トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

荒木和博が蓮池薫氏らに対しさらに・・・

2006-12-29 13:37:42 | 事件・犯罪・裁判・司法

 荒木和博が特定失踪者問題調査会のニュースでさらに、蓮池薫氏ら帰国した拉致被害者に対する疑問を述べているという。

 《■蓮池さんのこと
                       荒木和博

  調査会の岡田常務理事から言われて気づいたのですが、蓮池透さんの著書『奪還 第二章』126ページに警察の事情聴取に関する話が出てきます。その中にこんな一節があります。

  「弟夫婦への警察の事情聴取は結局、2004年秋に弟の希望通り実家で行われました。その時、驚くような質問を受けたそうです。

 『北朝鮮のパスポートを所有していますね。日本国内へ工作活動に来たのはいつですか?誰にも言いませんから』

 『北朝鮮で日本語教育というある意味でスパイ養成に加担したわけですが、どういうお気持ちで?』

 弟は、『日本国内になんて、入れるわけがないだろう。日本語教育は、われわれが生き残るためにやったまでなのに…あなた方は助けに来てくれたのか?』と激怒したそうです。状況を聞いた私は開いた口が塞がりませんでした」

 確かに、こう聞かれれば、薫さんが怒るのももっともでしょう。誰も助けに来なかったのに何を言うか、というのは今北朝鮮に残っている拉致被害者からも、私たちはやがて同じ言葉を聞かされることになると思います。

 しかし、それはそれとして、この記述が事実なら、なぜ警察はあえてこういう質問をしたのでしょうか。何も根拠がなくて、皆が腫れ物にでも触るように扱っている帰国した拉致被害者にこういうことを聞くでしょうか。やはり警察は何か極めて重要な情報、捜査上の秘密などという言葉で隠してはならない重要なことを知っていて、そして隠しているのではないかと思わざるを得ません。あるいはそれは警察レベルのことではないのかも知れません。そして隠しているという意味ではもちろん帰国した5人もです(私は少なくとも5人を非難するつもりはありませんし、その資格があるとも思いませんが)。》



 この蓮池透氏の『奪還 第二章』の記述については、ほかにもどこかで指摘されているのを見た記憶がある。どこだったろうか・・・。
 検索してわかった。問題の源である当の横井邦彦氏のブログ「労働者のこだま」ではないか。『週刊現代』の報道後、このブログの蓮池薫氏関係の記事は何故かほとんど読めなくなっているが、この「おもしろい指摘」という記事は何故かまだ残っている。以下全文を引用する。


 《2006-12-06 02:23:00

 おもしろい指摘

  私のブログに興味深いコメントをよせてくれた人がいるので紹介します。 「兄の透氏の『奪還』によると帰国後の警察の事情聴取に『日本に帰ってきたのはこれが初めてではないでしょ?』の問いかけに『帰れるはずがないじゃないか!』と激怒したそうです。また『俺は有名人だったから』とも言っていたそうです。」

  最初に浮かぶ疑問は、「日本に帰ってきたのはこれが初めてではないでしょ?」という警察の問いかけは拉致被害者全員になされたものでしょうか?

  つまり、警察は地村さん夫妻や曽我ひとみさんにも同じ問いかけをしたのか?ということです。

  私はそのような質問はしなかったと思います。

  それに激怒というのもおかしな反応です。「なぜそういう質問をするのですか」と問い返すのが普通でしょう。本当に日本に帰ってきたのが初めてならば。

  取り調べ室で容疑者が激怒でもすれば、取調官は「なんか当たったな」ということで、もっとするどく突っ込んでくるはずですが、そうでないのは新潟県警に人権に対する配慮が行き届いているからでしょう。

  さらに、警察はなぜ蓮池薫氏にだけそのような意地の悪い質問をしたのでしょうか?

  警察がそのような問いかけをしてみたくなるような根拠を何か知っていたのではないですか?  

 「俺は有名人だったから」「帰れるはずがないじゃないか!」という答えも奇妙なものです。  

  彼を日本の官憲にとって「有名人」としたものは、果たして「拉致被害者」であるということでしょうか?

  また「有名人」だから「帰れない」というのは、「有名人」でなければ「帰ること」もできたんだ、という意味を含んではいませんか?  

  だから、この文章は「あることがあって自分は日本の官憲にとって有名人となってしまったので、帰れなくなった」という風に解釈できませんか?  

 もちろんこれは単なる憶測というものですが・・・ 》 



 なんだか荒木と同じようなことを述べている。荒木が言う、「調査会の岡田常務理事」は、この横井氏の記事を見て荒木に指摘したのかもしれない。

  北朝鮮がさまざまな対日工作を行っているのは事実だろう。そして蓮池氏ら5人がそのような活動に何らかの形で関与していた可能性はあるだろう。警察もそのようなことを考えた上でいろいろな質問をするだろう。その中には拉致被害者にとって不愉快なものも当然あるだろう。
 警察に限らず、インタビュアーというものは、当人が聞かれたくない点についても突っ込んで質問するし、カマをかけて反応をうかがったりもするものだ。 『奪還 第二章』の上記の記述をもって、荒木や横井氏が言うように、警察が蓮池薫氏について重要な情報を握っていた根拠と見るのは、どうにも弱すぎるように思う。
(なお、この問題を取り上げている「sokの日記」というブログの「横井邦彦氏の言う「おもしろい指摘」って?」という記事によると、『奪還 第二章』には、「俺は有名人だったから」というくだりはないそうだ。ならば、上記の横井氏の「有名人」云々の記述は、ガセネタに基づいて憶測をたくましくしているだけということになる)

 続いて荒木が述べている、拉致被害者の死亡情報の扱われ方を見て国家権力不信になったという話や、ミッドウェー海戦の大敗を隠蔽したのと同様のことが拉致問題で今も進行しているのではないかという指摘は、わからないでもない。
 おそらく、特定失踪者問題調査会としては、帰国者5人が協力に消極的だと感じているのだろう。
 しかし、


 《私たちはほんの僅かな、不確かな情報でも渇望している失踪者のご家族の思いを背に負っているのですから、多少の無理はせざるを得ません。それが脅迫であるとして罪に問われるならそれも仕方ないと思います。》


