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日々の思いをたまに綴るブログ。

民主集中制は50年問題の教訓ではない-松竹伸幸除名事件を見て(1)

2023-02-28 17:08:47 | 日本共産党
 日本共産党員である松竹伸幸氏が今年1月に党首公選制を求める著書を出版し、除名された件で、こんなツイートを見かけた。



《日本共産党の痛苦の「50年問題」での総括から生まれた教訓。民主集中制と集団指導の原則があったからこそ、今の共産党がある。進化し続ける自主独立の「綱領」路線と、派閥・分派を許さず、意思統一を重視し国民に責任ある対応の党。それが日本共産党だろう。

少しは学べ!
午後11:06 · 2023年1月30日》

 また、こんなツイートも。



《共産が党首公選制主張の党員を除名へ 規約違反の「分派」と判断 | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20230205/k00/00m/010/223000c 分派禁止は50年代問題を踏まえての反省から来たもの、民主集中制を理解しなければいけない。民主集中制とは民主的なみんなの意見、力を集中させること。個人の独裁ではない。
午前7:30 · 2023年2月6日》

 何だか民主集中制が50年問題の教訓として生み出されたかのような理解をしているように読めるのだが。

 不審に思って調べてみたら、どうも日本共産党自身がそういう発言をしていることがわかった。



《日本共産党(公式)
@jcp_cc
これは、私たちが旧ソ連などからの干渉によって不幸な分裂におちいった「50年問題」からの歴史的教訓のひとつです。

日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か 一部の批判にこたえる|日本共産党中央委員会 https://jcp.or.jp/web_jcp/html/kanbu.html
午後4:56 · 2022年8月25日》



《日本共産党印旛地区委員会
@inbatikuiinkai
民主集中制を含む日本共産党の規約は100年の歴史の教訓です。外国の共産党の干渉で分裂の危機に陥った、そこから「いかなる外国勢力の干渉も許さない自主独立の立場(略)民主集中制と集団指導の原則を貫く」ことにしたのです。
「50年問題」
https://jcp-osaka.jp/pages/100th_monogatari/025-2
午後1:10 · 2023年2月7日》

 しかし、それはおかしい。
 50年問題と分派についての考え方もおかしいが(おって述べる)、そもそも民主集中制は50年問題を契機に日本共産党が独自に採用したものではない。
 民主集中制とはレーニンに由来する世界各国の共産党の組織原理である。

 1917年にロシア革命が成功した後、世界各国に共産党を名乗る政治党派が生まれたが、これらは、マルクス主義やロシア革命に共鳴する各国の共産主義者がそれぞれ独自に結成したものではない。
 1919年、レーニンは、共産主義運動の国際組織としてコミンテルン(共産主義インターナショナル)を創設した。
 1920年、第2回コミンテルン大会は、コミンテルンへの加入を希望する各国の党派に対して、21箇条の加入条件を定めた。
 この条件を受け入れた組織を結成し、そのコミンテルンへの加入が承認されることにより、各国に共産党が成立したのである。
 その21箇条の中に、次のような条件がある。

一二 共産主義インタナショナル加盟の各党は、「民主的中央集権」の原則によって、つくられなければならない。はげしい内乱の現段階で、共産党が自己の義務をやりとげることができるのは、その組織がもっとも中央集権化され、鉄の規律が支配し、党中央が、党員の信頼に支えられて、力と権威を保持し、はば広い全権をもっている場合だけである。(『日本共産党綱領集』新日本出版社、1957、p.10)


 日本共産党が結党以来民主集中制を採用しているのは、この条件に由来する。50年問題は関係ない。
 戦前の党幹部、市川正一(敗戦前の1945年に獄死)の公判陳述に基づき、1932年に非合法出版された『日本共産党闘争小史』にはこうある。

