トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

テレビドラマ「セクシーボイスアンドロボ」8話 感想

2007-05-30 07:37:59 | その他のテレビ・映画の感想
 先週の第7話の放送が急遽中止されたので、久しぶり。
 意外な展開に(ちょっと無理があるかなあ・・・・・・)。

「もう、フィクションはいいんだ。」

 初めてキャラクターに感情移入して見ることができた。

 堀井憲一郎が言うように、都市のドラマではないし、人と人との関係を描こうとしているという点で普通だ。
 それでも、このような展開には新鮮味があるし、面白くもある。
 ここまで付き合ってきてよかったなとも思った。
 今後にも期待したい。

 あと、このドラマの音楽が気に入っている。
 サントラは出るだろうか。低視聴率のドラマでは出ないこともままあるが。出してほしいな。



荒木和博の改憲消極論

2007-05-29 00:08:01 | ブログ見聞録
 改憲派でありながら、現在の自民党主導による改憲に反対なのは小林節だけではない。
 特定失踪者問題調査会の荒木和博会長は、自身のブログで、やはり現在の自民党による改憲案を批判している。
 そればかりか、速やかな改憲の実現自体にも批判的である。

《特に保守系の皆さんに多いのだが、「改憲すればすべて良くなる」と思っていて、その内容については頓着しない人がいる。実際にはとんでもない話で、特に自民党の憲法草案に至っては「こんな改憲するなら現行憲法の方がよほどましだ」というほどひどいものである。
 〔中略〕私は下手をすると、「改憲至上主義」の行き着くところは今よりひどいことになるのではないかと危惧しているのである。
 現行憲法では、第1条が天皇である。畏友福井義高・青学大助教授の受け売りだが、今の世界中の憲法で王様のことを最初に持ってきている憲法はおそらく極めて珍しいとのことで、また、帝国憲法と現行憲法には意外に共通点があるそうだ。
 ポツダム宣言ですら「日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スヘ?シ」と書かれている。「復活強化」なのである。一応の建前は戦前も近代国家だったが、一時期そうでなくなったので元に戻すということだ。
 さて、どうだろう、「1条の会」というのは。現行憲法の第1条には「第一條 天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とある。いきなり9条にいかないで、まず1条をかみしめよう。左翼はこれを「天皇主権から国民主権に変わった」と言うが、帝国憲法でも「天皇主権」とは書いていない。統治権と統帥権を総攬するということだけである。したがって、みようによっては「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス 第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という帝国憲法の条文とそれほど違いはないのである。
 9条だって、実際には軍隊を持っているのだし、今の日本で極右から極左まで含めて、今後戦争をして領土を拡張しようと思っている人間はほとんどいないだろう(現在不法に占拠されている領土については見解が異なるだろうが)。そうすると、法制局の訳の分からない解釈を別とすれば、それほど問題はないことになる。細かいことを言ったらきりがない。

 もちろん、改正に反対というわけではないが、あわてて変な改正をする必要はない。こういうのこそ小田原評定を続けて50年くらいかけて議論してもいいのではないか。例えば参議院を憲法論議だけするところにするのも一考だろう。それより、現行憲法の1条を大事にして、「護憲派」の皆さんにはもっと「皇室を敬いましょう」と言ってもらったらどうか。共産党の志位委員長あたりも先頭に立ってアピールすれば、参議院選挙での勝利は間違いなしだと思うのだが。
 「憲法9条を世界遺産に」と言ったタレントがいたが、「戦争に負けると憲法さえも押しつけられるのですよ。だから戦争するときは負けないようにしましょう」と、国民が誓うためのモニュメントにするのであればそれはそれで意味のあることだ。人が決めたものなのだから「憲法」というより「遺産」にした方がいいかもしれない。いずれにしても、余りこだわらないほうがいいと思う。

 荒木は正気か。
 現憲法1条と明治憲法の1~3条がそれほど変わらないと? 自衛隊もあることだし、9条にそれほど問題がないと? 改憲は50年くらいかけて議論してもいいと?
 私は自衛隊の保持は憲法で明記されるべきだと思う。これは喫緊の課題だと思う。
 また、天皇は元首として明記されるべきだとも思う。

