トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

広田弘毅小論-城山三郎『落日燃ゆ』のラストシーンの嘘

2006-08-31 21:07:18 | 日本近現代史
A級戦犯のうち文官で唯一死刑になった広田弘毅を描いた小説として、城山三郎の『落日燃ゆ』(新潮文庫)があり、評価が高い。私も昔読んで感動した。
 しかし、昭和史についての知識を深めるに伴い、果たしてこれは真実の広田像なのか、疑問に思うようになった。
というのは、広田は玄洋社と関係が深く、頭山満の葬儀委員長を務めるなど、右翼色の強い人物ではないかと思われるからだ。たしかに松岡や白鳥などとは違うタイプのようだが、少なくとも軍部や右翼方面には受けがいいから起用されたのではないか。そしてそれが、死刑に処されたことに大きく影響しているのではないだろうか。
 『落日燃ゆ』では時代の制約の中で軍部に抗した政治家として描かれているが、それは正しい見方だろうか。抵抗らしい抵抗を見せなかったというのが、正確なところではないだろうか。当時の世相や、明治憲法下の制約を考えると、厳しい言い方ではあるだろうが。
 広田の人物像やその役割について、今後も考察していきたいと思う。
 ただ、『落日燃ゆ』のラストシーンについて、強調しておきたいことがある。
 処刑される際、広田らの前の組が「天皇陛下万歳」を唱えた。それを聞いた広田は、教誨師の花山信勝に言った。
(以下引用)

「今、マンザイをやっていたんでしょう」
「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞えたのではありませんか」
 仏間に入って読経のあと、広田がまたいった。
「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」
 花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」
と促した。
 だが、広田は首を横に振り、板垣に
「あなた、おやりなさい」
 板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
 広田は、意識して「マンザイ」といった。広田の最後の痛烈な冗談であった。
 万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。

(引用終わり)
 初めて読んだとき、この箇所にも感動したものだ。
 しかし、これは城山の創作ではないのか。
 というのは、城山が参考資料に挙げている、花山信勝の著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(朝日新聞社、S24)によると、「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」までのやりとりは同じだが、
(以下引用)

「それでは、ここでどうぞ」
というと、広田さんが板垣さんに、
「あなた、おやりなさい」
とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。このときは、米兵の助けをからず、私がコップを持って、一人々々全部に飲ませてあげた。広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。

(引用終わり。ただし、旧字は新字に直した)
とあるからだ。そして刑場に入り、処刑されたと。
 万歳を「マンザイ」と読む読み方もあり、広田はそれにならっただけで、万歳を皮肉る気持ちなどなかったという説を聞いたことがある。花山によると、広田もそれに加わったのだから、そう考えるのが妥当ではないかと私も思う。
 しかし、城山は自分の描きたい広田像に合わせて、事実を改変した。その直前まで『平和の発見』からの引用が何箇所もある(脚注で明記されている)のだから、読者はこの箇所も同書に基づく事実だと誤解しかねないにもかかわらず。
 いかに小説とはいえ、このような書きぶりが許されるのだろうか。私のように、『落日燃ゆ』のように広田は天皇陛下万歳を拒否して死んだのだと信じている読者は多いだろう。私が、同書の広田像の見直しが必要ではないかと考えるのは、まず何よりもこの問題があるからだ。

(以下2009.3.26追記)
 『落日燃ゆ』のラストシーンが『平和の発見』と異なるのではないかという疑問は、両書を併読した者なら誰しもがもつことだろう。
 小谷野敦のブログによると、『落日燃ゆ』の刊行当時に、既に平川祐弘がこの点について批判しているという。

