トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

朴槿恵大統領就任を伝える朝日の報道にいくつか思ったこと

2013-02-27 00:52:35 | 韓国・北朝鮮
 朴槿恵の韓国大統領就任を報じる朝日新聞2月25日夕刊の社会面に、こんな記事が載っていた。

竹島問題「まず友好図って」

朴・韓国大統領 懸念と期待

○隠岐の島
 竹島問題の前進に期待するのは、島根県隠岐の島町の関係者ら。〔中略〕

「軍事独裁支えた人」

○日本から一票

 昨年の韓国大統領選では、国外在住者に初めて投票が認められた。
 韓国留学中の1975年に「北朝鮮のスパイ」として拷問、投獄され、昨年5月に再審無罪が確定した在日韓国人○○○さん(58)=○○市=〔引用者註・記事では実名と実市名〕は「大統領を自ら選ぶ喜びはあったが、さすがに朴氏に投票する気になれなかった」と話す。60~70年代に軍事独裁を敷いた朴正煕大統領の長女であり、74年に暗殺された母親に代わりファーストレディーを務めたことから、「独裁を支えた一人」と思うからだ。


 記者が言いたくても言えないことを代弁してもらっているのだろうか。
 あるいは、あうんの呼吸というヤツか。

 子は親を選べない。
 朴正煕の娘に生まれたのは朴槿恵の責任ではない。
 朴正煕の夫人が射殺されたため、代わってファーストレディーを務めざるを得なくなった二十歳過ぎの女性が「独裁を支えた」ことになるのか。

 ただ「国民が選んだ大統領でもある。朴氏は過去を反省し、国民のための政治で韓国の民主主義を発展させてほしい」と期待した。


 人は自分に責任のないことを反省することはできない。
 もし反省を表明するとしたら、それはポーズにすぎない。

 朴正煕の娘であるが故に父の罪を反省すべきと言うのなら、朴槿恵の母である陸英修を暗殺したのは誰なのか。
 在日韓国人の文世光である。
 この人物は、同じ在日韓国人として文世光のような者を生み出したことを反省しているだろうか。

 この人物自身がどうなのかは知らないが、この在日留学生スパイ集団事件で有罪とされた者の中には、北朝鮮シンパがいた。実際に北朝鮮と接触していた者がいた。
 そしてこの時代――それ以後もこんにちまで――北朝鮮では朴正煕政権以上の圧政が敷かれていたのではなかったか。朴正煕の独裁強化にはそんな北朝鮮の脅威に対抗する意味合いもあったのではなかったか。
 北朝鮮の状況は一顧だにせず、韓国では軍事独裁が敷かれている、民主化運動が弾圧されていると非難し続けた人々。彼らもまた北朝鮮の「独裁を支えた一人」一人ではなかったか。

 2月26日付けの天声人語も朴槿恵大統領就任を扱っているが、こんな一節がある。

▼親子2代も女性も、韓国大統領で初になる。むろん七光り抜きには語れない。だが父母を殺され涙をからした半生は、乳母(おんば)日傘(ひがさ)のひ弱さとは無縁らしい。天下国家は男の仕事、とされがちな儒教文化圏で殻を破った強靱(きょうじん)さはなかなかのものだ


 「七光り」とは、辞書(デジタル大辞泉)によると、

親や仕えている主人などのおかげで、いろいろな形の利益を受けること。「親の―」


とある。
 朴槿恵が大統領になったのは、もちろん父朴正煕が大統領であったことと無縁ではないだろう。そうでなければ、そもそも彼女が政界入りしていたかどうかも疑わしい。
 しかし、彼女が政界入りしたのは1998年。父の暗殺から20年近く経っている。民主化からも10年ほど経ち、情勢は父の時代とは大きく変化している。
 「七光り」とはいささか不適切な表現ではないだろうか。
 彼女は父の存在によりいったいどれほど「利益を受け」てきたと言えるのだろうか。むしろ不利益も多大に受けてきたのではないだろうか。
 そして「なかなかのものだ」という上から目線は何だろうか。米英仏独やロシアや中国などで2世の女性政治家がリーダーとなっても、同じ表現が採れるだろうか。未だわが国より規模が小さく、かつ独裁者の娘だからという気の緩みがあるのではないか。

 同じ日の社説もこの件を取り上げている。

韓国新大統領―静けさからの出発

 テレビで就任式を見て新鮮に感じた人も多かっただろう。

 韓国の新しい大統領になった朴槿恵(パククネ)氏のことである。男社会のイメージが強い韓国に、日本や中国、米国より早く女性リーダーが登場すると予想した人が何人いただろうか。


 ヒラリー・クリントンが実際に大統領候補となった米国はともかく、何でここに中国が出てくるのか。しかも米国より先に。
 中国にかつて女性リーダーの候補がいただろうか。数年前には第一副首相に呉儀が就いていたが党では政治局員止まりであり、最高幹部である政治局常務委員ではなかった。朴槿恵大統領の就任式に出席した劉延東・国務委員も政治局員にとどまっている。中国に女性リーダーが誕生するなど、共産党政権が続く限り、当分は有り得ないだろう。

 一方、アジア各国には、世界初の女性首相であるスリランカのシリマヴォ・バンダラナイケをはじめ、女性のリーダーは何人も存在する。インドのインディラ・ガンジー首相、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、パキスタンのベナジル・ブット首相、バングラデシュのジア首相、インドネシアのメガワティ大統領、タイのインラック首相、等々。
 これらはいずれもいわゆるネポティズムによるものであり、朴槿恵についても同様の評価もできようが、こうした実例が多々あることからも、政界入り当時はともかく2004年にハンナラ党の代表に就任してからは、男社会云々にかかわらず、彼女が将来大統領の座を射止めると予想した人は、少なからずいるのではないだろうか。

 1960~70年代の大統領として経済発展をとげた半面、民主化運動を弾圧した朴正熙(パクチョンヒ)氏の娘。いわば生まれながらの保守なのに、選挙戦で「経済民主化」「民生」「福祉」など野党のような政策を打ち出した。


 「民主化運動を弾圧」するのが「保守」。
 「民生」「福祉」を「打ち出」すのは「野党」。
 朝日の「保守」観、そして「野党」観が実によくわかる。


再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心

2013-02-24 10:21:28 | 領土問題
 タイトルは変えましたが、以前の記事「オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について」の続きです。

 タイトルを変えたのは、私の記事を「ダシに」してオコジョさんが書かれた

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など

及びそれらに対する私からの反論に対して書かれた

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題

の4つの記事についての反論、弁明、論評は前回までで終了し、今回からは、オコジョさんが、私の記事に対してではなく、北方領土問題に対するご自身の見解を明らかにされるために書かれた

「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?

「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲

の2つの記事を取り上げるのですが、これらはもはや「オコジョさんの指摘」ではないからです。
 そして、この2記事を、オコジョさんに倣って言えば「ダシに」して、北方領土問題を考察してみたいと思ったからです。
 「再び」と冠したのは、以前にmig21さんというYahoo!ブロガーの記事に触発されて、「北方領土問題を考える」というタイトルの記事を書いたことがあったからです。

 さて、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」は、前半部で、北方領土問題発生の経緯を説明しています。

 日本はこれまでずっと一貫して、千島列島を放棄したこと(面倒なので今後いちいち南樺太にはふれません)自体は否定していません。
 「千島列島は確かに放棄したが、その中に○○は含まれない」という構成の議論をしていたのです。
 この「○○」が当初は「歯舞・色丹」だったのが、その後「南千島」も該当すると言うようになり、「南千島」という言葉自体が主張と矛盾するので、無理矢理「北方四島→北方領土」という新語をでっち上げたのが、歴史が語る経緯です。


 このように語られる経緯は、いくつか気になる表現はありますが、おおむねそのとおりだと私も思います。
 岩下明裕氏の著書の引用により語られる部分も同様です。

 なお、

(ちなみに『回想十年』の中の吉田の記述、将来を見越して「択捉・国後」への領有権を担保しておいた旨の記述は虚偽であることが、公開された外交文書によって既に証明されています)


 これは、私が以前の記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、吉田が『回想十年』でサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」から南千島を除くよう求めていたとして、該当箇所を引用したことに対応しているのでしょうか。
 こういう時は、公知の事実ではないのですから、いつ誰がどのようにして「既に証明」したのかを明記していただきたいものです。
 和田春樹氏の『北方領土問題』(朝日選書、1999)p.210及びp.222-224には吉田の回想は虚偽であるとの主張がありますので、これを指しておられるのでしょうか。
 確かに、ここでの和田氏の主張には強い説得力を覚えます。しかし、「証明されてい」るとまでは言えないと思います。
 本筋から外れるのでここでは多くは述べませんが、和田氏は外交文書にその種の記述がないこと、さらにダレスが後年吉田は択捉、国後をクリル諸島から除くよう求めなかったと述べたと米外交文書にあることを主な根拠としていますが、文書に記録されなかった可能性、ダレスが虚言を述べている可能性もあるからです。

 しかし、次の箇所については同意できません。

 ここまでの話から、
「北方領土」返還論の帰趨が「千島列島の範囲」をどう捉えるかにかかっている、ということが明確になったと思います。
 具体的に言うなら、
「択捉・国後」は日本が放棄した「千島列島」に含まれるのか、含まれないのか?
これが、問題の核心です。
 他のあれこれは、何ら本質的な問題ではありません。「固有の領土」がどうこうというのも単なる心情論です。現在に対置された過去へのノスタルジーが、外交交渉の根拠になるはずもないでしょう。


 ものすごい切り捨てっぷりです。

 1980年代だったと思うのですが、渡部昇一氏の言説に対して、一点突破主義との批評があったことを思い出しました。
 ロッキード事件で、嘱託尋問調書の証拠能力を最高裁が認めたのは違法である。したがって、田中角栄は無罪である。
 教科書検定で、文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとの誤報があった。したがって、文部省は検定でその種の書き換えを命じたことはなく、いわゆる教科書問題は「萬犬虚に吠えた」ものだった。
 論点を自説に都合の良い一点だけに絞り、それを全体に拡大させるという手法です。
 私はオコジョさんの論法にも同様のものを感じます。

