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日々の思いをたまに綴るブログ。

吹田事件の本質を覆い隠す朝日新聞論説委員

2018-09-09 10:22:50 | 韓国・北朝鮮
 古い話だが、昨年の9月15日付朝日新聞夕刊に掲載された「葦 夕べに考える」というコラムの内容が、以前からどうにも気になっていたので、ここで書き留めておく。筆者は中野晃・論説委員。

敗戦後の「戦争」を忘れぬ

 国鉄職員だった兵庫県の奥野博實さん(85)は朝鮮戦争(1950~53)の最中の51年9月、米軍の弾薬を運んだ。

 神戸港で陸揚げされた弾薬を二十数両に積んだ貨物列車のダイヤは「軍秘」。京都の梅小路から舞鶴まで乗務した。

 奥野さんは日記にこう記した。「占領下にあるのでやむなくやっているが、日本の軍事基地化の手伝いをしているようなものだ。第三次大戦の準備か?」

 朝鮮戦争で、日本は武器弾薬や軍需物資の「特需」にわき、米軍を核とする国連軍の出撃や兵站の拠点にもなった。

 「東洋一の貨物ヤード」と呼ばれ、重要な輸送経由地となった国鉄吹田操車場では52年6月、戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た。当時、デモ隊に加わった詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(88)=奈良県=は「軍用列車を1時間遅らせれば、同胞千人の命が助かると言われていた。切実な思いだった」と振り返る。

 朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る。敗戦後、日本が巻き込まれた戦争の歴史を忘れず、再びそうならないための道を探りたい。


 金時鐘氏が参加したという国鉄吹田操車場でのデモとは、いわゆる吹田事件を指すのだろう。
「戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た」
 何だか、やや程度の激しい反戦デモだったかのような読後感を受けるのだが、果たしてそんなものだったのだろうか。
 確か吹田事件は、血のメーデー事件、大須事件と並んで、戦後三大騒擾事件とされているはずだが。

 検索すると、コトバンクの世界大百科事典 第2版の解説に、次のようにある。

すいたじけん【吹田事件】

大阪府吹田市で学生,労働者,朝鮮人などが起こした事件。1952年6月24日夜,豊中市の大阪大学北校校庭などで,〈朝鮮動乱2周年記念前夜祭〉として大阪府学連主催の〈伊丹基地粉砕,反戦・独立の夕〉が開催されたが,この集会に集まった学生,労働者や朝鮮人など約900名は翌25日午前0時すぎから吹田市に向かい,国鉄吹田操車場を経て吹田駅付近までデモ行進をおこなった。その際,警官隊と衝突,派出所やアメリカ軍人の乗用車に火炎びんや石を投げつけ,また途中,阪急電車に要求して臨時電車を運転させ〈人民電車〉と称して乗車したり,吹田操車場になだれ込んで20分間にわたって操車作業を中断させたりしたなどとして,111名が騒乱罪(騒擾罪(そうじようざい))や威力業務妨害罪などの容疑で逮捕,起訴された事件。


 毎日新聞社の「昭和毎日」というサイトにも吹田事件のページがあり、

「人民電車を出せと阪急石橋駅で駅長をつるし上げるデモ隊」
「竹やりを持って行進を始める徹夜デモ隊と対立する警官隊」

といったキャプションの付いた写真がある。
 また、このサイトに掲載されている当時の毎日新聞の紙面には、

「火炎ビン投げ暴れ回る」
「警官トラック火だるま」

といった見出しが確認できる。

 今、私の手元に、警察庁警備局が昭和43年に発行した『回想 戦後主要左翼事件』というA5版の本がある。主に昭和20年代後半の日本共産党による暴力事件の解説と、それを体験した警察官(実名)の手記によって構成されている。
 吹田事件も「吹田騒擾事件」の名で取り上げられており、いくつかの手記の中にはこんな記述がある。

 吹田駅に転進した私達は、国警自警の混成部隊〔引用者註:国警は国家地方警察、自警は自治体警察の略。当時、1947年公布の旧警察法により、市および人口5000人以上の市街的町村には各市町村公安委員会が管理する自治体警察が設置され、それ以外の区域には国家地方警察が置かれていた。1954年公布の現警察法により廃止〕で暴徒の鎮圧にはいつた。柵を飛び越えてホームに殺到した。暴徒は折からの通勤電車に混乗し、通勤客を楯に拳銃を発射し、さらには火炎びんを投げ、竹槍を投げ、あらゆる抵抗を示した。
 ホームに、道路に、血が吹き、炎が上がる。警備部隊のある者は焼けただれた制服のまま暴徒を追う。まさに現場は阿鼻叫喚の態であつた。しかし、市民はおののきながら警察官を励ましてくれた。(p.178)


 また、別の警察官によるこんな記述もある。

 午前七時半ごろ私達は国鉄吹田駅に急行した。
 現場は、まさに阿鼻叫喚の巷と化し、戦時中の爆弾投下時のさまもかくやとばかりの情景を現出していた。荒れ狂うデモ隊は、同駅構内、構外をうめつくし、停車中の通勤列車および一般乗客らに対し、火炎びんを投げつけたり、所持の竹槍で突いたりして暴行の限りを尽くしていた。
 私達は、事態の重大さに驚き、かつこれら暴徒の鎮圧と排除のため直ちに検挙にのりだしたが、ここにおいてもデモ隊のしつような攻撃を受けた。
 全身火だるまとなってホームに転落する者、竹槍で腕を突きさされて倒れる者、負傷者が続出する。婦女子を含む一般客はとみると、列車内でデモ隊員に竹槍、こん棒で殴りつけられ、また、車窓から投げ込まれる石、火炎びんを避けて頭をかかえ座席に失神した如く伏せて身を守っている者、泣きさけぶ者、この危急狂乱の場からのがれようと車内から線路上に転落する者等々。
 私達はデモ隊の検挙よりも、かかる攻撃、暴行により続出しつつある負傷者の救護に全力をそそいだ。
 デモ隊はここにおいて徒歩進撃を中止し、大阪行列車に乗り込みを開始、なおも一般民家、民衆に石、火炎びんなどを投げつつ、ついに吹田駅をあとにした。(p.181-182) 


 この吹田事件は、一審の裁判の法廷で、被告側が、朝鮮戦争休戦に際して、平和勢力(北朝鮮・中国・ソ連側)の勝利を祝う拍手と戦死者に対する感謝の黙祷を行いたいと申し出、裁判長がこれを黙認したことでも知られる。
 このことでもわかるように、これらの暴徒は単に戦争反対のために騒乱を起こしたのではない。米軍の軍事物資輸送を妨害することで北朝鮮・中国軍を支援するために暴動を起こしたのである。後方攪乱である。

 ところで、朝鮮戦争とは何だろうか。
 米国が北朝鮮を侵略した戦争なのだろうか。
 違う。
 言うまでもないことだが、北朝鮮が韓国を併合しようと、ソ連の了解の下、計画的に戦争を仕掛けたのである。
 そして、それを防ぐために米国が国連軍を組織して介入し、逆に北朝鮮を追い詰めたところ、それを救おうと中国が義勇軍と称して参戦したのである。
 なのに、この中野晃・論説委員は、その点には全く触れず、まるで、米国が北朝鮮を攻撃しているのだから、在日朝鮮人らがそれに抵抗するのは当然であったかのように描いている。
 米国が介入しなければ、韓国は北朝鮮に併合されていただろう。そうなれば現在の韓国の発展もなく、朝鮮半島全域が金王朝の圧政の下に置かれることになっただろう。わが国は現在よりさらに強力になった北朝鮮と間近で接することになっただろう。その方がよかったと中野委員は考えているのだろうか。

 中野委員はこうも言う。
「朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る」
 そう、再び北朝鮮が南進すれば、わが国はまた軍事拠点となるだろう。それは韓国を守るために必要なことではないのだろうか。それとも韓国が蹂躙されようがわが国は中立を守るべきだと中野委員は考えているのだろうか。
「再びそうならないための道を探りたい」
 それは簡単である。北朝鮮が武力統一路線を放棄すればよい。ただそれだけのことである。何故なら、こんにちの韓国も、また米国も、武力による統一など主張していないし、望んでもいないからである。
 しかし、北朝鮮の戦争責任にも吹田事件の本質にも触れることを避ける中野委員が、どのような方法で「再びそうならないための道を探」ろうとしているのか、私には不思議でならない。


金日成と会見していた美濃部亮吉都知事

2017-09-03 07:17:46 | 韓国・北朝鮮
 先日、久しぶりに朝鮮総聯のサイトを見てみると、「金日成主席と日本の人士たち」というページが設けられていた。

 トップには「偉大な金日成主席」(太字は原文のまま。以下同)の写真の下に、

 偉大な金日成主席が、1945年から1994年にかけての50年間に会った日本人は、実に1000余名に及んでいる。その中には、政界人、学者、ジャーナリスト、財界人、アーチストはもとより、平凡な水先案内人や学生もいた。

彼らは誰もが、率直かつ真摯な態度で朝日関係にかかわる問題を虚心坦懐に論じ、明確な方途を提示する主席の崇高な志に感服し、自分たちを温かく接してくれるその風格に心服した。

主席の高い権威と徳望、朝日関係改善への合理的な提案に、政見や信教の違いにかかわりなく、会う人は誰もが胸を打たれ、それは、ぎくしゃくした両国の関係を改善すべく彼らを奮起させる大きな力となった。

主席が多くの日本人士にめぐらした情誼について改めて振り返り、朝鮮と日本の友好親善に尽くした主席の労苦と献身、そこにこもる深い意味をここに再確認しておきたいと思う。


との説明が付されている。

 そして、畑中政春(日朝協会理事長、元朝日新聞)、高木健夫(読売新聞)、久野忠治、岩井章、土井たか子、金丸信、田辺誠、前田正博(毎日新聞)、宇都宮徳馬、西谷能雄(未来社社長)、成田知巳、田英夫 緑川亨(岩波書店)、安井郁、槇枝元文といった人々と金日成との会見について、簡潔に記されている。

 その中に、美濃部亮吉・東京都知事との会見の記事がある。

美濃部亮吉東京都知事と親しく語り合う
金日成主席 (1971.10.30)

強調したこと

 金日成主席は、美濃部亮吉東京都知事と会見した際、美濃部亮吉先生は朝鮮大学校の許可問題を通して、わが国に広く名を知られている、先生のような進歩的人士が今後とも総聯の活動を極力支援して下さるものと信ずる、と期待を表明した。そして、自分は韓徳銖(ハンドグス)議長に、在日同胞の民族的権利を守るための活動を進め、朝鮮民主主義人民共和国を支持し、祖国の統一をめざしてたたかう総聯が、日本の法律に抵触するようなことは絶対に行わず、日本人民との団結に努めるよう常に強調していると語った。また、日本の進歩的人士が総聯の活動を大いに支援してくれるよう頼んだ。
 美濃部亮吉知事は、総聯の活動に深い関心を払っている主席に、総聯の活動を積極的に支援する決意を表明した。