 こういう、目的のために手段を正当化するような考え方は良くない。
 それに、帰国者もまた被害者である。被害者間に対立を生むおそれはないか。
 帰国者は、語るべき有益な情報を実際に持っていないのかもしれない。死亡したとされる他の拉致被害者や特定失踪者の問題が解決に向けて進展しないからといって、その不満を帰国者にぶつけるのは筋違いではないかと思う。


拉致は北朝鮮ではなく日本の暴力団によるものと主張する美爾依さん

2006-12-28 23:55:11 | ブログ見聞録
 激烈なアンチ安倍ブログの一つである「カナダde日本語」の美爾依さんが、『週刊現代』の蓮池薫氏=拉致未遂犯報道について、「かなり信頼できるのではないか」と述べている。

《山崎行太郎氏の『毒蛇山荘日記』で、「蓮池薫氏は拉致実行犯だった!」という記事を見つけたんだけど、これも週刊現代の記事をもとに書かれたものだった。この週刊現代の記事の信用度については、いろいろな批判記事もある中、私としては、かなり信頼できるのではないかと見ている。横田めぐみさんの拉致問題も含めて、私は、拉致したのは、安倍晋三と関係の深い日本の暴力団であり、北朝鮮のスパイではないと信じている。だから、北朝鮮拉致問題の被害者のための会である「救う会」に北朝鮮から武器や覚せい剤の密輸入をしている「住吉会」が深くかかわっている(byカマヤン)ことも納得できる。この北朝鮮拉致問題には、私達の想像を絶するような秘密が隠されているのではないだろうか。 》

 まあ、この人なら、こうしたことを言うだろうなとは思う。
 ところで、美爾依さんは、この『週刊現代』の記事を読んだのだろうか。
 拉致が、北朝鮮ではなく、日本の暴力団によるものだと美爾依さんは主張する。
 しかし、『週刊現代』の記事にしろ、その元となった横井邦彦氏のブログの記事にしろ、そのような説を主張するものでは全くない。もちろん、山崎行太郎の記事にしても同様だ。いずれも、北朝鮮による拉致であることを前提としている。
 「救う会」に右翼団体や暴力団が関与しているとはよく聞く。しかし拉致が日本の暴力団によって行われたという主張は初耳だ。その主張と、今回の『週刊現代』の報道を「信頼できる」と見ることがどう結びつくのかが理解できない。
 美爾依さんは、『週刊現代』の記事自体は読んでいないのではないか。是非とも読んで、「信頼できる」とする根拠を示してほしい。そして、日本の暴力団が拉致犯であるとする自説との整合性についても説明してほしい。
 ちなみに私は、別途書いたように、この『週刊現代』の記事は横井氏の妄想か創作の産物だとみている。

蓮池薫氏=拉致未遂犯説に好意的な荒木和博

2006-12-27 23:59:14 | 珍妙な人々
 『週刊現代』の蓮池薫氏=拉致未遂犯報道について、特定失踪者問題調査会の荒木和博会長が、同調査会のニュースとして見解を発表したと自分のブログで述べている。
 私の見るところ、やや『週刊現代』や横井邦彦氏に好意的過ぎるように思う。拉致被害者の支援者的立場の人物からこのような見解が出てくるのは大変意外だ。
 同調査会での荒木の活動に特に異を唱えるつもりはないが、金完燮『親日派のための弁明』の訳者としての解説や、近著『内なる敵をのりこえて、戦う日本へ』に見られる感覚には、危ういものを覚えていた。

 荒木は、拉致被害者が日本に戻っていた可能性はあるかという問いには、あると答えざるを得ないとしている。その例として、よど号グループの1人の妻にさせられた女性が日本に一時帰国していたことを挙げている。
 その点には私も異論はない。拉致ではないが、洗脳されてやはりよど号グループの妻となった八尾恵も、同様に日本に帰国して活動していた。

 しかし、次のように述べている点には同意できない。

《ご本人のブログなどを見る限り、横井氏の証言に妄想と思われるようなところはありません。左翼は左翼ですので、私自身は思想的に相容れないところがありますが、北朝鮮に対しては非常に厳しい見方をしており、見解の違いは別にして冷静な分析であるように思います。蓮池氏には政府(対策本部事務局)を盾にするのではなく、やはり本人がマスコミの前に出て可能な限り真実を明らかにする必要があるのではないでしょうか。》

 私は、横井氏の話は妄想か創作の産物だと思うし、冷静な分析などとはとても思えない。
 荒木は、横井氏が言うように、北朝鮮が、86年という時期に、社労党などという新左翼の残党の一個人を招いて、田宮高麿に代えて、100人にのぼるという在朝日本人のリーダーに据えようとしたなどと、本気で考えているのだろうか。
 もしそうだとしたら、特定失踪者問題調査会への見方も、改める必要がありそうだ。

 横井氏や『週刊現代』や荒木が言う、蓮池氏に真実を語れという主張が悪質なのは、たとえ蓮池氏がマスコミの取材を受けたとしても、そうした事実がなかったということを蓮池氏が証明するのは極めて困難だからだ。
 やっていないということを証明するのは大変難しい。だから、普通は「やった」と主張する側に挙証責任がある。
 しかし、横井氏は自分のブログの「証明はできません」という記事(この記事は現在読めなくなっている)で、自ら証明はできないことを明らかにしていた。
 横井氏に証明を求めずに一方的に信頼を寄せ、蓮池氏に真実を語れと迫る『週刊現代』や荒木の論法は大変卑劣である。

 横井氏は自分のブログホームページで「われわれ赤星マルクス研究会」と名乗る。赤星マルクス研究会は、ブントの流れを組む、社労党(社会主義労働者党)のさらに後身である、林紘義らの「マルクス主義同志会」とたもとを分かって独立したのだという。しかし、「現在は一人で会を自称しています」ともホームページで述べている。ならば、「われわれ」とは一体何なのか。ハッタリか。ホームページには「マルクス主義同志会」に対する愚にも付かない批判がウダウダと。
 彼のホームページやブログの文章を読む限り、左翼とかそういったこと以前に、「冷静な分析」が可能な人物だとはとても思えないのだが。

 思うに、横井氏の主張は、革マル派による97年の神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)が冤罪であるという主張や、最近では植草一秀教授が痴漢で逮捕されたのが権力の陰謀であるといった主張と同様の、珍左翼(注)の珍説にすぎないのではないか。


