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自衛隊員の政治的自由は制限されている

2011-01-31 00:42:59 | 現代日本政治
 昨日の記事「保守系国会議員は情報保全隊の監視対象外?」に関連して。

 産経は二度にわたって社説でこの問題を取り上げ、情報保全隊による監視は、自衛官の思想・信条の自由を侵害すると批判している。

 【主張】自衛隊員監視 恣意的運用ではないのか(2011.1.25)

 防衛省の防諜部隊、「自衛隊情報保全隊」が陸上自衛隊OBの佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演に潜入し、現職自衛官の参加状況を監視していた問題が表面化した。

 佐藤議員らの講演では参加した自衛官の氏名がチェックされ、講演内容と併せて報告書として提出されたという。

 佐藤氏や田母神氏が民主党政権の防衛政策に批判的な発言をしていることが監視対象なのか。これは思想統制にほかならず、組織の恣意(しい)的な運用というしかない。

 機密情報の流出や自衛隊へのスパイ活動の防止が、保全隊の役割だ。それがなぜOBの講演を監視する必要があるのか。本来の任務とかけ離れた活動は、自衛官の思想・信条の自由を侵害していた疑いを持たれてもやむを得まい。

〔中略〕

 自衛隊員の政治的行為は自衛隊法などで制限されているとはいえ、政権批判を行う人物を遠ざけ、思想や言論の自由を侵すことは許されない。〔後略〕



 【主張】自衛隊監視問題 北沢防衛相の責任を問う(2011.1.27)

〔前略〕

 一連の問題の発端となった事務次官通達は、航空自衛隊の航空祭で、民間の後援団体「航友会」会長が尖閣事件に対する民主党政権の対応を厳しく批判したことに北沢防衛相が激怒したことから、出されたとされる。

 菅直人首相は衆院本会議の代表質問で「通達を撤回する考えはない」と答えたが、民間人の言論を封じることは民主主義のルールに反し、絶対に許されない。改めて通達の撤回を求めたい。

 自衛隊へのテロ組織などの浸透を防ぐことは重要だが、OBの講演会への参加状況を監視するのは、憲法が保障する思想・信条の自由を侵害する疑いがある。〔後略〕


 佐藤正久参院議員の公式ホームページにもこの件について次のような記述があった。

昨日、記者さんからコメントを求められ、事実関係は掌握していないとしたうえで、一般論として以下のように回答した。

▽自衛隊法で規定されている「政治活動」に抵触しない行動まで規制することは、憲法第19条「思想・良心の自由」違反の疑い。

▽旧軍と違い選挙権を持つ自衛隊員が政治に無関心となるよう仕向ける規制は、民主主義国家を構成する国民としての「知る権利」を奪うことにつながる。

▽自衛隊に対する破壊活動及びそれを目的とする浸透活動を企図する団体等への情報収集等の対処は必要だが、その対象を際限なく拡大することは問題である。

▽自衛隊をスターリニズムの観点から「暴力装置」と発言した仙谷氏は閣外に去ったが、スターリンやナチスを彷彿させる「秘密警察」「監視社会」は問題であり、組織内の人間関係を破壊する恐れ。

▽自衛隊員は国家に忠誠を尽くすことは求められるが、政党や政治家の「私兵」にあらず。

また産経でも指摘しているが、これらの動きは、昨年11月に出された「隊員の政治的中立性の確保について」と題する事務次官通達と連動している。

同通達では、民間人に自衛隊行事における「言論統制」を行う一方、自衛隊員が部外の行事に参加することについても、政権批判が予想される場合は参加を控えるよう求めており、この通達が、佐藤や田母神先輩の講演会に参加することを監視する「根拠」とも位置づけられる。

いずれにせよ、早急に事実関係、防衛省側の見解を質した上で、何らかのアクションを起こすこととなろう。


 しかし、産経と佐藤が共に触れているように、自衛隊員の政治的行為は自衛隊法で制限されている。
 それは次の条文である。
 
(政治的行為の制限)
第六十一条  隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。
2  隊員は、公選による公職の候補者となることができない。
3  隊員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。


 そして、「政令で定める政治的目的」「政令で定める政治的行為」については、自衛隊法施行令で次のように定められている。

(政治的目的の定義)
第八十六条  法第六十一条第一項 に規定する政令で定める政治的目的は、次の各号に掲げるものとする。
一  衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の長、地方公共団体の議会の議員、農業委員会の委員又は海区漁業調整委員会の委員の選挙において、特定の候補者を支持し、又はこれに反対すること。
二  最高裁判所の裁判官の任命に関する国民審査において、特定の裁判官を支持し、又はこれに反対すること。
三  特定の政党その他の政治的団体を支持し、又はこれに反対すること。
四  特定の内閣を支持し、又はこれに反対すること。
五  政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し、又はこれに反対すること。
六  国又は地方公共団体の機関において決定した政策(法令に規定されたものを含む。)の実施を妨害すること。
七  地方自治法 に基く地方公共団体の条例の制定若しくは改廃又は事務監査の請求に関する署名を成立させ、又は成立させないこと。
八  地方自治法 に基く地方公共団体の議会の解散又は法律に基く公務員の解職の請求に関する署名を成立させ、若しくは成立させず、又はこれらの請求に基く解散若しくは解職に賛成し、若しくは反対すること。

(政治的行為の定義)
第八十七条  法第六十一条第一項 に規定する政令で定める政治的行為は、次の各号に掲げるものとする。
一  政治的目的のために官職、職権その他公私の影響力を利用すること。
二  政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し、又は提供せず、その他政治的目的を持つなんらかの行為をし、又はしないことに対する代償又は報酬として、任用、職務、給与その他隊員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て、又は得させようとし、あるいは不利益を与え、与えようと企て、又は与えようとおびやかすこと。
三  政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費若しくはその他の金品を求め、若しくは受領し、又はなんらの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与すること。
四  政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え、又は支払うこと。
五  政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し、又はこれらの行為を援助すること。
六  特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。
七  政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、若しくは配布し、又はこれらの行為を援助すること。
八  政治的目的をもつて、前条第一号に掲げる選挙、同条第二号に掲げる国民審査の投票又は同条第八号に掲げる解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。
九  政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し、若しくは指導し、又はこれらの行為に積極的に参与すること。
十  政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し、若しくは指導し、又はこれらの行為を援助すること。
十一  集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
十二  政治的目的を有する文書又は図画を国の庁舎、施設等に掲示し、又は掲示させ、その他政治的目的のために国の庁舎、施設、資材又は資金を利用し、又は利用させること。
十三  政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し、若しくは配布し、又は多数の人に対して朗読し、若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し、又は編集すること。
十四  政治的目的を有する演劇を演出し、若しくは主宰し、又はこれらの行為を援助すること。
十五  政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これに類するものを製作し、又は配布すること。
十六  政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し、又は表示すること。
十七  なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免かれる行為をすること。
2  前項各号に掲げる行為(第三号の場合においては、前項第十六号に掲げるものを除く。)は、次の各号に掲げる場合においても、法第六十一条第一項 に規定する政治的行為となるものとする。
一  公然又は内密に隊員以外の者と共同して行う場合
二  自ら選んだ又は自己の管理に属する代理人、使用人その他の者を通じて間接に行う場合
三  勤務時間外において行う場合


 これは、一般の国家公務員に比べると、大変厳しい制限となっている。
 一般の国家公務員も当然政治的行為は制限されている。
 国家公務員法の政治的行為の制限に関する条文は、

(政治的行為の制限)
第百二条  職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。
○2  職員は、公選による公職の候補者となることができない。
○3  職員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問、その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。


