トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

『超人バロム・1』第33話 感想

2007-04-30 22:56:49 | マンガ・アニメ・特撮
 「スカパー!」の「東映チャンネル」で先日放映していたのをたまたま見てみた。

 「バロム・1」は、子供の頃何度も何度も再放送されていたので、強く印象に残っている。
 「クチビルゲ」など、同世代の男子なら、知らない者はいないだろう。「ヤゴゲルゲの子守歌」とか・・・。
 「仮面ライダー」などよりも怪奇色が強かった。ドルゲ魔人の造型が子供心によく出来ていたように思う。

 冒頭、黒地に白い文字で
「このドラマにでてくるドルゲはかくうのものでじつざいのひととはかんけいありません」
とのテロップが出る。
 これは、有名なドルゲ君事件への対応策として設けられたものなのだろう。子供にもわかるようにひらがなで。こんなんだったか。全然覚えていなかった。
 各種ドラマでの「このドラマはフィクションであり実在の人物・団体等とは関係ありません」といったテロップのはしりだとも聞いたことがあるが、本当だろうか。
 しかしこの事件、当時の感覚でも、現代の感覚でも、こんなことが問題になるとは本当におかしな話だと思うがなあ。
 出典は忘れたが、ドルゲ君サイドとしては、近年になっても、この措置にも必ずしも納得していないとどこかで表明していたように思う。
 ドルゲ君が欧米系外国人でなければ、果たしてこれほどの問題にまで至っていただろうか。
 
 この33話「魔人マユゲルゲは地獄の糸で焼き殺す!!」に登場するマユゲルゲは、単体で登場する最後のドルゲ魔人。
 「バロム・1」は全35話だが、続く34話と35話は前後編でドルゲとの最終決戦を描き、オリジナルの魔人は登場しない。
 「マユゲルゲ! お前は最後のドルゲ魔人だ!」といったドルゲのセリフがあったような気がしていたのだが、全くなかった。私の単なる思い込みだったようだ。
 ただ、

ドルゲ「マユゲルゲよ、バロム・1をお前の力で倒すのだ! あいつの死ぬのを夢見てきたこの私の願いを、今日こそかなえてくれ」
マユゲルゲ「バロム・1に負けて倒れていった魔人たちのために、そして我が名誉のために」
ドルゲ「お前の命にかけて!」
マユゲルゲ「我が命にかけて!」
ドルゲ「必ず成功させるのだ・・・」

といったセリフはあった。それと最後の魔人であることから、私が勝手に上記のようなセリフを空想していたものらしい。
 しかし、ラストのナレーションには、
「マユゲルゲの恐ろしいたくらみは破られた。だが、ドルゲは次のドルゲ魔人を作り、地球の平和を乱そうとしている。ゆけ、バロム・1、正義のために」
とあり、まだ単体のドルゲ魔人が登場する予定であったようにもうかがえる。
 「バロム・1」はドルゲ君事件が原因で打ち切られたという説を見ることがあるが、上記のようなテロップで対策も取っているし、何度も再放送されている人気番組でもあったので(そんな問題があるなら再放送も困難だろう)、ガセではないかと疑っていた。しかし、33話をきちんと見る限り、打ち切り説が正しいようにも思える。
(事件と打ち切りとの関係については、こちらのコメント欄が参考になりました)
 マユゲルゲのデザインや造型も実に良く出来ている。

 マユゲルゲは赤い糸を吐く。その糸で作られた服を着た人間は溶けてしまう。冒頭で、ファンから贈られたという赤い服女を着た女性歌手が、歌っている途中で溶けてしまう(さらに燃えてしまう)。犯人を捜すその弟(小学生)。それを助けるバロム・1。マユゲルゲを倒したら、姉は甦った。
 あやつられていた人間が元どおりになるとか、病気にさせられていたのが治るといった描写は、当時の子供番組によくあったと思うが、溶けてしまった人間が元どおりになるとは!(しかも、復活する描写はない) ある種のお約束とはいえ、さすがは子供番組だ。
 そういえば、何年か前にも、「バロム・1」の初期の話を何本か見たが、あまりにも子供向けすぎて、途中で見るのをやめてしまったことがあった。
 同じ1972年放映の「人造人間キカイダー」や「アイアンキング」、少し後の「イナズマンF」なんかは、大人になってから見てもなかなか面白かった覚えがあるのだが。
 これらの作品がドラマ性を重視し、ある程度の年長者の視聴にも堪え得るものを志向したのに対し、徹底的に子供向けであることを重視したのが「バロム・1」だと言えるだろう。