珍左翼・・・たしか呉智英の造語。出典は失念。旧左翼から新左翼が生まれ、さらにそのなれの果てが珍説を開陳するしか能がない珍左翼、という話だったかな。呉自身の主張からも最近は聞かない。

『週刊現代』の蓮池薫氏=拉致未遂犯報道について

2006-12-26 23:57:51 | 事件・犯罪・裁判・司法
 昼食時に『産経新聞』を読んでいると、次のような記事に驚いた。

週刊現代に蓮池さんが抗議「荒唐無稽」(産経新聞) - goo ニュース

 これは、以前miracleさんのブログが取り上げていた、元社労党の?左翼活動家が自分のブログで開陳していたヨタ話ではないか。

 私がこれをヨタ話だと思ったのは、miracleさんのブログへのコメントでも書いたように、

・「お前を拉致するぞ!」と言って拉致しようとするのは不自然(相手がより抵抗する)。騙して入国させるか、何も説明せずに力ずくで連れて行くのでは。
・学校の体育館に蓮池薫氏らが突然訪れるというのも不自然。普通、学校で部外者は自由にうろつけないのでは。
・初対面で、しかも公共の場で、自分が拉致被害者だの何だのと語ること自体が不自然。
・よど号グループは入国後かなりの洗脳を受けている。八尾恵も、日本国内で洗脳されている。北朝鮮シンパでもなく予備知識もないこの人物が、何で田宮の後釜に座れようか。
・「私は北朝鮮を社会主義国家だと思ったことはない」と言ったというが、86年当時の新左翼にそこまでの認識があったかどうか疑問。
・「今回はあきらめるといって去ってい」ったと言うが、拉致とは指令であり、不実行は許されないはず。去っていった後、この人物がそれを公にした場合の危険性を考えてもそれは明らか。

といったことからだ。
  
 『週刊現代』でこの話が報じられていたとは知らなかった。
 今は亡き『噂の真相』や、今もあるその類似誌のようなスキャンダル雑誌ならともかく、『週刊現代』クラスの週刊誌が取り上げるほどのネタとは思えないのだが。

 いや、産経の記事には

《週刊現代編集部は「証言をさまざまな角度から精査し掲載に至った」とのコメントを発表している。》

とある。この人のブログの記事以上の何らかの根拠があるというのか?

 コンビニで買って先ほど読んでみた。
 何と、トップ記事ではないか。4ページもある。この雑誌は今号でリニューアルしたらしい。その目玉記事ということか。

 横井邦彦氏の告白なるものの内容は、多少、話が詳しくなっているが、基本的には彼のブログの記事を超えるものではない。北朝鮮についても拉致被害者についても、全て、これまでに報じられていることばかりである。彼だけしか知らない新事実といったものがなく、信憑性が感じられない。
 ただ、記者が書き直しているだけあって読みやすく、ブログの記事に比べ説得力が増している。疑うことを知らない読者ならうっかり信じ込んでしまいそうだ。
 そして、
1.「外務相の元北朝鮮担当者」による、横田めぐみさんの元夫とされる金英男が自ら日本に行ったことがあると話していたように、北朝鮮は拉致被害者を対日工作に利用していたという話
2.同じ人物による、内閣府には「蓮池ファイル」と呼ばれる厖大な証言録があるという話
3.「朝鮮総連元幹部」による、86年に金正日が対日工作に力を入れ始めたという話
4.「北朝鮮の対日担当幹部」に本件を確認したら、否定しなかったという話
5.「拉致被害者の支援に長年当たってきた人物」が「蓮池氏の幼なじみ」から聞いたという、「ある時、宴会で痛飲した蓮池氏が、拉致されていた時期に日本に来たことがあるような話しぶりだった」という話
を紹介している。
 「さまざまな角度から精査し」たというのはこれか。どうにも弱すぎる。4など、北朝鮮に利用されているのではないか。

 そして記事は、日本政府も蓮池氏が日本に来ていたことは知っているのではないかとして、

《日本人拉致事件の全貌を解明するためにも、一刻も早く、真実を国民に明かすべきである。》

としめくくっている。
 その後ろに蓮池氏の写真と、

《いまは翻訳家として活躍する蓮池氏が真実を語る日が待たれる》

というキャプションが添えられている。

 「真実」とは何か。『週刊現代』はたかがこれだけの証拠で、横井氏の告白が真実である、蓮池氏や政府はそれを認めよと迫るというのか。
 週刊誌の報道にこれほど憤りを覚えたのは久しぶりだ。

 蓮池氏が対日工作に従事していた可能性はあるだろう。その過程で日本に入国していたということも、あり得ないことではない。
 だが、横井氏が示しているようなストーリーでの入国、そして拉致未遂といったことはあり得ないと、私は思う。
 そもそも横井氏のブログの他の記事やホームページ(「赤星マルクス研究会」)を少しでも読んでみれば、彼がまともに相手にすべき人間かどうかわかりそうなものだが。

 と書きながら、横井氏のブログ「労働者のこだま」を見てみると、12月25日付けで「おことわり」と題して、この件で身辺が騒がしくなってきたから更新を中断するとある。
 まあそれはいいのだが、この件を初めて明らかにした「正直に言います」という記事が見当たらない。
 さらに寄せられた意見に応えて、昔のことなので物証もなく、事実であることは証明できないとした「証明はできません」という記事も見当たらない。
 削除したのか、見えなくしているのか。
 いずれにせよ、更新を中断するというのはわかる話だが、これらの記事を読めなくするというのは理解できない。
 コトが大きくなってきたから逃げ出したのではないか。
 『週刊現代』、どうするつもりだ。

付記
 「正直に言います」を転載しているブログが見つかったので、参考までにリンクを張っておきます。

「体たらく(ていたらく)」という言葉

2006-12-25 22:38:49 | 未整理
 とあるブログの記事に、以下のような記述があるのを読んで思い出したのだが、どうも最近「体たらく」という言葉の用法が変わってきているようだ。

《野党の体たらくは民主党だけではなく、社民党、共産党にも言えることだけど、野党第一党の体たらくは、近代民主主義にとっては良くないことだ。
 社民党が、共産党支持層の穏健現実派を取り込めるようになれば、もう少し民主、社民連合にも有利になるのだけど、社民党は他所様のことを言える義理ではなく、政党として一番体たらくである。》

 「一番体たらくである」・・・??。
 一番ダメだということかな?
 
