古い話だが、昨年の9月15日付朝日新聞夕刊に掲載された「葦 夕べに考える」というコラムの内容が、以前からどうにも気になっていたので、ここで書き留めておく。筆者は中野晃・論説委員。
金時鐘氏が参加したという国鉄吹田操車場でのデモとは、いわゆる吹田事件を指すのだろう。
「戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た」
何だか、やや程度の激しい反戦デモだったかのような読後感を受けるのだが、果たしてそんなものだったのだろうか。
確か吹田事件は、血のメーデー事件、大須事件と並んで、戦後三大騒擾事件とされているはずだが。
検索すると、コトバンクの世界大百科事典 第2版の解説に、次のようにある。
毎日新聞社の「昭和毎日」というサイトにも吹田事件のページがあり、
「人民電車を出せと阪急石橋駅で駅長をつるし上げるデモ隊」
「竹やりを持って行進を始める徹夜デモ隊と対立する警官隊」
といったキャプションの付いた写真がある。
また、このサイトに掲載されている当時の毎日新聞の紙面には、
「火炎ビン投げ暴れ回る」
「警官トラック火だるま」
といった見出しが確認できる。
今、私の手元に、警察庁警備局が昭和43年に発行した『回想 戦後主要左翼事件』というA5版の本がある。主に昭和20年代後半の日本共産党による暴力事件の解説と、それを体験した警察官(実名)の手記によって構成されている。
吹田事件も「吹田騒擾事件」の名で取り上げられており、いくつかの手記の中にはこんな記述がある。
また、別の警察官によるこんな記述もある。
この吹田事件は、一審の裁判の法廷で、被告側が、朝鮮戦争休戦に際して、平和勢力(北朝鮮・中国・ソ連側)の勝利を祝う拍手と戦死者に対する感謝の黙祷を行いたいと申し出、裁判長がこれを黙認したことでも知られる。
このことでもわかるように、これらの暴徒は単に戦争反対のために騒乱を起こしたのではない。米軍の軍事物資輸送を妨害することで北朝鮮・中国軍を支援するために暴動を起こしたのである。後方攪乱である。
ところで、朝鮮戦争とは何だろうか。
米国が北朝鮮を侵略した戦争なのだろうか。
違う。
言うまでもないことだが、北朝鮮が韓国を併合しようと、ソ連の了解の下、計画的に戦争を仕掛けたのである。
そして、それを防ぐために米国が国連軍を組織して介入し、逆に北朝鮮を追い詰めたところ、それを救おうと中国が義勇軍と称して参戦したのである。
なのに、この中野晃・論説委員は、その点には全く触れず、まるで、米国が北朝鮮を攻撃しているのだから、在日朝鮮人らがそれに抵抗するのは当然であったかのように描いている。
米国が介入しなければ、韓国は北朝鮮に併合されていただろう。そうなれば現在の韓国の発展もなく、朝鮮半島全域が金王朝の圧政の下に置かれることになっただろう。わが国は現在よりさらに強力になった北朝鮮と間近で接することになっただろう。その方がよかったと中野委員は考えているのだろうか。
中野委員はこうも言う。
「朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る」
そう、再び北朝鮮が南進すれば、わが国はまた軍事拠点となるだろう。それは韓国を守るために必要なことではないのだろうか。それとも韓国が蹂躙されようがわが国は中立を守るべきだと中野委員は考えているのだろうか。
「再びそうならないための道を探りたい」
それは簡単である。北朝鮮が武力統一路線を放棄すればよい。ただそれだけのことである。何故なら、こんにちの韓国も、また米国も、武力による統一など主張していないし、望んでもいないからである。
しかし、北朝鮮の戦争責任にも吹田事件の本質にも触れることを避ける中野委員が、どのような方法で「再びそうならないための道を探」ろうとしているのか、私には不思議でならない。
敗戦後の「戦争」を忘れぬ