佐藤優『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』小学館、2006

2006-08-29 23:32:08 | 日本近現代史
 大川の『米英東亜侵略史』の本文と、それに対する佐藤の評論で構成した本。佐藤の文章はさすがにレベルが高いが、同意できない点が多い。
 大川を、そして同書を高く評価し、同書の論理を法廷で展開すれば有効な反撃になっただろうという。そして、大川が精神鑑定の結果正常と判断されてからも法廷に戻されなかったことについて、「アメリカ人が怖じ気づいたのだと筆者は見ている」というが、そうだろうか。
 既に大正時代に近衛文麿が「英米本位の平和主義を排す」を発表していることからもわかるように、『米英東亜侵略史』のような見方(言ってみれば、現代の大東亜戦争肯定論のようなもの)はある程度当時の国民の基本認識であったのではないか。そして、そうした論理を法廷で明らかにしたとしても、何ら有効性はなかったと思われる。現に、法廷では、清瀬一郎をはじめとして、弁護人たちはこの裁判の有効性を問うさまざまな論理を展開している。しかし、それらは裁判で一顧だにされていない。なぜから、これはあらかじめ結論が決まっている政治裁判であるからだ。仮に大川が出廷していたとしても、それを覆せた、あるいは有効に反撃できたとは思えない。
 大川が法廷に復帰しなかったのは、結局のところ大川自身の戦争への関与が低かったからであろう。大川は、ナチスのローゼンベルグのような存在ではなかったということが判明したからではないか。
 また、日本やドイツ、イタリアは「棲み分け」を主張したのだとしているが、そうだろうか。ドイツのチェコ併合、ポーランド侵攻、日本の仏印進駐は「棲み分け」の範囲を超えていたのではないか。
 また、大東亜共栄圏を「あなたを苦痛から解放するために、当面あなたの苦痛はもっと大きくなりますが、我慢してください」という善意の論理によるものとしているが、たしかに理念としてはそうかもしれないが、実際の朝鮮・台湾や占領地での日本のふるまいは違うのではないか。韓国や中国にしてみれば、大川著と全く同様の「日本東亜侵略史」が記述できると思うが。
 思うに、佐藤は、本文中にもあるように、収監されてから、同じく収監歴を持つ大川周明に本格的に着目したのだろう。そして、大川の著作が、日本ファシズムのイデオローグというイメージと異なり、学術的、理論的であることに驚いたのだろう。また、欧米列強の侵略に対するアジアの解放という主張も、それ自体としては誤っているとは言えないことに新鮮味を感じたのだろう。おそらく、それまでは戦前・戦中期の日本の外交や戦争について、あまりかえりみることがなかったのではないか。しかし、その見方は一面的すぎる。
 あとがきで、日本人としての国家観を確立するための書として、大川の『日本二千六百年史』や北畠親房『神皇正統記』、文部省『國體の本義』などを「一切の偏見を排して、テキストとして」読むことを薦めているのだが、大丈夫かという気がする。このうち『國體の本義』は目にしたことがあるが、あんなもの、それこそ獄中でなければ読めたものではないと思うが。「それによって私たちが日本人であることの魂(大和魂)が甦ってくるのである」って・・・。いろいろ模索しているのだろうし、右傾化の進む昨今ではそれなりに評価されるのかもしれないが、何か方向性を間違えているのではと心配になる。
 大川や『國體の本義』が読まれた世相を推し進めた結果が、敗戦だったのである。佐藤氏はその点に対する見方が甘いのではないか。また、「一切の偏見を排して、テキストとして」読むことに、あまり意味があるとは思えない。何故なら、著作物というものは所詮時代の制約の中で書かれたものであり、時代背景を抜きにして「読み解く」ことは誤読につながりかねないからだ。