 以前、ゆうきまさみのマンガ『鉄腕バーディー』(最近の方)にも、同様の用法があったような・・・。「ていたらくだなー、バーディー・シフォン。」とか何とか。

 どうも、「体たらく」というひと言で、「ダメダメ状態」といった意味で用いられているようだ。

 goo が辞書として提供している『大辞林』には、

《ていたらく 3 【体たらく/▽為▽体】
〔「体(てい)たり」のク語法。そのような体であること、の意〕ようす。ありさま。現代では、好ましくない状態やほめられない状態についていう。
「散々の―だ」「此の山の―、峰高うして/盛衰記 35」》

とある。
 
 Googleで「体たらく」の語で検索してみると、あるブログでの次のような記述がヒットした。

《和歌山県知事選挙で民主党は自主投票になった。
独自候補すら立てれないなんて情けないですね。
県連の中で足の引っ張り合いをしているんですから。
女性町議の名が挙がっていたのを無名だからという理由で引きずりおろす。
それで結局は擁立すら出来ないなんて県民を馬鹿にしてますね。
こんな体たらくでは民主党が政権取るなんて無理でしょう。》

 こうしたものが、本来の用法だろう。
 つまり、「体たらく」は悪いニュアンスで「有様」といった意味で使われるが、その悪さは別に示すものであり、「体たらく」という言葉単独で悪いということを示すものではない。
 
 はてなダイアリーには、「体たらく」の語について、次のような記述があった。

《また,一部では「本当に体たらくな自分だったと思います」(東横イン社長)や「拉致された人々の命すら守れない日本政府は体たらくだと指摘した」(朝日新聞。石原都知事の発言として)のように,本来の用法とは異なる使い方をされることがあるようである.》

 こんな偉いさんが使っているようでは、一般化するのもやむを得ないのかも。
 それにしても、石原慎太郎。この人は保守派で、しかも作家であったはずだが、日本語にはあまりこだわりがないのだろうか。
 それとも、関東の方ではこうした用法が浸透しているのかな? 関西人の私は日常会話で聞いたことがないが。

黒田勝弘、市川速水『朝日vs.産経 ソウル発』(朝日新書、2006)

2006-12-23 23:32:08 | 韓国・北朝鮮
 今月創刊された「朝日新書」の1冊。黒田は『産経新聞』のソウル支局長(その前は共同通信のソウル特派員であった)、市川は『朝日新聞』の前ソウル支局長。両紙それぞれの論調を背景にした、朝鮮半島情勢や日韓・日朝関係についての対論を収録したもの。
 対論出版の企画自体は市川の発想によるものだと、黒田が「まえがき」で述べている。こうした企画が通るところが、朝日の長所であり強みであると思う。朝日の報道スタンスについては、左に甘いとか反日的であるといった印象があるが、異論に対して比較的寛容というか、少なくとも異論をも紹介しようという姿勢が最も濃厚な新聞は朝日であると思う。産経の「正論」欄に左派が登場するだろうか。同紙の読者論文に、いかに内容が優れていようと、左派的な見解が入賞するだろうか。私が紆余曲折の末、現在朝日を購読しているのはそうした理由による。

 閑話休題。日韓関係については、市川も、韓国側の反日論に日本人として違和感があることは認めている。そうした違和感を紙面でどこまで表現するかという点で、市川と黒田に温度差があるというにすぎない。したがって、議論の性質上、どうしても黒田が攻勢、市川が守勢に立つことになる。

《黒田 あのねえ、市川さんも朝日新聞の記者たちも韓国で生活すれば、こりゃアカン、こりゃなんじゃと、非公式にはすごく文句言ってるわけですよね。でも、そう書いちゃいかん、日本人に向けてそれを言うと韓国に対する差別、偏見を助長すると。僕も最初はそう思ってましたが、途中から、それはやっぱりよくないんだと。逆に偽善的だと・・・・・。
 市川 偽善ではなく、マナーが必要だと言ってるんです。
 黒田 事実として問題があるなら、それを隠したり見ないふりをする方が逆に問題をこじれさせるのではないかと。(中略)韓国はもう過去の韓国じゃない。言いたいことを言っていいんです。批判していいんですよ。その結果、日本人が偏見を持つか、差別意識を持つかどうかは別の問題です。(中略)今や読者、視聴者たちが独自で情報を得ているし、ビジネスを含めいろいろな接触があるわけだから、国民が自分で判断することができる。配慮するほうが朝日の妙な差別意識なんですよ。ある意味では。
 市川 差別意識なんて、ないつもりですけど。
 黒田 相手をまともに見ていないんだな。》

 私には、黒田の主張はよくわかる。ただ、昨今の嫌韓ブームとでも言うべき状況を見ていると、市川の危惧もわからないでもない。
 日本の新聞というのは、概して他国の悪口は書かない傾向にあると思う。だから、よその国がみな優れた国で、日本だけが劣った国であるかのような印象を持つことがある。市川としても、社のスタンスを無視した発言はしにくいだろうし、若干、市川がかわいそうではある。

 もう一点、強く印象に残ったのが、北朝鮮への人道援助をめぐる議論。人道援助には肯定的な市川に対し、黒田はそれを否定する。

《市川 でもね、WFP(世界食糧計画)などが地方に行って、直接食糧支援するのは、これは必要不可欠じゃないですか?
 黒田 人道援助が成立するのは開放社会であることが前提ですよ。アフリカなどでやっているように。しかし北朝鮮のような体制上の閉鎖社会で人道支援っていうのは、場合によっては非人道幇助の犯罪になりかねない。
 市川 僕はその意見には、反対です。だって、目の前に飢え死にしていて、しかも権力とは関係ない人がいるのに。
 黒田 もし人民の餓死が気になるなら、戦車や大砲を売ってでも、米を買ってこいって言えばいいんです。兵器は大量にスクラップにすれば売れるんだから。それをせずに、しかも一方はミサイルや核兵器を造りながら人道援助なんて、絶対ダメです!
 (中略、アマルテア・センという経済学者の分析を紹介して)
    要するにね、飢餓というのは独裁だから起きる。民主主義政権下では起きないというんですね。なぜかというと、民主主義が稼働している国においては飢餓とは政策の失敗ですから、失敗があれば国民に非難されて政権の交代になる。それが機能することで飢餓の解決策が模索されるわけです。独裁下ではそれが機能しないため解決できないというわけ。(中略)北朝鮮問題の解決は結局、金正日政権のレジームチェンジですよ。それなのにすぐ人道支援などといったのでは何も解決しません。核も飢餓も。》

