンサートに命を懸ける。
大人になった今にして思えば「なにを言っているんだ?」ですが
当時は本気だった。純粋・純真だからこそ本気なのです。そして
信じていました。「自分の想いの丈・情熱は音にできる。心は
音にして飛ばすことができる」と・・・。

だから毎日、毎日が全力でした。
物理のテストで零点をとっても英語の試験で35点/200点満点
でもそんなことはどうでもよかった。どうしたら心を飛ばせるのか?
どうしたら魂の集合体になれるのか? ただただ、それだけを考え
悩んでいたように思います。

本当に毎日、毎日・・・(笑)。


そこまでして取り組んでいた吹奏楽。
しかも16歳~18歳、、OBとして携わった大学時代。
いうなれば人生で一番多感な青春時代を、すべてを注いだ大切な時間。
その”生きた証”。

それを今日の今日まで綺麗さっぱりすっかり忘れていたのです。
そのテープをもっていたことさえも。


いや、忘れてはいません。
あのとき見た空、夕陽、音楽室、仲間、涙、笑顔、肩を組んだ日々。
出番直前の楽屋のあわただしさと緊張感・真っ白な照明とピンスポ。
お客様の拍手・手拍子、歓声。花束・・・。

あの時代、全力で生きたあの日々・・。このステージで死んでもいい
と思いつめた瞬間。

私の原点。
忘れるはずがありません。
私は本当に幸せでした。
命がけで取り組むものを見出すことができたから・・・。


でも今はその時代を懐かしむことはあっても、想い出に縋る必要は
なくなりました。心は一瞬にして当時に飛びましたが、昔に戻りたい
とは思いませんでした。


そして私は幸せです。
自転車に出会えたから。
いや、自転車は道具なだけ。

”生きる”、”生きている”、、と再び思うことができているから。


朝目覚ましで起きる。
TVをつけて天気を確認して朝ごはんを食べる。
7時の時報で家を出て7:24の電車に乗って会社に行く。
ちょっと忙しかったから残業をしてコンビニに寄って弁当を
買ってから帰る。
TVを見ながら弁当を食べて、しばらくしたらお風呂に入って
から0時前に寝る・・・。


ともすれば、単に、「生息」 しているだけの生活、人生になりがち
な社会人。魔法が使えるわけでも宝の地図が箪笥から出てくることもなく、
玄関あけたら花嫁衣裳をきた山口智子が息をきらせて立っていることも
ない。「ただ生きている。」「意味なく時間が過ぎている。」
「なんかいいことないかなぁ~」と漠然と期待して過ごす日々・・・。


そんな生活とは無縁の世界を手に入れたから。

青春時代に「必死で、全力で何かに取り組んだ」ひとは社会人になって
から掴みどころのない、なんかこう、フラストレーションを抱えてしま
うと思います。そりゃ仕事が生きがいであればそんなことはないと思い
ますが、そうじゃない場合、心の底から笑い、泣き、怒り、悩む。
それがない(できない)社会。

そんな環境に気付いたとき、 「あぁ~~生きている」という”証”
を得ないとそれは私であって私ではない。

常に何かに全力で取り組んでいないとそれこそ、私として死んでしまう。 


自転車は吹奏楽の次に私に「生きている証」を与えてくれたもの。
そこにはあの時と同じように、本当に優しい思いやりをもった愛すべき
友、仲間、お師匠、先生がいる。その環境にあればこそ、私は全力で
今をこうして生きてこれたのだとあらためて思います。

そしておそらく私のこの「生きている」ことは、ほんのちょっぴりだし
気づかれることはおそらくはないと思いますが、誰かの魂に共鳴して
広がっているんじゃないかな。私が受け取った伝統のバトンは絶対に私と
一緒に走ってくださった(今も走っている)皆様に確実に渡っていること
でしょう。


この5年間。
本当にいろんなことがありました。
正に私の人生の転機となったこの5年。

その当時は気づかなかったけど、こおやってあらためて振り返ってみると
「思い悩みながらも全力で生きてきた自分」がいて、俯瞰すればやっぱり
皆様が見守ってくださっていた。

こおして今を生きていることができるのは本当に素晴らしい出会いがあれば
こそなのですね。


ありがとうございます。
ありがとうございました。


私の人生はまだまだこれからも続きます。
だからまだ「生きている証」が必要になります。

また全力で魂を解放できる、自分自身と対話ができるようになるまで今回は
しばらく時間がかかるような気がします。それが自転車ではないかも知れま
せん。でもこれからも私は生きていきます。


