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日々の思いをたまに綴るブログ。

日本共産党は1951年には統一していた(6)結び

2023-03-25 11:06:47 | 日本共産党
承前

 宮本顕治は、「私の五十年史」(『日本共産党の五〇年問題について』新日本出版社、1981に所収)で、「一九五五年のある日」、当時地下指導部で主導権を握っていた志田重男(もちろん所感派)から協力を求められ、指導部に復帰することとなったと述べている(p.191-192)。
 時期をぼかしているが、おそらくこのことと、前回述べた、1955年2月の衆院選に立候補したことには関係があるのだろう。

 六全協が、志田と宮本の妥協の産物であり、合作、野合であるとはよく言われる。
 宮本は、自己批判して所感派主導の党に復帰してからは、武装闘争に異を唱えることなく、沈黙していたのである。だからこそ、志田重男から協力を求められ、それを利用して指導部に復帰し、その後志田が醜聞で自滅したため、党を牛耳ることに成功したのである。
 それを道徳的に、また政治技術的に、どうこう論評する気は私にはない。
 ただ、宮本体制確立の経緯がこのようなものである以上、武装闘争時代の出来事を、「党が分裂した時期の一方の側の行動」であるから関知しないなどという姿勢は国民に通用しないということを指摘しておきたいだけである。

 こんなことは常識で考えて当たり前のことで、かつての共産党(宮本体制確立後、野坂失脚の前まで)の言い分ならば、

1.Aという会社があった
2.A社は経営方針をめぐってB社とC社に分かれた
3.B社は不祥事を起こし、国民に損害を与えた
4.B社とC社は再統合して新生A社となり、経営陣から旧B社の不祥事の責任者は一掃された

となるが、これで新生A社が、B社の不祥事による責任から逃れられるかといったら、厳密な法律的な話はどうだか知らないが、道義的、政治的には無理な話だろう。

 ましてや、党が完全に分裂していたわけではなく、1951年には分裂がほぼ解消されていたのだから、実際には

1.Aという会社があった
2.A社は経営方針をめぐってB社とC社に分かれた
3.C社は外部からの批判を受け入れてB社に吸収され、B社は新生A社となり、その経営陣は旧B社が占めた
4.新生A社は不祥事を起こし、国民に損害を与えた
5.不祥事を起こした旧B社のリーダーと、不祥事に無縁な旧C社のリーダーが協力し、一部の旧B社幹部に不祥事の責任を負わせて切り捨てて、経営陣に旧C社のメンバーを加えて再編成した
6.旧B社のリーダーに新たな不祥事が発覚して新生A社を去ったため、旧C社のリーダーが新生A社を率いることとなった

となって、なおさら責任を回避できるものではない。

 そして、1992年の野坂失脚後、現在までの共産党の言い分では、

1.Aという会社があった
2.A社の役員の多数派が、社外の勢力に使嗾されて、少数派の役員を排除して、社内に事実上の別会社(??)を作った
3.事実上の別会社はA社を名乗って不祥事を起こし、国民に損害を与えた
4.事実上の別会社のリーダーは病気で死亡し、その後継者と排除された少数派役員のリーダーが手を組んでA社を再建した
5.元事実上の別会社の後継者は新たな不祥事が発覚したためA社を去り、少数派役員のリーダーがA社を牛耳った

となる。
 多数派役員による「事実上の別会社」というのが意味不明だが、だとしても、少数派役員が分社して別会社を作ったのではない以上、同じことである。

 共産党が責任を回避し続けていられるのは、国政に責任を負わない少数野党にとどまっていることと、党員や支持者が党の方針に盲従し続けていること、ただそれだけの理由による。

(完)

日本共産党は1951年には統一していた(5)亀山幸三『戦後共産党の二重帳簿』の記述

2023-03-22 01:51:19 | 日本共産党
承前

 では、国際派をはじめとする反主流派は、1951年8月以降主流派(所感派)に屈服して党に復帰した後、何をしていたのか。

 分裂期には国際派の幹部であり、六全協後、宮本路線が確立する中で、これと訣別して春日庄次郎に同調して離党し、除名された亀山幸三(1911-1988)は、1978年の著書『戦後共産党の二重帳簿』(現代評論社)でこう書いている。

 以上のようにして、一九五一年いっぱいかかって、国際派党員の大部分は復帰し、ともかくも党は一年有余にわたる分裂・抗争の幕を閉じた。〔中略〕五二年から五四年まで、党の内部にも多くの問題が発生するが、出来るだけ簡略にするため章頭の年表にまとめた。
 この時期は、もとの所感派、五全協の中央部がいっさいを指導していた。彼らは至るところで火炎ビン事件を起こし、選挙では大敗し、労働組合の中でも勢力が大幅に減退し、他方ではトラック財政や海外への密出国などがつづけられていた。そして復帰したはずの、もと国際派幹部の行動もほとんどわからない。私はのちに五〇年問題調査委員会で、よく次のようにいった。「その頃、君はどこで何をしていたのか」「それを明らかにしてくれなければ調査も何も出来ないではないか」と。しかし正直な答はなかなか得られなかった。また、この時期、中国へたくさんの党員が密出国したが、しかし誰々が、いつからいつまで国外へいっていたのか、そこで何をしていたのか、こういうことも二五年もたったいまでも、ほとんど誰も語らない。若干の人は、これを秘密にすることで得意になり、それによって党を守っていると思っているようであるが、それはまったく違う。それは党を守っているのではなくて、自分を守っているのであり党をいつまでも暗いイメージの中に閉じ込め、党への信頼をいつまでも傷つけているのである


 25年どころか、70年(!)経った現在でもそうである。

若干わかっていることを一、二指摘しておく。〔中略〕徳田は北京で死んだ。〔中略〕律〔引用者註:伊藤〕は五三年九月に除名が発表された。彼は査問のあとですぐ中国軍兵士に連れ去られ、一年ばかりあとに西沢隆二が会いにいったところ、監獄でしょんぼりしていたようで、まもなく獄中で死んだといわれている。大変な裏切り、背徳者であったか、その死際も定かでなく、一掬の哀れさを覚える。


 伊藤律はその後も中国で生き続けていた。日中国交正常化後の1980年、中国が伊藤律の生存を公表した。同年律は日本に帰国し、スパイの汚名を否定する証言を残した後、1989年に死亡した。
 その後、伊藤律スパイ説を否定する研究が進み、スパイ説を広めるのに大きな影響のあった松本清張の『日本の黒い霧』は、否定説を紹介する注釈を追加して発行されている。
 私が日本共産党に強い不信感を抱くきっかけとなった出来事である。

野坂、紺野、河田、西沢、岡田文吉らもいったらしいが、「いっていた」ということのほかは何もわからない。白鳥事件の被疑者も何人かは亡命した。高倉テルは日本人学校の校長をしていたようで、亀田東吾、聴濤克巳もいっていた。〔中略〕中国にはおよそ四〇〇人の日本人共産主義者が、この時期に日本から渡航したらしい。一九五二年五月二日には自由日本放送が始まった。中国の党に物心両面にわたってたいへんな迷惑をかけながら、日本革命の前進には何の役にも立たなかったことも、これまた明らかな事実である。しかも、野坂をはじめ紺野も河田も、このころ渡航した大部分の人はいまや宮本のお先棒をかついで一生懸命、反中国宣伝をやっている。いったいこの人びとの頭と、その国際連帯とやらという感覚はどうなっているのか、私にはわからない。元国際派の動向はどうだろう。〔中略〕
 志賀、春日は地下潜行していたうえに、表へ出ても何もいわないから、その行動も部署もまったくわからない。袴田は六全協ごにソビエトから、犬を連れてひょっこり北京にやってきたそうである。それから満二年ごに帰国した。恐らくソ連や中国で優雅な生活をしていたのだろう。その頃国内で合法生活をしていたのは、もと国際派中央では宮本、蔵原、神山と私だけである。この時期に神山とも一度も会わなかったが彼のまわりはいつもただならぬ雲行であった。〔中略〕五四年二月から彼にたいしてふたたび大々的除名カンパニヤが行われ、ついに九月には除名になった。
 宮本と蔵原には五五年の六全協の年まで会ったこともない。二人とも何か評論を書いていたようだ。宮本は百合子全集の編輯にあたり、蔵原は浮世絵の研究をやっていたといわれていた。宮本はのちに自ら書いているように、「当時、党籍はあったが、党のどの組織にも属していないという、普通ならばあり得ない状態におかれていた」そうである。要するに宮本はこの期間中、党の仕事は何もしていないのである。その頃下部党員の大部分は上部の誤った指令にも忠実にしたがい、悪戦苦闘し、中にはとらえられ、長い獄中生活を送っていたものもいる。(以上、p.176-179)


