トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

民主党の国旗騒動に思うこと

2009-08-31 23:28:47 | 「保守」系言説への疑問
 選挙前、民主党が今月8日の鹿児島県での集会で壇上に掲げた党章が、わが国の国旗「日の丸」を切って貼り合わせたものだったことが問題になった。
 自民党や産経新聞などはそれみたことかと民主党の国家観を問題視してさかんに攻撃したが、結局、投票行動にはあまり影響を与えなかったようだ。

 民主党が国旗を損壊したことは事実だし、国旗は尊重すべきものであることもまた確かだが、党章は国旗を貼り合わせて作るべしと民主党本部が自ら指示していたわけでもあるまいに、こんなことしか言えないのかと有権者はむしろ自民党に呆れかえったのではないだろうか。

 この件についての自民党パンフレットをそのまま載せているらしい無宗ださんのブログの記事「日教組に日本はまかせられない」を見ていて思ったのだが。

 冒頭に「「日の丸」のある自民党大会」と「「日の丸」のない民主党大会」と題された写真が対照的に掲げられている。

 その、今年行われた第76回自民党大会の写真を見ると、壇上に2つの旗が掲げられている。
 1つは日の丸、もう1つは菊の御紋章だろう。

 ……自民党のマークはどうした?

 そして、何故党大会に菊の御紋章がある?

 このパンフは、「民主党大会では国旗「日の丸」が掲揚されていません。」と述べ、それは民主党の支持団体である日教組の意向によるものだとして、日教組をさかんに攻撃している。
 その内容には、私も同調できる部分は多々ある。

 ただ、その上で言うが、何故「日の丸」と「菊の御紋章」なのか。

 安倍晋三が首相だった時、私は安倍が来るという補欠選挙の応援演説を見に行ったことがある。
 その時聴衆には何故か日の丸が配られた。
 私は、以前にも記したように、そのことにひどく違和感を覚えた。
 国家的行事、例えば、皇太子ご成婚とか、天皇の即位とか、そういったことで日の丸を振ることはあるだろう。国際的なスポーツの大会で日の丸を振ることもあるだろう。
 だが、選挙の応援演説に何故日の丸なのか?

 国旗は尊重すべきものである。しかし、政党というのは、要するに同志の集まりである。国とは直接関係ない。
 自民党は長期にわたって与党だった。しかし、だからといって自民党のみがわが国を代表できるのではない。日の丸は国旗である。自民党のマークではない。
 にもかかわらず、何故党大会や選挙演説で日の丸なのか。

 民主党に日の丸を軽視する傾向があることは事実だろう。
 しかし、一方自民党は、「日の丸」を私物化していると言えるのではないか。

 菊の御紋章に至っては何をか言わんや。

特攻とは何か ――『お言葉ですが…』10巻から

2009-08-30 22:48:28 | 大東亜戦争
 高島俊男の『お言葉ですが…』の10巻「ちょっとヘンだぞ四字熟語」が文春文庫で刊行されていたことを最近知った。

 「お言葉ですが・・・」は『週刊文春』に1995年から2006年にかけて連載されたエッセイ(そうか、もう連載終了から3年にもなるのか……)。
 単行本は10巻まで文藝春秋から刊行されたが、最後の11巻だけは何故か連合出版から出版されたため、何か文藝春秋とけんかでもして連載が打ち切られたのかと思っていた(そのことは以前にも書いた)。

 私は最初からこのシリーズを文庫本で読んでおり、最終巻が連合出版から出たときには文庫本は7巻までしか出ていなかったので、残りの分をどうしたものか、単行本を買うべきなのかと悩んだが、その後ゆっくりとではあるが10巻までは刊行されてきたので、ホッとしている。問題の11巻も、是非とも文春文庫でも出してほしいし、出さないなら出さないとアナウンスしてほしいものだ。

 このシリーズ、8巻あたりからパワーダウンしてきたように思っていたが、本巻では特にそれを感じた。もちろん、興味深い話はいろいろあるのだが、初期の頃のような迫力が衰えている。著者は目をわずらい本が読めなくなったというし、年齢的なこともあるだろう。しかしこれでは、単行本の刊行中止、連載終了も文藝春秋としてはやむをえない決断だったかもしれない。

 そんな本巻だが、最後の「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」は強く印象に残った。

 2005年1月に、高島は産経新聞紙上で、満面の笑みを見せる出撃直前の特攻隊員たちの写真を見たという。昭和20年4月に台湾の桃園飛行場の整備隊長だったという関忠博という人物から産経の投書欄に送られてきた写真で、それに基づいて産経の草下健夫記者の「大空に散った笑顔」と題する記事が載っていたのだという。
(以下、引用文中の太字は引用者による)

「満面の笑み」とあるが、もっとずっと明るい。まるで敵空母でも沈めてきたように、健康な白い歯を見せて、ほとんど哄笑しているのである。
「いまから死にに行く者が、こんなに晴れやかに笑えるものか!」
 わたしは、これは「出撃直前」の写真ではないのではなかろうか、と、強い疑いの念を感じた。
 記事によると、彼らは台湾で編成された特攻隊の1つ「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」だという。4月22日、関氏が「最後の姿を残してあげたいと」写真撮影をした後、彼らは二式複座戦闘機「屠龍」14機に乗り込んで出撃し、「沖縄本島周辺で米軍の巡洋艦と貨物船と見られる船を一隻ずつ撃沈しました。しかし、米軍から猛烈な機関砲射撃に遭い、途中で撃墜された機も多く、生還したのは、離陸後間もなく海に落ちた一機のみ」だったという。
巡洋艦を撃沈したとすれば特大の戦果だが、沖縄戦で特攻機が巡洋艦を沈めたという記録はないようである。
 海に落ちた戦闘機が生還できるとは思えない。搭乗員が脱出生還したということであろうか。
 高島は、森本忠夫『特攻』(光人社NF文庫)により、この4月22日に沖縄方面に出撃して帰らなかった陸軍特攻機は「第8飛行師団誠第百十九飛行隊」の「二式双襲」5機を含む8隊42機であり、さらに海軍特攻未帰還機が3機あり、計45機による戦果は米側資料によると「掃海艇一隻命中沈没、歩兵上陸艇一隻命中沈没、駆逐艦二隻に一機の至近弾、同一艦に一機命中とある。四十五機のうちのどれによる戦果なのかはわからない」ことを確認する。
 