 択捉、国後はわが国がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれる否かは、論点の1つではありますが、問題の核心ではありません。
 何故なら、オコジョさんも言及しているとおり、ソ連はサンフランシスコ平和条約を締結していません。そしてサ条約には

   第二十五条

 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。


とあります(なお、留保されている第二十一条の規定とは、中国と朝鮮の権利に関するものです)。
 したがって、わが国が「千島列島」を放棄したのはサンフランシスコ条約を締結した国々に対してであり、ソ連に対してではありません。
 この点について、オコジョさんは、

 この事情が「北方領土」問題を込み入った、たいへん面倒なものにしています。
 しかし、ことがら自体は実はまったく単純だというのが私の考えです。


として、ソ連がサ条約に署名しなかったにしろ、ポツダム宣言には「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とあり、

 上にいう「吾等」は連合国ですね。
 ポツダム宣言を受諾することで降伏した日本は、6年後その条項を基礎にして講和・独立します。
 その講和にあたって、「吾等」はポツダム宣言にあった「諸小島に局限」の部分を具体的に決定しました。千島列島が日本のものではないというのは、その決定内容の一つです。

 日本の領土でなくなった千島列島は、どこに帰属することになるのか――それは「吾等」の中での話であって、日本は関係ありません。
 だから、あとになってソ連に対して、その千島列島の一部を返還要求するなどという理屈はなり立たないのです。


と説きます。
 しかしそれを「具体的に決定」したサ条約にソ連は加わっていないのですから、これは意味をなしません。わが国とソ連の間では、わが国が「千島列島」を放棄することは「決定」されていないのです。
 また、後述するように、ポツダム宣言は、連合国が恣意的にわが国の主権が及ぶ諸小島を決定してよいという内容ではありません。ある重大な留保が付されています。

 そして、サ条約に言うところの「千島列島」の範囲を定義するのは、わが国を含むサ条約締結国であって、ソ連にはその権利はありません。
 したがって、サ条約締結国であるわが国が、放棄した「千島列島」には択捉、国後は含まれないと主張し、他の締結国がそれに異を唱えなければ、サ条約に言うところの「千島列島」には択捉、国後は含まれないことになるのです。そして米国や英国はわが国のこの主張を支持し、他方これに異を唱えている国があるとは聞きません。
 しかし、ソ連はそんなことはおかまいなしに択捉、国後を実効支配し、ロシアもそれを継承しています。そもそもソ連が千島列島及び歯舞、色丹を自国領に編入したのは1946年2月のことであり、サ条約とは何の関係もありません。

 さらに、仮に、択捉、国後がサ条約で放棄した「千島列島」に含まれるとしても、それによってわが国がその返還をソ連に要求してはならないということにはなりません。事実、そうした立場をとる論者もおられます(次回で詳しく述べます)。

 ですから、択捉、国後が放棄した「千島列島」に含まれる否かは問題の核心ではないのです。

 では、問題の核心は何か。

 オコジョさんが引用されているポツダム宣言の箇所には、その前にカイロ宣言への言及があります。オコジョさんはおそらく意図的にこれを省いています。この条項は、正確にはこうです

八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 カイロ宣言とは、1943年に米中英3国の首脳名で発表された、連合国の対日方針を示したものです。
 その文中に、次のようにあります

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス


 日本の侵略に対する懲罰が戦争の目的であり、領土拡張の念を有するものではないとしています。
 そして、第一次世界大戦以後にわが国が奪取または占領した太平洋の島々の剥奪、満洲、台湾及び澎湖島などの中国への返還、わが国が暴力及び貪欲により略取した一切の地域からの駆逐、朝鮮の独立が述べられています。
 しかし、千島列島及び南樺太についての言及はありません。これはソ連がこの宣言に加わっていない以上当然のことですが、ポツダム宣言に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある以上は、わが国の主権の及ぶ「吾等ノ決定スル諸小島」の範囲は、カイロ宣言の精神にのっとって決定されるべきものでしょう。

 日露戦争により獲得した南樺太は、「暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域」に含める余地もあるでしょう(私はそうは思いませんが)。しかし北千島(ウルップ島以北)は1875年の千島樺太交換条約により平和的に取得したものですから「略取」した地域には当たらず、南千島(択捉、国後)は1855年のロシアとの国境画定以来のわが国固有の領土ですからなおさら「略取」したものではありません。

 オコジョさんがおっしゃるとおり、ソ連は米国とヤルタ協定で千島列島の引き渡しについて合意していました。しかしこれは秘密協定であり(戦後に公表されました)、わが国の関知するところではありません。
 それでも、わが国が降伏する前にソ連が千島列島や歯舞、色丹を占領していたのなら、わが国はその事実を考慮した上でポツダム宣言を受諾したのだと言えるでしょう。しかし、ソ連が北千島に侵攻したのは8月18日、南千島に侵攻したのは同月28日のことです。したがって、わが国は、ポツダム宣言の解釈上は、千島列島(特に南千島)と歯舞、色丹を奪われるという事態を想定せずにこれを受諾したと言うべきであり、オコジョさんの立論は誤っています。

 カイロ宣言で領土不拡大がうたわれたのは、この戦争はこれまでの戦争とは違うのだという理念の表明でしょう。
 第一次世界大戦の惨禍への反省から、国際連盟が設けられ、列強は軍縮を進め、不戦条約が結ばれました。にもかかわらず、一部の侵略国によって、再び世界大戦が起きました。我々は侵略を防ぎ彼らを懲罰するために戦うのであり、彼らのように暴力及び貪欲により領土を略取しようとするのではない、これは正義の戦争なのだと。

 不戦条約後の満洲事変や日中戦争、太平洋戦争はいざ知らず、台湾や朝鮮については欧米列強がさんざんやってきたことをわが国も真似しただけであり、何で非難されるいわれがあろうかという考えもあり得ると思います。
 しかし、それが降伏のための条件であった以上、わが国はやむを得ずポツダム宣言を受け入れたのでしょう。
 ですが、国境画定以来他国に属したことのない、わが国固有の領土である南千島と歯舞、色丹までをも、何故奪われなければならないのでしょうか。

 したがって、

 カイロ宣言で領土不拡大をうたい、ポツダム宣言でもそれを前提としていた連合国が、わが国固有の領土である南千島と歯舞、色丹を奪うことが許されるのか。 それも、わが国から開戦したわけではなく、中立条約を反故にして火事場泥棒的に参戦し、満洲で蛮行をはたらき、国際法に反して捕虜を長期にわたって抑留して酷使したソ連によって。

が、問題の核心なのです。
 この経緯と心情を抜きにして、北方領土問題を語るのは不適切でしょう。

 こんなことは、北方領土問題についてある程度の関心をもつ者なら、誰でも知っていることです。
 オコジョさんの表現に倣って言えば、そうした諸要素を切り捨てて、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に択捉、国後が含まれるか否かに問題を矮小化しなければ「成立しないのが」オコジョさんの「北方領土問題の「正解」」「だということをこの際、銘記」しておきましょう。

 オコジョさんは、こんなことも述べています。

 米国がソ連に二枚舌外交をした、約束をやぶったというのがその単純な本質です。
 我々の日常生活でも同じですね。約束やぶりとか、そういうことがあると、あとでやたら面倒くさい事態になるものです。


 二枚舌と言うなら、当時のソ連のわが国に対する外交もまた二枚舌でしょう。
 中立条約が未だ有効であり、わが国と連合国との和平の仲介を依頼されていたにもかかわらず、突如宣戦したのですから。
 なるほど、「やたら面倒くさい事態にな」っていますね。もっとも、もっぱらわが国にとってだけのようですが。

 私がオコジョさんに対してソ連の不当性について言及するのは、これが初めてではありません。
 オコジョさんからの最初のトラックバックに対して書いた記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」において、既にこう述べています。

 ソ連による北方領土の奪取をオコジョさんは不当だとは思わないのでしょうか。
 ここで日露・日ソ国境の変遷を詳しく振り返る余裕はありませんが、樺太と交換して得たウルップ島以北の千島列島にしても、日露戦争の結果獲得した南樺太にしても、わが国が侵略により奪取した領土ではありませんから、もとより領土不拡大をうたった連合国に奪われる筋合いはありません。しかし、択捉・国後の両島は、それ以前の最初の日露国境画定時からのわが国「固有の領土」なのですから、なおさら国民感情として容認できるものではありません。


 また、同じ記事でこうも述べています。

 オコジョさんをはじめ、この米国の意思を問題視する方は、あのとき2島返還ででも妥結して平和条約を締結しておけば、日ソの友好が進み、米国のわが国における影響力は低下し、東アジア情勢も現在とはかなり異なるものになっていたのではないかという願望があるのでしょう。
 しかし、そもそも中立条約を破って不当に参戦し、捕虜を長期にわたって抑留し強制労働で死亡させ、あげくの果てに択捉・国後すら返さない、そんな国と、仮に平和条約を結んだとしても、どうやって友好関係を築くことができるのでしょうか。


 しかし、これらに対するオコジョさんの返答はありません。
 なるほど、「思考経済の法則」とやらに精通すると、このように自分の立論に不要な要素はカットしてそのままで平気でいられるようになるようですね。

 オコジョさんのは、この記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」の終盤で、次のような話を持ち出しています。

 しかし、いったい米国はソ連の占領を“承認”しているのか、いないのか?