 「朝鮮大学校の許可問題」とは、朝鮮大学校が1956年に創設されたものの、各種学校としての都知事の認可がなかなか下りなかったことを指す。
 朝鮮大学校のサイトの「朝鮮大学校とは」というページに、次のように書かれている。

本学がわずか10年に満たない期間に急速な発展をとげたことは、祖国の暖かい配慮、在日同胞の愛国的熱意とともに、広範な日本国民の惜しみない支援のたまものです。
しかし、日本政府当局の在日朝鮮人に対する非友好的な政策は是正されず、むしろ正当な民族教育の権利を無視したいわゆる「外国人学校法」の制定を何度もはかったり、本学の設置認可の申請を受理しないといった抑圧的態度が強まりました。
本学の認可は、日本の学者、文化人、教育関係者をはじめとする各界各層の積極的かつ広範な支持を受け、1968年4月17日、当時の美濃部東京都知事の決断によって、ついに実現されたのでした。
朝鮮大学校の認可以降、教職員と学生の祖国自由往来が実現し、大学教育はより充実していきました。


 美濃部が都知事に初当選したのは1967年で、1979年まで3期務めた。美濃部は社会党と共産党が推薦する革新統一候補で、3期目は公明党も推薦した。美濃部の前任は自民党推薦の東龍太郎(あずま・りょうたろう、任1959-1967)で、その前任はやはり保守系で内務官僚出身の安井誠一郎(任1947-1959)であったから、彼らの任期中は認可されなかったものを、美濃部が認可したということなのだろう。それが北朝鮮で評価されたということなのだろう。

 公平を期すために付言しておくが、美濃部が金日成と会見した当時は、こんにちのように北朝鮮がわが国にとって危険な国家だと一般に認識されていたわけではなかった。まだ日本人拉致事件も起こっておらず、核兵器の保有も弾道ミサイルの実験も行っていない。数ある社会主義国の一つという程度にしか知られていなかった(だから1970年のよど号のハイジャック犯たちは、予備知識もないのに北朝鮮へ亡命した)。金日成から金正日への継承も表面化していなかった。

 また、当時はまだわが国において社会主義がある程度支持されていた。自民党の単独政権は揺るがなかったが、野党第1党は社会党であり続け、美濃部のほか、京都府、大阪府の両知事や、横浜市長なども革新系だった。マルクスやレーニンや毛沢東の著書が、大手出版社から文庫本で出版されていた。美濃部はマルクス経済学者だったが、それは彼の経歴においてマイナス要素にはならなかった。
 北朝鮮独自のチュチェ(主体)思想は、「マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した」(1972年憲法)ものとされていた。
 そんな情勢の中、美濃部が朝鮮大学校を認可し、金日成と会見したとしても不思議ではない。

 この朝鮮大学校の認可を批判する見解もあるようだが、私にはそこまで問うべきなのかよくわからない。わが国における少数民族が民族教育を行うことそれ自体を否定すべき理由はないと思われるし、それを各種学校として認可することも都道府県知事の裁量の範囲内であろうから。

 ただ、当ブログの8月28日付の記事で取り上げた、1973年の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の設置がこの都知事の下で行われ、その後毎年追悼式典が開かれているとされていることには留意しておきたい。



張成沢処刑の報に接して

2013-12-18 00:05:28 | 韓国・北朝鮮
 瞬間、いつの時代だよ、と思った。

張成沢氏を処刑 死刑判決、即日執行、北朝鮮

 【ソウル支局】北朝鮮国営の朝鮮中央放送(ラジオ)は13日早朝、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父で後見人とされた前国防副委員長の張成沢(チャン・ソンテク)氏に対して、12日の国家安全保衛部特別軍事裁判で死刑判決が下され、即日執行されたと報じた。ラヂオプレスが伝えた。


 失脚にも驚いたが、彼はこれまでにも何度か失脚し、復権している。
 今回もそんなレベルにとどまるのだろうと思っていた。
 まさか死刑となり、しかも即執行されるとは。

 近年、北朝鮮の要人が死刑となることがなかったわけではない。
 1997年?には農業担当の徐寛煕党書記が、2010年には経済通の朴南基党計画財政部長が公開処刑されたと韓国などで報じられた。これらについて北朝鮮の公式発表はないが、かといって彼らの健在が示されることもなかった。
 しかし、失脚したにもかかわらず、復権した事例もある。この張成沢もそうだし、昨年の第4回党代表者会で彼以上のポストである党政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長に就いた崔龍海・朝鮮人民軍総政治局長もそうだ。

 失脚したとしても、その理由は示されない。単に公式報道における役職名から解任が判明し、その後の動静も伝えられなくなるというのが1970年代以降の北朝鮮における失脚のありようだった。
 今回のような、反逆者として大々的に発表した上で処刑という手法は、ここ数十年なかったことだ。
 金正恩の祖父、金日成が1950年代に数多くの政敵を葬った手法を想起させる。

 北朝鮮が建国されたころ、金日成は政府の首相、朝鮮労働党の中央委員会委員長(党首)ではあったが、後年のような絶対的な指導者ではなかった。党は金日成らのパルチザン派のほか、ソ連から送り込まれた在ソ連朝鮮人の共産主義者によるソ連派、中国の延安を根拠地とした中国共産党の下で活動した延安派、韓国から逃れてきた南朝鮮労働党(南労党)派、朝鮮北半部で共産主義活動に従事していた国内派といった多彩な勢力の連合体であった。
 金日成は、1953年の朝鮮戦争休戦後、まず南労党派に戦争の責任を負わせ、米帝国主義のスパイとの汚名を着せて処刑した。続いて、1956年、党中央委員会総会でソ連派と延安派が金日成批判を行ったのを機に両派を粛清した(一部の幹部はソ連や中国に亡命した)。1960年代後半には金日成らとは別系統のパルチザンであった甲山派をも粛清し、金日成直系のパルチザン派による支配が確立した。

 反対派の粛清は北朝鮮に限ったことではなく、共産主義国ではよくあることだった。
 ソ連のスターリンは権力を確立した後に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ルイコフ、ブハーリンら古参の党幹部やトハチェフスキー元帥ら軍幹部を反国家陰謀を企てた「人民の敵」として処刑する大粛清を実行した。
 しかし、スターリン死後の権力闘争を勝ち抜いたフルシチョフは、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチら政敵を党・国家の中枢から排除はしたものの、死刑にはしなかった。この手法はフルシチョフがブレジネフらによって失脚させられた時にも受け継がれ、フルシチョフは年金生活で余生を全うした。

 中国の毛沢東は、抗日戦中も、戦後も、反対派への果断な粛清を行った。文化大革命でも江青ら文革派を利用して劉少奇ら「実権派」を打倒した。劉少奇や、文革以前に失脚していた彭徳懐は、監禁され、虐待を受け、病気になっても満足な治療を受けられず、事実上殺されたと言えるだろうが、しかしその他の多くの「実権派」の要人は、迫害はされたが、殺されるまでには至らなかった。
 毛沢東の死後、トウ小平をはじめ陳雲、李先念、楊尚昆、彭真、薄一波、陸定一といった、生き延びた旧「実権派」が復権し、元老格に収まった。
 トウ小平の下で取り立てられた胡耀邦と趙紫陽は共に失脚したが、殺されることも迫害されることもなかった。

 ソ連は既に崩壊した。ロシアでは、プーチン大統領による強権的な政治が行われているが、野党が存在し、反政府デモを行う自由がある。公正性に疑問がもたれているものの、選挙が実施されている。スターリン時代のような恐怖政治はもはや有り得ない。

 中国では未だ共産党の一党独裁が続いているが、毛沢東時代のような極端な個人崇拝や共産主義的政策はもう行われていない。先の薄熙来の裁判が公開されたことに見られるように、指導部が反対派を恣意的に葬ることができる時代ではない。

 北朝鮮だけが、昔の共産主義国の手法へと回帰している。
 時代錯誤もはなはだしい。
 金正恩は、祖父金日成の統治スタイルの踏襲を意図していると言われるが、恐怖政治までをも踏襲しようとしているのだろうか。

 なるほどそれで体制の引き締めは可能だろう。しかしそれによって、いったいどんな国を作ろうというのだろうか。
 軍事偏重と指導者一族の神格化の果てに、何があるというのだろうか。

 朝鮮総聯中央常任委員会の機関誌である朝鮮新報のサイトを見ると、北朝鮮国営の朝鮮中央通信による張成沢一派粛清の報道をそのまま報じる一方、朝鮮総聯としての独自の見解は示されていない。朝鮮総聯のサイトを見ても、やはり何の論評もされていない。
 彼らはいったいいつまでこんな国に忠誠を誓い続けるのだろうか。それが自らの首を絞めていることに気がつかないのだろうか。


世代交代は北朝鮮を変えるか

2013-07-31 01:20:42 | 韓国・北朝鮮
 「ロシアの声(The Voice of Russia)」の日本語サイトを時々見ている。

 「ロシアの声」は海外放送を専門とするロシア国営ラジオ局。旧ソ連時代に対外宣伝を行っていたモスクワ放送の後身である。現在、世界160か国、38言語で放送を行っているとしている。
 そのサイトも当然政治的な面では政府見解を超えるものではないが、内容は単なる政府公報的なものにとどまらず新聞で言うところの三面記事的なものや娯楽的な話題も多い。ロシア人のものの見方を考える上で興味深いものがある。

 その「ロシアの声」でアンドレイ・ラニコフの「私見」である「北朝鮮に若き指導者たちの時代が来る」という7月24日付の記事を読んだ。

 このアンドレイ・ラニコフは北朝鮮の政治・社会史を専門にしているロシア人学者だが、旧ソ連時代の1984~1985年に金日成総合大学に留学した経歴をもつ。その後レニングラード国立大学院で博士号を取得し、オーストラリア国立大学を経て、2004年からソウルの国民大学で教鞭をとっているという。雑誌や新聞などにもコラムや記事が多数掲載されているという。
 近年、『民衆の北朝鮮―知られざる日常生活』(花伝社、2009)、『スターリンから金日成へ―北朝鮮国家の形成 1945-1960年』(法政大学出版局、2011)の2著が邦訳されている(「アンドレイ・ランコフ」と表記されている)。もっと以前の著書、『平壌の我慢強い庶民たち―CIS(旧ソ連)大学教授の"平壌生活体験記"』(三一書房、1992)は昔読んだ(こちらでは「アンドレ ランコフ」と表記)。
(余談だが、検索していたら、彼の著者名についてこんな記事を書いている方がおられた。「連鎖する誤記」)

 さて、ラニコフの記事「北朝鮮に若き指導者たちの時代が来る」は、北朝鮮の金正恩第一書記の妹、金汝貞(キム・ヨジョン、26歳)が北朝鮮国防委員会の「行事部門」トップに就任したという報道を受けて書かれたものである。

 ラニコフは、これは根拠に基づいておらず、誤報の可能性もあると指摘しながらも、「私見では、妹氏の就任は事実である。そして、これは来たるべき変革の兆候であると言える」として、次のように述べる。