当日〔中略〕散華したのは上記の通り五機五人である。八機は石垣島で待機したか、あるいは出撃したが石垣島に引き返したのであろう。
 さらに、当時の米軍の弾幕とは「猛烈な機関砲射撃」というような生やさしいものではなかった、「無数の弾丸が作るぶあつい壁が特攻機の行く手に立っている、というようなものだったらしい」という点にも触れた上で、
 
草下記者は(あるいは関氏は)何にもとづいて、四月二十二日誠百十九隊の特攻機が米巡洋艦を撃沈した、と書いた(言った)のだろう。そもそもこの日でなくても沖縄戦で、アメリカの巡洋艦が日本の特攻機に沈められた事実があるのだろうか。
と記している。

 この文庫版は、単行本が刊行されてから後に寄せられた読者からの指摘や高島の弁明などが書かれた「あとからひとこと」が面白い(だから私は文庫版で買い続けている)のだが、本作の「あとからひとこと」は実に読み応えがあった。
 「お言葉ですが…」は、文字どおり、言葉にまつわるエッセイである。他人の言葉遣いや書かれた内容が俎上に上げられることも多く、簡単に言うと「悪口」になりがちである。しかしそんな場合でも、著者の態度はもっぱら軽妙洒脱であり、不快に感じることは少ない。
 しかし、この回の「あとからひとこと」では、珍しく憤りをあらわにしていた。ここまで高島が憤りを示すのは、「お言葉ですが…」始まって以来のことではないだろうか。

わたしが本文で言おうとしたのは、産経新聞草下記者の記事も、写真の説明も、信じられない、この関という人の言っていることは信用できない、ということであった。
 〔中略〕しかし、やや遠慮した書きかたをしたために、特攻隊の壮挙をたたえたものように受け取られたらしい。右のお手紙の「よくこそ取り上げて下さいました」を見てそのことに気づき、愕然とした。週刊文春「お言葉ですが…」に書いた文をそのまま単行本に収めるのがわたしの方針だが、この文にかぎり、わたしの疑念と不信がもうすこしハッキリとお読みくださるかたにつたわるように、手をくわえた。
 特攻隊は、戦果をあげるのが目的ではなく(あがるはずがなかった)、多数の若者をつぎつぎに死なせるのが目的であった。そのことは、本文中に引いた『特攻』の森本忠夫さんもはっきり書いてある。もうどうにもならない彼我の差であり戦局なのだが、毎日大勢の飛行機乗りを死なせることによって、日本軍の上層部は「懸命に戦っております」という形を作ったのである。離陸したとたん海に落ちるような劣悪な機体、未熟な技倆で、弾幕を突破して敵艦の急所に突っこむことなどできるはずがないことを、命令する連中は十二分に承知していた。
 関という人もかなりいいかげんな人なのだろうが、草下というのも無知かつ怠慢な記者だ。
 特攻機が巡洋艦を撃沈できるものかどうか、沖縄戦の段階でそんなことがあり得るかどうか。そもそも巡洋艦というのはどんな軍艦であるか知っているのか。そんな記者に記事を書かせてそのままのせる産経新聞も無責任な新聞である。〔中略〕
 特攻隊は、陸海軍のホンチャンたち(陸士や海兵を出たプロの軍人)が、自分たちのメンツのために、少年飛行兵や学生出身などのしろうとの飛行機乗りを大勢殺した行為なのである。
 最後の一文はよく記憶しておきたい。

(念のために付記しておくが、高島はいわゆる平和論者ではないし、いわゆる朝日・岩波的な進歩派をしばしば批判している。
 その高島にしてこれだけのものを書かせるのが特攻であり、現在の産経新聞なのである)

「自民党が自民党でなくなった」か?

2009-08-29 22:13:22 | 現代日本政治
 だいぶ前に書こうと思いつつ放置していたネタを今さらながら。

 7月30日の産経新聞「正論」欄で、遠藤浩一・拓殖大学大学院教授が「自民党が自民党でなくなった」と題して以下のように述べていた。
(ウェブ版はこちら



「政権選択」は当たり前

 「政権選択」もしくは「政権交代」を争点とした総選挙ということがことさら話題になるのも奇妙な現象である。全体主義国を別にすれば、選挙とは政権を選択するために実施されるものである。わが国も現行憲法では国会議員の中から内閣総理大臣が指名されることになっており、かつ衆議院の優越性が規定されているので(67条)、これまでも国政選挙、就中(なかんずく)衆院選は、常に「政権選択」をかけて行われてきた。ただ、与野党の実力が開きすぎていたため、事実上有権者に選択権はなかった。それがこのたびようやく、選択権が生じたということらしい。

 しかしその実態は、自己鍛錬を積んだ民主党がリードに転じたというより、自民党の衰退、堕落が著しく、仕方がないから民主党に一回やらせてみるかという、かなり投げ遣(や)りな雰囲気になっている。選挙必勝の鉄則は逸(いち)早く争点を設定し、その土俵にライヴァル党やメディアや有権者をのせてしまうことにある。平成17年の郵政民営化総選挙で小泉純一郎氏がやったのはこれだった。今回民主党は、有権者の自民党に対する不満とその結果としての投げ遣りな気分に巧妙に棹(さお)差して、いつの間にか「政権交代」を争点にしてしまった。たった4年で形勢が逆転した戦術的理由はここにある。


「景気」の先にある理念を

 これに対して麻生太郎首相は「安心社会実現」と叫んで、争点を手繰(たぐ)り寄せようと躍起になっている。大規模な景気対策を断行して経済危機もどうにか底を打った感がある、これまでの実績を見てくれ、その実績の上に「安心社会」をつくってやろうじゃないかという意気込みを示しているだろう。気持ちは分らぬではないが、自民党に対する不満や倦怠(けんたい)感が高まっているときに、その自民党総裁としての過去の実績を争点にして選挙をするのは無理がある。麻生氏が示すべきは「景気対策」の先のビジョンだった。それは盟友・安倍晋三氏が首相時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」の実践的推進ではなかったか。

