本書では、もう一つ、重光葵という極めて独善的な外交官がなした大いなる罪についても明らかにされている。日本を国際的孤立へと導いたターニングポイントが1930年代にはいくつかあるが、その一つ「日本によるアジアモンロー主義宣言」と欧米から非難された「天羽声明」は、実は外務大臣広田の部下たる重光外務次官が勝手に起草し、重光のパシリである天羽英二外務省情報部長に発表させたものだったのである。この声明は重光が広田の頭越しに勝手にやった独走だが、広田は重光の独断をいさめることはせず、これを追認してしまうのである。その背後には、右翼広田が夢想する「アジア人によるアジア支配」という自己中な「アジア主義の妄想」が隠れていた。
本書はしばらく前に読んだが、そんな記述、あったかなあ。
読み返してみると、あったあった。付せんまで付けていたのに忘れていた。
まずまず順調にきていた広田の外交にとって、天羽声明は最初の大きな失策であった。なぜ広田は、天羽声明を十分に感知できなかったのだろうか。かつて広田は、創成期の外務省情報部で次長を務めたこともあり、情報の扱いには慣れていたはずである。
実のところ天羽声明の背景には、重光外務次官の存在があった。中国に対して排他的な方針を進めがちな重光は、広田より九歳も若かったが、広田の外相就任以前から外務省の対中国政策を主導していた。しかも重光は、中国に対する列国の介入について、広田以上に敏感だった。そのことが、天羽声明にも反映されたのである。(p.76-77)
天羽が読み上げたのは、一九三四年四月一三日に広田の名で有吉明駐華公使に宛てた第一〇九号電報のほぼ全文だった。第一〇九号電報を起草したのは亜細亜局第一課長の守島であり、広田にとって守島は修猷館の後輩に当たった。守島に外務省入りを勧めたのが広田であったことはすでにふれた。だが、この第一〇九号電報を守島に書かせたのは、広田ではなく重光次官であった。つまり重光は、広田の頭越しに対中国政策を掌握していたのである。
駐華公使のころから重光は、部下の堀内干城を通じて守島と連絡していた(『満州事変と重光駐華公使報告書』)。次官となった重光は守島との連携を強めており、そこから広田は排除された。
守島によると、「私(守島――引用者〔深沢注:服部〕注)の作った電信案は次官(重光――引用者〔深沢注:服部〕注)の気に入らず、シカラレ、シカラレ二度も書き直した。(中略)電信案がやっと次官をパスしたので、改めて桑島東亜局長、重光次官のサインを取って、広田大臣の所に持って行った。大臣は変な顔をされたが、兎に角サインを得たので、直ぐに電信課から発電した」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』)という。発電された第一〇九号電報は形式的に広田名だが、内容的には重光の電報といってよく、それを読み上げたのが天羽声明であった。
広田と重光の関係について守島は、次のように振り返る。
「重光氏は広田外相の下で、余り従順な次官ではなかったように思う。同氏はともすると自分の対支外交をやる傾〔深沢注:かたむき〕があった。しかし広田氏はズルイと云うか、人物が大きいと云うか、重光氏独特の対支外交に、余り干渉されなかったようである」
外相でありながら広田は、重視していたはずの対中国政策において、実質的な権限を重光次官に握られていたのである。このため広田よりも強硬な重光の主張が、はからずも天羽声明として公表されてしまった。(p.77-78)
しかし、以前読んだ同じ中公新書の渡邊行男『重光葵』には、こうあった。
天羽声明はその重大さにかかわらず、天羽情報部長独断で行なわれ、大臣にも次官にも、東亜局にさえなんの事前連絡もなく行なわれた。いずれも十八日朝の新聞を見て驚いた。
どちらが正しいのだろうか。
服部がことの経緯を詳細に述べているのに対し、渡邊の記述は実にあっさりしている。
私は最初、渡邊が重光を弁護するために(渡邊の筆致は重光に好意的である)、天羽の独断であったと書いているのではないかと思った。
しかしよく考えてみると、服部は、天羽声明の元は重光が実質的に起草させた第109号電報であると述べているに過ぎず、天羽がそれを発表したことまでが重光の指示によるものだとまでは述べていない。
天羽がそれを何故発表したのかについて服部は言及していない。
だから、それはおそらく、渡邊が言うように、天羽の独断によるものなのだろう。
ただ、それを明記していないがために、ビーケーワンの書評者のように、重光が発表させたなどと誤認をしてしまうおそれがある。
この書評者がそそっかしいのはもちろんだが、服部の表現にも問題があると思った。
重光と言えば、東郷茂徳と並んで、戦前の外交を担った重要人物である。外交官時代に爆弾テロで片脚を失い、敗戦時にはミズーリ号上で降伏文書に調印し、また親軍派でも親独伊であったわけでもないのに、東京裁判では最短ながら禁固7年の実刑に処せられたこともあって、悲劇的なイメージがある。著書『昭和の動乱』や残された日記などからは真摯な人柄がうかがえる。戦後の政治家としての活動はともかく、戦前の外交官、外相としての重光の評価は概して高い。
しかし、その重光にしても、広田以上の対支強硬派であったことは、もっと認識されていいのではないか。
大杉一雄が『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)で次のように述べているのを見つけた。
このころ〔深沢注:1935年ごろ〕外務省は何を考えていたのだろうか。満州事変が起きて幣原喜重郎が霞が関を去ってから、外務官僚のなかに白鳥敏夫(一九一四年入省)を中心とする軍部協力派が現れたが、なお中心はそれに批判的なグループすなわち有田八郎(一九〇九年)、重光葵(一九一一年)、谷正之(一九一三年)らが主流を形成し、その頂点に広田(一九〇六年)がいた。彼らはすでに満州国の建設がそれなりに軌道にのりつつあった一九三五年頃ともなれば、その既成事実の上で政策を立案するしか官僚の存在理由はあり得ないと考え、独自に新情勢に即した外交の理論付けを行いつつあったのである。
たとえば前三四年四月に問題になった「天羽声明」などはそれである。〔中略〕これは一種のアジア・モンロー主義を謳ったものとして、中国及列強間に大きな反響をまき起こした。それが余りに大きかったので、外務省は弁明にこれつとめたが、その真意は大陸より英米勢力を排除しつつ、日本の進出を独占的に進めようとするものであった。これはもちろん軍部から歓迎されたが、軍部の圧力によってつくられたものではなく、外務省の独自に決定した政策であった。このように外務省の政策は、非常にクリティカルな結果が予想されたり、あるいは手段が過激にわたるものなどのほかは、基本的には軍部のそれと一致するようになった。この意味において日本の対中国政策に関しては、外務省も、当然のことながら、責任を有するものである。(p.28-29)
そういうことだろう。