 コミンテルンの指導者と日本の当時の共産主義的な指導者との会議によって日本共産党は一九二二年七月に組織され、同年十一月のコミンテルン第4回世界大会に代表が出席して党の成立を報告し、はじめて正式にコミンテルン日本支部日本共産党としてみとめられた。〔中略〕コミンテルンの第二回大会において可決されたコミンテルン規約ならびに二十一ヶ条の加盟条件、そのほかプロレタリア独裁にかんする指導原理を日本共産党がコミンテルンの一支部として当然承認し、これを日本共産党の根本原理として採用したわけである。〔中略〕
 日本共産党とコミンテルンとの組織的な関係についてはコミンテルン規約につぎのごとく規定している。
「コミンテルンは資本主義の廃絶と共産主義の建設とのために闘争する労働者団体が厳格に集中的な組織をもたねばならぬことを知っている。またコミンテルンは真実に全世界の統一的共産党でなければならぬ。あらゆる国々で活動している諸共産党はたんにコミンテルンの個々の支部にほかならぬ。」
 この集中的な統一的な全世界党としての国際共産党の不可分の一構成要素として日本共産党は組織され、コミンテルンに加盟した。これがコミンテルンと日本共産党との組織的関係の根幹である。〔中略〕
 コミンテルン二十一ヶ条の加盟条件はとくにレーニンが直接起草した厳格なものであり、プロレタリアートにとって歴史的なものである。(市川正一『日本共産党闘争小史』大月書店(国民文庫)、1954、p.64-65)


 結党以来、民主集中制が採用されていたにもかかわらず、50年分裂が生じたのだ。
 したがって、50年問題の教訓として民主集中制が必要だなどという論理は成り立たない。

続く


本の処分に思うこと(2)

2023-02-26 18:05:28 | 身辺雑記
 前回の記事で引用した、中野善夫氏が『本の雑誌』2023年2月号で取り上げていた、清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)。
 清水幾太郎には『論文の書き方』(岩波新書)、『私の文章作法』(中公文庫)といった著作があるのは知っていた(前者は未読)が、こんな新書があって、しかもこんにちまで版を重ねているとは不覚にも知らなかった。
 早速購入して読んでみた。
 すると、こんなことが書いてある。

心の掃除をする
 本に埋もれて生きるというのは、昔から高尚な生き方とされている。そこには、世俗の富貴を求めず、ひたすら真理を憧れて生きて行く人間の姿がある。そこまで考えなくても、今まで買い求めてきた書物、熱心に読んで来た書物、これらの書物には自分の精神の歴史があるとは言えるであろう。そういう本を片端から売ってしまったほうがよいと言っているのではない。しかし、自分の精神が或る成長を遂げた結果、自分との間にもう有機的な関係のないような書物、極端な言い方をすれば、一種の垢のような書物、そういう書物が身辺に蓄積されていることがある。直ぐ読まなくても、新しい本を買うと、環境に新しい要素が加わり、それが新鮮な刺戟になる、という意味のことを前に述べた。それが、知らぬ間に、私たちを新しい勉強に誘い込む。似たことは、垢のような書物についても言える。垢のような本も、それはそれで、私たちの環境を組み立てている要素であり、私たちが手に取って読まなくても、そこに存在するというだけで、私たちに語りかけ、私たちの心を古い軌道にとどめる働きをする。「夢の島」ほどではないにしろ、ひどく汚染された環境の中に私たちが住み慣れていることがある。時々、環境を調査して、垢のような、塵芥のような本を売り払った方がよい。もちろん、今は垢であり塵芥であっても、買った時には、私たちの心に新鮮な刺戟を与える書物であったのであるから、いざ、売るとなると、誰でも小さな決意が必要になる。もう一度、繰り返して言うが、私は、無理に売ることを勧めているのではない。考えた末、占いと決心したのなら、それも結構である。いけないのは、ズルズルベッタリの態度である。結果として、売ることになったにせよ、売らないことになったにせよ、小さな決意を通して、環境の清掃だけでなく、心の掃除をした方がよい。〔中略〕お金のことは知らないが、本は、溜まるほどよいとは限らない。(p.118-120)


 中野善夫氏が引用していたように、確かに清水は、本は借りるのではなく自分で買うべきものだと言い、今すぐ読まないとしても気になる本はまず買っておくべきと言ってはいるが、天に届くまで積み上げろとは言っていない。時には売り払うことも必要だと言っている。

 そういえば、昔々読んだ呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)も、新陳代謝を促すため本を売ることを勧めていた。
 10年ぐらい前に買って何度も読み返している岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013)も、
「蔵書は健全で賢明でなければならない」
「溜まりすぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
「下手をすると〔蔵書は〕三万冊ぐらいあるのかもしれない。年に一千冊の本を触るなり、読むなり、一部を確かめたりしたとしても、すべきを触り終わるには三十年かかる。これからも本は増えていくに決まっているし、いくらなんでも、それは健全ではないだろう」(p.26-27)
と述べていた。
 同じような話だな。