 米国は、外野から火に油を注ぐようなことを言っていながら、この占領自体について何のアクションもとろうとしません。
 これは、言い換えると、その事実を――どんな事情からであろうと――そのまま受け入れているわけです。つまり、事実として“米国はソ連の「北方領土」占領を承認している”のです。ヤルタにおける、もともとのコトの始まりどおりにです。

 ソ連は一貫してその領有権を主張し続けている。
 米国も事実としてソ連の領有権を承認している。
 日本の領有権などどこも支持していない、というのが世界の状況だということです。

 誰も認めていない領有権をこの先いつまでも主張し続けても、求める結果など出るはずがないと私は考えます。


 「事実として」「“承認”している」
 意味がわかりません。
 「承認」とは、辞書(デジタル大辞泉)によると、

1 そのことが正当または事実であると認めること。「相手の所有権を―する」
2 よしとして、認め許すこと。聞き入れること。「知事の―を得て認可される」
3 国家・政府・交戦団体などの国際法上の地位を認めること。「国連に―された国」


です。能動的な行為です。
 米国は「この占領自体について何のアクションもとろうとし」ないとオコジョさんはおっしゃいますが、米国はわが国の立場を支持しているとは既に表明しています。ほかにどのようなアクションをとるべきだとおっしゃるのでしょうか。経済制裁でしょうか。交戦でしょうか。米ソが直接つばぜり合いをしたら、どのような事態が生じたでしょうか。

 「その事実を――どんな事情からであろうと――そのまま受け入れているわけです」

 こんな表現が許されるなら、この世のありとあらゆる不正義、不公正は全て「事実として」「“承認”」されていることになってしまうのではないでしょうか。

 そして、カッコ付きの「“承認”」が何故かカッコなしの「承認」に変わり、さらに「日本の領有権などどこも支持していない」となる。
 典型的な詭弁であり、論ずるに値しません。

 本当にオコジョさんのおっしゃるように「日本の領有権などどこも支持していない」のでしょうか。
 米国は支持を表明しています。英国は、松本俊一『モスクワにかける虹』にあるように、当初は明確な姿勢を示していませんでしたが、1980年代にはわが国の主張を支持していたと記憶しています。

 ウィキペディアの「北方領土問題」の項目を見ると、現在次のような記述があります。

返還に関する西欧の提言

ヨーロッパ議会は北方領土は日本に返還されるべきとの提言を出した。2005年7月7日づけの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本韓国間の竹島問題や日本台湾間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[74]。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられず、日本では読売新聞が報じた程度である[要出典]。


 [74]のリンク先はこちらです。

 中国はどうでしょうか。国交正常化後、中ソ対立がまだ激しかった時代(日中国交正常化もその産物ですが)には、中国は北方領土問題におけるわが国の主張を支持すると明言していました。最近では、必ずしも立場を明確にしていないようですが、さりとてロシアの立場を支持すると表明しているわけでもありません。

 韓国は、昨年の野党議員による北方領土訪問に対して、政府は無関係と表明しました。こちらも、政府の立場を明言してはいませんが、ロシアの主張を支持しているわけでもありません。
 人民日報系の環球時報は、昨年8月に「中国は領土問題でロシアと韓国の立場を支持し、共同で日本に対処すべきだ」とする社説を掲載したそうですが、事態はそのようには動いていません。この3国の関係は、そんなに単純ではないということでしょう。

 私はむしろ、どこかの国が、いや日本の主張には根拠がない、択捉、国後はロシア領であって日本は領土の要求を取り下げるべきだと公式に主張しているのかとオコジョさんにお尋ねしたいです。

 他国間の領土の現状に異を唱えていないからといって、その変更に反対であるとは言えません。
 この問題は本質的には日露の二国間問題であり、日露間で平和的に合意に達すれば、それに異を唱える国はまず存在しないと私は考えます。

 次回は、続くオコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」を取り上げます。

続く

オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について

2013-02-18 00:07:31 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 議論の本筋についての話は前回で終わりました。
 あとは、オコジョさんが北方領土問題について、及びそれに関連して示されたいくつかの見解について、私の考えを述べておくことにします。
 前回の終わりにも二点について述べました。
 今回は、オコジョさんの記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」における、オコジョさんの主張を取り上げます。

 オコジョさんはこの記事で次のように述べています。

 歴史的な事実は以下のとおりです。
○日本は、日ソの国交回復交渉を始めた
○いちおう(見かけ上は)可能ならば領土問題も解決するスタンスで望んだ
○交渉の方針としては「二島返還」であった
◎「二島返還」の方針と整合的な「千島の範囲」解釈が、その時点まで採用されていた
○ソ連が、予想に反して、歯舞・色丹の返還を提案してきた
◎「千島列島の範囲」解釈が、このあと急に変更された
◎日本は、唐突に「四島返還」を要求することで応えた
○その結果、領土問題は解決しなかった

 ◎印の部分を説明するのに、深沢さんは、史実を無視した希望的観測やら何やら、いろいろ持ってきました。しかし、私の解釈は極めて単純です。「妥結させる意思がなかったから」。この一つだけです。

 上の様々な事実経過を素直に受けとめれば、「なんだ、ほんとは領土問題を解決する気なんかなかったんだ」と思うのが自然。自然も自然、大自然でしょう。
 他の解釈がなぜ出来るのか、私にはまったく理解できません。


 前回までの記事で述べたように、私の以前の記事に史実を無視した思い込みによる事実誤認があったことは事実ですが、それは別に上記の◎を説明するためのものではありません。
 それはさておき、「妥結させる意思がなかったから」としてオコジョさんは自信満々ですが、どうでしょうか。
 たしかに、そのような見方もできるとは思います。
 しかし、初めから妥結させる意思がなかったのなら、何故歯舞・色丹を最低限の要求としたのかという疑問が生じます。
 初めから妥結させる意思がなかったのなら、初めから最大限の要求、すなわち歯舞・色丹、千島列島、南樺太全ての返還の「貫徹を期せられたい」とすればよいはずです。
 歯舞・色丹の返還すらもソ連が呑むとは予想されず、それ故にマリクの打診に松本をはじめ関係者は驚愕したということはわかりました。
 しかし、そこで日本側が択捉・国後もと要求をかさ上げしたからといって、何故妥結の意思がなかったと決めつけられるのですか。
 ソ連がさらにそれらも譲歩すれば、妥結してしまうではないですか。そうなればどうするのですか。妥結を阻止しようとさらに数島かさ上げするのですか。
 ソ連が択捉・国後までは譲歩するはずがないと重光らが考えたであろうことは想像できます(和田春樹氏の『北方領土問題』によると、米国にはそうした考えがあったようですね)。そして実際譲歩しなかったわけですが、それは後世から見て言えることです。
 人間は神様ではありませんから、将来のことを全て見通すことはできません。そして交渉事は相手があってのことです。

 オコジョさんがおっしゃるように、重光はこの交渉に消極的でした。妥結しなければしないで一向にかまわないという考えだったのでしょう。久保田正明『クレムリンへの使節』は、第1次ロンドン交渉から帰国した松本から報告を受けた重光が「君、日ソ交渉が妥結しなくて、日本として何か困ることがあるのかね」と言い放ったと伝えています。
 択捉・国後もと要求をかさ上げしたのは、「訓令第一六号」に示された当初の方針に反して、いややはり歯舞・色丹だけで妥結してはならないと、重光らが変心したからなのでしょう。
 しかしそれは逆に言えば、択捉・国後をも返還されるのなら、妥結してもよいと考えていたことを意味します。
 また、択捉・国後を要求してみて、どうしてもだめなら、最終的には歯舞・色丹で妥結せざるを得ないと考えたのかもしれません。現に、オコジョさんが「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」で『クレムリンへの使節』から引用されたとおり、外務省顧問の谷正之は鳩山首相にそう報告していたといいますし、重光自身、第1次モスクワ交渉でそのかたちでの妥結を図っています。

 第1次ロンドン交渉の際に、重光に妥結させる意思がどこまであったかは確かに疑問です。しかし、「妥結させる意思がなかったから」と断じるのが「自然」だとは私には思えません。

 米国の動向も含めて交渉経過を仔細に検討した和田氏だって、そんな極端なことは言っていません。この方針転換について、

重光外相は、おそらくもう少し交渉して、さらに多くを獲得できるかどうか見極めようというつもりだったのだろうが、省内吉田派はソ連がのめない二条件を出し、二重に保険をかけるつもりであったのであろう。


と評しています(『北方領土問題』P.244)。

 また、「訓令第一六号」はわが国としての最終的な方針を示したものではなく、国交回復交渉に臨む上での基本方針を示したものです。
 和田氏はこれを久保田正明『クレムリンへの使節』から自著に次のように引用しています(『北方領土問題』P.238、『北方領土問題を考える』岩波書店、1990、P.147-148)。

三、(諸懸案の解決)前項につき先方が異議を有せざることが明確になった場合には、左記諸懸案の解決につき折衝にはいられたい。
 イ、わが国の国連加入に対する拒否権不行使
 ロ、戦犯をふくむ抑留邦人全部の釈放・送還
 ハ、領土問題
  (一)ハボマイ、シコタンの返還
  (二)千島、南樺太の返還
 ニ、漁業問題(だ捕漁船、乗員の送還を含む)
 ホ、通商問題
四、(交渉の重点問題)前項の問題については、わが方主張の貫徹に努力されたく、とくに抑留邦人の釈放送還及びハボマイ、シコタンの返還については、あくまでその貫徹を期せられたい。


 しかし和田氏は、『クレムリンへの使節』p.33でこの「貫徹を期せられたい。」に続く次の部分を引用していません(太字は引用者=深沢による)。

やむを得ざる場合は抑留邦人の釈放・送還については戦犯の内地服役を認めることとする。先方の態度いかんによっては各問題の相関関係を勘案のうえ、当方の態度を決定する必要あるので、随時事情を詳細に具して請訓されたい。


 これに従って松本は請訓し、外務省は「当方の態度を決定」して、択捉・国後の返還を含む平和条約案を策定、提出したのでしょう。
 私が以前、「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、訓令第一六号について

 しかし、それはわが国の最終的な判断ではありませんでした。だからこそ松本は請訓し、そして結局のところ重光外相はこれを拒否したのです。
 交渉の一局面にすぎず、それほど重視すべきものではないと思います。