と自衛隊法とほぼ同様であり、人事院規則で定めるその「政治的目的」「政治的行為」の定義も上記の自衛隊法施行令のものとほぼ同様だが、次の太字部の記述が自衛隊法施行令にはない。

人事院規則一四―七(政治的行為)
(昭和二十四年九月十九日人事院規則一四―七)

(政治的目的の定義)
5  法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。
一  規則一四―五に定める公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること。
二  最高裁判所の裁判官の任命に関する国民審査に際し、特定の裁判官を支持し又はこれに反対すること。
三  特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。
四  特定の内閣を支持し又はこれに反対すること。
五  政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し又はこれに反対すること。
六  国の機関又は公の機関において決定した政策(法令、規則又は条例に包含されたものを含む。)の実施を妨害すること。
七  地方自治法 (昭和二十二年法律第六十七号)に基く地方公共団体の条例の制定若しくは改廃又は事務監査の請求に関する署名を成立させ又は成立させないこと。
八  地方自治法 に基く地方公共団体の議会の解散又は法律に基く公務員の解職の請求に関する署名を成立させ若しくは成立させず又はこれらの請求に基く解散若しくは解職に賛成し若しくは反対すること。
(政治的行為の定義)
6  法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
一  政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること。
二  政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し又は提供せずその他政治的目的をもつなんらかの行為をなし又はなさないことに対する代償又は報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て又は得させようとすることあるいは不利益を与え、与えようと企て又は与えようとおびやかすこと。
三  政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費又はその他の金品を求め若しくは受領し又はなんらの方法をもつてするを問わずこれらの行為に関与すること。
四  政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え又は支払うこと。
五  政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し若しくはこれらの行為を援助し又はそれらの団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となること。
六  特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。
七  政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。
八  政治的目的をもつて、第五項第一号に定める選挙、同項第二号に定める国民審査の投票又は同項第八号に定める解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。
九  政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し又は指導しその他これに積極的に参与すること。
十  政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し若しくは指導し又はこれらの行為を援助すること。
十一  集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
十二  政治的目的を有する文書又は図画を国又は特定独立行政法人の庁舎(特定独立行政法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国又は特定独立行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。
十三  政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。
十四  政治的目的を有する演劇を演出し若しくは主宰し又はこれらの行為を援助すること。
十五  政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これらに類するものを製作し又は配布すること。
十六  政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し又は表示すること。
十七  なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免れる行為をすること。


 そして、自衛隊法施行令の引用で太字により示した箇所が人事院規則にはない。

 したがって、例えば、勤務時間外においてなら、一般の国家公務員は「政治的行為」を行ったとしても法に触れることはないが、自衛隊員はそれすら許されないということになる。

 自衛隊員に対してこれほどまでに厳しい政治的自由の制限が課せられているのは、言うまでもなく、自衛隊が国家にとっての暴力装置であるからにほかならない。
 自衛隊員の内心の政治的自由はあっていい。しかし、公に政治的見解を表明することは許されない。

 自衛官OBである田母神や佐藤の講演会に現職自衛官が参加することは当然想定できる。そういった場で現職自衛官が政治的見解を公にしたり、その他政令が定める「政治的行為」に及ぶ可能性がある以上、そうした講演会が情報保全隊の監視対象となっていたとしても私には何ら不思議ではないし、問題であるとも思わない。

 では逆に、自民党が政権奪還後、自衛官が北沢現防衛相などの民主党議員に接触する動きがあったとしたら、防衛相としてはどうすべきなのか? やはり監視対象にすべきなのではないか?

 問題視されている通達にしても、では仮に、ロッキード事件やリクルート事件が騒がれた時代に、自衛隊の行事に招かれた民間人来賓が、「こんな腐敗堕落した自民党には一刻も早く下野してほしい」といった趣旨の発言をしたとしたら(幸いそのような事態は起きなかったのだろうが)、どうなっていただろうか。やはり同趣旨の通達が発出されたのではないだろうか。
 民間人にはもちろん言論の自由はある。しかしTPOは当然わきまえられてしかるべきである。

 自衛隊の情報保全というわが国の安全保障上重大な問題すらも「政権奪還」のために政争の具にしてしまう産経や佐藤の感覚を私は憂う。
 彼らはいったい何を「保守」しようとしているのか。ただ党利党略、私利私欲ばかりではないのか。

(引用文中の太字は引用者による)

(関連過去記事「田母神論文への反応に対していくつか思ったこと(1)」)

保守系国会議員は情報保全隊の監視対象外?

2011-01-30 00:22:25 | 現代日本政治
 25日の朝日新聞夕刊で次のベタ記事を読んだ。

「防衛相、任務外の指示」

 陸上自衛官OBで自民党の佐藤正久参院議員が25日、記者会見し、自衛隊からの秘密漏出を防ぐため情報を収集する「自衛隊情報保全隊」が、佐藤氏を監視対象にしている疑いがあると述べた。同氏は「実際に私の会合に保全隊が来ている」と指摘。北沢俊美防衛相が本来の任務と違う調査を保全隊員に指示していたら問題だ、と主張した。

 これに対し、北沢防衛相は同日の記者会見で「特定の人を対象に情報収集を指示した事実は全くない」と否定した。


 佐藤正久議員のホームページを見ると、どうも、産経新聞が24日に1面トップで報道し問題視したらしい。
 MSN産経ニュースを見ると、次の記事が掲載されていた。

国会議員講演会に防諜部隊投入、自衛隊員監視、防衛相直轄部隊が「不当調査」
2011.1.24 01:30

 北沢俊美防衛相直轄の防諜部隊「自衛隊情報保全隊」が、陸上自衛隊OBの佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演に潜入し、現職自衛官の参加状況を監視していることが23日、分かった。複数の防衛省・自衛隊幹部が明らかにした。本来任務とは乖離(かいり)した不当調査の疑いがあり、憲法で保障された思想・信条の自由を侵害する監視活動との指摘も出ている。

 自民党は24日召集の通常国会で、自衛隊行事での民間人による政権批判を封じる昨年11月の「事務次官通達」問題と合わせ、保全隊の監視活動についても政府を追及する方針。

 保全隊は佐藤、田母神両氏の講演のほか、田母神氏が会長を務める保守系民間団体「頑張れ日本! 全国行動委員会」の集会にも隊員を派遣。また、陸上自衛隊唯一の特殊部隊「特殊作戦群」の初代群長を務めた陸自OBの会合なども監視対象にしている。

 監視目的は現職自衛官の参加の有無を確認し、参加している場合は氏名も特定する。佐藤、田母神両氏の発言内容もチェックし、報告書の形でまとめ、提出させている。

 陸自朝霞駐屯地(東京都など)に本部を置く東部情報保全隊の隊員が投入されるケースが多いとされる。保全隊は陸海空3自衛隊の統合部隊で、監視実態が発覚しないよう、空自隊員の参加が想定される田母神氏の講演には隊員同士の面識がない陸自の保全隊員を派遣することもあるという。

 保全隊は外国情報機関によるスパイ活動などから自衛隊の保有情報を防護するのが主任務。自民党政権時代には「日本赤軍」や「オウム真理教」のほか、「暴力革命の方針」(警察庁公表文書)を掲げた共産党が自衛隊を侵食するのを防ぐため、それらの監視活動も行っていた。ただ、保守系の議員や自衛隊OBを監視対象にしたことはない。

 防衛相経験者の石破茂自民党政調会長は「保全隊は自衛隊の安全を守る組織で在任中は恣(し)意(い)的に運用しないよう徹底させていた。何を目的にした監視活動か追及する」と話している。

 監視対象とされていた佐藤氏は「自衛隊への破壊活動とそれを目的とした浸透活動をはかる団体の情報収集は必要だが、対象を際限なく拡大するのは問題だ。自衛隊員は国家に忠誠を尽くすことは求められるが、政党や政治家の私兵ではない」と指摘している。