国鉄職員だった兵庫県の奥野博實さん(85)は朝鮮戦争(1950~53)の最中の51年9月、米軍の弾薬を運んだ。
神戸港で陸揚げされた弾薬を二十数両に積んだ貨物列車のダイヤは「軍秘」。京都の梅小路から舞鶴まで乗務した。
奥野さんは日記にこう記した。「占領下にあるのでやむなくやっているが、日本の軍事基地化の手伝いをしているようなものだ。第三次大戦の準備か?」
朝鮮戦争で、日本は武器弾薬や軍需物資の「特需」にわき、米軍を核とする国連軍の出撃や兵站の拠点にもなった。
「東洋一の貨物ヤード」と呼ばれ、重要な輸送経由地となった国鉄吹田操車場では52年6月、戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た。当時、デモ隊に加わった詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(88)=奈良県=は「軍用列車を1時間遅らせれば、同胞千人の命が助かると言われていた。切実な思いだった」と振り返る。
朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る。敗戦後、日本が巻き込まれた戦争の歴史を忘れず、再びそうならないための道を探りたい。
金時鐘氏が参加したという国鉄吹田操車場でのデモとは、いわゆる吹田事件を指すのだろう。
「戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た」
何だか、やや程度の激しい反戦デモだったかのような読後感を受けるのだが、果たしてそんなものだったのだろうか。
確か吹田事件は、血のメーデー事件、大須事件と並んで、戦後三大騒擾事件とされているはずだが。
検索すると、コトバンクの世界大百科事典 第2版の解説に、次のようにある。
すいたじけん【吹田事件】
大阪府吹田市で学生,労働者,朝鮮人などが起こした事件。1952年6月24日夜,豊中市の大阪大学北校校庭などで,〈朝鮮動乱2周年記念前夜祭〉として大阪府学連主催の〈伊丹基地粉砕,反戦・独立の夕〉が開催されたが,この集会に集まった学生,労働者や朝鮮人など約900名は翌25日午前0時すぎから吹田市に向かい,国鉄吹田操車場を経て吹田駅付近までデモ行進をおこなった。その際,警官隊と衝突,派出所やアメリカ軍人の乗用車に火炎びんや石を投げつけ,また途中,阪急電車に要求して臨時電車を運転させ〈人民電車〉と称して乗車したり,吹田操車場になだれ込んで20分間にわたって操車作業を中断させたりしたなどとして,111名が騒乱罪(騒擾罪(そうじようざい))や威力業務妨害罪などの容疑で逮捕,起訴された事件。
毎日新聞社の「昭和毎日」というサイトにも吹田事件のページがあり、
「人民電車を出せと阪急石橋駅で駅長をつるし上げるデモ隊」
「竹やりを持って行進を始める徹夜デモ隊と対立する警官隊」
といったキャプションの付いた写真がある。
また、このサイトに掲載されている当時の毎日新聞の紙面には、
「火炎ビン投げ暴れ回る」
「警官トラック火だるま」
といった見出しが確認できる。
今、私の手元に、警察庁警備局が昭和43年に発行した『回想 戦後主要左翼事件』というA5版の本がある。主に昭和20年代後半の日本共産党による暴力事件の解説と、それを体験した警察官(実名)の手記によって構成されている。
吹田事件も「吹田騒擾事件」の名で取り上げられており、いくつかの手記の中にはこんな記述がある。
吹田駅に転進した私達は、国警自警の混成部隊〔引用者註:国警は国家地方警察、自警は自治体警察の略。当時、1947年公布の旧警察法により、市および人口5000人以上の市街的町村には各市町村公安委員会が管理する自治体警察が設置され、それ以外の区域には国家地方警察が置かれていた。1954年公布の現警察法により廃止〕で暴徒の鎮圧にはいつた。柵を飛び越えてホームに殺到した。暴徒は折からの通勤電車に混乗し、通勤客を楯に拳銃を発射し、さらには火炎びんを投げ、竹槍を投げ、あらゆる抵抗を示した。