 首相にしても、景気を回復しさえすれば「安心社会」が実現するなどとは思ってはいまい。「安心社会」とは政治・経済・軍事面にわたる国際環境の激動に耐え抜く逞(たくま)しい国家である。それは経済成長と再分配による民生安定を両立しうる成熟したシステムを有し、国益を実現しつつ国際社会に貢献し、国防について自己責任を果たせる国家である。拉致された同胞を救出できず、隣国の異常な軍拡を拱手(きょうしゅ)傍観するばかりの国を「安心社会」などとは呼べまい。

 今日の自民党の衰退は、麻生氏の個人的な資質が原因となっている面もないではないが、それよりもなによりも何年もかけて自民党が自民党でなくなってしまったところに最大の問題がある。小泉改革で経済社会のバランスは崩壊し、自民党組織は小泉氏の公約通りぶっ壊れた。公明党との協力関係深化によって得るものも多少あったかもしれないが、それ以上に失うものの方が大きかった。

 最も深刻なのは思想・理念の混乱である。護憲派から改憲派まで、あるいはケインジアンからマネタリストまで、自民党には多様な立場や見解が混在している。安倍元首相が「戦後レジームからの脱却」を掲げたところ、河野洋平前衆院議長は「日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択し今日まで歩んできた」と、真っ向から反発した。水と油である。しかし、真の意味での「安心社会」をつくるにあたって最大の阻害要因となるものが、安全保障の枢要な面は米国に依存し、もっぱら経済面での国益を追求してきた戦後体制にあることは言うまでもない。その原型を作ったのは、首相の祖父である吉田茂元首相だった。


真に安心できる国家に

 昭和30年の保守合同によって誕生した自由民主党結党の党是は「自主憲法制定」であり、それは「脱戦後」すなわち「脱吉田」を意味した。保守合同をリードした主役の一人は安倍氏の祖父、岸信介元首相だった。が、岸内閣の後を襲った池田勇人首相(吉田氏の愛(まな)弟子)が自分の内閣では憲法改正は取り上げないと宣言して以来、歴代内閣は党是を棚上げし続けてきた。実はこの頃から自民党は自民党でなくなりはじめていたのである。半世紀経過してかつて対立した二人の宰相の孫の連携が成ったのは、戦後政治史上特筆すべき展開だった。ここで自民党は自らを超克することによって再生するチャンスを掴(つか)んだ筈(はず)だった。

 しかし安倍氏は志半ばにして退陣し、麻生氏は景気対策に追われて本来の仕事を見失ってしまった。チャンスは空中分解した。そこに民主党が付け込んだ。こういう状況の下、麻生政権は解散・総選挙に打って出たわけである。これも一つの判断なのだろう。劣勢が伝えられる自民党だが、その総裁として選挙を戦う麻生氏の使命は、バラマキ合戦への参戦ではなく、真に安心できる国家を再生するための骨太の構想を示し、素心を以て訴えることである。



 感想。

それは盟友・安倍晋三氏が首相時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」の実践的推進ではなかったか。
 いや違う。そうであれば、自民党は先の参院選であれほど大敗することはなかった。

今日の自民党の衰退は、麻生氏の個人的な資質が原因となっている面もないではないが、それよりもなによりも何年もかけて自民党が自民党でなくなってしまったところに最大の問題がある。
 櫻井よしこも以前、自民党は自民党らしさを取り戻せという趣旨のことを産経紙上で言っていた。
 そうなのだろうか。自民党は、彼らの言う「自民党らしさ」=右派性を失ったが故に、現在凋落しているのだろうか。

岸内閣の後を襲った池田勇人首相(吉田氏の愛(まな)弟子)が自分の内閣では憲法改正は取り上げないと宣言して以来、歴代内閣は党是を棚上げし続けてきた。実はこの頃から自民党は自民党でなくなりはじめていたのである。
 自民党の結成は1955年。池田内閣の成立は1960年。
 池田内閣の頃から「自民党は自民党でなくなりはじめていた」のだとすれば、鳩山、石橋、岸の3内閣時代を除いて、自民党のほとんどの期間は、自民党でなくなりつつあったのだということになる。
 それはむしろ、自民党とはそういう政党だったということだろう。
 遠藤の言う「自民党でなくなり」つつある状態こそが、自民党の実態だったということだろう。

 たしかに自民党の党是は「自主憲法制定」だった。しかし、池田以降、それを正面から掲げた政権はなかった。岸の流れを汲む福田赳夫や、タカ派とされた中曽根康弘の政権においてもである。
 そして、そうであったからこそ、自民党は長期にわたって与党であり続けてきたのだろう。
 遠藤自身も言っているではないか。
護憲派から改憲派まで、あるいはケインジアンからマネタリストまで、自民党には多様な立場や見解が混在している。安倍元首相が「戦後レジームからの脱却」を掲げたところ、河野洋平前衆院議長は「日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択し今日まで歩んできた」と、真っ向から反発した。水と油である。
 そうした多種多様の人材を擁していること、それこそが自民党の強味だったのである。
 そして、よく言われるように、派閥連合体である自民党内での派閥の組み替えが疑似政権交代として機能して、自民党は与党であり続けてきた。自社さ連立、自自公連立、そして小泉純一郎の「自民党をぶっ壊す」もその変形だろう。

 しかし、その延命策ももはや限界に達した。

 そもそも、自民党の結成、すなわち保守合同とは何だったろうか。それは、保守政党が大同団結することにより、社会党や共産党の政権奪取を阻止するためのものだった。冷戦構造の産物だった。
 しかし、ソ連は崩壊し、中国もグローバル資本主義に組み込まれて久しい。わが国が共産化する可能性はなくなったと言っていいだろう。
 そしてまた、自民党も、小選挙区制によって派閥の力は弱まり、かつてのような疑似政権交代は期待できなくなっている。
 とすれば、現政権に不満をもつ層が、もう1つの保守政党である民主党を選択しても不思議ではないだろう。
 (民主党は保守政党ではないという見方もあるだろうが、ここで言う保守とは、かつての保革対立時代と同様、自由主義体制を堅持する勢力という意味で用いている)
しかしその実態は、自己鍛錬を積んだ民主党がリードに転じたというより、自民党の衰退、堕落が著しく、仕方がないから民主党に一回やらせてみるかという、かなり投げ遣(や)りな雰囲気になっている。
 長期にわたる一党優位制の下で、自己鍛錬を積んだ野党が与党をリードするなどという事態が有り得るのだろうか。
 与党の衰退、堕落が激しければ、野党に代えてみようかという発想が出てくるのはごく自然なことだと思うが、それは「投げ遣り」などと否定的に捉えるべきことだろうか。