     ◇

 自衛隊情報保全隊 平成21年8月、陸海空3自衛隊の情報保全隊を統合し、大臣直轄部隊として新編。ネット上での情報流出やイージス艦情報漏(ろう)洩(えい)事件を受け、機密保全強化と自衛隊へのスパイ活動に関する情報収集の効率化のための措置。実動部隊は中央情報保全隊と北部、東北、東部、中部、西部の地域ごとの保全隊で構成する。駐屯地や基地ごとに派遣隊も置き、隊員は約1千人。


 情報保全隊については、数年前に、市民運動を監視対象にしているとして、共産党や朝日新聞が問題にしたことがあったなあ。
 私もこのブログで記事にしたことがある。

   朝日社説「情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか」
   共産党の手法の一例――情報保全隊問題の会見要旨を読んで(1)
   共産党の手法の一例――情報保全隊問題の会見要旨を読んで(2)

 この当時は陸海空の各自衛隊に情報保全隊があったが、産経によると、2009年の8月に統合されたという。知らなかった。

 佐藤も産経も、本来の任務とは異なる調査の疑いがあると指摘しているが、情報保全隊の本来の任務とはいったい何だろうか。

 現在の自衛隊情報保全隊の任務は、2009年7月に浜田靖一防衛相名で発出された「自衛隊情報保全隊に関する訓令」に定められている。
 
(情報保全隊の任務)
第3条 情報保全隊は、部隊等の運用に係る情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布を行うことのほか、統合幕僚監部(自衛隊指揮通信システム隊を含む。第12条において同じ。)、陸上自衛隊(自衛隊体育学校、自衛隊中央病院、陸上幕僚長の監督を受ける自衛隊地区病院及び自衛隊地方協力本部を含む。第12条において同じ。)、海上自衛隊(海上幕僚長の監督を受ける自衛隊地区病院を含む。第13条において同じ。)及び航空自衛隊(航空幕僚長の監督を受ける自衛隊地区病院を含む。第14条において同じ。)における情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布を行うこと並びに施設等機関等における情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布を行うことを任務とする。


 「情報保全業務」とは何か。
 同訓令2条に次のようにある。

(用語の意義)
第2条この訓令において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
(1) 情報保全業務 情報保全業務の実施に関する訓令(平成15年防衛庁訓令第7号)第2条第1号に規定する情報保全業務をいう。


 その「情報保全業務の実施に関する訓令」第2条第1号にはこうある。

(用語の意義)
第2条この訓令において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
(1) 情報保全業務 秘密保全、隊員保全、組織・行動等の保全及び施設・装備品等の保全並びにこれらに関連する業務をいう。
 

 「秘密保全、隊員保全、組織・行動等の保全及び施設・装備品等の保全並びにこれらに関連する業務」のために「必要な資料及び情報の収集整理及び配布」。
 これが、自衛隊情報保全隊の「本来の任務」である。
 この点は、上記の1番目の拙記事で引用した、当時の「陸上自衛隊情報保全隊に関する訓令」のものと全く変わっていない。

 産経は、

 保全隊は外国情報機関によるスパイ活動などから自衛隊の保有情報を防護するのが主任務。自民党政権時代には「日本赤軍」や「オウム真理教」のほか、「暴力革命の方針」(警察庁公表文書)を掲げた共産党が自衛隊を侵食するのを防ぐため、それらの監視活動も行っていた。ただ、保守系の議員や自衛隊OBを監視対象にしたことはない。


と、情報保全隊があたかも外国情報機関や日本赤軍、オウム真理教のようなテロ組織、それに準じる共産党などからの防諜のみを目的としているかのように述べているが、そんなことはない。
 公安調査庁じゃあるまいし。

 そして、「保守系の議員や自衛隊OBを監視対象にしたことはない」というのが、はなから彼らを監視対象とはしないことにしていたという意味なら、むしろそちらの方が恣意的な運用と言えるのではないか。
 何故なら、仮に外国情報機関やテロ組織からの防諜を主目的としていたとしても、保守系の議員や自衛隊OBを通じてでも、それは十分有り得ることであろうから。

(関連記事「自衛隊員の政治的自由は制限されている」)

田原総一朗が拉致被害者を「生きていない」とした根拠

2011-01-29 09:32:21 | マスコミ
 21日の朝日新聞夕刊は、田原総一朗に取材テープの提出を命じた神戸地裁の判断を大阪高裁が取り消したと1面で速報した。
 22日の同紙朝刊は社会面に以下のような詳報を掲載した。

テープ「取材源特定」
 大阪高裁 提出取り消し

 北朝鮮の拉致被害者の有本恵子さんの安否について言及したジャーナリスト田原総一朗氏の発言をめぐる慰謝料請求訴訟で、田原氏の発言の根拠とされた取材テープの提出を必要ないと判断した大阪高裁の安原清蔵裁判長は、決定理由で「テープには取材源の特定につながる情報が含まれている可能性が高い」と指摘した。原告の有本さんの両親側は最高裁などへの不服申し立てをしない方針で、地裁の審理が再開される見通し。 (平賀拓哉、沢木香織)

 田原氏は2009年4月のテレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」で、有本さんら拉致被害者について「外務省も生きていないことは分かっている」と発言。有本さんの両親が同7月に慰謝料1千万円を求めて提訴した。

 田原氏側は発言の根拠として、外務省幹部への取材(08年11月)を録音した53分40秒のテープのうち6分42秒間のやりとりを文書にして証拠提出。神戸地裁は昨年10月、田原氏は文書化にあたってテープを引用し、秘密を保持する利益を放棄したとして提出を命じた。

 安原裁判長は、テープが提出されれば音声や言い回しなどで取材源が特定される可能性が高く、外務省幹部もテープが開示されないという前提で取材に応じたと指摘。提出された文書も、田原氏側が取材源の秘匿義務に反しないと判断したテープの文字情報だけが引用されたと述べた。

 さらに06年10月の最高裁判断を踏まえ、取材源の秘匿は職業の秘密にあたり重要な社会的価値があると指摘。取材源特定につながるテープ提出を田原氏が拒むのは公平性を害するとはいえないとし、地裁決定を否定した。田原氏側が出した文書の正確性を確認するには、作成者(田原氏の代理人弁護士)への証人尋問などの方法があるとし、「今回の訴訟で、公正な裁判の実現のためにテープ提出が必要とは認められない」と結論づけた。

 有本夫妻は落胆

 「もし『娘が死んでいる』という前提で(北朝鮮と)交渉している外務省幹部がいたなら問題。幹部がどう発言したかテープを聞いて確認したかった」。神戸地裁のテープ提出命令を取り消した大阪高裁の決定を受け、有本恵子さんの父・明弘さん(82)と母・嘉代子さん(85)は21日、肩を落とした。
 提出を命じた昨年10月の神戸地裁決定を不服として即時抗告した田原氏側に対し、有本さん側は「録音内容の都合のよい部分だけを出し、オリジナル(原本)について検討しなければ公平性を欠き、真実を明らかにできない」と主張したが、高裁は取材源の秘匿の重要性を理由に退けた。
 嘉代子さんは「提訴後に前原外相に面会するなどし、外務省が娘たちのことを生きていると思っていることが確認できた。これ以上、テープ問題で田原氏と争うつもりはなく、発言で心に深い傷を受けたことに対する慰謝料請求訴訟を続けていきたい」と語った。
 田原氏は「大阪高裁が取材源秘匿と表現の自由について的確な判断を下されたことを評価します。私の発言が有本さんご夫妻の心を傷付けたことは申し訳ないと思っています」との談話を出した。