前を向いて・・・全力でありたいと思いながら・・・。


これで
おしまい。



徒然な与太話にお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。

また再開するかも知れませんが、これでいったん筆をおくことにいたします。

ありがとうございました。


さようなら・・。

                    2011年11月27日
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友へ

2011年11月24日 | Weblog
君と一緒に走った距離は、もう何万キロになっているだろうね。
本当に本当によく一緒に走ったよね。

君が前をひたすら引く。
私がひたすらついていく。
だから、何度も何度も通った道だけどひとりじゃ今だに迷うよ。
でもそのお蔭で君の調子がいいとき、悪い時はすぐにわかったし
アドバイスが出来る訳だ(笑)。

この峠の入りがこのギアなら調子がいい。
ということは私は、あのギアでついていかないと”負け”ること
になる。切れそうで切れることができない絶妙の引きで何度、ゲロ
寸前まで引きずりまわされたことか・・。しまいにゃそれが快感に
変わるからどうしようもないけどさ。


22時過ぎに、私は篠栗側から、君は飯塚側から。
八木山峠で何度すれ違ったことか。
時には志賀島で・・。

雨が降ろうが、台風が近づこうがそんなことは関係なく、土日祝日
はひたすら一緒に走ったよね。当然、運転手は君で僕は車掌さん。


お師匠様から君へ。
私の目標はいつの間にか切り替わり、いつかは追い抜きたい、ちぎり
たいと並々ならぬ氷の闘志を秘めて毎回こそっと挑むものの、それに
すら気づかれずいつもいつも撃沈されてきた。次こそは、その次こそ
は・・まったく・・・毎度、普通の顔のままでいやがって。


でも、でもさ・・・君と出会わなかったら私の自転車人生は相当、
味気ないものだったと思うよ。たぶん、ここまで続けていないと思うな。
いや、続けられていないよ。だってひとりで何万キロも走ることが
できるほどストイックじゃないからさ。

考えてみたら、何がきっかけだったのかな?
こうやって考えても、思い出せないというか・・なんだったっけ?


う~~~ん・・・どうでもいいや(笑)。


本当に一緒に何万キロ走ったかなぁ~?
おもしろいよね?
お互い何も言わないのに分かり合えるって・・・。

気を遣ったことは・・・それこそしょっちゅう(笑)。
なんてことはなくって、毎度毎度、”素”だったな~。

でも、君はちょっとは気を遣ってくれてたでしょ? 悪いね ^ ^;。



ほんとに本当に、何万キロ走ったかな?

本当にほんとうに・・・     ありがとう。


ありがとう。
ただ、それだけ。

ありがとう。


いつの間にか大人になった君へ

ありがとう・・・。
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ブログ

2011年11月21日 | Weblog
文章を書く。

当たり前ですが内臓の中まで見せているような、いや、とっても
恥ずかしいところをあえて自分でおっぴろげて見せているような
そんな気がします。よくもまあ、恥ずかしげもなくWWに永久に
残るであろう電脳空間にこんな稚拙な文章をOPENにできるも
もだと自分で感心してしまいます。


時を同じくして二人の方から同じような助言というかアドバイス
というか・・手向けのお言葉をいただいた。

 「そのままでいてください。」

 「自信をもちなさい。」


そう。
ブログをちょっと遡っただけですぐにわかるのですけど、
私は”弱い”。
女々しくて小っちゃい小心者でネガティブ思考で、余計なことで
「あ~どうぢよう・・・最悪だ。」
と落ち込んでしまう。

まったくどうしようもない人間です。
こんな面倒くさいやつとは正直お付き合いしたくないですな(笑)。

本人も自覚症状はあります。
だからこそ、自分を鼓舞する必要があった。
強くなるおまじないが必要でした。

「意志の力」
「今を生きる」
「克己」

前を向くために必要な呪詛。
本当に小心者だから自分を大きく見せるためにこんな自分を追い込む
言霊が必要でした。そのおかげで自分に厳しく接することができました。
なにより再発防止になりました。

別に過去がよかっただの、昔に執着しているわけではないけど
それがあって今の私がいるわけでして、だから私を作り上げてくれた
過去の想い出や出会いはこれからもずぅ~っと大切にしていきたい。
それをひっくりめて””はげます”さんはいるのです。
ま、「人に歴史あり」です(笑)。


弱さを自覚してそれを克服するために必死で頑張る自分。
それには”自信”という魔法が必要。

旧古の仲間はそれをわかってお付き合いしてくださってきたわけですよね。
だからみんな私に本当に優しい・・。その優しさに気付くのがちょっと遅
かったですな。そして新しいみなさんも・・。