 わざわざ予備自衛官に応募し、『内なる敵をのりこえて、戦う日本へ』(近著のタイトル)と称する荒木にして、この体たらくとはどういうことだろうか。
 小林といい、荒木といい、現憲法の下で諸活動を続けているうちに、日和ったように思えてならない。

 また、荒木は自民党の改憲案のどの点を指して、こんな改正をするなら現憲法の方がよほどマシだと述べているのだろうか。私には自民党の改憲案がそれほどひどいものとは思えないのだが。荒木がその理由を明らかにしているのかどうか、また調べてみたい。

小林節の改憲論批判

2007-05-28 01:00:02 | 日本国憲法
 一週間前の5月20日の『朝日新聞』の社会面の連載インタビュー「60歳の憲法と私」で、小林節・慶大教授が自民党の改憲論を批判している。

 あれ、この人は改憲論者だったはずじゃあ・・・・?

《まず私は現憲法の国民主権、平和主義、人権尊重という3大原理は正しいと考えている。それを前提に改憲すべきだという立場。いい憲法をもっと良くしよう。つまり車のモデルチェンジ、バージョンアップと同じだ。
 特に9条については全面的に書き直し、侵略戦争の放棄、自衛戦争の権利留保と文民統制、国際機関の要請と国会での事前承認を条件とした海外派遣を明記すべきだ。
 20年前からこうした改憲論を主張し続けて、憲法学の世界では異端だった。その代わり自民党の派閥の勉強会に呼ばれることも多かった。自民党は元々は明治憲法へ復古しようという後ろ向きの改憲論だったが、これを僕が前向きに変えて改憲への舗装道路をつくったと自負していた。
 ところが、最近、自民党の改憲論に非常に危うさを感じ始めている。
 まずイラク戦争の時、当時の小泉首相が非戦闘地域という架空の概念を持ちだして、海外派遣できないという憲法の制約を破って無理やり自衛隊を派遣したことに納得できなかった。
 しかも小泉首相は非戦闘地域がどこかを問われて「私に聞かれたって分かるわけない」と開き直った。最高司令官が憲法も法律も軽く見ている。
 もう一つ。自民党は新憲法草案をつくるなかで国を愛する義務を強調し始めた。そもそも愛などというのは心の深い部分にかかわる事柄であり、義務として強制されるものではない。愛は魅力で勝ち取るものであり、国を愛してほしければ権力者が魅力ある国にすればいいだけの話だ。
 このようにいまの日本の政治に法の支配も法治主義の概念も足りないのであれば、彼らにとって不自由さを感じる今の憲法をしばらくそのままにしておいた方がいいのではないかと思い始めている。》

 私は、『憲法守って国滅ぶ』という著書があること、田中真紀子のブレーン的存在だったことぐらいしか、この人物について知らない。そもそも護憲・改憲論議の詳細についても知らない。自衛隊を憲法に明記すべきだという程度の素朴な改憲派だ。
 だから、改憲派だったはずの彼からこのような発言が出てくることに驚いた。
 ちょっと調べたら、ここ数年、このような発言を繰り返しているとわかった。昨年7月の「マガジン九条」の記事でも同趣旨のことを述べている。

 これは要するに、自分は改憲派だが、現在の自民党の改憲姿勢には反対であり、そのためなら護憲でもかまわない、ということか。

 疑問点が3つ。
 まず、「自民党は元々は明治憲法へ復古しようという後ろ向きの改憲論だったが、これを僕が前向きに変えて改憲への舗装道路をつくったと自負していた」という点。
 本当だろうか。
 私は自民党の改憲論議の歴史の詳細は知らない。しかし、自主憲法制定が自民党の結党以来の党是であったことは知っている。この自主憲法とは、明治憲法への復古を狙ったものだったのか? たしかに改憲に積極的だった鳩山一郎や岸信介は戦前からの政治家だが、彼らにしても明治憲法への復古などという時代錯誤なことを企図していたかどうか。今後、調べてみたい。
 次に、非戦闘地域をめぐる小泉答弁について。
 この答弁、よく批判されるのだが、私は当時テレビの二ユースを見ていて、そういった批判に違和感を覚えた。
 今、国立国会図書館の国会会議録検索システムで当時の会議録を見てみると、次のような答弁になっている。