 この事案の詳細がわからないので、テープ提出の是非については何とも言い難いが、取材源の秘匿は強く保護されるべきだというのが裁判官の一般的な感覚だろうとは思っていた。
 だから、神戸地裁がテープの提出を命じたことは意外だったし、その顛末にも注目していた。

 取材源の秘匿を理由に、ジャーナリストがその記述や発言の根拠を一切示さなくてよいということになれば、実質上、ジャーナリストは何でも書きたい放題、言いたい放題が許されるということになってしまう。取材源を捏造して、自らの意見を第三者の者であるかのように装うことも可能なのだから。
 だから、取材源の秘匿にしても、あくまでそれが公開されることによって生じる不利益と、利益とを比較衡量して判断されるべきものだろう。

 しかし、一方で、いわゆる問題発言はオフレコであっても平気で報道し、結局発言者を明らかにして非難するのだから、マスコミというのは勝手なものである。
(小沢一郎の自民党時代の「土下座」発言、福田康夫の内閣官房長官時代の非核三原則見直し発言、鴻池祥肇の内閣官房副長官時代のMDは当たらない発言など)

 なお、大阪高裁の決定後、今日まで朝日新聞は社説でこの問題を取り上げていない。
 昨日の君が代起立訴訟の判決は早々に今日取り上げたのにな。
 ジャーナリストとして優先順位が間違っていないか。

 ところで、上で引用した記事本文に続く「解説」中には次のようにあった。

 田原氏は08年11月、外務省幹部を取材し、拉致被害者の安否について尋ねたやりとりをテープに録音。訴訟で提出した文書では、幹部を「X氏」と表現した。
 田原氏「生きている人はあんな独裁国だから改めて探さなくたってわかってますよね」
 X氏「うーん、まあ、そういうふうに言えるかもしれないんですけれどもね」
 こうした会話などを根拠に、田原氏は「外務省も生きていないことは分かっている」と発言していた。


「うーん、まあ、そういうふうに言えるかもしれないんですけれどもね」

 これって根拠か?

「こうした会話などを根拠に」とあるから、ほかにも田原が「外務省も生きていないことは分かっている」と発言するだけの根拠はあるのだろう。しかし、わざわざ提出したテープの内容が上記のようなものなのなら、その他の根拠にしても推して知るべしということではないか。

 ジャーナリストが、政治家の片言隻句を根拠に、憶測まじりの内容をさももっともらしく報じることがある。
 それは、当たっていることもあれば、外れていることもある。
 そういうものだろう。

 しかし、人間の生死に関わることを 同様の感覚で公言することは好ましくないのではないか。
 ましてや、田原ほどの著名なジャーナリストならなおのこと。

 そして、私なら、

「生きている人はあんな独裁国だから改めて探さなくたってわかってますよね」
「うーん、まあ、そういうふうに言えるかもしれないんですけれどもね」

こんなやりとりを根拠に、「外務省も生きていないことは分かっている」とはとても言えない。
 何故なら、「改めて探さなくったってわかっている」ことは死んでいるということとイコールではないからだ。
 生きているという前提に立ったとしても、「改めて探さなくったってわかっている」とは言い得る。
 生きているか死んでいるかわからないという前提に立ったとしても、同様だ。
 「改めて探さなくったってわかっている」とは、北朝鮮には生死は把握できているという意味にすぎない。

 「外務省も生きていないことは分かっている」とは田原の推測あるいは願望だろう。
 幹部の曖昧な返答を根拠に、それが裏付けられたと勝手に信じ込んでいるだけではないのか。
 そう信じるのは田原の勝手だが、それをテレビで公言したのはやはり不適切だったろう。
 

吉田茂は「ハル・ノート」と東郷茂徳外相をどう見たか

2011-01-24 10:32:42 | 大東亜戦争
 前回の記事で述べたように、

ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統制部内部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存立をおびやかす一種の最後通牒であると解せられた。この通牒を受諾することは、祖国、日本の滅亡に等しいというのが全般的意見だった


という嶋田繁太郎の供述は、たしか東條も東郷も同趣旨のことを述べていたと記憶しているし、これに反する証言を聞かないので、おそらく事実なのだろう。
 そして政府は交渉継続を断念し、11月5日の「帝国国策要領」どおりに12月初旬の開戦を最終決定した。

 だが、政府外には、それでもなお開戦すべきではないと考えた人々は存在した。
 その一人が、戦後首相を務めた吉田茂である。
 吉田は外交官出身で外務次官や駐英大使を務めたが、自由主義者として排撃され当時は無官だった。

 以前にも取り上げた吉田の「思出す侭(まま)」というエッセイ(中公文庫の吉田著『日本を決定した百年』に所収)で、吉田は「ハル・ノート」について次のように述懐している。

国務長官ハルの名前で日本に送られた十一月二十六日付のこの通牒は、最も激しい調子で日本を非難したもの、到底受諾し難い条件を強要したものとして当時伝えられ、事実上の最後通牒であるとして取り扱われたことは、多くの人々の記憶するところであろう。だが私はこの機会において、ぜひ国民諸君の注意を呼び起こしたいことがある。これはこの「ハル・ノート」の本当の意味が果して最後通牒であったかどうかという点に関する私の疑問についてである。
 確か十一月二十七日であったかと思うが、東郷外相の代理として現参議院議員の佐藤尚武氏が平河町の私の家を訪ねて来た。佐藤氏は当時外務省顧問という役目だったと記憶する。佐藤氏は一通の英文の文書を示し、これはアメリカから来たものだが、重大なものだと思われるので、お前から牧野に見せてくれという意味の外相の口上を伝えた。それがいわゆる「ハル・ノート」であった。内容は日本の主張部分と、それに対するアメリカの主張部分とを詳しく書き(このアメリカ側の主張だけが当時公表された)特に左の上の方にテンタティヴ(試案)と明記し、また「ペイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎)であり、ディフィニティヴ(決定的)なものではない」と記されていた。実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである。(p.186-187)


 さらに、12月1日に米国のグルー駐日大使から会見を求められ、会うと、

「あのノートを君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴであると聞き及んでいる」と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。日本側の言分もあるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相に会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。(p.187-188)


 吉田は斡旋に動いたが、東郷は言葉を濁して会う気配はなかったという。

会ったらどうなっていたか。今から思えば結果は同じだっただろう。当時既に奇襲開戦の方針が決定していて艦隊は早くも行動を起こしていたらしい。外相としては会うのが辛かったのであろうが、外交官としては最後まで交渉をするのが定跡だと信ずる私としては誠に痛恨に堪えなかった。(p.188)


 吉田は佐藤に言われたとおり、牧野伸顕伯爵(元内大臣、吉田の妻の父)にも見せたところ、

手にとって読んでゆく牧野の顔は次第に険しく「随分ひどいことが書いてあるな」といいながら黙っている。そこで私は「外務大臣があなたに見せる以上は何か意見を聴きたいという意味でしょう」というと、暫く考えて「明治維新の大業は鹿児島の先輩西郷や大久保の苦心によって成就した。この際先輩たちの偉業を想起し慎重に考慮すべきであると伝えよ」という。戦争すべきでない、先輩の大きな夢を崩すことになるという意味である。私はこの牧野の言葉をそのまま佐藤氏に伝えたところ、氏は目に涙して「必ず外相に伝達します。私は戦争になればいまの地位(外務省顧問)をやめるつもりです」といっていた。私はこの写しを当時やはり浪人していた幣原喜重郎氏にも見せた。私はさらに東郷外相を訪ね執拗にノートの趣旨を説明し注意を喚起した。東郷は「お説の通り、なお米国側と折衝するつもりでいる」ということであったので、私は少々乱暴だと思ったが「君はこのことが聞き入れられなかったら外務大臣を辞めろ。君が辞めれば閣議が停滞するばかりか軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」とまでいったものである。(p.188-189)