福井雄三『司馬遼太郎と東京裁判』主婦の友社、2006

2006-08-27 16:34:41 | 日本近現代史
 副題の「司馬史観に潜む「あるイデオロギー」」、帯の「東京裁判史観が隠れていませんか」でだいたいの内容は想像がつくが、その主張するところをもう少し詳しく知りたいと思って買ってしまった。というのは、私は小説はほとんど読まないので「司馬史観」なるものはよくわからないのだが、「司馬史観」と「東京裁判史観」は異なるものだと理解していたからだ。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝が教科書問題で発言しだした初期の著作『近現代史教育の改革―善玉・悪玉史観を超えて』(明治図書、1996)において、彼らの提唱する自由主義史観は、東京裁判史観とも大東亜戦争肯定史観とも異なる中道的なもので、具体的には司馬史観だと明言していた。その後、藤岡らの主張はさらに右傾化し、大東亜戦争肯定論とほとんど変わらないものになっているように見受けられるが、それはさておき、司馬史観と東京裁判史観は異なるものだという論は、私の頭に強くすり込まれたので、本書の表題や帯を見てつい興味を覚えてしまった。
 で、読んでみたが、残念ながら私の期待に応えるものではなかった。
 まず、内容が薄い。第5章まであるが、本題の司馬作品と東京裁判との関係を本格的に論じているのは第2章と、その焼き直し的な第5章(東谷暁との対談)のみ。第1章は、一般的な東京裁判批判と、ノモンハン事件の見直しによる司馬批判、第3章は、著者が従軍慰安婦問題についての講演を変更させられたエピソードなどに見られる、現在も続く東京裁判史観の呪縛、第4章は、1938年当時の欧米において、日本の立場を支持する論説の紹介と、特に3章と4章などほとんど本題と無関係で、得るものは少なかった。
 次に、著者の言う「東京裁判史観」の定義に疑問がある。明確に定義づけた箇所はないが、最初の方に「東京裁判史観では、昭和に入ってから日本は急におかしくなった、と主張するわけである。特に昭和前期、軍閥の指導者たちが国民を侵略戦争に駆り立てて、無謀な世界侵略戦争に突入した末に日本を破滅させてしまった、というのである。」(8頁)とある。このような史観が司馬作品にもまた見られるというのが、著書による司馬批判の骨子のようである。
 しかし、これは「東京裁判史観」か? 司馬が、著者の言うように、明治の栄光と昭和の暗黒といった対比をしていたことは私も知っている。昭和戦前の一時期だけが、日本人がおかしくなってしまっていた時代だといった言い方もしていたと聞いている。しかし、これは「東京裁判史観」ではあるまい。
 東京裁判は、いわゆる十五年戦争期の日本を裁いたものである。それ以前の歴史について、善悪の評価はしていないはずだ。だから、明治は良かったが昭和は悪かったといった評価が出てくるはずもない。司馬作品にそのような史観が見られるとすれば、それは司馬史観なのだ。著者は、司馬作品には司馬史観が見られるという当たり前のことを取り上げて、それを「東京裁判史観」だとして批判しているに過ぎない。
 他の方のブログの孫引きだが、東京裁判研究家の富士信夫氏は、東京裁判史観を「東京裁判で下した判決の内容は全て正しく、満州事変に始まり大東亜戦争に終わった日本が関係した各種事件、事変、戦争は、すべて日本が東アジア及び南方諸地域を略取し支配しようとした被告たちの共同謀議に基く侵略戦争であって、戦前、戦中の日本の各種行為、行動はすべて『悪』であったとする歴史観」だと定義づけているという。私もこれに同意する。そして、司馬がこのような史観を持っていたかどうかは、司馬作品をそれほど読んでいないので何とも言えない。司馬は先の戦争を日本が一方的に悪い侵略戦争とみていたのか? 東京裁判は正当なもので東條はもちろん広田が死刑になっても良いと考えていたのか? 司馬が東京裁判史観の影響下にあると言いたいのなら、まずこうした点を論証すべきではないか。昭和陸軍の非合理性への批判など、東京裁判と特段関係あるまい。
 あと、司馬がソ連について過大評価しすぎているという論があるが、これは、ノモンハン事件の真相が明らかになったのは最近のことだし、時代の制約からやむを得ないのではないか。
 さらに余談だが、全般的に粗雑な表現が目立つ。第1章で横田喜三郎を売国奴と批判した箇所にはこうある。
「東大法学部は日本の法曹界に対して、隠然たる影響力を持っている。とりわけその教授ともなれば、その発言や主張が日本の社会に及ぼす影響は無視できぬものがあり、時によっては国策、ひいては国家の運命すら、左右できるほどの力を持つことがある。それ故にこそ、東大法学部教授という地位に就いている者にとっては、その言論活動において、国家の運命を双肩に担う者としての、無限の責任と義務が要求されるのである。」
なんとも仰々しい。しかし、この著者も東大法学部卒なのである。現在は某短大の助教授だそうだが、さぞかし国家の運命を双肩に担っているのだろう。東大法学部教授が国家の運命を左右した実例とやらをぜひご教示願いたいものだ。
 また、後記にはこうある。
「前作『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)において、旅順攻防戦とノモンハン事件に関する、司馬史観の従来の軍事解釈の誤りが白日の下にさらされたことは、読者にとって目から鱗が落ちる思いであったであろう。」
まあ、そんな感想が多数届いたのかもしれないが、それにしても自ら読者の目から鱗が落ちただろうなどと言う人を私は初めて見た。こんな先生に教わる学生さんに同情します。