今回民主党は、有権者の自民党に対する不満とその結果としての投げ遣りな気分に巧妙に棹(さお)差して、いつの間にか「政権交代」を争点にしてしまった。
 いや、民主党がうまくやって「政権交代」を争点にしたのではない。遠藤自身も述べているように、自民党の凋落が著しいから、有権者が愛想を尽かして民主党支持に傾いたのである。そうなることで自動的に政権交代が争点になったのである。そこを取り違えてはならない。

劣勢が伝えられる自民党だが、その総裁として選挙を戦う麻生氏の使命は、バラマキ合戦への参戦ではなく、真に安心できる国家を再生するための骨太の構想を示し、素心を以て訴えることである。
 実際、選挙戦で自民党は国家観や安全保障問題での違いを強調している。だがそれがさほど功を奏しているようには見えない。

 私の国家観や安全保障観は、民主党よりも自民党に、それもその右派に近い。だが私は、それを理由に、今回自民党を支持する気にはならない。それは、遠藤の言うような安心社会、「経済成長と再分配による民生安定を両立しうる成熟したシステムを有し、国益を実現しつつ国際社会に貢献し、国防について自己責任を果たせる国家」が現在の自民党によって実現できるとは思えないからだ。何故なら、それがこれまでの自民党政治の「実績」だからだ。
 自民党右派は、冷戦構造の遺物である自民党という枠組みにこだわらず、民主党や他党派の同調できる人々と大胆に連携すべきではないだろうか。つまり、政界再編の勧めである。

昭和戦前期の政治に学ぶとすれば(後)

2009-08-28 22:37:39 | 日本近現代史
(前編はこちら

 井上の言う「教訓」についても、疑問がある。

3.国民が求めているのは、「民・自+αの連立政権」?

 
第1に、二大政党制よりも連立の枠組みの重要性である。当時と類似した「非常時小康」下において、国民が求めているのは、非常時の再来に備えてあらゆる政策の実行を可能にする強力な国内体制の確立である。民主党の単独政権に任すわけにはいかない。そうだとすれば、民・自+αの連立政権を構想すべきである。


 これも国民が求めているという根拠がわからない。
 いわゆる「ねじれ国会」の中、私は自・民大連立という選択肢はアリだと考えていた。しかし国会議員においても世論においてもそれが多数派とはならなかったはずだ。昨今の世論調査でもそうである。

 そもそも、「非常時の再来に備えてあらゆる政策の実行を可能にする強力な国内体制」は、自・民の大連立、あるいは挙国一致内閣によって確立できるものなのか?
 まずそこがおかしいのではないか。


4.基本政策の共有?

 
第2に、主要政党は基本国策を共有しなくてはならない。複数政党制の成立は、基本国策の共有が前提条件となっている。昭和戦前期の政党は、政権獲得のために政策の違いを過度に強調することで自滅した。


 まず、
「共有しなくてはならない」
 誰がそんなことを決めたのか。
「前提条件となっている」
 どこにそんな条件が規定されているというのか。
 いいかげんなことを言うもんじゃあない。

 「基本国策」とはあいまいな言葉だが、では非核3原則の見直しはどうか。集団的自衛権の解釈変更はどうか。自民党がこれらを変えたくとも、民主党と「共有」しなければ変えられないというのか。
 これらが「基本国策」でないというなら、日米安保体制の見直しはどうか。徴兵制の導入はどうか。死刑廃止はどうか。
 憲法改正はどうか。女系天皇の問題はどうか。いやいっそ天皇制自体の存廃はどうなのか。

 自由意志による多数派が形成されれば、何だって変えていいのである。それが自由主義社会というものである。
 井上の言う「前提条件」など、存在しない。

 さて、戦前の政党は、政策の違いを強調しすぎて自滅したのだろうか。

 戸川猪佐武は、前掲の引用部分に続けて、こう述べている。

 
政友、民政、国民同盟、無産党とも、おしなべて、
 ――挙国一致体制の確立。
 を、スローガンにかかげた。それ自体、政党、議会政治の否定につながっていったが、それを謳わざるを得ないほどに、時代は変わっていたのである。わずかに野党政友会が、
 ――挙国一致性において、岡田内閣は弱体である。
 と、政府批判を行った。それに、
 ――官僚主義を排除せよ。
 ――国防と産業を両立せよ。
 と、論じた。これに対して、与党的な民政党は、
 ――挙国一致か、政権争奪か(政友会は挙国一致を否定し、政権争奪に終始する党利党略本位である)。
 ――兵、産、財の三全主義をとれ。
 という主張を繰りひろげた。他に国民同盟は、「国防、外交の一元化」、昭和会(政友会脱党、除名組)は「挙国一致を破るもの(政友会)を葬れ」、社会大衆党は、「まず国内改革を断行せよ」というスローガンで闘った。このうち、野党的な社大党が、「重要産業の国有化」「民衆富んで国防危うし」など、他の党とは異なった主張をかかげたものの、これもまた当時の軍部、新官僚に迎合するものであった。政党のほとんどが、軍部、新官僚に圧されつつあったのである。


 この選挙に限らず、政友会と民政党など、現在の自民党と民主党ほどの違いもなかったのではないか。

 井上は上の文に続けて言う。

 
今も総選挙に向けて、同様の誤りに陥りかねない状況が生まれている。必要なのは、政権交代によっても変わることのない、外交・安保の基本国策の共有である。


 おや、「基本政策の共有」がいつのまにか「外交・安保の基本国策の共有」になっているなあ。
 結局はそれが言いたいのか。民主党は外交・安保が頼りないと。

 現在の自民党と民主党の基本政策の差は、かつて長年野党第1党だった社会党と比べて、はるかに接近しているのではないか。


5.「国民は代表民主制への信頼を失うことがなかった」?