ホームに、道路に、血が吹き、炎が上がる。警備部隊のある者は焼けただれた制服のまま暴徒を追う。まさに現場は阿鼻叫喚の態であつた。しかし、市民はおののきながら警察官を励ましてくれた。(p.178)
また、別の警察官によるこんな記述もある。
午前七時半ごろ私達は国鉄吹田駅に急行した。
現場は、まさに阿鼻叫喚の巷と化し、戦時中の爆弾投下時のさまもかくやとばかりの情景を現出していた。荒れ狂うデモ隊は、同駅構内、構外をうめつくし、停車中の通勤列車および一般乗客らに対し、火炎びんを投げつけたり、所持の竹槍で突いたりして暴行の限りを尽くしていた。
私達は、事態の重大さに驚き、かつこれら暴徒の鎮圧と排除のため直ちに検挙にのりだしたが、ここにおいてもデモ隊のしつような攻撃を受けた。
全身火だるまとなってホームに転落する者、竹槍で腕を突きさされて倒れる者、負傷者が続出する。婦女子を含む一般客はとみると、列車内でデモ隊員に竹槍、こん棒で殴りつけられ、また、車窓から投げ込まれる石、火炎びんを避けて頭をかかえ座席に失神した如く伏せて身を守っている者、泣きさけぶ者、この危急狂乱の場からのがれようと車内から線路上に転落する者等々。
私達はデモ隊の検挙よりも、かかる攻撃、暴行により続出しつつある負傷者の救護に全力をそそいだ。
デモ隊はここにおいて徒歩進撃を中止し、大阪行列車に乗り込みを開始、なおも一般民家、民衆に石、火炎びんなどを投げつつ、ついに吹田駅をあとにした。(p.181-182)
この吹田事件は、一審の裁判の法廷で、被告側が、朝鮮戦争休戦に際して、平和勢力(北朝鮮・中国・ソ連側)の勝利を祝う拍手と戦死者に対する感謝の黙祷を行いたいと申し出、裁判長がこれを黙認したことでも知られる。
このことでもわかるように、これらの暴徒は単に戦争反対のために騒乱を起こしたのではない。米軍の軍事物資輸送を妨害することで北朝鮮・中国軍を支援するために暴動を起こしたのである。後方攪乱である。
ところで、朝鮮戦争とは何だろうか。
米国が北朝鮮を侵略した戦争なのだろうか。
違う。
言うまでもないことだが、北朝鮮が韓国を併合しようと、ソ連の了解の下、計画的に戦争を仕掛けたのである。
そして、それを防ぐために米国が国連軍を組織して介入し、逆に北朝鮮を追い詰めたところ、それを救おうと中国が義勇軍と称して参戦したのである。
なのに、この中野晃・論説委員は、その点には全く触れず、まるで、米国が北朝鮮を攻撃しているのだから、在日朝鮮人らがそれに抵抗するのは当然であったかのように描いている。
米国が介入しなければ、韓国は北朝鮮に併合されていただろう。そうなれば現在の韓国の発展もなく、朝鮮半島全域が金王朝の圧政の下に置かれることになっただろう。わが国は現在よりさらに強力になった北朝鮮と間近で接することになっただろう。その方がよかったと中野委員は考えているのだろうか。
中野委員はこうも言う。
「朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る」
そう、再び北朝鮮が南進すれば、わが国はまた軍事拠点となるだろう。それは韓国を守るために必要なことではないのだろうか。それとも韓国が蹂躙されようがわが国は中立を守るべきだと中野委員は考えているのだろうか。
「再びそうならないための道を探りたい」
それは簡単である。北朝鮮が武力統一路線を放棄すればよい。ただそれだけのことである。何故なら、こんにちの韓国も、また米国も、武力による統一など主張していないし、望んでもいないからである。
しかし、北朝鮮の戦争責任にも吹田事件の本質にも触れることを避ける中野委員が、どのような方法で「再びそうならないための道を探」ろうとしているのか、私には不思議でならない。