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日々の思いをたまに綴るブログ。名無しさんは原則コメント非承認です。

ハル・ノートを受諾していたらどうなっていたか

2018-03-07 22:50:54 | 大東亜戦争
 こんなツイートを見かけた。

平和を求めて1:「戦争は繰り返してはいけない」というのは誰でもわかるが、真珠湾攻撃をせずハルノートを受託していたらどうなっていたか、という考察は聞いたことはない。その場合日本は米国に石油を握られアジア他国同様植民地にさせられ、それは今でも続いていたかもしれない。それで良いのか?


 ハル・ノートを受諾していたらどうなっていたかという考察を聞いたことがないとすれば、それは当人の視野が狭いからだろう。
 むしろ、歴史のifとして、誰しもが考えてみたくなることではないだろうか。
 Googleで「ハルノートを受託していたらどうなっていたか」を検索してみると、Yahoo!知恵袋をはじめ、さまざまなコミュニティサイトで考察が展開されている。

 手元にあった坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康の歴史家4人による討論集『昭和史の論点』(文春新書、2000)を開いてみると、ハル・ノートも取り上げられており、秦が「私は以前からハル・ノート受諾説なんです」「受諾するとか拒否するとかいわないで、しばらく放ったらかしにしておけばいい」と述べ、保阪が、有田八郎元外相は開戦後に読んで受諾すべきであったと書き残していると紹介しているのに対し、坂本と半藤は、受諾したとしても米国はすぐには石油をよこさないのではないかなどと否定的だが、わが国が米国の植民地と化したのではないかという不安など4人とも全く述べていない。

 私が愛読した大杉一雄『日米戦争への道(下)』(講談社学術文庫、2008、親本は『真珠湾への道』講談社、2003)には、次のようにある。

(3)日米戦争が避け得たならばそれに越したことはなかった、とは誰でも考えることであろう。そう思っても、いまさら詮ないことなのだが、そのような発想が少ないのは、そこに日本はあの戦争に負けてよかったのだという思いが潜在しているからであろう。たとえば「城山さん、あの戦争、負けてよかったですね。負けたのがいちばんの幸せ」という吉村昭と城山三郎の対談がある(城山は「負けてよかったとは言いたくないけどね」と応じているが。吉村昭『歴史を記録する』)。あの敗戦がなければ、今でもなお軍国主義日本が存続していて、軍人が幅をきかせており、市民的自由も、人権尊重も、また経済成長もなく、戦前の惨めな状態が続いているだけだという思いが強いのではないだろうか。〔中略〕
 「ハル・ノート」に関する次のような見解も同様ある。

〔前略=深沢による〕私は、あのときにハルノートを受けいれた日本が、いまのこの時代までつづいていたと仮定したら、いささかゆううつになってしまう。……(政治的自由や経済的発展の観点からではなく)増上慢きわまりない国家になっていて、世界の鼻つまみになっていたはずだ。……とくべつの国家目標もなく太平洋を徘徊し、極東の権益に軍事力でしがみつき、国民は“神の子”と有頂天になっていたはずだからである。(保阪正康『さまざまなる戦後』)


(4)しかし筆者はどうしてもこのように想定することができない。日本がハル・ノートを受けいれ、あるいは事態の推移を見守った場合、後者のケースでは日中戦争はなお続くわけだが、その後の問題はヨーロッパの戦局推移、とくに独ソ線の行方である。真珠湾攻撃の日はドイツ軍のモスクワ敗退の日であったが、いずれ米国は参戦しドイツの敗北は必至である。しかみ日本の不参戦によって、その時期は早まり、勝利した連合国は、日本に対してさらに圧力をかけてくるだろう。すなわち撤兵および蒋介石政権を相手とする日中戦争の解決、中国における門戸開放の要求とともに、日本国内の民主化、軍備縮小を迫ってくるだろう。〔中略〕
 ドイツ壊滅後、国際的にまったく孤立した日本は、もはや抗すべくもない。とても「極東の権益に軍事力でしがみつき、国民は“神の子”と有頂天になってい」るわけにはいかないのである。紆余曲折はあろうが、国内における軍部勢力は衰退せざるを得ず、親英米勢力が復活し、政権は文民の手に復帰することとなるだろう。軍部クーデタが起こったとしても、もはや軍事政権の永続を許す国際情勢ではあり得ない。むしろ戦時中抑えられていた国民のエネルギーは、その反動も加わって、はげしく盛り上がり、他から与えられたものでない、民主主義復活の方向に動くだろう。要するに「大正デモクラシー」の蘇生である。このように日本が第二次世界大戦に入らなかった場合の結果の想定は、決して悲観的に見る必要はない。もちろんその成果は、われわれの経験した戦後のそれに比べれば、テンポは緩慢で、徹底を欠き、不十分のものではあるだろう。しかしそれは何よりも、あの戦争の内外における、有形無形の犠牲と損害と惨禍を避け得たものであるし、また民族の誇りと自主性を保つこととなり得るのである。(前掲書、p.352-354)


 大杉は続いて、枢軸国寄りではあったが第二次世界大戦では中立を維持したスペインの例を挙げて自説を補強している。

 私はこの大杉の見解に強い説得力を覚える。

 ところで、冒頭で挙げたツイ主のように、ハル・ノートについては、受諾か開戦かの二者択一で論じる人が多いが、ハル・ノートの冒頭には「試案ニシテ拘束力ナシ」とあり、またこれをいついつまでに受諾しなければかくかくしかじかの措置をとるといった文言もないのだから、いわゆる最後通牒ではない。したがって、大杉も述べているように、受諾も拒否もせずに交渉を続けるという選択肢も有り得た。
 わが国がそうしなかったのは、このブログの以前の記事でも述べたように、交渉不成立の場合に開戦する期限をあらかじめわが国が決めていたからだ。ハル・ノートの内容があまりに堪えかねるものだったから開戦したのではない。もっと穏当な返答であったとしても、交渉不成立であれば開戦することになっていた。
 そうした事情を抜きにして、ハル・ノートの内容のみをもって米国は不当だと断じる主張に、私は今や説得力を覚えない。



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産経抄は「人でなし」か

2017-10-26 07:12:09 | 事件・犯罪・裁判・司法
 10月19日の産経抄。

日本を貶める日本人をあぶりだせ 10月19日

 日本の新聞記者でよかった、と思わずにはいられない。地中海の島国マルタで、地元の女性記者が殺害された。車に爆弾を仕掛けるという残虐な犯行である。彼女は「タックスヘイブン」(租税回避地)をめぐる「パナマ文書」の報道に携わり、政治家の不正資金疑惑を追及していた。マルタとはどれほど恐ろしい国か。

 ▼今年4月に発表された「報道の自由度ランキング」では47位、なんと72位の日本よりはるかに上位だった。ランキングを作ったのは、パリに本部を置く国際ジャーナリスト組織である。日本に対する強い偏見がうかがえる。一部の日本人による日本の評判を落とすための活動が、さらにそれを助長する。

 ▼米紙ニューヨーク・タイムズに先日、「日本でリベラリズムは死んだ」と題する記事が載っていた。日本の大学教授の寄稿である。安倍晋三首相の衆院解散から現在の選挙状況までを解説していた。といっても、随所に左派文化人らしい偏った主張がみられる。

 ▼憲法をないがしろにして軍事力の強化を図る首相の姿勢は、有権者の支持を得ていない。最大野党の分裂のおかげで自民党が勝利するものの、政治はますます民意から離れていく、というのだ。米国人の読者が抱く日本のイメージは、民主主義が後退する国であろう。

 ▼特定の政治的主張だけを取り上げる、国連教育科学文化機関(ユネスコ)には、困ったものだ。いよいよ問題だらけの慰安婦関連資料の登録の可能性が強まっている。田北真樹子記者は昨日、登録されたら脱退して組織の抜本改革を突きつけろ、と書いていた。

 ▼そもそも国連を舞台に、実態からかけ離れた慰安婦像を世界にばらまいたのは、日本人活動家だった。何ということをしてくれたのか。


 このコラムを猛然と批判するツイートをいくつも見た。

 朝日新聞長岡支局の伊丹和弘記者は、

《同業者が殺された事件のコラムの書き出しが「日本の新聞記者でよかった」かよ(唖然
忘れたか? 日本では既に30年前に職場で新聞記者が殺されるテロ事件が起きてるんだよ!
→ 【産経抄】日本を貶める日本人をあぶりだせ》

と自社の記者が殺された赤報隊事件を例に挙げて批判。

 ある方は、

《報道の自由ランキングは新聞記者が権力と仲良く安全に暮らしてる順位ではないのだが、反骨の海外女性記者が殺害された話を「日本の新聞記者でよかった、と思わずにはいられない」から書き始めて『日本を貶める日本人をあぶりだせ』という表題に仕上げる産経新聞すげえな…》

《「日本では記者が殺されていないのに、なぜ報道の自由ランキングが低いのでしょうか?」という疑問に自分で答えちゃってるよねこの記事。同じジャーナリストが殺されたニュースを「我が国の記者でよかった!」から書き始める報道なんか見たことねえよ。どんな日本スゴイだよ。》

と述べた。

 また別の方は、次のように。

《産経新聞をはじめとする右派メディアに顕著な傾向だが、自分達が弾圧される側に立つ事はないどころか弾圧する側に回るという謎認識は、如何にして生まれるのか》

 ジャーナリストの江川紹子氏は、

《人でなし、とはこんなものを書く人のことを言うのだろう 。人の無残な死を、同業の者としてまずは悼むということが、せめてできないのだろうか…。→【産経抄】日本を貶める日本人をあぶりだせ 10月19日》