 牧野は大久保利通の次男である。また東郷外相は鹿児島県出身である。

 吉田は東郷や当時の政府、重臣を次のように批判している。

東郷外相もさることながら問題は当時の重臣といわれている人達にもあったと思う。内心は戦争反対の者が多かったにかかわらず、十一月二十九日の重臣会議で陛下の御下問に率直な意見をいう者が一人としていなかったようである。
 無論軍部の強圧に押されたのでもあろうが、また或いは勝てるかも知れないとする淡い希望などが交錯していたのでもあろうか。それにしても最後の土壇場まで外国使臣と会談すべき立場にある外務大臣が、開戦までなお日を残していたにかかわらず、グルー大使との会見を拒否したことは、外務大臣たるもののとるべき態度にあらず、まことに痛恨事であったといわねばならぬ。(p.191)


 当時わが政府は日米関係の救うべからざるを観念してか、ハル・ノートを接受したのを機会に、その訳文に多少手を加え、国民の感情を刺激するようなニュアンスをもったものにして、枢密院に回付したようである。ノートの原文は日米両政府の主張を対照列配し、さらに特に冒頭に、これは最後通牒にあらず、両国政府交渉の基礎たらしめんとする試案であるとの意味を附け加えてあった。勿論これは開戦の場合公表されても差支えないように意を用いて書かれたものだから、米国政府の主張を明記し、米国側に有利に書き上げた嫌いはあるが、わが政府が直ちに開戦を決意せず、交渉に応ずる考えがあれば、無論その余地はあったのである。(p.288)


第一次世界大戦において、英国外相グレー氏は独仏両大使との交渉会談や〔原文ママ〕開戦の間際まで続けたという事実がある。斯かる事実は外務当局者の常に念頭におくべきことであると思う。(p.289)


 注意すべきは、吉田も牧野も「ハル・ノート」を受諾すべきだったと言っているのではない。交渉を断念してこちら側から開戦すべきではないと言っているのだ。
 「ハル・ノート」の内容が苛烈だった、最後通牒に等しかったからといっても、それはわが国から開戦すべき理由にはならない。最後通牒とは戦争を仕掛ける側が戦争回避のための最終条件として出すものであって、通牒を受け取った側が、従わなければ開戦すべきという性質のものではない。 
 「ハル・ノート」が日米開戦を決定したと見る論者には、その視点が抜け落ちている。

 なお、吉田は、東郷が終戦に尽力したことにも触れ、その労を讃えている。

 牧野伯の意見には、東郷外相も当時強く印象づけられたものと思われるが、後に終戦内閣の外相として同じ東郷氏が鈴木首相を助け、事態を収拾して終戦に導き、そのため非常な努力を払われたそうである。これは東郷外相が開戦に対する責任観念より終戦の外相として時局収拾に死力を尽されたのであると信ずる。(p.289)


 東郷氏は寡黙、無表情、無愛想な人である。最終閣議にのぞんだ時の外相の風貌今にして思いやらるるものがある。終戦促進によって戦禍の拡大を防ぎ得たるは今日においては明かであるが、終戦にまでこぎつけるためには、鈴木総理の決断が土台になったことは勿論で、その上東郷外相及び米内海相が総理を補佐してここに至らしめた功績は決して没すべきではない。(p.290)



付記
 これら吉田の見解については、吉田の回顧録『回想十年』の1巻(新潮社、1957、のち中公文庫、1998)にも同趣旨の記述があることにあとで気付いた。
 上で引用した「思出す侭」は1955年の7月から9月にかけて『時事新報』夕刊に連載されたものなので、こちらの方が早い。『回想十年』のこの箇所については「思出す侭」を元にしているものと思われる。

 

嶋田繁太郎の「ハル・ノート」論

2011-01-23 01:14:28 | 大東亜戦争
 先月の記事「ハル・ノートは開戦を決定づけたか」に関連して。

 以前述べたように、「ハル・ノート」はわが国の開戦決意を後押しはしたが、決定的要因ではなかった。
 にもかかわらず、こんにちにおいても、「ハル・ノート」によってわが国は開戦に踏み切らざるを得なかったと唱えられることが多い。
 その原因の一つは、わが国の当事者によってそのような主張がなされていたためだろう。
 しかし、それは客観的に見て妥当な評価と言えるだろうか。

 前野徹『戦後 歴史の真実』(扶桑社文庫、2002)を読み返していると、次のような記述があった。

 東條内閣の海軍大臣で、御前会議の一員としてつぶさに一部始終を見た嶋田繁太郎は、東京裁判の被告として法廷に出廷した折り、当時の御前会議の模様を次のように伝えています。
「十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、誰一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない日支事変で、手一杯なことを政府も軍部も知りすぎるほど知っていた。天皇は会議のたびに、交渉の成り行きを心から憂いていた。そして、第二次近衛内閣も東條内閣も平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して〔引用者注2〕任命され、政府の使命は日米交渉を調整することにかかっていた」(冨士信夫『日本はこうして侵略国にされた』〔引用者注1〕)
 しかし、ハル・ノートは、日本の戦争回避の願いを木っ端みじんに打ち砕きます。嶋田被告は、東京裁判の法廷でこう陳述しました。
「それはまさに青天の霹靂であった。アメリカにおいて日本の譲歩がいかなるせよ、私はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷的なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統制部内部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存立をおびやかす一種の最後通牒であると解せられた。この通牒を受諾することは、祖国、日本の滅亡に等しいというのが全般的意見だった」


 第二次近衛内閣とあるのは第三次の誤りか。

 ハル・ノートの受諾を主張した者が政府にも軍部にもいなかったという点については、東條も東郷も同趣旨のことを述べていたと記憶している。おそらくそうなのだろう。

 だが、この嶋田の主張には、2つの重要な事実が伏せられている。
 1つは、以前の記事で述べたとおり、昭和16年11月5日に御前会議で決定された帝国国策要領においては、


 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る
 一、武力発動の時機を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
〔中略〕
 五、対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す


とされており、ハル・ノートが来ようが来るまいが、対米交渉が12月1日午前零時までに成功しなければ12月初旬に開戦することは決定済みであったこと。
 そしてもう1つは、わが国における主戦派の存在である。

 嶋田は、「ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、誰一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった」と、ハル・ノートこそが開戦の元凶であり、それまではわが国の政府と統帥部中には積極的に開戦を望む者などいなかったかのように表現している。
 しかし、わが国にも開戦を望む勢力は存在した。
 そんなことは、当時の歴史を少し突っ込んで調べればすぐにわかることだ。

 戦史家の故・児島襄による古典的な作品『太平洋戦争(上)』(中公新書、1965、のち中公文庫)は、わが国の参謀本部第20班(戦争指導)が記した「機密戦争日誌」を引用して、次のように述べている。