中国人戦後補償訴訟の敗訴と光華寮問題

2007-04-30 12:23:13 | 事件・犯罪・裁判・司法
 4月27日に最高裁が、中国人が提訴していた戦後補償5訴訟について、いずれも、日中共同声明を理由に求償権は放棄されたとして、原告を敗訴させたという。

強制連行訴訟、中国人元労働者らの請求棄却 最高裁(朝日新聞) - goo ニュース
慰安婦含む他の戦後補償4訴訟も敗訴確定(朝日新聞) - goo ニュース

 28日付朝日の社会面の記事は、《「光華寮とバランス」弁護団》との見出しで、次のように述べている。

《最高裁の三つの小法廷で、27日だけで計5件の戦後補償訴訟の中国人敗訴が確定した。なぜ、これほど集中したのか。
 原告弁護団は、最高裁が日中関係に配慮し、中国側に有利な結論となる「光華寮」と、不利な結論の「戦後補償」の二つの訴訟をほぼ同時期に決着させ、バランスを取ったのではないかと推測する。》

 私も全くそのように思う。
 この点については、今年1月の光華寮訴訟が決着へ向かうとの朝日の記事でもそれとなく指摘されていた。

 《「光華寮とバランス」弁護団》の記事は「アサヒ・コム」にも掲載されていないので、さらに一部を引用しておく。
 記事は、光華寮問題の経緯を述べた上で、

《提訴から40年、上告から20年たった「日本最古の未解決訴訟」に最高裁が手をつけたのは、滞留して長期化し始めた戦後補償裁判の処理を急ぐためではなかったか-それが、弁護団の推理だ。
 また、判例となる判決が出ると、それが最高裁としての統一見解であることを示すため、同種訴訟をほぼ一斉に決定で終わらせること自体はよくある。
 では、なぜ「この春」なのか。
 光華寮訴訟を審理し、戦後補償訴訟の一部も手がける第三小法廷には、5月22日限りで定年退官する上田豊三判事(民事裁判官出身)がいる。戦後補償訴訟と光華寮訴訟を同時期に決着させるため、上田氏の在任中にそれぞれの判決日を出すことを決めたのが要因の一つであるとは言えそうだ。》

としている。
 説得力のある説だと思う。

 しかし、司法判断とはそもそも個別に行われるべきものであり、全く別の事案でもってバランスを取るなどという行為自体がなじまないのではないか。
 また、中国外務省は早速、個人の求償権まで放棄されたと解釈するのは「不法で無効」だと抗議しているという。
 一国の最高裁の判断を「不法で無効」と断じる国に対して、取引じみた行為が通用すると考えたとは、最高裁は判断を誤ったのではないだろうか。 

「おつかいもの」って、使います?

2007-04-24 00:01:57 | マスコミ
 4月21日付けの『朝日新聞』の「声」欄(投書欄)に、「すたれないで 美しい日本語」と題する京都市在住の60歳の主婦の投書が載っている。
 書店で店員に「おつかい物にしたいので、図書カードを二つお願いします」と言ったところ、意味がわからないと言われたので、「人さまに差し上げたいのですが」と言ったところ、「それならプレゼントですね」と言われ、「ええ、そうそう、プレゼント、ギフトです」と、ようやく意味が通じたとのこと。

《この女性はどんな環境で育ったのだろうか―と思ったが、「いや、いや、この国の閣僚の方々もやたらと横文字をお使いだ」と思い直した。》 

 私も、「おつかい物」という言葉は知らなかった。
 Googleで、「おつかい物」で検索してみると、1310件がヒットした。
 「おつかいもの」で検索してみると、38200件。
 「お遣い物」では、30900件。
 「お使い物」では、109000件。
 結構広く使われている言葉らしい。
 しかし、私はン十年生きてきたが、聞いたことがない。
 私は、「どんな環境で育ったのだろうか」と思わせるほど異常な環境で育った覚えはないのだが。

