今年の沖縄が終わりましたね。
210㌔は高岡さんが優勝。
おめでとうございます。
参加した人、出来なかった人、世界にひとつだけの”沖縄”が今日
終わりました。そして明日からまた来年の沖縄に向かってスタート
が切られます。今は参加されたかた全員が今までの自分を誉めるため
にオリオンビールで飲んで仲間とともに笑っていることでしょう。
束の間の戦士の休息ですね。
私にも”ひとつだけ”の沖縄がありました。
それは、遥かなる沖縄です。
2006年の過去ログでも触れています。
もう記憶もほとんど消えかかっていますがはじめて沖縄に参加したのは
98年だったと思います。右も左もわけもわからずただ勢いだけで乗り
込んだ沖縄。大会の規模も参加者もそれこそ九州の大会とはけた違いで
したが私は全国区のチェブロのみなさんと練習をしてきた、というただ
それだけの自信(笑)だけで雰囲気に飲まれることなくスタートを切る
ことができました。スタートと同時にお師匠様が熊本のN野さんを追っ
てポ~ンと飛び出されそのまま普久川まで実に76㌔を2人逃げされた
のはこの大会。今はコースが変更になっていますが、当時はパイン
園への登りが最初のふるいでしたがそこも難なくクリアできました。
そして普久川の上り口でお師匠様を吸収したとき、根木レポートを思い
出し全神経を集中させ必死で集団についていこうとしましたが、やはり
そんな実力はついてはいませんでした。結局、源河の1つ手前の高江の
関門で赤旗を振られそこで初挑戦は終了しましたが、今にして思えば
実力も足りなかったくせに回収車に乗ることを拒みそのままゴールまで
あと23キロを走ったのでした。
とても悔しくて悔しくて来年は必ず完走してみせる、と誓って私の遥か
な沖縄はスタートしました。
翌年はスタート10キロで落車に巻き込まれてホイール損傷。交換する
も単騎で集団に復帰できる脚がなく、途中の関門で降りました。
満を持して臨んだ翌年は全然お話にならず故障をかかえていたという言い訳
もあるのですが、1回目の普久川登りで戦意喪失してDNFしました。
でもその3回の挑戦でなにをすべきか?がようやく見えてそれこそ今年こそは、
と臨んだ2001年。お師匠様の真横で1回目の普久川をクリアした私は完走
は確実と本当に安心したのを覚えています。お師匠様からも「完走が見えまし
たね」と声をかけていただきました。
が、2回目の普久川へのアプローチ。平地なのに12Tが廻りきってしま
うあまりの速さにハンドルにしがみついて耐えるのが精一杯で削りに削ら
れ、普久川へ取りついた瞬間に集団からきれてしまいました。
ただ完走だけを目指してあれだけ集中したことはなかったと思います。
しかしその年も関門で赤旗を振られました。
宿に帰り着いてから、その日のうちに福岡にお戻りになられるお師匠様を
名護バスターミナルまでお見送りしたのですが、あまりの悔しさに何も話す
ことができず、お師匠様の顔もまともにみれませんでした。2人して誰も
いない待合室で座って待っていました。バスが来ました。
ドアが開き、「じゃぁ」と言って乗り込まれるお師匠様。とっさに出した
右手。それを見て黙って、強く、とても強く握り返してくださったその右手。
何も言わないけど、それは神様とお師匠様と私だけが知っている固い、固い
約束。必ず完走してみせる、という私の決意であり誓い。
残念ながら転勤になり翌年はなくそのままその誓いを果たすことは叶わずに
終わるのか?とあきらめたこともありましたが期せずして2006年に福岡
に戻ることができ、今度こそ、と決意あらたにしたのでした。
しかしながらブランクは半端なく、4月に戻った時点では、長野峠を全力で
漕いで時速8㎞/hしか出せなかったのでした。それからでした。がむしゃらに
乗り始めたのは・・。先生からは何を焦っているのか。来年頑張ればいいじゃ
ないか?と言われたこともありましたが、「約束」は叶えなければいけません。
そしてそれは、”今”しかないのです。あの時も突然の転勤命令ですべてが
徒労に終わってしまいました。だから明日が来る保証はどこにもないのです。
その当時の私はある意味、おかしかった。
気がふれていたのかもしれません。
たったひとつの目標のために、それでいて精神のバランスが時として壊れて
有限不一致の時期もありましたがそれを救ってくれたのは目的をひとつに
ともに切磋琢磨して戦った仲間でした。負けたくない相手(仲間)。ギャフン
と言わせたい友。その想いが私を支えていたと思います。
2006年11月。
ゴールの横断幕が見えたとき、、それまでの想い、お師匠様との約束をようやく
叶えることができる安堵感と、ここまで、、ようやくここまでたどり着いた
”時の重み”と自分の苦しさからやっと解放されるような気がしました。
順位とかどうでもよかった。
たったひとつの自分で決めた誓い。
そしてお師匠様と交わした約束。
それを5年越しで達成できたとき、私の長い長い遥かなる沖縄への旅はやっと
終焉を迎えたのでした。ただ、それが出来たのは私ひとりの力ではありません
でした。ともに戦ってきた仲間。サポートしてくれたクラブメンバー。そして
家人。
ゴールラインを越えたとき溢れ出たあらゆる想いは涙としてやっと昇華する
ことができたのでした。
それから早5年。
今、私は何をやっているのだろう・・。
幸いにも自分の想いを成就させることはいろんな方々の力があって達成する
ことができました。
が、、
私は、誰かのために、今、その誰かを心の底から全力でサポートしてきたの
だろうか?私には切磋琢磨する素晴らしい仲間がいて、何よりも心から尊敬
できるお師匠様がいらした。そんな絆を私は残したのだろうか?
