散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

幻想の中の東京大空襲~病床で蘇る母の記憶

2016年01月01日 | 回想
関東大震災(大正12/9/1)と太平洋戦争の末期における東京大空襲は、東京を襲い、多くの住民の命を奪った大災害。前者は自然の力によって、後者は人間の力によってもたらさられた。

筆者の祖母は震災時に東京下町で暮らしており、筆者の母親を身ごもっており、震災の1ヶ月後、10/12に母親を生んだ。
下町は昼時の炊事、木造家屋の倒壊、折からの強風の条件が重なり、大火災となって、祖母は大きなお腹を抱えて逃げ惑ったと云う。周囲の人たちは「逃げられて良かったけど、流産だろう」と話していたと、筆者は母の姉から聞いた。

勿論、母親は関東大震災の体験はないから話さない。
しかし、その年に生まれ、その後、実家は幡ヶ谷近辺に引っ越して、商売の布団屋を続けていたというから、東京に住み続けていたのだ。すると、二十歳前から太平洋戦争は始まり、二十歳過ぎに、米軍空襲の洗礼を受けたことになる。

母親は東京大空襲のことも話すことはなかった、つい最近までは。
しかし、米寿を迎えた頃に、体調を崩し、気持ちの上でも不安定になり、入退院をしばし繰り返した時期だ。午後に見舞いに行くと、少し眠っていた処を起こしたらしく、前の晩は寝付けなかったとのことで、うつらうつらしながら病気の症状を話し始めた。

何がキッカケだったのか?それが戦争当時の話になり、母は空襲のことを想い起こしたらしい。
日時はわからない。今の千代田区九段の辺りに勤務先の事務所があって、空襲で家事になって、火の手が押し寄せてくる。それで、事務所から表に出て逃げた。同じ事務所に勤めていた父(筆者の)が防空頭巾を「これを被って逃げなさい」と云って、くれたと云う。

走りと歩きを繰り返しながら急ぐが、熱気が押し寄せて、お濠に飛び込む人もいたらしい。カーチス・ルメイ将軍が率いる米軍の絨毯爆撃とは、焼夷弾である地帯を囲み、火の海の中で住民が逃げられない様にするとのこと。

市ヶ谷―四谷―新宿と逃げて、京王線の桜上水まで行った。そこには事務所の人たちの疎開先があり、寝泊まりできるようになっており、暫くはそこで暮らしていた。こんな話であった。

病気で衰弱した状態、それも睡眠不足で、半ばうつらうつらの状態であるから、どこまで正確なのか、心許ない点もある。しかし、その経験談の真実は、話の正確さではない。そのなかに潜む経験によってもたらされた“心的ショック”にあるように思われる。

母は俳句を嗜み、素人だが、芭蕉から多くを学び、「奥の細道」を辿ったりもしている。筆者は母の姿と話から、芭蕉の辞世の句と云われる
  「旅に病んで、夢は枯野を駈け巡る」 を何とは無しに思い浮かべた。
芭蕉を真似たのでは無く、芭蕉と同じ様な体調にあることをどこかで感じ、今まで言わずに止めておいたものが蘇って、溢れる様に出てきたのではないか。

これは息子の独りよがりかもしれないが。
それにしても、震災と空襲のなかで生まれ、そして生き抜いた母を思うと、自分自身もまた、運命が少しずれれば…、と不思議さを感じるものだ。

      

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。