 妻に聞くと、「お持たせ物」のことをそう言うのではないかと思うが、あまり聞かない言葉だという。
 しかし、調べてみると、「お持たせ物」は持参する手土産のことを言うそうだから、ちょっとニュアンスが違うような気もする。

 あるサイトによると、「東京ではよく耳にする言葉」だそうだが、この情報もこのサイトでしか見つからなかったので、地域的にどうなのかよくわからない。
 『東京おつかいもの手帖』という本が2005年、『京阪神おつかいもの手帖』という本が2007年に出ている。Amazonで「おつかいもの」で検索すると、2004年に出た本が最新だ(「お遣い物」「お使い物」「おつかい物」ではヒットしない)。もしかすると、比較的最近になって、はやりだした言葉なのかもしれない。

 ところで、投稿者の文はこう続く。

《そういえば、最近は「全然大丈夫です」とか「すごいうれしいです」など、全然文法になっておらず、すごく気になる言葉が、電波を通じて流されている。》

 「全然」は、下に打ち消しの言葉を伴って「全然・・・ない」のように用いるのが正しい用法だと思っておられるようだ。
 たしかに、近年はそういう用法をよく見るが、元々は必ずしもそのように用いられていたわけではない。
 『大辞林』が提供している「goo辞書」によると、「ぜんぜん 【全然】」の項にはこうある。


《一(副)
(1)(打ち消し、または「だめ」のような否定的な語を下に伴って)一つ残らず。あらゆる点で。まるきり。全く。
「雪は―残っていない」「金は―ない」「―だめだ」
(2)あますところなく。ことごとく。全く。
「一体生徒が―悪るいです/坊っちゃん(漱石)」「母は―同意して/何処へ(白鳥)」
(3)〔話し言葉での俗な言い方〕非常に。とても。
「―いい」

二(ト/タル)[文]形動タリ
すべてにわたってそうであるさま。
「実に―たる改革を宣告せり/求安録(鑑三)」》


 大辞林は副詞としての意味を(1)~(3)に分けているが、これらは結局「全く」の意味で同じものだろう。敢えて分ける必要があるのだろうか。
 「全然大丈夫です」は文法的に「全然大丈夫」だ。

 「全然」が否定的な語を伴うものとして認知されていることへの違和感は、高島俊男が「お言葉ですが・・・」で取り上げていたように思う。私も昔の小説で、肯定的な用例をいくつか見た覚えがある。
 「おつかい物」を知らないだけで「どんな環境で育ったのだろうか」と疑いつつ、「全然」の用法は自らの感覚を信じて疑わない、そんな人間が、美しい日本語がすたれると嘆いている。そしてそれを掲載する朝日。朝日が掲載したことにより、「全然」を肯定的ニュアンスで用いるのは誤用であるとの認識がさらに広まることだろう。
 どちらが、日本語の破壊者だろうか。

「悪さ加減の選択」としての石原支持

2007-04-23 00:02:43 | 現代日本政治
「反日ブログ監視所」の「浅野秒殺関連エントリ情報局」を見て、『毎日新聞』紙上で、日下部聡という『サンデー毎日』の記者が、石原慎太郎3選を受けて、東京都民を批判していることを知る。(魚拓


《無党派層の支持をいかに獲得するかが、近年の選挙の主要テーマだ。背景には、政党や政治に対する有権者の不信がある--というのが一般的な見方だろう。

 だが、むしろ問題は有権者の側にあるのではないか。石原慎太郎知事が圧勝した東京都知事選の取材を通じて、私はそんな思いを強くしている。》

《このままでは、この国の選挙は際限なく強い刺激を求める「オーラ競争」になってしまう。そうした危惧(きぐ)の中で、政治学の巨人、故丸山真男氏の言葉に出合い、深く共感した。丸山氏はかつて講演で「頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども」と断って、こう言った。「(政治的選択とは)福沢諭吉の言葉ですが、『悪さ加減の選択』なのです。(中略)悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです」