既に多くの人が忘れている事実を摘示しよう。2011年12月、金王朝の第2代・金正日氏が亡くなった時点で、正恩氏は後継者指名を受けてはいなかった。公式的には、最高指導部のメンバーの一人に過ぎなかった。それも2010年に政治の舞台に登場したばかりの、年齢から言っても最も若いメンバーに過ぎなかった。しかし北朝鮮エリート層は堅い結束を示し、何らの反目・抗争もなしに、正恩氏を最高指導者に推挽した。しかし新指導者には弱点が残された。側近集団がいないのである。〔中略〕2011年12月、金正恩氏は国家元首になるのだが、国家統治にあたっては、父親の側近たちに拠るほかなかった。

彼が父親から受け継いだ最高幹部たちは、皆自分より30歳から40歳、年長であった。これほどの歳の開きは、一般的に言って、様々な問題を引き起こすだろうが、ことにこの国は、確固たる年齢ヒエラルキーをもって聞こえる、あの儒教の国なのである。加えて父親世代の側近たちは、年齢相応に物の見方も異なっている。仕方ないことだ、正恩氏には他に選択肢がなかった。しかし彼らとの仕事は正恩氏にとって楽ではないだろう。それは想像に難くない。

若き指導者が、年齢から言っても人生経験から言っても自分に近い人々を中心とした、新たな指導者グループを形成するだろうということは、当初から明らかに見込まれていた。一年そこらでは済まない事業であろうが、しかしその輪郭は、既に見え始めている。金正恩時代の典型的な最高幹部というものを描出してみるとすれば、その年齢は30歳から35歳、留学経験を持ち、あるいは頻繁に外国を訪れており、正恩氏の子ども時代からの知己、ということになるだろう。

階層流動性の少ない北朝鮮社会の特質に鑑みれば、上述のような特性を備えた人物は、結局、前政権からのエリート層の子弟に限られるだろう。第一に、金家の構成員そのものを登用するという可能性がある。第二に、金日成時代から北朝鮮を統治していた十数家族が候補者のプールとなるだろう。

北朝鮮で「ペクトゥサン(白頭山)の血統」を引くものとして知られる、これらエリート層のみが、外国に遊学するチャンスを、また幼少時の正恩氏と知り合うチャンスをもっていたのである。

金正恩氏は、大方、その統治の初期にあたって、より多く金ファミリーの構成員を登用するであろう。正恩氏には独立独歩の活動歴が浅い。であってみれば、彼がよく知り、かつ信頼する人々、すなわち自らの親類を多く用いるだろうことは、予測に難くない。畢竟するに、金汝貞氏の登用は、来るべき人事改革の先触れなのである。

おそらく、この人事改革は、大規模なものとなるだろう。3年から4年後には、政府の枢要なポストの多くを金ファミリーが占めるという状態になるだろう。一部の古参は政権に踏みとどまるであろうが、全体としては、若い世代の時代がはじまる。たとえば2017年という年に、どのような名前が最高指導部の名簿に連ねられているか、我々には予見できない。北朝鮮貴族たちの名は公にされていないからである。しかし、次のことは確実に言えよう。彼らは若い、新しい人々であり、彼らの行う政治もまた、新しいものとなるであろう、と。


 興味深い論考である。

 私はこの、金汝貞が国防委員会の「行事部門」トップに就任したという報道を知らなかった。
 検索してみると、確かにそうした報道があったようだが、出所はよくわからない。
 
 一方、韓国紙、朝鮮日報の日本語サイトには、「金正恩氏の妹、朝鮮労働党行事課長に起用か」という7月20日付の記事が掲載されている。

 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党第1書記の妹、金汝貞(キム・ヨジョン)氏が、同党組織指導部行政課長を務めているとの情報が伝わってきた。米国の自由アジア放送(RFA)が19日、北朝鮮に詳しい消息筋の話を引用して報じた。

 この消息筋はRFAに対し「汝貞氏は、金正日(キム・ジョンイル)総書記の死去(2011年12月)以降、金正恩氏の出席する行事(1号行事)を自ら取りまとめているとの話が、1号行事に出席していた複数の幹部の口から聞かれた。労働党内部では『汝貞氏の目に留まらなければ金正恩氏にお仕えすることはできない』との話が広まっている」と話した。組織指導部は、党・政・軍に対する人事権・検閲権を持つ労働党の最高権力部署で「党の中の党」と呼ばれている。組織指導部行事課長は、金正恩氏の動線など1号行事に関するあらゆる事項を取り仕切るポジションで、通常は最高指導者の最側近が務める。


 記事中に1か所「行政課長」とあるのは「行事課長」の誤植か。

 国家機関である国防委員会と労働党の組織指導部は、共に最高レベルの機関であるとはいえ全く別物だが、そうした最高レベルの機関の「行事課長」クラスのポストに金汝貞が就任したという何らかのソースがあるのだろう。
 そして、金正日の妹金慶喜が最高指導部入りしたように、これからは金正恩による同世代の金ファミリーの登用が始まっていくとラニコフは考えているのだろう。

 しかし、果たしてラニコフが言うように、「3年から4年後には、政府の枢要なポストの多くを金ファミリーが占めるという状態になるだろう」か。
 そして、そのような彼らが「若い、新しい人々であ」るからといって、「彼らの行う政治もまた、新しいものとなるであろう」と言えるだろうか。
 私はどちらにも懐疑的である。

 まず前者についてだが、そもそも「金ファミリー」にはそれほど人材がいるのだろうか。
 金正日の妹金慶喜とその夫張成沢はなるほど「枢要なポスト」を占めている。そして今回報じられた金汝貞もそうなるのかもしれない。だが彼ら以外に、そのような「金ファミリー」はいるのだろうか。
 金正日体制の下で、金正日の異母弟である金平一や義弟金光燮は長期にわたってヨーロッパで大使を務め、今なお帰国して国内に枢要なポストを占めるには至っていない。
 金正恩体制の下でも、異母兄金正男は排除され、実兄である金正哲も表舞台には出ていない。
 現在党政治局員、最高人民会議常任副委員長を務める楊亨燮は金正恩の祖父金日成の従妹の夫である。金日成の別の従妹の夫である許ダム(1929-1991)は外相や党政治局員を務めた。金日成の母康盤石の一族には国家副主席や社会民主党委員長を務めた康良(1904-1983)、党中央委員や平壌市党書記を務めた康賢洙(2000年死亡)らがいる。金日成時代の末期から金正日時代の初期にかけて首相を務めた姜成山(1931-2007)も康氏と血縁関係があるとされる。
 こうした遠縁の者まで含めるのなら、「金ファミリー」の範囲は広がるが、果たしてそれは「ファミリー」の名に値するものなのだろうか。
 また、仮にそうした者を含めるにしても、現在その「枢要なポスト」の候補者の名は聞こえてこない。

 そして後者の「彼らの行う政治もまた、新しいものとなるであろう」についてだが、しかし私は覚えている。
 金日成時代の末期に、後継者金正日について、実は西側の事情を知っている「改革開放派」なのだが、金日成世代の老幹部に阻まれてそれが実行できないのだ、金日成の死後北朝鮮は変化するとの観測があったことを。
 金日成の死後、金日成世代の老幹部は死亡し、あるいは引退することにより、ある程度の世代交代は進んだ。金日成が務めていた国家主席は空席となり、「最高軍事指導機関であり、全般的国防管理機関である」(1998年改正時の北朝鮮憲法)にすぎない国防委員会の委員長が事実上の最高指導者となり、「先軍政治」が進められ党の機能は低下するといった変化はあった。
 しかし、金ファミリーへの個人崇拝やウリ式社会主義、恐怖政治といった体制の本質には全く変化がなかった。

 人はいずれ死ぬ。あるいは老衰のため引退する。だから世代交代は進むだろう。
 こんにちでもまだ金日成時代に登用された金永南、崔永林、金国泰、金己男、崔泰福、楊亨燮といった老幹部が序列の上位を占めている。しかし、これは金正日時代にも見られたスタイルで、老幹部を上位に立てることにより円滑な権力の移行を図っているのだろう。老幹部にはさほど実権はなく、もっと下の世代が握っているのだろう。
 しかし、その世代によって、北朝鮮において新しい政治が生まれると期待できるのだろうか。
 20年近くに及んだ金正日時代の結果を考えると、私は否定的にならざるを得ない。

 ラニコフは「たとえば2017年という年に、どのような名前が最高指導部の名簿に連ねられているか、我々には予見できない。北朝鮮貴族たちの名は公にされていないからである」というが、私は予見できるような気がする。
 たしかに彼の言う北朝鮮貴族たち――「金ファミリー」及び金日成時代から北朝鮮を統治していた十数家族――の情報は限られている。しかし、今からわずか5年後の2017年では、彼らの多くは未だ最高指導部入りはしないのではないか。
 先に挙げた、序列上位を占めている金永南、崔永林、金国泰、金己男、崔泰福、楊亨燮といった老幹部は、死亡か老衰による引退、あるいは何らかのアクシデントによる粛清がない限り、その地位は安泰だろう。そして彼らの序列の中に、何人かの軍の最高幹部が加わるだろう(軍の最高幹部の異動は金正恩政権になってから目まぐるしいので人物は特定しがたい)。金慶喜、張成沢、崔龍海といった現在金正恩を支える最高実力者がそれに続くだろう。さらに党政治局員候補や閣僚、軍幹部が続くだろう。金汝貞は、「行事課長」クラスのポストは得ているかもしれないが、国防委員会の委員や、党の政治局や書記局、中央軍事委員会の委員には加わることはできないだろう。他の金正恩と同世代の「金ファミリー」についても同様だろう。
 これまでの北朝鮮の最高指導部の動きを考えると、私にはこのように予測するのが自然だと思える。
 一方で、こうはなってほしくないという思いもあるが。

 1994年の金日成の死に際して、これで北朝鮮の体制は崩壊するとの観測が少なからずあった。
 それは、数年前の東欧諸国における共産党政権の崩壊、そして1991年のソ連解体の経験からすれば、もっともな見方だった。
 だが、国民は「苦難の行軍」に苦しんだが、北朝鮮の体制は崩壊しなかった。

 その後、金正日が死ねば、もう体制は保たないとの観測もあった。しかしそれも外れた。

 どうも、東欧諸国やロシアと違って、共産党政権による支配は朝鮮という国によほどマッチしているらしい。
 いや、本来の共産党政権――資本主義を廃絶し、党の指導する計画経済の下でユートピアを目指す――の理念は既に失われている以上、国民も国家の将来も顧みない、単なる王朝による独裁がと言うべきか。
 百数十年前、かの国もそうした王朝に支配されていたと聞く。

 金正日の死に際して、私は、アルバニアの例を引いて、金正恩、あるいはその後見人がラミズ・アリアの役割を果たさないものかと期待した。
 だがそんな期待はもうない。あの国はそういうふうには変わらないのだろう。