《○菅直人君 今のイラクに非戦闘地域というのがあるんですか、一体。これまでの答弁では、国際的な紛争という定義のもとで、組織的な攻撃とは言えない、いわば野盗なんという言葉を総理が使われたことがありますが、そういう散発的な行動はそういう意味でこの法律が言う国際的な紛争としての戦闘行為には当たらないという、これも変な理屈ですが、それで逃げておりました。
 しかし、今や、現地の米軍司令官そのものが、組織的なゲリラ戦が行われているということを言っております。どこが非戦闘地域なんですか。逆なんじゃないですか、今総理が言われたことは。
 これは防衛庁長官の議事録を読んでもそうですが、非戦闘地域でなければ出してしまうと憲法に反するから、非戦闘地域というものをどうしてもつくらなければいけない。フィクションじゃないですか。現実に、イラクの市内、あるいは北の方、南の方、ほとんどの地域で何らかの普通の言葉で言う戦闘行為が行われているのは、ニュースを見れば、新聞を見れば、テレビを見ればわかるじゃないですか。それを、非戦闘地域というものを観念の中でつくって、現実はそういうものに相当するものはないというのが、米軍の司令官の言葉からも明らかじゃないですか。
 結局は、この法律はつくったとしても、非戦闘地域が見つからないから自衛隊は出せないということになるのかもしれませんけれども、少なくとも、非戦闘地域が例えばどこなのか、一カ所でも言えるんであったら、総理、言ってみてください。

○内閣総理大臣(小泉純一郎君) それは、私はイラク国内のことを、よく地図がわかって、地名とかそういうものをよく把握しているわけではございません。今も、民間人も政府職員も、イラク国内で活動しているグループはたくさんあるわけですから、今でも非戦闘地域は存在していると思っています。
 しかし、菅さん言われたように、日本政府が非戦闘地域をつくるなんという、そんな考えは毛頭ありません。日本政府が非戦闘地域をつくることなんかできるわけないんですから。
 だから、今後この法案が成立すれば、よくイラク国内の情勢を見きわめて、そして非戦闘地域があるかないか、よく状況を調査して、そういう地域に自衛隊の活躍する分野があれば自衛隊を派遣することができるという法案なんですから、今後よく状況を見きわめなきゃ、それはわからないことです。
 また、どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか。これは国家の基本問題を調査する委員会ですから。それは、政府内の防衛庁長官なりその担当の責任者からよく状況を聞いて、最終的には政府として我々が判断することであります。
 はっきりお答えいたしますが、戦闘地域には自衛隊を派遣することはありません。》

 これは、首相としては、まずい答弁だとは思う。
 同じことを言うにしても、もう少し言いようがあるだろうにとは思う。
 しかし、小林の言うように、「最高司令官が憲法も法律も軽く見ている」とまでは思わないし、「法の支配も法治主義の概念も足りない」とも思わない。
 少なくとも、これが改憲論を保留させるほどの問題とは思えない。

 最後に、愛国心について。
 小林は、国を愛する義務を憲法に設けることに批判的だ。これには私も同意する。
 しかし、小林はさらに、「愛は魅力で勝ち取るものであり、国を愛してほしければ権力者が魅力ある国にすればいいだけの話だ。」と述べる。これには同意できない。
 では、権力者が魅力ある国にできなければ、愛国心はなくてもいいということか。
 そもそも、魅力ある国にすることは、権力者だけの責任だろうか。国民全体の責任ではないだろうか。
 憲法は、国民が国家権力を縛るものだとはよく聞く。小林はそうした見方に慣れ親しんだあまりに、権力者とそれ以外を常に対立すべきものとしてとらえすぎているのではないだろうか。