 「政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは、実はうらはらの形で同居している」(丸山真男集第7巻=岩波書店)

 「何かやってくれそうな人」をヤンヤの喝采(かっさい)で迎え「あとはお任せ」では、無責任というものだ。政治を「お上の仕事」と見る発想から抜け切れていないともいえる。視点を変えれば「強者」への迎合の心理も見え隠れする。》


 政治的選択とは、悪さ加減の選択。
 そんなことは、別に丸山眞男や福沢諭吉を持ち出すまでもなく、既に常識ではないのだろうか。
 この丸山の講演は、1958年のものだという。このころは、政治的選択をベストの選択と考える人々が多かったのだろうか。「頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども」と断っているところをみると、どうもそうらしい。どういう種類の講演なのかわからないが、当時の丸山の立ち位置を考えると、少なくとも進歩派陣営ではそういう認識が蔓延していたのだろうか。

 次に、石原支持を「何かやってくれそうな人」「ベストの選択」と見るのは妥当だろうか。
 石原が都知事としてベストであると考えて投票した者がどれほどいることだろう。日下部も言うように、今回の選挙では公私混同問題も争点の一つになった。しかし有権者は石原を支持した。それは、「悪さ加減の選択」で、浅野やその他の候補に比べ、石原がよりマシだと有権者が判断したからではないだろうか。
 私にはむしろ、浅野支持の方に「何かやってくれそうな人」「ベストの選択」との傾向が強いように思う。なぜなら、今回浅野が立候補した経緯を見てもわかるように、浅野はアンチ石原票の受け皿にすぎず、浅野がどのような都政運営を考えているか、他の県の知事を務めた者がさらに都知事を務めようとするのは筋としてどうなのかといったことは度外視して、とにかく非石原でかつ勝ち目のある候補をかつぎたいという欲求に応えたものとしか見えないからだ。
 「悪さ加減の選択」なら、石原と浅野の人物や見解などを比較して、どちらがよりマシかを決めるだろう。しかし、浅野支持者には、まず石原は候補として論外という前提があり、その石原を落選させる手段として浅野を支持するという傾向が強かったように思う。そして、何故石原ではダメなのかというと、政治家は「ベスト」でなければならないと考えているからではないか?

 日下部聡は、有権者の心理を読み違えていると思う。

テレビドラマ「セクシーボイスアンドロボ」2話 感想

2007-04-22 23:54:46 | その他のテレビ・映画の感想
 ・・・そうか。このドラマは、こういう路線で行くのだな。
 前回もそうだったのだが、前半の軽妙なタッチは面白いのだが、後半のウェットな展開がどうにも辛い。
 ニコが普通の女の子みたいで、オジサンはがっかりだ。
 でも、夜10時台のドラマとしては、これぐらいがいいのかな。

映画「機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛」感想

2007-04-22 17:51:21 | マンガ・アニメ・特撮
 今日の天声人語がカミーユ・クローデルについて書いていたので、少し前に観た本作のことを思い出した。

 映画館へは行かなかったが、ラストが改変されたと聞いて気になっていたので、レンタルDVDで観てみた。

 「Ζガンダム」の劇場版が作られると聞いて私がまず思ったのは、完全新作として、全く新しい「Ζ」が見られるのだろうな、ということだった。
 企画段階では「逆襲のシャア」とのサブタイトルが付けられていたと聞く。とすれば、雌伏から逆襲に転じるシャア像が描かれる予定だったのではないだろうか。また、テレビ版の、シロッコを倒すもハマーンは生き延びるというラストは、「ΖΖ」へ続く都合上そうなったのだろうから、本来はハマーンも倒される予定だったのではないだろうか。そうした本来の?ストーリーが新作で描かれるのだろうと勝手に期待していた。
 そして、新作カットを加えつつも、基本的にはテレビ版の再編集であることを知り、失望した。予告編を見てその失望は決定的となり、映画館へ行く気は失せた。
 ただ、3作目の「星の鼓動は愛」で、テレビ版ラストのカミーユの崩壊はなくなると聞いたので、ではどのようなラストを迎えたのか、ラストを変えるとすればそこに至るまでの経緯も多少は変えざるを得ないだろう、どう変えたのかと気になっていた。
 そこで、3部作のうち3作目だけを観てみるという、やや無謀な行為をしてみた。