 朝鮮においても、数百年のスパンで王朝の交代はあった。
 もはやそうしたスパンでかの国を見るべきなのではないかと思う。
 付き合わざるを得ない隣国としては、疲れる話だが。

韓国の憲法改正の歴史

2013-05-13 00:47:07 | 韓国・北朝鮮
 5月10日付朝日新聞2面のシリーズ「憲法はいま」から。

最低投票率を設定■総選挙を経て発議
 各国、独自の改憲手続き

〔前略〕

 改憲の際に国民投票にかけなければならない国はデンマークや韓国、スイス、豪州など。フランスやイタリア、ロシア、スペインにも国民投票の規定はあるが、国民投票なしに改正できる場合もある。

 ただ、大半の国で改憲手続きに通常の法改正より厳しい要件を設けている。米国は上下両院の3分の2以上の賛成で発議、4分の3以上の州議会の承認が必要になる。ドイツも、連邦議会と連邦参議院の3分の2以上の賛成が条件。フランスは上下両院の過半数で発議できるが、成立は両院合同会議で5分の3以上の賛成が必要だ。

〔中略〕

 韓国の改憲手続きはもっと厳しい。一院制の国会の3分の2以上の賛成で国民投票にかける点では日本と同じ。しかも、国民投票には有権者の過半数が投票しなければ成立しない「最低投票率」を設けている。それでも第2次大戦後、9回の改正を行った。


 ン?
 これでは、韓国はこの「厳しい」条件の下で、9回の改正を行ってきたようではないか。
 いやいや、この条件は1987年のいわゆる民主化により成立した現行憲法(第6共和国憲法)のもので、これ以後韓国の憲法は改正されていない。
 以前にも少し書いたが、これより前の8回の改正の多くは独裁政権の下で行われたものであり、他の民主制の国と単純に比較するのは相当でない。

 これは、戦後9回という数字のみに着目したための誤解だろう。
 それにしても、この記事を書いた記者は韓国に独裁政権の時代があったことを知らないのだろうか。

 こんな誤解が広まるのを少しでも防ぐため、韓国の憲法改正の歴史をごく簡単にまとめてみた。


1.憲法制定(1948.7.17)

 1948年5月、国連の監視下で制憲議会議員の総選挙が実施された。成立した制憲議会(議長は古くからの独立運動家であった李承晩)において憲法が制定され、同年7月17日に公布、即日施行。
 大統領は国会による間接選挙で選出され、任期は4年。憲法改正は、大統領または国会在籍議員の3分の1以上による発議に基づき、国会でその在籍議員3分の2以上の賛成で確定されるものとされた(国民投票はない)。
 同年7月20日、国会は李承晩を初代大統領に選出し、同年8月15日、政府は大韓民国樹立を宣言した。


2.第1次改正(1952.7.7)
 国会で野党が多数派を占めたため再選が困難となった李承晩は、大統領を国民の直接選挙により選出されるよう変更する改憲案を提出し、反対する野党議員を逮捕したり暴力団に脅迫させるなどの圧力を加え、議場へ連行して、討論を省略し、起立投票の方式で1952年7月4日改憲案を可決させた。
 同年8月5日には国民による正副大統領の選挙が行われ、大統領には李承晩が再選された。


3.第2次改正(1954.11.29、四捨五入改憲)
  
 憲法は大統領の3選を禁止していたが、初代大統領に限りこれを可能とする改憲案を与党自由党が1954年9月8日に国会に提出。同年11月17日の採決では、在籍議員203人中、賛成135票で、改憲に必要な3分の2には1票足りず、同案は否決された。しかし、2日後に自由党議員のみが出席した国会で、203の3分の2は四捨五入すれば135であるとして、否決を取り消し可決を宣言した。
 1956年5月15日に行われた第3代正副大統領選挙では、野党候補の急死にも助けられ、李承晩が3選を果たした。副大統領には野党民主党の張勉が当選した。


4.第3次改正(1960.6.15、第2共和国憲法)

 1960年3月15日に行われた第4代正副大統領選挙では、これまた野党候補の急死により李承晩が4選を果たし、副大統領にも与党自由党の李起鵬が当選した。しかし、あらゆる手口を弄した不正選挙に国民の不満は高まり、いわゆる4月学生革命によって政権は倒れ、李承晩はハワイへ亡命し、李起鵬は自殺した。
 許政外相を首班とする過渡政権の下、李承晩独裁への反省から、大統領制から議院内閣制へ変更するなどの改憲案が同年6月15日圧倒的多数の賛成により国会で可決、即日公布された。副大統領は廃止された。
 同年7月29日国会議員選挙が実施され、李承晩時代の第1野党だった民主党が圧勝し、首相に張勉、象徴的な地位となった大統領には尹フ善(フはさんずいに普)が選出された。


5.第4次改正(1960.11.29)

 3月の不正選挙に従事した者を遡及して厳格に処罰すべきとの学生デモの高まりを受け、遡及罰を認める特別法を根拠づけるための改正。


6.第5次改正(1962.12.26、第3共和国憲法)

 政権を獲得した民主党は張勉らと尹フ善らに分裂して対立し、政界は混乱し、経済もはかばかしくなかった。学生は北朝鮮との交流を主張して盛り上がった。危機感を募らせた軍部は1961年5月16日クーデターを起こし、張勉内閣を総辞職させ、国会を解散し、統治機構として軍人による国家再建最高会議を設置した(議長は陸軍参謀総長の張都暎、間もなく真の指導者である朴正煕がとって代わる)。尹フ善大統領は国家の正統性維持のため留任したが、旧来の政治家の活動を禁止する政治活動浄化法が1962年3月に制定されたことに抗議して辞任した。
 軍事政権は民政移管に備えて憲法改正作業を進めたが、これは憲法に規定された改正手続に拠るものではなかった。また、この憲法改正は国民投票により確定するとされた。1962年11月、国家再建最高会議は憲法改正案を議決し、これは同年12月国民投票によって確定され、1963年12月に施行された。
 この改正により、議院内閣制から再び大統領制に戻った。また、憲法改正における国民投票制度が新設された。
 1963年8月、第5代大統領選挙が行われ、朴正煕が尹フ善を破って当選。1967年に再選。


7.第6次改正(1969.10.21 3選改憲)

 憲法の3選禁止規定を3選までは可能とする改憲案を、野党新民党の強い反対にもかかわらず、与党民主共和党が単独で強行可決。国民投票は圧倒的多数が改憲を支持した。
 1971年4月、第7代大統領選挙で朴正煕は「これがわたくしの最後の選挙」と訴え、新民党の金大中を破って3選を果たした。しかし金大中の人気は高く、同年5月の選挙でも新民党は議席を伸ばした。


8.第7次改正(1972.12.17、第4共和国憲法(維新憲法とも))

 朴正煕大統領は米中接近の中、北朝鮮との対話を進め、1972年7月には南北共同声明を発する一方、国家の団結を図るとして、同年10月17日に非常戒厳令を布告し、国会を解散、政治活動を禁止した(10月維新)。
 同月10月27日に改憲案が公告され、11月21日の国民投票で圧倒的賛成を得て確定され、同年12月27日に公布された。
 大統領の直接選挙制は廃止され、統一主体国民会議という国会とは別の新議会を設け、これが大統領を選出し、また国会議員の3分の1を選出するとされた。大統領の任期は4年から6年となり、重任禁止規定は廃止された。
 基本的人権には留保規定が設けられ、大統領は国会を介さずに超法規的な緊急措置を発令することができるとされ、実際に多用された。極めて独裁色の強い改憲であった。
 朴正煕は1972年12月統一主体国民会議によって第8代大統領に選出され(4選)、1978年12月にも同様に選出された(5選)。


9.第8次改正(1980.10.27、第5共和国憲法)

 維新体制の下でも民主化闘争は高まり、米国との関係も悪化した。1979年10月26日、金載圭中央情報部長は対立を深めていた大統領警護室長を射殺し、続いて朴正煕大統領をも射殺した。
 外交官出身の崔圭夏首相が統一主体国民会議により大統領に選出され、民主化に向けた作業が進められた。金大中らが政治活動を再開した。
 しかし、射殺事件の捜査を進める国軍保安司令官の全斗煥を中心とする勢力は、同年12月12日の粛軍クーデターで鄭昇和陸軍参謀総長を事件に関与した容疑で逮捕して軍の実権を握り、1980年5月17日には非常戒厳令を全国に拡大して政治活動を禁止し、金大中らを逮捕し、金大中支持派が起こした光州の暴動を軍を投入して鎮圧した。
 同年8月、全斗煥は統一主体国民会議により第11代大統領に選出され、憲法改正を進めた。改正案は同年10月22日に国民投票により確定され、同月27日に公布された。
 統一主体国民会議は廃止され、大統領選挙人団による間接選挙となった。任期は7年となり重任は禁止され、任期延長または重任変更のための改憲は当代大統領には及ばないとされた。
 1981年1月非常戒厳令が解除され、同年2月に大統領選挙人団(5278人)が国民により選出され、同月25日に選挙人団による選挙で全斗煥が第12代大統領に選出された。
 改憲の発効に伴い国会議員の任期は終了するものとされ、同年3月に新たな国会議員総選挙が実施されたが、従来からの主要な政治家はなお活動を禁止されており、立候補できなかった。金大中は光州事件の首謀者として死刑判決を受け、のち無期懲役に減刑され、亡命した。


10.第9次改正(1987.10.29、第6共和国憲法(現行憲法))

 全斗煥の任期満了が近づき、大統領の直接選挙を求める民主化運動が高まる中、全斗煥の後継者と目された盧泰愚は1987年6月29日、いわゆる民主化宣言を行い、直接選挙も受け入れた。同年9月には、与野党が共同で作成された改憲案が国会に発議され、10月に議決され、国民投票により確定された。
 大統領は直接選挙に戻され、任期は5年、重任は禁止された。
 同年12月、第13代大統領選挙が実施され、野党は旧来の指導者である金泳三、金大中、金鍾泌がそれぞれ立候補したため分裂し、盧泰愚が当選した。
 このいわゆる民主化以後、韓国の憲法は改正されていない。


 つまり、韓国の憲法改正は、第3次、第4次、第9次の改正を除き、いずれも時の政府により強権的に行われたものだ。何も「厳しい」条件の下で行われたものではない。
 しかも、その多くが、政権維持のために、大統領の3選禁止を廃止したり、直接選挙を間接選挙に改める(あるいはその逆)といったものになっている。
 第5次以降の改正では国民投票も行われているが、そのうち第5次、第7次、第8次は野党の政治活動が禁止され、言論の自由が極度に制限された中で行われたものである。そんな国民投票に何の正統性があるだろうか。

 こんなものを含めて「それでも第2次大戦後、9回の改正を行った」などと、あたかもわが国より厳しい条件の下でたびたび民主的に改憲が行われたかのように、読者を惑わさないでいただきたいものだ。


参考文献
閔炳老(ミンビョンロ)全南大学講師「諸外国の憲法事情 韓国」国立国会図書館調査および立法考査局、2003.12(国立国会図書館のウェブサイトから)
池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002