なによりこのブログに脚を運んでくださって何も言わず見てくれていた
約100名の皆様も。最近は「またかよ・・」とあきれることが多かった
でしょうが辛抱強くよく訪問してくださいました。


私は自分で開設したこのブログに本当に助けられました。
練習したくない、と思う低きに流れる心に打ち勝つために。
あいつに負けたくない、、何より自分に負けたくない、、と自分を奮い立た
せるために。そして過去をみつめ私を見守ってくださってくれている方々へ
感謝するために。

恥ずかしいことばかりを書いてきたこのブログですが、恥ずかしさと引き換え
にそれ以上のものを私に与えてくれました。


2006年から始めたこのブログもその役目を終わる時が来たようにも
思います。そうは言っても世界と唯一繋がっている糸電話であるこれを
切ってしまうと怖い気もします。

地元「福岡」で過ごした5年間。
それについてはそろそろ終わりにしないといけませんね。

でも、あと2回。
どうしても書かねばならないことがあります。

1つは友に。
もうひとつはけじめに。


11月28日に東京に向かいます。
翌日の29日から新任地で勤務開始です。

今年もあと1か月で終わります。
気づけば本当に1年という時間はなんと早く過ぎていくのでしょうか。

もしかしたら3か月後に戻ってくるかも(笑)しれません。
もしかしたら5年後に戻ってくるかもしれません。
でもやっぱり10年後かも。
それとも・・・。

ただ、それはこの福岡で、みなさんと巡り合い、育てていただいて、
共に笑い、泣き、酒を飲み、レースをして、必死に追いつこうとして
もがいて・・・それもこれも自転車がスタートでした。

その原点から続くこれまでの道、想いをひっくるめてこれから先に
進んでいこうと思います。そんな意味でも生活が落ち着いたらブログ
がなにげに始まっているのかも知れませんね(笑)。

あと2回。
もう少しお付き合いください。


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幸せのおすそ分け

2011年11月20日 | Weblog
今日は門司シモさんの結婚式。

門司シモさんのキャラクターどおり天気も昨日の雨がうそのように
晴れ渡り神様にも祝福された今日の良き日。

ちょっぴりの幸せのおすそ分けをもらいました ^^¥。

結婚式って、本当にいいなぁ~。
みんなうれしそうで幸せが溢れていてそれでいてちょっぴり物悲しくて。
でも新しい人生の門出としてなんだかとっても晴れやかな気分にしてくれ
て・・・。


本当に出席できてよかった。

また門司シモさんらしいホノボノした中にトホホホ・・がアクセントで
あってこっちがこっ恥ずかしい気持ちになる、ということはやはり自分
も今日の幸せの中に参加していたんだよなぁ~と一体感がある良き慶事
だったんだろう。


新婦さんのお手紙にやっぱり涙が溢れちゃったけど(笑)、
それもこれも結婚式、いや二人の幸せの魔法のせいだろうな。


門司シモさん招待してくださりありがとう。
福岡最後に本当にいい思い出ができました。

ありがとう。

そして・・・末永くお幸せに。

                          11月20日
                          はげマス
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纏う

2011年11月15日 | Weblog
「チームジャージを纏う」

それはそのチームの看板を背負って走るということ。
単におそろいのユニフォームをきてみんなで楽しく走る
ということでもいいのですけど、私にはそれ以上の想い
がありました。

どこのチームジャージでもそれは同じこと。
私をこの世界に導いてくれた「アキヅキサイクル」のジャージ。
私たちが立ち上げた「Fastoria」のジャージ。

そこには、創設者の想いがあり、そして今日に至る歴史があります。
そのジャージを見て昔話に花が咲くこともあるし、見ず知らずの人
から、「あ~、あそこのチーム・・」と声をかけられることもあります。


ジャージを背負って数々の勝利をあげた諸先輩方がいらっしゃる。
そのチームを想い、レースで実績をあげようとしてきました。
ジャージのために良いことも嫌なこともあったでしょう。

そんな「伝統」を、「想い」を、背負う自覚があってはじめて袖を通す。
私はレースの時、そして日曜練習会に向かうとき、あの時以来、いつも
いつも、いつも自問自答をしていました。

「このジャージを纏う覚悟はあるか?」

伝統のジャージ。
これから伝統を作ろうとするジャージ。

どちらにしても私には「覚悟」が必要です。


それは欲しくても欲しくても到底手が届かなかったあこがれのチェブロ
の背中をいつも見ていたからかも知れません。お師匠様をはじめ、あの
ジャージを着ていた人たちが、ジャージを自慢することも威張ることも
ましてや語ることは1回もありませんでしたが、そのピンクとパープルを
基調にしたジャージは栄光と誇りと責任を与えているように見えました。