(以下ネタバレしまくっていますので、未見の方はご注意ください)





 テレビ版では、ラストのカミーユの崩壊は、直接にはシロッコの最後の怨念が引き起こしたように見えるが、放映当時の出版物で、富野監督らスタッフが、人間としての限界を超えたカミーユは崩壊せざるを得なかったという趣旨のことを述べていたので、シロッコはきっかけにすぎず、ストーリー上カミーユの崩壊は必然だったと解釈していた。事実、48話の「出来ることと言ったら、人殺しくらいかな」や「気にしてたら、ニュータイプなんてやってられませんからね」といったカミーユのセリフや、49話のバイザーを開けるシーンなど、崩壊が迫っていることを暗示するシーンもいくつか見られる。
 そのラストを改変するとすれば、かなりそれまでの流れを変更しなければならないはずだ。そこがどうなっているかが気になっていたのだが・・・。

 結局、大まかな流れはテレビ版のままだった。サラの死、ハマーンとの接触と拒絶、カツ、ヘンケン、ジェリド、レコア、エマの死といった、カミーユの崩壊に影響したであろうシーンは全てそのままだ。シロッコの最後の念の放出?までそのままとは。
 人物から発せられるオーラの描写や、モビルスーツのハイパー化?には、放映当時も批判があったようだし、ガンダムシリーズを通しても違和感が否めないのだが、それらも全てそのままだった。
 そして、ラストだけが、崩壊しないカミーユに変更されている。そうした、唐突な印象を受けた。

 映像は同じでも、セリフは微妙に変えられている。
 テレビ版での
「ハマーン・カーン、わかった! お前は生きていてはいけない人間なんだ!」
「貴様のような奴はクズだ! 生きていちゃいけない奴なんだ!」
「許せない! 俺の命に代えても、体に代えても、こいつだけは!」
「わかるはずだ! こういう奴は、生かしておいちゃいけないって!」
といった、カミーユの明確な殺意を示すセリフがなくなっている。
 ジェリドの
「俺は貴様ほど、人を殺しちゃいない!」
もなくなっている。
 全般的に、セリフがマイルドになっていると感じる。キャラクター同士の軋轢も、テレビ版ほど強くはないようだ。それが、富野監督の「新訳」なのだろう。
 
 しかし、セリフが少々変わっていても、やっていること(映像)は同じだから、テレビ版をよく知る者としては、大して変わらないようにしか見えない。
 だから、崩壊しないカミーユを見ても、しっくりこない。ラストだけが唐突にすげ替えられたとの印象が強い。
 テレビ版を知らずに初めて劇場版3部作を見れば、また違った感想を持つかもしれない。しかし、劇場版は所詮はダイジェストであり(よくこうもまとめられたものだと感心はするが)、予備知識なしにいきなり劇場版を見て、そのストーリーが理解できるとも思えない。
 これはやはり、完全新作で作るべきではなかったろうか。
 富野監督によると、旧作のフィルムも使わないと、「Ζ」ではなくなってしまうからといった理由があったというが。

 数年前、スカパーで「∀ガンダム」を観たときには、富野氏もまだまだやるなと感服したものだが。
 中途半端なリメイクより、新作で勝負してほしい。

 あと、一部の声優の変貌ぶり(声の)が、往時を知る者としては辛かった。
 特に、ブライト役の故・鈴置洋孝が(体調悪かったのかな・・・)。ヘンケン役の小杉十郎太も。
 逆に、経年を感じさせない方も多数おられたが。

つまらない話

2007-04-22 00:45:46 | ブログ見聞録
 私は小心者なので、さららさんのブログではとても言えないから、ここで言う。

 「君死にたまふことなかれ」は、口語文では「君死にたもうことなかれ」じゃないか?