 五四年四月に奄美群島で地方議員の補欠選挙があった。奄美は前年一二月の「ダレス声明」によって、日本に復帰したばかりである。突然、代々木から呼出しがあり、応援にいってくれ、そして往復の旅費だけは出すという。党に復帰している以上、いやだとはいえない雰囲気であった。(p.187)


一一月頃、春日正一から週に何回か定期的に本部へきて中小企業対策でもみてくれといわれて、私は〔中略〕党本部へときどき出勤することになった。〔中略〕
 かくて一九五四年は暮れ、翌年、六全協の年に突入する。五五年の一月一日の『アカハタ』はいわゆる一・一方針を出して、極左冒険主義からキッパリと手を切ると声明していた。この三年間、宮本や蔵原が何らかの党活動をしている話は聞かなかった。また、党の極左冒険主義行動を批判した話も耳にしたことはなかった。だが、その時期の政治的責任は決して免除されるべきではない。(p.189)


 六全協で極左冒険主義からきっばりと手を切ったとよく言われるが、正確には、この「一・一方針」で、既に極左冒険主義からの訣別がうたわれていた。
 そして1955年2月の衆院選で宮本顕治が東京1区、志賀義雄が大阪1区で立候補し(宮本は落選、志賀は当選。ほかに大阪2区で川上貫一が当選し、衆院での共産党の議席は2となった)、3月には臨時中央指導部のメンバーに宮本と志賀が加わり、7月の六全協開催に至るわけである。

(続く)

(引用文中の太字は全て引用者による)

日本共産党は1951年には統一していた(4)小山弘健『戦後日本共産党史』の記述

2023-03-20 07:24:04 | 日本共産党
 前回紹介した『日本労働年鑑 第25集 1953年版』は、1951年7月5日に発表された臨時中央指導部議長椎野悦朗の自己批判と、8月21日に発表された臨時中央指導部の「党の理論的武装のために」によって、分派問題は「ほぼ解決した」としている。
 しかし、実際には、その間にコミンフォルムの所感派支持の表明があり、これによって国際派は総崩れとなった。

 椎野自己批判に対して、国際派の当時の全国組織である全国統一会議は一枚岩ではなかった。春日庄次郎、亀山幸三や関西地方統一委員会は、自己批判を受け入れて党指導部(所感派)に統一を申し入れる一方、宮本顕治らは、椎野自己批判はごまかしであるとして、1950年6月の臨時中央指導部設置以前の状態に戻すべしとの要求を続けようとした。
 小山弘健(1912-1985)は、戦後の党史を扱った数少ない本の一つだった『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966)でこう書いている。

ところが、事態は突如一変した。八月〔中略〕一四日に、決定的な報道が「モスクワ放送」としてはいってきたのである。その内容は、八月一二日のコミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』が、二月の四全協における徳田派の一方的な「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」をはっきりと支持し、分派活動は日米反動を利するだけだからあくまでこの決議をまもりぬけとアピールしているという、おどろくべきものだった。
 このコミンフォルムの判決は、反対派の全グループにとって青天のへきれきであり、致命的一げきだった。これよりまえ、中央委員少数派は、徳田・野坂ら主流派の指導分子が、〔中略〕日本を脱出したことを知っていた。徳田らは北京その他の国際友党勢力に援助と協力を依頼し、同時に党内闘争にかんして自派に有利な工作をおこない、国際的支持をえようとはかるものとおもわれたから、これとの対抗上、宮本・春日・袴田・蔵原・亀山らが話し合った末、自分らの立場を訴えるため、一九五〇年の春にまず袴田を中国に先発させたのだった。それでいま、コミンフォルムの機関紙がはっきりと主流派支持の声明を出したことは、党内闘争の双方の代表の意見をきいたうえで、北京よりむしろモスクワ(スターリン)の線がこれに判決を下したものと想像されたわけである。とにかく、これによって、もはや議論の余地はなくなった。八月一六日、関西地方統一委員会は、無条件降伏による党統一の完了の決議をおこなった(『コミンフォルム論評にかんする決議』)。一八日には、関東地方統一会議指導部が主流指導下の各機関への折衝開始と全組織の解消を決定した(『党統一にかんするコミンフォルム論評とわれわれの態度』)。反対派の屈服による分派闘争の終結は、時期の問題となった。
 他方、コミンフォルム判決で勝利を確認された主流派は、八月一九-二一日の三日間にわたり、東京都内でひみつに第二〇回中央委員会をひらいた。第一九中総いらい一年四ヵ月ぶりの、しかも四全協とおなじく完全に徳田派だけで一方的にもった規約無視の中央委員会だった。〔中略〕この会議では、「党の統一にかんする決議」など五つの決議が採択され、四全協で採択された改正「党規約草案」も承認された。党統一にかんする決議は、徳田主流派が絶対に正しかったという前提にたち、反対派にたいして復帰の団体交渉とか集団的復党の方式を一さい拒否、てってい的な自己批判と分派にたいする闘争をちかうことを条件とする「無条件屈服」のみちだけをみとめた。〔中略〕
 重大なのは、この会議が、〔中略〕突然「日本共産党の当面の要求-新しい綱領(草案)」なるものを提出し、これを全党の党議にふすると決定したことだった。〔中略〕
 かくて一年余にわたる党史上空前の分派抗争は、組織的には全反対派の主流派への無条件屈服というかたちでの復帰、思想的には新綱領のもとへの全党の理論的統一というかたちでの収束によって、はっきりとかたがつけられた。〔中略〕


 さらに主流派は、8月23日付で、海外にいた袴田の自己批判を公表した。

 こうして、八月下旬から九、一〇月へかけて、反対派の各グループはなだれをうって解体していった。もっとも強硬に徳田派の粉砕をさけんでいた国際主義者団は、もっともはやく復帰の方針をさだめ〔中略〕九月には、「団結派」〔引用者註:中西功ら〕が解散大会をひらき、〔中略〕また八月には、春日庄次郎が〔中略〕「私の自己批判-本当に党と革命に忠実であるために」〔中略〕を書いた。一〇月、統一会議の指導部〔引用者註:宮本ら〕は「党の団結のために」を声明、そこで自分らの主観的意図にもかかわらず「日米反動に利する結果となった」ことをみとめ、げん重な自己批判とともに「ここにわれわれの組織を解散するものである」と宣言した。〔中略〕
 こうして、春日派・宮本派、関西や中国やその他の統一会議系地方組織、国際主義者団・団結派・神山グループなど、いずれも組織の解散をおこない、個々に自己批判のうえで復帰を申しいれるという方法をとった。すべてがみずからを「分派」とみとめ、自分ら分派のあやまりをみとめ、その完全な敗北を承認したのである。中央指導部がわは、かれらにたいして、復帰条件として、新綱領と四全協規約の承認・分派としておかしたあやまちの告白と謝罪、克服と清算を、容しゃなく要求した。ただ反対派のなかでも、まだ一部の分子(新日本文学会、その他)は中央への屈服をがえんじなかった。だがかれらの反対派としての力は、武井昭夫・安東仁兵衛らの全学連グループなどのほかは、その後ほとんど実さいに発揮できなかった。この武井らの抵抗も、翌五二年三月の全学連第一回拡大中央委までしかつづかなかった。
〔中略〕
 コミンフォルム=スターリンの誤りにもかかわらず、日本共産党を圧倒的に支配するスターリン権威主義の力は、反主流派を無条件屈服に追いやった。もっとも強硬だった野田派から、宮本・袴田・春日・神山・亀山・中西らのすべてが、国際権威の威力に無条件に支配されて、コミンフォルム判決に一言の反対も異存もなく、一方的に自分らのあやまりを認め、規約違反の歴然たる主流に復帰をねがうというさんさんたる状態となったのである。このようなまちがった国際的判決と、それのまちがったうけいれからなされた「統一」が、順調に完了するはずがなかった。その後主流派の一方的独裁と反対派の屈服による無力化が一般化していき、ついには主流派指導下に全党あげての極左冒険主義への突入となるのである。(以上、p.122-126)


 このあと、所感派が開いた五全協において、51年綱領が採択され、武装闘争が実行に移されるという流れになる。
 したがって、国際派をはじめとする反主流派は、武装闘争を積極的に推し進めた責任からは逃れることはできるとしても、その当時の党に加わっていた責任から逃れることはできない。

(続く) 

日本共産党は1951年には統一していた(3)『朝日年鑑』『日本労働年鑑』の記述

2023-03-18 22:49:33 | 日本共産党
承前

 次に『朝日年鑑』に当たってみた。
 『朝日年鑑 昭和28年版』(昭和27年10月発行)の「政党」のページには、自由党、改進党、日本社会党(右派)、日本社会党(左派)に続いて、日本共産党が取り上げられている。そこにはこう書かれている(漢字の旧字体は現在の字体に改め、促音の「つ」は「っ」に改めた)。