《それに、日本で悲惨な事件や事故、災害があって、人々が強い衝撃を受けている時に、他国の新聞が「あぁ、日本人じゃなくてよかった。日本はひどい国だ」と書いたら、どんな気持ちか、産経抄にはそれくらいの想像力すらないのか。サイテー。》

と述べていて、私はそこまで言うのかと思った。

 ちょっと落ち着かれてはどうだろう。

 この産経抄に不快感をもつ人が出るのはわかる。
 また、コラムとしての出来は率直に言って悪いと思う。天声人語などとは比較にならない。
 だが、産経抄の文章はいつもだいたいこんなレベルである。

 マルタの女性記者が殺害されたこと、「日本の新聞記者でよかった」と思ったことがこのコラムの本題ではない。本題は、そのようなマルタの「報道の自由度ランキング」がわが国よりはるかに上位であったこと、それはわが国に対する強い偏見によるものであり、「日本を貶める日本人」がそれをさらに助長しているという指摘が、このコラムの本題だ。
 女性記者殺害は、話のマクラにすぎない。

 女性記者の殺害を、どうやったら「日本を貶める日本人」批判につなげようという発想が出てくるのか、産経抄子の思考回路はどうなっているのかとは思うが、きっと年がら年中、「日本を貶める日本人」をどうやって叩くか、そういったことばかりを考えているような人なのだろう。

 まあ、国民の中には、世の中の悪いことは全て安倍政権のせいだとばかりに政権批判に血道を上げている人もツイッターではよく見かけるので、こんな人がいても不思議ではない。

 また、「あぶりだせ」とは刺激的にしようと編集者が付けたタイトルだろう。本文のどこにもそんなことは書かれていない。

 ある批判者の「自分達が弾圧される側に立つ事はないどころか弾圧する側に回るという謎認識」というのは意味不明である。産経抄は別に女性記者の殺害を賞賛しているわけでもないし、自分たちが弾圧する側であると受け取れるような箇所もないからだ。むしろ産経は、例えば共産党政権が成立すれば、自分たちが弾圧されることをよく理解していることだろう。
 謎なのはこのツイ主の認識である。

 ところで、こういう殺害事件に接して、伊丹記者や江川氏は、日本の記者やジャーナリストでよかったとは思わないのだろうか。
 ロシアや中国をはじめ、ジャーナリストが殺害されたり拘束されたりする国は世界にたくさんある。わが国がそうでないのは幸いだし、この状態を守らなければならないとは思わないのだろうか。
 それとも、思ったとしても、このように口にするのは不謹慎であるということか。

「他国の新聞が「あぁ、日本人じゃなくてよかった。日本はひどい国だ」と書いたら、どんな気持ちか」
って、どんな気持ちになるというのだろう。別に何とも思わないんじゃないだろうか。
 顔も知らない他国の人間がわが国のことをどう言っているかが、そんなに気になるものだろうか。
 何を言っていようが、お互い様ではないだろうか。
 それに、産経抄は、まさにそのように「日本はひどい国だ」と言われることを恐れて、そのための材料を提供している一部日本人を非難しているのではないのだろうか。

 NGO「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング」については、実態と乖離しているのではないかとの批判もある。
 その算出方法を BuzzFeed News が報じているのを、最近ある方のツイートで知った。
 180カ国のメディア専門家、弁護士、社会学者に87の質問のアンケートが配られており、その結果を基に独自の数式により算出するそうだが、詳細は公表されていない。
 以前、江川氏自身も、72位という数字には疑問を呈していたはずである。

 「人でなし」とは、人間の姿かたちをした者に対して、お前を人間とは認めないと言うときに用いる言葉である。
 人の皮をかぶった、鬼か獣というわけである。
 マルタの爆殺犯をそう呼ぶなら、まだわからないでもない。しかし、産経抄の内容はそれに値するほどひどいものだろうか。
 江川氏は、まずはその死を悼めと述べているが、短文のコラムなんだから、主要でない部分を省略することは有り得る。先に述べたように、マルタの話はマクラにすぎない。
 産経抄は、殺害された女性記者を何かしら貶めているだろうか。政治家の不正を追及するなんて、バカなことで命を落としたものだと述べているだろうか。そんな箇所もない。
 にもかかわらず、その死に対して哀悼の意を明記せず、持論に利用したというだけのことで、「人でなし」とまで罵ってしまう。
 江川氏の人権感覚はそんなものかと残念に思った。

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朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで

2017-10-24 11:09:02 | マスコミ
 私は17日に「選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞」という記事を当ブログに書いたが、18日付朝日新聞朝刊の社会面には、こんな記事が載っていたので、注目して読んだ。

演説中のヤジ、選挙妨害?

 公選法基準なし■静穏に聞く権利は

 街頭演説にヤジはつきものかと思いきや、最近は「選挙妨害だ」と弁士たちが反応する場面が目立つ。街頭演説は黙って聞くべきなのか? 演説中に聴衆が意思を示すのはダメなのか。街頭演説の「作法」とは――。

 「わかったから、黙っておれ!」
 14日、大阪府守口市での街頭演説で、二階俊博・自民党幹事長のこんな声が響いた。演説中、聴衆から「消費税を上げるな」との声が上がり、その後もヤジがやまなかったためだ。
 安倍晋三首相もあちこちでヤジを浴びる。15日の札幌市の街頭演説では「辞めろ」「安倍内閣は金持ちの味方だ」といったヤジが飛んだ。演説中に「やめろ!」というプラカードが掲げられる一方、逆に聴衆から「静かにしろ」などの声が上がることもある。
 演説中のヤジやコールに焦点が当たったのは、7月の東京・秋葉原で安倍首相が発した言葉がきっかけだ。東京都議選の応援演説中に、首相に対する「帰れ」「やめろ」のコールが起こり、首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と返した。
 菅義偉官房長官は記者会見で「妨害的行為があった」と述べたが、小林良彰・慶大教授(政治学)は、「公選法に明確な基準がない以上、マイクを取り上げるなど物理的行為がなければ、選挙妨害とまでは言えないのではないか」とみる。一方で、「聴衆が演説内容を聞くことができなければ、選挙妨害に該当する可能性が高い」(岩渕美克・日大教授=選挙研究)との見方もある。
 演説中のヤジは昔からある。NHKの映像によると、1960年に浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺された演説会には、右翼団体が入りこみ「演説が聞き取れないほど」のヤジを飛ばしていた。古くは明治時代の自由民権運動の際、「各地の演説会では、ヤジや投石が行われ」(高知県宿毛市史)との記録がある。
 とはいえ、政治コミュニケーション論が専門の逢坂巌・駒沢大准教授は「演説を聞きたい人の権利はどうなるのか」と指摘する。「話が聞き取れなくなるほどの集団的なヤジやコールは、演説を静穏に聞く権利をふみにじる」と批判。逢坂さんは秋葉原で首相の演説を聞こうと最前列に陣取っていたが、首相に抗議する人たちが来て、その場からはじき出されたという。

「対応 政治家判断の材料に」

 声を上げる側はどう思うのか。さいたま市の武内暁さん(69)は「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」。秋葉原での首相の演説に友人と駆けつけた。最近の国会答弁を見て、議論が成り立っていないと感じた。「ならば、直接民主主義の手法で、主権者が声で権利を行使する場所があっていい。演説を聞いて欲しいなら『聞いてくれ』と言えばいい。それが対話だ」
 秋葉原で首相に「こんな人たち」と指されたC.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の野間易通さん(51)も「そもそも街頭は異論が混じり合う場所。どう対応するかも含めて政治であり、政治家を判断する材料になるはずだ」という。
 さらに野間さんは、「市民が圧倒的な力を持つ権力者に向かって肉声で叫んでいるのに、『静かに聞くべきだ』なんて学校的道徳を持ち出してなぜ断罪できるのか」とも提起する。街頭での政治活動を取材してきたフリーライターの岩本太郎さんは「秋葉原のような『事件』を繰り返しながら、なんとなく答えが定まっていくのが社会というもので、答えも一つではない。演説の聞き方に善悪の線引きができると考えること自体、怖いことだと思う」と話す。 (田玉恵美)


 この記事の問題点は2つある。
 1つは、聴衆が散発的に発する単なるヤジと、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも大声でしゃべり続ける行為は違うということ。
 聴衆が演説を聴いていて、ヤジを飛ばしたくなることはあるだろう。それは演説に批判的なものだけでなく、肯定的なものもあるだろう。また、演説の内容などについて周りの人間としゃべりたくなることもあるだろう。そんなものまで否定する必要はない。演説の最中は、映画を見たり講演を聞いたりするときのように、一言もしゃべらず、シーンと静まりかえって拝聴しなければならないなんて、そんな主張は誰もしていない。少々のヤジは、演説それ自体を妨げるものではないからだ。
 だが、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも、前回の当ブログの記事で私が引用した、演説中に

《聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ》

るような行為は、演説それ自体の妨害だろう。
 今回の朝日の記事は、その点をごっちゃにしている。

 なるほど自由民権運動においてヤジや投石はあったろう。投石にまで及べばそれはもう妨害だろう。自由民権運動はいわゆる壮士に支えられていて、暴力的な部分も多々あった。決してお行儀の良いものではなかった。
 だからといって、こんにちの世の中で、同様の振る舞いをしても許されるのだろうか。

 さいたま市の武内暁さんが
「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」
と問うているのは、意味がわからない。
 有権者の意思表示によって演説の遂行が妨げられるのなら、それは当然演説の妨害だろう。
 声を上げるのが「直接民主主義の手法」だというのも、意味がわからない。
 直接民主主義とは、古代ギリシャのポリスのように、市民が直接政治に参加するというものだ。こんにちでも、憲法改正の際の国民投票や、地方自治における住民投票は、直接民主主義の手法だと言えるが、街頭で首相に対して声を上げることは直接民主主義とは何の関係もないし、そんな「対話」をする「権利」など、憲法のどこにも書かれていない。