朴槿恵大統領就任を伝える朝日の報道にいくつか思ったこと

2013-02-27 00:52:35 | 韓国・北朝鮮
 朴槿恵の韓国大統領就任を報じる朝日新聞2月25日夕刊の社会面に、こんな記事が載っていた。

竹島問題「まず友好図って」

朴・韓国大統領 懸念と期待

○隠岐の島
 竹島問題の前進に期待するのは、島根県隠岐の島町の関係者ら。〔中略〕

「軍事独裁支えた人」

○日本から一票

 昨年の韓国大統領選では、国外在住者に初めて投票が認められた。
 韓国留学中の1975年に「北朝鮮のスパイ」として拷問、投獄され、昨年5月に再審無罪が確定した在日韓国人○○○さん(58)=○○市=〔引用者註・記事では実名と実市名〕は「大統領を自ら選ぶ喜びはあったが、さすがに朴氏に投票する気になれなかった」と話す。60~70年代に軍事独裁を敷いた朴正煕大統領の長女であり、74年に暗殺された母親に代わりファーストレディーを務めたことから、「独裁を支えた一人」と思うからだ。


 記者が言いたくても言えないことを代弁してもらっているのだろうか。
 あるいは、あうんの呼吸というヤツか。

 子は親を選べない。
 朴正煕の娘に生まれたのは朴槿恵の責任ではない。
 朴正煕の夫人が射殺されたため、代わってファーストレディーを務めざるを得なくなった二十歳過ぎの女性が「独裁を支えた」ことになるのか。

 ただ「国民が選んだ大統領でもある。朴氏は過去を反省し、国民のための政治で韓国の民主主義を発展させてほしい」と期待した。


 人は自分に責任のないことを反省することはできない。
 もし反省を表明するとしたら、それはポーズにすぎない。

 朴正煕の娘であるが故に父の罪を反省すべきと言うのなら、朴槿恵の母である陸英修を暗殺したのは誰なのか。
 在日韓国人の文世光である。
 この人物は、同じ在日韓国人として文世光のような者を生み出したことを反省しているだろうか。

 この人物自身がどうなのかは知らないが、この在日留学生スパイ集団事件で有罪とされた者の中には、北朝鮮シンパがいた。実際に北朝鮮と接触していた者がいた。
 そしてこの時代――それ以後もこんにちまで――北朝鮮では朴正煕政権以上の圧政が敷かれていたのではなかったか。朴正煕の独裁強化にはそんな北朝鮮の脅威に対抗する意味合いもあったのではなかったか。
 北朝鮮の状況は一顧だにせず、韓国では軍事独裁が敷かれている、民主化運動が弾圧されていると非難し続けた人々。彼らもまた北朝鮮の「独裁を支えた一人」一人ではなかったか。

 2月26日付けの天声人語も朴槿恵大統領就任を扱っているが、こんな一節がある。

▼親子2代も女性も、韓国大統領で初になる。むろん七光り抜きには語れない。だが父母を殺され涙をからした半生は、乳母(おんば)日傘(ひがさ)のひ弱さとは無縁らしい。天下国家は男の仕事、とされがちな儒教文化圏で殻を破った強靱(きょうじん)さはなかなかのものだ


 「七光り」とは、辞書(デジタル大辞泉)によると、

親や仕えている主人などのおかげで、いろいろな形の利益を受けること。「親の―」


とある。
 朴槿恵が大統領になったのは、もちろん父朴正煕が大統領であったことと無縁ではないだろう。そうでなければ、そもそも彼女が政界入りしていたかどうかも疑わしい。
 しかし、彼女が政界入りしたのは1998年。父の暗殺から20年近く経っている。民主化からも10年ほど経ち、情勢は父の時代とは大きく変化している。
 「七光り」とはいささか不適切な表現ではないだろうか。
 彼女は父の存在によりいったいどれほど「利益を受け」てきたと言えるのだろうか。むしろ不利益も多大に受けてきたのではないだろうか。
 そして「なかなかのものだ」という上から目線は何だろうか。米英仏独やロシアや中国などで2世の女性政治家がリーダーとなっても、同じ表現が採れるだろうか。未だわが国より規模が小さく、かつ独裁者の娘だからという気の緩みがあるのではないか。

 同じ日の社説もこの件を取り上げている。

韓国新大統領―静けさからの出発

 テレビで就任式を見て新鮮に感じた人も多かっただろう。

 韓国の新しい大統領になった朴槿恵(パククネ)氏のことである。男社会のイメージが強い韓国に、日本や中国、米国より早く女性リーダーが登場すると予想した人が何人いただろうか。


 ヒラリー・クリントンが実際に大統領候補となった米国はともかく、何でここに中国が出てくるのか。しかも米国より先に。
 中国にかつて女性リーダーの候補がいただろうか。数年前には第一副首相に呉儀が就いていたが党では政治局員止まりであり、最高幹部である政治局常務委員ではなかった。朴槿恵大統領の就任式に出席した劉延東・国務委員も政治局員にとどまっている。中国に女性リーダーが誕生するなど、共産党政権が続く限り、当分は有り得ないだろう。

 一方、アジア各国には、世界初の女性首相であるスリランカのシリマヴォ・バンダラナイケをはじめ、女性のリーダーは何人も存在する。インドのインディラ・ガンジー首相、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、パキスタンのベナジル・ブット首相、バングラデシュのジア首相、インドネシアのメガワティ大統領、タイのインラック首相、等々。
 これらはいずれもいわゆるネポティズムによるものであり、朴槿恵についても同様の評価もできようが、こうした実例が多々あることからも、政界入り当時はともかく2004年にハンナラ党の代表に就任してからは、男社会云々にかかわらず、彼女が将来大統領の座を射止めると予想した人は、少なからずいるのではないだろうか。

 1960~70年代の大統領として経済発展をとげた半面、民主化運動を弾圧した朴正熙(パクチョンヒ)氏の娘。いわば生まれながらの保守なのに、選挙戦で「経済民主化」「民生」「福祉」など野党のような政策を打ち出した。


 「民主化運動を弾圧」するのが「保守」。
 「民生」「福祉」を「打ち出」すのは「野党」。
 朝日の「保守」観、そして「野党」観が実によくわかる。


不可解な金正恩「第1書記」「国防第1委員長」の職名

2012-05-12 23:41:39 | 韓国・北朝鮮
 先月11日に開かれた北朝鮮の朝鮮労働党代表者会で、金正恩が、父金正日が就いていた党「総書記」ではなく「第1書記」に就任したと報じられた。

金正恩氏、「第1書記」に=正日氏は「永遠の総書記」-北朝鮮

 【ソウル時事】朝鮮中央通信によると、北朝鮮の平壌で11日、労働党代表者会が開かれ、最高指導者の金正恩氏(29)が新たな党最高ポストの「第1書記」に就任した。昨年12月に死去した父の金正日総書記については、「永遠の総書記」とすることを決定。正恩氏を党のトップとする新たな体制が正式にスタートした。
 北朝鮮では「建国の父」金日成主席が1994年7月に死去した後も、金総書記が国家主席ポストを継承せず、金日成氏を「永遠の国家主席」としたことがある。今回もこの前例を踏襲し、金総書記を「永遠の総書記」として偶像化した上で、党規約を改正し、新たに第1書記のポストを設けたとみられる。
 同通信は正恩氏の第1書記就任について「金総書記の遺訓に従った」としている。(2012/04/12-00:37)


 「総書記」ではなく「第1書記」となった理由については、他の報道でも同様に解説されている。
 しかし、この「第1書記」という職名自体について、突っ込んだ説明を見ない。

 共産党の最高指導者として「第1書記」という職名を初めて用いたのは、ソ連のフルシチョフである。
 その前のスターリンの時代には「書記長」の職名が用いられていた。

 1922年、ソ連共産党の幹部の1人であったスターリンは、中央委員会の日常業務を担当する書記局(数名の「書記」によって構成される)に入り、新設された「書記長」に就任した。
 当初このポストは純粋に事務的なものであるとされ、それほど重要視されていなかったが、スターリンはこれを基盤に党組織を支配し、レーニン死後の最高権力者となり、恐怖政治を敷いた。

 ソ連はロシアをはじめとする共和国の連邦であるから、各共和国にも共産党が存在する(ただし、ロシアには存在しない。ロシアはソ連共産党が直轄していた)。また、州や市といった地方レベルでも党組織が存在する。それらのトップは書記長ではなく「第1書記」とされた。
 つまり、第1書記と呼ばれる人物はソ連国内に多数いたが、書記長と呼ばれるのはスターリンただ1人だけだった。

 スターリンは第2次世界大戦中の1941年、モロトフに代わって首相の座に就き、書記長とともに1953年に死ぬまでこれを務めた。
 スターリンの死後、首相の後任にはマレンコフが就いた。しかし彼は共産党では書記長ではなく「筆頭書記」を兼任した。そして間もなく、マレンコフは書記局を去り、筆頭書記にはフルシチョフが就いた。それでも、当初はマレンコフがスターリンの後継者と見られた〔注1〕。だが、1955年にマレンコフは首相を解任され、後任にはブルガーニンが就いた。
 フルシチョフは1956年にスターリン批判を行い、世界中の共産主義者に衝撃を与えた。そして非スターリン化、平和共存外交などの改革路線を進めた。これに反発するマレンコフ、モロトフ、カガノヴィチらは1957年にフルシチョフの第1書記解任を図ったが失敗し、反党グループを形成したとして放逐された。彼らに同調したブルガーニンも翌年首相を解任され、フルシチョフがこれを兼任し、名実共に最高指導者の座に就いた。
 この経緯は、ソ連における最重要ポストが首相ではなく党のトップであることを示すものだった。

 当時ソ連の勢力圏にあった東欧諸国の共産党〔注2〕も、ソ連に合わせて書記長から第1書記へ職名を変更した〔注3〕。
 スターリン批判に反発しソ連と鋭く対立した中国においては、共産党のトップは書記長ではなく主席(毛沢東)であり、ソ連に倣うことはなかった(毛沢東の死後しばらくして、主席制を廃止し「総書記」がトップに)。
 北朝鮮の朝鮮労働党のトップは総書記(金日成)〔注4〕であったが、ソ連と中国の間で独自の立場を形成していたためか、やはりこれを第1書記に改めることはなかった。

 その後フルシチョフは、次世代のブレジネフ、コスイギンらによって1964年に第1書記と首相を解任され、引退を強いられた。第1書記はブレジネフ、首相はコスイギンが継いだ。
 ブレジネフは非スターリン化を逆行させ、1966年には第1書記の職名を書記長に戻した。その後東欧諸国の多くもこれに倣った〔注5〕。

 さて、何故「書記長」ではなく「第1書記」なのか。

 これらの職名をロシア語や朝鮮語で何というかは知らないが、英語では、

   書記長、総書記 General Secretary
   筆頭書記 Senior Secretary
   第1書記 First Secretary

だそうである。
 Secretary は複数いる。それを総括(General)するのではなく、Secretary の中の序列が一番目であるというだけにすぎない、という意味合いがあるのだろう。