と述べたとおりだと思います。

 そして、そもそも択捉・国後を持ち出すのは、それほどおかしなことでしょうか。
 オコジョさんは、「最初のテーブルには影も形もなかったカードをあとから出して、交渉をまとめられるはずがありません。」とおっしゃいますが、千島列島の一部が南千島すなわち択捉・国後なのですから 「影も形もなかったカード」ということはないでしょう。
 わが国は当初、歯舞・色丹、千島列島、南樺太の3地域の返還を要求していました。歯舞・色丹はそもそも千島列島ではないのですから返還を要求するのは当然として、ソ連から見れば日露戦争の結果奪取された南樺太の返還はまず無理。残る千島列島について、全面返還は無理としても、日露の国境が画定して以来の領土であり、多数の国民が居住していた南千島(和田氏の『北方領土問題』P.221には、「千島列島の人口はほぼ完全に南千島に集中していた」とあります)を要求するのは、それほどおかしなこととは思えません。
 和田氏の『北方領土問題を考える』P.149には、国交回復交渉の開始から間もない1955年6月12日付け『朝日新聞』に掲載された有田八郎、松本重治、横田喜三郎の座談会における、横田の次の発言が引用されています。

「ハボマイ諸島は返してもらわなければならない。小さい島で、先方にとっても大した利益はないのだから。また千島を半分でも返してくれれば大成功だと思うが、ちょっと望めないだろう。千島を全部ソ連に譲るか、それを全部譲らないで中間の取り決めができるかが交渉が成功か否かのカネ合いのところだ。」


 オコジョさんは、4島返還論は交渉を妥結させないために持ち出されてきたものだから「デタラメ」で「あやしげ」なものであり「葬り去ることが必要だ」と説きます。
 私は、必ずしも妥結させないためだけに持ち出されたとは思いませんが、外務省が方針を当初の2島返還から4島返還に転じ、千島列島の範囲についてもそれまで否定していた解釈に乗り換えたとの指摘はそのとおりだと思います。
 だからといって、何故それで即4島返還論を「葬り去ることが必要だ」となるのでしょうか。
 ある主張や政策、法律や制度といったものは、その出自ではなく、その内容自体によって、妥当か否かを判断すべきだと思います。
 誰が言い出したか、どういう経緯で成立したかは、そのもの自体の価値を判断する根拠にはなり得ないと私は考えます。

 例えば、日本国憲法は押し付けられたものだから、改正しなければならないという主張があります。無効であり、破棄すべきであると言う人もいます。
 しかし、押し付けられたか否かにかかわらず、憲法の妥当性はその条文自体によって判断すべきだと思います。その上で、改正が必要な条文は改正すればいいし、維持すべきものは維持すればいいでしょう。

 オコジョさんは「出自」という言葉を用いられましたが、「出自」が「あやしげ」とされる者はやはり卑しいのだとお考えなのでしょうか。
 不義の子であっても、罪人の子であっても、子に何の非もありません。

 4島返還論はわが国が当初から主張していたものではなく、国交回復交渉の過程で生み出されたものです。だからといって、そのことが即「デタラメ」で「あやしげ」であると見るべき理由にはなりません。
 ここで詳しく述べる余裕はもうありませんが、歴史的経緯、領土不拡大の原則違反、そして中立条約違反という点から、4島返還論は何ら「デタラメ」でも「あやしげ」でもないと私は考えます。

 以上で、オコジョさんが直接私の記事に対して書かれた4記事への私の反論、弁明、論評を終わります。

 続いて、オコジョさんが、私の記事についてではなく、北方領土問題自体について書かれた2記事を取り上げます。

続く


オコジョさんの指摘について(5) 「米国の意思」をどう見るか

2013-02-17 00:27:43 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 前回と前々回で、議論の本筋である「米国の意思」に関わるオコジョさんの二つの表現――私が疑問を呈し、オコジョさんが説明された点――について述べました。
 今回は、「米国の意思」それ自体をどう見るかという、より本質的な点について述べます。

 オコジョさんは、2島返還論から4島返還論への転換は
「単純に日本の意思だけに帰すことはできません」
「米国からの圧力がなかったわけではなく、」
と述べておられますが、私は、単純に日本の意思だけに帰するとは言っていませんし、米国からの圧力がなかったとも言っていません。
 オコジョさんも引用しているように、米国からの申し入れがあったことは松本も書いており、私も認識しています。
 しかし、そうした米国からの圧力があったがために、わが国は2島返還論から4島返還論に転じたと言えるのかという疑問が、ご批判いただいた私の記事

4島返還論は米国の圧力の産物か?

の主旨です(タイトルもそれを示しています)。

 したがって、オコジョさんがこの記事を批判するのであれば、転換が米国からの圧力によるものだったことを、具体的に立証すれば済むことです。
 ところが、オコジョさんの記事にこの点についての具体的な話は出てきません。
 オコジョさんが述べる根拠らしきものは、次のような話です。

1.重光外相は国交回復交渉に非常に消極的であった
2.吉田茂はより強硬に国交回復に否定的であった
3.吉田派の緒方竹虎はCIAとつながっており、資金提供も受けていた
4.「外務省は吉田派の巣窟のようなもの」だから、マリクが歯舞・色丹の返還を示唆したことは「吉田の耳に間違いなく入っていたはずです」、吉田を通じて「米国にも情報が届いたのは間違いありません」、米国が「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実で」ある
5.鳩山を蚊帳の外に置いて、重光ら外務省は2島返還での妥結には応じない方針を固め、鳩山に事後承諾させた
6.そんな経緯のあと、外務省は松本に4島返還の新訓令を打電した。つまり「わざわざ新たな障碍をつくった」
7.ダレスの言動にとどまらず「もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があった」

 これらが仮に事実だとしても、それでどうして米国からの圧力によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたと言えるのか、わかりません。
 圧力はいつ、どのようにして行使されたのでしょうか。

 それは、当時の外交文書が全て公開されているわけではない以上、確証を示すことは不可能だ。しかし、当時の情勢や現在でも公開されている外交文書その他の資料を検討し、「オッカムの刃」をもってすれば、そう見るのが妥当である。
 オコジョさんは、このようにおっしゃるかもしれません。
 しかし私には、それが妥当だとは思えません。
(念のために申し上げておきますが、私は、米国からの圧力によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたなどということは有り得ない、と言っているのではありません。そうした説が成り立ち得ることは否定しません。現時点では、そのように断定できる状態ではないのではないかと言っているのです)

 オコジョさんが典拠としているらしい和田春樹氏の『北方領土問題』を読んでみました。
 和田氏は、同書のp.230~249において、米国の外交文書も用いて、マリクが歯舞・色丹の返還を示唆した前後のわが国と米国の動きを仔細に検討しています。これを私なりに要約すると、次のようになります。

・1955年1月、ドムニツキー書簡が鳩山邸に届けられ、日ソ国交回復交渉が始動。米国は当初、歯舞、色丹がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島の一部ではなく日本の領土であるという日本の主張を支持していた。
・同年2月、日本外務省は米国に対し、国交回復交渉に当たって千島列島の返還要求を出すので、米国がこれを支持するよう要請。受け入れ可能な最低条件は、ソ連が日本の千島列島領有の主張に希望を残しながら、歯舞、色丹を返還することだとも述べる。
・同年3月、国家安全保障会議でアレン・ダレスCIA長官が、日本政府高官は「歯舞、色丹と同様にクリル諸島のすくなくとも二つの島の返還を望むと告白した」と報告。
・4月、米国は、千島列島に対する日本の要求を米国が支持することについて、法律的には難しいが、政治的には認めるべきであり、最低その要求に反対しないとの方針を固め、日本に伝える。
・5月、歯舞、色丹の返還を最低条件とした「訓令第一六号」が閣議決定され、2日後に自由党と両社会党に説明される。
・6月、第1次ロンドン交渉開始。アリソン米駐日大使は、鳩山政権では対ソ妥結論が支配的であり、ソ連が日米関係を悪化させることを狙って譲歩をしてくることに対して日本は無防備であるとし、歯舞、色丹、さらにもしかしたら南千島までの日本の潜在主権への同意、日本の国連加入、日本の再軍備に関する寛大な制限などの譲歩をしてくる可能性があるとワシントンに報告。
・8月、マリク、松本に歯舞、色丹の引き渡しを示唆。松本電を受けた重光は秘匿を命じて墓参に発ち、帰京後アリソンと会い、外務省の幹部会で4島返還を求める新方針を決定。ソ連の譲歩が報じられていない段階で新方針を新聞にリークし、わが国が南樺太、全千島から4島に要求を切り下げたとの印象を作りだした上で、訪米し、鳩山の事後承諾を得る。

 注目すべきは、2月の段階で日本外務省が千島列島の返還をソ連に要求することを米国に明らかにしていること、3月のダレス報告はそれが少なくとも2島、すなわち択捉、国後であることを想起させること、そして4月には米国がその要求に反対しないとの方針を既に固めていることです。
 つまり、4島返還論は、オコジョさんが記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」で「講釈」されたように、歯舞、色丹の引き渡しというソ連の譲歩を受けて突如持ち出されたものではなく、あらかじめ検討されていたものだということです。
 それでは「訓令第一六号」との整合性がとれなくなりますが、それがどういう事情によるものかはまだわかりません。外務省としては4島返還論を検討していたが、民主党が2島返還を最低ラインに引き下げたといったことも考えられるでしょう。また、後述しますが、「訓令第一六号」はわが国の最終的な方針ではありませんでした。

 そして、ソ連の譲歩を受けて、吉田派や米国がどう動いたのかも定かではありません。
 たしかに、和田氏は『北方領土問題』p.243で、外務省内吉田派が吉田にこの重大ニュースを伝えなかっただろうか、伝えたとすれば吉田からダレスないしアリソンに極秘の連絡が行っただろう、鳩山がこの内容で妥結することは全力を挙げて阻止しなければならないとして秘かな協議があったと考えることもできる、と述べています。
 しかしこれらは全て和田氏の推測であり、具体的な根拠は何も示されていません。
 ここで和田氏はこんなことを書いています。

アリソンとしては、むしろ二島返還どまりで安堵さえしたかもしれない。そして、二島返還を要求するだけでは妥結することになってしまうのだから、クリル諸島の一部、南千島の要求に進ませるという既定の方針が推進されることになったと考えられる。