 余談だが、「声を上げる側」のもう1人の野間易通さんについては、「C.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の」と所属団体を明記しているのに、何故、この武内暁さんについては、何の説明もつけずに、自然発生的に集まった市民の1人であるかのように書くのだろう。
 氏名で検索しただけで、「「九条俳句」違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会(通称:「九条俳句」市民応援団)」なる団体の代表であるとすぐわかるのだが。

 問題点のもう1つは、選挙のための演説と、単なる政治家の演説をごっちゃにしていることである。
 朝日の記事が挙げている、1960年の浅沼委員長刺殺の時の演説会は、選挙演説ではない。
 武内暁さんも野間易通さんも、秋葉原の安倍首相の演説が選挙演説であったことに触れていない。

 前回も書いたが、選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 選挙演説でない、単なる街頭演説を妨害したとしても、刑法の威力業務妨害罪でやはり処罰の対象になるだろう。だが、その刑罰は、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」となっており、先に挙げた選挙の自由妨害罪の「四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」の方がより重い。
 それだけ、わが国において、選挙における自由は重んじられているということである。
 今回の朝日の記事には、その視点が見当たらない。
 「直接民主主義の手法」を当然視する者が、間接民主主義の制度である選挙を軽視するのは別に不思議ではない。しかし、朝日新聞がそんなことでいいのだろうか。

 この朝日の記事は、「演説中のヤジ、選挙妨害?」とクエスチョンマークを付け、妨害に当たるとする側と当たらないとする側の両論併記のかたちをとっているが、「公選法基準なし」「対応 政治家判断の材料に」という見出しといい、それぞれの人数及び記事中の割合といい、記事の重心は明らかに、妨害に当たらないとする側に置かれている。
 朝日がこのような記事を載せていたことを、私はよく覚えておくことにしよう。
 そして、仮に、野党候補の選挙演説が妨害されたり、あるいは「反差別」や反原発、反米軍基地などを訴える示威行動が妨害されたりしたときに、朝日がそれをどのように評するか、注目することにしよう。
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選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞

2017-10-17 07:10:28 | マスコミ
 10月11日付け朝日新聞朝刊の社会面には、連載記事「「安倍発言」を歩く」 2017衆院選」の第1回が載っていた。
 見出しは「こんな人たちに… 見えた分断」。
 7月1日に安倍首相がJR秋葉原駅前で都議選の応援演説をした際の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」発言を引き出した、「帰れ」「やめろ」コールに加わった60代の女性の話が載っている。

 10日、安倍晋三首相は福島市で演説していた。
 「みんなで安心できる日本をつくっていきたい」
 千葉県のヨガ講師、60代の由美子さんはテレビで演説を聞いて思った。
 「だけど、『こんな人たち』の声は聞かないんでしょ……」
 由美子さんは当初、フルネームでの記事掲載をログイン前の続き了承していたが、政権を批判した知人に脅迫状が届いたという話を聞き、怖くなった。
 政治への関わりはさほどなかった。7月、東京・秋葉原で首相のあの言葉を聞くまでは。
 シングルマザーだった30代のころ、息子2人を育てるため、朝から晩まで働いた。清掃員や飲食店員など三つの仕事を掛け持ち、「生活に必死だった」という当時、投票に行った記憶はない。自身の年金は月額にして3万7千円程度。必死で税金を納めてきたのに、年金だけでは暮らせない。休日返上で働いていた宅配会社勤務の息子も残業代をカットされた末に退職した。
 そんなとき、首相が7月1日に秋葉原で都議選の応援演説をすると知人から聞いた。初めて「政治がおかしい」と思いをぶつけたいと考えた。「無駄かな」と気持ちは揺れたが、首相に直接声を伝えるチャンスは今しかないと決意し、向かった。
 選挙カーの首相がマイクを握った。プラカードや横断幕を掲げた人たちが、首相への「帰れ」コールを始めた。その後も「やめろ」コールが途切れなかった。由美子さんは遠巻きに見つめた。すると、通りすがりのサラリーマンや子連れの人も足を止める。「おかしいじゃないか!」「もうやめてくれ!」。いつしか由美子さんも声をあげていた。
 そのとき、首相が自分たちのほうを指さして声を張り上げた。
 「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」
 由美子さんは言葉を失った。「やっと声をあげたのに。この人は私たちの暮らしを守ってくれないんだ」。空しくなった。
 「やめろ」コールを続けた内装業の井手実さん(37)は「国民は言いたいことがたくさんあるけど、全部は伝えられない。だから『安倍やめろ』で意思表示した」という。
〔後略〕
(貞国聖子)


 選挙演説はいつから国民が政治家に「声をあげ」る場所になったのか。
 選挙演説は、選挙の立候補者の人物や主張を有権者に広く知ってもらうためのものである。反対派が政治家と団体交渉する場ではない。
 そして、選挙演説はただの街頭演説とは違う。その妨害は法律で禁止されているというのに。

 と思っていたら、12日付け朝刊の政治面には、「首相 聴衆に「法律守って」 9条改正への抗議 「選挙妨害」の声に呼応と題して、こんな記事が。

衆院選で街頭演説していた安倍晋三首相が12日、新潟市内で聴衆の女性から憲法9条の改正について抗議され、「選挙は民主主義の原点だから、しっかりと法律を守っていこうじゃありませんか」と呼びかける一幕があった。女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考えを述べたとみられる。

 首相が同市内の商店街で街頭演説をしていた際、聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ、聴衆の男性が「選挙妨害するな」と声を上げた。聴衆から男性に拍手があがり、首相は「皆さん、ありがとうございます」と述べ、法律を守ろうと呼びかけた。

 首相は7月の東京都議選で、東京・秋葉原で街頭演説をした際、聴衆の一部から「帰れ」コールを受け、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と反論して批判を浴びた。
(永田大)


「女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考え」
とあるところを見ると、朝日新聞としては、安倍首相はそう考えているが、そうでない考え方も有り得ると見ているということなのだろうか。
 
 公職選挙法には次のようにある。

(選挙の自由妨害罪)
第二百二十五条 選挙に関し、次の各号に掲げる行為をした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。
一 選挙人、公職の候補者、公職の候補者となろうとする者、選挙運動者又は当選人に対し暴行若しくは威力を加え又はこれをかどわかしたとき。
二 交通若しくは集会の便を妨げ、演説を妨害し、又は文書図画を毀棄し、その他偽計詐術等不正の方法をもつて選挙の自由を妨害したとき。
〔後略〕


 これを読めば、個別具体的な事例をどう判断するかは別として、一般論としては、選挙演説の妨害が法律違反であることは、誰の目にも明らかであろう。
 朝日新聞は、何故この条文を引用しないのだろうか。
(同じ新潟での首相発言を取り上げた産経新聞のネット記事では、条文を引用している)

 私は朝日新聞の購読者だが、「こんな人たち」発言を批判する記事はたくさん見たが、その原因となった「帰れ」コールについて、選挙妨害だと指摘する意見を見た覚えがない。
 これでは、また同じような事態が繰り返されかねない。

 選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 安倍首相に反対する人がいるのはかまわない。大いに反対意見を表明すればよい。だが選挙演説を妨害してはならない。他人の発言の場で、その発言を封じてはならない。
 そんな単純なことが理解できない人を批判することを「分断」だと朝日新聞が煽るのなら、私は「分断」した批判者の側に付きたい。
 それは結局、選挙を尊重するか、直接行動を尊重するかの差であろうから。

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金日成と会見していた美濃部亮吉都知事

2017-09-03 07:17:46 | 韓国・北朝鮮
 先日、久しぶりに朝鮮総聯のサイトを見てみると、「金日成主席と日本の人士たち」というページが設けられていた。

 トップには「偉大な金日成主席」(太字は原文のまま。以下同)の写真の下に、

 偉大な金日成主席が、1945年から1994年にかけての50年間に会った日本人は、実に1000余名に及んでいる。その中には、政界人、学者、ジャーナリスト、財界人、アーチストはもとより、平凡な水先案内人や学生もいた。

彼らは誰もが、率直かつ真摯な態度で朝日関係にかかわる問題を虚心坦懐に論じ、明確な方途を提示する主席の崇高な志に感服し、自分たちを温かく接してくれるその風格に心服した。

主席の高い権威と徳望、朝日関係改善への合理的な提案に、政見や信教の違いにかかわりなく、会う人は誰もが胸を打たれ、それは、ぎくしゃくした両国の関係を改善すべく彼らを奮起させる大きな力となった。

主席が多くの日本人士にめぐらした情誼について改めて振り返り、朝鮮と日本の友好親善に尽くした主席の労苦と献身、そこにこもる深い意味をここに再確認しておきたいと思う。


との説明が付されている。

 そして、畑中政春(日朝協会理事長、元朝日新聞)、高木健夫(読売新聞)、久野忠治、岩井章、土井たか子、金丸信、田辺誠、前田正博(毎日新聞)、宇都宮徳馬、西谷能雄(未来社社長)、成田知巳、田英夫 緑川亨(岩波書店)、安井郁、槇枝元文といった人々と金日成との会見について、簡潔に記されている。

 その中に、美濃部亮吉・東京都知事との会見の記事がある。

美濃部亮吉東京都知事と親しく語り合う
金日成主席 (1971.10.30)