 しかし、報道によると、金正恩が就いた第1書記は、党規約上、従来の総書記と何ら変わらないのだという。

党の要職全て手中に=正恩氏、常務委員などにも就任-北朝鮮

 【ソウル時事】11日に開かれた北朝鮮の労働党代表者会で、党第1書記に就任した金正恩氏が、政治局員、政治局常務委員、中央軍事委員長に就くことも決まった。朝鮮中央通信が12日伝えた。故金正日総書記を「永遠の総書記」と立てつつも、生前に金総書記が就いていた党の最高ポストを一手に握ったことになる。
 また、代表者会では併せて党規約も改正。これまでの「金日成主席の党」との規定を「金日成主席と金総書記の党」に改めるとともに、「第1書記」というポストを新設。「第1書記は、党の首班であり、党を代表し、政党を領導する」と定めた。これは、従来、総書記について定めていた内容と同じで、「第1書記」が事実上、これまでの総書記と同様の地位と権限を持つことを示している。 


 それでは、わざわざ「第1書記」と一段下がった職名を用いる意味がなくなる。単に、金正日と同じ職名に就くことを避けただけだということになる。
 金正日が、父金日成の務めていた国家主席を引き継がず、金日成存命中に就任した国防委員長のまま北朝鮮を統治したのとはわけが違う。

 さらにわからないのが、金正恩がその国防委員長ではなく「国防第1委員長」に就いたことだ。

 「第1○○○」と言えば、複数いる○○○の中のトップを指す。例えば、現在の中国には副首相が複数いるが、第1副首相である李克強がトップである〔注6〕。

 しかし、国防委員長は1人だけである。わざわざ「第1」などと付ける意味はない。
 そればかりか、「第1委員長」では、ただの「委員長」よりも上位にあることを意味してしまう。金正日の業績を顕彰しそのポストを敢えて空席としたのに、それよりも上位のポストに就くのでは意味がない。

 誰の入れ知恵だか知らないが、ずいぶんと愚劣なことをするものだと思う。
 北朝鮮にはもはやこのような人材しか残っていないのだろうか。

 金正日時代に入って、北朝鮮は正常な国家としての体裁を失っていった。
 党大会はおろか、党中央委員会総会すら開かれず、政治局員などの最高幹部の改選もない。「国家主権の最高軍事指導機関であり、全般的国防管理機関である」にすぎない国防委員会の委員長が、国家の最高指導者とされる奇怪。党の要職者でもない無名の首相が次々に任命されては更迭され、外相より第1外務次官が強大な実権を持つ不可解な政府。かつてのソ連や現在の中国のような普通の共産主義国家であれば考えられないことばかりだった。
 金正日時代の末期に至って、後継体制づくりのためにようやく党代表者会が開かれ、最高幹部の改選などがなされたものの、金正恩体制の発足に際してのこの不可解な職名変更。
 彼らの国家ごっこもここに極まれりという印象を受けた。


〔注1〕当初はマレンコフがスターリンの後継者と見られた
 例えば、1954年には米人記者による『マレンコフのソ連』という本の邦訳が出ている。

〔注2〕東欧諸国の共産党
 ソ連の勢力圏にあった多くの東欧諸国では、共産党と他の社会主義政党が合併し新党名を名乗った(例えば東ドイツでは社会主義統一党)ため、正確には「共産党」ではない国が多い。しかし実質的には共産党であるため、便宜的に共産党の呼称で統一する。

〔注3〕書記長から第1書記へ職名を変更
 東欧諸国のみならず、ソ連の影響下にあったモンゴルや、後にはベトナムもこれを採用した。キューバ共産党は1965年の再建から一貫して第1書記がトップである。日本共産党も、武装闘争路線をとった徳田球一書記長が北京で客死した後、1955年の六全協で野坂参三が第1書記に就いた。やがて宮本顕治の指導体制が確立し、1958年には宮本が書記長に就いた。

〔注4〕朝鮮労働党のトップは総書記
 正確には書記ではなく秘書(の朝鮮語読み)であるが、慣習に従って総書記とする。

〔注5〕その後東欧諸国の多くもこれに倣った
 ポーランドの統一労働者党のみは、1990年の解党まで第1書記のままで通し、書記長に戻すことはなかった。これは同国の反ソ感情の表れであろうか。

〔注6〕第1副首相である李克強がトップ
 もっとも、ソ連のように、第1副首相が複数存在するケースもある。
 

在日の選挙権に何を「懸念」するか

2012-02-04 23:23:45 | 韓国・北朝鮮
 2月1日のmsn産経ニュースの記事にツッコミ所が満載。

【from Editor】在日韓国人の「選挙」に議論を

 今年から在日韓国人に「選挙権が与えられる」ようになった-と書くと、本紙の読者は、目を剥(む)いて驚かれるかもしれない。ホントの話である。正確にいうと、2009年の韓国・公選法の改正によって、外国で永住権を持つ19歳以上の韓国民にも国政選挙の選挙権が与えられることになった(在外選挙制度)。その最初の対象選挙が4月に行われる国会議員選挙(総選挙)というわけだ。12月に行われる大統領選挙も、もちろんこの対象になる。


 「今年から在日韓国人に「選挙権が与えられる」ようになった」とだけ聞くと、誰しもが日本における選挙権のことだと思うだろう。それを、実は韓国の在外投票の話だよ、どうだびっくりしただろうと言われても、はあ、それがどうしたのとしか言いようがない。
 つまらん前フリだ。

 さて、「一生に一度ぐらい『選挙』なるものをやってみたい」と待ち焦がれていた在日韓国人の方々は、さぞかし大いに盛り上がっているのか、と思いきや、そうでもないらしい。


 この記者は、在日韓国人は一生に一度も選挙を経験したことがないと本気で思っているのだろうか。
 民団の団長は世襲制だとも思っているのか。
 学校や各種の団体などで、選挙ぐらいいくらでも経験する機会はあるだろう。

 現在、外国人登録を行っている韓国・朝鮮(北朝鮮ではない)籍者は、特別永住者(終戦までに日本に住んでいた人とその子孫)の約40万人を含めて約57万人いる。このうち韓国籍は約45万人。さらに条件である「パスポートを持つ19歳以上」となると約21万人。決して小さい数ではない。

 ところがだ。投票にはまず日本にある領事館で選挙人登録を行わなければならないのだが、1月下旬までの登録者数は1万人あまりにとどまっている。2月11日の登録締め切りまでにはもっと増えるだろうが、意外な低調ぶりではないか。


 別に意外ではないだろう。
 在日韓国人の大多数を占める特別永住者とは、記事にあるように戦前からの居住者とその子孫だ。1世はほぼ亡くなり、2世も高齢化が進んでいるだろう。
 大統領選挙ならともかく、国会議員選挙など、多くの特別永住者にとっては、関心の持ちようがないのではないだろうか。

 実は、この制度には別の懸念があると聞いていた。在日コリアンには過去約10年間で「朝鮮籍」→「韓国籍」に切り替えた人が約5万人いる。「朝鮮籍=北朝鮮」ではないのだが、北にシンパシーを感じている人が多いのも事実だ。一方で朝鮮籍では海外旅行や日本での生活が何かと不便なので、「政治的信条はそのままにして」国籍だけを変えるという人も少なくない。こういう人たちが“北朝鮮寄りの候補者”にこぞって投票したら…。平たく言えばこういう懸念であったが、前述の状況を見れば杞憂(きゆう)に終わりそうだ。


 「平たく言えば」とは難しいことを易しく言い直す時に用いる言葉だろう。
 「懸念」の内容はそのまんまなのだから、何も「平たく」していない。

 そんなことより、日本人としては「別の懸念」がある。一部民主党議員らが熱心な定住外国人への地方参政権付与が万が一実現すれば、在日韓国人は「国政選挙権は韓国、地方選挙権は日本」ということになってしまう。

 「日本人も同じ条件だよ」という横やりが入りそうだが、基本的な条件・状況はまるで違う。ぜひ日本人がこの問題に関心を持ち、本紙オピニオン面などで議論を起こしてもらいたいと思っている。(文化部編集委員 喜多由浩)


 在日韓国人は「国政選挙権は韓国、地方選挙権は日本」となる。ほう。
 さてそれで喜多編集委員は、何をどう「懸念」しておられるのだろうか。
 何故かその説明はない。もうひとつの懸念については「平たく」説明しているのに。

 前にも書いたが、本国とわが国でともに国政選挙権を行使するというなら、それは筋が通らない。
 本国とわが国でともに地方選挙権を行使するというなら、それも筋が通らない。
 だが、本国では国政、わが国では地方選挙というなら、それなりに筋が通っていると言えるだろう。
 それを「懸念」するとはわからない話だ。

 外国人に地方政治を左右される危険性があると言いたいのなら、そう書けばよい。だがそれは韓国の国政選挙権の有無とは関係ない話だろう。
 喜多編集委員は自分が何を書いているのかわかっているのだろうか。

「一部民主党議員「ら」が熱心な定住外国人への地方参政権付与」
 こういう表現はどうなんだろう。
 公明党も参政権付与推進派である。自民党にも賛成派はいる。

 そもそも実現の可能性が「万が一」ほど低いのであれば、「懸念」するには及ばないのではないか。

「「日本人も同じ条件だよ」という横やりが入りそうだが、基本的な条件・状況はまるで違う」
 そのとおりで、近年韓国は永住外国人の地方参政権を認め、またわが国も在外邦人の国政投票権を認めたが、在韓日本人は1万人に満たないし、韓国には特別永住者のような集団もない。
 だから、わが国は安易に相互主義の観点から在日韓国人の地方参政権を認めるべきではない。

 それはそうなのだが、それと韓国の在外投票制度は無関係な話だ。
 関係ない話から始めて、何とか地方参政権付与反対の議論に持って行こうとしたのだろうが、成功しているとは言い難い。

 産経が外国人参政権に反対するのは自由だが、外国人参政権は違憲であるといったデマや、こうした意味不明の「懸念」の表明が、どれほど有効なのだろうか。

 とここまで書きながら、私もこの問題についてある「懸念」を覚えた。

 私も、外国人への地方参政権付与には反対だ。
 それは、単に地方政治に外国人が関与することに疑問があるからだけではない。
 在日サイドからの、日本人と同等に処遇せよという要求の最終段階にあるものだからだ。
 かつて、在日と日本国民との間にはさまざまな行政上の取り扱いの差異が設けられていた。それは、彼らが外国籍である以上必ずしも不合理な差別だとは言えなかったが、日本人と同様に生活してきた2世、3世が主流になるにつれ、撤廃せよとの要求が高まり、日本側もそれを受け入れてきた。「差別」の象徴とされた指紋押捺も廃止された。
 最後に残った大きな問題が、この参政権だ。
 彼らは言う、国民ではないが住民である以上、地方政治への参政権は認められるべきだと。
 しかし、今後もわが国に永住し、日本語を話し日本の慣習の中で生活していく彼らが、外国籍を維持したま地方参政権を取得するといういびつな事態が、果たして正しい選択なのだろうか。
 完全に日本国民と同じ権利を要求するのなら、むしろ帰化要件の緩和を要求すべきだろう。