だからプレッシャーをはねのけ自信に満ちたその背中は、神々しく気高く、
まぶしく輝いていました。

その背中をリアルタイムで間近にみることができたのは今にして思えば
なんと幸せなことだったのだろうと思います。チェブロジャージを着て
走る以上、どんな挑戦も正々堂々と受けて立ち、そして絶対に負けること
は許されない。それはいついかなる時であっても。だから真冬でどんなに
重ね着をしていても最後の一枚はチェブロジャージ。


あぁ・・・看板を、伝統を背負うというのはこおいうことなのだな。


ジャージを纏うとき・・・
それはすべてを背負う覚悟ができたとき。
そのチームの名に恥じない行動をすることを約束したとき。
みんなで楽しく一期一会の精神で過ごすとき。

たかがジャージ。
されどジャージ。

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星を継ぐ者

2011年11月13日 | Weblog
今年の沖縄が終わりましたね。
210㌔は高岡さんが優勝。
おめでとうございます。

参加した人、出来なかった人、世界にひとつだけの”沖縄”が今日
終わりました。そして明日からまた来年の沖縄に向かってスタート
が切られます。今は参加されたかた全員が今までの自分を誉めるため
にオリオンビールで飲んで仲間とともに笑っていることでしょう。

束の間の戦士の休息ですね。


私にも”ひとつだけ”の沖縄がありました。

それは、遥かなる沖縄です。
2006年の過去ログでも触れています。

もう記憶もほとんど消えかかっていますがはじめて沖縄に参加したのは
98年だったと思います。右も左もわけもわからずただ勢いだけで乗り
込んだ沖縄。大会の規模も参加者もそれこそ九州の大会とはけた違いで
したが私は全国区のチェブロのみなさんと練習をしてきた、というただ
それだけの自信(笑)だけで雰囲気に飲まれることなくスタートを切る
ことができました。スタートと同時にお師匠様が熊本のN野さんを追っ
てポ~ンと飛び出されそのまま普久川まで実に76㌔を2人逃げされた
のはこの大会。今はコースが変更になっていますが、当時はパイン
園への登りが最初のふるいでしたがそこも難なくクリアできました。
そして普久川の上り口でお師匠様を吸収したとき、根木レポートを思い
出し全神経を集中させ必死で集団についていこうとしましたが、やはり
そんな実力はついてはいませんでした。結局、源河の1つ手前の高江の
関門で赤旗を振られそこで初挑戦は終了しましたが、今にして思えば
実力も足りなかったくせに回収車に乗ることを拒みそのままゴールまで
あと23キロを走ったのでした。

とても悔しくて悔しくて来年は必ず完走してみせる、と誓って私の遥か
な沖縄はスタートしました。

翌年はスタート10キロで落車に巻き込まれてホイール損傷。交換する
も単騎で集団に復帰できる脚がなく、途中の関門で降りました。
満を持して臨んだ翌年は全然お話にならず故障をかかえていたという言い訳
もあるのですが、1回目の普久川登りで戦意喪失してDNFしました。
でもその3回の挑戦でなにをすべきか?がようやく見えてそれこそ今年こそは、
と臨んだ2001年。お師匠様の真横で1回目の普久川をクリアした私は完走
は確実と本当に安心したのを覚えています。お師匠様からも「完走が見えまし
たね」と声をかけていただきました。

が、2回目の普久川へのアプローチ。平地なのに12Tが廻りきってしま
うあまりの速さにハンドルにしがみついて耐えるのが精一杯で削りに削ら
れ、普久川へ取りついた瞬間に集団からきれてしまいました。

ただ完走だけを目指してあれだけ集中したことはなかったと思います。
しかしその年も関門で赤旗を振られました。

宿に帰り着いてから、その日のうちに福岡にお戻りになられるお師匠様を
名護バスターミナルまでお見送りしたのですが、あまりの悔しさに何も話す
ことができず、お師匠様の顔もまともにみれませんでした。2人して誰も
いない待合室で座って待っていました。バスが来ました。
ドアが開き、「じゃぁ」と言って乗り込まれるお師匠様。とっさに出した
右手。それを見て黙って、強く、とても強く握り返してくださったその右手。
何も言わないけど、それは神様とお師匠様と私だけが知っている固い、固い
約束。必ず完走してみせる、という私の決意であり誓い。