 このたび清水『本はどう読むか』を読んでみて、本の処分を進める意志をますます強くした。


60年安保騒動は「戦後民主主義擁護の闘い」だったか

2023-02-24 08:08:29 | 日本近現代史
(以下の文章は、2020年5月9日に朝日新聞に掲載された、60年安保騒動についての特集記事を読んでの感想である。
 大部分はその頃に書いたものだが、完成させずに放置していて、昨年書き終えたものの、公開するのをを忘れていたものである。
 完全に時機を逸しているが、この感想は今も変わっていないので、これ以上古くならないうちに、公開しておく、)

 2020年5月9日付朝日新聞は「歴史特集 日米安保」の第2回「「転機」 60年安保改定、岸信介の強行と退陣」を載せた。1ページ丸々充てた特集記事だ。
 それを読んで、昨今60年安保が語られるのを聞いて受ける違和感を改めて覚えた。

 かつて軍部と組んで権力中枢を担った岸が戦後に目指したのは、占領下で制定された憲法を改正し、強い国家を再建することだ。吉田が結んだ51年の安保条約は、占領を継続する屈辱的内容だと批判していた。
 岸は、保守勢力を束ねて55年に自由民主党を結成。57年に首相になると安保改定を目指した。岸を反共指導者と見た米国も応じた。60年1月19日、新条約がワシントンで調印された。

 ■もはや問答無用
 この時点で、世論の評価は必ずしも否定的ではなかった。新条約は米国の日本防衛義務を明記し、内政関与につながる「内乱条項」を削除。対等性が増したことは間違いなかった。
 だが、思わぬ展開になった。両国はアイゼンハワー大統領が6月19日に国賓として訪日することで合意。日本としてはそれまでに条約に必要な国会承認を得たい。条約は衆院で承認されれば、参院で承認されなくても30日で自然承認される。訪日1カ月前が衆院のデッドラインになった。
 国会はもめた。条約に定める「極東」の範囲はどこなのか。「事前協議」に日本側の拒否権はあるのか。
 岸は「もはや問答無用というのが偽らざる気持ち」(「岸信介回顧録」)となった。5月19日深夜、警官隊が社会党議員を排除、自民党単独で衆院本会議で会期延長を可決し、引き続き条約承認を決めた。 
 戦前の岸を覚えていた国民は激しく反発した。
 オピニオンリーダーの東大教授丸山真男は訴えた。「権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません」(「選択のとき」)。安保論争は、戦後民主主義擁護の闘いとなった。
 

 ここに書かれている旧日米安保条約と改定後の対比は正しい。

 旧条約は、日本は自国を防衛する有効な手段を持たないから、米国の駐留を「希望する」となっている。しかし、米国に日本を防衛する義務があるとはなっていない。
 おまけに、第1条では、

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


と、外国によつて引き起されたわが国の内乱や騒擾に対しても米軍が出動できるとなっている。

 これを改め、米国の日本防衛義務を明記し、内乱条項を削除したのが、1960年の新条約である。
 結構なことではないか。

 では何故、あれほどの広範な反対運動が起こったのか。
 記事が述べるように、岸政権がアイク訪日に合わせてデッドラインを引き、衆院で強行採決を行い、それに世論が強く反発したのは事実である。
 だが、それ以前から、安保改定は政治の争点になっていた。

 1959年3月、「安保改定阻止国民会議」が結成された。これは、社会党、総評、中立労連、原水協(原水禁が分裂する前の)、日中国交回復国民会議など13団体が幹事となり、当初134の団体が参加した。翌年3月には1633団体にまでふくれあがったという。共産党はオブザーバーとして参加した。
 国民会議は計19回に及ぶ統一行動を実施した。その参加者は労働組合員と全学連の学生が大多数を占めていた。

 では何故、社会党や共産党は安保改定に反対したのか。
 彼らは、そもそも、旧安保条約にも、それと同時に結ばれたサンフランシスコ平和条約にも反対であり、在日米軍にも自衛隊の存在にも反対だった。
 東西対立の時代に、西側の一員であること自体に反対し、非武装中立を主張していた。
 1959年3月、社会党の浅沼稲次郎書記長は、北京での演説でこう述べた(当時まだ日中に国交はなかった)。