 しかし、それまでに和田氏が挙げている米国の文書には、「進ませるという既定の方針」に当たるものは見当たりません。
 米国が日本の千島列島の要求に反対しないという方針はあります。また、ソ連の譲歩により米国の立場が損なわれることを懸念する報告もあります。しかし、日ソ国交回復阻止のために日本が南千島を要求するように進ませるとの方針をとっていたととれる記述はありません。
 この点をはじめ、和田氏の文章には、米国がわが国を4島返還に進ませたと印象づけようとするいくつかの仕掛けがあります。しかし、その仕掛けを取り除いて、和田氏が呈示する根拠を検討してみると、私には必ずしもそのようには読み取れません。

 余談ですが、和田氏の前掲書を検討していて、オコジョさんの「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」の記述

また、外務省は吉田派の巣窟のようなものですから、以上の動きはすべて吉田の耳に間違いなく入っていたはずです。また、吉田を通じて――重光も報告に行っているのですが――米国にも情報が届いたのは間違いありません。米国が――どういう径路からであろうと――そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実です。


に、次のような疑問が湧きました。

ア.「外務省は吉田派の巣窟のようなもの」だから「以上の動きはすべて吉田の耳に間違いなく入っていたはずです。」と何故言い得るのか。そもそも外務省が下野後の吉田に重要事項を逐一報告していたという実例があるのか。また、私の「はずです」を「単にご自分の希望を述べているだけ」と一蹴したが、この「はずです」こそそうではないのか。

イ.仮に「米国が」「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実」であるとしても、それだけでは「吉田を通じて」「米国にも情報が届いたのは間違いありません」とする根拠とはならない。「吉田を通じて」「米国にも情報が届いたのは間違いありません」と見る根拠は何か。下野後の吉田が重要情報を米国に提供していたという実例があるのか。

ウ.「米国が」「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実」と言う根拠は何か。「間もなく」とはいつの時点か。和田氏の前掲書は、田中孝彦氏が発掘した、米国務省のブファイラーが8月22日付けで作成した文書を取り上げている。これは日本外務省の新方針を反映したものではあるが、ソ連の2島引き渡しの申し出は反映されていないという。重光は23日から訪米しているので、それ以降に米国が2島引き渡しの情報を入手しているのは当然だが、それより前に入手しているという「歴史的事実」はあるのか。

 さて、4島返還論への転換が米国の圧力の産物なのであれば、重光が松本電を受けてから新方針を決定するまでに米国から何らかの働きかけがあったということになりますが、この点も和田氏の『北方領土問題』からは定かではありません。
 重光は16日に東京に戻り、17日にアリソンと会っています。
 「アリソンがソ連の譲歩をすでに知っていれば、重光に南千島返還案について何らかの示唆を行った可能性がある」と和田氏は言います。なるほどそうでしょう。しかし、知っていても行わなかった可能性もあります。さらに、譲歩を知らなかった可能性もあります。これもまた、仕掛けの一つです。

 和田氏によると、公開された米国務省の資料の中には、8月中のアリソン大使の本国への報告が一本もないそうです。「これはすべて隠されているということである」と和田氏は言います。
 他方、ロンドンの駐英大使館からの国務長官宛の8月17日、24日、31日の電報が機密不解除であることを示す記録がファイルの中に残されているそうです。「このような資料公開の状況はソ連譲歩の決定的なニュースをめぐって深刻な文書の往来があったことをうかがわせる」と和田氏は言います。
 和田氏の言うとおりだとすると、隠されている部分の内容は、隠されていない部分から推測するしかありません。そこでもっともらしい内容を推測することは可能でしょうが、推測は所詮推測でしかありません。推測を事実と取り違えてはなりません。

 重光については、有馬哲夫氏の『CIAと戦後日本』(平凡社新書、2010)第二章「重光葵はなぜ日ソ交渉で失脚したのか」が、CIAの報告書などを用いて戦後の重光の軌跡を概観しているので、興味をもって読んでみましたが、この2島返還論から4島返還論への転換についての言及はありません。

 もっとも、和田氏と有馬氏だけが研究者ではありませんし、『北方領土問題』は1999年の著作です。その後新資料が公開されたり発掘されるなどして、研究が進んで、和田氏の推測が裏付けられているといった事情がもしあるのでしたら、是非ご教示願いたいと思います。

 ところが、オコジョさんは、記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」で、突然こんなことを言い始めます。

 私の主張は、ぎりぎり譲って、以下のようになります。
○領土問題は二島返還で妥結することができた
○しかし、四島返還が持ち出されたので妥結しなかった
○日本が四島返還を持ち出したのは、妥結させないためだった

 なぜ妥結させなかったのかについては、「米国の意思に従った」と私は主張してきたわけですが、これを「米国の意思を顧慮した」と言い換えてもいいでしょうか。


 「米国の意思に従った」と「米国の意思を顧慮した」では意味が異なります。
 「顧慮」とは「ある事をしっかり考えに入れて、心をくばること。「相手の立場を―する」」(デジタル大辞泉)です。

 オコジョさんがこう言い出したのは、米国だけではなくわが国においても4島返還論が検討されていたことに気付いたか、わが国の行動のどこまでが米国の圧力によるもので、どこまでがわが国の主体的な意思によるものかを説明することなど、極めて困難だということに気付いたからではないかと思われます。

 深沢さんは、日本政府の自主的な意思によると言っておられるのですね。
 とりあえず、妥結させなかった主体については今回は譲歩して、尖閣の領土権のように「棚上げ」してもいい、というわけです。


 「自主的な意思による」とは、米国の意思にかかわらず、わが国独自の判断によるものだという意味でしょうか。
 さらに、オコジョさんが後に拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」に寄せられたコメントでは、こんなことをおっしゃっています。

 4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」は、ただそうあってほしいという深沢さんの願望だけに基づいているものですから、なるべく早いところ脱却した方がいいのではないかとは、心配しているところではあるのです。


 私は同じ記事の本文で、次のように述べています。

 米国の意思はあったのでしょう。だがわが国の意思はなかったのでしょうか。


 これを、米国の意思とわが国の意思は無関係であるという「信念」の表明と読み取られるのであれば、私はオコジョさんの読解力に不審の念を抱かざるを得ません。
 この箇所は、米国の意思があったからといって、わが国がそれだけの理由で方針を転換したとは言えない、わが国はわが国で、米国の意思を考慮し、その他さまざまな要素も考慮した上で、4島返還論に転換したのではないかという意味です。

 したがって、オコジョさんが「顧慮」と言い換えるのであれば、私にも異論はありません。
 「棚上げ」も何も、オコジョさんと私の認識は一致しているのですから。

 あとは、表現方法の問題です。
 これについては、前回申し上げたように、私はオコジョさんが独特の表現方法をお好みの方だと理解しましたので、もはや特に述べることはありません。今後は、オコジョさんが「そういう方」だという認識の下に記事を読むことにします。

 これで、本筋についての私の話は終わりです。
 あとは オコジョさんが北方領土問題について、及びそれに関連して示されたいくつかの見解について、私の考えを述べておきます。

 まずは「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の末尾で述べておられた、日ソ交渉を米国に相談していたという点と、重光の後の戦後の外務大臣に外務省出身者がいないという点について。

 日ソの交渉の機微を第三国に知らせることなど本来あり得ないというのは、通常の外交関係においては、おそらくはおっしゃるとおりなのでしょう。
 しかし、当時の日米関係が、通常の外交関係とは異なるものであったことも考慮すべきでしょう。
 米国の占領下に置かれ、米国によって新憲法をはじめとする諸改革を断行され、米国の支持の下で独立を果たし、わが国は米国に基地を提供する義務を負うが米国はわが国を防衛する義務を負わないという片務的な旧安保体制の下にありました。ソ連の反対により国連にも加盟することもできず、韓国とも中共とも国交はありませんでした。
 端的に言えば、わが国は米国の庇護下にあったと言えるでしょう。
 そしてまた、日ソ国交回復交渉が通常の外交ではなかったことも考慮すべきでしょう。
 ソ連は単に交戦国の1つというだけでなく、共産圏のリーダーであり、当時は冷戦の真っ只中でした。
 また、日ソの領土問題がどのような形で解決するかは、米国の極東戦略にも多大な影響を及ぼす要素でした。
 だからこそ、吉田に比べて米国と距離があった鳩山の政権においても、日ソ交渉の内実を米国に明らかにせざるをなかったのではないでしょうか。

ソ連との交渉を一つの有効な取り引き材料にして、例えば沖縄の早期返還を促す、というような外交が当然考えられます。


 これは、具体的にどういう外交が有り得たとお考えなのでしょうか。
 そして、「有効な取り引き材料」も何も、「ダレスの恫喝」に見られるように、沖縄はむしろ日本側の弱み、日米関係におけるアキレス腱であったのではないのでしょうか。

 次に、外務大臣に外務省出身者がいないという点については、たしかにおっしゃるとおりですが、それは、何より外交官から政治家へ転身する者が少ないからではないのでしょうか。
 戦前と異なり、戦後は閣僚が国会議員であることが普通となりました。閣僚の中でも外相は花形ポストであり、それなりの有力者でなければ就任は困難です。
 有力な国会議員に外務省出身者がほとんどいなければ、外相に外務省出身者がいないという事態も起こり得るでしょう。
 私が無知だからかもしれませんが、戦後派の著名な政治家で外務省出身者をほとんど思いつきません。加藤紘一がいますが、彼は2世です。
 理由はよくわかりませんが、官僚の中でも外交官は独自の世界を築いており、政党政治の世界には足を踏み入れようとしなかったのかもしれません。
 むしろ、芦田均、松岡洋右、広田弘毅、幣原喜重郎、吉田茂、そして重光葵のような外交官出身の有力政治家が続出した戦中・戦後期が異常だったのかもしれません。

あれこれの根拠は抜きにして私の推測をそのまま書かせていただきますと、外務省に外交をやらせていては日本の国益を確保することなどできないというのが「外務大臣=非・外務省出身者」の理由です。
 外務省に米国の意思が浸透していることの一つの表れだと私は思います。