  ▽十一月三日 大風一過昨日の興奮も醒めたり。明治節の佳節に方り、皇国の前途を祝福せんとす。願わくば外交成功せざらんことを祈る。
  ▽十一月十三日 来栖大使の飛行機遅々たるは可。
   「ル」大統領、来栖大使を迎うるの態度に熱意なきが如きは、また可なり。
   乙案成立を恐る。
  ▽十一月十七日 昨は妥結、今日は決裂、一喜一憂しつつ時日は経過す。一国も速やかに十二月一日の来らんことを祷る。
  ▽十一月二十一日 野村電到着。乙案提示せるところ、「ハル」は援蒋中止に関し、これは援英中止要求と同様なりとて、大いに不満の態たりしが如し。さもあるべし。
   これにて交渉はいよいよ決裂すべし。芽出度芽出度。
  ▽十一月二十三日 対米交渉の峠もここ数日中なり。願わくば決裂に到らんことを祈る。
 この「機密戦争日誌」の意見は、必ずしもそのまま陸軍の総意ではない。「日誌」はあくまで参謀本部第二十班のもの。述べられているのは記録係の班員(中・少佐)の意見である。しかし、同時に「日誌」は決して個人の日記ではない。公式記録である。その公式記録で堂々と、上司を批判し、国策に我意を通そうとする気持ちを表明する。ここに、当時の少壮将校の思いあがりと、“実力”のほどがうかがえるが、だからといって開戦を主張したのは、彼らだけだったとはいえない。
 東郷外相が就任早々、松宮順元仏印特派大使、重松宣雄文書課長ら四人を辞任させたように、外務省にも主戦派はいたし、他の官庁、財界にもいた。海軍もむろん例外ではない。現に、開戦と決するや、海軍軍人の間には「いまや、海軍が主役を演ずるときがきた」(十二月五日、「香椎」艦長訓示)とする者が少なくなかった。したがって、海軍にも“機密戦争日誌”があったならば、そこにあるいは参謀本部少壮将校と同じような意見をみることができたかもしれない。
 さらにまた、「日誌」が開戦を主張するのは、その意思が彼ら少壮将校のだけのものではなく、すでに指摘したように、参謀本部の幹部もまた、同意していたからにほかならない。決して下克上の成果ではない。(中公文庫版、p.34-35)


 東郷外相の没後に刊行された回顧録『時代の一面』(改造社、1952)にも、ハル・ノートについての次のような一節がある。

戦争を避ける為めに眼をつむつて鵜呑みにしようとして見たが喉につかえて迚も通らなかつた。自分ががつかりして来たと反対に軍の多数は米の非妥協性を高潮し、それ見たかと云ふ気持で意気益々加はる状況にあつて、之に対抗するのは容易なことではなかつた。(p.249-250)
                                                          
 軍の多数派は主戦派であり、「ハル・ノート」がますますそれを助長したと東郷が考えていたことがうかがえる。

 嶋田は「誰一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった」と言うが、そりゃあ、米英と戦争せずに、わが国が従来どおり米国から石油や屑鉄の輸入を受けられるのなら、あるいは蘭印などの資源を確保できるのなら、それにこしたことはなかっただろう。
 そういう意味では、誰も戦争を欲しなかったとは言えるだろう。戦争それ自体が目的ではないのだから。
 しかし、そうした資源確保が不可能なのであれば、開戦もまたやむを得ないと当時の指導者層が考えたこともまた事実だろう。

 そして、注意すべきは、前野が引用している上記の嶋田の主張は、いずれも東京裁判で語られたものだということだろう。
 被告が、自分に有利になるように法廷で主張することは、何ら非難されるべきことではない。
 しかし、それを客観的事実とみなすべきかどうかは、また別の問題であろう。


(引用文中、パソコンで出せない旧字や記号については適宜修正を施した)

注1 Amazonで検索したが、こんなタイトルの本はなかった。
 次の本がヒットした。
  冨士信夫『こうして日本は侵略国にされた』(展転社、1997)
 以前の記事でも述べたが、前野徹という人(元東急エージェンシー社長)は、実業家としてはどうだか知らないが、文筆家としてはやはりいいかげんな人物のようだ。

注2 扶桑社文庫版の原文には、「体して」の「体」に「てい」とルビが振ってある。
 たしかに「体」は「てい」と読むこともあるが(体裁、体たらくなど)、「体(てい)する」などという日本語はない。ここは「たい」とルビを振るべきだろう。
 このルビを前野が振ったのか編集者が振ったのかはわからないが、彼らの程度が知れると言えるだろう。


海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書、2010)

2011-01-16 16:49:47 | 現代日本政治
 昨年12月4日の朝日新聞夕刊の2面に、海部俊樹元首相が出版した回顧録『政治とカネ』についての記事が載っていた。

 昨年の総選挙の愛知9区で落選し、政界を引退した自民党の海部俊樹元首相(79)が回顧録「政治とカネ」を出版した。「札束は300万円積んで初めて(横に)立つ」「デパートの紙袋に入るのはせいぜい2億円」などと、自民党総裁選や野党工作の生々しい体験をつづっている。(伊藤智章)

 海部氏は名古屋市の写真館に生まれ、1960年から衆院議員。冷戦終結の89年から2年、首相を務めた。

 自民党では三木武夫氏や後継の河本敏夫氏の派閥に属し、クリーンな政治を唱えたが、三木氏が田中角栄氏に敗れた72年の党総裁選などで、同僚議員らに対し、「金の運び屋」も経験した。

 当時は国会が紛糾し、審議に応じずに「寝る」野党に対し、「寝起こし賃」も配った。

 「表ざたになったらどう思われるか」。そんな悔いから金のかからない政治への改革をめざした。ただ、自民党が他党と連立する時も金が動いたといい、「金権政治を批判してきた者が、金の力で連立してしまう。政界は魔界」。

 いまも金の話題に独特の反応をする。小沢一郎元民主党代表の資金管理団体をめぐる事件で、秘書が「(4億円を)紙袋で受け取った」と供述した、というニュースを聞き、すぐ考えたのは、「何袋だろう」。デパートの紙袋は2億円の札束が入るが、片手で運ぶならせいぜい1億円、と知っていたからだ。

 剛腕小沢氏に振り回された思い出話からは、「甘すぎた」という海部氏の人柄も浮かぶ。海部首相を指し、自民党幹事長の小沢氏が「担ぐみこしは、軽くてパーなヤツが一番いい」と言った、と報道された件では、さすがに小沢氏本人に問いただした。「言ってない。記者を呼びつけよう」と否定され、「記者が認めるわけがない」と矛を収めたという。

 昨年の落選後も東京の事務所を維持し、講演活動などを続けている。新潮社刊。税別680円。


 そういえば新聞広告で見た覚えがある。
 この本の出版は11月だったはずである。何故12月4日になってこんな記事が出たのだろうか。いつでも使えるような穴埋め記事だったのだろうか。

 小沢に問いただしたとは、いやはや。「オマエ、俺の悪口を言ったそうだな」と、普通問いただせるものだろうか。ましてやそれを公言するとは。
 「甘すぎた」というよりは、単なる小人物ではないのか。

 タイトルが『政治とカネ』というのも何だかなあ。別に政治とカネの話を中心に書かれているわけではないだろう。
 昨今の政治課題の流行語をそのままタイトルに利用したのだろうが、元首相の回顧録にしてはさみしい感じがする。

 私は海部俊樹本人にはほとんど興味はない。ただ、首相辞任後の彼の軌跡にはやや興味がある。
 政治改革推進議員連盟の会長として選挙制度改革に邁進したこと、小沢らに担がれて村山富市の対抗馬として首相選挙に立候補し敗れたこと、続いて小沢らと共に新進党を結成し初代党首を務めたこと、新進党解党後、小沢の自由党に加わるも連立解消に伴い保守党に移って小沢と訣別し、自民党に復党したこと。
 小沢に振り回されたといっても過言ではない後半生だと思うが、そうした動きの中で、彼は何を考えていたのか。はたまた、何も考えておらず、ただ状況に流されるだけだったのか。また、現時点でそれらを振り返ってどう思っているのか。
 そうしたことが書かれているなら知りたいと思い、購入して読んでみた。

 結果、さして得るものはなかった。ただ、海部の小人物ぶりのみが印象に残った。
 ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連の解体といった激動期に、こうした人物が首相を務めていたのは、わが国にとって不幸なことだったと思う。
 その責任は本人のみならず、彼を首相に担いだ竹下登や、それを支持した当時の自民党議員にも当然あるだろう。
 私が期待していた自民党離党後の記述も薄かった。