強調したこと

 金日成主席は、美濃部亮吉東京都知事と会見した際、美濃部亮吉先生は朝鮮大学校の許可問題を通して、わが国に広く名を知られている、先生のような進歩的人士が今後とも総聯の活動を極力支援して下さるものと信ずる、と期待を表明した。そして、自分は韓徳銖(ハンドグス)議長に、在日同胞の民族的権利を守るための活動を進め、朝鮮民主主義人民共和国を支持し、祖国の統一をめざしてたたかう総聯が、日本の法律に抵触するようなことは絶対に行わず、日本人民との団結に努めるよう常に強調していると語った。また、日本の進歩的人士が総聯の活動を大いに支援してくれるよう頼んだ。
 美濃部亮吉知事は、総聯の活動に深い関心を払っている主席に、総聯の活動を積極的に支援する決意を表明した。


 「朝鮮大学校の許可問題」とは、朝鮮大学校が1956年に創設されたものの、各種学校としての都知事の認可がなかなか下りなかったことを指す。
 朝鮮大学校のサイトの「朝鮮大学校とは」というページに、次のように書かれている。

本学がわずか10年に満たない期間に急速な発展をとげたことは、祖国の暖かい配慮、在日同胞の愛国的熱意とともに、広範な日本国民の惜しみない支援のたまものです。
しかし、日本政府当局の在日朝鮮人に対する非友好的な政策は是正されず、むしろ正当な民族教育の権利を無視したいわゆる「外国人学校法」の制定を何度もはかったり、本学の設置認可の申請を受理しないといった抑圧的態度が強まりました。
本学の認可は、日本の学者、文化人、教育関係者をはじめとする各界各層の積極的かつ広範な支持を受け、1968年4月17日、当時の美濃部東京都知事の決断によって、ついに実現されたのでした。
朝鮮大学校の認可以降、教職員と学生の祖国自由往来が実現し、大学教育はより充実していきました。


 美濃部が都知事に初当選したのは1967年で、1979年まで3期務めた。美濃部は社会党と共産党が推薦する革新統一候補で、3期目は公明党も推薦した。美濃部の前任は自民党推薦の東龍太郎(あずま・りょうたろう、任1959-1967)で、その前任はやはり保守系で内務官僚出身の安井誠一郎(任1947-1959)であったから、彼らの任期中は認可されなかったものを、美濃部が認可したということなのだろう。それが北朝鮮で評価されたということなのだろう。

 公平を期すために付言しておくが、美濃部が金日成と会見した当時は、こんにちのように北朝鮮がわが国にとって危険な国家だと一般に認識されていたわけではなかった。まだ日本人拉致事件も起こっておらず、核兵器の保有も弾道ミサイルの実験も行っていない。数ある社会主義国の一つという程度にしか知られていなかった(だから1970年のよど号のハイジャック犯たちは、予備知識もないのに北朝鮮へ亡命した)。金日成から金正日への継承も表面化していなかった。

 また、当時はまだわが国において社会主義がある程度支持されていた。自民党の単独政権は揺るがなかったが、野党第1党は社会党であり続け、美濃部のほか、京都府、大阪府の両知事や、横浜市長なども革新系だった。マルクスやレーニンや毛沢東の著書が、大手出版社から文庫本で出版されていた。美濃部はマルクス経済学者だったが、それは彼の経歴においてマイナス要素にはならなかった。
 北朝鮮独自のチュチェ(主体)思想は、「マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した」(1972年憲法)ものとされていた。
 そんな情勢の中、美濃部が朝鮮大学校を認可し、金日成と会見したとしても不思議ではない。

 この朝鮮大学校の認可を批判する見解もあるようだが、私にはそこまで問うべきなのかよくわからない。わが国における少数民族が民族教育を行うことそれ自体を否定すべき理由はないと思われるし、それを各種学校として認可することも都道府県知事の裁量の範囲内であろうから。

 ただ、当ブログの8月28日付の記事で取り上げた、1973年の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の設置がこの都知事の下で行われ、その後毎年追悼式典が開かれているとされていることには留意しておきたい。


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女性宮家で「ジャクソン王朝」に?

2017-08-30 06:45:14 | 天皇・皇室
 今年6月9日の朝日新聞政治面に、
「女性宮家で…ジャクソン王朝に 自民・鬼木氏」
という見出しの記事が載っていた。
 8日に開かれた衆議院憲法審査会での自由討議の発言要旨のみをまとめた記事で(討議自体についての記事は別の面にあり)、その中に自民党の鬼木誠委員のこんな発言があった。
「天皇の定義さえも変わってしまいかねない女性宮家の議論に危惧を覚える。女性宮家ができ、女性皇族が海外の方と結婚され、子どもが即位したら、日本の王朝は男性の姓を取ってジャクソン王朝などになってしまう。」
 ほかにも多数の委員の発言が掲載されているのだが、朝日としてはこの発言に最も注目すべきと判断したということか。

 後で国会会議録検索システムで検索してみたら、発言の全文は次のとおりだった。

○鬼木委員 自由民主党、鬼木誠でございます。
 私は、日本国憲法が、天皇の神聖性、正統性が語られない憲法となっていることに歴史の断絶を感じております。これは、戦争と結びついてしまった明治憲法への深い反省からきているものだとは存じておりますが、日本の歴史において天皇とはどういう存在だったのか、私たち日本人が改めて学ぶべきときが来ていると感じております。
 天皇の祭主として祈る役割は憲法上保障されておりません。それは、政教分離によってむしろ否定されているような状況にあります。憲法上保障されているはずの信教の自由、祈るという役割が、かえって不自由なことになっていないかと感じます。
 また、今の日本で、義務教育で日本の神話を教えることは困難だと思われます。神話を忘れた民族は滅びるという言葉があるといいますが、神話とは、何千年語り継がれてきた民族の歴史であり、記憶であります。
 日本の憲法は、日本の歴史とアイデンティティーを守る憲法であるべきだと考えます。天皇の歴史というものは日本の国の歴史と重なります。日本の歴史を守るということは、天皇の歴史を正しく後世に伝えることだと思います。その根本を大事にすることのできる憲法であるべきと考えます。
 したがって、天皇の定義さえも変わってしまいかねない女性宮家という議論に私は危惧を覚えております。
 日本の天皇は例外なく男系で継承されてきました。王朝は男系で継承するというのは世界でも普遍であります。女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になるということであります。イギリスにおいても、ヨーク朝からチューダー朝、チューダー朝からスチュアート朝、そこは継承がかわった、そして王朝がかわったということであります。
 日本の宮家というものは、男子の皇位継承権者を確保するために複数存在していたわけでありまして、宮家の当主は必ず男性で継承してまいったわけでございます。したがって、女性宮家というものはこれまでの日本に歴史上存在しなかったわけでございます。もし、女性宮家ができ、女性皇族が海外留学し、そこで海外の方と結婚され、その子供が天皇に即位されたなら、そのときから日本の王朝は、その男性の姓をとって、何々王朝、ジャクソンさんが相手ならジャクソン王朝、李さんが相手なら李王朝ということになるわけでございます。
 それでは、女性宮家にかわる方策に代替案は何があるのか。私は、旧宮家の皇籍復帰だと考えます。
 日本の歴史上、過去にもそうした危機は必ずあったわけでございまして、最大で十親等、二百年までさかのぼったこともあります。そうして日本の天皇の歴史は男系で継承を続けてまいりました。
 AIが人類の思考を超えようとしている今、人知を超えた究極の知恵というものは、長い歴史にかえてきた伝統ではないかということを最近私は考えております。
 以上をもちまして私の発言を終わります。ありがとうございました。


 私はこの朝日の記事で初めて鬼木誠という衆議院議員を知ったのだが、今公式サイトでプロフィールを見てみると、1972年10月生まれの44歳。福岡市出身。九州大学法学部法律学科卒。西日本銀行(現・西日本シティ銀行)勤務を経て、30歳で福岡県議会議員に初当選。同県議を3期務めた後、2012年12月の衆院選で福岡2区から初当選。2014年再選。環境大臣政務官を務めたとある。
 福岡2区は、2009年に落選し、その後引退した山崎拓の地盤であった。鬼木氏は山崎派の後身である石原派に属している。

 さっき、毎日と読売と日経のサイトで検索してみたが、この「ジャクソン王朝」発言も、鬼木氏が憲法審査会で発言したことも、サイトの記事には見当たらない。
 産経のサイトには、「ジャクソン王朝」の言葉はなかったが、同じ自民党の船田元氏が女系天皇、女性宮家の容認論を示したのに対し、
「鬼木誠氏が「女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になる」と反論し、旧宮家の皇籍復帰を主張した。」
とは書かれていた。

 一般論としては、
「王朝は男系で継承するというのは世界でも普遍であります。女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になるということであります。」
とは言える。鬼木氏が挙げているイギリスがまさに典型である。

 しかし、必ずしも常にそうとは限らない。
 ロシア帝国のロマノフ王朝では、イヴァン5世の女系の曾孫イヴァン6世が、短期間ではあるが帝位に就いている。また、その後もピョートル1世(大帝)の女系の孫がピョートル3世として即位している。にもかかわらず、王朝はロマノフ朝のままである。

 オランダの王家はオラニエ=ナッサウ家だが、現在のウィレム・アレキサンダー国王の前は、その母ベアトリックス(在位1980-2013)、その母ユリアナ(同1948-1980)、その母ウィルヘルミナ(同1890-1948)と、3代続けて女王だった。しかし、その間王朝名がコロコロ変わったわけではない。

 「女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になる」のは、イエは男性が継ぐものであり、女性にその権利はないとされていたからだろう。
 だが、ヨーロッパのことはよく知らないが、わが国にはもはやイエ制度はない。
 そして、夫婦は結婚に伴いどちらかの姓を名乗るとされている。つまり、家名は男女どちらが受け継いでもかまわない。
 ならば、天皇の娘がその父の姓を受け継ぎ、そのいだと考えれば、王朝が変わるということにはならない。