極東においてもまだ油断できない国際緊張の要因もあります。それは金門,馬祖島の問題であきらかになったように,中国の一部である台湾にはアメリカの軍事基地があり,そしてわが日本の本土と沖縄においてもアメリカの軍事基地があります。しかも,これがしだいに大小の核兵器でかためられようとしているのであります。日中両国民はこの点において,アジアにおける核非武装をかちとり外国の軍事基地の撤廃をたたかいとるという共通の重大な課題をもっているわけであります。台湾は中国の一部であり,沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います。(拍手)〔太字は引用者による〕


 いわゆる「米帝国主義は日中国民共同の敵」発言である。
 ここに見られるように、台湾は中国に併呑されるべきだというのが、当時の左翼の立場だった。
 もちろん、朝鮮半島においては北朝鮮が正統な政権であり、韓国は米帝国主義の傀儡だと見ていた。

 1959年7月、社会党右派の西尾末広は、現行条約に代わる新しい安保体制をどうするかという具体的な対案のない単なる反対運動は駄目だという趣旨の発言をして、左派の反発を招いた。同年9月の党大会では西尾を除名するかどうかが問題となり、統制委員会に付することになった。西尾は10月に離党し、1960年1月に民主社会党(のちの民社党)を結党した。

 また、1959年3月、砂川事件について、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、在日米軍の存在は憲法違反であるとの判決を言い渡した(12月、最高裁判決により破棄)。

 このような時代背景を忘れてはならない。

 「「極東」の範囲はどこなのか」は確かに国会で論戦となった。
 しかし、「極東」の範囲を明確にすることに何の意味があったのか。
 原彬久『岸信介』(岩波新書、1995)にこうある。

社会党の安保特別委員の一人飛鳥田一雄は、「あの議論はわれわれ自身バカバカしいと思ったが、大衆性があった」と回想する(飛鳥田インタビュー)。
 確かに「極東の範囲」は、理論的にはほとんど意味をなしていなかった。なぜなら、在日米軍の行動はそれが「極東の平和と安全」(第六条)を目的とする限り、地域的に制約されないのであって、「極東の平和と安全のためならば極東地域の外に出て行動してさしつかえない」(『安全保障条約論』)という旧条約上の論理は、新条約においても正しいからである。(p.217)


 岸が「もはや問答無用」となったのは何故だろうか。
 それは、院外の反対運動の盛り上がりに加え、野党第1党である社会党の姿勢に全く妥協の余地がなかったからである。
 原の同書にはこうもある。

「政府与党が批准を断念する以外に社会党が納得する方法がないとすれば、もはや問答無用というのが偽らざる気持ちだった」(岸インタビュー)(p.218)


 少数党が座り込み、院外で反対派が吠え立てれば、審議を中止して批准を断念するのが、戦後民主主義のあり方なのだろうか。
 それでは、少数派が多数派を支配することにならないか。

 仮に安保改定が成立していなければどうなっていただろうか。
 安保改定は、もちろん米国が持ち出した話ではない。岸が主導して、米国を了承させたものだ。

 米国は岸を信頼して不利になる条約改定に応じたのに、それが日本国内の事情で失敗に終われば、米国のわが国に対する不信感は増しただろう。
 改定は遠のき、わが国にとって不利な条約が継続することになっただろう。沖縄や小笠原の米国からの返還だって、どうなったかわからない。

 また、社会党や共産党、労働組合や全学連はいざしらず、国民一般は、岸の強引な政治手法に反発したのであって、安保改定そのものはもちろん、日米安保にも自民党政権の継続にも必ずしも反対ではなかった。
 だから、岸退陣後に成立した池田政権に退陣が要求されることはなく、1960年11月に行われた衆院選は自民党の大勝に終わった。
 日米安保条約は、改定により10年ごとに延長されることになった。1970年の延長に際しては、学生運動が延長阻止を主張したが、それは国民に広く浸透することはなかった。そして、80年から後は延長が政治的争点になることもなかった。
 1993年に自民党が下野し、誕生した細川政権の一員となった社会党は、自衛隊を合憲と認めた。

 とすれば、岸信介の決断は正しかったのではないか。
 となると、安保闘争は誤っていたということになるのではないか。

 この朝日の記事で、山本悠里記者は、

 ■闘争の意味は、終わらぬ問い
 国会議事堂を幾重にも人が取り囲み、抗議の叫びが続く。平成生まれ、28歳の私にとって、「60年安保」とは白黒の映像や写真だ。しかし、今と断絶した昔話ではない。あの闘争とは何だったのか。市民の怒りは無力だったのか。60年安保の意味を、なおも問いかける人々がいる。


