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日々の思いをたまに綴るブログ。

島田裕巳『公明党vs.創価学会』(朝日新書、2007)

2007-06-30 19:39:17 | 現代日本政治
 著者は宗教学者。元日本女子大教授。たしか、オウム真理教を擁護している、あるいはカルト宗教に対する見方が甘いなどとして猛烈な批判を受け、教授辞任を余儀なくされたのではなかったか。
 しかし、当時の私の印象では、地下鉄サリン事件以前は、統一教会などの問題は知られていたにしろ、カルト宗教に対する世間の視線は、今日ほど厳しいものではなかった。
 島田のカルトへのアプローチに興味本位のウォッチャー的な面があったとは思うが、それにしてもあれほどのバッシングは異様だと感じていた。
 例えば、同じ宗教学者であり、その著作がオウムに影響を与えたとも言われ、なおかつサリン事件の時に「もっと犠牲者が多かった方が、事件の意味があった」(うろ覚え)といった趣旨の発言を内輪でしていたということが暴露された中沢新一の方が、はるかに問題があると思っていた。
 しかし、中沢は、批判は受けたものの、職を失うことはなかった。
 その後の島田の活動はよく知らなかったが、最近では『創価学会』(新潮新書、2004)や『創価学会の実力』(朝日新聞社、2006)と創価学会関係の本を出している。
 また、今年、中沢新一批判の本も出しているという。内容は知らないが、おそらく、中沢は安泰なのに何故自分がとの思いがあるのではないだろうか。

 「鶴タブー」という言葉も未だにあるようだが、創価学会に関する本は、島田の著作以外にも、『別冊宝島 となりの創価学会』(1995)、朝日新聞アエラ編集部『創価学会解剖』(朝日文庫、1999)、『別冊宝島Real 池田大作なき後の創価学会』(2007)などいくつかあり、それを論じること自体は、近年では必ずしもタブーとは言い難いように思える。
 しかし、公明党についてはどうだろう。島田は本書で次のように述べている。
《公明党について、あるいは公明党とその支持母体である創価学会との関係について、研究はほとんど進んでいない。公明党について専門に研究している人間は皆無であり、学術論文が書かれることもない。以前なら、とくに言論出版妨害事件が起こるまでは、ジャーナリストや研究者が公明党について、比較的客観的な立場から論じることはあった。
 しかし、一九七〇年代以降は、公明党や創価学会のスキャンダルを暴こうとする、徹底して批判的な書物しか書かれなくなった。かつては、選挙戦で公明党と鍔迫り合いを演じてきた共産党や共産党系の研究者、ジャーナリストが公明党、創価学会の分析を進め、批判を展開していた。だが、共産党が退潮するなかで、そうした試みも少なくなってきた。》(p.10~11)
 そのとおりだと思う。Amazonで「公明党」で検索してみるとよい。古川利明、平野貞夫、乙骨正生の著作が上位に並ぶが、これらは 島田の言う「徹底して批判的な書物」 だろう。しかも、公明党イコール創価学会として、本質的には後者を批判しているのだろう。
 政党としての公明党を正面から論じているものとしては堀幸雄『公明党論―その行動と体質』(南窓社、1999)があるが、これは青木書店から1973年に刊行されたものの再刊で、内容的にはいささか古い。
 本書は、そのような公明党研究の現状を塗り替えるものとなるだろう。

 本書の帯には「公明党と創価学会は本当に一体なのか。」とある。
 島田は、両者は必ずしも一枚岩ではないことをわかりやすく説明していく。
 池田大作の「デージン」発言や、安倍晋三が首相就任直前に池田と会談していたことなどから、池田は公明党を通じて政治的に巨大な影響力を行使しているかのような印象がある。しかし、島田が論じるように、公明党の一挙一動を池田が指示しているという関係にはないことは確かなようだ。
 言論出版妨害事件を機に、政教分離が唱えられて、両者は別組織とされた。それまでは公明党の議員は創価学会の幹部を兼務しており、まさに公明党は学会政治部の色彩が強かったという。しかし、両者が別組織となったことが、公明党を躍進させる上で有利に働いたと、島田は、ライバルである共産党と比較して説明する。

《共産党の場合は、候補者と支持者は同じ組織に属しており、組織が一体となって選挙戦にあたる。それに対して、公明党と創価学会は組織が分離されており、自動的に一体となって活動を展開するわけではない。
 公明党の側は、直接創価学会の会員を動員することはできない。会員が動くのは、創価学会の組織の意向が定まったときで、個別の選挙でどの程度エネルギーをかけるかは、支援長などの判断で決まり、それが一般の会員に伝えられる。ワンクッションおかなければならない点で、共産党の方がはるかに効率的に思える。〔中略〕
 しかし、現状においては、公明党と創価学会が別組織であることが、かえってエネルギーを生むことに結びついている。創価学会の方は、公明党議員の選挙活動を担う代わりに、議員の活動を監視し、コントロールできるからである。
 〔中略〕公明党の議員は、個人で選挙の心配をすることがない代わりに、支援者である学会員の要望を実現していくという役割を負っている。学会員にとっては、公明党議員の活動があってこそ、自分たちの生活を充実させることができる。〔中略〕いつでも住民相談に応じてもらえる体制ができていることは、学会員の生活の安全、安心を保証している。
 こうした体制ができあがっているために、公明党の議員も、創価学会の会員も、自分たちの役割を果たすために懸命に活動しなければならない。それも、公明党と創価学会が組織としては対等で、そこに上下関係がないからである。
 共産党のような、あるいはかつての公明党、創価学会のような一体の組織では、議員と一般の支援者とは上下の関係になり、支援者は上の命令で動かされているという構図になってしまう。それでは、エネルギーが生まれないし、支援者が議員から厚く感謝され、ねぎらわれることもない。》(p.171~172)

 島田は、自民党と公明党との連立は、民主党と公明党が連立する場合に比べて、相性がよいと主張している。民主党と公明党はともに都市部を基盤としている。公明党が都市部において弱い自民党を支援することにより自民党は大勝することができたが、民主党との連立ではこのような効果を発揮することは難しいという。
 また、政策面でも、公明党は自民党より民主党に近い。しかし自民党と連携することにより、公明党はその独自性を発揮することができる。民主党との連携では、埋没しかねないという。それに、政権に参加することにより、その政策を実現することもできる。島田は、
《自民党も、連立が続くなかで、福祉政策にかんしては、公明党に依存するようになってきた。》(p.200)
とまで言う。

 終章で島田は、創価学会会員の多様化により、学会員の公明党支持が薄れる可能性、さらにポスト池田の問題にも触れ、公明党の将来の不透明性にも触れている。
 そして、劇場型政治の現代において、政治を盛り上げ、公明党の存在感を示すため、公明党はもっと自民党に対して異議申し立てをすべきだと説く。たとえ両党間で激しい議論が展開されても、もはや連立の枠組みが壊れることはあり得ない。2大政党制の中、そのような役割が公明党には求められていると島田は説く。

 いくつか異論もあるが、総じて冷静な筆致には好感が持てる。
 公明党の歴史と現状を把握するのにうってつけの好著。 
 島田には、ぜひ本格的な公明党史を書いていただきたいものだ。

『岸信介の回想』から(4)

2007-06-30 14:25:21 | 日本近現代史
承前

○吉田茂は憲法改正論者

《岸 〔中略〕立候補して当選したら、吉田さんが私を呼んで憲法調査会の会長をやれと言う。しかし私は獄中を通じて、新憲法はいかんと考え、改憲論者になっているけれど、その私に憲法調査会長をやれというのはどういう意味かと問うた。すると吉田さんは、お前の思うようにやったらいい、俺も今の憲法は気にくわないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかんと言う。それで私は会長を引き受けた。
〔中略〕
 岸 吉田さんは憲法改正論者だったんです。しかも占領軍がいる間に改正しないと、できなくなると言っていた。その意味で私に思うようにやれと言ったのですよ。
 矢次 吉田さんが憲法改正論者だったということは世間にあまり知られていない。》(p.102~103)


○鳩山一郎の後継総裁選(1956年12月)について

《――岸さんを推す勢力としては河野一郎のほか、佐藤栄作派、大麻唯男派といったグループで、それに対し石井光次郎のほうはもっぱら旧自由党系ですね。石橋湛山は混成軍ということなるんでしょうが、石橋がひょっと浮び上がってきたというのは・・・・・・。
 岸 それを工作した一番の中心は石田博英君でしょう。
 矢次 もっぱら石田君です。彼は石橋さんとは東洋経済とか、日本経済新聞とかの関係があって、突如として担ぎ出したわけだ。
 岸 石田君は三木武夫、松村謙三さんらを主力として石橋さんを担いだ。
〔中略〕
 岸 石井さんを支持した旧自由党系のなかでも、たとえば北海道出身の篠田弘作君などの緒方さん直系の石井派ですが、第一回の選挙で一位のものを決戦では支持すべきだ、といって二回目は私を支持してくれた。
 ――旧自由党系は分裂したわけですね。
 岸 そう。石井首脳部と石橋首脳部との間には、二、三位の連携工作があったわけだけれど、旧自由党系は池田勇人君と弟の派が二対一ぐらいで割れたんじゃなかろうか。それで池田派は二回目に石橋さんを応援したわけだ。》(p.156~157)


○石橋湛山

《――岸さんの石橋湛山観はいかがですか。
 岸 まあ石橋さんの経済に対する発言は、日本経済の進展の上に功績があったと思いますが、人柄としては、私は三木武吉に感心していたようなものは感じなかったし、そうかといって、松村さんに対するような反発する気持もない。
 矢次 石橋さんは淡々とした人で、民間人であったけれど党人ではない。政治的、権力的な欲のない人で、一言で言うとジャーナリストです。》(p.158)