 それに、そもそも皇室には姓がない。ないものは変わりようがない。

 また、鬼木氏が言う
「女性宮家というものはこれまでの日本に歴史上存在しなかった」
は、正しくない。
 仁孝天皇の娘、淑子(すみこ)内親王(1829-1881)が、当主不在となっていた桂宮家を継承した前例がある。
 もっともこの内親王は、婚約者の閑院宮愛仁親王が結婚前に死去したため、生涯独身で過ごし、桂宮家を継ぐも、その死去によって同宮家は断絶したのだが。
 しかし前例はあるのだから、鬼木氏に限らず、女性宮家反対論者が「歴史上存在しなかった」と説くのはおかしい。

 そして、「ジャクソン王朝」「李王朝」云々とは、何が言いたいのか。
 そもそもこの女性宮家の議論は、女系天皇を認めるかどうかはさておき、次世代の皇族が悠仁さまを除いて皆女性であることから、従来どおり女性皇族が結婚とともに皇籍を離脱していては悠仁さま以外の皇族がいなくなってしまうため、皇族を維持する手段を検討する必要があったから生じたものだ。女系継承の問題とは直接関係ない。
 では仮に、男性皇族が海外留学し、外国人と結婚し、その子供が天皇に即位するのはかまわないのか。憲法にも皇室典範にも、皇族は外国人と結婚してはならないとの定めはない。
 外国人と結婚するのが男性皇族であろうが女性皇族であろうが、その子供に外国人の血が入ることに変わりはない。なのに、結婚する皇族が女性なら「違う王朝になる」からダメで、結婚する皇族が男性なら王朝が変わらないからかまわないのか。子供に流れる血に王朝の色が付いているわけでもあるまいに。

 英国女王エリザベス2世の夫君、エディンバラ公フィリップ殿下の姓はマウントバッテンである。現在の英国の王朝はウィンザー朝だが、コトバンクで「ウィンザー家」を引くと出てくるブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説には、

《エリザベス2世は 1952年の即位後まもなく,自身の子および子孫をウィンザー姓とする旨を枢密院において宣言した。この決定は 1960年2月8日に改められ,王子・王女の身分および殿下の敬称をもたない子孫の姓はマウントバッテン=ウィンザーとすることになった。》

とある。
 ならば、チャールズ皇太子の姓はおそらくマウントバッテン=ウィンザーなのだろう。すると、エリザベス2世の死後は、王朝名はマウントバッテン=ウィンザー朝に変わるのかもしれない。だが、それを問題視する声が英国民から上がっているなどと聞いたこともない。

 こんなくだらない議論を重ねて、結局何も変えられないまま無為に時を過ごし、やがて皇族は悠仁さまお一人になってしまうのだろうか。
 私は、皇室の方々に決して悪感情は抱いていない。それどころか、素朴な崇敬の念を抱いていると自覚している。
 しかし、天皇制という制度が、現代のわが国において必ずしも必要不可欠だとは思わない。前近代ならいざしらず、もはや大衆民主制の世の中には合わない、廃止した方がよいとも思っている。
 だが、日本国民の大多数は天皇制の維持を望んでいる。ならば、その障害となっている、わが国古来の伝統でも何でもない、明治の藩閥政府が勝手に決めた皇室典範を変えてみせることぐらいはやってみてはどうかというのが、私の考えである。
 その程度のこともなしえないまま、むざむざ皇統を危機にさらすのがわが国民の選択なら、それもやむを得ないことかもしれない。

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小池都知事が朝鮮人虐殺への追悼文を断った件について

2017-08-28 07:07:41 | 日本近現代史
 8月24日、ツイッターで東京新聞のこんなニュースが引用されているのを見た。

関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る
2017年8月24日 朝刊

 東京都の小池百合子知事が、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)で九月一日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが分かった。例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請し、歴代知事は応じてきた。小池氏も昨年は送付していたが方針転換した。団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、近く抗議する。 (辻渕智之、榊原智康)

 追悼文を断った理由について、都建設局公園緑地部は本紙の取材に、都慰霊協会主催の大法要が関東大震災の九月一日と東京大空襲の三月十日に開催されることを挙げ、「知事はそこに出席し、亡くなった人すべてに哀悼の意を表しているため」と説明。「今後、他の団体から要請があっても出さない」としている。

 追悼文は一九七〇年代から出しているとみられ、主催者によると確かなのは二〇〇六年以降、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池各知事が送付してきた。

 追悼式が行われる横網町公園内には、七三年に民間団体が建立した朝鮮人犠牲者追悼碑があり、現在は都が所有している。そこには「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。

 追悼碑を巡っては、今年三月の都議会一般質問で、古賀俊昭議員(自民)が、碑文にある六千余名という数を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名、虐殺の文言がある」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。

 これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁しており、都側はこの質疑が「方針を見直すきっかけの一つになった」と認めた。また、都側は虐殺者数について「六千人が正しいのか、正しくないのか特定できないというのが都の立場」としている。

 式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長(76)は「犠牲者数は碑文の人数を踏襲してきた。天災による犠牲と、人の手で虐殺された死は性格が異なり、大法要で一緒に追悼するからという説明は納得できない」と話した。

<関東大震災の朝鮮人虐殺> 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが広がった。あおられた民衆がつくった「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された。通行人の検問が各地で行われ、殺害には刃物や竹やりなどが用いられた。


 この記事を引用していた方は、ツイートでこう批判していた。

《天災の死者、戦災で亡くなった自国民の追悼はもちろんだけど、それとは別個に「流言飛語で自国民が殺した国内の外国人」に対する言葉が必要なのは当然で、謝罪どころか追悼文まで辞めるのか。マジかこれ。東京五輪を前にしてこんな振り切れ方するのか。》

《これトランプ大統領が彼の支持層である白人主義者やネオナチを非難しなかったのと同じで、小池都知事の支持層には関東大震災朝鮮人虐殺否認論者がいるんですよ。だから記者は小池都知事に聞かないと。「あれは虐殺ですよね」と。構造全く同じですよこれ》

 確かに、天災による死者と、流言飛語が原因とはいえ、人に殺された死者とは違う。
 だが、「それとは別個に」「言葉が必要なのは当然」なのか。
 また、「謝罪どころか追悼文まで」と言うが、流言飛語が原因の94年前の虐殺について、小池都知事がどういう立場で何を謝罪するのか。

 この都知事の対応は、そこそこ話題になり、26日には朝日新聞の天声人語が次のように取り上げた。

(天声人語)関東大震災の教訓
2017年8月26日05時00分

 関東大震災の混乱のさなか、ある銀行員が見聞きしたことである。広場で群衆が棒切れを振りかざしている。近づいてみると大勢の人たちが1人の男を殴っている。殺せ、と言いながら▼「朝鮮人だ」「巡査に渡さずに殴り殺してしまえ」との声が、聞こえてくる。「此奴(こやつ)が爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思ふと、私もつい怒気が溢(あふ)れて来た」(染川藍泉〈らんせん〉著『震災日誌』)。朝鮮人が暴動を起こしたとの流言飛語が、飛び交っていた▼人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。「一五円五〇銭」と発音しにくい言葉を言わせ、日本人かどうか調べた例もあった。あまりに多くの朝鮮人が虐殺された▼差別的な振る舞いや意識があったがゆえに、仕返しを恐れたか。官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。「当局として誠に面目なき次第」と警視庁幹部だった正力松太郎が後に述べている。不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である▼そう考えると、首をかしげざるをえない。朝鮮人犠牲者を悼む式典に、小池百合子東京都知事が追悼文を送らない方針だという。例年とは異なる判断である。都慰霊協会の追悼行事があるので、「個々の行事への対応はやめる」のが理由というが、見たくない過去に目をつぶることにつながらないか▼今からでも遅くない。方針を改め、追悼文をしたためてほしい。大震災から94年となる9月1日。風化を許してはいけない歴史がある。


 「不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である」
 全くそのとおりである。
 そして、その後わが国は敗戦と占領を経験し、阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめとする大災害をも経験してきたが、他民族の虐殺が再現することはなかった。
 我々は教訓を忘れてはいない。

 ところで、東京新聞の記事には、「式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長」のコメントが載っている。
 日朝協会とは何だろうか。
 1955年に結成された、日本と北朝鮮との友好関係を深めようとする、日本人によって作られた団体である。
 協会のサイトにこう書いてある

Ⅱ 日朝協会は1955年11月、日本の中の良心的進歩的な人びとによってつくられました。日本が進めた朝鮮植民地支配やアジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った人々の伝統を受けついで、1950年~53年の朝鮮戦争に反対し、アジアと世界の平和を願う国民的な運動の中から結成された団体です。


 「アジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った」とは、日本共産党が自画自賛するときに使う言葉である。
 日本共産党は1968年までは北朝鮮と親密な関係にあった。日朝協会はその共産党の外郭団体のような存在であった。
 今では悪名高い北朝鮮への帰国運動を推進し、また日本と韓国が国交を正常化しようとする日韓会談に反対した。
 北朝鮮と日本共産党との関係が断絶した後、日朝協会が何をしていたのか私はよく知らないが、サイトを見ると、金大中への支援や、反核運動、戦後補償運動などを行ってきたとある。

 そのような団体が、何故、何のために、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」を主宰するのだろうか。
 日朝協会のブログに掲載された小池都知事への抗議声明によると、