として、反対運動に加わった父をもつ木版画家と、2015年にSEALDsで安保法制に反対した活動家の発言を紹介し、

 風間さんや牛田さんを通じて浮かぶのは、直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義ではないか。


と述べている。

 こんにちでも、安保改定は誤っていた、旧条約のままで米国にわが国の防衛義務など持たせない方がよかったと思うのなら、そう主張すればよい。
 あるいは、在日米軍も自衛隊も不要である、非武装中立を目指すべきだと思うのなら、そう主張すればよい。
 そうするわけでもなく、「あの闘争とは何だったのか」との問いに、「直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義」などを説いて、何になるというのだろうか。
 そんなものは、わが国は米英の侵略を防ぐためやむにやまれず立ち上がったとか、大東亜解放のための戦争だったとかいったフィクションを信じ、特攻に殉じた若者の純粋さを賛美する姿勢と何も変わらないのではないか。


選択的夫婦別姓が「不自然な少数」によって切り崩された?

2023-02-20 11:59:02 | その他のテレビ・映画の感想
 朝日新聞テレビ・ラジオ欄の島崎今日子氏のコラム「キュー」をいつも楽しみに読んでいる。

 1月8日には、のっけから

 プログラムが、徳川家康だらけになっているNHK。年明けの「ニュースウォッチ9」でも、大河の番組宣伝をいれてきたのには驚いた。せめて番組の最後に流すとか、公共放送の報道番組としての気概を見せたらどうなのか。


との厳しい指摘。全く同感だ。

 そして島崎氏は、NHKは年末に冤罪事件を扱った特番でドキュメンタリーの力を見せつけたのにと嘆き、

冤罪事件では、大きな力が個人を踏みつけていくという構造がどれも同じなのが、恐ろしい。
 と思っていたら、2日、Eテレで放送された「100分deフェミニズム」でも、法制化寸前までいった選択的夫婦別姓が「政治的に非常に誇大化された勢力が潰した。自然な多数ではない、不自然な少数による大きな力が加わって切り崩された」との発言があった。発言者は、歴史学者の加藤陽子さん。 


と指摘。

 私はこの「100分deフェミニズム」は見ていないのだが、ここで挙げられている加藤氏の発言には違和感を覚えた。

 法制化寸前までいったとは、1996年に、法制審議会が、選択的夫婦別姓を含む民法改正要綱を答申したものの、自民党の反対にあって、国会提出に至らなかったことを指すのだろう。

 だがこの時、夫婦別姓は、多数の国民の支持を得ていたと言えるのだろうか。
 もし本当にそうだったのなら、大問題になっていたのではないか。
 私はこの頃、既に就職していたが、職場の上司が、時期尚早ではないかとつぶやいていたのを記憶している。

 内閣府のサイトに掲載されている、1995年(平成8年)6~7月に行われた世論調査において、選択的夫婦別姓に関する質問と回答は次のようになっている。

Q11 回答票17〕現在は,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗らなければならないことになっていますが,「現行制度と同じように夫婦が同じ名字(姓)を名乗ることのほか,夫婦が希望する場合には,同じ名字(姓)ではなく,それぞれの婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めた方がよい。」という意見があります。このような意見について,あなたはどのように思いますか。次の中から1つだけお答えください。
(39.8) (ア) 婚姻をする以上,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり,現在の法律を改める必要はない(Q12へ)
(32.5) (イ) 夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には,夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない(SQへ)
(22.5) (ウ) 夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが,婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては,かまわない(Q12へ)
( 5.1) わからない(Q12へ)