 そういう見方もあるんですね、としか言いようがありません。

 次回は、「四島返還論の出自」を取り上げます。

続く

オコジョさんの指摘について(4) 「米国の意思を体現」という表現

2013-02-16 00:15:35 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 私は、「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、もう一点、オコジョさんの表現に疑問を呈しました。

 しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでしょうか。


 それに対するオコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」での返答はこうです。

 これは、蓋然性が非常に高い妥当な推測、ほぼ事実というところでしょうか。
 分かりやすい例を書くと、緒方竹虎がCIAとつながっており、資金提供も受けていたのは証明ずみの「歴史的事実」です。コードネーム「POCAPON」も知られています(ふざけたネームみたいですが、正力松太郎の「PODAM」は既によく知られていますね。「PO」の部分が日本を意味するのだとか)。


 緒方が当時吉田派のボスであったこと、そしてCIAとつながっていたことは事実です。
 だからといって、どうして吉田派が「米国の意思を体現していた」と言えるのでしょうか。

 「体現」とは、「思想・観念などを具体的な形であらわすこと。身をもって実現すること」(デジタル大辞泉)です。
 「米国の意思を体現していた」とは、米国のエージェント、悪く言えば米国の走狗であることを意味します。
 彼ら吉田派は、単にそのような存在にすぎなかったのでしょうか。自らの意思は存在しなかったのでしょうか。

 私が疑問に思うのは オコジョさんが彼らの主体性というものをまるで考慮しようとしないことです。
 彼ら自身としては4島返還でも2島返還でも、あるいは交渉決裂による0島返還でも何でもよかった、ただ米国に言われるがままに、自民党内における2島返還への抵抗勢力として機能した、と考えておられるようです。
 なるほど吉田は米国と密接な関係にあり、また外務省にも根を下ろしていました。緒方はCIAの協力者であり、資金提供を受けていました。
 ならば彼らの行動は全て「体現」と見るべきなのでしょうか。彼ら自身の意志はなかったのでしょうか。
 彼らは彼らで、米国の意思をはじめとするさまざまな要素を考慮した上で、そのように行動したのではないのでしょうか。

 また、○○が××から資金提供を受けていた、あるいは××と密接な関係にあった、よって○○は××の意思を体現していたというストレートな表現が許されるのなら、何だって言えてしまうのではないでしょうか。

 日本社会党や日本共産党がソ連の資金提供を受けていたことがソ連崩壊後に明らかになった。したがって、両党はわが国においてソ連の意思を体現していた。
 いわゆる南京大虐殺を報じた記者ティンパーリは中国国民党から資金援助を受けていた。あるいは国民党の工作員であった。したがって、彼の報道は国民党の意思を体現したものであり、信用に値しない。
 ハル・ノートを起草したハリー・デクスター・ホワイトはコミンテルンのスパイであった。したがって、ハル・ノートは米国を第二次世界大戦に巻き込もうとするコミンテルンの意思を体現したものであった。
 菅直人の資金管理団体が、北朝鮮による日本人拉致事件の容疑者の長男が所属する政治団体から派生した政治団体に献金していた。したがって、菅は北朝鮮の意思を体現していた。

 私はこんなことは到底言えないと思いますし、言うべきでないとも思います。

 そうした思いから「何故言えるのでしょうか。」と書いたのですが、オコジョさんには理解していただけなかったようです。

 深沢さんが何を目的に、そう何もかもを曖昧にしてしまいたがるのか私には理解できません。やはり、米国をよき友人と信じたい心情がすべてに優先しているのでしょうか。


とのことですが、曖昧なことは曖昧にしか言いようがないというのが私の考えです。
 推測を事実であるかのように語るのは、私の趣味ではありません。

 ボールの例えもいただきました。

 深沢さんの議論のあまりのナイーブさに少々びっくりしてしまいます。
 たとえるなら、こんな感じでしょうか。

○ここに一つのボールがある。
○このボールの色は赤か青である。
○このボールは赤くはない。

 こんな三つの言明があったとして、深沢さんは「どこにも『このボールは青い』とは書いていない」と主張しているのです。
 それは、たしかに書いてはいません。だからといって、ボールが青いことを否定するのは無茶苦茶な議論です。

 極端な喩えを持ち出しましたが、深沢さんの行論はこれと五十歩百歩です。議論の性質というものをもう一度しっかりと確認していただきたいと私は思います。


 確かに、おっしゃるとおりなら、「『このボールは青い』とは書いていない」と主張することは無意味でしょう。
 しかし、この例えに倣って言うなら、私は「このボールの色は赤か青である」「このボールは赤くはない」という2つの前提が成立するのかどうかに疑問を呈しているのです。
 その判断が妥当かどうかは、読者に委ねたいと思います。

 オコジョさんは、続く記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」の冒頭で、「オッカムの刃」の話を持ち出されています。

思考経済の法則ともいわれています。一つのことを説明するのに、10の前提を必要とする理論と、3の前提だけで説明できる理論とがあった場合、後者を採用すべきだという考え方です。
 日常的な言葉でいうなら、素直な考え方、単純な理論の方が、ややこしいものよりは正しい可能性が高い、とでもなりましょうか。

 歴史的事実が、必ずしも単純であるかどうかは何とも言えません。しかし、歴史的事実を解釈するときには、やはりこの「オッカムの刃」を採用するべきでしょう。


 私は、ウィリアム・オッカムの名は知っていましたが、この「オッカムの刃」については知りませんでした。
 しかし、歴史を見る際にこうした考え方を適用してしまうと、いわゆる陰謀論との親和性を高めてしまうのではないでしょうか。
 私には「採用するべき」とは思えません。

 例えば、わが国は何故第二次世界大戦に敗れ降伏したのか、それはコミンテルンに籠絡された蒋介石によって泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、続いてコミンテルンのスパイが起案したハル・ノートによって対米英蘭戦を余儀なくされたからだ、全てはコミンテルンの陰謀である――といった見方があります。
 また、何故わが国は原爆が2発も落とされるまで降伏しなかったのか、それは米国が原爆を実験したかったがために、わざとポツダム宣言の内容を即時受諾困難なものとしたのだ――といった見方があります。
 どちらも、当時の情勢におけるさまざまな要素を考慮に入れるよりは、「素直な考え方、単純な理論」です。
 だからといって、こうした見方が妥当だとはとても思えません。

 オコジョさんのブログで、一連の北方領土関係のものではありませんが、こんな趣旨の記述もあったように記憶しています。
〈私は嘘はつきませんが、ハッタリは使います。相手の出方を見てみたいからです〉。

 オコジョさんが、直截な物言いを好まれる方だということはわかりました。
 私はオコジョさんの記事を読むのは最初にトラックバックをいただいた

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

が初めてでしたので、私の感覚に基づいてオコジョさんの表現に対していくつか申し上げましたが、これからは「そういう方」だということを前提にして読むようにします。

 しかし、そういう方と「議論」が成立するのか疑問です。何故なら、その方の発言の全てにわたって、これは事実なのか、それともハッタリなのかといちいち検証するのは容易なことではありませんし、それでは結局のところ「言ったもん勝ち」になりかねないと思えるからです。

続く

オコジョさんの指摘について(3) 「間違いない事実」という表現

2013-02-15 00:07:50 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 今回からは、議論の本筋である「米国の意思」をどう見るかという点について述べます。
 まず、話を整理します。

 私は

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

という記事で、「ダレスの恫喝」によって日本が2島返還論から4島返還論に転じたとの誤った説が流布している現状を批判しました(この批判についてはオコジョさんにも同意していただいています)。

 そして、その記事中、

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。


と述べました。

 これに対して、オコジョさんは

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

で「私はちょっと違うと思います」として、

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。

〔中略〕

 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。


と述べました。

 これに対して私が新記事

4島返還論は米国の圧力の産物か?



 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。


と述べたところ、オコジョさんは、「かもしれません」「確証がない」といった記述が気に障ったようで、新記事

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

で、

 米国のロバートスン次官補が9月3日に提案し、9月7日に日本政府に渡され、12日に公表された覚書というのがあるんです。

 丹波實による『日露外交秘話』という本があります。そのP.168~169に「在京英国大使館極秘電報公開事件」と題されたエピソードが載っています。


と述べたのでした。

 ロバートスンの覚書とは、和田春樹氏の『北方領土問題』(朝日選書、1999)によると、日本はサンフランシスコ条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないとする一方、択捉、国後は歴史的に日本固有の領土であり、日本の主権下にあるものとして認められなければならないとするものですね。
 4島返還論への支持であり、かつ2島返還による妥結への牽制ですね。
 しかし、私が「かもしれません」「確証がない」と述べたのは、「択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していた」と見る根拠でしたので、これはちょっと違うように思います。

 その点を補うために、丹波實『日露外交秘話』の「在京英国大使館極秘電報公開事件」を挙げられたのでしょう。この件については、今回初めて知りました。ご教示ありがとうございます。
 こちらのホームページに該当箇所が引用されていますね。
 なるほどそうした見方が駐日外交官にあったという1つの証左ではありますね。
 米国ではなく、英国ですが。
 しかし米国にも同様の見方があったのかもしれません。

 もっとも現物が紛失中ではどこまで信頼していいのかわからない話ですが。
 そして、それが「間違いない事実」であると言える根拠なのかとなると、私にはやはり疑問が残ります。

 誤解しないでいただきたいのですが、私はそうしたポリシーはなかったというつもりであのように書いたのではありません。むしろ、あったとしても十分おかしくはないと考えています。
 ただ、「間違いない事実」という表現が気になったので、カッコ書きで「(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)」と付け加えただけです。

 一連の行動を後世から見て、○○国の意思は××だったと評価することはあるでしょう。
 しかし、それは結果的に、総合してそのように言い得るということであって、後から見てそう言えるからといって、その時点で××という明確なポリシーが成立していたと語るのはおかしいと私は思います。
 「間違いない事実」という表現は、それを裏付ける文書や証言といった確証があって、はじめて用いられるべきものだと思います。
 私がカッコ書きで付記したのは、それだけの理由によるものです。

続く

オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について

2013-02-14 00:00:24 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 次に、私の認識不足について説明しておきます。

 私は、昔々北方領土問題をかじったことがあり、多少の知識はあるつもりでしたが、何分昔のことであり、国交交渉の細かい経緯については、忘れてしまっていた部分もあります。
 特に、オコジョさんが持ち出された「訓令第一六号」については、昔の記録を確認したところ、昔これについて書かれた和田春樹氏の論文(「「北方領土」問題の発生」『世界』1989年4、5月号)を読んでいたのですが、すっかり忘れておりました。

 そのため、先の

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

4島返還論は米国の圧力の産物か?