残念ながら転勤になり翌年はなくそのままその誓いを果たすことは叶わずに
終わるのか?とあきらめたこともありましたが期せずして2006年に福岡
に戻ることができ、今度こそ、と決意あらたにしたのでした。

しかしながらブランクは半端なく、4月に戻った時点では、長野峠を全力で
漕いで時速8㎞/hしか出せなかったのでした。それからでした。がむしゃらに
乗り始めたのは・・。先生からは何を焦っているのか。来年頑張ればいいじゃ
ないか?と言われたこともありましたが、「約束」は叶えなければいけません。
そしてそれは、”今”しかないのです。あの時も突然の転勤命令ですべてが
徒労に終わってしまいました。だから明日が来る保証はどこにもないのです。

その当時の私はある意味、おかしかった。
気がふれていたのかもしれません。

たったひとつの目標のために、それでいて精神のバランスが時として壊れて
有限不一致の時期もありましたがそれを救ってくれたのは目的をひとつに
ともに切磋琢磨して戦った仲間でした。負けたくない相手(仲間)。ギャフン
と言わせたい友。その想いが私を支えていたと思います。

2006年11月。
ゴールの横断幕が見えたとき、、それまでの想い、お師匠様との約束をようやく
叶えることができる安堵感と、ここまで、、ようやくここまでたどり着いた
”時の重み”と自分の苦しさからやっと解放されるような気がしました。

順位とかどうでもよかった。
たったひとつの自分で決めた誓い。
そしてお師匠様と交わした約束。

それを5年越しで達成できたとき、私の長い長い遥かなる沖縄への旅はやっと
終焉を迎えたのでした。ただ、それが出来たのは私ひとりの力ではありません
でした。ともに戦ってきた仲間。サポートしてくれたクラブメンバー。そして
家人。

ゴールラインを越えたとき溢れ出たあらゆる想いは涙としてやっと昇華する
ことができたのでした。

それから早5年。
今、私は何をやっているのだろう・・。

幸いにも自分の想いを成就させることはいろんな方々の力があって達成する
ことができました。

が、、

私は、誰かのために、今、その誰かを心の底から全力でサポートしてきたの
だろうか?私には切磋琢磨する素晴らしい仲間がいて、何よりも心から尊敬
できるお師匠様がいらした。そんな絆を私は残したのだろうか?

確かに自分が壊れてしまってそれどころではなかったのは事実ではあるが
それはそれである。自分が意志をもって、後世に向かって、点をうち、それを
線にして、そして絆にすることは情けなくもすることは叶わなかった。いや、
やってこなかった。それも違う・・・できなかったのだ。

今にして思う。

 ●「託された想い・伝統」はあとに引き継がなくてはならない。


あの日以来、穏やかになった自分。
闘争心も、根性も、粘りも、なにもかもがあの時と雲泥の差があるのですが、
最近、素晴らしい出会いが次々にありました。元からいる面々は当然だから
いいのですけど、はじめてお会いして一緒に走ってくださる若い方々がとても
すがすがしく、目的をもって、しかも常に前向きでピチピチ(笑)していて
とてもとても楽しい。あの時のように率先して先頭を引きまくり、
「だぁ~めじゃん・・」ということはとても無理ですが、逆にいじりまくって
くれる(笑)。

自分が”絆を作る”だのおこがましい考えでした。
恥ずかしいですね。

大切なとても大事な「想い」はいつか必ず伝わっていくものなのですね。
いま、とても穏やかです。

あの時のお師匠様もこんな気持ちでいらしたのなら・・・。


私は自転車については、本当に仲間に、友に、恵まれた幸せ者ですね。
こんなに恵まれた自転車生活の真ん中にいるとそれに気づかないものですね。
感謝の気持ちが足りませんでした ^^;

みなさん、本当にありがとうございました。
そしてお世話になりました。

PS.エピローグはもう少し・・続きます・・。






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限られた日々

2011年11月06日 | Weblog
限られた土日。

なのに無常の雨・・。
折角のSHOPのクラブランイベントがあったのにあえなく中止に。
たぶんこれが最後のご奉公になるはずだったのに。

クラブメンバーの方とサドルの上でのんびりと話をして写真を撮って
笑い合いながら先頭で誘導したり、ケツを押したりするはずだったのに
その機会さえも失ってしまいました。

あ・・なんて神様はいじわるなんですかね。
「また次の機会」

ってその”次”がないことだってある。
夏に開催された時になぜ温泉に入らなかったのだろう。
そりゃ私にとっては、練習の一環だから。
それが”私”なんですけど、転勤することがわかっていたのなら・・。