日本共産党
 敗戦後釈放された徳田球一、志賀義雄氏らは共産党の再建にのり出し、同年12月1日に再建後第1回の大会を開き、21年の総選挙には5名当選、24年には一躍35の議席を獲得した。
 ところが25年6月6日、徳田氏はじめ24名の中央委員と、アカハタ幹部17名が追放されたため、臨時措置として統制委員会議長椎野悦朗氏が臨時中央指導部長となったが、同氏も26年9月6日、幹部17名とともに追放された。このほか下部組織党員の追放、逮捕が続き、機関紙の多くも発行停止その他の処分にあったため、合法表での党活動は非常に弱められた。追放になった徳田氏ら幹部のほとんど大部分はそのまま地下にもぐって、強力な地下指導部をつくっているといわれているが、名古屋で逮捕された春日正一氏を除いてほかは、いまだに全くその消息は知れず、一部には海外渡航説も出ている。
 一方25年1月、コミンフォルムの機関紙が野坂理論を批判したことを契機として、党内には主流派と国際派が対立して除名騒ぎが相ついだこともあるが、それもそののち中共機関紙が主流派を支持する態度を表明してから次第におさまり、国際派は党に復帰して大体一本の姿になり、吉田内閣打倒と反米を旗印しに、果敢な実力闘争を展開している。しかし最近この方針には党内にも批判が出はじめ、中西伊之助氏は5月31日脱党した。衆議院22名、参議院3名。


 『朝日年鑑 1954年版』(昭和28年10月発行)の同じ「日本共産党」の項目には、当ブログの前回の記事の末尾で取り上げた徳田球一論文(1952年7月4日付コミンフォルム機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために!』に掲載、同年8月2日『プラウダ』に転載)を受けて大きく戦術を転換し、合法的な戦術に出たが、同年10月の総選挙では多数の候補者を立てたにもかかわらず全滅したなどと書かれている。
 しかし、党の分裂についての記述はどこにもない。

 法政大学大原社会問題研究所が刊行している『日本労働年鑑』の一部はインターネットで公開されている。
 『日本労働年鑑 第24集 1952年版』の共産党の項目には、50年問題の経緯について、かなり詳しい記述がある。

 そして、『日本労働年鑑 第25集 1953年版』の共産党の項目には、こんな記述がある。

三)
 一九五〇年に発生した日本共産党の党内分派問題(本年鑑第二四集を参照)は、第四回全国協議会以後、一九五一年中に、ほぼ解決した。
 この解決の一つの糸口となった重要な論文が、七月五日に発表された臨時中央指導部議長椎野悦朗の自己批判「党の理論的武装のために」である。以下に、その論文の要点を掲げておく。


 要点と言いながら極めて長いので、私がさらに要約すると、

1.私の理論的水準は低かった。党内で理論的活動を行い、のちに分派の支柱となった志賀、宮本、神山らは、原則に捕らわれた空論主義者、教条主義者であって、大衆とは無縁の、実践に役立たない理論を唱えていたが、私の理論水準が低かったため、これに対して一面的に実践を強調するだけに終わってしまった。この結果、分派主義を克服することができず、理論と実践を切りはなす傾向を一層進めてしまった。
2.私の第2の誤りは、コミンフォルム批判に対して正しい態度を取り得なかったことである。批判に対する「所感」に私は積極的に賛成したが、これは誤っていた。そのことは野坂の自己批判を認めることにより克服されたが、分派はコミンフォルム批判を受けてそれまでの実践を否定して極左冒険主義に走ったため、私はこれに対して「日本共産党の歩んだ道」を発表し、実践を擁護した。しかしその内容には、コミンフォルムから批判された平和革命論、解放軍規定の擁護が含まれており、これは誤りであった。
3.私の第3の誤りは、理論と実践を切りはなして理解し、党の発展を実践に基づく経験に頼ったため、経験主義的な偏向を助長したことである。私はその自覚を欠いており、分派批判に当たり、彼らの理論的低さを批判しなかったため、分派主義を克服することができないばかりか、党に忠実な同志までも彼らの側に走らせた。
4.友党〔引用者註:ソ連・中国〕の提議と、四全協の決議によって、分派の一部は、我々の側に復帰したが、未だに分派主義を完全に克服できていないのは、私の責任である。私は、全党が、マルクス・レーニン・スターリン主義の学習運動を行い、理論と実践の統一のため闘うことを訴える。

というものである。

 この『日本労働年鑑』の記事は、これに続いて、同年8月、第20回中央委員会が、新しい最低綱領草案「日本共産党の当面の要求」(51年綱領のことである)を採択し、全党の討論に移すことを決議したこと、続いて臨時中央指導部が、8月21日に「党の統一にかんする決議」を発表し、分派主義者と行動を共にした誠実な人々に対して、自己批判を行い、新しい綱領草案を認め、四全協で採択された規約草案と中央指導部の指導に服従するよう求めたことを挙げている。そして、

 第五回全国協議会で最後的に決定された最低綱領「日本共産党の当面の要求」は、党内分派問題に終止符を打った。

と締めくくっている。

 そして、『日本労働年鑑』1954年版と1955年版の共産党の項目には、もはや党分裂についての記述はない。

 こうしたことから、50年問題における党分裂は、51年には一応終結したと見ていいのではないか。

 のちに、1958年の第7回党大会における中央委員会の政治報告が、五全協を

 一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった。


と評していたのもうなずける。

続く

日本共産党は1951年には統一していた(2)徳田球一「日本共産党三十周年に際して」の記述

2023-03-14 21:46:05 | 日本共産党
承前

 日本共産党の戦前の幹部に市川正一(1892-1945)がいる。1923年に入党し、26年には中央委員となり、29年の「四・一六事件」で検挙され、1945年3月に獄死した。その公判陳述は1932年に『日本共産党闘争小史』として非合法出版され、戦後公刊された。現在の党でも高く評価されている人物である。

 その『日本共産党闘争小史』が1954年に大月書店の国民文庫で出版された際、編者は、
「本書は、一九二六年四月までの事実を述べたものであって、その後の事実は欠けているから、それをおぎなうために、日本共産党書記長徳田球一氏の論文『日本共産党三十周年に際して』(一九五二年六月)をそえた。」
として、この徳田論文を冒頭に併録した。これはコミンフォルムの機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために!』1952年7月4日号に掲載されたものだとある。
 この論文は過去30年の党の活動を振り返ったもので、当時の一種の公式党史だと言えるだろう。
 その中で徳田は、50年分裂前後とその後の経緯について、次のように述べている。

 一九四九年の一月におこなわれた衆議院の総選挙では、わが党は、〔中略〕三十五人の当選者を獲得した。この選挙における優勢は、地方にも拡大し、わが党は、これまでほとんど何ものも持たなかったのに、町村長並びに地方議会の議員を相当数獲得することができた。
 〔中略〕
 しかしながら、他方では、二つの日和見主義が発生してきた。一つは、一九四九年の春、第十五回中央委員会総会で明確になったもので、アメリカの占領制度を軽視して、議会行動を中心とする平和的手段による革命を主張するものであった。


 これは、1950年にコミンフォルムが名指しで批判した、野坂参三の主張であり、また当時の共産党の路線でもあった。

他は、一九四九年九月からあらわれてきたもので、日本の支配は、完全に、アメリカ帝国主義者の手中にあり、吉田政府以下の国および地方の政治機関は、すべて、アメリカ帝国主義者の機械的道具にすぎないと、断定するものであった。それ故、かれらは、アメリカ占領軍とのみ闘うことが、現在の党の主要な任務でると主張して、吉田政府との闘いを無視した。これらの日和見主義者達は、すべてをこの宣伝に集中し、直ちに大衆をアメリカ軍を撤退せしめるために蹶起させなければならない、と要求した。
 党内の右翼的偏向は、党内の論争によって克服された。その克服には、『恒久平和のために、人民民主主義のために』および『北京人民日報』の日本の情勢とわが党の活動に関する論評が大きな助けになった。そして、第十八回中央委員会総会は、アメリカの占領制度を排除し、吉田政府によって代表せられる国内反動勢力を打ち倒す闘争を主とする、党の当面の任務を満場一致決定した。それにもかかわらず、この決定は、現在の日本の情勢と、これに対する革命的行動の基本的関係を明確にすることができなかった。党内には、依然として、左翼的日和見主義の動揺が止まず、ついに、トロツキストを先頭とする各種の動揺分子によって反対派が結成された。
 この反対派の結成は、アメリカ帝国主義者と日本反動勢力との、党への攻勢によって助けられたものであることは、争いがたいところである。かれらは、党内の欠陥を利用して分裂を策した。 