○小選挙区制

《岸 私はね、小選挙区制を、自民党が国会で三分の二の勢力を確保するという目標で考えたのではない。そもそも私は二大政党論者で、政党が小さく分裂するというのは議会制民主主義を行っていく上において望ましくはない。ところが小選挙区制にすれば二大政党になる傾向が助長されるんです。というのは仮に小選挙区制になれば、自民党は現役優先にせざるを得ないから、若い人で出ようとする人は自民党から出られなくなる。そうするとね、社会党は人物がいないから、彼らは社会党に入りますよ(笑)。その結果社会党の性格は変ってくるし、二大政党として、政権を民主的に交替できる政党になると思う。
 それと私の体験からいっても、同じ選挙区で、同じ党に属する兄弟が争うなどというのも意味をなさない(笑)。〔中略〕結果として最初は自民党が有利かもしれないが、ある年限をもってして、社会党が政権交替能力のある政党になるには小選挙区制でしかあり得ない。今の中選挙区では社会党は何年やっても伸びっこない。だから私は小選挙区制にすることが、日本の政党政治を健全に発展させる基礎であると信じているんです。
 ――社会党育成論ですね。少し後に、石田博英さんが今日のような調子では何年後かに、社会党が第一党になるという予見を『中央公論』だったかに書いたことがありますが。
 岸 私は逆だ。今では社会党の中でも、私の考えのように小選挙区制を採用しなければだめだという議論をする人がいる。亡くなった片山哲さんもそうだった。私が小選挙区をやろうじゃないかと言ったら、憲法改正をやらないということをはっきりすれば小選挙区制をやってもよい、という話をされたことがある。》(p.161~162)


○浅沼稲次郎

《――浅沼さんについての感想はどうですか。
 矢次 岸さんとしては幹事長、書記長という関係だろうな。個人的に知っているという点ではぼくのほうだ、大正十年からだからね。
 岸 浅沼君は社会党を代表するし、私は民主党、自民党の幹事長ということですよ。ただ私の感じでは磊落そうでなかなか神経が細かかったと思いますよ。風貌や態度からすれば常識的な人でしょう。
 矢次 日本の社会主義運動には二つあるんです。大学でいうと東大の新人会をスタートにする流れ、河上、麻生、赤松、三輪。もう一つは早稲田の建設者同盟の浅沼、三宅。そのなかで浅沼だけ浮きでる理由がひとつあるけれども、東大派、早稲田派との長い歴史のなかで比較的うまくいった時代は麻生。麻生が親方で浅沼が番頭、三輪が世話女房、河上は賢夫人、このチームワークが昔の社会大衆党なんだ。麻生が死んでばらばらになる。三輪・浅沼のコンビは両方とも周密、細心で情が深い。浅沼がアメリカ帝国主義は日中両国の共同の敵とかどえらいことを言うのもぼくらは理解できる点があるけれども、とにかく、すっとんきょうなことを言う。そこが憎めない。〝沼〟さん、と簡単な言葉でだれからも好かれる。彼は理論的政治家ではなくて情緒的政治家ですよ。
 岸 そのとおりだ。浅沼君を批評するのに情緒的政治家というのは名言ですよ。》(p.193~194)

 さらに「共同の敵」発言について。
《矢次 しかしあの時の中共の雰囲気は、浅沼をしてああいうことを言わしめるような厳しいものだったようだ。浅沼君の演説を聞いた毎日新聞の随行記者が私の所で報告したことがあるが、その話では、中共側は激しく岸内閣を批判するのはもちろんだが、社会党に対してもかなり厳しい批判を加えたんだね。それに浅沼が社会民主主義の立場で話をしているというのが変になまぬるい印象を与えた。それでは少し強いことを言わなければいかんというので、なにげなく浅沼がポカッと発言したというのが真相で、深く思うところがあっての発言ではない。だからなにげなく投げたのが爆弾だったから、本人もびっくりした(笑)。》(p.216)


○清瀬一郎

《矢次 清瀬議長は警官導入の前、十七日に党籍を離れている。彼は前々から議長は党籍を離脱すべきだという原則論をもっていましたね。それでこれがチャンスだというので自民党から離脱したけれど、そうしないと警官導入が党から指図を受けてやったと誤解されかねない。議長の権威に傷がつく、清瀬という人はそう思ったでしょう。
 岸 あの人はそういう人ですよ。
 矢次 清瀬一郎は、戦前だれもやらないような志賀義雄の共産党事件の弁護を引き受けてみたりする、昔流の本当の自由主義者なんだ。》(p.241)


○安保闘争について

《――〔中略〕全学連問題についてはどういうふうにお考えでしたか。
 矢次 全学連はマスコミでは大きく書かれたけれども、政府が当面したものとしては大きなものではなかったんじゃないかな。
 岸 そうね。全学連が安保改定阻止、反対の中心勢力とは考えていなかった。
 ――羽田事件もたいしたものではなかったという感じですか。
 岸 そうですね。たいしたことではなかった。》(p.236~237)

《私は樺美智子さんが亡くなったということは、単純な一人の人間が何かの関係で死んだということではなしに、警備力の最終的責任者として、デモを規則正しく行なわしめることができなかったという責任を感じました。だから警備ということを考えて、アイクの日本訪問を断ったんですが、あの頃警察官はほんとうに疲れ果てていた。機動隊の数も少なく、装備も悪いし、訓練もしていない。近頃のデモをみると、実にうまく暴れ出させないよう自然に流してやっているし、国賓が来ても、飛行場からヘリコプターで連れてくるでしょう。当時はまずそういうことは考えなかったから、陛下自身がお迎えに行かなければいけない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理がほんとうに腹を切っても相済まない。それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って断ったんです。》(p.242)

《岸 自衛隊を出すべしという議論がありましたね、でもあの騒ぎは内乱でも革命でもないし、それに自衛隊に発泡させれば強いけれど、警備ということになれば警官の方が専門家だから、それはだめだ。むしろ出動させれば自衛隊の権威を失墜せしめるだけだ、赤城君はそういう意見でしたよ。
 少し極端な言い方だけど、私に言わせれば、一部の者が国会の周りだけを取り巻いてデモっているだけで、国民の大部分は安保改定に関心をもっていない。その証拠に国会から二キロと離れていない銀座通りでは、いつものように若い男女が歩いているし、後楽園では何万人の人が野球を見ている。日本が内乱的な騒擾だと受けとった外国もあるようだがこんな内乱や革命があり得るわけがない。》(p.243)
 自衛隊の出動を要請したのは岸自身もまたそうではないのだろうか。なんだか人ごとのような言い方だ。


○岸の後継総裁選(1960年7月)について

《――〔中略〕岸さんが池田を推された理由は何ですか。
 岸 私は何といっても三人のうちでは、池田君が総理として適任だと思った。
 矢次 そういってしまうとそのとおりだが。
 岸 過去の因縁からいえば、石井さんは岸内閣の主流派の一部、藤山さんは岸さん自身が連れてきたということでかなり義理もある関係なんですが。
 岸 安保の問題があります。藤山君には今回は立つな、自重して次の機会を待て、と。なにしろ安保の外務大臣だし、私が辞めた理由とかさなることも話したんだけれどもね。〔中略〕
 矢次 岸さんが藤山さんをとめる前に川島幹事長がかなり厳しくとめている。岸さんが一番藤山さんから恨まれているのは、岸派から藤山派に行っていた者を選挙の時に全員引き揚げさせて、池田派に流すべしという措置をとったことだな。川島がやったことかもしれないが。
 岸 いや、私がやったんだ。川島君はぐずぐずしていたけれども、私の派で、池田のほかに藤山君、大野君のところへ行ったのを、いよいよ最後の時に全部引き揚げて、池田をやれと言ったんだ。それで藤山君にも大野君にもひどく恨まれたんだ。
 矢次 総裁公選で負けた晩、藤山さんが私の飲んでいるところへ来て岸さんは冷たいよ、としみじみ言う。私は弱ってしまって、しかし藤山さん、それは岸さんが冷たいんじゃなくて政治というものの非情さじゃないか、と言ったことを覚えている。》(p.245)


○佐藤内閣、三木外相

《岸 弟のことを人事の佐藤というが、これは大嘘で、あのくらい人事のまずいヤツはいないよ(笑)。
 たとえば三木君を外務大臣にしたでしょう。私は反対したんだ。他の大臣ならいいが、日米安保条約改定の最後の決定の時に、彼は議場を退席した男だ、アメリカはそれを知っている。〔中略〕そうしたら、弟は、兄さんの言うことは、当時の党内の派閥抗争からきている問題であって、そういうことにいつまでもこだわっているのはまずい、と言ってね。ところが半年も経たないうちに、三木君の外務大臣に自分で反対しだした。そらみろというんですよ(笑)。》(p.252)


○椎名裁定

《岸 〔中略〕椎名君は椎名裁定で三木内閣をつくったけれども、その椎名君自身が一年経つか経たないかで、三木おろしの先頭に立ったように、あの裁定はおかしなものだった。
 矢次 その通りで、椎名君は個人的に三木という人間を知らないでしょう。
 岸 私の想像ですが、椎名君が三木君を知っていたかどうかというよりも、椎名君は福田君に対して好意をもっていなかったことが、あの裁定になったんだと思う。あの時はだれが考えても総理は福田君で、まだ大平君ということでもなかった。
 矢次 無遠慮に言うと、川島、椎名、福田はみなかつての岸派で、椎名にすれば、自分こそが商工省、満州時代を通じて岸さんの弟分だと思っているから、その中から岸さんの跡を継いだのが福田だということについて、不満をもっていた。その長年の不満が積り積って、反福田ということになったんだね。》(p.253~254)

続く

『岸信介の回想』から(3)