 関東大震災50年にあたる1973年に朝鮮人犠牲者を心から追悼し、不幸な歴史を再び繰り返させないことを誓い東京都横網町公園に朝鮮人犠牲者追悼碑が設置された。以降、毎年9月1日に関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が執り行われてきた。
 東京都知事はこれまで同式典に追悼の辞を寄せてきた。都知事追悼の辞は式典で読みあげられ参列者らに紹介されてきた。


とある。
 1973年といえば、美濃部亮吉の革新都政の時代である。また、前年には日中共同声明が発表されて中国との国交が正常化し、本多勝一の『中国の旅』が刊行されるなど、わが国の大東亜戦争や植民地支配における加害性が意識され始めていた時期である。
 そんな雰囲気の中で、追悼碑の設置も受け入れられたのだろう。

 しかし、それから既に半世紀近くが過ぎている。もはや関東大震災を体験した人はほぼいない状態である。そして、わが国であのような虐殺が再現することもなかった。
 なのに、未だに追悼を続けなければならないのだろうか。
 いや、追悼したい人がするのはいい。それに都知事がいつまでも付き合わなければならないのだろうか。

 日朝協会のブログを見ていると、今年6月5日付のこんな記事があった。
 
「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」撤去の動きについて/李一満
日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復を

〔中略〕

08年8月9日、東京で「関東大震災85周年朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」が、13年8月22日から23日にかけてソウルで「関東大震災90周年韓日学術会議 関東大震災と朝鮮人虐殺事件」が開催された。

関東大震災と朝鮮人虐殺研究における3人の泰斗が、二つの国際シンポで明らかにした見解は、次のとおりである。

朝鮮大学校図書館・琴秉洞元副館長は、日本の近代史と現代史の分岐は1923年9月1日の関東大震災であるとしつつ、侵略と殺戮にまみれた日本現代史は関東大震災時の朝鮮人虐殺に始まると見た。元副館長は朝鮮人虐殺事件の本質は、国家犯罪であり民族犯罪だと看破した。国家犯罪である所以は、大虐殺の引き金となった戒厳令を政府治安担当の指導的人物(内務大臣、警保局長、警視総監)が起案・執行し、国家機関・権力機関、即ち軍隊、警察が虐殺を先導し、さらには朝鮮人暴動流言を内務省が伝播したからである。民族犯罪である所以は、虐殺された朝鮮人の圧倒的多数が自警団員、青年団、またはその他の日本民衆によって殺されたからである。

立教大学・山田昭次名誉教授は微視的に観察し、在日朝鮮人労働者や社会主義者・無政府主義者の運動と、日本人の社会主義者や労働者との間に生じた連帯の萌芽に危機を感じた官憲の動向に、関東大震災時の官憲主導の朝鮮人虐殺の原因を見た。また、朝鮮人が暴動を起こしたと誤認した官憲の責任のみならず、誤認に気づいた後も朝鮮人暴動説を主張して誤認の国家責任を隠した官憲の事後責任も追及し、天皇制国家に心服し、朝鮮人虐殺を愛国的行為と考えた多くの日本人民衆にも責任があるとした。

滋賀県立大学・姜徳相名誉教授は、関東大震災時に布告された戒厳令を重視し、朝鮮人暴動の流言の発生源として官憲説を取る。軍隊が戒厳令に基づいて朝鮮人虐殺を始め、さらに在郷軍人・青年団員・消防団員、その他の民衆によって構成された自警団がこれに加わったと見るのである。また戒厳令布告の背景として日本の朝鮮侵略の過程、特に朝鮮に対する植民支配の下で行われた朝鮮人の抵抗に対する過酷極まりない軍事的弾圧を挙げる。言い換えれば、朝鮮に対する日本の侵略と植民支配の歴史に対する巨視的な視点から、関東大震災朝鮮人虐殺事件を見たのである。

泰斗たちの見解は、朝鮮人虐殺の歴史的背景には朝鮮植民地支配と朝鮮人民の抵抗運動(3.1人民蜂起)に対する日本官憲の恐怖があり、ジェノサイド、大人災の直接的かつ最大の原因は戦争でもないのに戒厳令を実施したためである、ということである。

東京では「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」(10年9月24日)が、ソウルでは国会議員、弁護士、牧師、学者、市民、遺族等により「関東大震災朝鮮人虐殺事件の真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法推進委員会」(14年5月26日)が結成された。朝鮮民主主義人民共和国の歴史学会も1960年代から朝鮮大学校と連携し、関東大震災朝鮮人虐殺事件の調査・研究を進めてきた。

関東大震災95周年や100周年に際し、朝鮮大学校が呼びかけ三者のシンポジウムを開けば、闇にうずもれている事件の真相が解明され、日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復が大きく前進するであろう!


 この記事は、朝鮮総聯の機関紙である朝鮮新報のサイトから転載されたもののようだ。筆者の李一満氏は「東京朝鮮人強制連行真相調査団 事務局長」との肩書だが、東京朝鮮中・高級学校などで教員を務めた人物である。
 朝鮮総聯と日朝協会は同一の団体ではないが、こうした記事を日朝協会が注釈なしに転載するのだから、日朝協会もこの問題については同様の立場であると見てよい。

 東京新聞の用語解説が
「「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された」
とし、天声人語が
「人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。……官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。」
としているように、虐殺の主体となったのは自警団を組織した民間人だったというのが一般的な理解である。ところが李一満氏は、軍や警察が虐殺を先導し、内務省が流言飛語を伝えたといった学説を持ち出している。

 つまり、彼らは、朝鮮人虐殺について、わが国の国家責任を追及し、謝罪と補償を求めているのである。
 単に「風化を許してはいけない」といった思いで追悼しているのではない。

 したがってこれは、東京新聞が報じている、単なる碑文の犠牲者数をめぐる問題ではない。それは都が言うように「見直すきっかけの一つ」にすぎない。
 このような団体が主催する「追悼式」に、都知事が慣例にのっとっていつまでも追悼文を贈り続けることが、果たして妥当なのだろうか。

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マッカーサーは日本人をどう見ていたか

2017-08-27 06:28:41 | 「保守」系言説への疑問
承前

 前回書きそびれていたが、マッカーサーはその『回想記』において、小堀桂一郎(1933-)氏が挙げている1951年5月3日の上院軍事外交合同委員会での証言と、1950年10月15日のトルーマン大統領とのウェーキ島会談について、どう述べているだろうか。

 1951年5月に3日間、上院軍事外交合同委員会で証言したとは述べているが、その具体的な内容には触れていない。ただ、ラッセル委員長によるマッカーサーへの謝辞を引用しているのみである。
 晩年のマッカーサーにとって、いわゆる「自衛戦争」証言や、「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」との証言が、回想記に残しておくほど重要なものではなかったことがうかがえる。

 ウェーキ島会談についてはかなり紙数を割いて詳しく述べている。しかし、トルーマンをやんわり批判しつつも、会談は友好的に行われたとしている。そして、中共軍の参戦については、

 会談の終りごろになって、ほとんどつけたりのような調子で中共介入の問題が持出された。中共は介入する意志はないというのが、会談参加者全員の一致した意見だった。この意見は当時すでに、中央情報局(CIA)と国務省も出していたものだ。


と述べ、自らの責任の回避を図っている。
 もちろん、小堀氏が重視する、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べたとされる点への言及はない。

 小堀氏をはじめこれらのマッカーサーの発言を好んで取り上げる人々は、マッカーサーが重要視していない片言隻句だけを切り取って、自説に都合の良いように解釈を付けて、吹聴しているだけだということがわかる。

 さて、私がこの一連の記事の参考にするため袖井林次郎(1932-)の『マッカーサーの二千日』(中公文庫、1976、親本は中央公論社、1974)を読んだところ、その最終章の記述が、離任したマッカーサーと日本国民との関係を実に手際よく示していると思えたので、長くなるが紹介したい。

 マッカーサーの解任のショックが大きかっただけに、日本国民の反応もセンチメンタルであった。そして贈物の好きな日本人は多くの感謝決議を行ない、マッカーサーの功績と貢献を末永くたたえるにふさわしい方法を考えようとした。衆参両院は休会中の本会議を開いて感謝決議を行った。
 〔中略〕たしかに吉田首相のいうように「天皇陛下から一市民に至るまで、すべての日本人があなたとの別れを惜しんでいます」というわけではなかったにしても、マッカーサーを「偉大なおやじ」(『朝日新聞』天声人語)として惜しむ気持が、国民の間に圧倒的であったことは事実であろう。
 〔中略〕出発の日の新聞は、政府がマッカーサー元帥に対し「名誉国民」の称号を送ることを考慮中であると伝えた。これは後に五月に入って、「終身国賓に関する法律案」となって閣議を通っている。
 また秩父宮、同妃殿下〔中略〕ら十四人の名士を発起人として、東京に「マッカーサー元帥記念館」の建設が進められ、本人の承諾も得て、実際に募金に着手している。
 日本国民のマ元帥像は、彼がアメリカの各都市で歴史はじまって以来の大歓迎を受けているあいだ、海の向こうから燦然と輝く。上下両院合同会議における大演説は、日本国民をほめたたえて次のようにいう。
「日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。日本国民はみごとな意志力と学ぼうとする熱意、すぐれた理解力を発揮して、戦いの跡に残された灰の中から個人の自由と尊厳を至高とする高い精神を築きあげた」
「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望のもてる国を他に知らない」
 とくに演説の最後のくだりは、感傷ごのみの日本人にぴったりであった。
「〔中略〕私は当時〔引用者註:マッカーサーが52年前に陸軍に入った頃〕非常にはやったある兵営の歌の繰り返し文句を、まだ覚えている。その文句は非常に誇らしく次のようにうたっていた。
“老兵は死なず、ただ消えゆくのみ”
 あの歌の老兵のように、私はいま軍歴を閉じて、ただ消えてゆく。神の示すところに従った自分の任務を果たそうとつとめてきた一人の老兵として。
 さようなら」
 「天声人語」子は、「『人生のたそがれどき』に立って、怒りも憎しみも越えて、心中たゞ『わが国に尽す』老兵の信念と別辞とを米国民に告げて去る元帥の後姿には哲人の面影がある」(『朝日新聞』四月二十一日)と書いた。
 だが、上院の軍事・外交合同委員会での証言で、マッカーサーは「日本人はすべての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限にみさげる傾向をもっている。米国人が自信、落つき、理性的な自制の態度をもって現われたとき、日本人に強い印象を与えた」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民が米国人なら赤ん坊のときから知っている『自由』を始めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」と語る。日本人は首をかしげはじめる。
 しかし日本人が神経をもっともいらだてたのは「日本人十二歳論」であろう。マッカーサーはラッセル・ロング議員の質問に答えて「科学・美術・宗教・文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソンは四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である」と語った(『朝日新聞』五月十六日)。実はこれはマッカーサーが日本文化のもつ将来の発展性をたたえたのだと、考えればいいのであるが、そう受けとった日本人は少い。同じ「天声人語」子は「元帥は日本人に多くの美点長所のあることもよく承知しているが、十分に一人前だと思っていないようだ。日本人のみやげ物語としてくすぐったい思いをさせるものでなく、心から素直に喜ばれるように、〔名誉を贈るのは〕時期と方法をよく考慮する必要があろう」(五月十七日)といい出すにいたる。マッカーサーは「永久国賓」とはならず、「マッカーサー記念館」建設計画は、いつの間にか立ち消えとなった。日本人はやがて占領そのものを忘却のかなたに追いやることにはげむにいたる。(p.339-342) 
 