 この反対派とは、いわゆる「国際派」をはじめとする反主流派のことである。

そのために、一時、党員は減退し、党の発展を阻害された。
 われわれは、党の発展の上に、新しい段階を開くために、党内の矛盾と意見の相違をなくする新しい綱領を必要とした。(以上、市川正一『日本共産党闘争小史』大月書店(国民文庫)、1954、p.13-15)


 「新しい綱領」とは、51年綱領のことである。
 以下、新しい綱領の意義と、その実践による革命的攻勢の成功が語られる。そして、

 新しい綱領の実践後、党内の反対派グループは、もはや存在の余地を失った。きわめて小さい冒険主義のグループに堕落した「国際共産主義者団」-トロツキスト-を除いては、反対派の大部分は、すべて誤りを認めて党に復帰し、または復帰を願っている。だから、現在では党は、統一された意志と、統一された指導のもとに、十分な統制を伴って成長しつつある。(前掲書、p.22-23)


と、反対派の大部分は、51年綱領の下、誤りを認めて党に復帰しつつあると述べている。
 前回引用した『政治学事典』の記述と同様である。

 なお、「国際共産主義者団」とは、正確には「日本共産党国際主義者団」を名乗る、50年分裂で生じた共産党の分派の1つである。指導者は野田弥三郎。ほかに宇田川恵三ら。国際派の全国統一委員会(宮本顕治、春日庄次郎ら)よりもさらに左の立場をとったという。野田は、1957年に発表された党の50年問題の総括文書「50年問題について」では「野田同志」と書かれているので、この時点では党に復帰していた。しかし後に除名されたという。

 余談だが、徳田の論文はこのあとこう続く。

 しかしながら、まだ、部分的には、欠陥をもっている。たとえば、特に、ときどき、ストライキ、デモンストレーションを、労働者、農民の実際的要求から離れて、指導者の好みによっておしつける傾向である。さらにまた、党の幹部達が、ストライキ、デモンストレーション等の実力行動のみに精力を集中して、国会や地方議会の選挙等の如き問題を軽視する傾向である。われわれは、厳密に辛抱づよく、階級的政治教育を実施し、公然活動と非公然活動との統一に習熟して、「闘いは国民の信頼のもとに」のスローガンを実践することによって、この欠陥を除き、恐ろしい勢いで進撃していく革命に、立ち遅れないようにする義務をもっている。(前掲書、p.23)


 これは、わかりにくいが、いわゆる武装闘争を批判しているのである。
 昨年出版された、中北浩爾『日本共産党』(中公新書)にはこうある。

 これを受けて公然の中央指導部は、復刊された機関紙『アカハタ』の七月一二日号で火炎瓶闘争を自己批判し、来たる衆院選に集中する方針を示した。それ以降、都市部での火炎瓶闘争は下火に向かった。結局、武装闘争が本格的に実施されたのは、わずか半年あまりにすぎなかった。そのことは、中ソ両国共産党に押し付けられた武装闘争方針が、いかに日本の国内事情から乖離していたのかを如実に物語っている。(p.100)


 だから、六全協を迎えるまで、所感派がずっと武装闘争に興じていたかのように捉えるのは誤りである。

続く

日本共産党は1951年には統一していた(1) 『政治学事典』の記述

2023-03-12 19:38:52 | 日本共産党
 日本共産党のいわゆる「50年問題」については、1950年に党が「所感派」(主流派)と「国際派」その他に分裂し、所感派は51年綱領を掲げて武装闘争を敢行したが国民の支持が得られず、1955年に「六全協」(第6回全国協議会)を開いて党の統一が図られ、その際武装闘争を放棄したと一般に言われる。

 例えば、コトバンクで「六全協」を検索すると、

1955年7月に開かれた日本共産党第6回全国協議会の略称。共産党が,それまでの極左軍事冒険主義を転換し,今日の先進国型平和革命路線に踏出す,歴史的意味をもつ会議とされる。それまでの 51年綱領は事実上の軍事革命路線であり,52年以降の火炎瓶闘争はその実践であった。六全協では,この路線の推進者だった徳田球一,志田重男の主流派と,この路線の批判者である宮本顕治の国際派が妥協。したがって路線批判はまだあいまいだったが,六全協直後に志田は失脚し,宮本が優位に立ち,翌 56年7月の第7回党大会で 51年綱領は廃棄され,宮本が書記長に就任,新路線の推進,確立に向けて歩みはじめた。


とのブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説と、

1955年7月27~29日にひらかれた日本共産党第6回全国協議会の略称。1950年以来アメリカ占領軍の弾圧下で分裂を深めてきた日本共産党が,講和以後の新しい条件のもとで統一を回復し,公然活動に転換する画期となった。〈党活動の総括と当面の任務〉では,極左冒険主義の克服,セクト主義の反省にもとづく党の団結がうたわれ,民族解放,民主統一戦線のスローガンが打ち出された。〈党の統一にかんする決議〉では,1950年に発生した分裂・抗争の責任が当時の指導部にあることが明らかにされ,〈伊藤律の除名確認〉が決定された。


との世界大百科事典 第2版(平凡社)の解説が表示される。

 かつて、私がこの問題を知った頃の共産党も、おおむねこのように説明していた。
 だから私は、1950年に党が分裂してから、55年に六全協が開かれるまでの間、党は所感派と国際派その他の分裂状態にあったのだと、以前は理解していた。

 ところが、7年前、この共産党の路線変更について調べていて、六全協の後開かれた初めての党大会である、1958年の第7回党大会における中央委員会の政治報告に
 
二つの組織が公然と対立抗争する党の分裂状態は、大衆の不信と批判をうけ、党勢力は急速に減退した。
 このような事態のもとで、四全協指導部の間に従来からの戦略や指導上の誤りが自己批判されはじめた。これらのことが分裂した双方のなかに統一への機運をつくりだし、両者の統一のための話し合いもすすんでいった。〔中略〕
 だが、四全協指導部は、これらの組織に属していた人びとに、分派としての自己批判を要求し、そのため復帰も順調に進まなかった。このような態度は基本的には六全協にいたるまで克服されず、党内問題の解決をおくらせる主要な原因となった。
 一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった。


と、51年綱領を採択した五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」と評価していることに気付いた(これは何も私が独力で気付いたのではなく、誰かのそのような指摘を読んだのだと思うが、その出典はもう覚えていない)。
 そこで私は当時ブログにこう書いた

五全協を、分裂状態が実質的に解決していないとしながらも、「ともかくも一本化された党の会議であった」と評価している。
 私はこれまで、前回の記事で引用した不破哲三氏の発言のように、四全協も五全協も共に「分裂した一方の側の会議」だと思っていたが、どうも違うようだ。
 調べてみると、この1951年には、四全協後に「国際派」の志賀義雄が自己批判して主流派に復帰したり、「所感派」である北京の徳田球一や臨中議長の椎野悦朗が自己批判したり、「国際派」が分裂したり、徳田(所感派)と袴田里見(国際派)がモスクワに赴き、スターリンが徳田を支持して袴田は自己批判し主流派入りするといったさまざまな出来事があり、単純な分裂ではなく、複雑な状態であったらしい。
 特に、政治報告も触れているモスクワ放送でソ連の徳田支持が明確になってからは、「国際派」は腰砕けとなり、主流派への復帰への動きが進んだらしい。
 だから、五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」と表現しているのだろう。
 ならば、五全協で決定された51年綱領に基づく武装闘争路線については、「分裂した時期の一方の側の行動」として切り捨ててはいられないはずだが……。


と。

 先日の記事で、まだ六全協前の1954年に出版された『政治学事典』(平凡社)の「日本共産党」の項目に、

党内には占領政策にたいする評価のちがいにもとずいて、革命の方式についていわゆる主流派・国際派の対立が表面化したが50年1月のコミンフォルム機関紙の批判、中国共産党の助言などを受けて“分派問題”は克服され、51年秋には「日本共産党の当面の要求――新しい綱領」を決定して、党の統一が達成された


との記述があり、また「国際派」の項目には、

国際派 1950(昭和25)年1月、「恒久平和と人民民主主義のために」紙上にアメリカ帝国主義にたいする闘争の不充分について日本共産党にたいする批判が掲載され、これにたいする党中央の自己批判が不充分で、指導方針が右翼日和見主義的であると攻撃し、客観的・主観的条件を無視した反帝・反戦闘争を主張して極左的な分派活動をおこなったグループを国際派と俗称する。これにたいして党中央の立場を主流派と俗称した。分派活動は諸外国共産党からの助言と、党中央の指導とによって克服され国際派の自己批判による党への個人復帰がつぎつぎにおこなわれ、1951年秋に決定された民族解放民主革命の新綱領のもとに、その統一が達成された