2007-06-28 23:59:35 | 日本近現代史
承前

○日本再建連盟、社会党入党を図る

 岸は占領軍にA級戦犯として捕らえられるが、起訴されないまま、東京裁判の判決後に出所する。公職追放中であったため政治には参加できない。1951年に三好英之ら戦中からの岸系の政治家が「新日本政治経済研究会」を結成し、これは翌年、文化団体「日本再建連盟」に改組される。「岸新党」の母胎と見られた。
《岸 〔中略〕その年の八月か九月に解散があったんです。私は反対したんだけれど、再建連盟に属している連中が立候補するという。それには単純な国民運動ではいけない、政治団体にしなければならんという議論が出てきた。私はその説には反対で、もう少し国民運動として根を生やしてやるべきだと言ったのだが、予期しない解散のために、再建連盟が政治結社になってしまった。ところが選挙の結果は、私はもちろん立候補しなかったけれど、武智君だけが当選して、三好君を初めみな落ちてしまった。
 私は三輪君と話をして社会党へ入れてくれないかという話をしたことがあるよ。
 ――岸さんがですか。
 岸 うん。三輪君はまじめに考えて、まじめに考えてというのは、私は社会党といっても従来の既成政党にあきたらない新しい政党をつくらなきゃいかんと考えていた。三輪君もいろいろ社会党のほうに当ったんですよ。ところがね、岸を入れるわけにはいかんという結論だったらしい。》(p.99)
 武智君とは武智勇記。
 三輪君とは三輪寿壮。社会党右派の長老格。大政翼賛会、産業報国会の指導部に加わり、戦後1950年まで公職追放を受けていた。


○二大政党論

 保守合同に関連して。
《岸 私は、民主政治をうまく運営していくためにはやはり二大政党制が一番望ましいと思っていた。ちょうどイギリスの保守党と労働党みたいにね。ところが当時の日本では、保守党同士が選挙で喧嘩などしていて、それが人身攻撃だったりする。政治の本筋でないことを闘っているわけで、これは政治を毒するものだ。だから政策論争というものを主にして、国民がいずれの政党を支持するかということを決めるには二大政党が一番望ましいので、それが私の政治に対する基本的な考え方だった。
 〔中略〕自由党や改進党のあり方に批判的であったことはもちろんですが、本当に脱皮した保守政党が二大政党の一つとしていかにあるべきかについてはずっと考え続けていた。一方は社会主義政党はアンチ共産主義でなければならず、しかも資本主義の考え方とは違った政党、まあ現在の民社党のような政党が望ましい。そうすればこの二大政党によって政権が民主的にスムーズに交替できるだろう。私は今でもそう思っているんですがね。》(p.107~108)


○重光葵

《岸 日本再建連盟を起すときに、その総裁に重光になってもらうということで、私との間でちゃんと話ができていたんだ。それにもかかわらず大麻なんかに引っ張られて改進党の総裁になったんでね。あのときの重光の行動はちょっと理解できなかったですよ。》(p.99)
《矢次 あの時は私と安岡正篤が、絶対に政界に出てはいかん、出るならば自ずから時期があるということを、重光さんの家に言いに行ったんだが、別室には綾部健太郎と大麻唯男が控えていて、私らが帰るとすぐ重光さんを説き伏せたという経緯がある。だからこっちにも重光はけしからんという感情がずっと残ったんだ。
 その後外務大臣になったり、政治活動をいろいろしたけれど、政治家としての経歴は彼にとってプラスになっているとはいえない。綾部は同郷だし、鎌倉から重光を引っ張り出した責任者だから、自らの選挙地盤を譲って重光を押し出し、終始助けたわけだけど、その綾部が重光の理解力のなさ、もののわからなさをしばしばこぼしていた。私も、戦前の重光外相の経歴と、戦後、巣鴨から出てきて重光のやったことを比べると、人間が違ったような印象を受けましたね。》(p.116)


○三木武吉

《――民主党あるいは鳩山内閣ができる段階で岸さんのもとで一番活躍したのは誰ですか。
 矢次 三木武吉だろうな。
 岸 三木さんは相談相手ではあるけれども、私より先輩です。
 矢次 けれども、一時文句を言っていたことがあるが、広い意味の岸派だった。私は三木武吉が東京市会議員の時から知っているから、三木が岸さんに対してもっていた感情が強かったり、弱かったりする時代をずっとみているけれども、初め三木は官僚嫌いで、岸さんは好かれていなかった。しかし後には、吉田は歴史的役割は終わった。鳩山は健康がだめだ、そのあと、俺がやるわけにはゆかないよ、俺はドンブリ飯みたいな男だとか、床の間に置ける人間と置けない人間がいて、自分はその器ではないし柄でもないとよく言っていた。彼とはずいぶん思い出に残る話をしているけれど、結局、煎じ詰めると、岸君しかいないということを私は三木から聞いている。彼は役人嫌いだったが、最後は岸さんの支持者になったんじゃないかと思う。
 岸 亡くなる前には、あたかも親父が息子に接するような仕方で遇してくれましたよ。》(p.121)


○大野伴睦

《――いま、お話に出た大野伴睦という人はどうですか。
 岸 川島だとか益谷、林譲治なんかに一種共通したものがあると同時に特殊なものがある。伴睦さんが一番若くて院外団をやっていたから筋金もあるし、ある意味では雑草のような趣きがあったね。
 矢次 私が文春に書いて怒られたことがある。岸さん、石井さんが総裁選挙やったときの話で、「肥担桶に金のたがはめても床の間には置けない」と書いた。匿名で書いたんだけれども伴睦が読んで怒ったね。
 岸 しかし、肥担桶ちゅうのは、ずいぶんはやった。》(p.126)
 原文では「たが」に傍点。


○河野一郎、松村謙三

《岸 私はそれまで河野君という人をあまり知らなかったんだ。それでその二日間いろいろ話をしてみると、世間ではずいぶん押しの強い強心臓の男のようにいうけれど、非常に神経質で気の小さい人間なんです。世の中には偽善者というのがあるけれど、河野君は悪人ではないのに妙な格好をして、どちらかというと偽悪者だ。
 矢次 一見すると傲岸不遜だけれど、小心翼々のところがある。傲慢のところしかつきあっていない人は反感をもつし、小心なところをみると違った印象をもつ。もっともあのくらいの年になると、性格は三つ四つと分裂してもおかしくないんだが・・・・・・(笑)。
 岸 私は性格的に松村謙三さんとはあまり合わなくてね、松村さんもそう思われたでしょうが、私もどうもぴたりこなかった。ところが、私が総理の時に、なんかの問題で新聞記者の諸君がやってきて、河野君のことを非難したんで、私はこう言ってやったことがある。君たちは河野君のことを悪くいうけれども、彼はそんな男じゃないよ。悪人の巨頭みたいにいうが、根は正直で、むしろ気の小さい男だ。政界には諸君からみると、まるで聖人君子みたいに見える人がいるが、実際は腹黒くて、いやな人間がおるよ、とね。そうしたら記者の中ですぐ松村さんのところへ飛んで行って、岸がこういうことを言っていた、と報告したのがいたんだ(笑)。
 矢次 岸さんと松村さんのことを考えてみると、昭和十五年の新体制運動の頃、岸さんは軍部の支持があったけれど、片方は民政党で政党解消に追いつめられた。いろんなものがからんでいるんだろうが、松村さんはその頃から岸さんには相当反感をもっていたな。
 ――それは民主党をつくるときに、松村さんあたりから反発される理由になってくるわけですね。それ以降も対立関係にあるわけですね。
 岸 やっぱり亡くなるまで・・・・・・。いまでも松村さんの系統だった三木にしたって古井、宇都宮にしたって、みんな松村的だな。》(p.134~135)
 三木はもちろん三木武夫。古井は古井喜実のことだろうか。宇都宮は宇都宮徳馬だろう。


○高野実

《矢次 社会党の統一については私も関係していたからよくわかるけど、三輪寿壮も西尾末広も保守合同については横目で見ていた。それで統一問題について一番強いショックを与えたのは高野実なんだ。彼が保守党の混乱に乗じて、社会党が重光を総理候補として擁立させようとした。その時に三輪君が、かくの如き権謀術数を社会主義政党が使うことは恐るべきことだ、断じて阻止しなければならん、それには社会党が一緒になっていなければならないと言って、頑迷といわれた西尾君を口説いたわけです。共産主義者が権力闘争に手段を選ばないということは心得ていたいたけれど、高野君が死んでから、秘密党員だったことがわかって、一層その感を強くしたね。》(p.140~141)
 秘密党員とは日共のそれか。


○緒方竹虎

《岸 緒方さんは私が政界に復帰してはじめてつきあいができたのでその前は知らないですね。でも私が戦後あった政治家では立派な政治家として印象に残っていますね。一度総理になって三年か四年、日本の政治を担当してもらいたかった人の一人だろうなあ。重光氏には総理になってもらおうとは思わないがね、いや、ほんとに(笑)。だけど緒方さんにはそう思うな。
 ――あのとき亡くならなかったらその可能性があったということですか。
 岸 あった。ありました。》(p.142)


○日ソ関係

《――保守合同の時に、歯舞、色丹プラス南千島、国後、択捉の無条件返還、そのほかは国際会議によって解決するという両党の了解ができた。最初の全権委員の松本俊一さんはその回想録『モスクワにかける虹』で、これで領土問題で枠がはまってやりにくくなったと書いておりますが、旧自由党系の反対の姿勢というか、日ソ交渉に対してものすごく消極的だというのはどういう意味なんでしょうか。
 岸 吉田さん自身が消極的だったですね。これはサンフランシスコ条約以来の考えなんでしょうが、それと鳩山さんが積極的だから、反鳩山の意味において反対という二つの側面があった。
 ――松本さんによれば、首相の鳩山さんが積極的で、外務大臣が消極的なのはずいぶん妙なことであるということで、重光については歯切れの悪いことを書いていますが、重光が消極的だというのはどういうことですか。
 岸 領土問題についてソ連は譲らない、しかも枠をはめられたんでは交渉しても意味をなさないという考えだったろうと思う。とにかく日ソ交渉を成立せしめるには、領土問題に関する日本の主張を捨てろという考えを重光君は最後に唱えていますからね。
 ――これも松本さんに言わせると、重光が突如軟論に転ずるのは理解しがたいところだ、というわけですね。
 矢次 あの前後の重光という人はよくわからんね。》(p.146~147)