 確かに、そのとおりだと思う。
 英国のジャスパー・ベッカーというジャーナリストが現代の北朝鮮を論じた『ならず者国家』(草思社、2006)という本に、次のような記述がある。

《公正を期すために言えば、国連のシステムは北朝鮮のような国を想定して作られていない。つまり、政策変更や相手側の条件を呑むくらいなら大量の国民を見殺しにしてもよいという心づもりの国には対応できないのだ。》
《国連職員らが非公式に次のような発言をしたことがある。全体として考えた場合、とにかく北朝鮮への食糧支援を増やせば最悪の事態は避けられる、受け取る順番などどうでもよいのだ、と。脱北者が言うように党と軍が一番いいところを奪ったとしても、全体量が多ければ残りの国民に渡る量も増えるからだ。》
 
 しかし、残りの国民には渡らずに、輸出されてその利益は軍事費に回されるかもしれない。それを検証する手段が国連にはない。
 「北朝鮮問題の解決は結局、金正日政権のレジームチェンジですよ。」という発言は、本質を突いていると思う。

 既に両紙の朝鮮半島情勢や日韓・日朝関係についての論調を知悉している者にとっても、それがぶつかりあうことで展開される議論に興味深い点もあるので、こうした問題に関心のある方なら一読の価値はあると思う。
 ただ、朝日支持の方には、若干辛い読後感を与えるような気もする。

呉智英の「自殺するぐらいなら復讐せよ」発言について

2006-12-21 00:23:56 | 珍妙な人々
 先に呉智英の本について書いた際、ウィキペディアで「呉智英」を検索してみたら、

《2006年11月26日付の産経新聞で、いじめ問題について「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。」と発言し、物議を醸している。この発言は「死刑を廃止して仇討ちの復活を!!」という、呉のデビュー以来一貫した主張に基づくものといえる。》

との記述があった。
 調べてみると、この発言は、同紙文化面の名物コラム「断」のもの(全文はこちら)で、たしかに物議を醸しているようだ。

 ウィキペディアにあるように、呉智英はこの種の主張を一貫して続けてきた。例えば彼の著書『ホントの話 誰も語らなかった現代社会学〈全十八講〉』(小学館、2001)には、

《この数年私が腹立たしかったのは、(中略)いじめによる自殺が相次いだことです。正確に言えば、この事態を正しく認識する思考力・文化力が日本のジャーナリズムに皆無だったこと。
 だってね、いじめによる自殺が続出するなんて異常な事態ですよ。たぶん、誤解していると思うので、整理していいましょう。いじめが続出することを言ってるんじゃない、いじめによる自殺が続出することを言ってるんです。
 いじめも、もちろん、悪いことです。しかし、どんな社会にも、さまざまな程度や形のいじめはあるでしょう。しかし、直接いじめ殺されたのならともかく、被害者が自分で死ぬんですよ。日本は異常な国になっていると思います。(中略)
 いじめられた子供が、復讐という選択肢を絶対に採らないようにマインド・コントロールされた社会、それが現代の日本なんです。
 (中略)
 いじめられた子が、家の物置にあった日本刀を持ち出し、いじめっ子を次々に叩き斬ったら、その子はどうなりますかね。こんなたくましい子供は、チェチェンなら、英雄でしょう、きっと。しかし、人権先進国日本では少年院送りで、生涯台無しです。つまり、人権先進国は国家権力万能国ということなんです。近代国家は〝人権いい子〟を作り出すことを国家使命としているんですね。》(p.39~41)

とある。
 だから、以前からの読者にはさして目新しい発言ではないが、やはり一般紙に載せるには刺激が強すぎたのだろう。

 私は「大学で法制史を学」んでいないので、本来個人が持っていた復讐権を近代国家が奪ったというのは本当かどうかわからないが、おそらく正しいのだろう。だからといって、現代の世に復讐を認めて、それでいじめが解決するのか。それほど単純な問題か。
 やられっぱなしではいけない、抵抗せよという話はわかる。殴られたら殴り返せと。呉智英が挙げているジャンプの例のようなケースもあるのだろう。
 しかし、殴り返して、かえってさらに大勢に殴られる場合もあるだろう。いじめる側が圧倒的に多数だったら、いかに体を鍛えてもどうしようもない。
 ましてや、殴られた仕返しにナイフを持ち出して刺し殺したりしたら、もうまともな学校生活は営めない。

《死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。》

 死刑にはならないが、貴重な青少年期を棒に振ることになる。くだらない奴らのために。
 呉智英自身、『ホントの話』では「少年院送りで、生涯台無し」と述べているのに、「断」では復讐をけしかけるというのはおかしいのではないか。

 また、子供は復讐できないようにマインド・コントロールされているというのは本当だろうか。呉智英は、子供を、そして大人の読者をも、そのようなマインド・コントロールから解放するために、敢えて衝撃的な表現をとったつもりかもしれない。しかし、子供を含め、読者はそれほど愚かだろうか。皆、復讐という手段があることぐらい気付いているのではないだろうか。そしていじめられた子供は子供なりに、そうした手段についても考えるのではないだろうか。現に復讐(仕返し)の事例も時々報道されているように思う。しかし、最初はいじめた側が悪くても、いじめられた側が仕返しをやりすぎてしまったら、今度はそちらが非難され、かえってバカをみることになってしまう。呉智英は、子供に誤ったメッセージを送っているのではないか。

 私も昔はこうした呉智英の放言にシビレていたものだが、最近は、こうしたものにどれほどの意味があるのだろうかと思うようになってきた。
 鬼面人を驚かすのたぐいで、実効性のなさという点では、きれいごとだけで済ませるような識者のコメントと何も変わらないのではないか。

 あと、チェチェンでもたぶん、いじめられっ子が刀を持ち出していじめっ子を叩き斬ったら、非難され、罪に問われると思う(チェチェンの実情など知らないけど、人間社会ならおそらくどこでも)。ハムラビ法典でも「目には目を、歯には歯を」という応報刑であって、目をつぶした者は死刑、ではないのだから。 