 私は、現実との齟齬を解消すべきという意味で、9条はすぐにでも改正すべきだと考えている。
 小林が、9条改正論に立つにもかかわらず、「しばらくそのままにしておいた方がいいのではないか」と考えるのならば、それは小林が真の改憲派ではない、言わばなんちゃって改憲派であることを物語っているように思う。
 何が小林を変えたのだろうか。マガジン9条の記事では、子供ができたことや、軍隊というものは本質的に非民主的だと気付いたこと、そしてイラク戦争などを挙げているが、果たしてそれだけなのだろうか。

最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007)

2007-05-23 07:18:58 | その他の本・雑誌の感想
 ショートショートの第一人者とされた星新一(1926-1997)のおそらく初の本格的な評伝。

 著者は、『絶対音感』などで知られるノンフィクションライター。
 「あとがき」でこう述べている。

《私は、生前の星新一に会ったことはない。中学生だった七〇年代に熱中した数多の読者のうちのひとりにすぎない。
 〔中略〕
 ところが不思議なことに、図書館にあったシリーズを全部読み終えてしまうと、ぱたりと関心を失った。あれほど熱中したのに、まるで憑き物が落ちたように読まなくなり、星新一から離れていった。》

 私もそうだった。
 私は中学の時に、父親の本棚にあった『ボッコちゃん』から入り、ハマった。
 なけなしの小遣いでいくつかの短編集を買うとともに、市立図書館にあった作品集を読みあさった。一部の長編を除いては、当時図書館で読めたほとんどの作品を読破したと思う。
 そこからさらに小松左京や筒井康隆、眉村卓、光瀬龍といったSF作家に手を伸ばしていったが、一方、その後は星新一の作品にはあまり興味を持たなくなっていった。
 やがてSF小説も読まなくなり、しばらくして日本の近現代史に興味を持ち始めたころ、星の『人民は弱し 官吏は強し』(父、星一(ほしはじめ)と官僚との闘いを描いた伝奇小説)や『明治の人物誌』(後藤新平、新渡戸稲造など星一と親交ないし関連のあった人物を描いたノンフィクション)を読んだ。これらは面白く読めたものの、どうも物足りない感じが残った。あまりにきれいごとで済ませている感じがしたのだ。

 著者は、星新一の、否定的な面も含めた全人像を明らかにしようとしており、評伝としては逸品だと思う。
 上記の物足りなさを感じていた人にも、得るところは大きい。
 かつて星の熱心な読者であり、現在も忘れがたい思いを抱いている人には、是非一読をお勧めしたい。
 また、日本SF創世記の証言集としても、貴重な作品になると思う。

 読了後、本屋で『ボッコちゃん』を立ち読みした。
 ああ、こんな話があったなあ。
 しかし、正直、また買って読んでみたいとは思わなかった。
 私が未読の、シュールな作風と言われる末期の作品群ならまた別かもしれないが。

 そういえば、昔誰かが、マシュマロのように口当たりが良すぎる、あまりに簡単に読めてしまうと評していた。
 確かに、星の作品にはそうした傾向があると思う。
 しかし私は、星の作品が好きだったし、彼によって小説を読むことの面白さ、そしてSFや歴史について導いてもらったとの思いが強い。そういう点で忘れがたい作家であり、私は本書により星の人物像に触れることができて良かったと思っている。

堀井憲一郎の「セクシーボイスアンドロボ」評

2007-05-22 21:31:36 | その他の本・雑誌の感想
 堀井憲一郎が、先週発売の『週刊文春』5月24日号の連載「ホリイのずんずん調査」で、ドラマ「セクシーボイスアンドロボ」を取り上げている。「伝説になりそこねたドラマ」というタイトル。1~5話までの感想。
 曰く、
・人気はない。
・1、2話はおもしろかった。2話は泣けた。
・「また、伝説のカルトドラマ創世現場に立ち会うのかとおもったら」、「3話ですこしトーンが変わり、4話5話とドラマの緊張感が落ちた」「伝説的カルトドラマにもならないだろう」
――とのこと。

 私はむしろ、その「泣ける」要素がうっとうしくて、3話以降の方が良くなってきたと思っていたので、こんなふうに観る人もいるんだなあと、意外な思いがした。

 検索したら、
http://weekly.yahoo.co.jp/10/review/dorama4/index.html
http://dogatch.jp/blog/horii/2007/04/post_21.html
堀井は当初かなりこのドラマに入れ込んでいたらしい。