 そして、文庫版の解説で、映画評論家の佐藤忠男(1930-)は次のように述べている。

 袖井氏も指摘するとおり、占領中にマッカーサーをあれほど讃美した日本人は、マッカーサーが去ってしまうと、夢からさめたようにマッカーサーについては語らなくなった。その決定的な切れ目は、例の、「日本人は十二歳」というマッカーサーの発言であった。日本人はいまさらのように、自分たちはマッカーサーによって愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”という友情を持たれていたのでもなく、たんに軽蔑されていたにすぎなかったと知った。袖井氏はこの発言にふれて、「マッカーサーが日本文化のもつ将来の発展性をたたえたのだと、考えればいいのであるが、そう受けとった日本人は少い」と書いている。じっさい、誰もこの発言の真意をマッカーサー本人に問いただそうともしなかったくらい、一瞬にして日本人の心はシラケたのである。考えてみれば、支配者である彼が被支配者である日本人を対等の人間であると見ていたはずはない。それを、そう言われてはじめて、がくぜんとして讃美することをやめたというのは、それまでいかに、日本人のほうで、マッカーサーに対して一方的に慈父に接するような甘えの感情を抱きつづけていたかを明らかにしたものであった。恥ずかしながら、日本人は、マッカーサーから賞めてもらいたかったのである。マッカーサーに支配された二千日の間、マッカーサー民主主義学校の優等生になったつもりではげんでいたのに、その校長先生が、教育委員会かどこかで、あんな素質の低い連中なんて……とかなんとか報告したような気がして、あらためて彼が、旧敵国から派遣された司令官であったことを思い出したのであった。


 こんにち、「自衛戦争」証言を好んで取り上げたり、あげくの果てには「マッカーサーの告白」なる偽文書を流布したりする人々もまた、「マッカーサーから賞めてもらいた」いという、被占領者の心理を引きずっているのかもしれない。

(完)
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マッカーサーが謝罪したとの誤解を招いた小堀桂一郎氏の手法

2017-08-24 07:18:12 | 「保守」系言説への疑問
承前

 このマッカーサー「日本は自衛戦争」説に関連して、「マッカーサーの告白」なる出所不明の文書がネット上で流布している。

「日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。
日本はなにも悪くありません。自衛戦争をしたのです。」

云々といった内容で、例の1951年5月3日の米国上院の軍事外交合同委員会でのマッカーサーの証言も引用されている。今でも検索すれば多数見つかるはずだ。
 内容的には、引用の証言部分を除き、どう見てもマッカーサー自身が書いたとは思えないものだが、2014年には、宮城県名取市の広報12月号の市長のコラムにこの文書が引用され、市長は2015年3月に市議会でこの件を追及されて、内容が誤りだったと認めて謝罪したという。

 小堀桂一郎氏が行ったように、この証言中の「security」 を「安全保障」と訳し、さらにそれを「つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨」だと強弁したとしても、それだけでは「アメリカが悪かったのです。日本はなにも悪くありません」などということにはならないはずなのに、何故こんな偽文書が流布しているのだろうか。前々回の記事でも述べたように、マッカーサーは東京裁判を否定してなどいないのに。
 不審に思っていたのだが、私が8月18日の記事を書くに当たって、この証言を掲載している小堀氏の『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011)の該当箇所を読み返していたところ、この証言についての小堀氏による解説が、さもマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と認めたかのように書かれていることが一因ではないかと思えたので、その記述を紹介したい。

 小堀氏は、本書第3部第18節のマッカーサー証言の前に付した解説で、証言自体の説明に続けて、さらに次のように述べている(太字は引用者による)。

 
 なお数点書き添えておくと、マッカーサーが昭和二十五年十月十五日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際に、「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をしたという報道も現在では広く知られていることである。このウェーキ会談の内容も、それまでは秘密とされていたものが、この上院の軍事外交合同委員会での公聴会開催を機会に該委員会が公表にふみ切ったものである。この件についての朝日新聞の五月四日の記事によれば、次に引く如き間接的な表現が見出されるだけである。即ち〈戦犯裁判には/警告の効なし/マ元帥確信〉との見出しの下に、〈ワシントン二日発UPI共同〉として、
〈米上院軍事外交合同委員会が二日公表したウェーキ会談の秘密文書の中で注目をひく点は、マ元帥が次の諸点を信じているということである。
一、マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。(後略)〉
 以上の如く、上院委員会でのマッカーサー証言〔引用者註:いわゆる「自衛戦争」証言〕、上院の公表したウェーキ会談の内容の双方について、その中の日本に関する注目すべき言及は、当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていないことがわかる。しかしその二つの言及は、英字新聞の原文を読んだであろう一部日本の知識人の口から、新聞の報道した範囲(当時なお「検閲」をうけていた可能性は考慮すべきであろうが)を越えて次第に世間に広まっていったものの如くである。
 朝日新聞紙上に報じられた限りでのマッカーサー証言の中で、我々にとって最も重要で意味深い言葉はむしろ次の一節かもしれない。それは証言第一日たる五月三日に上院軍事外交合同委員会ラッセル委員長の質問に答えた部分の結びに出てくる所感であって、新聞記事のままに引用すれば、〈一、太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える〉というものである。
 これをニューヨーク・タイムズ所掲の原文に遡って引いておけば以下の通りであり、本書編者の試訳を附しておく。
〔原文省略〕〈私の個人的見解でありますが、我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった点にあります〉
 これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった。天皇をも日本政府をも凌ぐ、日本国内の最高権力者として東京に駐在すること五年八箇月、彼は自分の部下である総司令部民政局中の左翼分子が育成したものともいえる日本の共産主義者達の勢力の急激な伸張を目にした。東京裁判に於いて被告側弁護団が力説した、一九二〇年代、三〇年代に日本に迫っていた赤化謀略の脅威と日本の懸命なる防共努力の事蹟も耳に入った。そして一九五〇年六月二十五日、満を持して南になだれこんだ北朝鮮軍の急進撃と、その背後に控えた中共軍の大兵力の存在に直面した。朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にしたことが結局彼の政治的生命にとっての文字通りの命取りとなったわけだが、そこで彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである。ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい。(p.563-565)


 1951年5月3日のマッカーサー「自衛戦争」発言に加え、マッカーサーが1950年10月15日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際の発言、そしてやはり1951年5月3日の「米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだ」との発言の3点を引いて、マッカーサーに「東京裁判は誤りだった」という認識があったと説明している。
 これを一読すれば、マッカーサーがそのように認識していたと理解する読者が生じても不思議はない。

 しかし、ある程度注意して読めば、小堀氏のそのような主張には、何の根拠もないことに気づく。
 「security」 を「安全保障」と訳し、「安全保障」を「自存自衛」と言い抜ける以上の曲解、いや詭弁と言ってもいい。

 まず、ウェーキ会談について。
 小堀氏は、マッカーサーは「「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をした」と述べている。
 しかし、引用している朝日新聞の記事にあるのは、次の記述である。
「北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた」
 小堀氏はこれを「間接的な表現」としているが、間接的も何も、マッカーサーが述べたのが上記のとおりなら、それが全てだろう。
 朝鮮戦争の戦犯に手をつけるべきではない、東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないと当時のマッカーサーが考えたからといって、それで即「東京裁判は誤りだった」と考えていたと言えるものではない。
 ましてや、それ以降マッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と終生考えていたとはなおさら言えない。司令官解任後の上院の軍事外交合同委員会での証言でそんなことは述べていないし、前々回の記事でも述べたとおり、1964年に公刊された『マッカーサー回想記』にもそんな記述はないからである。
 小堀氏は「当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていない」ともしているが、自分が勝手に想像した「趣旨」が現れていないからといって、「不十分」と当時の新聞関係者を批判する姿勢は理解に苦しむ。