『マオ』の張作霖爆殺=ソ連犯行説について

2006-12-19 21:42:43 | 日本近現代史
(本の感想はこちら→ 上巻 下巻
 1年ほど前に出版された本の話なので、知っている人には今さらという感じでしょうが。

 私が本書を読みたいと思っていた主な理由は、張作霖爆殺事件が関東軍ではなくソ連の仕業であると書かれていると聞いていたからだ。今年の前半に『諸君!』『正論』といった保守系オピニオン誌で中西輝政などがさかんにそのように述べていた。
 で、読み進んでいくうちに該当箇所が見つかった。上巻の「第16章 西安事件」で、張学良の父張作霖についての付記として

《張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。》(p.301)

とある。これだけである。
 こ、こんだけ? これだけのものを、中西輝政らはあのように大騒ぎしていたのか? というのが第一印象だった。

 まあ、本書は毛沢東伝であり、張作霖爆殺など枝葉末節の話だから、詳細に触れられていないのは当然と言えば当然のことだろう。
 しかし、この記述は信頼できるのだろうか。
 張作霖爆殺事件が関東軍の河本大作高級参謀の謀略によるものというのは、言わば定説である。それを覆すだけのものが、本書にあるというのだろうか。

 仮に、ソ連の情報機関の資料に、この事件は同機関が行ったものであるとする文書が発見されたとしよう。その資料は全面的に信頼できるものなのだろうか。スパイが評価を上げるために虚偽の業績を報告するという可能性はないのだろうか。
 これは、中西が最近コミンテルン謀略史観の根拠としてよく挙げる「ヴェノナ文書」などにしても同様である。情報機関の報告だからといって、全面的に信頼できるわけではないだろう。また、ソ連側がスパイとして認識していたことと、その当人にスパイとしての認識があったことはまた別の話だ。そういったことはケースごとに綿密に検証されるべきであり、単にそのような文書があるからといって、それだけを根拠に実はだれそれがスパイだった、これこれは謀略だったと断じるのはどうかと思う。

 ソ連犯行説について、瀧澤一郎が『正論』5月号の「張作霖を「殺った」ロシア工作員たち」で検証を試みている。
 瀧澤一郎といえば、防衛大学校教授も務めたソ連の専門家である。昔は共産主義に幻想を抱かない冷静なソ連研究者との印象があったが、この論文を読む限り、最近ではどうもコミンテルン謀略史観にすっかり籠絡されているようである。

《「歴史の真実はいつかかならず現れる」。(中略)田中上奏文は天下の偽書であることが証明されたし、廬溝橋事件を誘発した最初の銃撃は中国側から日本軍を撃ったものだったことが明らかになった。張鼓峰事件もソ連が挑発したことがソ連側の資料からも明らかにされた。(中略)「真珠湾」は対独参戦を目的とした「ルーズベルトの罠」であると疑われていたが、これも(中略)そうであったことがほぼ解明された。すべてを日本の責任とする「東京裁判史観」が崩れ、「自虐史観」にしがみつく反日守旧派は後退を余儀なくされているのが昨今の趨勢である。》

と瀧澤は述べる。田中上奏文や廬溝橋事件はともかく、真珠湾を「罠」と見るのはどうだろうか。「すべてを日本の責任とする」のは公平でないとは思うが、全て連合国側の挑発や謀略によるものであり日本は嵌められたにすぎないと強弁するのもどうだろうか。日本の主体性というものはないのか。

《『マオ』の著者たちがこの情報(深沢註:ソ連犯行説)を引っ張り出したのは、コルパギヂ、プロホロフ共著『GRU帝国①』(モスクワ、二〇〇〇年)というロシア語の本である。
 (中略) 
出版されて間もない頃、筆者はたまたまモスクワの本屋で見つけ、おもしろいので一気に読み終えた。とりわけ張作霖爆殺の「ソ連犯行説」は興味深く読んだが、情報の出所が明示されていないのが気になり、他の裏付け情報が現れるのを待っていた。ところが、出版から五年以上たった今でも、なにも出てこないのである。ここが「ソ連犯行説」の最大の弱みなのだ。この「新説」はロシアの新聞や雑誌でも紹介されているが、根拠となっているのはいつもコルパギヂ=プロホロフ説なのである。
 そこで筆者は、多少迂遠な方法であるが、両氏によって爆殺犯と名指しされた工作員たちの経歴や背後関係を洗い出すことにより、彼等の「張作霖爆殺事件」との関わり合いの有無を考証してみた。》

 そして、瀧澤はその『GRU帝国①』で爆殺犯と名指しされたサルヌィニとエイチンゴンの両名の小伝を長々と綴るのだが、結局事件への関与については、コルパギヂ=プロホロフ説を除けば何も情報はない。ただ、事件直前に在中国のソ連の情報機関が増やされているといった状況証拠はあったと述べるのだが、いかにも弱いという印象。張作霖は基本的に反共主義者であり、殺害についてソ連には日本以上に強い動機があったとも言うが、通説では晩年の張作霖は日本に非協力的になっていたとされており、これも納得しがたい。
 
 瀧澤はさらに、

《一方で、「日本犯行説」も完璧からはほど遠い。》

と述べ、第一に、犯行動機が薄弱であるとして、張作霖は日本に協力的であり、殺しても得るところはなく、実際爆殺により張学良は反日に回ったと述べているが、前述のとおり晩年の張作霖は日本に非協力的になっていたと聞くし、また、昭和期の軍人が非合理的な行動を起こした例はいくらでもある。
 
 また、

《「日本犯行説」の根拠としてよく引用されているのが、(中略)河本大作大佐の「手記」と、作家立野信之の小説『昭和軍閥』である。》

が、前者は中国の収容所で洗脳された河本の義弟によるものであり、また後者は所詮小説であり、ともに信頼性に欠けるとしている。

 この点については、ゆうさんという方が、「南京事件 小さな資料集」というホームページの「張作霖爆殺事件(2)―「KGB犯行説」をめぐって- 」に、

《これを読む方はおそらく、「日本犯行説」の根拠が「河本手記」と「立野氏の小説」しかない、と誤解してしまうのではないでしょうか。前のコンテンツを読んでいただいた方にはもう説明の要もないでしょうが、もちろんそんなことはありません。河本自身が語った記録だけでも他に「森記録」があり、さらに「河本から直接犯行の告白を受けた」とする証言も、小川平吉鉄道相をはじめ多数あります。》   