 上記の「ホリイのずんずん調査」の記述から。

(1話で)《ドラマ世界には意味不明の暴力が満ち溢れていて、人と人のコミュニケーションが適当に描かれていた。少なくとも丁寧な説明でストーリーを進めていく気はないようだった。〔中略〕都市のドラマを作りたい、という意志を感じました》

(2話で、強盗が)《謝るシーンが泣けました。〔中略〕ここで誰でも泣くだろうとおもったら、そうでもないらしい。個人の問題のようだ。つまり、おれがもう会えなくなった彼女にこう謝りたいってことなんでしょう。謝っても何ともならないと知っていて、でも謝りたいんだよ。自分のためにね》

 私はあの謝罪シーンを観て、ひどく押しつけがましいものを覚えた。こんなもんで泣けるかよ、と。でも、その種の体験をもつ人は、全く違った受け取り方をするんだなあ。

《でも、2話までだった。3話で死が遠ざけられ、4話からは暴力も排除された。人と人との関係を描こうとしているようだ。それじゃふつうだ。都会的でもない。残念だ。もうどこにも連れていってもらえなさそうだ》

 「都市のドラマ」か。さすがにプロだ。視点が違う。そんなこと考えてもみなかった。
 
 ただ、私としては、原作に忠実なドラマも見てみたかった。

 今日の話も、予告を見るかぎり、あまり期待できそうにないし。

 とか思っていたら、何と、今日10時から放映予定の第7話を、第2話に差し替えることになったと、さっき知った。
 えー何でー。

 読売の記事から。

《第7話はファミリーレストランで起きた立てこもり事件に主人公らが巻き込まれる設定で、愛知県長久手町の籠城(ろうじょう)・発砲事件を想像させるためとみられる。来週は第8話を放送する。第7話の放送は未定。》

 だいぶシチュエーションが違うと思うのだが。
 それに実際の事件はもう解決したわけだし。

 それとも警官が撃たれるシーンでもあるのか?

 今日の朝刊には7話の予告が載っていたのだから、その後に急遽決まったのだろう。クレームでも来たのかな?
 堀井によると低視聴率らしいから、それに加えていらんことで注目されて、さらに足を引っぱるようなことは避けたいということだろうか?
 それとも、幻のエピソードといった、ある種の話題づくり?

 7話自体は未見なので何とも評しがたいが、直前で差し替えが決まったという点が、どうにも釈然としない。




矢内原忠雄『日本精神と平和国家』(岩波新書、1946) (2)

2007-05-21 23:07:35 | 日本近現代史
承前
 続いて、後半の「平和国家論」を紹介する。

 まず矢内原は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」という講演を紹介する。これは、ナポレオン戦争に敗れたドイツで、国民の士気を鼓舞するために行われた著名な講演。フィヒテは、ドイツは敗れたが、ドイツ国民は優秀であり、武器による戦は終わったが、これから徳の戦が始まる、ドイツ国民はこれに勝たなければならないと説いたという。そのため、敵国にあなどられないために、自国の戦争責任者を感情的に非難しないよう、また自国の思想を捨てて外国にへつらわないよう主張し、民族の復興を唱えたという。
 第一次世界大戦の敗北後に興隆したナチスにはフィヒテの主張に似た面もあるが、何よりフィヒテが排斥してやまなかった利己心に拠った点でフィヒテとは大いに異なるという。日本はフィヒテ、ナチス、どちらの道を歩むのか。
 さらに矢内原は、カントの『永久平和論』を紹介する。そして、平和国家というものは利益の問題ではなく義務の問題として考えるべきだと説く。
 そして、日本の新しき教育の目標、新しき人を造るということを考えるに当たって、