と書かれていることを挙げたが、これを私が見た時、上記の7年前の記事のことを思い出した。

 この『政治学事典』の項目は、「国際派」の方は無署名だが、「日本共産党」の方は「塩田庄兵衛」が執筆者として明記されている。
 塩田庄兵衛(1921-2009)は、東京都立大学や立命館大学の教授を務めた、社会運動・労働運動の研究者である。共産党直系の新日本出版社から著作も出している。
 社会運動・労働運動の研究者から見て、当時の共産党の状況が上記のように評価できるものだったとすると、党は、1955年の六全協によってではなく、1951年に既に実質的には統一していたと見るべきではないのか。
 そう思うようになった。

 そこで、この50年分裂と統一が当時どのように評価され、また、その細かい経緯はどうだったのかを調べてみたいと思った。

(引用文中の太字は全て引用者による)

(続く)

そもそも「共産党」とは何か-コミンテルンへの21箇条の加入条件

2023-03-07 17:26:28 | 日本共産党
 以前の記事で、『日本共産党綱領集』(新日本出版社、1957)に収録された、コミンテルンへの21箇条の加入条件を引用した。
 この条件については、概要は知っていたが、原文を見るのは初めてだった。
 現在ではそんなに流布していない資料ではないかと思われるので、ここに全文を挙げておく。
 特に重要と思われる箇所は太字にした。

 以前にも述べたように、1917年のロシア革命の後、世界各国に共産党が生まれたが、これらは、各国の共産主義者が独自に結成したものではない。
 共産主義運動の国際組織であるコミンテルン(共産主義インターナショナル)が加入条件を定め、それを受け入れて各国の共産主義者が党を結成し、そのコミンテルンへの加入が承認されることにより、はじめて各国に共産党が成立したのである。
 日本共産党だけでない。中国共産党も、朝鮮共産党も、アメリカ共産党も、イギリス共産党も、フランスも、イタリアも、スペインも、皆そうである(ドイツだけは事情が異なり、独自に共産党が結成されたが、後にコミンテルンに加入した)。
 この加入条件を読めば、何故共産党が各国で敵視されたか、何故わが国に治安維持法が必要とされたか、何故かつての社会党が共産党との協力に消極的であったか、理解できるのではないだろうか。

 もちろん、コミンテルンは1943年に解散し、現在の共産党がこの加入条件に支配されているわけではない。
 だが、各国の共産党がもともとこうした政治集団として発足したものであること、そして日本共産党においても民主集中制のように現在まで尾を引いている部分があることは、記憶しておく必要があるだろう。

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第二回コミンテルン大会で採択された共産主義インタナショナルへの加入條件
                          一九二〇年八月六日