《――交渉再開になり、重光全権がモスクワへ行き、初めは強いことを言って周りを唖然とさせ、最後にはもうこれでだめだから、歯舞、色丹二島返還だけで条約を結ぼうというふうに急変し、それを請訓もしないで調印してしまおうというので、皆大変あわてたということですが、日本国内でも相当びっくりされたんじゃないですか。
 岸 結局、二島返還ということでソ連から請訓してきて、これには皆びっくりした。その時絶対いかんという意見があり、一方割合に軟論を唱えたのが河野君です。まあ軟論というよりも、当時の日本の実力では、ソ連は歯舞、色丹しか返さんぞ、だからとりあえず二島だけとって、あの近海で漁業するだけで得である、ということですね。ところが党内では、絶対に四島一括返還でなければならんという意見が多くて、次に鳩山さんが行くについてもですよ、その点は絶対譲らないということを党議で決定しろということだった。
 ――ただ平和条約を結ぶという方式をとれば、領土問題でデッドロックに乗り上げることは、この時点でわかるわけで、最終的にに共同宣言方式でやるということになったけれど、その点党内ではあくまでも平和条約方式でいけという議論もあったわけですか。
 岸 ありましたね。
 ――それでは交渉が決裂しますね。
 岸 決裂させるのが目的で、どちらかというと旧吉田派の連中のなかにその議論があった。
 ――平和条約も結ばないし、共同宣言もやらないというと、どういうことになるか・・・・・・。
 岸 形式上戦争状態が続くけれども、別に戦争を実際にやるというわけではないのだから、もう少し時期を稼いで、国際情勢の変化を待ってやったほうがいいという議論なんだ。ただ将来に対する見通しがきちんとしていたわけではない。それと実際的な外交上の議論というよりも、根に反鳩山の感情がからんでいるんですよ。》(p.148~149)

続く

『岸信介の回想』から(2)

2007-06-25 23:30:24 | 日本近現代史
承前

○美濃部洋次、椎名悦三郎

 東條内閣で商工大臣に就任してからの話。
《――商工省の人事の刷新を相当厳しくおやりになったということですが・・・・・・。
 岸 大臣になってすぐ、私は局長以上を集めまして、今は非常時である、自分は死を決して大臣を引き受けた、それで私の先輩もあるいは同僚の人も、私のそういう決意に対して助けてやろうという気持はあるだろうけれど、私の方からいえば、どうしても先輩や同僚には遠慮が出てしまう、だから自分がそう思う人には全部やめてもらって、後輩だけで、遠慮なく命令できる体制をつくりたい、こう言ったわけです。それで、先輩二人に同僚三人、全部辞めてもらった。
 ――岸さんは若くして大臣になったから、そういうことになったのでしょうね。
 岸 そう、私は四十五歳だった。
 矢次 あの頃、四十代で閣僚になったのは、岸さんと、井野碩哉、賀屋興宣の三人だけでしょう。
 ――人事刷新という面からすれば慣例じゃないんですか。
 岸 慣例じゃないんだよ。それだけに表面的には非常時なんだと。一番の理由は椎名悦三郎を次官にしたかった(笑)。椎名君を次官に抜擢すると同時に、思う存分やってもらいたいということだった。椎名君は、その後私が軍需省の次官になっていったときも総動員局長になってやってもらった。
 矢次 当時の岸派の四天王といわれたグループの一人だよ。
 ――四天王とはだれなんですか。
 岸 椎名、神田、美濃部、もう一人は・・・・・・。
 矢次 小金、途中で脱落したんだよ。みんな官僚でね、商工次官あたりからはっきり岸さんのグループだった。
〔中略〕
 岸 〔中略〕官僚として優秀なのは、やっぱり美濃部だね。
 矢次 長生きすれば、国会に出ているはずだ。早く死んだからね。都知事になった美濃部亮吉とはいとこ同士だ。亮吉は洋次の親爺の兄貴の子供だからね。
 岸 官僚らしからざる男で、政治家的なんだよ。なかなか勉強しておったし、最も信頼しておった官僚だった。機械局長やらしたり、繊維局長をまかしても間違いはなかった。
 ――将来は大臣になるだろうな、とお考えになったこともありますか。
 岸 うん、その意味では椎名君だった。あれは事務官よりは上になるほど、その特色をあらわした。事務官じゃ、有能な事務官じゃない(笑)。局長にしてみるとなかなか部下の使い方もうまいし、ユーモアもあってね。総理にするとおもしろいところがあったと思うんだな。
〔中略〕
 ――さっき出ました事務官らしいとか、らしからぬというのはどういうところでしょう。
 岸 事務官として有能といえば、やっぱり法律、その関係法律なんかも心得ていて文章をつくらしてもきちんと抜け目のないように、理論的にできる、それも速やかにできる、そういう人物ということになる。
 矢次 行政官という点では椎名君より美濃部のほうが上でしょう。椎名というのはときどき情緒的なところがある。踊りも踊るし歌もうたう。感覚にまかせてズバッと相手の肺腑をつくようなところがある。美濃部君は物を合理的に、論理的に言うしね。
 岸 官僚としてやっぱり理想的な一人といえば美濃部だろうね。》(p.51~52)


○星野直樹

 東條内閣の内閣書記官長を星野直樹にしたことについて。
《矢次 軍務局長のところで作った組閣名簿のなかでは、岸さんは内閣書記官長になっていた。それをもって東條さんのところへ行ったけれども、軍務局長は陸軍大臣の幕僚長ではあるが、内閣総理大臣の幕僚ではないという東條流の理屈で、おまえは黙っていろということで、握ったまま追い出されたという経緯があります。満州国の星野を書記官長、組閣参謀長にするという。その時に武藤が東條のところにねじこんで、陸軍省としては絶対に星野は反対だと言ったんです。これが後に武藤が追い出される一つの原因になっているんだけれども、東條さんは、お前の言うように星野が書記官長としてだめだということがわかったら、その時はお前の言ったとおり入れ替える。それまではいったん決めたことだから、俺にまかせろ、ということだった。それで結局星野を書記官長にした。しかし星野書記官長反対論が各方面から起ったんです。その最大の反対者として出てくるのは徳富蘇峰なんです。
 徳富蘇峰の家の隣に偶然、星野のお父さんが住んでいて、少年星野直樹はおんぶをしてもらったことがあるそうです。ところが星野のお父さんはクリスチャンで、混血でしょう。星野家は日本人ではない。そこで、この民族大変のときに。血純血ならざるものをこの衝に当てるべからず、という激しい手紙を蘇峰さんが東條さんに出したということがある。》(p.49~50)
 最近敗戦後の日記が公刊されて蘇峰を再評価する動きがあるらしいが、蘇峰とはこの程度の人物である。


○中野正剛

《――中野正剛が昭和十七年、岸さんと戦時統制経済についてだいぶ激論したということですが・・・・・・。
 岸 記憶があります。要するに中野君は自由経済論者なんだ。私も本来は自由経済論者で、恒久的な統制経済論者ではない。恒久的な統制経済をやろうとすれば、共産主義の国と同じで、そういう全体主義的なものは私はとらない。ただ、戦時経済を一時的に運営するには国が統率力をもってやらなければならないというのが私の議論で、それに中野さんは反対した。私の印象では、官僚の統制はけしからんというのですね。》(p.61)


○軍需次官、遠藤三郎、大西瀧治郎

《矢次 航空生産の遠藤三郎、海軍からきた大西滝治郎、この二人は手に負えなかったでしょう。
 岸 大西にしろ遠藤にしろ、相当の侍だったからね。しかし戦後、遠藤がどうしてああなったかわからない。大西君は腹を切るところまでいったから立派だったけれど・・・・・・。》(p.63)
 後の箇所で、遠藤は左傾化した(岸)、新北京派になった(矢次)と述べている。


○『細川日記』の記述、政治資金

《――最近岸さんはよく論評されますが、その際いつも細川護貞氏の『細川日記』に、伊沢多喜男の情報として、「岸は在任中数千万円、少し誇大に云へば億を以て数へる金を受取りたる由。而もその参謀は皆鮎川にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因であつた」という記述が引用されていますが、この点いかがですか。
 岸 どういう根拠で言っているのか、訳がわからないですね。東條さんとの関係においても、金銭的に東條さんを援助したこともぜんぜんありませんし、また東條さんから、金をもらったこともありませんしね。
 戦後のような政治資金として、大臣になったらいろんなところに金をくれてやるということはなかった。飯を食うとかいうくらいの金は自分で出しているしほんとうのことを言うと、ずいぶんご馳走になったほうが多いんでね。
 矢次 代議士だって今の代議士のようにガツガツしていないね。
 岸 私が懇意だった三好英之君は米子の大金持、一里くらいの道を他人の土地に踏み込まずに中学校へ行ったという。その彼が死んだときは井戸塀になってしまって全部財産をつぶしてしまった。それが政治というものだった。最近は若いのが二回くらい代議士をやると、大きな家をつくったりするが、昔はまるで違うんだ。いまは国会対策や選挙で、金が要りますが、そういう金はあの当時はほとんど必要なかったですよ。いろんな人と会合したり、その人と同志として一緒にやるという場合特に金が必要ということはなかったね。
 ――もうひとつ岸さんを論じる場合いつも出てくるのは、政治資金は濾過器をとおったきれいなものを受けとらなければならない、と岸さんが言ったという点ですが。
 岸 利権に結びついた金を政治資金としてもらってはいけない、と若いのには言っているんです。政治資金は要るんだから、その場合にはきれいな金でなければいけない。ところが戦後はたとえばすぐ現金取引をやるから、これはいかんと私は言うんです。平生この人の世話をしているということから、こっちが要る場合に、あなたのほうで選挙費の一部に使ってください、と献金されるなら受けろ。これは利権と結びついていないんだ。それを現金取引のようなことをするから、いけない。戦前はそうじゃない。われわれも長い間役人をしていて、いろんな事業の世話をしたということがあり、いざ選挙に出る場合、世話した人が、お世話になったし、お入用でしょうからといって、お金を出してくれる。それならもらいなさいと私は言っている。そういう意味においてきれいな金でなけりゃいけない。》(p.66~67)