 反対 39.8%、賛成32.5%、同姓だが旧姓使用可に改めるが22.5%となっている。
 これで、反対派が「不自然な少数による大きな力」だと言えるだろうか。

 当時法務官僚だった小池信之氏は、2022年4月の東京新聞のインタビューで次のように述べている(太字は引用者による)。

—96年、法制審が選択的夫婦別姓制度を含む民法改正案を答申したが、国会提出に至らなかった。
 法案を国会に提出する前に自民党の審査をパスする必要があったが、それができなかったからだ。当時、法制審の事務局として、議論を取りまとめたり、国会議員に説明に回ったりした。感覚的には自民党議員の8〜9割が反対していた。
 —どうして自民党議員は反対したのか。
 理由はおおよそ5つぐらいに整理できる。
 まず、当時はまだ「なぜ婚姻の際に旧姓を名乗り続ける必要があるのか理解できない」という意見がかなりあった。
 次に「旧姓の通称使用を広げればいいのであって、民法を変えるまでもない」との意見だ。
 最も多かったのが「家族の一体感の維持」との意見。つまり「夫婦と子どもが氏を同じくすることによって家族の絆や一体感、連帯感が守られている。制度導入で絆の弱い家族が生まれ、日本社会にとって好ましくない」というものだ。
 ほかに「氏は家族のもので、個人のものではない」との意見もあった。戦前の家制度がなくなった今も「○○家の墓」などにみられるように、氏が家の名称として機能している面があるとの認識に基づくものだ。
 少数ながら「夫婦同氏は日本社会の伝統、良き風習であるから、守るべきだ」という意見もあった。夫婦同氏制を一種の慣習法、不文法とみる考えだろう。
 —自民党に賛成議員はいなかったのか。
 公の場で賛成と発言されたのは、記憶している限りでは、当時の野中広務幹事長代理、佐藤信二議員、森山真弓議員(以上故人)、現職の野田聖子議員ぐらいだったと思う。
 私自身は制度導入について婚姻時に夫婦の氏の選択肢が一つ増える、一種の「規制緩和」と認識していた。ところが自民党に説明に行ったら、日本の伝統、家族の絆といった家族論や価値観の次元の問題と捉える意見が多く、これは容易なことではないと痛感した。
 —制度導入の可能性をどうみるか。
 法案提出を断念した26年前は、自民党の反対論が非常に強いと感じたので「あと1世紀は駄目だろう」という感触を持った。今は党内に議連ができ、議論ができるまで進展したのは間違いない。ただ、子どもの氏をいつ、どうやって決めるのかなど、難しい課題が残っている。
 夫婦同姓を強制している国は、おそらく日本だけだろう。旧姓使用の拡大では、二重の氏を認めることになり、国際的にも通用しないのではないか。
 最大の決め手は国民の意向だろう。自分は同姓で結婚したいと思っている人たちが、「国の制度としては、別姓で結婚したい人たちの希望をかなえる制度が必要だ」と考えるようになるかどうか。そのためにもオープンな場でこの問題を議論するのがフェアなやり方だ。法案を提出し、衆参両院の法務委員会で議論をし、地方でも公聴会などを開くべきではないか。


 この頃自民党は、過半数を割っていたとはいえ第1党である。その「8〜9割が反対していた」というのが、「政治的に非常に誇大化された勢力」「自然な多数ではない、不自然な少数による大きな力」だと言えるだろうか。

 その後、夫婦別姓賛成派は増加している。だが90年代当時からそのような状況にあったわけではない。加藤氏は過去の事実を誤って認識してはいないか。
 歴史学者が歴史修正主義に陥ってしまっては、笑い話にもならない。

本の処分に思うこと

2023-02-19 14:05:14 | 身辺雑記
 一昨年の後半から、何度か本をまとめて段ボールに詰め、宅配買取で売却している。

 それまで、本の処分といえば、重いのを我慢して古書店やブックオフに持っていって売るか、値段の付かなそうなものをひもでしばって紙ごみの日に出すか、その二通りしかしていなかった。

 私は、蔵書家というほどではないが、一般的な目で見れば、まあまあ本を持っている方だと思う。
 本棚は複数あるのだが、常にいっぱいで、床に本が積まれている状態である。
 転居をしたこともあるが、もう20年以上こんな状態である。
 際限なく床積み本が増えて足の踏み場もないということにならなかったのは、さすがにある程度は処分していたからだが、それでも家人から非難されながらも、床積み本がなくなることはなかった。

 しかし、一昨年あたりから、これではいかんと思うようになった。
 理由は3つある。

 1つめは、美観を損ねること(今更…)。
 2つめは、本がどこにあるかわからなくなること。買ったことをうっかり忘れて、同じ本を二度買ってしまったことも何度かある。
 そして3つめは、新しい本を買っても本棚に並べることができないため、本の新陳代謝が妨げられ、知見のアップデートができなくなることだ。