こおなることになっていたんですかね。
とてもとても残念です。

***

実を申せば、SHOPのクラブメンバーの方々との交流というとそう
親交深いものではなく、こおいうイベントのときしかお会いする機会
がないのが現実でして、その少ない中でご芳名を覚えてお顔と一致する
のは数名の方という健忘症的中年症状を発生してとても気まずいこと
多々ありましたが、イベント参加するに際しては、怪我なく無事に、
なにより参加者のみなさんが大いに楽しめることを第一に先生と場当た
り的(笑)打ち合わせ少々でなんとかやってきたような塩梅でした。
当然、他の走れる方やベテランさんのフォローあってこそです。

が、覚えている限り落車による怪我をされた方も過去には数名でてしまい
そのたびに反省をしていましたが、それでもご本人様が次のイベントに
参加されてくださることに内心ホッとしたものでした。

今でも「心のしこり」として残っている想い出があります。
毎年春先に「平戸ラン」という往復270㌔を半日で走破するチャレンジ
イベントがあります。足並みもバラバラでそれこそ100㌔以上走るの
がはじめてという方からベテランさんまで実に毎回20名前後の参加者
がある伝統の催しです。

みなさん、270㌔を自分の力でそれこそ完走を目的としてまるで私の
沖縄挑戦と同じように一生懸命ペダルを踏まれるのです。それがわかって
いながら、ある方に唐津で赤旗を振ったことがあるのです。

日没も迫り、まだ距離も残っている状態。その方にあわせると時速が
5㎞/hほど落ちてしまい、集団5名の方もまきぞえでDNFになる。
でもその方の完走にかける”思い”を先生から聞いていただけに相当に
悩みました。去年完走出来なかったので、それこそ距離を乗って今年の
完走のために頑張ってこられたこと・・次のコンビニで決断しよう・・
と先延ばしにすること数回。

結局、その方に「すみませんが車に乗ってください」と私が引導を渡した
のです。そのときのあの方の悔しそうな、残念そうな、、本当に無念という
顔を見たときに本当にこれでいいのだろうか?と自問自答してしまいました。

楽しみをみんなで分かち合うというクラブラン。
でもその根幹には参加者個々人の「思い」があるということを強く感じた
のでした。

だからクラブランでは みなさんが目的を達成するために微力ながらも
フォローすることを心がけてきました。もちろん私一人で出来ることは
限られていますが、以心伝心といいましょうか? クラブランでは何かしら
参加者それぞれが周りを気遣いフォローしあうスピリットがあります。
それがあったればこそ今まで息も長くそして参加者も多いイベントが続いて
いるんだと思います。

それもすべて秋月サイクルという土台があり、秋月秀樹さんという先生が
しっかりと愛情を注ぎ「お客様」ではなく「自転車を愛する仲間」として
人として接しているからだと思います。それを裏付けるように最近では
「輪行部」が発足し(って名前ですかね? ^ ^; それともトビトビ
チーム?)遠く四国道後温泉まで脚を伸ばす新たな活動が生れています。


あ、それだけではないですよ。
強い人とのちぎり愛もできます(笑)。

いずれにしても、誰もがこのクラブランで自転車の楽しみを見出して明るい
生活を手に入れ、なによりも普通の生活では混じることが出来ない、老若男女
かつ世代をまたにかけた人とのふれあい、交流。笑いと友情とお酒(笑)を
手に入れるのです。

その土台は先生がおつくりになり(種をまき)クラブメンバーの全員が自分
自身で育てて、みんなで花を咲かせて自らが新しい種を蒔く。

私もその一員として今までとても楽しんできました。
その最後と思っていた今日が中止になりとてもとても残念ですが、考え方
次第では、イベントは中止になったけど、クラブメンバーとの交流が中止
になることはなく、これからもずぅ~~~っと続いていくことをあらためて
認識できたのである意味、私には ”恵みの雨” になったのかな(笑)。


いろいろとお気遣いいただきました皆様。
先頭を引くことも、後ろにさがりながら写真を撮ることも、坂道でケツを押す
(長沼さんの:笑)ことも、変なヨタ話をすることもできませんでしたが
今日はとてもいい日になりました。

これからも皆様とは心の交流を続けさせてください。
また、いずれ福岡の地に戻ってくることもあると思います。
そのときは、今までとまったく変わらずまたクラブランでご一緒したいと
思います。