血縁関係を理由に人を批判するという手法

2006-08-22 22:14:28 | 日本近現代史
 以前、岸信介が731部隊の実権を握っていたと主張して、岸の孫である安倍晋三を批判するブログ(「カナダde日本語」さん)のことを書いて、トラックバックを付けていたところ、そのブログで私の意見について取り上げていただいた。ありがたいことだ。
 その新しい記事にもまたコメントを付けさせていただいたが、その際、血縁関係でもって人を批判するというこの方の手法について詳しく述べていなかったので、ここに記すことにする。
 「カナダde日本語」さんは、7月29日の記事で
「富田メモによると、昭和天皇が「松岡までもが」と忌み嫌っていた人物の親戚である安倍が総理になることは、お亡くなりになった昭和天皇の本望ではないだろう。」
とも述べている。
 仮に松岡が首相になっていて、それが昭和天皇の意に反するというのならまだ話はわかる。松岡の親戚だからといって、なぜ安倍が首相就任を云々されなければならないのか。しかも、祖父の弟の妻のおじだというのだから、ほとんど他人である。
 こうした、血縁関係自体をもって人を批判する手法には、違和感を禁じ得ない。前近代的である。
 人間は、個人として尊重され、出生や社会的地位によって差別されてはならないのではないか。
 こうした方々にとって、人権とは、誰にでも普遍的に適用されるべきものではないらしい。権力者に対しては何を言っても許されるとでも思っているようだ。民主制において、権力者を監視することは重要だが、権力者に対してどんな批判をしても全て許されるというものではあるまい。
 また、この方は、8月19日の記事で
「オウム真理教の麻原の孫が総理大臣になったとしても、トラッシュボックスさんは全く気にならないのだろうか?」
と述べているが、気にならないわけはないが、私なら、麻原の孫ということだけでなく、その主張や活動内容によって、人物を判断したい。少なくとも、麻原の孫であるということだけで、その人物が首相になるべきではないとは思わない。
 と言うと、単に孫だというだけでなく、安倍は岸を政治的に継承しているではないかという反論が予想されるが、そのとおりだ。ただ、日米安保体制などはともかく、戦前の岸の活動についてまで、安倍が肯定的に評価しているのかどうか、私はよく知らない。そのへんはおそらくあいまいにされているのだろう。
 「カナダde日本語」さんたちが、岸の継承者としての安倍をそれ故に批判するのは自由だ。統一教会との関係など、岸と安倍に共通する批判すべき点をあげつらうのもいいだろう。
 ただ、731部隊の黒幕が岸であり、その情報を米国に売り渡して不起訴になったという説については、その根拠がまるでない、単なる推測に過ぎないものだ。そんなデマをまき散らして、その岸の孫であるということで安倍を批判する、そんな手法はおかしいのではないかと私は考える。
 なお、最初に触れた松岡の関係で補足すると、二・ニ六事件の黒幕と言われた真崎甚三郎という軍人がいるが、その息子の真崎秀樹は、昭和天皇の通訳を務めたことで著名である。二・ニ六事件に昭和天皇が激怒したという話もまた著名だが、真崎甚三郎に昭和天皇がいい感情を持っていたとは思えない。しかし、昭和天皇は、その息子だからといって遠ざけるような偏狭な人物ではなかった。

上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(1)

2006-08-18 23:58:13 | 日本近現代史
 小泉首相の参拝も終わり、既にテーマとしての旬を過ぎたような気もするが、気の向くままにまだ靖国について書く。
 1週間ほど前、地元の書店に
上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)
が平積みになっているのを見た。初版は今年の3月なので、売れているのだろうと思い、手に取ってみた。終章に中国と韓国の首脳に宛てた日本政府の声明案なるものが掲載されていたが、この末尾にこうあった。
「中華人民共和国 胡錦涛主席殿
 大韓民国 廬武鉉大統領殿」
違和感を覚えた。普通は
「中華人民共和国主席 胡錦涛殿」
ではないか? 著者は、ベテランの作家のはずだが、こういった言い回しは不得意なのか? 
 そう思いつつ、パラパラと見ていると、結構粗雑な主張が目に付いた。
 この著者は、最近靖国問題でいろいろと発言しているのを雑誌でよく見かけていたので、もはや専門家的な存在かと思っていたのだが、それにしては内容に問題があるように思う。
 これから、疑問点等を指摘することにする。(続く)

岸信介が731部隊の実権を握っていた?