 本棚に並べている本のうち、既に読んだものは、感動したり、指摘の鋭さにうなされたりした、思い出深いものばかりだ。
 しかし、私がそれらを読んだのは、多くは10~20年、あるいはそれ以上前のことで、出版もその頃かそれ以前で、現代では評価が見直されているものもあるだろう。
 また、当時私にとって重要なテーマであったが、今となってはもうあまり興味を引かれないものもある。
 私は何らかの学者でも教員でも専門家でもジャーナリストでもライターでもない。蔵書を仕事に活用することはない。ただ趣味で読書をしているだけの人間である。そんな者がこれほどの蔵書を抱え込んでいる必要が果たしてあるのか。
 そして、ネットの発達により、古書の入手は容易になり、電子書籍も普及し、資料や文献を入手する手段も増えた。
 紙の本にこだわる必要がどこまであるのか。

 それに、私はもうン十台半ばとなった。この歳であとどれだけの本を読んで、いかほどのことを成し得るというのか。

 そんな思いから、それまで以上に大量に本を処分していくことにした。

 それまで、私にとって、古書店やブックオフでの処分は、直接持っていくことしか考えておらず、それが高いハードルになっていたのだが、今どきのことだからネットでも買取をやっているのかと調べたところ、ブックオフや類似の業者が多数行っており、自宅に集荷に来てもらうこともできると知り、それでハードルだいぶ下がった。
 さらに、一点一点買い取り価格を確認することもでき、業者によってかなり価格に差があることもわかった。

 そうして、これまで数百冊宅配買取に出し、値段が付かないものは紙ごみに出してきた。
 それでもまだ本棚はいっぱいで、床積み本の山もまだ残っており、さらに処分を進める必要がある。
 これまでも吟味して取捨選択してきたが、いよいよ処分するのがかなり惜しまれる部類に入っていくことになる。
 
 『本の雑誌』2023年2月号が「本を買う!」特集をやっていた。
 中野善夫氏が本を買うことの大切さを力説している。
 こんまりさんのベストセラー本の一節「その「いつか」は永遠に来ないのです」に対して、
しかし、あなたはまだ若い。買って四十年経ってから読む本があることを知らないだけである。永遠とはそんなに短い時間ではない。

と述べている。
 そしてさらに、清水幾太郎のロングセラー『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)を引用して、本は図書館などで借りるのではなく、自分で買うべきものであるとし、また中野氏が同書の教えを真に受けて、読めもしない洋書の小説を買って手元に置いていたら、そのうち読めるようになり、やがて翻訳の仕事もするようになり、「三十年前、四十年前に買った本が重要な資料となった」という。
 中野氏は述べている。
今日明日読む本だけを買っていてはそれこそ駄目だ。いつか読む本を今買いなさい。迷うことなく、今この瞬間に。そして、積みなさい。天に届くまで。


 そりゃあそういうこともあるだろう。そういう人もいるだろう。
 本を置くスペースが十分にあるのなら、あるいはそれらの本が仕事の資料となることがあるのなら、それもいいだろう。

 私は、四半世紀ほど前にPCゲームに興味があって、海外のPCゲーム雑誌を時々買っていた(PCゲーム専門店や紀伊國屋書店で、そうした雑誌が売られていた)。
 付録のCD-ROMでゲームを遊んだりはしたが、それらの雑誌を読みこなすことはできなかった。
 また、やはり四半世紀ほど前に購入したまま読んでいなかった本を、最近、本棚の整理をしたときに読んでみたこともある。
 しかし、そのテーマは既に私の中では色あせていたため、大した読後感を得ることはできなかった。

 人間の能力には限界があるし、環境にも制約がある。
 そして、本を読むべき時機というのも、やはり重要ではないか。

 とりあえず、私が今興味をもっているテーマについて、ある程度まとまった冊数の本が必要だが、それを手元に置くには、ほかの本を処分しなければならない。
 昔読んで感銘を受けた本には、確かに愛着がある。再読することでその気持ちを甦らせることもできるだろう。
 だが、それを再読する必要性が、私にとって、果たしてどれだけあるだろうか。あるとして、それは、今興味をもっているテーマについての本を手元に置く必要性を上回るものなのか。
 仮に手放したとしても、必要があれば、それを再度入手することは容易ではないか。これまでン十年生きてきて、手放した本のうち、再度入手したものがどれほどあるだろうか。
 そう思って、処分を進めていくしかないだろう。