 気になった点をいくつか書き留めておく。


○政治観

 竹下派に担がれて首相の座についた海部だったが、その点については十分な自覚と、単なる傀儡では終わらない自信があったようだ。

《私には「権力の二重構造」を、ある程度乗り越えられる自信もあった。私は、それまでに、議院運営委員長や国会対策委員長を務め、政治の難しさや厳しさを肌で学んでいた。どうしても通したい政策は、朝一番に寝込みを襲い、「頼む!」と誠心誠意頭を下げれば、余程のことがない限り相手だって「ノー」とは言わない。いざとなったら、竹下派の寝込みを襲えばいい。》(p.27)

 議運や国対の委員長というのは、この程度の手法でつとまるものなのか?
 若手の熱血サラリーマンじゃあるまいに。

 もちろん、「どうしても通したい政策」であったはずの政治改革関連法案は、こんなことで通せるはずもなかった。


○政治とカネ

 1972年の総裁選で三木武夫が敗れ、海部は男泣きに泣いたという。その姿がテレビ中継されて支持が上がったという。

《この涙は、負けて悔しくて流したわけじゃない。クリーンと謳われた三木さんだって、実際には各派にカネを配った。使い走りをしたひとりがこの私で、何人もの議員が、私から金を受け取った。受領した人々が約束を守っていれば、三木氏の票はもっと伸びたはずだ。
 それなのに、彼らは裏切った。他派からもっと高額を受け取ったのだ。〔中略〕私の涙は、「国のトップを決める選挙で、こんなことをやっていたらどうしようもない」という、なんとも寒々とした心情から溢れ出たものだった。》(p.44-45)

 金を受け取っておきながら、約束どおり投票しなかったというのなら、それはいわば契約不履行だから、(票を金で買うという行為の是非は別として)非難されて当然だ。
 しかし、金を受け取った者が、より高額の金を提供してきた者に鞍替えしたというのなら、それは票を金で買うという原理には忠実に従っているにすぎない。自分の票をより高く売りつけるのに成功したにすぎない。
 これは別に「裏切り」ではないだろう。


○皇室観

 p.108に

《九〇年一一月一二日に行われた平成天皇即位の礼は、》

との記述がある。
 「平成天皇」とは何だろうか。何故「今上天皇」と書かない?
 明治以降の一世一元制で、明治、大正、昭和と、いずれも元号が天皇の諡(おくりな)に用いられている。だから今上天皇もおそらくは没後「平成天皇」と呼ばれることになるのだろう。
 だが、それはあくまで没後のことである。現在の天皇に対しては当然「今上天皇」と呼ぶべきである。
 生存中の人物を没後の諡と想定されるもので呼ぶことは、単に誤っているだけではなく、失礼であろう。
(なお、p.155では「今上天皇即位の礼」と書かれている)


 即位の礼に際し、海部は宮内庁からは衣冠束帯の着用を要望されたが、これを拒否して燕尾服で臨んだとある。
 宮内庁の言い分は、昭和天皇即位の礼に際して、田中義一首相夫妻は衣冠束帯と十二単で臨んだからだというのだが、

《いくらなんでも、この時代に衣冠束帯では、天下の物笑いになってしまう》

として、断固として断ったのだという。
 しかし、本当に物笑いの種になったのだろうか。わが国の伝統を内外に示す良い機会だったのではないか。

 むしろ、それに続けて書かれている、

《天皇陛下と皇后陛下に向かって万歳三唱をした時も、それまでのように玉砂利の敷かれた地面からではなく、おふたりと同じ高さの床上からさせていただいた。主権在民を、しっかりと国の内外に示しておきたかった。》(p.108-109)

という感覚が、そうさせたのではないだろうか。
 海部は1931年生まれ。いわゆる戦後民主主義が声高に語られていた時期に青年期を過ごしている。
 しかし、主権在民とは、果たしてそのように表現されるべきものなのだろうか。
 国家の象徴たる人物に対して、国民の代表が一段下がって対応することは、主権在民と何ら矛盾しないのではないか。

 だからといって海部が天皇や皇室を嫌っていたわけではもちろんない。1993年の細川内閣の時代に両陛下が訪欧した際、首席随員を務めたことを誇らしげに記している。


○小人物

《宮澤喜一氏という政治家は、キャリアもあるし勉強も抜群にできるが、物を斜めに見る傾向がある。私が首相就任後、活字になった中で最も不快だったのが、氏のこんな発言だ。
「海部さんは、一生懸命おやりになっているけれど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」
 小馬鹿にするとはこのことで、これには普段温厚な私も頭に血が上った。しかし、ここでカッカしたら元も子もない。飲み込み、腹に収めて、翌日には何も残してはいけない、と自らを戒めた。》(p.28)

 その割には20年前のことをよく覚えているものだなあ。


 トレードマークの水玉ネクタイについて、その由来を説明した後、

《(地元愛知万博推進議連の会長を務めていた間は、水玉をやめて、万博のキャラクター・モリゾーとキッコロが刺繍されたネクタイで過ごした。その間に選挙も一回あったが、このときだけはモリゾーとキッコロのネクタイを着け、万博推進議連会長としての責任を果たした)。》(p.47)

とカッコ書きで記している。
 細かいことだ。

 選挙期間に万博キャラのネクタイをするというのは、万博の政治利用ではないのか?


「軽くてパー」発言について、小沢から、書いた記者を呼びつけましょうと言われて。

《もちろん、私はそんなことはしなかったし、要は、首相と幹事長の間柄として、腹に溜めたままにしておきたくなかっただけのことだ。真相はどうでもいい。上に立つ者は、それくらいは飲み込んでしまわないといけない。》(p.101-102)

 ここでも「飲み込」んだと。
 飲み込んだのなら、後からゴチャゴチャ言うべきではないだろう。
 というか、呼びつけましょうと開き直られて飲み込むぐらいなら、最初から口にすべきことではないだろう。


《「海部首相は猿、小沢幹事長は猿回し」といった構図の風刺画が、一度ならず新聞に掲載されたものだ。馬鹿馬鹿しくて腹も立たなかったが、実際の小沢氏は、総理の指令に存外素直にしたがう人だった。》(p.102)

 これも、腹も立たなかったにしては、よく覚えているものだなあ。


《「最後は、総理が決めることですからけっこうです。わかりました、そうしましょう」
 そう言った時の彼は馬力もあるし、上司の私にとっては、使い勝手の良い頼りがいのある部下だった。》(同)

 つい本音が出てしまったのだろうか。
 上司が部下を頼ってどうする(笑)

 具体的にどういうテーマについて、小沢が自説に固執せずに海部の指示に従っていたのかも、明らかにしていただきたいものだ。
 重要でないテーマなら、首相の顔を立てて、そうしたことも有り得るだろうから。


○自慢話

 組閣に当たって宮澤喜一から出された閣僚候補には加藤紘一の名があったが、リクルート絡みで潔白ではなかったという。

《私が、その旨を伝えお断りすると、宮澤氏は、
「宏池会を、むげにされるおつもりですか」
と、例によって斜めに構えた口調で答えた。
 最初の人事こそはしっかりと〝身体検査〟をして、理路整然と国民の誰もが納得できるものでないといけない。たとえ、人間関係がぎくしゃくしようと、ここは自分の信念を貫くしかない。四の五の言う輩には、
「今、我が党はどん底だ。急務は政治改革。ここでリクルート議員を入れたのでは、世間から総スカンを喰う。我々は、選挙に勝たなきゃならんのです!」
 と、断固たる態度を見せ、引き下がってもらった。》(p.91)