 第3に、代表民主制への信頼の回復である。日中全面戦争勃発の直前まで、国民は平和と民主主義を求めていた。平和と民主主義は、政党政治をとおして実現する。国民は代表民主制への信頼を失うことがなかった。

 今日の私たちも、代表民主制への信頼を回復すべきである。国家と国民をつなぐ政党の政治への信頼回復は、国家と国民の一体感の再形成をもたらすだろう。そうなれば国民国家日本の再建が可能になるはずだ。


 代表民主制への信頼が失われていなかったのなら、政党内閣に戻せという声が上がらなかったのは何故だろう。五・一五事件の被告に対して減刑運動が巻き起こったのは何故だろう。

 岡田内閣では天皇機関説事件が起こった。美濃部達吉は議員辞職を余儀なくされ、内閣は国体明徴の声明を発せざるを得なかった。統治権の主体は天皇にあり、機関説は国体にもとると言明した。
 天皇主権が何で代表民主制なものか。
 そもそも「民主」という言葉すら用いられていなかったというのに。

 岡田啓介は回顧録で、政友会の国体明徴運動のような政府攻撃のやり方は、その後社会が議会政治否定の方向へ動いていったことを考えると、「政党人が自分の墓穴を掘るような心ないことだったと思う」と述べている。

 現代の我々が昭和戦前期の政治から何かを学ぶとすれば、まずは、政争に狂奔するあまり、政党人が自ら代議制を否定するかのような振る舞いをしてはならないということではないかと私は考える。
 井上とは違って私は、「代表民主制への信頼を回復す」るもなにも、こんにち、代表民主制への国民の信頼は失われていないと感じている。
 だからこそ、自民党に変わりうるものとして、民主党が支持されているのだろう。

 怖いのは、自民党もダメ、民主党もダメとなって、代表民主制の下ではもうどうしようもないとなった時だろう。
 そういう意味でも、民主党にはしっかりしてもらいたい。

民主党完勝への不安

2009-08-27 22:34:54 | 現代日本政治
 今朝の朝日の1面には驚いた。

民主320超、自民100前後 朝日新聞中盤情勢調査(朝日新聞) - goo ニュース

総選挙中盤の情勢について、朝日新聞社は22~25日に全300小選挙区の有権者を対象に電話調査を実施、全国の取材網の情報を加えて探った。それによると、(1)民主は非常に優勢で、衆院の再議決に必要な3分の2の320議席を得る可能性がある(2)自民は大敗が確実になり、100議席前後に落ち込む見通し(3)公明は小選挙区で苦戦、20台にとどまりそう(4)共産は比例区でほぼ前回並み、社民は小選挙区で善戦、などの情勢になっている。


 民主が320、自民が100前後って……。
 これは、勝ち過ぎじゃないか……?

 こんな記事もある。

民主勝ちすぎ候補者不足?比例近畿など議席流れる可能性(朝日新聞) - goo ニュース

 圧勝が確実な情勢にある民主党では、一部の比例ブロックで、獲得議席数が名簿の候補者数を上回る結果、議席配分の権利を失う「候補者不足」の事態が発生しそうだ。

 可能性があるのは近畿、九州ブロックなど。九州ブロックで民主党は8~11議席を獲得する勢いだ。比例の候補者は30人いるものの、28人は選挙区との重複候補で、選挙区で当選すると比例名簿から名前が消える。仮に比例議席の獲得数が8だとして、小選挙区での「勝ち抜け」が続出し、名簿に残る比例候補が7人以下となれば、獲得した議席数が余ってしまう。


 私は、一般論として、政治に政権交代はあった方がいいと思う。
 そして、今回劣勢の自民党がなりふり構わず吠えるほど、民主党では危険だとか、政権担当能力に欠けるとは思わない。

 しかし、ここまで勝ってしまうと、それ自体ちょっと怖い。

 今回大量に当選するであろう新人の多くがいわゆる「小沢チルドレン」と化し、小沢一郎の民主党支配がさらに進むのではという懸念もある。
(私は小沢一郎という人について、いわゆるマキャベリストとしての力量は大いにあると思うが、政治家として何がやりたいのか、わが国をこれからいったいどうしたいのかが見えないという点に強く不安を覚える。この人は要するに権力を振るうことそれ自体を目的としているように思えてならない)


 調査時点で投票態度を明らかにしていない人が小選挙区で4割弱、比例区で3割弱おり、終盤にかけて情勢が変わる可能性もある。


 さて、この層から、この報道を見て、こんなに民主に勝たせすぎては怖いから、やっぱり今回は自民党にという人が出るだろうか。
 それとも、勝ち馬に乗りたい人の背中を押すことになるのだろうか。

 紙面ではこんな記事もあった。

 民主党が単独で衆院の3分の2の320議席を得れば、福田、麻生両政権が繰り返した「衆院再可決」ができる。これを有権者が嫌って揺り戻しが起こるのではと党幹部らは警戒。鳩山代表は広島県東広島市での街頭演説でこう訴えた。
 「(与党は)3分の2(による衆院再可決)を一体何度行使したのか。私たちは政権を取れば、数の暴力で何でもかんでも強引に物事を決めることは一切しません。どうぞ安心して力をお貸し願いたい」


 よく記憶しておくとしよう。



昭和戦前期の政治に学ぶとすれば(前)

2009-08-16 23:05:05 | 日本近現代史
 7月28日の産経新聞「正論」欄に、井上寿一・学習院大学教授の次のような文章が載っていた。
(ウェブ版はこちら


昭和戦前期の歴史に学ぶ教訓


不確実な新政権の枠組み

 8月30日の総選挙の結果、民主党が第一党になることは確実である。しかし、新しい政権の枠組みは不確実であるといってよい。

 総選挙後の国内政治システムの予測困難性は、国際環境の不透明さによって増幅される。

 昨年秋以来の世界同時不況は、小康状態を保っているものの、景気が二番底に向かうリスクを抱えている。今春から続く北朝鮮のミサイル・核実験によって、東アジアの安全保障環境に危機が訪れないとも限らない。