確かに自分が壊れてしまってそれどころではなかったのは事実ではあるが
それはそれである。自分が意志をもって、後世に向かって、点をうち、それを
線にして、そして絆にすることは情けなくもすることは叶わなかった。いや、
やってこなかった。それも違う・・・できなかったのだ。
今にして思う。
●「託された想い・伝統」はあとに引き継がなくてはならない。
あの日以来、穏やかになった自分。
闘争心も、根性も、粘りも、なにもかもがあの時と雲泥の差があるのですが、
最近、素晴らしい出会いが次々にありました。元からいる面々は当然だから
いいのですけど、はじめてお会いして一緒に走ってくださる若い方々がとても
すがすがしく、目的をもって、しかも常に前向きでピチピチ(笑)していて
とてもとても楽しい。あの時のように率先して先頭を引きまくり、
「だぁ~めじゃん・・」ということはとても無理ですが、逆にいじりまくって
くれる(笑)。
自分が”絆を作る”だのおこがましい考えでした。
恥ずかしいですね。
大切なとても大事な「想い」はいつか必ず伝わっていくものなのですね。
いま、とても穏やかです。
あの時のお師匠様もこんな気持ちでいらしたのなら・・・。
私は自転車については、本当に仲間に、友に、恵まれた幸せ者ですね。
こんなに恵まれた自転車生活の真ん中にいるとそれに気づかないものですね。
感謝の気持ちが足りませんでした ^^;
みなさん、本当にありがとうございました。
そしてお世話になりました。
PS.エピローグはもう少し・・続きます・・。
210㌔は高岡さんが優勝。
おめでとうございます。
参加した人、出来なかった人、世界にひとつだけの”沖縄”が今日
終わりました。そして明日からまた来年の沖縄に向かってスタート
が切られます。今は参加されたかた全員が今までの自分を誉めるため
にオリオンビールで飲んで仲間とともに笑っていることでしょう。
束の間の戦士の休息ですね。
私にも”ひとつだけ”の沖縄がありました。
それは、遥かなる沖縄です。
2006年の過去ログでも触れています。
もう記憶もほとんど消えかかっていますがはじめて沖縄に参加したのは
98年だったと思います。右も左もわけもわからずただ勢いだけで乗り
込んだ沖縄。大会の規模も参加者もそれこそ九州の大会とはけた違いで
したが私は全国区のチェブロのみなさんと練習をしてきた、というただ
それだけの自信(笑)だけで雰囲気に飲まれることなくスタートを切る
ことができました。スタートと同時にお師匠様が熊本のN野さんを追っ
てポ~ンと飛び出されそのまま普久川まで実に76㌔を2人逃げされた
のはこの大会。今はコースが変更になっていますが、当時はパイン
園への登りが最初のふるいでしたがそこも難なくクリアできました。
そして普久川の上り口でお師匠様を吸収したとき、根木レポートを思い
出し全神経を集中させ必死で集団についていこうとしましたが、やはり
そんな実力はついてはいませんでした。結局、源河の1つ手前の高江の
関門で赤旗を振られそこで初挑戦は終了しましたが、今にして思えば
実力も足りなかったくせに回収車に乗ることを拒みそのままゴールまで
あと23キロを走ったのでした。
とても悔しくて悔しくて来年は必ず完走してみせる、と誓って私の遥か
な沖縄はスタートしました。
翌年はスタート10キロで落車に巻き込まれてホイール損傷。交換する
も単騎で集団に復帰できる脚がなく、途中の関門で降りました。
満を持して臨んだ翌年は全然お話にならず故障をかかえていたという言い訳
もあるのですが、1回目の普久川登りで戦意喪失してDNFしました。
でもその3回の挑戦でなにをすべきか?がようやく見えてそれこそ今年こそは、
と臨んだ2001年。お師匠様の真横で1回目の普久川をクリアした私は完走
は確実と本当に安心したのを覚えています。お師匠様からも「完走が見えまし
たね」と声をかけていただきました。
が、2回目の普久川へのアプローチ。平地なのに12Tが廻りきってしま
うあまりの速さにハンドルにしがみついて耐えるのが精一杯で削りに削ら
れ、普久川へ取りついた瞬間に集団からきれてしまいました。
ただ完走だけを目指してあれだけ集中したことはなかったと思います。
しかしその年も関門で赤旗を振られました。
宿に帰り着いてから、その日のうちに福岡にお戻りになられるお師匠様を