それまで、いったんお別れしたいと思います。

本当に、本当に今までありがとうございました。
さようなら。

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采配

2011年11月03日 | Weblog
今日は沖縄に向けてのプレ沖縄の日。

7時に橋本ファミマに集合という連絡はあったので顔を出そうかな、
と思ったけど、とっても重要な練習でみなさん集中しているところ
に意識レベルが全然異なる人間が自分の都合だけであらわれてその
和を乱すことはどうしてもできませんでした。

多分、もう一緒に走ることができなくなる人たちもいたかもしれない
し何よりファストリア主力組の「本気の顔」を見る機会もないかも
と思うとなんだか悲しくなったけど、去る人間は象と同じように
人知れずに消えていくのが一番だと思うところでもあります。


「来週はプレ沖縄の練習をするのですみませんが来ないでください」


とお師匠から言われたのはチェブロ練習会で名前を覚えてもらって
ようやく会話をしてくれるようになって間もないときでした。

当時、沖縄に出場するのはお師匠様とデューク根木師匠のお二人だけ
でした。今考えるとたった2人であのコースをノンストップで走られ
ていたと思うとそりゃすさまじいことであります。

そういわれたとき、私は”沖縄”がなんなのか?全然知りませんでした。
ただ1年の集大成というかお師匠がそのために1年を過ごされていた
のは何となくわかっていたというくらい。

 ※その当時、ようやく携帯電もMOVAが普及していたけど
  基本料金が3万円という時代。Windowsも3.1が出始め?
  という懐かしいときでした。


その年の沖縄の日。
お師匠様からスタート時間と走る距離だけは聞いていたので同日・同時刻
にへっぽこ隊で先頭を争っていた北島君と2人で某所に集合して気持ちだけ
は”沖縄”を走ったのでした。

後日、ショップの会報に寄稿されていたデユーク根木師匠の参戦記を
何度も何度も読み返しイメージを膨らませていったのでした。朝、お腹が
いたくて何度もトイレに駆け込んで新聞紙をお腹にいれてスタート地点に
向かったことから(笑)、普久川前に位置取りがはじまること、登るギア
のこと、高江の登りのこと。そして源河の3段坂のこと。
本当にバイブルとして空で暗誦できるまで読み返していつか私も沖縄と
思ったのでした。

こうして私の自転車”道”の目的がスタートしたのでした。
結局は「自分のため」なんですが、今思えばやっぱりお師匠様と同じ道を
走りたい、そしてお師匠様に認めてもらいたいというものすごく子供じみた
考え(「ねぇ、誉めて、誉めて!」)がトリガーになっていたのでしょう。

私にとっての「ツール・ド・沖縄 200㌔」 は本当に特別なものでした。
 ※今では到底考えられませんがその当時、200㌔の完走率
  は35%以下の非常に厳しいものだったのです。参加者
  200名超で順位がついたのは50名いなかったと思います。

「完走すること」
それは当時の自転車海苔にとってひとつのステータスでした。
何より私にはそれが必要でした。



そんなことを思い出した今日は結局、集合場所に顔を出すことなく昨日
お誘いいただいたパフパフ門司シモさんと恐らく最後のランデブーをした
のでした。久しぶりにお会いした門司シモさんの変貌にひとしきり笑い
板屋峠に向かいました。大門交差点からはひたすらしゃべりっぱなし。
話すことがつきることなく(笑)本当によくまあ、いろんなネタがある
もんだ、というくらいでした。

この道も最後か・・と思うと感慨深げなものがありました。
門司シモさんと意地の張り合いでバトリングしたこと数知れず。
一時期ファストリアの定番コースでみんなで笑いながら登ったこと。
今は最強のS藤さんとはじめて走ったのもここだったこと。

頂上手前がアスファルト敷き直し工事中で、「なんでこんなところ?」
と思いつつ、私の思い出の道もこうやって消えていくんだなぁ~としみじみ
したりして頂上で座って雑談していたら、数名の自転車ノリがタイムアタ
ックで登ってこられてきたんですけど、その中にH田先生のお姿が!