 このような不確実性が増す国際環境のなかで、総選挙後の国内政治はどのようなものになるべきだろうか。

 以下では昭和戦前期との歴史的類推から考えてみることにする。

 昭和8年の日本は、「非常時小康」の時代を迎えていた。満州事変と5・15事件をきっかけとする「非常時」は続いていたものの、「小康」状態が生まれていた。

 この年の国際連盟脱退通告によって、かえって対外危機は沈静化に向かっている。5月には日中停戦協定が成立する。他方でこの年を境に経済危機も沈静化する。高橋(是清)蔵相の積極財政が功を奏したからである。


基本国策の共有が前提

 このような危機の沈静化は、協調外交の修復と政党政治の復権をもたらす。政党は軍部批判に立ち上がった。当時の第一党は政友会である。しかし国民が期待したのは、政友会の単独内閣の復活ではなかった。これでは政友会と民政党の二大政党制の復活につながりかねない。二大政党制の下で党利党略に明け暮れる政党政治に用はなかった。国民は、「小康」状態のうちに、新しい政党政治の枠組みの確立を求めていた。それは政友会と民政党が提携し、無産政党も協力する、政党内閣の新しい枠組みだった。

 この構想の実現可能性が高まれば高まるほど、国内外の危機の沈静化は確実なものとなっていく。ところが皮肉にも、そうなると今度は政党間の連携に乱れが生じた。危機が沈静化に向かうなか、協力するよりも自党の利益を重視するようになったからである

しかも衆議院議員の任期満了に伴う総選挙が近づいていた。第一党の政友会は単独内閣をめざす。無産政党は自己主張を始めて、民政党との対立を深めていく。

 このような国内の政党間対立の混乱に乗じて、現地軍が中国大陸で蒋介石の国民党勢力を華北地方から排除する政治工作をはじめた。日中の外交関係の部分的な修復は、大打撃を受ける。日中関係はふたたび悪化した。

 緊迫化する内外情勢の下で、昭和11年2月20日、総選挙が実施される。第一党は、205議席の民政党だった。政友会は改選前301議席から171議席へと転落した。無産政党は22議席へ躍進した。この選挙結果に示される国民の意思とは、民政党と無産政党が中心の連立内閣によって、社会民主主義的な改革を進めるというものである。政党政治に対する国民の期待は揺るがなかった。

 危機感を抱いた軍部の一部がクーデター事件(二・二六事件)を起こす。国民が反乱軍に同情することはなかった。しかし実際に反乱を鎮圧したのは軍部であり、これをきっかけとして軍部が再台頭する。ほどなくして日中間の軍事衝突が勃発(ぼっぱつ)する(昭和12年7月の盧溝橋事件)。体制統合の主体を失った日本は、戦争の拡大を抑制できずに破局へと向かった。


代表民主制に信頼回復を

 以上の昭和戦前期の歴史から、今日の私たちは、どのような教訓を学ぶべきだろうか。

 第1に、二大政党制よりも連立の枠組みの重要性である。当時と類似した「非常時小康」下において、国民が求めているのは、非常時の再来に備えてあらゆる政策の実行を可能にする強力な国内体制の確立である。民主党の単独政権に任すわけにはいかない。そうだとすれば、民・自+αの連立政権を構想すべきである。

 第2に、主要政党は基本国策を共有しなくてはならない。複数政党制の成立は、基本国策の共有が前提条件となっている。昭和戦前期の政党は、政権獲得のために政策の違いを過度に強調することで自滅した。

 今も総選挙に向けて、同様の誤りに陥りかねない状況が生まれている。必要なのは、政権交代によっても変わることのない、外交・安保の基本国策の共有である。

 第3に、代表民主制への信頼の回復である。日中全面戦争勃発の直前まで、国民は平和と民主主義を求めていた。平和と民主主義は、政党政治をとおして実現する。国民は代表民主制への信頼を失うことがなかった。

 今日の私たちも、代表民主制への信頼を回復すべきである。国家と国民をつなぐ政党の政治への信頼回復は、国家と国民の一体感の再形成をもたらすだろう。そうなれば国民国家日本の再建が可能になるはずだ。

 私たちは昭和戦前期の歴史の教訓を活かさなくてはならない。



 一読して、次のような疑問を持った。

1.国民が政党内閣を求めた?

二大政党制の下で党利党略に明け暮れる政党政治に用はなかった。国民は、「小康」状態のうちに、新しい政党政治の枠組みの確立を求めていた。それは政友会と民政党が提携し、無産政党も協力する、政党内閣の新しい枠組みだった。


 斎藤内閣、続く岡田内閣で、政友会と民政党が提携する動きが一時あったとは聞く。しかし、それに無産政党をも加えての枠組みを国民が求めていたとは、聞かない話である。
 井上は何を根拠にこのようなことを述べているのだろうか。井上の著書を読めばわかるのだろうか。


2.「民政党と無産政党が中心の連立内閣」が「国民の意思」?

 
この選挙結果に示される国民の意思とは、民政党と無産政党が中心の連立内閣によって、社会民主主義的な改革を進めるというものである。政党政治に対する国民の期待は揺るがなかった。


 何をもって「国民の期待は揺るがなかった」と言えるのだろうか。昭和会や国民同盟のような右派政党が多数を占めなかったからか。右派であっても、政党は政党だろう。議会で政党を構成することが認められている以上、立場はどうあれ政党政治になるのではないか。それとも当時、政党を否定して無所属で議員になろうとする運動があったとでも言うのだろうか。

 民政党が第1党になったのは、率直に言って、民政党が岡田内閣の与党的立場(2名が入閣。政友会は入閣した3名を除名し野党的立場をとった)にあったからではないだろうか。
 無産政党が伸張した要因は、林立していたいくつかの無産政党が社会大衆党に糾合したことと、労働運動の進展にあるのではないか。
 そして、当時は議院内閣制ではない。民政党と無産政党で衆議院の多数を占めたとしても、それで衆議院が首相を指名するわけでもなければ、内閣を承認するわけでもない。「民政党と無産政党が中心の連立内閣によって」などと何を根拠にして言えるのだろうか。
 選挙の結果は、与党的立場にあった民政党が第1党になったことにより岡田内閣の政権基盤が安定したということにすぎない。
 選挙結果を受けて政党内閣に戻せという動きが生じたとは聞かないし、内閣改造を行う気配があったとも聞かない。
 