 しかし、宮澤に対して「断固たる態度を見せ」たとは書かれていないのが妙。


 安倍晋太郎からは、森喜朗を入閣させないでもらいたいという依頼があったという。

《森君も早大雄弁会の後輩で親しくしていたし、私も頼まれて彼の地元に演説に出向いたこともある。私は、入閣候補として七分通り決めていたが、「森君、悪いけど勘弁してくれ、安倍さんの頼みは断れない」と心の中で手を合わせた。》(p.99)



 ゴルバチョフとの会談で、ソ連首脳として初めて4島を明記した共同声明に署名させたとある。

 サッチャーの回顧録で、自分が誉められていてうれしかったそうだ。

 秋篠宮は、紀子様と一日も早く結ばれることを願っていたようだが、海部が結婚を昭和天皇の喪明けにするように宮内庁に進言したという。


○「重大な決意」

 政治改革関連法案が廃案になったあたりの筆致は激しい。やはり、強い思い入れがあるのだろう。
 そして、首相辞任のきっかけとなった「重大な決意」発言について。

《私は、党四役らを官邸に呼び緊急会議を開いた。この会議で私は、「重大な決心で臨む」「重大な気持ちでやっていく」といった内容の発言をした。それが会議後、ある人の口を通じて、「重大な決意」という言葉に置き換えられて全国に報道された。首相の「重大な決意」といえば、解散あるいは総辞職を示す。
 断言するが、私はこの時、「重大な決意」とは一度たりとも言っていない。「重大な決意」は、最後の最後に使うべき言葉であることを、三木内閣の官房副長官として、解散にまつわる顛末を見届けた私は重々承知していた。解散の札は、最終局面まで残して置かなければならない。それなのに、解散を欲する政治家が、訳知り顔に勇み足で「重大な決意」と記者に伝えてしまったのだ。〔中略〕
 私の真意は、解散ではなく、最低目標の「継続審議と、衆議院議長のもと与野党協議機関を設立すること」を実現させることにあった。》(p.149)

 この「解散を欲する政治家」が誰かも知っているが、その名は今でも明かせないという。

 しかし、「重大な決心」「重大な気持ち」であったとしても、このタイミングでそのような発言をしたとすれば、それは解散か総辞職と理解されて当然なのではないか。
 発した語句が「決意」であったのか「決心」「気持ち」であったのかなど、些末な事柄ではないか。

 そして、その翌日開かれた与野党国対委員長会談で、継続審議と与野党協議機関の設立が拒否されたため、海部は解散に打って出るほかないと考えたという。
 だったら、結局「重大な決意」をしたのと変わらないのではないか。

 海部が何をこだわっているのか、私にはよくわからない。


○辞任へ

 解散を決意した海部は、その日のうちに金丸信と竹下に連絡し、了解を取ったのだという。
 そして、解散に向けて事務的手続を作業を進めた。

 10月4日、海部は解散を決めるための閣議を招集した。同意しない閣僚は罷免し自分が兼任する決意も固めていた。しかしその1時間ほど前、竹下派が緊急幹部会を開くとの情報が橋本龍太郎蔵相から入った。
 閣議開始15分前、海部は金丸に電話を入れた。金丸は「解散はダメだ」と告げたという。
 海部はそれでも解散を強行すべきか懊悩したが、政治の師であった三木武夫が首相時代に発した「わしは、独裁者じゃないからな」という言葉が脳裏に浮かび、解散を思いとどまったという。

 三木のこのエピソードは、本書で詳しく語られている。
「三木おろし」の最中、三木は閣議で解散を諮ったが、閣僚達の強固な反対を受け、内閣改造にとどめた。海部はこの時国会対策委員長を務めていた。
 閣議前の打ち合わせでは、三木が反対閣僚全員を罷免し、臨時内閣を作る方針だった。それ故、閣僚15人分の辞任届さえ整えて待機していたのだという。抗議する海部に三木はこう言ったという。
「わしは、独裁者じゃないからな。『議会の子』である以上、民主主義のルールは守らなければいかん」

 解散権は内閣にある。そして閣僚の任免権は首相にあり、首相は他の閣僚を兼任することもできる。従って実質的には解散権は首相の手にあると言える。
 だから、反対閣僚を罷免してでも解散を強行することが独裁だとは私は思わない。「民主主義のルール」である憲法がそれを許しているのだし、解散は民意を改めて問い直すことでもあるのだから。
 ただ、そうした手法を敢えて選択しないのも、それはそれで一つの見識だろう。

 しかし、三木は、解散を閣議に諮った上で反対され、断念したのだ。
 海部は、閣議に諮るまでもなく、金丸の鶴の一声を受けて、早々に断念してしまった。
 金丸は、当時自民党の副総裁であり、党の最高実力者と目されていたが、閣僚でも何でもない。制度上は、彼に解散を云々する権利はないのだ。
 もちろん、主要派閥が政治改革関連法案に反対の姿勢を示している中、閣僚が容易に解散を支持したとは思えない。
 しかし、三木は最後まで手を尽くした上で、解散を思いとどまった。海部は、金丸の一喝を受けて、勝ち目はないと判断してシッポを巻いた。
 この違いは大きい。
 情勢がそうさせたとは言え、それまでの実力から乞われて首相になった者と、単にみこしとして担がれた者の違いでもあろう。


○雑

 海部内閣で官房長官に就任した山下徳夫は早々に女性スキャンダルで失脚した。宇野宗佑前首相に引き続き自民党のイメージダウンとなった。

《とにかくあっちもこっちも女性スキャンダルだったので、私自身は細心の上にも細心の注意を払った。だから、どんなチャンスがあっても我慢のし通しで、本当に人生を狭くしたようなものだ。》(p.97-98)


 細川護熙首相が佐川急便の問題で退陣した件について。

《それにしても、細川氏は名家の出だというのに、随分と品のない金を握ったものだ》(p.163)


 村山富市が自社さ政権の首相候補となった件について。

《第一、村山富市氏は長い間国対委員長を務めていたが、約束は破る、八百長はする、本会議はめちゃくちゃにする、といった許し難い人物だった。》(p.164)


 1991年に訪韓して。

《当時は、在日韓国人の指紋押捺問題があったが、私は常々、自分が彼らの立場だったら不愉快だろうと感じていた。そこで、韓国から帰国後、指紋押捺制度を廃止したところ、盧大統領は「大きな前進」と大変喜んでくれた。》(p.128-129)

 そりゃあ不愉快かもしれないが、外国籍でありながら在日するためのコストではないのか。
 彼の国家観はこの程度のものなのだろう。


○疑問点

 宇野の後任の首相に担がれた際に、河野洋平と橋本龍太郎を推す声もあり、3人で会談する機会をもったという。その際、

《また、ふたりとも「残念ながら女性問題がある」と告白した。何しろ、宇野スキャンダル直後である。これはまずい。特に、橋本氏は、中国の公安関係の女性と関係があると報道されていた。国防に関わることだけに、慎重を期さねばならなかった。》(p.23)

とあるが、橋本についてこの種の報道がなされたのはもっと後のことではなかったか。


 1991年8月のソ連でのクーデターの際、クレムリンに電話を入れたが、ゴルバチョフとは話せなかったという。

《代わりにハズブラートフ議長が対応した。私は「大統領とは約束したことがある」と迫ったが、議長は、「その件は、責任を持って我々が引き継ぐ」と答えるのみだった。》(p.130)

とあるが、ハズブラートフは、ソ連を構成していたロシア共和国の最高会議議長を務めた人物であり、クーデターには加わっていないはずである。
 当時ソ連最高会議議長でありクーデターの黒幕と目されたアナトリー・ルキヤノフと混同しているのではないだろうか。
 回顧録と銘打つからには、しっかりしてもらいたい。