の2記事を書いた時点では、日本側の当初の方針については、松本俊一が『モスクワにかける虹』(私が読んだのは『日ソ国交回復秘録』と改題されて昨年出版されたたものですが、面倒なので以下『モスクワにかける虹』で統一します)で述べていた、

「日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった」

というレベルのものだと認識しておりました。つまり、歯舞、色丹の2島の返還が最低条件との方針が示されていたとの認識を欠いていました。

 また、吉田茂が鳩山首相による日ソ国交回復交渉に明確に反対していたことをはじめ、当時の党内対立の状況や鳩山、重光、河野らの立場、方針、そして米国との関係についても、十分な認識を欠いていました。

 オコジョさんにしてみれば 何を無知丸出しで適当なことを書いているのかと思われたことでしょう。
 「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」という記事でオコジョさんが

>> 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、
>>基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。

 ここも同じです。なぜ「見るべき」なのですか。
 何の根拠もなく、ご自分の勝手な希望と憶測を書いているだけだということがお分かりにならないのでしょうか。
 日本の歴史も何も、全然ふまえていらっしゃらない。

〔中略〕

 このあたりの推移をきちんと把握されてから、もう一度どう「見るべき」なのかお考えいただきたいと思います。


と指摘されたのはもっともです。

 その後、オコジョさんが言及された和田春樹『北方領土問題』(朝日選書、1999)、久保田正明『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)、D・C・ヘルマン『日本の政治と外交』(中公新書、1970)や、その他の書籍を確認して、「このあたりの推移」、オコジョさんのおっしゃる「日ソ交渉の重層構造」についてある程度理解できたように思います。

 オコジョさんの指摘がなければ、私は今でも、当初は歯舞、色丹の返還が最低条件とされていたことの認識を欠き、交渉をめぐる主要政治家の方針や動向についても、不十分な認識のままでいたことでしょう。
 ご指摘ありがとうございました。

 私が「見るべき」と書いたのは、

・松本は第1次ロンドン交渉で2島返還での妥結を考えたが、重光に拒否された
・重光は第1次モスクワ交渉で2島返還での妥結を考えたが、松本に反対され、鳩山に拒否された
・河野は漁業交渉でソ連側の2島返還案に同意したとされているが、これを否定している
・鳩山は第2次モスクワ交渉で2島返還での妥結を拒否し、領土問題未解決のままでの国交回復に踏み切った
・吉田は回想で、サンフランシスコ平和条約で放棄する千島列島に択捉、国後が含まれないよう要請したとしている

といったことから、要するに2島のみ返還での妥結を主張した者は、交渉中の松本や重光を除き誰もいなかったという考えが念頭にあったからですが(2島先行返還、2島継続協議も4島返還論の変形と私は考えています)、「訓令第一六号」の件に加え、当時の政治家の諸発言に照らしても、そんなことは言えないことは理解しました。
 不適切な記述であり、元記事から削除します。

 ただ、その前の

>> おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述が
>>あれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。

 ここにも深沢さんの議論の特徴が出ています。
 「はずです」という意味が分かりません。これは、単にご自分の希望を述べているだけです。


これは違うと思います。
 松本はこうは言っていない、おそらく重光も鳩山もそうは言っていないだろう、という話をしているのです。推測なのですから「はずです」としか書けません。私は重光や鳩山の全ての著作や発言に目を通してはおりませんから、推測するしかありません。しかし、私がそう考える根拠も付記しています。単に「希望を述べている」のではありません。何故「意味が分か」らないのか、私にはそちらの方がわかりません。

 そして、これらは枝葉の議論です。本筋ではありません。
 前回取り上げた「どこにも出てこない」もそうですが、オコジョさんの記事は、枝葉の議論にやたらと固執している気がします。

 議論の本筋は、「米国の意思」をどう見るかという話でした。
 次回は、これについて述べます。

続く


オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について

2013-02-13 00:46:22 | 領土問題
 2012年9月8日付けの拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」に対して、オコジョさんという方が、

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など

という2つの記事を書かれました。

 それに対して私が「4島返還論は米国の圧力の産物か?」を書いたところ、オコジョさんは拙記事に対する批判として

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題

の2つの記事を書かれ、さらに北方領土問題に関する諸論点について

「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?

「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲

の2つの記事で見解を示されました。

 私はこれらのオコジョさんの記事を読んで、最後の記事に

《一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》

とコメントしました。

 オコジョさんからは、

《わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
 どうか、存分にご研究ください。》

との返答をいただきました。

 その後、オコジョさんからは、いくつかの記事のトラックバックが送られてきました。その中には、拙記事の内容と全く無関係なものもありました。
 トラックバックとは、ブログの記事中で他の方のブログの記事にリンクしたことをそのブログに通知する機能です。そうではなく、単なる新記事の通知として使用されている方々がおられるのは承知していますが、私のブログの記事の下に、その記事の内容とは何の関係もない他の方の記事のトラックバックが表示されているのは、私には違和感があります。
 そこで、オコジョさんのある記事に、私のトラックバックに対する考え方はこうであり、拙記事の内容と無関係な記事のトラックバックはご遠慮願いたいと申し上げたところ、オコジョさんから、

・「以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!」
・「私たち」はトラックバックをお知らせとして用いている
・気にくわないのなら私のトラックバックを削除あるいは拒否すればいいだけだ
・資料取り寄せとそれを読むために待ってくれと言われており、「気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけ」ているのだ

との趣旨の返答をいただきました(原文は拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」のコメント欄を参照願います)。

 私も忘れているわけではなく、遅れていることはずっと気になっていました。
 にもかかわらずこれまで書かなかったのは、私にとっては多大な労力を要する作業であるため、なかなか踏み切れなかったからです。
 オコジョさんが挙げていたいくつかの文献は入手できましたが、読み込む時間がとれません。
 また、オコジョさんの論点はかなり多岐にわたっていて、それを整理して論評を構築するのは、私にとっては大変な作業です。
 私には、オコジョさんのように、多岐にわたる論点を盛り込んだ記事を短期間に執筆する能力はありません。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。
 その間、他のテーマでの記事は書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、それらが私にとってまだしも楽な内容だったからです。難しく、時間のかかる課題は後回しにしてしまっていたわけです。

 加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
 当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
 しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
 そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
 今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。

 しかし、オコジョさんにしてみれば、私が上記のようにコメントしたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
 また、以前の私の記事にはオコジョさんが指摘したとおりの事実誤認がありましたので、その点については私の見解を明らかにしておかなければなりません。

 前置きが大変長くなりました。
 まず、オコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の前半部で取り上げられている、私の池田香代子氏に関わる記述について述べます。

 私は最初の記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」で、「ダレスの恫喝」によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたかのように唱える例の1つとして、翻訳家の池田香代子氏のブログ

 1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。

時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。


とあるのを挙げました(太字は引用者による)。
 そして、昨年『日ソ国交回復秘録』のタイトルで再刊された松本俊一著『モスクワにかける虹』中の「ダレスの恫喝」の箇所を引用した上で、

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
 ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。


と評しました。

 これについてオコジョさんが「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」で、

池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。


と指摘されました。

 これに対して私が「「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で

本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
 したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。


と述べたところ、オコジョさんから、「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」で、

・「本書に拠る限り」という記述は池田氏が本書を典拠としていない以上意味不明
・誰の解説であろうと、その主張をこんな風に無批判に受容してしまうのは困る
・当時、各紙はいっせいに「ダレス警告」の内容とそれへの反論を掲げている
・松本著のダレス発言の内容から見ても「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という趣旨と見ることは可能
・松本は各紙の記者に情報を提供し、海外の研究者からの聞き取りにも応じている。「ダレス発言の根拠は本書だけ」などというのは、とてもあり得る話ではない
・米国側にも資料はあり、それを利用したマイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』には、まさに池田氏と同様の記述がある。典拠は米国の外交文書である。

といった趣旨の、長文のご批判をいただきました。

 拙記事を読み返して、これらの点についてはおおむねそのとおりだと認めます。

 そもそもオコジョさんの
「池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――」
という箇所を私自身引用しているにもかかわらず、その私が、ダレス発言の根拠は本書にしかなく
「誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう」
と述べているのは、おっしゃるように全く意味不明であり、オコジョさんに不審の念を抱かせたことは想像に難くありません。
 きちんと読んでいなかったとしか考えられません。恥ずかしい限りです。

 件の米国の外交文書も、呈示された文書名で検索したらすぐ出てきました(いい時代になったものですね)。

http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/pg_203

 確かに、池田氏が述べているのと同様の記述があります。

 ただ、オコジョさんが

 深沢さんの文面解釈には、非常なバイアスが感じられます。
 我らが友人のアメリカがそんなことをいう“はず”がない。いや、私はそんなことは絶対に信じないぞ――そんな意思がなかったら、上記のような無茶苦茶な議論など展開しようがないと私は感じるのです。


とあるのは――無茶苦茶な主張をしていたのは事実なのでそう思われてもしかたがありませんが――違います。
 私はそれほど米国に対してナイーブではありません。

 では何故私が根拠もないのに「誰かがダレス発言を勝手に膨らませた」などと思い込んでしまったのか。

 振り返ってみると、まず、以前に述べたとおり、佐藤優氏の記述が念頭にあったこと。
 別に佐藤氏が言うことなら一から十まで信じるわけではありませんが(この人は様々な媒体で活躍されていますが、私はこの人を書き手としてあまり信用していません)、北方領土問題は氏の専門であり、そういい加減なことを書くはずがないという「バイアス」がありました。