 また、そもそも民政党と無産政党が連立を組む可能性などあったのだろうか。

 こういったことも、井上の著書を読めばわかるのだろうか。

 戸川猪佐武『昭和の宰相2 近衛文麿と重臣たち』(講談社文庫、1985)はこの総選挙について次のように述べている。

このときの総選挙に対して、中間内閣である岡田内閣がとった作戦は、〝選挙粛正〟をきびしく打ち出したことである。岡田を支える軍部、新官僚は、
 ――選挙の粛正を徹底することで、政党を弱体化させ得る。
 というねらいをもっていたのだ。すでに岡田は前年の十年五月八日に、勅令として選挙粛正委員会令なるものを発布、施行し、これにあわせて選挙粛正中央連盟というものを結成していた。
 連盟の会長には、前首相の斎藤実を任じ、理事長に官僚の永田秀次郎(戦後の永田亮一代議士の父)を起用した。
 この連盟は、前年秋に行われた府県会議員選挙に臨んでも、政府の別働隊としてはたらいた。いってみれば、粛正を名目に、買収、供応などの腐敗を監視、チェックするということであった。こけによって、政党の活力、気力をそぐというのが、この連盟の目的であったといえよう。
 この方式が、十一年(一九三六)の総選挙にも適用された。不正の監視、チェックが柱となったので、極端な干渉、弾圧は少なくなったものの、総選挙そのものが中央連盟の下に運営されるような形になった。政党は、粛正と連盟を意識しながらの選挙運動になってその活動は萎縮した。(p.132-133)


 また、岡田啓介はこの総選挙について、回顧録で次のように述べている。

わたしとしては、ことごとに政友会が政府と事を構えようとすることに対し、政党を刷新して、もっと強力に政策をおしすすめなければ、こんな騒然たる状態を切り抜けることは出来ないと思っていた。与党にはしかるべく資金の援助をしなければならないが、金がない。興津の西園寺さん〔引用者注・元老西園寺公望〕をたずねた折、わたしの貧乏なことはよく知っておられるので、「お前も金がなかろうから住友へ行け、ちゃんと話がしてある」といわれる。住友なんて、わたしは知らないが、もう先方との話はついているとのことなので、松平康正候に京都までその金をとりに行ってもらった。金額は百万円だったと思う。
 そのとき迫水〔引用者注・迫水久常。岡田の女婿で首相秘書官を務めていた。鈴木貫太郎内閣では書記官長(現在の官房長官に相当)を勤めた。戦後、自民党参議院議員〕から、これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささかの援助をしては、という話が出た。私は、民政党などを与党にしているから、わたしが直接そんなことは出来んが、お前がやるんなら知らん顔をしていよう、と言っておいた。それで迫水が麻生久〔引用者注・社会大衆党書記長〕を訪れ、選挙費用を提供したということだったが、この選挙で無産政党の進出は目ざましかった。(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987、p.152)


 政府が無産政党を支援していたわけだが、これでも「国民の意思」などと言えるのだろうか。
 また、当時の社会大衆党には麻生久をはじめ親軍、親新官僚の傾向を示す勢力が存在した。のちに、同党がいわゆる新体制運動に率先して賛同し、自ら解党したことも忘れてはならない。彼らを「社会民主主義」と呼ぶことに私はいささかためらいを覚えるが、どうだろうか。

続く


石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (3)

2009-08-13 23:59:45 | 日本近現代史
(前回までの記事)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (1)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (2)

石射の人物評は興味深い。

○田中義一と森恪
 田中総理兼外相は、政界に数々の笑話を残し、ドン・キホーテなどといわれたが、その大まかで小節にこだわらない人柄に、私は好感が持てた。が、この兼摂外相をあやつる役者は森政務次官であった。森氏は外務省の幹部を捉えて、君達は政党内閣の下で勤務する以上万事与党の方針に従うべきだと、高飛車に出て無遠慮に言動した。省の機密費はおれが握ると、頑張ったとの噂もあった。豪放にして機略縦横、対華問題には、徹底的強硬論者であった。(p.157-158)


○本庄繁
 関東軍司令官本庄中将は、事変の当初幕僚に軟禁されて、神仏三昧に暮らしていると伝えられた。外部と接触させると、雑音が入って司令官の心境が濁るとの考量から、幕僚が司令官を外部と絶縁しておくのだといわれた。私が本庄中将に会ったのは、多分私が満洲引き揚げの途中奉天に立ち寄った時であった。もう事変も第二年の夏となったので、司令官は軟禁を解かれたのであろう。会見を申し込むとたやすく会えたのみならず、晩餐にもよばれた。見覚えのある張作相の奉天別邸が司令官官舎になっており、居室には日本各地からの寄贈とみえて、神社仏閣の大型のお守り札が、何百枚となく安置されてあった。軍司令官の神仏三昧とは、これだなと思い当たった。事変が温厚そのもののごときこの将軍の意図に反して敢行された事情は、もはや世間の常識になっていた。私はこの人に軍人を感ぜずして紳士を感じた。(p.221-222)


○影佐禎昭
 影佐中佐とは数年後、日華事変中に職務上再び接触しなければならなかったが、上海以来私の知ったこの人は、面と向っては態度慇懃、話が軽妙で外面的には練れた人物であったが、一寸も油断のならない鋭い謀略家であった。あとで書く通り、第一次近衛内閣の宇垣外相が興亜院問題で職を辞したその原因をたどると、当時の陸軍軍務課長影佐大佐に突き当たるのである。汪精衛氏を重慶から脱出させ、南京に遷都させた大芝居の作者が影佐大佐であることは、今や周知の通りで、謀略にかけては、鶏鳴狗盗の雄にすぎない土肥原将軍などよりは、はるかに冴えた手腕の持ち主というべきであった。(p.243)