2006-08-17 22:40:53 | 日本近現代史
私のブログにトラックバックを付けていただいた方のブログからたどって、ある方のブログを見ていると、安倍晋三の写真がTBSの731部隊に関する番組で流れた問題で、安倍の祖父である岸信介は「731部隊の実権を握っていた」から、同部隊と安倍はまんざら無関係ではないとの記事を見た。
私は、日本の近現代史にある程度の知識はあると思っていたが、こんな説は初めて知ったので、根拠を聞いてみたら、丁寧に教えていただいた(ありがとうございます)が今ひとつ納得できず、ネットで検索もしてみたら、どうも、反安倍の方々の間で、このTBS問題に絡んで、最近この説が強く唱えられているらしい。そして、どうもその元ネタはこのブログのようだ。
しかし・・・これはこじつけではないか?
岸信介が満洲国の国務院実業部総務司長に就任した年に、「軍獣防疫廠」が設立されたという。仮にそれが事実として、どうして
「つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。」
となるのか。飛躍しすぎている。
この記事へのコメントに、
「つかぬ事を伺いますが「軍獣防疫廠(関東軍 軍馬防疫廠 ?)」と「満州国 国務院 実業部」との関係とはどのようなモノなのでしょうか? 」
というものがあった。私も全く同じ疑問を持つが、これに対する返答はない。
手元の『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』で満洲国の国制について調べてみた。それほど詳しいことは載っていなかったが、建国当初、国務院には実業部のほか民政・外交・軍政・財政・交通・司法の計7部が置かれていたという。部はわが国の省に、司長は局長に相当するという。実業部には総務司のほか農鉱司、工商司が置かれていた。実業部の総務司の職務権限についてはわからないが、7部のうち軍政部以外には全て総務司が置かれている。となると、総務司というのは、各部内での総務的な仕事をする部署であると推測される。したがって、「人体実験や細菌兵器の開発」を許可するような部署ではなかったのではないだろうか(そもそも、「実業部」にどうしてそんな権限があると断じることができるのか不思議だ)。
私は、安倍氏を次期首相として強く支持しているわけではない。別に、見解の相違などを理由に、彼に反対する人がいてもいいと思う。しかし、安部憎さのあまりにデマをまき散らすようでは、いかんだろう。
岸が戦犯で731部隊の黒幕だから、孫の安部も首相にはふさわしくないという理屈も、それ自体あんまりだという気もするが。

近衛や東條を国民が選んだ?

2006-08-15 23:52:37 | 日本近現代史
テレビをつけるとたまたまNHKで終戦記念日を機に識者と一般人を交えての討論会をやっていた。ふだんこの手の番組は見ないのだが、最近靖国問題が気になっていたので少し見ていたら、一般人の中の二十歳ぐらいの男性が、とんでもないことを言い出したので驚いた。戦前の国民が自ら選んだ指導者なのに、戦後彼らにだけ責任を押しつけているのはおかしいというのだが、戦前の指導者を国民が選んだとは・・・(一瞬のことだったのではっきりとは覚えていないが、たしかこんな趣旨だったと思う。彼は靖国参拝・靖国現状維持賛成派だった)。
彼は、近衛や東條を国民が選んだと思っているのだろうか。衆議院で過半数の票を獲得したとでも?
この発言は即座に保阪正康氏らによって否定され、番組は何事もなく続けられたが、NHKのこうした番組に出演する一般人は、それなりにレベルの高い人だと思っていたので、そんな層でも若い世代は意外に基本的なことを知らないのだと気付かされた。
小林よしのりや「もし中国にああ言われたらこう言い返せ」などという特集を組むオピニオン誌など、やたら偏った意見ばかり目にしているとこういう人間になるのではないだろうか。それでは戦後流行った左翼の裏返しで、何ら変わりはないのだが。