 共産主義インタナショナルの第一回大会は、第二インタナショナルに個々の党を入れるための、通確な諸条項を、作成しなかった。
 第一回大会が招集されたころには、多数の国々では、ただ共産主義的な諸傾向と諸グループだけがあったのである。
 共産主義インタナショナルの第二回大会は、以前とはちがった情況の中にひらかれている。現在、大部分の国々では、すでに、共産主義的な諸傾向や諸潮流だけでなく、共産主義的な諸党派や諸組織も、あるのである。
 最近まて、まだ第二インタナショナルに所属していて、実際上は、共産主義的なものになっていない諸党派や諸グループで、共産主義インタ+ショナルヘの加入を希望しているものが、いまではますますふえてきている。
 第二インタナショナルはついに粉砕された。中間的な諸党派や「中央派」の諸グループは、第二インタナショナルの、まったくの絶望状態を見きわめたあげく、着実に強くなってゆく共産主義インタナショナルに、よりかかろうと、くわだてている。だが、そうしながらも、かれらは、今までどおりの日より見主義的な、あるいは「中央派」的な政策を、つづける可能性をあたえてくれるような「自治」を、保留したいと、希望しているのである。共産主義インタナショナルは、ちよっと流行物となったようにみえる。
 「中央派」のいくつかの指導的グループが、共産主義インタナショナルに加入したいと、望んでいることは、 コミンテルンが全世界の階級意識のある労働者の圧倒的大多数の同情を、かくとくして、日ましに、ますます強大な力となってきていることを、間接に確証しているものである。
 第二インタナショナルのイデオロギーをまだきっばりとすてきっていない、不安定で、ぐらついている諸グループによって、共産主義インタナショナルが弱くされる危険性がありうる。
 それからまた、その大部分が共産主義的な土台にたっているいくつかの党(イタリア、スウェーデン、ノルウェー、ユーゴスラヴィアその他)では、今日でさえ、なお、改良主義的な、あるいは社会平和主義的な部分がのこっている。かれらは、ふたたびその頭をもたげ、プロレタリア革命の積極的なサボタージュをはじめ、それによってブルジョアジーと第二インタナショナルを助けるためのよい機会を、ねらっているにすぎない。
 共産主義者は、ハンガリー革命の教訓を、けっしてわすれてはならない。ハンガリーのプロレタリアートにとって、ハンガリー共産主義者と、いわゆる「左翼」社会民主主義者との合同は、高価なものについたのだ。したがって、共産主義第二インタナショナル第二回世界大会は、新たな諸党の加入条件を、完全に、適確に、決定し、同時にまた、すでにコミンテルンに加入している諸党にたいして、それらの党が負うべき義務を、指示することを、必要と考える。
 共産主義インタナショナル第二回大会は、共産主義インタナショナルヘの加盟条件を、次のように決定する。
 一 宣伝と陽動は、みなほんとうに共産主義的な性格をもったもの、そして、共産主義インタナショナルの綱領と諸決定にしたがったものでなければならない。党のすべての出版物は、プロレタリアートの事業にたいする献身を、実証してきた、信頼てきる共産主義者によって、編集されねばならぬ。プロレタリアートの独裁については、捧暗記のおきまり文何をくりかえすように、単調に説明されてはならない。あたりまえの労働者、労働婦人、兵士、農民のすべてに、プロレタリアートの独裁の必要性は、われわれの出版物で日々に体系的に報告され、とりあげられているところの、かれらの生活上の事実から発生したものであることを、理解させるような方法で、宣伝されなければならぬ。
 定期の刊行物やその他の出版物や、すべての党出版所は、そのとき党が全体として合法であるか、非合法であるかを問わず、完全に党中央委員会に従属しなければならない。出版所が、自分の自治を悪用して、党の政策に完全には一致していない政策を実行することは、許されてはならない。
 新聞紙の紙両、大衆集会、労働組合、協同組合などのように、共産主義インタナショナルの加盟者が入りこめるようなところなら、どこででも、ブルジョアジーだけでなく、その助力者であるすべての色合の改良主義者をも、体系的に、容赦なく、攻撃することが必要である。
 二 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する各組織は、労働者の運動の中でのあらゆる責任ある地位(党組織、編集局、労働組合、議会フラクション、協同組合、地方向治体など)から、改良主義者や「中央派」の人々を、計画的なやり方で、しりぞけてゆくようにしなければならない。そして、はじめのうちは、ときとして、「経験に富んだ」日より見主義者のかわりに、あたりまえの労働者を入れかえなければならないことになってもよいから、日より見主義者たちを、信頼できる共産主義者と、とりかえなければならない。
 三 ヨーロッパとアメリカのほとんどすべての国々で、階級闘争は、内乱の段階に突入した。このような情勢の中では、共産主義者は、ブルジョア的な合法性を信頼することはできない。共産主義者は、あらゆるところに、平行的な非合法機関をつくりだす義務がある。それは、決定的な瞬間に、党が、革命にたいする自分の義務をやっていくのを、援助するであろう。戒厳状態、あるいは特別法のために、共産主義者がそのすべての仕事を合法的にやれないような、すべての国では、合法活動と非合法活動とを結合することが、絶対に必要である。
 四 共産主義の諸理念を普及させる義務の中には、軍隊内部における組織的で、精力的な宣伝をやりとげる、特別に必要な義務がふくまれている。このような煽動が、特別法によって禁止されているところでは、それは非合法的にやられなければならない。このような仕事を拒否することは、革命的義務を放棄するのと同じことで、それと、共産主義インタナショナルに所属していることとは、両立できない。
 五 組織的で、よく計画された場動が、農村でやられなければならない。労働者階級は、自分の背後に、その政策によって、農村の農業労働者や貧農から、たとえその一部分であろうと、支持をうけないかぎりは、また、そのほかの農村の一部分の人々を中立させることができないかぎりは、自分の勝利を確保できないのである。現在、農村での共産主義の活動は、第一義的な重要性をもってきている。それは、主として、農村と密接なつながりをもつ、革命的で、共産主義的な都市労働者と農村労働者の援助でなされなければならない。このような活動を拒否すること、あるいは、これを、信頼するにたらぬ半改良主義的な人々の手にわたすことは、プロレタリア革命を拒否するのと同じことだ。
 六 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する党は、公然たる社会愛国主義はもとより、さらに社会平和主義の不誠実と偽善をもバクロする義務がある。すなわち、資本主義を革命的にうち倒さないかぎり、どんな国際裁判所も、どんな軍縮条約も 国際連盟のどんな「民主的」改組も、新らしい帝国主義戦争を防止することはできない、ということを、労働者に系統的に説得して、確信させる義務がある。
 七 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する党は、改良主義と「中央派」の政策と、完全に、そして絶対的に絶縁する必要があることを,承認し、しかも、この絶縁を、その党員のあいだに、できるかぎり広く、宣伝する義務がある。これをやらないかぎり、一貫した共産主義政策はなりたたないのである。共産主義インタナショナルは、この絶縁をできるだけはやく、やりとげることを、無条件に、そして、絶対的に要求する。共産主義インタナショナルは、ツラチ、モディリヤニ、カウツキー、ヒルファーディング、ヒルキット、ロング、マクドナルド、その他のような、まぎれもない日より見主義者に、コミンテルンの成員とみなさるべき権利がある、という意見には同意できない。もしそれに同意するなら、やがて共産主義インタナショナルが、つぶれてしまった第二インタナショ+ルと、多くの点で似たようなものになってしまうであろう。
 八 植民地と被圧迫民族の問題についての、とくにはっきりした態度が、その国のブルジョアジーが植民地をもち、他民族をおさえつけている国の党にとって、必要である。
 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する党は、植民地での「自国」の帝国主義者の策謀をバクロし、すべての植民地解放運動を、ただ言葉の上だけでなく、行動でもって支持し、これらの植民地から自国の帝国主義者を追っばらうことを、要求し、植民地と被圧迫民族の勤労人民にたいする、ほんとうに友愛的な態度を、自国の労働者に教え、自国の軍隊内に、植民地人民をおさえつけることに、いっさい反対する、系統的な場動をやる義務がある。
 九 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する党は、労働組合、労働者協議会、工場委員会、協同組合、またその他の大衆団体の中で、系統的で、ねばりづよい共産主義の活動を、やらなければならない。これらの組織の中に、細胞を組織しなければならない。その細胞は、たゆみのない一貫した活動によって、労働組合等々を、共産主義の事業のために、かくとくしなければならない。日々の活動の中で、細胞は、社会愛国主義者の裏切りと「中央派」の動揺ぶりを、あらゆる機会にバクロしなければならない。共産主義細胞は、完全に、全体としての党に従属しなければならない。
 一〇 共産主義インタナショナルに所属する党は、黄色労働組合のアムステルダム・「インタナョナル」にたいする、ねばりづよい闘争をやる義務がある。各党は、労働組合員のあいだに、黄色アムステルダム・インタナショナルと手をきる必要を、もっとも頑強に宣伝しなければないない。各党は、共産主義インタナショナル加盟の赤色労働組合のあいだに、形成されつつある国際的統一を、あらゆる手段をつくして、支持しなければならない。
 一一 共産主義インタナショナルヘの加盟を希望する党は、その議会グループの構成分子を再検討し、信頼しがたい分子を、グループから一掃し、言葉の上でなくて、実行によって、これらのグループを党中央委員会に従属させ、共産党代議士の一人一人にたいして、その全活動をほんとうに革命的な宣伝賜動のために従属させるよう、要求する義務がある。
 一二 共産主義インタナショナル加盟の各党は、「民主的中央集権」の原則によって、つくられなければならない。はげしい内乱の現段階で、共産党が自己の義務をやりとげることができるのは、その組織がもつとも中央集権化され、鉄の規律が支配し、党中央が、党員の信頼に支えられて、力と権威を保持し、はば広い全権をもつている場合だけである。
 一三 共産主義者が合法的に活動している国の共産党は、党の中に入りこんだ小ブルジョア分子を、とりのぞくために、ときどき党員の清掃(再登録)をしなければならない。
 一四 共産主義インタナショナルヘの加入を希望する党は、反革命的諸勢力にたいして闘争する各ソヴェト共和国に、無条件的な支持をあたえる義務がある。ソヴェト共和国の敵にたいして転送される軍需物資の移動を、妨害するために、力づよい宣伝をおこなわねばならない。また、労働者共和国をしめ殺すために派遣される軍隊の中に、合法または非合法のあらゆる手段で、宣伝をやらなければならない。
 一五 今日までいまだに古い社会民主主義的な綱領をのこしている諸党は、できるだけはやく、それを再検討し、共産主義インタナショナルの諸決定にしたがって、自国の特殊条件に合致した、新しい共産主義的綱領を、つくりだす義務がある。共産主義インタナショナルに所属する各党の綱領は、原則として、共産主義インタナショナルの定期大会、あるいは執行委員会によって確認されなければならない。党の綱領が、コミンテルン執行委員会によって確認されない場合には、その党は共産主義インタナショナルの大会に提訴する権利をもつ。
 一六 共産主義インタナショナルの諸大会と執行委員会のあらゆる決定は、共産主義インタナショナルに所属するすべての党にたいし、拘束力をもつ。はげしい内乱の情勢の中で活動している共産主義インタナショナルは、第二インタナショナルの場合よりも、はるかに、より中央集権的に組織されなければないない。共産主義インタナショナルとその執行委員会のすべての活動には、それぞれの党が、闘争し、活動しなければならぬ場合の、多様な諸条件にたいする考慮が当然なされなければならぬ。そして、普遍妥当的な諸決定を下すことが、可能なときにだけ、決定を下すようにしなければならない。
 一七 これと関連して、共産主義インタナショナルヘの加入を希望する党は、その党名を変えなければならない。共産主義インタナショナルヘの加入を希望する党は、どこどこの国の共産党(共産主義インタナショナル支部)と呼ばれなければならない。名称の問題は、ただ形式的な問題ではなく、本来、さらに大きな重要性をもつ政治的問題なのである。共産主義インタナショナルは、全ブルジョア世界と全黄色・社会民主主義諸政党にむかってたたかいを宣言し、労働者階級の旗を裏切った、これまでの公認の「社会民主主義的」な、または「社会主義的」な諸党と、共産党とのあいだの区別が、あたりまえの労働者の誰にでも、はっきりわかっていなければならない。
 一人 あらゆる国でのすべての指導的な党出版機関は、共産主義インタナショナル執行委員会の公文書を全部出版する義務がある。
 一九 共産主義インタナショナルに所属する党と、共産主義インタナショナルへ加入する希望をあきらかにした党は、すべて、できるだけはやく、だが、どんな場合にも、共産主義インタナショナル第二回世界大会以後の四カ月以内に、これらすべての加入条件を審議するために、緊急大会を招集する義務がある。これと関連して、党中央部は、共産主義インタナショナル第二回大会の諸決定が、全地方組織に残りなく徹底させるように、配慮する必要がある、
 二0 いま共産主義インタナショナルへの加入を希望していながら、そのいままでの戦術を根本的に変えていない諸党は、共産主義インタナショナルに加入する前に、すでに共産主義インタナショナル第二回大会前、共産主義インタナショナルへの加入を公然と、はっきりと表明した同志で、党中央委員会と中央の指導部諸機関のメムバーの三分の二以上を構成するように、配慮しなければならぬ。例外は、共産主義インタナショナル執行委員会の確認を必要とする。共産主義インタナショナル執行委員会は、第七条にあげた「中央派」の代表たちにとっても、例外を設ける権利をもつ。
 二一 共産主義インタナショナルによって提示された諸条件と諸テーゼを、原理的に拒否する党員は、党から除名されるべきだ。このことは党の緊急大会の代議員にたいしても適用される。

「派閥・分派はつくらない」という不思議な言葉-松竹伸幸除名事件を見て(3)

2023-03-05 18:41:02 | 日本共産党
 日本共産党京都府委員会が今年2月6日に発表した「【コメント】松竹伸幸氏の除名処分について」には、

松竹伸幸氏の一連の発言および行動は、党規約の「党内に派閥・分派はつくらない」(第3条4項)、「党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない」(第5条2項)、「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」(第5条5項)という規定を踏みにじる重大な規律違反です。


とある。

 党中央委員会党建設委員会が2022年8月23日付で発表していた「日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か 一部の批判にこたえる」には、