 「死にたもう」と「死にたまう」で検索してみると、「死にたもう」の方が圧倒的に多いのだが、「死にたまう」も多少はある。
 何より、『詞華集 君死にたまうことなかれ』という本が出ているそうだ。
 いずれ、「死にたまう」が多数派になるのだろうか・・・。

「民主主義に脅威」か?

2007-04-18 23:53:14 | マスコミ
長崎市長射殺事件について、今日の朝日の1面の「解説」で森川愛彦という記者が次のように述べている(見出しは「候補者への襲撃 民主主義に脅威」)。

《今回の事件が日本の政治にもたらす最大の危険性は、開かれた選挙のもと、しかも選挙事務所前で、有権者の審判を仰ごうとした候補者が、物理的な暴力によって、言論で自己の心情を訴えるという民主主義の根幹の権利を奪われた点にこそある。》

《選挙期間中に候補者が襲われたケースは極めて特異だ。厳密には選挙期間中ではないが、1960年には、(中略)浅沼稲次郎委員長が刺殺されるという事件が起きている。今回の事件の衝撃はこれに匹敵するのではないか。
 なぜなら、何より選挙期間中は、政治家が有権者に自己の政策や信条を直接訴えるという政治活動が最大限保証されなければならない時期だからだ。》

 そうだろうか。
 現時点での犯行動機についての報道を見る限り、この事件が政治的テロだとは考えがたい。
 伊藤市長が選挙活動中だったのは事実だろうが、それが今回の事件とどこまで関連しているのか、疑わしい。
 ましてや浅沼委員長刺殺事件に匹敵するとは。

《この事件は単なる殺人未遂ではない。政党や政治家が、どこまで深刻に民主主義の危機ととらえ、発言し、行動していくのか。われわれ有権者がやるべきことは、それを注視していくことだ。》

 この事件を受けて「民主主義の危機」を唱えない者は民主主義の敵である、そんな言論統制が始まろうとしている。
 早速、夕刊の「素粒子」は、

《長崎市長狙撃直後に首相、記者側に請われて秘書官を通じ「真相が究明されることを望む」としか言わないとは-解せぬ思いだ。》

と述べている。

 テロに屈してはならないし、暴力団の行政への関与は排除されるべきだと思う。
 だが、この事件は20年前の本島市長へのテロとは異なるのではないか。
 朝日はむしろ、安倍政権批判、ないし右傾化批判のネタとして今回の事件を利用しようとしてはいないか。

 今日の夕刊には、昨年7月に「富田メモ」の報道をめぐり日経本社に火炎瓶を投じたという右翼が逮捕されたという記事も載っている。が、長崎市長の事件に比べ扱いはかなり小さい。
 民主主義への脅威を言うなら、むしろこちらだと思うがなあ。

(2007.4.20 am0:17付記)
 死亡を受けた朝日の18日付け夕刊の、野上隆生編集委員による「評伝」も異様な記事だった。就任当初は平和行政に消極的だったが、被爆者や市民の熱心な働きかけにより、平和市長に生まれ変わったのだそうだ。
《「平和市長」は被爆者や市民が作り、育て上げたのだ。》
 そしてこうしめくくっている。
《殺害の理由が何であれ、伊藤市長の中で育まれた核廃絶への意志をさらに受け継がなければならないことだけは、はっきりしている。》
「理由が何であれ」「はっきりしている」
 何で??

「最低得票率「必要」79%」は世論か

2007-04-17 23:52:44 | マスコミ
 今日の『朝日新聞』1面トップの見出しは、

《国民投票法案 最低得票率「必要」79%
  本社世論調査 内閣支持40%》。

 記事にはこうある。

《「必要」と答えた人は男女、すべての年代で多数を占めた。内閣支持層で79%、今国会での法案成立に賛成の人でも80%にのぼる。支持政党別では、自民支持層で80%、公明支持層で79%、野党の民主支持層では86%に達した。
 「必要はない」と答えた人は、全体の11%にとどまった。》

 どうやら、朝日は今後この最低投票率の問題で法案に揺さぶりをかけるつもりらしい。

 この最低投票率については、私も以前から気になっていた。
 別に最低投票率を設けてもかまわないだろう。法案では何故最低投票率の規定が盛り込まれなかったのか?
 と思っていたら、朝日の4面のQ&Aでわかりやすく解説されていた。

《Q 与党はなぜ最低投票率制を盛り込まなかったの?