とし、河本手記の信頼性についても問題はないと述べておられるのを見つけた。だとしたら瀧澤の理屈は成り立たない。これまでこの事件について冤罪説が全くなかったことからも、私は日本犯行説に説得力を覚える。
 なお、河本手記は、戦後『文藝春秋』に発表されたものが、同社の『「文芸春秋」にみる昭和史』第1巻に収録されているが、 これを読む限りさして不自然な点があるとは思えない。

 ただそれでも、河本が、ソ連の指示を受けて、あるいは教唆されたり支援を受けたりして、事件を起こした可能性は残る。しかし今のところそのような証拠はないようだ。河本自身がソ連のスパイでその指示を受けて実行したならともかく、仮に教唆や支援を受けたとしても、それで事件がソ連の犯行ということにはならない。それは日本の犯行と見るべきだ。

 瀧澤は、次のように結論づけている。

《以上、張作霖爆殺事件については、「ソ連犯行説」も「日本犯行説」も、現段階では、決定的説得力に欠けていることがわかる。しかし、「日本犯行説」に数々の捏造疑惑があるのに反して、「ソ連犯行説」は、もう一つ二つソ連側の資料が出てくれば決着する。これは単に時間の問題であるような気がする。》

 かなりの強弁だと思う。日本犯行説が多くの根拠を持つ定説である以上、ソ連犯行説はそれを上回るだけの重要な証拠がでてこない限り、認めるに足らないのではないだろうか。

 瀧澤は、さらにこう締めくくる。

《さらに言えば、歴史の大きな流れがある。すでに指摘したが、昭和戦争史のすべての重要事件を日本の「犯行」とする「東京裁判史観」が崩れつつあるのだ。張作霖爆殺問題も解明され、この「捏造史」が完全に崩れ去り、日本人が「自虐史観」から自由になる日もそう遠くはあるまい。そのときこそ、戦後が本当に意味で終わり、新生日本が誕生するのである。》

 瀧澤は、実はマルクス主義者なのだろうか。「歴史の大きな流れ」という言葉は、マルクスボーイがよく口にしたという「歴史の必然」を想起される。そんなものは存在しない。歴史に法則はない。
 それとも瀧澤は、今後は東京裁判史観に代わってコミンテルン謀略史観が主流になると見て、それにすり寄っているのだろうか。かつて、戦時中に皇国史観を唱えていた者が、敗戦後は何食わぬ顔をして東京裁判史観に同調したように。
 全てを日本の犯行とするような見方は否定されるべきだと思うが、同様に全てを連合国やコミンテルンの謀略とする見方も否定されるべきだろう。戦後の占領期に起きた下山事件などの怪事件を、全て米軍など権力側の謀略とする見方がはやったことを想起させる。さらに言えば、共産主義者とは、失敗は全て敵や裏切り者の仕業であり、自らは全く悪くないと考えがちなものだが、私は瀧澤や中西にも同質のものを感じる。

 あと、瀧澤の文中に「歴史の真実はいつかかならず現れる。」とカギカッコが付いているのは、誰かの名文句なのだろうか。しかし、それは正しくない。真実がわからないままうずもれてしまう歴史などいくらでもあるではないか。

 ちょっと検索したら、『マオ』については、多くの批判的な評価があることがわかった。
大沢武彦氏のブログ「多余的話」の[『マオ』書評]『春秋』2006年10月号原稿
・セミナー: ユン・チアン『マオ』を読む
ただ、そうした評価が専門家の業界内にとどまり、一般読者に向けてあまり発信されていないように思う。
 張作霖爆殺=ソ連犯行説の批判については、上記のゆうさんのホームページのほか、下巻の感想を書いた際に述べた矢吹晋による論評や、以下のような記事もあり、参考になる。
・GAKUさんのブログ「Internet Zone::WordPressでBlog生活」の「張作霖爆殺事件について

本間政府税調会長の報道でちょっと気付いたこと

2006-12-19 21:02:39 | マスコミ
ホンマに逆風 政府税調会長問題 与党に進退迫る動き(朝日新聞) - goo ニュース

《問題の発端となったのは、東京都内の一等地の官舎に家族ではない女性と同居していると報じた11日発売の週刊誌報道。》

 「家族ではない女性」って・・・。
 新聞としては、「愛人」という言葉は禁止用語なのだろうか? 品位に欠けるとか?

 産経も、「入居資格のない女性と同居していたとされる問題」としている。

 読売は、(本間税調会長、宿舎入居問題で進退論強まる(読売新聞) - goo ニュース

《官舎に不適切な形で入居していると報道された政府税制調査会の本間正明会長》

と、どう不適切なのか明らかにすらしていない。

 しかし、各社のサイトで「愛人」で記事を検索してみると、いろいろ出てくるから、必ずしも禁止用語ではないらしい。
 とすると、この問題で、週刊誌は「愛人」と報道するが、新聞としては「愛人」という言葉は使わない、としたのだな。
 これは、談合ではないのかな。偶然なのかな。

呉智英『封建主義者かく語りき』(史輝出版、1991)

2006-12-18 00:08:31 | その他の本・雑誌の感想
 先に浅羽通明『右翼と左翼』の感想で少し触れた呉智英のデビュー作『封建主義、その論理と情熱』(情報センター出版局、1981)の改題増補版。現在は双葉文庫に収録されており、読み継がれているようだ。
 呉智英は民主主義や人権思想を批判し、「封建主義者」を自称する評論家。そのスタンスはデビュー作である本書から一貫している。といっていわゆる保守系の評論家とはまた異なる立場を取っており、どちらかというと本質的には左翼に近いと私は見ている。またマンガ評論でも多大な業績を残している。
 以前は愛読していたが、数年前から見方が変わり、現在はあまり評価していない。
 本書は2年ほど前に処分してしまって手元にはないのだが、一度述べてみたかった本なので、記憶とメモに基づいて感想を記す。
 
 序章で、イラン革命の例を挙げ、民主主義的思考の限界を示し、呉智英はこう述べる。

《これから私は、常識とされてきた思考の公理を封建主義の視座から次々にひっくり返していく。学校の授業や教科書で教えられ、新聞や雑誌に掲載されている封建主義への非難が近代の迷妄にすぎないことを確証していく。
 自由や平等は民主主義に固有なものではなく、むしろ、封建主義のほうが実体のある自由や平等を考えている。また、植民地主義・侵略主義と最も果敢に闘ったのも封建主義である。
 (中略)
 そして曇りなき目で封建主義が眺められるようになった時、行きづまりを露呈させている各種の現代思想にくらべ、封建主義がはるかに可能性に満ちた思想であることが明らかになるのである。》