タイミングが悪くて最後にご一緒できるか?気をもんでいたところに
本当に奇遇というか偶然でもお会いすることができてこんなにうれしいこと
はありません。H田先生とは今の自転車仲間で一番古いお付き合い。
出会ったのもチェブロ練で、H田先生はすでに練習メンバーとして固定化
されておられました。二人で202号バイパスを「あいつらには歯車が
はいっているんだよ、きっと・・」といいつつ帰ったこと。
平地のばかっ速さに何度ちぎられたことか・・。

少し話をしてからお別れしました。
385に突き当り、これも最後だと思い九千部へ。
下っていると前方からショップジャージをきた自転車海苔が1名。
だれかと思えばH本さん。

通り過ぎたと思ったらUターンしてこられた。
そして「私の転勤の件を聞いてどうしても話をしたかった」とおっしゃられ
てくださりそのまま3人で九千部の登りをこれまたお話しながら走りました。

ショップのメンバーとはその実、あまりお話をすることはなく正直、そこまで
思ってくださっていたことに戸惑ってしまい(笑)ました。だって何かした
という記憶がないからですね・・。でもありがたいことです。自分で気づかない
ところで何かしらお役に立てていたということは少しは私もショップに、そして
クラブメンバーの皆様に恩返しができたんだと思いました。

H本さん、フォームがすごく綺麗ですね。
特にお腹の凹み具合と背中のアーチはルシファーさんと見間違うくらいよく
似ていてうらやましいです(私はどうしてもあれが出来ないのです)。
家庭と仕事を顧みず自転車”道”を進めば絶対にいいところまで、少なくとも
私以上に強くなりますよ(^ ^;)。

筑紫野分岐でH本さんとお別れしました。

中之島公園で門司シモさんとまったりとお話をして、この背中を見ながら自転車
に乗るのももうないかもなぁ~としみじみと揺れる背中とサイクルプラスの栄光
のジャージを見ながら「やよい坂」まで走ってそこでお別れしました。

門司シモさん、今日は結婚式前のお忙しい中、私のために貴重な時間をつくって
くださり本当にありがとうございました。門司シモさんと意地を張りあったこと
は半分以上忘却していたことが今日の会話でわかりましたが、残っている記憶は
いい思い出になっていて決して忘れることはないと思います。

ちぃいさいけど大きな走り
忘れません。
またいつか一緒に走りましょう。
ありがとうございました。

それから神様と時として気まぐれをなさる。
というか、思えば通じるものですね。
H田先生、H本さん、、偶然だったかも知れませんがたぶん、今日お会いする
ことは必然だったと思えてなりません。お会いできてほんの数分でしたが一緒
に走ることができて本当によかった。

またいつかご一緒できると思います。
そのときはまた笑顔で迎えてください。



今日は本当にいい一日でした。

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《想い》区切り

2011年11月01日 | Weblog
随分とご無沙汰しておりました。
本当にいろんなことがあり更新する気になりませんでした。
その間もアクセスされていた皆様本当にありがとうございました。

本日はご報告があります。

今日付けで東京に転勤することになりました。
実際に引っ越しをするのは1か月先になりますが私の人生の大きな転機
になりました。

正直何を書いていいのか? うまく気持ちの整理ができないでいます。

もう終わった人間として認知され産地である福岡でその余生を過ごすこと
になると思い、この地で自分の居場所をつくり貝のようにひっそりと微力
ながらこちらの部門に貢献してきたのですが、狙い定めた銛で一突きされ
てしまいました。

「なぜ?」
「どうして??」

業務命令
サラリーマン

という二言で自分の意志に関係なく人生が変わる現実。
それを受け止められずに内々で話をうけたときはかなり混乱して再発直前
までいっていたと思います。

そんな私の状態をどこで聞きつけたのかはわからないのですが、今は偉く
なられている昔の上司の皆様からいろんな助言や働きかけをいただき、
本当にありがたく感謝の気持ちでいっぱいになり、最近ようやく落ち着いて
生活できるまでに回復しました。

11/1から、11/14から、、、と話が二転三転したり、リセットになりそうに
なったりと本当にいろんなことがありました。そのたびに私はこんなにも
多くの方々に支えられているのだな、と思いもあらたにしました。

レーサーとしての自転車生活の区切りにと沖縄210㌔にエントリーして
いたのですが結局、最後の最後で”負け”てしまいました(笑)。


近しい方々にはすでにご報告させていただいていますが気持ちの整理が
きちんとついたらあらためてお礼と感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。


あと1か月。
東京に行ってからもこのブログ(自転車練習日誌)を続けることになるのか、
それとも終了するのかは今は何とも言えませんが、おそらくここで一区切り
ついたのだと思います。

あと1か月
徒然な私の思い出話におつきあいいただけますれば幸いです。

いろんな想い。
いろんな方々へのお礼。

お伝えしたいことはここまで出かかっているのですがいざ書こうとすると
手が止まってしまいます。でも近しい方々や皆様への感謝の気持ちだけは
必ずこのブログに書きたいと思っています。

 ※本当に書きたいことはなかなか書けないのですね。

****

PS。そんな状態でもPower計見てローラーをしましたよ(笑)
コメント (2)
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