 また、民団や韓国は地方参政権取得を目指しているが、総聯や北朝鮮は反対している。
 この状況下での参政権付与は、民族分断を招くといった無用の批判を受ける恐れがある。

 こうした考え方に立っての反対だ。

 しかし、特別永住者ではない、いわゆるニューカマーの韓国からの永住者にとっては、そんな事情は知ったことではないだろう。
 そして、彼らからすれば、自国は外国人の地方参政権を認めているのに、日本は何故認めないのかということになる。

 特別永住者は、日本人との結婚すればその子は日本国籍を選択するだろうから、今後自然に減っていくだろう。一方ニューカマーは今後も増えていくだろう。
 地方参政権の要求が、いわゆる在日からだけではなくニューカマーからも上がってきたとき、わが国はそれに抗しきることができるだろうか。


金正日の告別式の出席者序列について

2012-01-12 00:26:39 | 韓国・北朝鮮
 昨年12月28日に行われた金正日の告別式について、翌日のmsn産経ニュースはこう伝えている。

金敬姫氏の序列、5番目に 呉克烈氏も大幅に上昇 葬儀・告別式名簿

 北朝鮮の国営メディアは28日夜、金正日総書記の葬儀・告別式への出席者を伝えた。

 ラヂオプレス(RP)が朝鮮中央放送と平壌放送の報道として伝えたところでは、葬儀委員会名簿(計232人、19日発表)で14位だった金総書記の実妹、金敬姫(キムギョンヒ)氏が5番目に名前が読み上げられた。敬姫氏の夫の張成沢(チャンソンテク)氏は19番目から16番目に上がった。

 出席者名簿は、金総書記の後継者で新指導者の金正恩(キムジョンウン)氏以下、朝鮮労働党政治局常務委員、同政治局員、同政治局員候補の順番でほぼ名前が報じられた。この中で、金敬姫氏は政治局員の中で筆頭にランク付けされ、張成沢氏は政治局員候補でトップに位置づけられている。

 張成沢・金敬姫夫妻が金総書記の一族であり、正恩氏の後見人として、新体制を中心となって支えることを裏付けるものとみられる。

 一方、軍関係者で注目されるのは、葬儀委員会名簿で29位だった呉克烈(オグンニョル)国防委員会副委員長が、13番目に紹介され、序列が一気に上がったことだ。また、金正覚(キムジョンガク)朝鮮人民軍総政治局第1副局長も24位から17位に上昇している。

 呉克烈氏は金日成・金正日政権当時から軍内部での人望が厚かったとされる。金日成政権下で一時、失脚状態にあったが、金日成主席死去の際に、葬儀委員会名簿に再び名前が登場。その“復活劇”が注目された。

 金正覚氏は、正恩氏の「軍の指導係」といわれ、28日の葬儀・告別式では金総書記のひつぎを載せた車が錦繍山記念宮殿を出発するとき、正恩氏らとともに車に付き添ってもいる。金正恩体制を軍事面で支える人物であることは確実だ。(名村隆寛)


 12月19日に発表された国家葬儀委員会の序列と比較して、告別式の序列には若干の変動があったという。

 さらに別の記事では、20位までの序列が記されているので、心覚えのために転記しておく。ただし、政治局におけるポストが付記されていない人物が多く、わかりづらいので青字で付記した。詳細は国家葬儀委員会の序列と比較されたい。

葬儀・告別式の出席者順位

【金総書記の葬儀・告別式出席者】

1(1) 金正恩・党中央軍事委副委員長 

2(2) 金永南・最高人民会議常任委委員長 党中央委政治局常務委員

3(3) 崔永林・首相 党中央委政治局常務委員

4(4) 李英浩・人民軍総参謀長 党中央委政治局常務委員

5(14) 金敬姫・党中央委政治局員

6(5) 金永春・人民武力部長 党中央委政治局員

7(6) 全秉鎬・党中央委政治局員

8(7) 金国泰・党中央委政治局員

9(8) 金己男・党中央委政治局員

10(9) 崔泰福・党中央委政治局員

11(10) 楊亨燮・党中央委政治局員

12(13) 李勇武・国防委副委員長 党中央委政治局員

13(29) 呉克烈・国防委副委員長

14(11) 姜錫柱・副首相 党中央委政治局員

15(12) 辺永立・党中央委政治局員

16(19) 張成沢・国防委副委員長 党中央委政治局員候補

17(24) 金正覚・人民軍総政治局第1副局長 党中央委政治局員候補

18(15) 金養建・統一戦線部長 党中央委政治局員候補

19(16) 金永日・党中央委政治局員候補 党中央委政治局員候補

20(17) 朴道春・国防委委員 党中央委政治局員候補

 ※朝鮮中央放送と平壌放送の読み上げ順による上位20人と主な肩書き。()は葬儀委員会の名簿順位。(RPによる)


 金敬姫が党政治局員の末席からトップに急上昇し、その夫張成沢も党政治局員候補の5位からトップに上昇している。
 これは、産経記事が伝えるように両名が金正恩の後見人的存在であるためかもしれないが、単に故人の近親者であることが考慮されているようにも思われる。
 金日成の死亡時にも、国家葬儀委員会の序列では104位だった妻の金聖愛(金正日の継母)が中央追悼大会での序列では党政治局員と政治局員候補の間の14位に急浮上し注目された(平井久志『北朝鮮の指導体制と後継』(岩波現代文庫、2011)p.141。だがその後、彼女の動静は報じられておらず、生死すら不明である)。

 しかし、政治局員でなかった呉克烈の急上昇や、同じく軍の要人である金正覚の上昇にはやはり注目すべきだろう。

 なお、朝鮮総聯の機関紙朝鮮新報のサイトは、この告別式を次のように伝えている。

平壌で総書記と告別する儀式

悲しみの涙に浸る沿道

金正日総書記と告別する儀式が昨年12月28日、平壌で厳かに挙行された。朝鮮中央通信が伝えた。

総書記の霊柩を見送る告別式が挙行される錦繍山記念宮殿は、大きな悲しみと悲哀にひたっており、弔旗が重く垂れ下がっていた。

朝鮮労働党中央軍事委員会の金正恩副委員長は、霊柩の出棺に先だち、党・国家・武力機関の責任幹部と共に総書記の永生を祈願して霊前に黙とうし、霊柩を見て回った。

続いて、錦繍山記念宮殿広場では金正日総書記と告別する儀式が厳かに挙行された。

朝鮮労働党中央軍事委員会の金正恩副委員長が告別式に参席した。

党・国家・武力機関の責任幹部をはじめ国家葬儀委員会のメンバーと朝鮮人民軍最高司令部作戦指揮メンバー、朝鮮人民軍大連合部隊指揮メンバー、党・政権機関、社会団体、省・中央機関、科学、教育、文化芸術、保健医療、出版報道部門の幹部が告別式に参列した。

また、人民軍将兵、各道の代表、各界層の人々と海外同胞、外国人が総書記と告別するために錦繍山記念宮殿広場へ集っていた。
(後略)


 金正恩も「国家葬儀委員会のメンバー」であるはずだが、その他の有象無象と金正恩は別格というわけである。

「党・国家・武力機関の責任幹部をはじめ国家葬儀委員会のメンバー」
「朝鮮人民軍最高司令部作戦指揮メンバー」
「朝鮮人民軍大連合部隊指揮メンバー」
「党・政権機関(の幹部)」
「社会団体(の幹部)」
「省・中央機関(の幹部)」
「科学(部門の幹部)」
「教育(部門の幹部)」
「文化芸術(部門の幹部)」
「保健医療(部門の幹部)」
「出版報道部門の幹部」

「人民軍将兵」
「各道の代表」
「各界層の人々」

という序列も興味深い。

 党をトップに据えつつも、未だ先軍政治に変化はないと言えよう。 

クォン・ヨンソクの日朝国交正常化推進論を読んで

2012-01-10 23:40:54 | 韓国・北朝鮮
 金正日の死が公表されてから数日後の12月23日、朝日新聞朝刊のオピニオン欄「耕論」は、「どう動く「金正日」後」と題して、「朝鮮半島にゆかりが深く、独自の目線で事態を見つめる学者2人」のインタビューを載せた。
 そのうちの1人、「韓日の「境界人」として生きる一橋大学大学院准教授」クォン・ヨンソク(権容?〔ソクは大の両袖に百〕)は、わが国から日朝国交正常化を働きかけるべきと説いている。
 私はそうは思わないが、そういう主張はしばしば見るし、そうした論者がいても別にいいと思う。
 しかし、このインタビューで述べられていることのいくつかはどうにも変だ。

 日本では北朝鮮がどう変わるかが議論されていますが、私は日本がこれからどう変わるかを注視しています。
 戦後の日本外交は「静観」が多いように思います。大きな事件が起きると「情報を収集し、事態を見守る」。今回もそういうコメントを見ます。国際関係史では「静観政策」などと呼んでいますが、これは政策とは言えません。

 ■脱・静観外交を

 今度こそ日本外交を抜本的に転じる時です。日朝国交正常化を実現させてほしい。それも自らの判断と行動で。世界の中での日本の役割、日本外交の存在感をアピールする絶好の機会です。
 日朝が正常化すれば、米朝正常化も進むでしょうし、南北和解も進む。北朝鮮が東アジア国際社会の一員に加わった時の全体像を、我々はもっと想像する必要があります。感情的な反感からは何も生まれません。東アジアの秩序づくりを日本が進めたら、「顔が見えない」「米国追随」という評価はがらりと変わるでしょう。


 このあたりまではよくある主張だ。
 金大中、盧武鉉両政権で南北和解が進められたが、日朝、米朝の正常化は進まなかったことを考えると、そう楽観的に言えるのか極めて疑問だが。

 「軍事独裁国家と国交を結べとはとんでもない」と思いますか。韓国は日本と国交を結んだ1965年当時、まさに軍事独裁体制でした。今はどうでしょう。


「軍事独裁国家と国交を結べとはとんでもない」
 そんなことを誰がどこで言っているというのだろう。
 わが国はビルマ(ミャンマー)ともリビアともシリアともトルクメニスタンとも国交を結んでいる。クォンが言うようにかつての韓国もそうだ。国交のある国に軍事独裁政権が成立したからといって、それを理由に国交を断絶したこともない。
 軍事独裁だろうと何だろうと、国交は結んでおくにこしたことはない。
 わが国と北朝鮮が国交を結んでいないのは、そんなことが理由ではない。

 なお、わが国と国交を結んだ朴正煕大統領は、確かにクーデターにより政権を奪取したが、1965年当時には既に民政移管を果たしており、「軍事」独裁体制であったとは言い難い。