 A 「国民投票を無効にしよう」とのボイコット運動を誘発するおそれがあるとか、国民の関心の薄いテーマだといつまでも改憲できなくなると説明している。「最低投票率を設けろ」と憲法に書いていないというのも大きな理由だ。》

 ああ、それはそれでわかる話だ。
 同じQ&Aによると、民主党も与党と同様の立場だったが、参院の簗瀬進は最低投票率にこだわる共産、社民に同調しているという。
 最低投票率を設けるにしても、何を基準とすべきか、難しいところだろう。

 ところでこの世論調査結果、そのまま世論として受け取っていいものだろうか。何かしらの作為は含まれていないだろうか。朝日に限らず、そうしたことはままあるものだが。
 4面に調査の質問と回答が記されているが、この最低投票率についてはこうなっている。

《衆院で可決された国民投票法案では、有効投票の過半数の賛成があれば、投票率の高い低いにかかわりなく、憲法改正が成立します。憲法改正が成立するには、投票率が一定の水準を上回る必要があると思いますか。
 必要がある   79
 その必要はない 11》

 この質問だと、国民投票法の規定はどうであれ、憲法改正に際してある程度の投票率があった方がいいと思う人は、「必要がある」と回答してしまうのではないだろうか。
 しかも、この調査は電話によるもの。どの程度まで正確に理解して回答していることやら。
 朝日が本当に最低投票率を設けることの是非を問いたいのなら、次のような質問にするべきではなかったろうか。

《衆院で可決された国民投票法案では、有効投票の過半数の賛成があれば、投票率の高い低いにかかわりなく、憲法改正が成立します。有効投票の過半数の賛成があっても、投票率が一定の水準(最低投票率)を上回らないと、憲法改正は成立しないとする規定を設ける必要があると思いますか。

 こうした質問なら、「必要がある」との答えはもっと減るのではないだろうか。
 また、上記のような、最低投票率の規定は不要とする立場の見解の説明も必要だろう。
 今回の朝日の調査は、フェアではないように思う。

 ところで、1面の見出しに「内閣支持40%」とあるが、2月以来、支持が不支持を上回ったことには見出しでは触れないのだな。
 前回の調査の発表の時には、2月、3月、4月と3回にわたって不支持が支持を上回ったことから、その傾向が定着したと書かれていたように思うが。
 支持回復は朝日的には見出しにすべきことではないということのようだ。

テレビドラマ「セクシーボイスアンドロボ」1話 感想

2007-04-16 23:58:13 | その他のテレビ・映画の感想
 明日が第2話なので、録画していた1話を今日見てみた。

 うーーーーーーーーむ・・・・・・・・・。





(以下ネタバレしてます)





 三日坊主がロボの部屋から出て行ってしまっているシーンあたりまでは、まあ、原作からだいぶ離れているけど、これはこれでいいか、面白いし・・・と思っていたのだが・・・。
 そこから後の展開がなあ・・・。
 いや、それもまあ一応原作に準じてはいるんだけど、でもなあ。
 いや、ドラマは原作とは別物と考えるべきなのだが、でもなあ。
 あんなウェットなニコは私の好みではないです(何だそりゃ)。

 黒田硫黄のマンガを読むようになったのはいつごろからだったろう。
 昔、『アフタヌーン』を購読していた頃、「大日本天狗党絵詞」が連載されていたのだが、何だか汚い絵とよくわからん話(失礼)でまともに読んでいなかった。
 そう、たしか「ネオ・デビルマン」の短編でこの人の魅力に気付かされたように思う。
 その後、この「セクシーボイスアンドロボ」、そして「茄子」「大日本天狗党絵詞」へと進んでいったような。
 最近、あまり新作を見ないような気がするけど、どうしたのだろう。

 明日の第2話も一応見ることにする。