○東條との反目

《――昭和十九年、サイパン陥落が近づいてくるという状況になる前は、東條さんとはいい関係だったわけですか。
 岸 それがだんだん悪くなっていったのは、東條さんは軍需大臣だけれども、軍需省にはほとんど来ずに、私にまかせてやっておったわけです。ところがね、いろんなところで、なかなか計画通りの生産ができない。石炭が思うように出ないとか、あるいは製鉄の量が不足であるとか、造船が予定どおりにゆかないという事態がどんどん起ってきた。それに対して一番やかましい議論になったのは、軍需省内において鉄だけについて、次官のほかに鉄管理の大臣をつくるといって、藤原銀次郎さんをそれに当てたんです。私はその時に辞意を表した。というのは一つの役所に大臣の資格をもった者が二人も三人もいるということでは、とてもやっていけない。藤原という人が適任とお考えなら、藤原さんを軍需次官兼国務大臣になさい。私は辞めさせていただきますという申し出をしたのが、そもそも東條さんと意見が衝突するはじめの段階ですよ。
 ――東條さんはそれに対してどうお考えでしたか。
 岸 お前はわれわれと一緒に開戦の際に陛下の前で、将来の軍需生産に対しては全力をあげて、ご奉公申しあげるということをお答え申しあげているじゃないか。それを途中で逃げ出すとはけしからんというわけです。それで私は、そうおっしゃってる途中で逃げ出す訳ではなく、たくさんの人を使ってやる役所の仕事は責任関係が明確でないとかえって混乱を招く。そういうことをすることによって結果は逆になると思う。しかし総理が御親任になる人が全責任をもってやるということは当然のことで、それでおやりになったらいいじゃありませんかと答えたのですが、それがどうしても許されなかった。ところがこんどは半年も経たないうちに、私に辞めろという話になったわけですよ。
 ――昭和十九年(一九四四)の七月に東條内閣が倒れた一つのきっかけが、岸さんの単独辞職拒否によるものだったわけですが、岸さんは最終的にはどういうことから東條とうまくいかなくなったのですか。
 岸 私が東條さんと最終的に意見が合わなくなったのは、要するにサイパンを失ったら、日本はもう戦争はできない、という私の意見に対して、東條さんは反対で、そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるかというわけです。しかし実際にサイパンが陥落したあとでは、B29の本土への爆撃が頻繁に行なわれて、軍需生産が計画通りできなくなるし、私は軍需次官としての責任は全うできなくなった。だからもうできるだけ早く終戦する以外に道はないと思ったけれど、軍はなお沖縄決戦までもっていってしまったわけです。
 矢次 岸さんが自覚していたかどうかは別だけれど、昭和十九年に入ると、政界の表には出ないものの、反東條の気運は相当強くなっていましたね。山崎達之輔、三好英之、船田中という親軍派と思われた代議士のなかから、サイパン陥落以後東條ではいかんという雰囲気が高まって、有志代議士会を開いて、当時としては大胆な東條内閣不信任の決議をやっている。》(p.68~69)

 辞職を拒む岸はずいぶん憲兵につけ回されたという。
《岸 最後には大臣の官邸に四方憲兵隊長がやってきて、軍刀を立てて、東條総理大臣が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか、それを総理の意見に反対するとは何事かという。それで私は、黙れ兵隊! お前のようなことを言う者がいるから、東條さんはこの頃評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力をもっているのは天皇陛下だけではないか。それを東條さん本人が言うのならともかく、お前たちのようなわけのわからない兵隊が言うとは何事だ、下がれ! と言ったら、覚えておれとかいって出て行った。その後は私の家のに出入りする人を憲兵隊がみな調べるようになったですね。
 矢次 それは岸さんだけではなく、現職の大臣の家の電話は盗聴されるという始末です。
 岸 私の家の前には盗聴どころか公然と憲兵のボックスを作った。で、ちっとも人が来なくなってしまったよ(笑)。》(p.69~70)


○護国同志会、安倍寛

《岸 護国同志会は委員長を井野君がやったけれど、実際に動かしていたのは船田中君です。私は国会に議席をもっていなかったから表面に出ず、いわば黒幕的な存在で、いろんな相談を受けていたのです。しかし、意欲としては、岸新党といわれる一つの政治的な考えで護国同志会が結束していたことは事実だった。
 ――護国同志会では、ずいぶんいろんな方がおり、岸さんと関係の深い方が多いですね。中谷武世さんという人は。
 岸 あれは大学の興国同志会からの同志でね。中谷君が代議士に出たのは翼賛選挙のときからだ。もともと北一輝や大川周明派、とくに大川派だな。ずっとつきあっているけれども彼は一種の思想運動をやっていたし、護国同志会では活動家だったですよ。
 ――赤城さんも入るのですか、その関係は。
 岸 あれは満州へ行く少し前ぐらいに、十年頃かな、議席をもっていたと思う。それから安倍寛がいた。彼は安倍晋太郎の親父で、三木にしても赤城にしても彼の子分だよ。この安倍寛は〝今松陰〟と称された気骨のある人で、ただ結核で五十くらいで亡くなった。とにかく三木、赤城は彼の子分だ。だから三木武夫が総理のときもわざわざ安倍の親父の墓参りまでしてくれたよ。
 ――船田中さんがここで出てくるわけですが、例の商工委員の関係で?
 岸 あれは高等学校のときから、剣道の大家でだいぶ頭を叩かれた(笑)。政界の方では船田のほうがずっと先輩だ。
〔中略〕
 ――船田さんとは戦後のご関係は?
 岸 戦後はあんまりつきあいはなかった。
 ――小山亮、この人は?
 岸 小山は商工次官時代までは知らない。その後は代議士、社会党から・・・・・・。それから汽船会社をやってたな。この人の一番の傑作は戦時中に学生援護会というのを作ったことだ。
 ――護国同志会の中に三宅正一、川俣清音といった人がいたし、他にも岸さんは旧社会大衆党の人たちとも交渉があったようで、ちょっと意外なのですが・・・・・・。
 岸 他の人たちもびっくりしていたけれど、ほとんど私が商工大臣の時、議会の商工委員だった人です。それにしても商工省出身の一官僚が、そういう与野党の代議士諸君と幅広い交際をしているというのは、やはり変り者だったのでしょう(笑)。
 矢次 それとだね、当時は社会主義者といっても今のように人間的に偏狭ではなく、イデオロギーは違っても、時局認識の上でも、気持の上でも共通性がありましたよ。》(p.71~72)

続く

『岸信介の回想』から(1)

2007-06-24 18:36:35 | 日本近現代史
 岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)を読んだ。

 岸信介(1896-1987)は、言わずとしれた元首相であり、安倍現首相の祖父。
 矢次一夫(やつぎ・かずお)(1899-1983)は政界の「浪人」、「昭和最大の怪物」と称される、一言で説明しがたい人物。
 伊藤隆(1932-)は、当時東大教授。昭和史研究者。
 本書は、雑誌『中央公論』に連載された、岸及び矢次へのインタビューが元になっている。岸の回顧録的な書物はこれが初めてだったらしい。
 官僚時代の書簡、商工大臣時代の演説、巣鴨での日記などの資料も収録されている。
 興味深い箇所を書き留めておく。
 なお、「――」で示される質問は伊藤によるものと思われる。「思われる」というのは、伊藤による「はしがき」と矢次による「あとがき」で、本書成立の経緯についての記述が若干異なるから。
 伊藤の「はしがき」によると、
《私が聴き手になり、岸氏に語っていただき、矢次氏が補充してくださるということで、六月からインタビューが開始された。最初十回、補充がほぼ同数、併せて二十回程度のインタビューを行なった。途中で、昭和五十四年九月号の『中央公論』から連載をはじめ、翌五十五年六月号の第十回で完了した。その後文藝春秋からまとめて刊行するということになり、五十五―六年に四回補充のインタビューを行なった。従って全体で二十四回のインタビューを行ったことになる。その速記を整理したものを岸、矢次両氏に手を入れていただいたのである。》
 矢次の「あとがき」によると、
《たまたま、岸氏との間でこのような話〔注・回顧録〕が進んでいるときに、幸運というべきであろうか、知人を介して中央公論社から「岸回想録」連載についての申し入れがあった。そこで岸氏とも相談の上で、私が聞き役になり、昭和五十四年九月号から、同五十五年六月号までの十回に亙り、雑誌「中央公論」に連載することを得た。〔中略〕
 岸回想録が出ると、予想以上に好評であり、十回で完結すると、一冊にまとめて出版せよとの要望が、各方面から強く寄せられた。そこで出版するということであれば、私として故池島君との約束〔注・岸との対談記事の要望〕を忘れるわけにはいかない。出来得ることならば、出版の場合は文藝春秋社に依頼したいと考えた私は、中央公論社の諒解を得た上で、東大の伊藤隆教授〔注・ここで初めて伊藤の名が出てくる〕を煩わして交渉の結果、文藝春秋社から出版の快諾を得たのである。書き遅れたが、岸氏と私との対談を行うに当り、対談の進行や記録の整理等全般に亙って、伊藤教授の御協力を得たことを、特記して謝意を表さなければならぬ。さらに、この対談が長期にわたった為、記録類や資料の蒐集、校正等に多大の努力を要したが、国策研究会〔注・矢次の団体〕の吉田弘君が終始熱心に手伝ってくれたことは、まことに好都合であった。》
 矢次のニュアンスだと伊藤は協力者にすぎず、本書成立において矢次や国策研究会が果たした役割も大きいかのようである。
 どちらが真実に近いのか、判然としない。
 ただ、本書の内容からは、岸と矢次の対談ではなく、伊藤と岸・矢次コンビの対談という印象を受ける。