  わが党は、党規約で、民主集中制を組織原則としています。「民主」とは、党の方針は民主的な議論をつくして決め、党のすべての指導機関は民主的選挙によってつくられるということです。「集中」とは、決まった方針は、みんなでその実行にあたり、行動の統一をはかることです。これは国民に責任を負う政党ならば当たり前の原則ですが、支配勢力の攻撃をはねのけて社会変革を進める革命政党にとっては、とりわけ重要な原則となっています。
 この組織原則は、「党内に派閥・分派はつくらない」ことと一体のものです。わが党は、派閥・分派がいかに有害なものかを、身をもって体験しています。「50年問題」のさいに、派閥・分派がつくられて党が分裂におちいったことが、党と社会進歩の事業にとっての計り知れない打撃をもたらしました。1960年代以降の旧ソ連や中国の覇権主義的干渉とのたたかいのさいにも、干渉と結びついた内通者によって党に敵対する派閥・分派がつくられ、これを打ち破ることは無法な干渉を打ち破るうえで決定的意義をもつものでした。派閥・分派を認めていたら、現在の日本共産党はかけらも存在していなかったでしょう。


とある。

 「派閥・分派」とは何だろうか。

 派閥というものはある。
 自民党にはいくつかの派閥がある。安倍派、茂木派、麻生派、岸田派、二階派等々。
 55年体制下で野党第1党だった社会党にも派閥があった。河上派、江田派、佐々木派、勝間田派、社会主義協会派等々。
 十数年前に政権を担った民主党には、ゆるやかな連合体であるため派閥とは呼ばれなかったが「グループ」がいくつかあった。鳩山グループ、菅グループ、小沢グループ、前原グループ、野田グループ、横路グループ、川端グループ等々。
 現在の野党第1党である立憲民主党にも、グループあるいは派閥と言われるものがあると聞く。

 企業や官界、学界でも、派閥があると言われることがある。
 しかし、こうした派閥を「分派」とは呼ばない。

 分派とは何だろうか。
 分派とは、ある政治集団内で、正統派あるいは主流派を自任する勢力が、それに従わない勢力を非難するときに用いる用語である。また、そうした集団を外部から見たときに、正統派あるいは主流派とは見なし得ない勢力を指す場合にも用いられる。
 1954年に出版された『政治学事典』(平凡社)には「分派活動」という項目があり、こう書かれている。

分派活動 政治団体とくに政党において、政治的プログラムないし政治的信条を異にするメンバーが、その内部に独自のグループ・ファクションをつくって、その政治団体の主導権をにぎろうとする活動。ことに中央集権制を確立している政党において問題となる。このような分派の発生を防止するには、党内デモクラシーの確立が必要とされるが、急激な経済上、政治上の変動期、たとえば恐慌、戦争の前後などに内部の対立が尖鋭化せしめられて、分派発生の条件がつくられる。討論と説得が失敗した場合、分派問題の解決は、1)党組織の分裂(例、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂)、2)粛清、除名、追放などによる組織の純化(例、トロツキスト裁判)によつてもたらされる。〔後略〕


 1964年、日本共産党は、部分的核実験停止条約をわが国が批准することに反対したが、志賀義雄、鈴木市蔵ら一部は批准賛成の立場を採り、神山茂夫と中野重治も彼らに同調し、4人は党を除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成した(のち神山、中野は離脱)。これは分派である。
 共産党にはほかにも1960年代以降、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(安斎庫治ら)、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(行動派)」といった分派が存在した。
 1950年に党が分裂した際には、「所感派」と「国際派」が互いに相手を「分派」と呼んで争った。

 自民党では、1976年に、河野洋平らが 政治の刷新を掲げ、自民党を離党して、「新自由クラブ」という新党を結成した。しかし、これを分派とは言わない(彼らは国政政党の座を維持したが、支持を伸ばすことができず、結局10年後に自民党に合流した)。
 また、1993年から94年にかけて、自民党から新生党(小沢一郎、羽田孜ら)、新党さきがけ(武村正義、鳩山由紀夫ら)、自由党(柿沢弘治ら)、新党みらい(鹿野道彦ら)といった新党が生まれた。彼らの中には後に自民党に戻った者もいれば戻らなかった者もいたが、これらの新党も分派とは言わない。
 社会党からは、民社党や社会民主連合といった新党が分裂したが、これも分派とは言わない(ものを知らない人の中にはそう呼ぶ者もいるが)。
 民主党からも、新党きづな、国民の生活が第一、みどりの風といった新党が分裂したが、これもまた分派とは言わない。
 彼らは、元の党における正統性を主張したのではなく、単に離脱して別の政党を結成したにすぎないからである。

 「・」という記号は、同格のものを並記するときに用いられる。
 日本共産党は、綱領で、「社会主義・共産主義」という言葉を用いている。「共産主義」という用語を単独で用いている箇所はない。
 何故なら、以前取り上げたように、現在の共産党の見解では、「社会主義」と「共産主義」は、同じ意味だからだそうである。

 ということは、「派閥・分派」という党規約の表現は、「派閥」と「分派」は同じものだと日本共産党が考えているということを示している。

 しかし、一般的な理解では、「派閥」と「分派」は同じものではない。

 「分派はつくらない」というのは、当たり前のことである。分派を公認している政党など聞いたことがない。
 何故なら、分派とは、党の統一を乱し、党の利益を阻害する、反党行為だからである。

 自民党には、「自由民主党規律規約」というものがある。
 その第9条には「党員が次の各号のいずれかの行為をしたときには、処分を行う。」とあり、その各号の一(ハ)に
「党内において国会議員を主たる構成員とし、党の団結を阻害するような政治結社をつくる行為」
とある。これは分派のことである。
 
 立憲民主党にも「立憲民主党倫理規則」があり、


第2条
1.本党に所属する党員は、次の各号に該当する倫理に関する規範(以下「倫理規範」という)を遵守しなければならない。
一 選挙関係法令違反、政治資金関係法令違反等の政治倫理に反する行為を行わないこと
二 大会、両院議員総会、常任幹事会等の党の重要決定に反する行為を行う等、党の名誉及び信頼を傷つける行為を行わないこと
三 選挙又は議会において他政党を利する行為、党の結束を乱す行為等を行わないこと。
〔後略〕


とされている。

 しかし、これらの党は派閥やグループの存在を禁止してはいないし、現にそれらが存在していることは、先に述べたとおりである。

 「分派」を「派閥」と同一視し、党分裂の教訓から、「派閥」すら許さないと唱える政党は、わが国では日本共産党ぐらいのものである。
 (公明党にも派閥は存在しないが、公明党は民主集中制を採用すると公言してはいない)。

 かつて、自民党で、派閥抗争が著しい頃、「派閥解消」が叫ばれたことがあった。
 しかし、1990年代に小選挙区制が導入されると、派閥の力は衰え、その弊害が指摘されることもなくなった。
 こんにち、自民党や立憲民主党において派閥が「いかに有害なものか」を指摘する声は聞かない。
 党首選に複数の候補者が並び立つ光景は、むしろ党内の自由や多様性の現れとして、好意的に評価されているのではないか。

 民主主義革命を目指し、さらに「社会主義・共産主義の社会」を目指す日本共産党が、「支配勢力の攻撃」に耐え抜くため、レーニンに由来する民主集中制の原理を堅持するのは、彼らの自由だ。
 しかし、党外の国民が、そうした彼らが唱える「民主」に疑念をもち続けるのも、また当然のことだろう。


分派が50年問題を起こしたという日本共産党の嘘-松竹伸幸除名事件を見て(2)

2023-03-02 16:20:26 | 日本共産党
承前
 
 日本共産党員である松竹伸幸氏が今年1月に党首公選制を求める著書を出版し、除名された件で、50年問題で打撃を受けた教訓として、党首公選を認めない民主集中制を共産党が堅持するのは当然だとの主張を見かけた。

 前回の記事で指摘したように、民主集中制は結党以来の組織原理であり50年問題とは関係ないのだが、その点を抜きにしても、こうした主張には大きな疑問がある。
 何故なら、50年問題の時に、仮に民主集中制が堅持され、軍事方針一色に共産党が染まっていれば、現在の党は存在し得ないからだ。
 分派が存在したからこそ 現在の党があるからだ。

 1950年1月、いわゆるコミンフォルム批判を契機に、日本共産党は所感派(徳田球一、野坂参三ら)と国際派(宮本顕治、志賀義雄ら)に分裂したが、所感派が多数派だった。
 同年6月、朝鮮戦争が勃発すると、所感派は国際派を置き去りにして地下に潜行し、さらに徳田らは中国に渡り、北京から党を指導した。国際派は独自の組織を形成して所感派を批判したが、ソ連も中国も国際派を分派とみなして批判したため、国際派は自己批判して所感派の支配を受け入れた。いわゆる五全協が軍事方針を採択したのはその後のことである。