 そして、もう一点の「最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」との発言について。
 朝鮮戦争で中共軍に大敗を喫したマッカーサーが。このように慨嘆してもそれは何ら不思議ではない。
 しかしその言葉を、
「これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった」
「彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである」
と断じているのは、すべて小堀氏の単なる推測である。何の根拠も示されていない。
 そしてそれがさらに、
「ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい」
と結論づけられるのは、なおのこと理解できない。
 わが国は、何も共産主義の浸透を防止するために大東亜戦争を起こしたのではない。共産主義の総本山であるソ連と中立条約を結び、後顧の憂いを絶った上で、南方の資源確保のために米英に開戦したのだ。
 わが国と同盟を結んでいたドイツも、独ソ不可侵条約を結んだ上でポーランドに侵攻して第2次世界大戦を勃発させ、ソ連と仲良く東欧を分割したのだから、枢軸国とソ連は共犯者である。
 中華民国の指導者蒋介石は反共主義者だった。「先安内後攘外」と称して、日本への抵抗より国内の共産党との戦いを優先させていた。その蒋介石が第2次国共合作を行い抗日優先に転じたのは、盧溝橋事件に端を発した日本との戦いが彼の忍耐の限度を超えたからである。わが国こそが「共産主義者を中国において強大にさせた」主犯であった。

 なお、小堀氏は、マッカーサー解任の理由を単に「朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にした」ためとしているが、これではここでの説明としては不十分であろう。
 小堀氏が挙げている、1950年10月15日のウェーキ島でのトルーマン大統領との会談で、マッカーサーは、中共軍の介入を懸念するトルーマンに対して、それは有り得ないと明言した。マッカーサーの国連軍は北進を続け、中国との国境に接近したが、10月末に中共軍(義勇軍と称した)が参戦し、その大攻勢によって国連軍は南へ押し戻され、12月にソウルは中朝軍に奪還された。1951年3月、国連軍は再度ソウルを奪還したが、マッカーサーはトルーマンによる停戦の模索を無視するばかりか、原爆の使用を含む中国本土への爆撃や台湾の国府軍の投入を主張し、さらには野党共和党と協力して反大統領の動きを示したたため、シビリアン・コントロールに反するとして解任されたのである。
 自らの失敗を糊塗するため、あるいはプライドを守り抜くためならば、共産圏との全面戦争、つまり第3次世界大戦のリスクをも辞さない、大局観を欠いた人物であった。

 また、小堀氏は、「〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現」と評しているが、マッカーサーはやたらとオーバーな表現が好みだったと見えて、『回想記』にもその種の記述がいくつも出てくるから、特筆すべきことではない。
 有名なところでは、天皇との会見で、全責任を負う者として自分をあなた方の採決にゆだねるためお訪ねしたと言われて、
「私は大きな感動にゆすぶられた。〔中略〕この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」
と述べたこと然り、幣原首相から新憲法の戦争放棄を提案されて、
「私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった」
としていること然りである。

(続く)
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「セキュテリィーの為の戦争」だったと述べていた高市早苗氏

2017-08-22 07:10:28 | 大東亜戦争
承前

 私がこのマッカーサー「自衛戦争」説を初めて知ったのは、いつのことだったか、もうよく覚えていない。
 少なくとも、20年以上前のことではなかったかと思う。
 おそらく、当時のオピニオン誌か何かで読んだのだろうと思うが、違うかもしれない。
 その頃は、ああそうなのか、そういうこともあるのだろうなと、素直に受け取っていた。

 「自衛戦争」との訳がおかしいのではないかという疑問をもったきっかけも、よく覚えていない。
 ただ、昔、自民党の高市早苗・衆議院議員(前総務相)が、「セキュリティのための戦争だった」と述べていたのが、強く印象に残っている。
 それが、「自衛戦争」との訳に疑問を覚えたきっかけだったかどうかは、よくわからない。それより前だったかもしれない。

 今ネットで検索してみたら、高市早苗氏のサイトに、当時の経緯を示す同氏によるコラムが掲載されていた。

2002年08月27日
田原総一朗さんへの反論

 8月18日放送の「サンデー・プロジェクト」にて、田原総一朗さんが、私に対しておっしゃった言葉について、25日の番組で謝罪がありました。

 18日の放送では、「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」との田原さんの問いに対して「セキュリティーの為の戦争だったと思う」と私が答えた途端、田原さんがまくしたて始めました。「下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」「こういう幼稚な人が下品な言葉で靖国、靖国って言う」「靖国神社に行ったら、下品な人間の、憎たらしい顔をしたのが集まっている」
 全国ネットの生番組で突然「下品」といった言葉で罵倒され、あまりの出来事にしばし茫然。数分前に「国立追悼施設新設の是非」について私が行なった説明の中に下品な言葉遣いでもあったのかしら・・と思いを巡らしながらも怒りが込み上げ、怒鳴り返したいのを我慢して座っているのが精一杯でした。その後、この件では反論のタイミングも得られないままに番組が終了。

 翌日、電話で田原さんから「下品という表現は申し訳なかった。高市さん個人の事を言ったのではなく、国会議員が集団で靖国神社に参拝することは良いと思わないし、今日も右翼から電話があったが、靖国に参拝される方の中に下品な人が多いということを言いたかった」とお詫びが有り、後日、「サンデー・プロジェクト」のプロデューサーが議員会館に足を運んで下さいました。「私たちには、個人の人格攻撃になる言葉を放送したという『放送責任』というものがありますから、次回の番組できちんと謝罪します」とのことでした。


 私はこの番組を見ていないのだが、確かこの件で今は亡き月刊誌『諸君!』が高市氏の反論文を掲載し、合わせて他の論者による田原氏批判も載せていたと思う。残念ながら記事は処分してしまって内容は確認できないが。

「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」
との田原氏の問いに、高市氏は
「セキュリティーの為の戦争だったと思う」
と答えたとある。
 高市氏が「自存自衛の戦争だった」と思うなら、「そうだと思う」と答えればいいだけである。それをわざわざ「セキュリティーの為の戦争だった」と言い換えている。
 ああこの人は、「自存自衛の戦争」という用語には疑問を覚えているのだな、それで、マッカーサー証言の原文にある「security」の語をそのまま用いているのだなと、当時思った記憶がある。
 だから、それ以前から、「by security」を「自存自衛のため」と訳していることがおかしいのではないかという疑問はもっていたのだろう。

 このコラムはこう続くのだが、

 プロデューサーの誠実な人柄に接し「十分に名誉回復していただけますね」と念を押した上で、改めて私の戦争についての考え方もご説明しました。下記の内容です。

(戦後教育を受けた私の「現代人としての価値観」や「現在の国際法」に照らして考えると、他国の領土・領海・領空内で行なう戦闘行為の殆どは(同盟国への防衛協力の場合等を除く)、「侵略行為」である。しかし、「日本にとって」「自存自衛の戦争だったか」ということなら、そうだったと思っている。その問いは「当時における戦争の位置付け」を問われたものと理解したから。欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはずだし、国際法も現在とは異なっていた。個別の戦争の性質を捉える時点を「現代」とするか「開戦当時」とするかで私の答え方は違ったものになったとは思うが、私は常に「歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか」で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている。)


ここでも、「「日本にとって」「自存自衛の戦争だったか」ということなら」と、「自存自衛」は質問者側の言葉になっており、高市氏が自身の言葉として用いているのではない。

 もっとも、この説明の後段の「欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはず」という点には私は同意できないのだが。
 侵略の概念があったからこそ、満洲事変に対して中華民国が国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣され、国際連盟が「満洲国」建国を承認せず、わが国は国際連盟を脱退せざるを得なかったのではなかったか。
 侵略の概念があったからこそ、石原完爾らは南満洲鉄道の爆破を自作自演して、正当な自衛行動であると少しでも見せかけようとしたのではなかったか。
 侵略の概念があったからこそ、わが国は大東亜戦争に際して、欧米の侵略からアジアを解放すると称したのではなかったか。

 なお、このコラムによると、8月25日の同番組では、田原氏による「下品」発言の謝罪と、高市氏の上記の考え方の説明がなされたが、後者に対して田原氏が、
「ちょっとここで反論したい。植民地政策がまかり通っていたが、第1次世界大戦が起こりまして、ウイルソン大統領が植民地政策はやめようと、その直後にワシントン条約で植民地を作るのはやめようということになった。満州事変、日中戦争はこの後のことなんです(後略)」
と述べたとのことで、番組に出席していない高市氏がこの発言に反論を加えている。
 「植民地を作るのはやめよう」という「ワシントン条約」なるものは存在しないので、この点では高市氏の主張は正しいが、第1次世界大戦後のワシントン会議で締結された9か国条約の効力までも否認しようとしているのはいただけない。
 詳しく述べる余裕はないが、中国が当時分裂状態に陥っていようが、ソ連(高市氏は何故か「ロシア」と言っている)による共産化の危機が迫っていようが、9か国条約が未だ有効であった以上、爆破事件を自作自演した上での満洲国建国という事態が、同条約に違反することは疑いようがないからだ。

 ただ、高市氏がその反論で「様々な要因の中で追い詰められていった日本の「当時における大義」はやはり「自存自衛だった」と言わざるを得ません」と述べながらも、

(その後の戦闘行為の中で発生した個別の戦時国際法違反事例を正当化はいたしません。米国が原爆投下で犯した「非戦闘員の殺戮や非軍事施設への攻撃」といった事例は、各国とも経験しているはずです)


と付け加えていたことには留意しておきたいし、さらに

いずれにしましても、公共の電波を使って「不正確な言葉と情報」を発信して、その場にいない私の考え方を批判されたやり方は、フェアーでなく、メディアの正しい在り方とは思いません。


と述べた点については、当時も現在も、完全に同意である。

(続く)
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