○ソ連(ロシア)・中国観

《岸 私は子供の時から、特に山口県当たりに育ったものとして、北からの脅威というものに敏感なのですよ。明治維新の村田清風などというのも、西北からの風を防ぐような備えをしなければだめだという議論で、当時からロシアに対する警戒心が強い。伊藤(博文)公にしても、日露戦争などによって、常に意識的ではないにしても、ロシアに対しては一種の恐露、あるいは反露感情があった。だから、そういうものが子供のときからしみこんでいますから、同じ共産主義であっても、中国に対してはそういう反露的な感情みたいなものはないんですよ。共産主義そのものに対してはソ連も中国もなく、私は反対だが、国として、中国は日本に脅威を与えるとは感じない。ところが、ソ連は帝政ロシアの時代と共産主義ソ連とを問わず違いはなく、日本にとって一つの脅威であるという感じを、私は根本的にもっているのです。》(p.18)


○辻政信

《――片倉さん〔注・片倉衷〕は経済的・産業的なことはよく勉強してわかっていたわけですか。
 岸 よくわかっていた。彼は今も健在ですが、東條さんと似ているところがある。事務処理が整然としていて、ものの考え方も整然たるものだった。そして軍人としては分をわきまえていて、たとえば、出てはならないところでは、決して埒外に出ない。ひどかったのは当時大尉で、戦後参議院議員にもなった辻政信・・・・・・。
 矢次 辻はちょっとアブノーマルな人物だった。しかし頭も良いし、勘の鋭い男ではあったね。私は少佐で参謀本部時代の彼しか知らないが、彼についての一番の問題は、関東軍参謀時代に起したノモンハン事件ですね。この事件は彼が中心でやったといってもよいくらいです。上官だった磯谷廉介や、師団長だった小松原中将などは、惨敗したあとも辻をかばってはいたけれど・・・・・・。
 ――岸さんは辻政信とは接触するような場合があったのですか。
 岸 辻政信は産業問題に特に関心があったわけではないけれど、あの男は何にでも口を出すのですよ。いろんな会議に顔を出して、とにかく大きな声でね・・・・・・(笑)。
 ――一言あるわけですか。
 岸 一言も二言もある。しかも一言あるだけならいいけど、何かあると根にもって、やっかいなんです。》(p.30~31)


○東條英機

《矢次 〔中略〕ことに東條さんという人は、戦後は評判の悪い人物だけれども、私はよく知っていて、いいところもある人物です。人に惚れっぽいところがあって、岸さんのような人物をみると惚れる。その代り愛憎が激しいから、彼に嫌われた人間は気の毒なくらい嫌われる。東條さんに好かれた人で、彼を恨む人はないけれど、憎まれ嫌われた人は、そのへんに立っていられないほどひどい目にあうのです。》(p.34)


○革新官僚、阿部内閣、企画院事件

《矢次 国防国家が全体的な国策にはなっていなかったけれど、そういう方向へもっていこうと考えていたグループはありましたね。当時の企画院の秋永月三、毛里英於菟、迫水久常といった、いわゆる革新官僚たちです。彼らは岸さんが帰ってきたというので、歓呼して迎えた。その頃は支那事変がだんだん泥沼に深入りして、にっちもさっちもゆかなくなってきている。それにどう対処するかということで皆手探りしている時に岸さんが帰ってきた。それと十四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永とか、陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒二、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎といった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった。ここで月曜日に政策論議がたたかわされ、翌火曜日が閣議の日なのです。ですから月曜会の議論が、あるものはストレートに閣議の席で出て、だいぶ問題を起したことがある。
 そしてこの連中が結集したようなかたちで活発に動いたのが、阿部内閣に対するものだったと思う。特にこの内閣が、行政改革をスローガンとしたことで、これを実現させようという意気込みだった。しかし間もなく阿部では何もできないということになって、早期退陣を求める方向に動いたのです。そうすると、革新官僚はアカじゃないか、岸はアカじゃないかという批判が財界などから出始めた。そういう騒然とした時代があったということは、岸さんを語る場合はずせない。企画院事件(昭和十三年から十六年にかけて左翼運動という理由で企画院の革新官僚が検挙された事件)が起こったのもそういう社会的背景をみる必要がある。この事件では和田博雄(当時農政課長)や勝間田清一(同企画院事務官)らの諸君が捕まえられたけれど、狙いは岸さんを捕らえることにあったと思う。》(p.38~39)

《――経済新体制の場合、中心になって立案するのは企画院ですね。企画院の毛里、迫水といった方々と岸さんは一体になっておやりになったわけですか。
 岸 だいたいそうですね。
 ――和田さん、勝間田さんが捕まったということは、どういうふうにごらんになりましたか。
 岸 和田、勝間田は同じ官僚で、企画院にいたけれども、迫水、毛里とは違うんですね。私は農商務省時代から和田君とは親しかったんですが、彼はわれわれと違って左のほうだった。
 矢次 企画院事件は狙いは新経済体制で、元兇は岸だというので、岸さんを引っ張ろうとする計画がたしかにあった。美濃部、迫水といった諸君が何かの口実で警視庁に呼ばれ、当時私は両君から話を聞いたけれども、私自身も狙われて、いつ引っ張られるかというところまでしばしばいった。もともとこれは陸軍の内紛とも関連するんです。武藤軍務局長対田中隆吉兵務局長、そして平沼内相のもとにいる橋本清吉警保局長対内閣にいる富田健治書記官長の大きな暗闘が昭和十五年に渦巻いた。そして橋本・村田五郎保安課長のコンビで企画院事件が起る。経済新体制派官僚に対する弾圧が計画される一方では田中が武藤排斥をやる。橋本は富田排斥をやる。当時伝えられた話では、橋本が書記官長を狙い、田中が軍務局長を狙っているということだった。岸グループを一網打尽にするという計画と、私は富田・武藤と親しいというので、私を引っ張れば何か出るだろうということだった。だから、昭和十五年は毎日不愉快だったね。》(p.46)


○小林一三

《岸 ところが小林さんというのは面白い人で、私が大臣室に挨拶に行くと、いきなり、岸君、世間では小林と岸は似たような性格だから、必ず喧嘩をやると言っている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一、君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したといわれるだけで、ちっとも歩がない。負けることはないけれども、勝ってみたところで得がない喧嘩はやらないよ。これが次官を呼んでの大臣就任の初対面の挨拶だった(笑)。私もそれは大変結構な話で、そういうことなら仲よくやりましょうと答えたけれど、言識をなすというが、後に私が小林さんと喧嘩するようになってしまったことを思うと、実におかしなことですよ。》(p.42~43)

《岸 ところが近衛さんは各種の新体制を作ったでしょう。その中の経済新体制の問題で私は小林さんと意見が衝突してしまった。小林さんは大臣に就任するとすぐ、蘭印交渉のため蘭印に行かれた。その留守に産業統制に対する案である「経済新体制確立要綱」が企画院でできていて、それで私は、帰ってこられてから小林さんのお留守にこういうことになりました、ですが、これは重大なことだからご報告いたしますと言ったら、小林さんは、その話は聞かんぞ、わしにはわしの考えがある、ということで私の説明を聞こうとしない。ところが数日後に工業倶楽部で、小林さんは、経済新体制の考え方、あれはアカの思想である、役人の間にアカがいるという話をしたのですね。
 そこで私は小林さんのところにねじ込んだ。アカの思想とはどういうことだ。一私人小林一三がアカの思想だといわれようと何をいわれようと問題はない。が、あなたは商工大臣だ。国務大臣として民間にそういう発言をされたとなるとこれは大変だ。一体アカの思想の根拠は何で、誰がアカなのか。あの決定をしたのがアカだというのなら、それは企画院でただでは納まりませんよ、とまあこういった具合です。》(p.43)

《矢次 岸さんと小林の喧嘩のことでいえば、小林の方は役人はびしびし追回して使えばどうにでもなるという気持があって、次官は自分の会社の一支配人と違わないと考えていたでしょう。一方岸さんら役人の方からいうと、自分たちは宝塚の女の子と違うぞというところがあった。そういう雰囲気が盛り上がったところで、例の衝突が起ったという見方があっていいのじゃないですか。というのは、藤原銀次郎が商工大臣の時に、私は用事があって、予算委員会に入っていた。質問が出て、藤原さんが、私の考えによれば・・・・・・という答弁を何回かしている。すると予算委員長が、藤原君にご注意申し上げます、藤原君個人のご意見ではなく、商工省の考えをご答弁願いたいと注意した。つまり藤原さんは役人である椎名や美濃部の諸君の渡す答弁メモを握りつぶして、私の考えによれば、とやっていた(笑)。ですから財界の中には役人のロボットになどなるかという雰囲気が、小林さんだけでなく藤原さんの時にもあったということでしょう。》(p.44~45)