○張景恵
 各国の代表者中、最も洒々落々、老獪不敵な面魂に見えたのは満州国総理の張景恵であった。満州国はどうせ日本の丸抱えである。日本のお気に召すように傀儡的に動けばこと足りる。明日は明日の風が吹くといった諦観と、日本人の気質をすっかり呑み込んだ多年の経験がさせる芸であろうか、彼の態度は東亜の運命を決する歴史的大舞台を舐め切っているような落ち着きぶりであった。彼はかつて汪精衛と面談した時、国政は日本人官吏に任せてやらせるに限るよ、薄給に甘んじてしかも仕事に熱心だから、安上がりで能率があがる、お前の方もそうするがよい、と汪氏に教えたと伝えられた。彼の目からすれば、汪精衛氏などは、まだ青臭い素人に見えるのに相違なかった。(p.437)


○木村兵太郎と田中新一
 木村軍司令官とは、三巨頭会談〔引用者注・ビルマ国家代表バーモーと木村ビルマ方面軍司令官と駐ビルマ大使である石射との会談〕以外に折々会談した。私が軍司令官に向って力説したことは、バーモー氏問題であった。軍内部のみならず在留民間人の間にも反バーモー熱があり、〔中略〕悪質な打倒バーモー宣伝を撒き散らした。日本が国策として護り立てたバーモー氏を、何故の打倒か。軍内部の反バーモー派の粛清はもちろん、こうした居留民を、軍の実力で追放すべきではないか。
 軍司令官の答えはいつも煮えきらなかった。田中参謀長が軍司令官の意向を呑み込んだまま、実行に移そうとしないらしかった。太平洋戦争緒戦の作戦立案者だったといわれるこの参謀長の威力は、全方面軍を圧するもののごとくであった。軍司令官はこの参謀長の前には権威がなく、配下の軍から浮いている存在らしかった。(p.460)

 敗軍の最中に、木村軍司令官は大将に栄進した。バーモー氏護衛隊長の森応召中尉が、ある日、私のところに遊びに来て、不思議そうに言った。
「戦争に敗けて大将になるとはどんなわけでしょうか」(p.475)


○オンサン
 わが軍が教官を配して養成しつつあったビルマ陸軍部隊も、ようやく訓練成って戦線に加わることになり、その出陣式が三月中旬に行われた。〔中略〕将校も兵もとぼとぼした足並で頼りない感じだった。
 出陣式のあった翌日か翌々日か、オンサン陸相は自らこの部隊を率いてプローム方面に向けて進発したと見せかけ、ラングーンを離れるやたちまち戈を逆しまにし、郊外の手薄なわが警備陣に対して、ゲリラ戦を開始した。前もって十分計画されていたものとみえ、ラングーン以外の地方でも、同時にゲリラ軍が蜂起した。〔中略〕
 かつてはわが軍をビルマ進攻に導いたオンサン少将が何故の背叛か。軍の参謀達はいろいろ理由をつけたが、詮ずる所、わが軍の不徳と戦局の不利が招いた結果であって、軍がオンサン少将に見限られたというべきであった。
 市の内外が目立って不穏になってきた。
 〔中略〕彼は三十二、三歳、寡黙無表情で何を考えているかわからない奇異な人物であった。(p.462-463)

〔引用者注・オンサンとはアウン・サンとも表記。かのアウン・サン・スー・チーの父である。〕


 そのほかにも目を引く記述は多い。

○普通選挙
 一九二八(昭和三)年二月、わが国初めての普通選挙があり、家父が政友会から立候補した。私のイギリス行の直前であった。父への応援に、郷里に下って選挙というものの実際を見た。父は楽々と当選したが、普通選挙などといっても、地方人は金をくれなければ動かない実情であった。(p.163)


○慰安婦
 将士の生理的需要に応ずるため、多数の朝鮮婦人が輸入されたが、商売は繁盛しなかった。東北農家の窮乏を反映して、兵達の多くが給与を郷里送金にするからであった。ただ将校の中には、料亭に登って抜き身を振り回すような乱暴者もいた。(p.209)


○シャム
 対外政策に関する限り、シャムは自己保存に徹し、いやしくも外国からつけ込まれることのないようにとの慎重さにおいて、軍・官・民、心を一にした。イギリス、フランス二大強国の植民地に挟まれて嘗めてきた、失地と屈辱の苦杯から得た小心翼々、保身に徹する叡知の外交なのである。
 日本・シャム親善にしても、シャムとして素より望むところであるとはいえ、日本側からのあの手この手の親善攻勢は無気味であり、迷惑であるに相違なかった。親善への深入りは、日本から次に来るものの恐ろしさを想像せしめ、同時にイギリス、フランスの嫉視を憚らねばならないからだ。あるシャム紙はこの関係を忌憚なく表現した。前門虎を拒けても、後門狼を進めては何んにもならぬと。
 国際連盟でのリットン勧告案の票決にしても、イエスと投ずれば日本がこわいし、ノーと投ずれば、国内二百五十万の華僑が納まらない。やむなく無難な危険へと逃避したのだが、それを日本への好意の表示ととられたのは、自分らの全く意外とするところであった、とあるシャム友人が坦懐に私に語った。
 シャムの欲する日本・シャム親善は、あくまで有無相通のビジネス親善であった。シャムは無血革命の理想とする近代国家の建設に必要な資材と技能を、最も格安に仕入れ得る便利な源泉として、日本に接近してきたのである。(p.277-278)


○敗軍の将

 抑留された陸軍の将校達も、長い間にはいくぶん外出の自由を許されて、大使館に来訪した。精神家の中村軍司令官は、祖国の悲運を身にしめて、深く謹慎の態度を持したが、花谷、佐藤(賢)両中将は大使館に来ても談笑常のごとく、日本を亡国に導いた自分達の役割についていささかも反省の色を示さなかった。内心の苦悶は知らず、彼らの言動は自己の過失を忘れ去ったかのごとくであった。(p.485)

 花谷とは花谷正。満洲事変首謀者の1人。悪評で知られる。
 佐藤(賢)とは「黙れ!」事件で著名な佐藤賢了。

続く