名護バスターミナルまでお見送りしたのですが、あまりの悔しさに何も話す
ことができず、お師匠様の顔もまともにみれませんでした。2人して誰も
いない待合室で座って待っていました。バスが来ました。
ドアが開き、「じゃぁ」と言って乗り込まれるお師匠様。とっさに出した
右手。それを見て黙って、強く、とても強く握り返してくださったその右手。
何も言わないけど、それは神様とお師匠様と私だけが知っている固い、固い
約束。必ず完走してみせる、という私の決意であり誓い。
残念ながら転勤になり翌年はなくそのままその誓いを果たすことは叶わずに
終わるのか?とあきらめたこともありましたが期せずして2006年に福岡
に戻ることができ、今度こそ、と決意あらたにしたのでした。
しかしながらブランクは半端なく、4月に戻った時点では、長野峠を全力で
漕いで時速8㎞/hしか出せなかったのでした。それからでした。がむしゃらに
乗り始めたのは・・。先生からは何を焦っているのか。来年頑張ればいいじゃ
ないか?と言われたこともありましたが、「約束」は叶えなければいけません。
そしてそれは、”今”しかないのです。あの時も突然の転勤命令ですべてが
徒労に終わってしまいました。だから明日が来る保証はどこにもないのです。
その当時の私はある意味、おかしかった。
気がふれていたのかもしれません。
たったひとつの目標のために、それでいて精神のバランスが時として壊れて
有限不一致の時期もありましたがそれを救ってくれたのは目的をひとつに
ともに切磋琢磨して戦った仲間でした。負けたくない相手(仲間)。ギャフン
と言わせたい友。その想いが私を支えていたと思います。
2006年11月。
ゴールの横断幕が見えたとき、、それまでの想い、お師匠様との約束をようやく
叶えることができる安堵感と、ここまで、、ようやくここまでたどり着いた
”時の重み”と自分の苦しさからやっと解放されるような気がしました。
順位とかどうでもよかった。
たったひとつの自分で決めた誓い。
そしてお師匠様と交わした約束。
それを5年越しで達成できたとき、私の長い長い遥かなる沖縄への旅はやっと
終焉を迎えたのでした。ただ、それが出来たのは私ひとりの力ではありません
でした。ともに戦ってきた仲間。サポートしてくれたクラブメンバー。そして
家人。
ゴールラインを越えたとき溢れ出たあらゆる想いは涙としてやっと昇華する
ことができたのでした。
それから早5年。
今、私は何をやっているのだろう・・。
幸いにも自分の想いを成就させることはいろんな方々の力があって達成する
ことができました。
が、、
私は、誰かのために、今、その誰かを心の底から全力でサポートしてきたの
だろうか?私には切磋琢磨する素晴らしい仲間がいて、何よりも心から尊敬
できるお師匠様がいらした。そんな絆を私は残したのだろうか?
確かに自分が壊れてしまってそれどころではなかったのは事実ではあるが
それはそれである。自分が意志をもって、後世に向かって、点をうち、それを
線にして、そして絆にすることは情けなくもすることは叶わなかった。いや、
やってこなかった。それも違う・・・できなかったのだ。
今にして思う。
●「託された想い・伝統」はあとに引き継がなくてはならない。
あの日以来、穏やかになった自分。
闘争心も、根性も、粘りも、なにもかもがあの時と雲泥の差があるのですが、
最近、素晴らしい出会いが次々にありました。元からいる面々は当然だから
いいのですけど、はじめてお会いして一緒に走ってくださる若い方々がとても
すがすがしく、目的をもって、しかも常に前向きでピチピチ(笑)していて
とてもとても楽しい。あの時のように率先して先頭を引きまくり、
「だぁ~めじゃん・・」ということはとても無理ですが、逆にいじりまくって
くれる(笑)。
自分が”絆を作る”だのおこがましい考えでした。
恥ずかしいですね。
大切なとても大事な「想い」はいつか必ず伝わっていくものなのですね。
いま、とても穏やかです。
あの時のお師匠様もこんな気持ちでいらしたのなら・・・。
私は自転車については、本当に仲間に、友に、恵まれた幸せ者ですね。
こんなに恵まれた自転車生活の真ん中にいるとそれに気づかないものですね。
感謝の気持ちが足りませんでした ^^;
みなさん、本当にありがとうございました。
そしてお世話になりました。
PS.エピローグはもう少し・・続きます・・。