靖国参拝「1回はOK」って・・・

2006-08-13 23:08:05 | 靖国
靖国参拝1回限り容認 中韓「安倍首相」念頭に (共同通信) - goo ニュース
私は、首相は靖国に参拝すべきだとは必ずしも思わないが、中国・韓国の批判があるから参拝すべきでないとはさらに思わない。靖国神社は戦没者追悼施設であり、A級戦犯も合祀されているとはいえ、A級戦犯の合祀を目的とした施設では決してない。「ドイツの首相がヒトラーの墓に参るようなもので、中韓の反発は当然」というような言葉を目にすることがあるが、全く不適切なたとえで、そのような性格のものではない。
靖国参拝は本来外交問題となるべき性質のものではない。それが問題化したのは、要するに日本国内の左派が騒ぎ立てて中韓にご注進したからだが、それを受けた中韓の批判に対し、日本政府は毅然として対応すべきだったのに、これを受け入れて譲歩してしまい、この問題が外交カードとして使えることを中韓に理解させてしまったためだ。
この譲歩をかつてした者たちが、最近の日本と中韓との関係について、首脳間の信頼関係が構築されていないなどと批判しているが、では彼らの時代には信頼関係が本当にあったのか。首脳会談は開かれ、表面的にはそれなりに平和的な関係が保たれていたようだが、それは結局相手の嫌がることは言わずに、諸問題を先送りしてきただけではないのか。
そんなわけで、中韓が反対するから参拝するなという論には同意できない。今回のこの報道、中韓に「何回までならOK」などと決められる筋合いはないと思うが、これまでの見解が絶対反対であったことを考えると、それなりに向こうも譲歩してきたのだなと思われる。歴史認識の問題で中韓にも譲歩させることが可能だということを示したという点で、小泉外交の数少ない成果と言えるだろう。

新たな国立の追悼施設を!

2006-08-09 13:18:18 | 靖国
参拝是非から「あり方」論へ 「靖国」新展開 (朝日新聞) - goo ニュース
麻生案のように、靖国神社を非宗教法人化した上で国立追悼施設とするというのは、靖国神社の由来を考えるとスジが通った話だと思うが、神社自体や靖国支持者のこれまでの動きから考えると、実現は極めて困難だろう。
この際、靖国神社は支持者のためにそれはそれとして置いといて、新たな非宗教の国立追悼施設を作るのが現実的ではないだろうか。
数年前にもこうした議論があり、その際、靖国神社があるのに同じようなものを二重に作る必要はないとか、国民は支持しないだろうとか、中国や韓国におもねるものだとか反対意見があったように思うが、必ずしもそうではないだろう。

私は、首相の靖国参拝は、戦没者の慰霊を目的としたものであり、中韓や左翼日本人が主張するような先の戦争の礼賛や日本の軍事大国化を目的としたものではなく、A級戦犯が合祀されていることについても、敗戦して処刑されたというのは戦死と同等と考えられるので、小泉首相が言うように、何ら問題はないと思っていた(ただ、小泉首相は、中韓との関係改善を図る外交的努力を怠っているとは思っていたが)。
しかし、冨田メモに対する保守系メディア・言論人の無様な反応を見て、さらに昨今の大東亜戦争肯定論が公然と語られる状況と合わせて、考えが変わってきた。
戦前の国家神道の時代ならともかく、首相が、戦没者の追悼に、一宗教法人である靖国神社に参らざるを得ないという状況は、これでいいものだろうか。
戦没者は追悼したいが、靖国神社には抵抗を覚えるという人は、どこに参ればいいのか。
もともと、明治政府が国家神道を採っていたから、追悼施設が神社という形をとったに過ぎないのだから、戦後に政教分離がなされた際に、追悼施設が非宗教化されてもよかったはずで、それがなされなかったのは、やはり当時の国民感情を考慮してのことだろう。しかし、もはや戦後60年。政教分離も定着したし、いつまでも靖国にこだわり続ける必要はないのではないだろうか。
私はむしろ、現状の靖国参拝にこだわり続けることで、戦前の日本を全肯定するような見方が、歴史に無知な若い世代に蔓延するのを恐れる。