 北朝鮮は2000年ごろを機に変化が見られます。米国の国務長官を招き、クリントン大統領の訪朝という話もあった。先日の平壌でのサッカーW杯予選の日朝戦をテレビで見ましたが、スタンドの表情は以前に比べて明るく、一昔前の韓国のようでした。「韓流」も一部浸透していると聞きます。
 金正恩は海外経験もあり、グローバル化が進む世界を肌で知っているはずです。変化は起きるでしょう。いや、変化を促すためにも日本の行動が必要です。国交正常化の効果は計りしれません。5年10年、20年30年という長い目で見ると、まったく違った国になっているはずです。


 「長い目で見ると」変化している。
 それはそうだろう。中国だって、20年前、30年前とはかなり違った国になっている。
 かつてのソ連だって、レーニンの時代とフルシチョフの時代を、そしてゴルバチョフの時代を比べたら、かなり違うだろう。ベトナムだって、統一直後と現在では。
 それは何も、これらの国が各国と国交を結んでいるからだけではないだろう。一つは時代そのものの変化、そしてもう一つは、その変化を受け入れる、あるいは推進する姿勢が指導層にあるからではないか。
 北朝鮮にそうした兆候が見られるだろうか。
 クォンの言うクリントン米大統領の訪朝が結局成らなかったのは何故なのだろうか。
 また、北朝鮮は金正日時代に入ってイギリス、イタリアなど多くの西欧諸国と国交を結んだ。しかしそれが、北朝鮮に何がしかの変化を促しているとは聞かない。
 「国交正常化の効果は計りしれ」ないとは必ずしも言えないのではないだろうか。
 例えば日中関係にしても、仮に毛沢東路線が彼の死後も続いていたら、これほどまでに発展していただろうか。

 冷戦期の70年代初頭、「ニクソンショック」がありました。米大統領が日本の頭越しに敵対していた中国を電撃的に訪れ、米中和解を実現させたのです。これを「ショック」と呼ぶのなら、どうかここから学んでほしい。文化、スポーツ交流から始めたらいい。米中は「ピンポン外交」で和解を進めました。サッカーが盛んな日朝は「サッカー外交」を進めたらどうですか。在日コリアンも貴重なパイプになるはずです。


 先の平壌でのワールドカップ予選でのブーイングは異常なものだったと聞く。そうした国とどのように「交流」できるというのだろうか。
 また、「在日コリアンも貴重なパイプ」とはお笑いぐさで、彼らは両国の交渉上のカードではあっても、日朝関係の改善に何か寄与してきただろうか。

 拉致問題の解決が先というのが日本の方針です。でもそれで事態は解決に向けて進んだでしょうか。「対話と圧力」と言いながら04年の2度目の小泉訪朝以来、対話の部分が抜け落ちています。現実は断絶であり無作為です。
 従来の方法で進展がないなら変えるべきです。国交を結び、自由往来にして、共同で真相究明委員会を作る。その方が解決に向けて進むのではないでしょうか。


 自由往来! 結構なことだ。
 わが国の人間が自由に北朝鮮を訪れ、拉致について調査することが許されるのなら、確かに問題は解決に向けて進むだろう。
 しかし国交正常化によって自由往来が実現できるのか。
 北朝鮮は既に国交のある多数の国々に自由往来を許しているだろうか。

 わが国は何も国交正常化交渉の前提として拉致問題の即時全面的解決を要求しているわけではない。
 2008年の日朝実務者協議で、北朝鮮側は拉致問題の再調査を実施することを約束している。また「よど号」犯及びその妻の引渡しにも協力すると表明している。わが国もこれに呼応して人的往来の規制解除などを行うとしている(外務省のホームページ参照)。
 しかしその後、北朝鮮からの具体的な回答はない。
 わが国は「対話と圧力」の方針を変えてはいない。ボールは北朝鮮側にある。対話を拒否しているのはかの国であって、わが国ではない。

 ■安倍さん特使に

 戦後、日朝正常化の機会は少なくとも4回ありました。金日成時代の70年代には日本から訪朝団が相次ぎ、北朝鮮からも正常化のサインが出ていた。しかし実らず、そのあと拉致が始まります。歴史に「もし」はありませんが、あのとき正常化が実現していたなら、と思わずにはいられません。


 70年代に国交が正常化していれば日本人拉致はなかったと言わんばかりで、ずいぶんな話だと思う。
 後に述べるが、70年代に北朝鮮との国交など有り得ないだろう。
 また、拉致は北朝鮮と国交のないわが国や韓国に限った話ではない。国交のあるタイやレバノン、ルーマニアでも発生している。国交の有無と拉致は関係ない。

 中朝は一枚岩とはいえません。歴史を振り返れば、朝鮮半島北部にとって中国という北の異民族は、長く脅威の対象でした。訪朝した米国人に北朝鮮側が(南北融和後も)「在韓米軍は残っていい」というメッセージを伝えたという報道もあります。
 日本の首相が米国に先駆けて国交正常化を実現させれば、間違いなく歴史に名を残します。そのチャンスが目の前にあるのに、どうしてやろうとしないのか。私が首相だったら、やります。日本の存在感を世界に主張できる、二度とない機会でしょう。
 日本は積極的に動くべきです。安倍晋三元首相を政府特使として派遣することを提案したい。祖父の岸信介元首相は朝鮮半島との関係を日本外交の主軸に置こうとした政治家でした。保守系の安倍氏なら、北朝鮮にアレルギーをもつ人も認める可能性があります。北朝鮮も意気に感じるでしょう。
 外交にはダイナミズムが大事です。静観し、「関係諸国と協議して」では、何も始まりません。今こそ「未来」に向けて歴史の扉を開けるときです。
(聞き手 編集委員・刀祢館正明)


 確かにわが国が米国に先駆けて国交正常化を実現させれば、その首相は歴史に名を残すことだろう。それは汚名であるかもしれないが。
 金大中は2000年に金正日と平壌で会談し、同年のノーベル平和賞を受賞した。しかし、その後の北朝鮮の動向を振り返って、あの受賞に何の意味があったのかと思わない者はいないだろう。
 「チャンスが目の前にあるのに、どうしてやろうとしないのか。私が首相だったら、やります」とは、いかにも韓国人らしい思考法だろう。わが国の歴代首相にそのような単純な名誉欲にとらわれた者がいないのは幸いだった。

 かつて、中山正暉、平沢勝栄といった、保守派・タカ派と称される政治家が拉致問題に関与した。
 しかし、彼らは訪朝後に北朝鮮の代弁者と化し、拉致被害者家族や支援者の失望と反発を買った。
 仮に安倍が日朝国交正常化に動いたとしたも、同様の評価を得るにとどまるだろう。
(ところで、岸信介がいわゆる親韓派〔注〕であったことは事実だろうが、それにしても「朝鮮半島との関係を日本外交の主軸に置こうとした」とは言い過ぎではないだろうか。朝日の著者紹介によるとこのクォンには『岸政権期の「アジア外交」』との著書もあるそうなので、研究成果に裏打ちされた発言なのかもしれないが・・・・・・)

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    

 クォンの言う「戦後、日朝正常化の機会は少なくとも4回あ」ったというのが具体的に何を指すのか私にはよくわからない(少なくとも1990年の金丸訪朝と2002年の小泉訪朝が含まれるのだろう)が、1980年代後期までは、日朝間の国交正常化など問題外であった。
 それは、わが国と韓国との関係による。
 わが国は自由主義陣営の一員として、韓国を国家承認し、国交を樹立していた。それはすなわち北朝鮮を否認し、国交を持たないことを意味した。わが国に限らず、自由主義陣営の主要国が同様の態度をとっていた。逆に共産主義陣営は北朝鮮を承認し、韓国とは国交を持たなかった。
 もっとも、当時のいわゆる第三世界の国々は、韓国と北朝鮮の両方を承認し国交を樹立していた。中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)のように、一方を承認すればもう一方とは断交するという関係にあったわけではない。
 しかし、東西対立の中、西側が北朝鮮を、東側が韓国を承認するという選択は考えられなかった。
 わが国内でも、北朝鮮の友党であった社会党は、80年代後期まで韓国と関係を持たなかった。

 この構図が変わるのは、1987年に韓国の民主化によって成立した盧泰愚政権が、いわゆる北方外交により共産主義陣営との国交樹立を図ってからである。韓国は1990年にソ連と、1992年には中国と国交を樹立し、1991年には北朝鮮と共に国連加盟を果たした。国交樹立前だが1988年のソウルオリンピックにはソ連、中国をはじめ共産主義諸国のほとんどが参加している。
 このころ、「クロス承認」という言葉があった。ソ連と中国は未承認国である韓国を承認し、逆に米国と日本は北朝鮮を承認することにより、北東アジアの安定化を図るという構想だった。北朝鮮は南北分断を固定化するものだとこれに反対したが、ソ連や中国と韓国との関係正常化が進むにつれ、やむなく国連同時加盟を認めざるを得なかった。

 にもかかわらず、日米と北朝鮮との国交正常化は進まなかった。何故か。

 わが国は1990年の金丸信・元副総理の訪朝後、北朝鮮と国交正常化交渉を進めた。しかし、大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の教育係を務めたとされる日本人「李恩恵」(後に北朝鮮も拉致を認めた田口八重子さんと見られる)の件を日本側が持ち出したことに北朝鮮側が反発して交渉は中断した。
 のちに金正日は田口八重子さんの拉致を認めた。ならば以前の交渉中断には正当な理由がなかったことになる。日朝平壌宣言も発表された。にもかかわらず交渉が停滞しているのは、北朝鮮に拉致事件の再調査やよど号犯の問題でこれ以上わが国に譲ってまで交渉を進める意志がないからであろう。

 米国は北朝鮮の核兵器開発疑惑を契機に1993年から北朝鮮との直接対話に応じ、1994年にはいわゆる米朝枠組み合意が成立した。しかし北朝鮮はさらなる核開発を進め、合意は破綻した。代わって6か国協議が設けられたが、北朝鮮は公然と核実験を強行し、見るべき成果はあがっていない。

 クォンのような日朝国交正常化交渉推進論者を見て不思議に思うのは、彼らは決して北朝鮮に対しては、譲歩してでも交渉を進めるべきとは説かないことだ。

「北朝鮮が東アジア国際社会の一員に加わった時の全体像を、我々はもっと想像する必要があります。感情的な反感からは何も生まれません」

 それはむしろ北朝鮮にこそ説くべき言葉ではないのか。
 そうしないのは、彼らの主観的な意図はともかく、結局のところ彼らも又北朝鮮の代弁者としての役割しか果たしていないと言えるだろう。

 「在日コリアンも貴重なパイプになる」と言うのなら、韓国に生まれ、日本の国立大学教員を務めるクォンは、なおさら日韓朝のパイプ役になりうるのではないか。
 「私が首相だったら、やります」などと放言するにとどまらず、どうぞ自らパイプ役を買って出られてはいかがか。


〔注〕親韓派
 念のために書くが、韓国の民主化以前、親韓派と言えば朴正煕や全斗煥の独裁政権と親密なわが国の保守系政治家を指した。こんにち言うところの親韓、嫌韓とは全く別の話である。