 そして、軍事方針に基づく武装闘争が国民の支持を得られず失敗に終わり、徳田が北京で病死すると、所感派の国内指導者であった志田重男が宮本顕治に協力を求め、1955年の六全協(第6回全国協議会)で宮本は指導部に復帰した。志田は醜聞で失脚し、野坂は名誉職に棚上げされ、宮本が党の指導者格となった。彼が築いた党の路線が60年以上経った現在まで続いている。

 仮に国際派が存在せず、全党が一丸となって所感派の方針に従っていれば、党は武装闘争によって壊滅し、再建は容易なことではなかっただろう。国際派という、手を汚していない受け皿があったからこそ、共産党は武装闘争の責任を所感派に押し付けて、国政に復帰することができた。
 だから、50年問題の教訓というものがもしあるとすれば、それは民主集中制の堅持ではなく、むしろ分派の存在を容認すべきことであるはずだ。

 それが何故、50年問題の教訓として民主集中制の堅持という主張になるのか。
 不審に思ったが、少し調べてみると、何と現在の日本共産党では、「徳田・野坂分派」が、ソ連・中国の干渉を受け入れて、武装闘争に及んだというストーリーになっているのだそうだ。
 これには驚いた。

 1982年に出版された『日本共産党の六十年』では、徳田や野坂の動きについて、
「事実上の徳田派を分派的に形成する重大な誤り」
と評しながらも、「分派」そのものであるとは断じていない。
 ところが、2003年に出版された『日本共産党の八十年』では、
「分派を……つくる方針を申しあわせました」
「徳田・野坂分派の旗あげ」
と、明確に分派と断じている。

 もし、50年分裂に際して「分派」が存在したというなら、それは「徳田・野坂派」ではなく、「国際派」の方だろう。
 何故なら、当時は「徳田・野坂派」すなわち所感派こそが多数派であり主流派だったのであり、国際派はそれに従わない少数派にすぎず、結局は自己批判して所感派に従ったのだから。

 まだ六全協前の1954年に出版された『政治学事典』(平凡社)の「日本共産党」の項目には、

党内には占領政策にたいする評価のちがいにもとずいて、革命の方式についていわゆる主流派・国際派の対立が表面化したが50年1月のコミンフォルム機関紙の批判、中国共産党の助言などを受けて“分派問題”は克服され、51年秋には「日本共産党の当面の要求――新しい綱領」を決定して、党の統一が達成された。


との記述がある。
 この事典には、「国際派」についても独立した項目があり、そこには

国際派 1950(昭和25)年1月、「恒久平和と人民民主主義のために」紙上にアメリカ帝国主義にたいする闘争の不充分について日本共産党にたいする批判が掲載され、これにたいする党中央の自己批判が不充分で、指導方針が右翼日和見主義的であると攻撃し、客観的・主観的条件を無視した反帝・反戦闘争を主張して極左的な分派活動をおこなったグループを国際派と俗称する。これにたいして党中央の立場を主流派と俗称した。分派活動は諸外国共産党からの助言と、党中央の指導とによって克服され国際派の自己批判による党への個人復帰がつぎつぎにおこなわれ、1951年秋に決定された民族解放民主革命の新綱領のもとに、その統一が達成された。


とある。
 これが当時の一般的な見方であり、当時の主流派を分派だと断じるのは歴史の偽造である。

 このような集団が政権を獲得したあかつきには、国民の歴史認識をも時の共産党指導部に都合の良いように改めさせられかねない。
 私が彼らを危険視する所以である。


民主集中制は50年問題の教訓ではない-松竹伸幸除名事件を見て(1)

2023-02-28 17:08:47 | 日本共産党
 日本共産党員である松竹伸幸氏が今年1月に党首公選制を求める著書を出版し、除名された件で、こんなツイートを見かけた。



《日本共産党の痛苦の「50年問題」での総括から生まれた教訓。民主集中制と集団指導の原則があったからこそ、今の共産党がある。進化し続ける自主独立の「綱領」路線と、派閥・分派を許さず、意思統一を重視し国民に責任ある対応の党。それが日本共産党だろう。

少しは学べ!
午後11:06 · 2023年1月30日》

 また、こんなツイートも。



《共産が党首公選制主張の党員を除名へ 規約違反の「分派」と判断 | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20230205/k00/00m/010/223000c 分派禁止は50年代問題を踏まえての反省から来たもの、民主集中制を理解しなければいけない。民主集中制とは民主的なみんなの意見、力を集中させること。個人の独裁ではない。
午前7:30 · 2023年2月6日》

 何だか民主集中制が50年問題の教訓として生み出されたかのような理解をしているように読めるのだが。

 不審に思って調べてみたら、どうも日本共産党自身がそういう発言をしていることがわかった。



《日本共産党(公式)
@jcp_cc
これは、私たちが旧ソ連などからの干渉によって不幸な分裂におちいった「50年問題」からの歴史的教訓のひとつです。

日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か 一部の批判にこたえる|日本共産党中央委員会 https://jcp.or.jp/web_jcp/html/kanbu.html
午後4:56 · 2022年8月25日》



《日本共産党印旛地区委員会
@inbatikuiinkai
民主集中制を含む日本共産党の規約は100年の歴史の教訓です。外国の共産党の干渉で分裂の危機に陥った、そこから「いかなる外国勢力の干渉も許さない自主独立の立場(略)民主集中制と集団指導の原則を貫く」ことにしたのです。
「50年問題」
https://jcp-osaka.jp/pages/100th_monogatari/025-2
午後1:10 · 2023年2月7日》

 しかし、それはおかしい。
 50年問題と分派についての考え方もおかしいが(おって述べる)、そもそも民主集中制は50年問題を契機に日本共産党が独自に採用したものではない。
 民主集中制とはレーニンに由来する世界各国の共産党の組織原理である。

 1917年にロシア革命が成功した後、世界各国に共産党を名乗る政治党派が生まれたが、これらは、マルクス主義やロシア革命に共鳴する各国の共産主義者がそれぞれ独自に結成したものではない。
 1919年、レーニンは、共産主義運動の国際組織としてコミンテルン(共産主義インターナショナル)を創設した。
 1920年、第2回コミンテルン大会は、コミンテルンへの加入を希望する各国の党派に対して、21箇条の加入条件を定めた。
 この条件を受け入れた組織を結成し、そのコミンテルンへの加入が承認されることにより、各国に共産党が成立したのである。
 その21箇条の中に、次のような条件がある。

一二 共産主義インタナショナル加盟の各党は、「民主的中央集権」の原則によって、つくられなければならない。はげしい内乱の現段階で、共産党が自己の義務をやりとげることができるのは、その組織がもっとも中央集権化され、鉄の規律が支配し、党中央が、党員の信頼に支えられて、力と権威を保持し、はば広い全権をもっている場合だけである。(『日本共産党綱領集』新日本出版社、1957、p.10)


 日本共産党が結党以来民主集中制を採用しているのは、この条件に由来する。50年問題は関係ない。
 戦前の党幹部、市川正一(敗戦前の1945年に獄死)の公判陳述に基づき、1932年に非合法出版された『日本共産党闘争小史』にはこうある。

 コミンテルンの指導者と日本の当時の共産主義的な指導者との会議によって日本共産党は一九二二年七月に組織され、同年十一月のコミンテルン第4回世界大会に代表が出席して党の成立を報告し、はじめて正式にコミンテルン日本支部日本共産党としてみとめられた。〔中略〕コミンテルンの第二回大会において可決されたコミンテルン規約ならびに二十一ヶ条の加盟条件、そのほかプロレタリア独裁にかんする指導原理を日本共産党がコミンテルンの一支部として当然承認し、これを日本共産党の根本原理として採用したわけである。〔中略〕
 日本共産党とコミンテルンとの組織的な関係についてはコミンテルン規約につぎのごとく規定している。
「コミンテルンは資本主義の廃絶と共産主義の建設とのために闘争する労働者団体が厳格に集中的な組織をもたねばならぬことを知っている。またコミンテルンは真実に全世界の統一的共産党でなければならぬ。あらゆる国々で活動している諸共産党はたんにコミンテルンの個々の支部にほかならぬ。」
 この集中的な統一的な全世界党としての国際共産党の不可分の一構成要素として日本共産党は組織され、コミンテルンに加盟した。これがコミンテルンと日本共産党との組織的関係の根幹である。〔中略〕
 コミンテルン二十一ヶ条の加盟条件はとくにレーニンが直接起草した厳格なものであり、プロレタリアートにとって歴史的なものである。(市川正一『日本共産党闘争小史』大月書店(国民文庫)、1954、p.64-65)


 結党以来、民主集中制が採用されていたにもかかわらず、50年分裂が生じたのだ。
 したがって、50年問題の教訓として民主集中制が必要だなどという論理は成り立たない。

続く