 しかし、呉智英のこの意気込みは実現されたとは言い難い。
 
 この人は、民主主義を批判する手段として封建主義を標榜しているだけであり、実際には民主主義の改良者としての役割を果たしているにすぎないのではないかということは以前から漠然と考えていたが、小谷野敦が『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)で呉智英を評価しつつも批判し、「隠れ左翼」と指摘しているのを見て、ますますその思いを強くした。
 本心は民主主義の改良ではないかもしれない。しかし彼にはその知識を動員して民主主義の限界を批判することはできても、有効な代案を出すことには成功していない(仇討ち復活など、全く有効ではない)。

 若いころに読んだときには気付かなかったが、2年ほど前に読み返したとき疑問に思った。
 そもそも「封建主義」とは何か?
 「封建制度」というものはある。「封建的」という言葉もある。しかし「封建主義」という言葉はあるか? 

 呉智英は、なんと『広辞苑』に「封建主義」の項目はない!と驚いた上で、こう述べる。

《つまり、定義しにくい、もしくは、定義に値しない曖昧な概念だと封建主義は考えられているわけである。
 (中略)
 「封建主義」の通常の印象に最も近いものが「封建的」という語で、その説明には、「封建制度に特有の性格を持っているさま。俗には、専制的で目下の者の言い分を聞こうとしないさまなどにいう」とある。この説明の前半部分は、辞書によくある同義反復型の説明にすぎず、本来の説明は、むしろ後半部分なのだが、さて期待して見てみると、「俗には」という断り書きのある解釈しかない。ここに、『広辞苑』が「封建主義」という言葉を採り上げず、「的」というどんな言葉にもとっつけることができる曖昧なかたちのほうを採用した賢明さが現われている。それは「封建主義」と明確に言いうるようなものはなく、ソレ的なものが、一般に何となく通用している現状を反映しているからだ。》

 この文章は何だろう。最初は定義しにくいから載っていないと言い、後では封建主義ではなく封建的が通用しているという。 そもそも「封建主義」という言葉は81年当時実際に使われていたのか? feudalism もism だから封建主義と訳せないことはないが、普通は封建制度と訳すのではないか。自由主義や共産主義と並んで封建主義というものがあるかのような呉智英の説明は苦しい。

 そのあと、『新明解国語辞典』では、「封建主義」も「封建的」も載っていて同じような説明がなされているとあるが、私は、「封建主義」という語は、「封建的」と同義の、悪い意味で使われる一種の俗語であり、広辞苑が採用していないのも理解できないわけではなく、それをオリジナルな思想としてとらえるのは呉智英の独創ではないかと考えている。
 呉智英自身、あとでは次のように述べている。

《ここで一つ、あたりまえのことながら往々にして忘れられていることを指摘しよう。封建制度なるものは、たしかにあった。しかし、主義といえるような「主義」としての封建主義は、封建時代にはなかったはずだ。》

 そのとおりである。誰が忘れているというのだろう。封建時代にはおろか、近代以降にもあったと言えるかどうか、私は疑問である。
 さらに呉智英はこのように述べる。封建主義は民主主義のネガである。民主主義を進めていくに当たって、古い現実をひっくるめて「封建主義」という名称を与えた。しかし、民主主義に欠点はないのか。それがあきらかになれば、封建主義は単なる民主主義のネガではなく、「新しき封建主義」の可能性が現われてくるはずである、と。
 確かに、民主主義にも欠点はあるだろう。それが明らかになることで「新しき封建主義」の可能性が現われるという理屈がよくわからない。
 民主主義の欠点は、修正民主主義として克服されるのではないか。仮にその過程で「古い現実」を参考にすることがあったとしても、それは参考にすぎない。「新しき封建主義」を提唱するならば、それは民主主義を否定するところから始まらなければならないはずだ。つまり、君主による専制や、奴隷制を含めた身分制を肯定し、思想や宗教の自由や、生存権を否定する立場を取るはずだ。ところが、呉智英の主張はそのようなものではない。

 「自由と平等は、封建主義で解決できる」という見出しの箇所がある。
 例えば、言論の自由は、①衆知を集める、②異なる意見への寛容、③反政府的言論というように分けられるが、これらはいずれも民主主義特有のものではないという。
 平等についても、イスラエルの問題、リベリアの黒人奴隷輸出のように、民主主義では解決できない現象があるという。
 だからといって、封建主義がどう有効なのか、どう民主主義より優れているのかは明らかにされていない。そうした点が非常に不満だ。

 また、次のような記述がある。

《こういった研究やマンガ〔深沢註:竹内好、島田虔次による儒教再評価、白川静『孔子伝』、諸星大二郎『孔子暗黒伝』〕を知ってから、私は、儒教を中心にして仏教・道教をも加味した封建主義にはっきりと目覚めた。》

《そもそも、無意味に“個”の犠牲を強いる因襲的な家族主義・ムラ主義なんていうものは、封建主義とは関係ないのだ。『論語』陽貨篇にこうある。子曰く、郷源は徳の賊なり》
 
 どうも、呉智英の言う封建主義とは、儒教を中心にして仏教・道教をも加味したものであるらしい。
 しかし、「無意味に“個”の犠牲を強いる因襲的な家族主義・ムラ主義」が「封建的」なものであるというのは、一般的な理解だろう。
 ならば、呉智英は「封建主義」と言うよりも、単に「東洋思想」という言葉を用いるべきではないか。あるいは「呉智英主義」でもいい。封建主義の復権を掲げると称する一方で、封建主義とは本来そのようなものではないと、社会通念とは異なった独自の解釈を示すのは、フェアでないと思う。

 「すべからく」の誤用の指摘や、「支那」を差別語とする見方の否定、新聞報道が「弁護士」などの職業はそのままなのに「大工さん」は「さん」付けすることなど、昔、本書から学んだことは数多いし、影響も受けている。
 しかし、年を経てから読み返すと、著者の主張の根本的な部分に、疑問を覚えざるを得ない。
 また、著者は確かに博識なのだが、その主張の全てが妥当とは言い切れないこともようやくわかってきた。