 次に、オコジョさんも指摘していたように、池田氏は日ソ共同宣言と「ダレスの恫喝」の前後関係を逆に理解していたこと。
 共同宣言がどういう経緯で成立したか多少なりとも知識があれば、「共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた」などという表現になるはずはありません。
 そうしたことを書く人物であれば、「ダレスの恫喝」についても「勝手に膨らませ」るか、膨らませたことを受容してもおかしくないという「バイアス」がありました。

 そして三番目に、「琉球政府の存続も認めない」という記述。
 オコジョさんがおっしゃるように、「永久に沖縄に居座るぞ」は「領土にする」と同趣旨かと私も思いました。しかし、琉球政府を認めないとする点に引っかかりました。
 米国が沖縄を領土として統治するにしろ、何らかの統治機構は必要なはずです。
 琉球政府は日本政府とは関係ありません。米国が統治のために設けた現地人による機構です。
 米国が「永久に沖縄に居座る」からといって、琉球政府を廃止する必要はありません。そのまま存続させても一向にかまわないはずです。現にプエルトリコや北マリアナ諸島といった米国の属領にも自治政府はあります。
 にもかかわらず、ダレスがそんな発言をするだろうかと考えました。

 この点については、上記の米外交文書に「no Japanese Government could survive.」と明記されていますね。
 これは沖縄の日本人政府という意味ではなく、文字どおり日本国政府のことではないでしょうか。
 永久に沖縄に居座ることにより、当時の鳩山自民党政権が存続し得ないという意味ではないでしょうか。
 私には、そう解釈する方が自然だと思えます。

 ともあれ、思い込みによる事実誤認をご指摘いただき、ありがとうございました。
 拙記事の「どこにも出てこない」旨の箇所を削除し、註を加えます。

続く

社民党が「リベラル」?

2013-02-12 00:58:00 | 現代日本政治
  1月25日付け朝日新聞デジタルの記事より。

さらば三宅坂 社民本部あす移転、会館解体へ 党の盛衰と共に半世紀

 社民党本部は26日、国会近くの「社会文化会館」から首相官邸裏の民間ビルに引っ越す。老朽化で会館が使用できなくなるためだ。一時は「リベラルの聖地を守ろう」と改築の動きもあったが、資金難で見送られた。新たな党本部の広さは現在の10分の1。老舗の護憲政党は存続の岐路に立つ。

 「ここで常任幹事会を開くのも最後。心新たにし、リベラル・護憲勢力の要として頑張っていきたい」。福島瑞穂党首は24日の常任幹事会であいさつし、さみしさをにじませた。


 社民党はいつから「リベラル」になったのか。

 「リベラルという語は時と場合によってさまざまな意味合いで用いられるので、明確な定義をすることが難しいが、近年のわが国においては、もっぱら、体制内での穏健改革派といった意味合いで、また、国家主義的、歴史修正主義的な動きを牽制する勢力といった意味合いで、用いられているように思う。
 例えば、河野洋平や加藤紘一は、典型的なリベラルだろう。
 『右でも左でもない政治―リベラルの旗』という著書(幻冬舎、2007年)のある中谷元・元防衛庁長官もリベラルだろう。
 谷垣禎一や古賀誠なんかもリベラルと言っていいのではないだろうか。

 古くは石橋湛山、芦田均、緒方竹虎、尾崎行雄などがリベラリストとの評価を受けている。

 民主党は、自民党に比べてリベラル寄りと見られるが、「保守」を自認する勢力も存在し、リベラルを正面から掲げてはいない。現在策定中の綱領に「リベラル」の語を入れることに賛否両論があると聞く。現代表の海江田万里はかつてリベラルを自認していたと記憶している。生方幸夫や岡崎トミ子らの「リベラルの会」というグループもあるが、いわゆるリベラルとはやや毛色が異なるように思う。

 対するに、社民党は、その名のとおり社会民主主義の政党だろう。
 現在、社民党のホームページには「社民党は、社会民主主義を掲げている政党です。」として、2006年の第10回全国大会で採択された「社会民主党宣言」が掲載されている。
 その宣言のどこにも「リベラル」の文字はない。

 社会民主主義という語は、これも時と場合によってその意味するところは変わるが、大きく言って、社会主義の一派だろう。
 社会主義の一派であるマルクス・レーニン主義がロシア革命によってソ連として結実したのに対して、そのような暴力革命によらず、代議制に基づいて社会の漸進的な改良を図る立場を指すのだろう。
 政策や主張がリベラルと社会民主主義とで似通ったものになるということはあるだろう。しかし、本質的には拠って立つ基盤が異なるのではないか。

 そして、社会党が社会民主主義を正面から唱えるようになったのは1980年代の末期のことにすぎない。それ以前には、マルクス・レーニン主義を奉じる左派が優勢であった。右派の有力者であった江田三郎は、朝日の記事で触れられているようにこの社会文化会館の建設に尽力したにもかかわらず、党内抗争に敗れて党を去った。
 石橋委員長時代の1986年に「新宣言」で革命路線からの脱却を図ったが、階級政党か国民政党かという問いには答えず「国民の党」とするなど、なお曖昧なものであった。
 1980年代末期の土井ブームに合わせて、社会党はようやく社会民主主義を前面に押し出した。かつての左派の理論家が、これからは社会民主主義の時代だと臆面もなく説いた。しかし社会党は党勢を伸ばすことはできず、やがて日本新党のような新興勢力や新生党、新党さきがけといった自民党離党派に押され、衰退した。 
 にわかに看板を掛け替えただけの旧勢力だと見抜かれていたからだろう。

 朝日の記事には、会館の1階入り口にある浅沼稲次郎・元社会党委員長の胸像の写真が掲載されている。

 浅沼と言えば、社会党委員長に就任する前年の1959年に訪中した際に、「米帝国主義は日中共同の敵」と演説したことで知られる。
 東京大学東洋文化研究所の田中明彦研究室のサイトから一部を引用する。

 今日世界の情勢をみますならば,二年前私ども使節団が中国を訪問した一九五七年四月以後の世界の情勢は変化をいたしました。毛沢東先生はこれを,東風が西風を圧倒しているという適切な言葉で表現されていますが,いまではこの言葉は中国のみでなく世界的な言葉になっています。

〔中略〕

中国の一部である台湾にはアメリカの軍事基地があり,そしてわが日本の本土と沖縄においてもアメリカの軍事基地があります。しかも,これがしだいに大小の核兵器でかためられようとしているのであります。日中両国民はこの点において,アジアにおける核非武装をかちとり外国の軍事基地の撤廃をたたかいとるという共通の重大な課題をもっているわけであります。台湾は中国の一部であり,沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います。。(拍手)


 「米帝国主義」などという言葉を用いる者が何でリベラルなものか。

 
 最後に申し上げたいと思いますことは,一昨年中国にまいりましたさいに毛沢東先生におあいいたしまして,そのときに先生にこういうことをいわれたのであります。中国はいまや国内の矛盾を解決する,すなわち資本主義の矛盾,階級闘争も解決し,帝国主義の矛盾,戦争も解決し,封建制度の矛盾,人間と人間の争い,これを解決して社会主義に一路邁進している,すなわちいまや中国においては六億八千万の国民が一致団結をして大自然との闘争をやっているんだということをいわれたのであります。私はこれに感激をおぼえて帰りました。今回中国へまいりまして,この自然との争いの中で勝利をもとめつつある中国人民の姿をみまして本当に敬服しているしだいであります。

〔中略〕

 人間本然の姿は人間と人間が争う姿ではないと思います。階級と階級が争う姿ではないと思います。また民族と民族が争って血を流すことでもないと思います。人間はこれらの問題を一日も早く解決をして,一切の力を動員して大自然と闘争するところに人間本然の姿があると思うのであります。このたたかいは社会主義の実行なくしてはおこないえません。中国はいまや一切の矛盾を解決して大自然に争いを集中しております。ここに社会主義国家前進の姿を思うことができるのであります。このたたかいに勝利を念願してやみません。(拍手)われわれ社会党もまた日本国内において資本主義とたたかい帝国主義とたたかって資本主義の矛盾,帝国主義の矛盾を克服して国内矛盾を解決し次には一切の矛盾を解決し,つぎに一切の力を自然との争いに動員して人類幸福のためにたたかいぬく決意をかためるものであります。(拍手)


 わが国においても毛沢東流に資本主義の矛盾を解決して社会主義を前進させようと説く浅沼が、何でリベラルなものか。

 その浅沼は、戦中期には親軍派の代議士であった。以前にも取り上げたことがあるが、朝日新聞論説委員を務めた熊倉正弥は『言論統制下の記者』(朝日文庫、1988)で、松平恒雄(1877-1949)が初代参議院議長(任1947-1949、在任中に死去)を務めていた頃のエピソードを紹介している。

社会党の浅沼稲次郎がはでに活躍して、新聞にも好意的な記事がよく出た。ある時、松平がふとこういうことを言った。「浅沼君も今はああやっているが、戦前の排英運動が盛んなころ、デモが私の家の前まで押しかけてどなったり石を投げこんだりした時には、タスキをかけてその先頭にいたもんですよ。無産党なんて、そんなもんでした」

 排英運動とは、日中戦争最中の1939年、抗日テロリストの引き渡しを天津の英租界が拒否したため日本軍が同租界を封鎖したことに端を発する国民的運動。抗日を続ける蒋介石らの重慶政府を支援していると見られた英国の大使館への抗議にとどまらず、宮内大臣を務めていた松平ら親英米派をも攻撃した。英米流の自由主義者を排撃し、独伊との枢軸を進めるという当時言うところの「革新」派による運動であった。
 そんなものに従事した浅沼が、何でリベラルなものか。
 そんな浅沼を殉教者として崇めてきた社会党、その後身の社民党が何でリベラルなものか。

 「三宅坂」は「リベラルの聖地」などではない。社会主義の聖地だったのだ。そして社会主義の凋落と共に彼らはその地を去らざるを得なくなったのだ。
 にわか社会民主主義者からさらににわかリベラルへと転身した社民党。しかし、彼らが「勢力の要」となることはこれまで同様、ないだろう。