《――岸さんからご覧になって、伍堂、藤原、小林の三代の商工大臣をどう評価されますか。
 岸 私は藤原さんに一番傾倒しますね。人格の問題もあるけれど、考え方も一番無理がなかった。小林さんはなかなか鋭いけれど、たとえば電気の問題でも、この電信柱は背が高すぎるから切ってしまえとか、電気の本質そのものを問題にするのではなくて、それに関連のある問題について、すぐ処置するという傾向があった。そこへゆくと藤原さんは長年、財界の中で苦労された人であるだけに、われわれの意見もある程度柔軟に聞いてくれましたね。
 ――岸さんと小林さんの対立は、大きくみて従来の自由主義経済体制でやっていこうというのと、経済の再編成をやっていこうということの対立といっていいんでしょうか。
 岸 そうですね。小林さんは自由主義経済の最も徹底したものであったが、情勢からいって、自由な経済は許されない。制限しなきゃならんし、統制を加えなきゃならんし、国家が経済に干渉するというのが、経済新体制の考え方であったわけです。》(p.45)


○商工次官辞任

《――次官をお辞めになったのは、企画院事件の責任をとらされたからですか。
 岸 そうです。その時、近衛さんというのはやはり政治家だな、政治家とはこういうものかと思ったことがある。小林さんを商工大臣に決める時に、近衛さんは、大臣は小林さんに頼みますが、実は君を本当は大臣にしたかったのだよ、自分の心持ちからいえば、君が大臣だと思っている、しっかりやってくれと言う。こちらは大いに感激したわけだ。
 それで、いよいよ小林さんから次官を辞めろという話があった時、いや、私は辞めてもいいけれど、相談すべき人があるからすぐには駄目だと答えて、かつて激励を受けた手前、近衛さんに断らずに辞めるのも悪いと思い、近衛さんにお目にかかりたいと言うと、総理は会ってくれない。電話で話をしたわけです。実はこういうことで小林さんから辞めろといわれた。しかし組閣の時に総理のお言葉もあったし、ご意見を聞かないで勝手に辞めるわけにもいかないと思う。すると、近衛さんは、そうですね、やはり大臣と次官が喧嘩をしてもらっては困りますから、そういう場合には次官に辞めてもらうほかないでしょう(笑)。それで、かしこまりました、ということで辞表を出したのですよ。政治家というものはこういうものか、俺はやはり若いのだなとしみじみ感じたことがある。》(p.44)
 微苦笑を誘うエピソードである。

(続く)

呉智英『健全なる精神』(双葉社、2007)

2007-06-23 10:36:56 | その他の本・雑誌の感想
 小谷野敦が、こんなことを述べている。

《若いころ呉を読んでいた時、私は、左翼(=戦後民主主義)を批判しながら、保守派知識人をも批判する呉の「自由人」的なスタンスに、まあ「しびれた」。》(『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)p.124)

 昔は、私も大いにそうだった。

 しかし、前にも書いたことだが、最近の呉には、以前ほどの魅力を感じない。
 これは、一つには、私が年をとって、呉の主張に慣れて、飽きてしまったためだろう。
 また、呉の主張は本当に正しいのか、ある種の極論で世間を驚かせているだけなのではないか、あるいは、面白さを優先するあまり正確性に欠けることが多いのではないかという疑問を強く覚えるようになったためでもある。
 さらに、これは呉による啓蒙の成果なのかもしれないが、呉の近代主義批判、民主主義批判、大衆批判といったものは、多少なりとも物事を考える人々にとっては、もはや共通認識になっているようにも思われるということもある。
 だからといって、近代主義を廃して、呉の言う「封建主義」に復帰するわけにもいかない。結局は近代主義を地道に改良していくしかあるまい。
 呉にもその程度のことはわかっているはずだが、それでも、古くからの読者には手垢の付いた感のある、年来の主張を繰り返しているだけのように思える。

 本書は、そんな呉の最新刊。『産経新聞』の名物コラム「断」をはじめ、近年の様々な新聞や雑誌に掲載された文章が収録されている。

 呉が長年主張してきた、「すべからく」の誤用の指摘や、「支那」は差別語ではないといった論説が本書にも見られる。
 呉は還暦を迎えたという。今後も「すべからく」や「支那」を語り続けて、評論家としての一生を終えるのだろうか。これまでの呉の活動を考えると、どうもそんな気がする。

 それでも、いくつか注目すべき箇所はあったので、書き留めておく。

○「オカルトまみれの産経新聞」と題する文で、
・2004.9.6付け同紙の「正論」欄に、村上和雄・筑波大学名誉教授による「人の思いは遺伝子の働きを変える」との主張が掲載された
・2005.1.28付けの同欄では、女性実業家吉川稲美の、近年の災害は「人間のエゴが引き起こしているように思えてなりません」という主張が掲載された
・2005.3.23付け同紙では、「子供の三割が胎内記憶を持ち、二割が誕生時の記憶をもっていると、六段抜きの大記事を載せている」
ことを挙げ、
《保守反動が概してオカルトと結びついていることは興味深い。同時に前引村上和雄の「人間は、素晴らしい可能性を誰もが持っている」という発言に見られるような民主主義・人権思想まる出しの思想が現代オカルティズムの土壌になっていることも、これまた興味深い》(p.159)
と述べている。

○「断」の「マンガな日本語」で、小池一夫が代名詞に必ず傍点を付すこと、「ん」を全て「ン」としていることを批判。
 これは、多くの人が気付いているのだろうが、正面からの批判はあまり目にしない。
 呉は、単行本化に伴い付けられた補注で、
《小池一夫が斯界の超大物であるため、編集者は誰もこのおかしさを指摘できないのかもしれない。小池の原作原稿は一字一句の修正も許されないといった話も聞いたことがある。》
《どうも、小池一夫は字音という概念を理解していないようだ。》
とも述べている。

○岩中祥史『中国人と名古屋人』(はまの出版)という本は、内村鑑三が中国人と名古屋人の類似性を指摘していることを前提に、両者を比較して書かれたもの。しかし、内村の言う中国人とは支那人ではなく本州西部の「中国」人、つまり山口人・広島人であるのにもかかわらず、岩村はこれを支那人のことと勘違いして本一冊を書いてしまったという。
(この話は、以前にも聞いたような・・・・)

○2004年に刊行された宮嶋博史、李成市、尹海東、林志弦の共著『植民地近代の視座―朝鮮と日本』(岩波書店)という本の広告の「近代とは、すべからく植民地近代である」というアオリに噛みついている。
《こうもぬけぬけと植民地主義を賛美した書物を私は知らない。近代国家は、近代人は、義務として植民地主義の道を歩まなければならないと言うのだ。》(p.154~155)
《近代という時代では植民地主義が当然であり、義務であるなどと臆面もなく主張して、よく歴史家を名乗れるものである。〔中略〕宮嶋、李、尹、林らの植民地主義賛美には、開きなおった近代国家主義しか感じられない。岩波書店も落ちるところまで落ちたものである。》(p.156)
 これは「myb」という雑誌に載ったエッセイだそうだが、「断」でも同趣旨のことを述べている(p.232)。
 これらを読んだ読者のうち、呉の主張に慣れ親しんでいいない人、あるいは注意深く文章を読まない人は、この本は植民地主義を当然であり、義務であるとし、賛美するものなのか、岩波書店は右派出版社に転向したのか? と誤解するのではないだろうか。
 しかし、呉の本意は、単に、上記の「近代とは、すべからく植民地近代である」の「すべからく」は誤用であるということにある(呉の主張も含め、「すべからく」について、はてなダイアリーにわかりやすい解説がある)。
 この広告のアオリを考えた人は、おそらく「すべからく」を「すべて」の高級表現だと考えているのだろう。しかし、「すべからく」とは、「すべからく・・・・・・すべし」といったかたちで、「○○するのが当然」「○○する必要がある」といった意味で用いられるべきものだ。「近代とは、すべからく植民地近代である」という言葉は、「近代とは、すべて植民地近代である」ではなく「近代とは、植民地近代であるべきである(あらねばならない)」といった意味になってしまう。呉は、その誤用を逆手にとって、この本の著者や岩波書店を植民地賛美者だと揶揄しているにすぎない。本気で彼らがそうだと論じているのではない。イヤミである。現に、呉は本の内容には全く触れていない。
 しかし、このエッセイ中、「すべからく」の誤用についての説明はないので、呉という人物やその主張を知らない人や、「すべからく」の意味に通じていない人が読んだら、上記のように本書を植民地賛美の書と誤読するのではないかと、私は思う。
 これは、読者をミスリードするものではないだろうか。呉は、結果的にそうなってもかまわないと考えているようにも思える。
 こういう点も、私が近年の呉の言説に対して強く違和感を覚える理由の一つだ。

 小谷野は、呉の『読書家の新技術』を、十年近く座右の書としていたという。
《だが、私も、呉が『読書家の新技術』を書いた年齢になった。私なりに、呉の勧めるやり方への疑問も生まれる。初版刊行から十七年たって、やはり知的状況も変わってくる。相撲の世界では、稽古を付けてくれた別の部屋の先輩力士に本場所で勝つことを(同部屋の兄弟子には本場所では当たらないので)「恩返し」という。もうそろそろ、呉に「恩返し」してもいいのではないか、と思ったのである。》(前掲『バカのための読書術』p.18)
 そういう思いで書いたのが、『バカのための読書術』であるらしい。

 私は、プロの物書きでも何でもない。小谷野を引き合いに出すなどおこがましい限りだが、かつて呉を愛読していた私にも同様の思いはある。微力でも、少しずつでも「恩返し」していきたいと思う。
 

テレビドラマ「セクシーボイスアンドロボ」11話(最終話) 感想

2007-06-21 23:18:04 | その他のテレビ・映画の感想
 ニコは、自分を殺して周囲の他人に合わせるという術(すべ)を学んだから、三日坊主やルミちゃんが見えなくなったのかと思っていたのだが・・・・。
 あの転校生の子と仲良くなって、「自分に味方する」ようになったのだから、再び見えるようになるのかと思いきや、それでも見えないままラストを迎えるとは。
 ロボには見えるのに。
 「自分に味方する」度合いが、ニコとロボではまだ大きく異なるということか。
 ニコはちょっとヘンな常識人、ロボはすごくヘンな人ということ??

 そして、ロボとあのような別れを迎えるとは。
 いつでも会えると思いつつ、何となく疎遠になってそれっきりということは現実にもよくあるが、何だかそんなリアルな感じが。

 「宇宙で私だけ」というセリフは原作からのものだが、
「私を救えるのは、宇宙で私だけだから」
という最後のモノローグは、原作を超えたと思った。

 堀井憲一郎が述べていたように、このドラマが伝説的カルトドラマとして成功したのかどうかは、私にはよくわからない(失敗しているような気もする)が、私は最後までこのドラマに付き合ってきて良かったと思っている。


小谷野敦の錯乱

2007-06-20 00:54:59 | 珍妙な人々
 小谷野敦は私が愛読している評論家の一人だが、ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」で、見過ごせないことを書いている

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《2007-06-19 ホットカーペットの怖さ

 一昨年、電磁波測定器を買ってあちこち調べてみたら、携帯電話やパソコンはさほどでもなかった。電子レンジは今さら言うまでもないが、ホットカーペットの電磁波のすごさには驚いた。以後、ホットカーペットは使っていない。

 このことは、明らかに隠蔽されている。電磁波に害がないなどということは証明されていない、と、正直な企業は言っている。つまり、まだ分からないから、なるべく近寄らないほうが安心だというのだ。ならば、ホットカーペットは即刻やめるべきだろう。

 どうせこの世は金儲け。マスコミは電器産業に遠慮して、そういうことを報道しないのだ。》

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 おまえは『週刊金曜日』か。もしくは、どこぞの無責任な左翼ブロガーか。

 私もホットカーペットの電磁波がすごいということは今知ったが、だからどうだと言うのか。どのような電磁波をどれほど浴びると、どう有害なのか。小谷野には少しでも説明できるのか。測定器で測ったという電磁波の数値にどれほどの意味があるのか。

《電磁波に害がないなどということは証明されていない》
のはおそらく確かなのだろう。
 「ない」ことの証明は極めて困難だから。
 では、害が「ある」ということは証明されているのか?
 確証はないにしても、現状で、害がある可能性が高いと言える状態なのか?
 そういう状態ですらないだろう。
 
《まだ分からないから、なるべく近寄らないほうが安心だ》
 それも一つの選択肢だろう。
 だからといって、何故
《ならば、ホットカーペットは即刻やめるべきだろう。》
となるのか?
 やめたい人はそうすればいいが、使いたい人は使えばいいのではないか。
 
 マスコミが産業に遠慮して報道を控える、そういうこともあるだろうとは私も思う。
 だからといって、ホットカーペットがそうだとはとても思えないのだが。
 電磁波有害論みたいな実証されていないものをマスコミがあおりたてたりしたら、それこそ小谷野が批判する愚民社会ではないのか。

 だいたい小谷野は禁煙ファシズム論者だ。タバコの害など排ガスに比べればどうということはないと述べてはばからない男だ。しかし、タバコの有害性については既に実証されている。健康に有害ではあっても自己の快楽が優先するというのなら、それはそれで一つの生き方だし、他人に迷惑をかけない範囲で楽しんでもらえればそれでよいと思うが、そんな男が、有害性の実証されていない電磁波ごときでゴタゴタぬかすな。



  

河信基の重村智計批判を批判する

2007-06-18 23:58:42 | 韓国・北朝鮮
 在日コリアンの評論家である河信基が、総聯中央本部の売却問題に関連して、自身のブログで、重村智計を次のように批判している


《冷静に事態を把握することが求められる中、悪戯に混乱と対立を煽る発言が繰り返されるのは問題である。
 例えば、今日の日本テレビのザ・ワイドで、“北朝鮮問題に詳しい”重村智計氏が、「北朝鮮は朝鮮総連を大使館とは思っていない。在日朝鮮人も朝鮮総連を見限っている。緒方氏は何も知らないのじゃないか」と、人を小バカにしたようなコメントをしている。
 これは嘘である。個人の意見ならともかく、「北朝鮮は・・・」「在日は・・・」とあたかも北朝鮮や在日を代弁する口調は、意図的に誤解と偏見を広めるもので、悪質と言える。

 「朝鮮総連は在日朝鮮人の権利を擁護する海外公民団体」というのが北朝鮮の定義であり、日本との国交がない中、事実上の大使館、領事館として北朝鮮への入国ビザを発給していることは、知る人ぞ知ることである。
 また、朝鮮総連を支持する在日朝鮮人が減っているとはいえ、それを拠り所にしている人々が数万はいる。決して少ない数字ではない。

 朝鮮総連中央本部の売却問題は杜撰な経理を重ねてきた自業自得であり、責任の所在は明確にする必要がある。また、北朝鮮本国の特定勢力に追随し、拉致問題などとの不透明な関連も明確にするべきである。
 そうした問題を抱えているとはいえ、朝鮮総連が、強制連行という歴史を背負った在日朝鮮人の権利擁護団体としての存在意義を失ったわけではない。
 朝鮮労働党統一戦線部や対外連絡部など特定の政治勢力との関係を清算し、日本の内政不干渉、法律遵守に基づき在日の民主主義的民族権利を擁護する、本来の設立精神に立ち戻る必要があろう。》


 私は、河信基の単行本できちんと読んだものは『代議士の自決―新井将敬の真実』(三一書房、1999)しかないが、その他の北朝鮮に関する著書も立ち読みしたことはあるし、雑誌の記事もしばしば目にしたことがある。
 それらを読んでの印象は、事実に立脚したジャーナリストというよりは、自分の主張を押しつけたがるタイプの著述家だというものだった。

 重村には時々不適切な言動が見られるとは私も思うが、上記のテレビでのコメントは、妥当なものではないだろうか。

《日本との国交がない中、事実上の大使館、領事館として北朝鮮への入国ビザを発給していることは、知る人ぞ知ることである。》
と言うが(「知る人ぞ知る」というのは、あまり知られていないことを指すものだが、総聯がビザを発給していることは、ちょっと北朝鮮や在日に関心のある人なら誰でも知っているのではないか?)、ビザを発給しているからといって、北朝鮮が総聯を大使館とみなしていると言えるだろうか。
 例えば、ウィキペディアで「大使館」を引いてみると、
《通常、派遣された国の首都に置かれ、派遣元の国を代表して、派遣先国での外交活動の拠点となるほか、ビザの発給や、滞在先での自国民の保護といった援助などの領事サービス、広報・文化交流活動、情報収集活動などの業務を行う。》
とある。
 総聯は、北朝鮮にとって、このような機関として扱われているだろうか。
 そもそも、総聯と北朝鮮外務省は何の関係もあるまい。

《在日朝鮮人も朝鮮総連を見限っている。》
という点についても、そうした傾向があることは、事実ではないだろうか。
 『朝鮮を知る事典』(平凡社)の古い版(1986年版)によると、1985年現在、総聯の構成員は約20万人とある。それが、河信基の記事によると、「拠り所にしている人々が数万はいる。」という。自然死による減少を考慮に入れても、20万から数万への減少は多すぎる。これが「見限っている」のでなくて何だというのか。

 河信基の記事の
強制連行という歴史を背負った在日朝鮮人の権利擁護団体としての存在意義を失ったわけではない。》
という文言が気になる。
 総聯に、「在日朝鮮人の権利擁護団体としての存在意義」があることを、私も否定するものではない。
 しかし、未だに、「強制連行という歴史」という「神話」にすがらないと、総聯の正統性を主張することすらできないのか。
 河信基は、本人が自覚しているかどうかは別として、結局は北朝鮮の別働隊としての役割を果たしているにすぎないのではないだろうか。

 ついでに言うと、河信基は総聯が
《日本の内政不干渉、法律遵守に基づき在日の民主主義的民族権利を擁護する、本来の設立精神に立ち戻る必要があろう。》
と述べるが、総聯が設立時に「日本の内政不干渉、法律遵守」をどこまで重視していたかは疑わしい。
 手元の高峻石『在日朝鮮人革命運動史』(柘植書房、1985)に収録されている「朝鮮総連結成大会宣言」(要旨)及び「朝鮮総連綱領」(全文)を読む限り、「日本の内政不干渉、法律遵守」といった趣旨の言葉は見当たらない。
 「朝鮮総連結成大会一般〔活動〕方針」(要旨)の「六 在日同胞の総団結」の中には、
《朝鮮総連と傘下各団体は、外国のいかなる政党・社会団体にも加入してはいけないし、外国の政治的紛争に介入してはならない。》
との文言がある。しかし、「法律遵守」についてはやはり見当たらない。
 「政治的紛争に介入してはならない」は「内政不干渉」とはやや違うだろう。

猪瀬直樹が都副知事を受諾した件について一言

2007-06-17 23:03:58 | 現代日本政治
 表題の件について何か書こうと思っていたのだが、既に全滅屋団衛門さんが6/14と6/16の日記で詳細に批判しているので、私の出る幕などありません。

 一言だけ補足するなら、道路公団民営化をめぐり猪瀬が櫻井よしこから批判を受けた際に、出版者側に櫻井に書かせるなと圧力をかけたというエピソードがある。
 私はそれを読んで、猪瀬と櫻井の主張のどちらに理があるにしろ、そのようなふるまい自体が猪瀬の言論への信頼性を落とすものだと感じた。
 そしてその後の猪瀬の言動は、私から見て、その印象に違わないものだった。
 『日本国の研究』は、タイトルは壮大すぎるにしても、それなりに労作だと思ったものだがなあ。