《然らば日本人の特色を為す徳はどこにあるか。若し今日迄の日本人の精神教育が全部間違っていたのでないならば、二千六百年の歴史的背景の中で之こそ日本的な徳であるとして示し得るものは、忠君愛国の精神じゃないか。天皇を西洋人の考えるような専制君主としてでなく、我々の国民生活の中心として、民族の宗家として尊み又親しむ。そういう意味の忠君愛国の心。之は日本的である。確かにそれは日本的であるのです。何故それを今日発揮しないか。西洋人が天皇制をどうこうと言えば、日本人迄も天皇を一つの制度と考えてかれこれ議論する。併し、天皇は制度ではない。日本人の国民的感情の中心である。日本に於て、日本の国の事を一番本気に、一番真面目に、一番私心なく考えて、心配して行動せられたのは天皇御自身だ。本当に陛下はお気の毒だ。あんなに一生懸命になっておられて、という国民的感情をば、なぜ泣いて率直にそのまま披瀝しないのか。我々の血液の中に流れているところの、天皇に対する言うに言われない尊敬と愛著の気持は、封建制であるとか神話的であるとか浅薄な批評によって片付けてしまうことの出来ないだけの、我々の民族的意識の中に深く根をもっている感情であると私は信じている。》(p.92~93)

と述べる。
 前回、矢内原が日本精神を嗣ぐ者は基督教であると述べていることを取り上げたが、だからといって矢内原は単純な欧化主義者ではない、むしろ天皇崇拝者であることがわかる。
 そして矢内原は、新しき人を造るということは、平和人を造ることであると説く。何故なら日本は武装を解除され、今後も武装をもつことができないとされたのだからと。

《それ故に我々にとって武装か平和かは選択の問題ではない。我々には平和あるのみ。平和は絶対的要請であります》(p.94)

 では平和人とは何であるか。それは、闘争を本義とせず平和を本旨として生きる者だという。言い換えれば、愛の人だという。
 ここに至り、俄然話は宗教じみてくる。

 矢内原は、カントの『永久平和論』と、日本の置かれた条件の違いを指摘する。
 曰く、カントは将来の戦争に対する資材の放棄をうたっているが、これは日本だけのことで、他国は皆将来の戦争に備えている。また、カントは内政干渉を廃しているが、日本は大いに干渉を受けている(占領下なのだから当然だろう)。
 しかしそれでも、日本は平和国家として歩むべきだと矢内原は言う。

《他国の政策、世界の現実はどうであろうとも、わが国は平和を性格とする国であるべきだ。否、苟しくも国というものは、平和を理想とすべきものだ。〔中略〕たとい世界の現実は戦争状態であるか、或いは戦争と平和との交替であるとしても、理念としては平和こそ国の国たる生命である。この信念を確立する国家が平和国家であります》(p.99~100)

《人或いは言うでありましょう。他の国々が軍備を拡張する中にあって、日本の国だけが武装を失って、平和国家の確立に専念することは実行不可能の事であるし、又非常に危険な事である。日本の国は平和国家であろうと欲しても、他の国々はそうではないのである。他の国々は平和を唱えつつ、実際は武力と財力とによって世界を支配しようとしている。之ではいつ迄たっても日本は頭が上らない。外国の好きなようにされてしまう。そんな危険極まることは、日本の国の永久的国是として真面目に考えることは出来ないと、そういう風に考える者があるでしょう。
 併し、平和が国の理想である、国は平和を以て完成せられるのであるという理念を我々が有つならば、他国はどうあろうとも我が国は平和国家でなければならない。国家の正しき貌、完成すべき貌が平和であるからして、我こそこの国家の理念を忠実に守って世界の光となろう。世に国々は多いけれども、こういう意味に於て平和国家を本気に考え、本気に努力した国は未だ曾てなかった。平和という語は従来単なる戦争の息抜きとして、或いは武力を以て世界を征服するものの口実として用いられたに過ぎない。併し我が国は国家の理想は平和に在ることを信じて、忠実に此の理想に生きんとする最初の国である。そういう国として人類文化の進歩に寄与しよう。どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない、それが国是であるということになります。》(p.102~103)

 「どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない」と言うなら、平和国家の理想を掲げつつも、武装することは許されるのかと思いきや、矢内原の真意はそんなものではないらしい。

《膨大な軍事費の不生産的な負担がなくなり、人民の気持はのびのびと明るくなり、平和的生活の中に独創力を発揮し、親和して物質的にも精神的にも豊かな幸福な生活を営み得るのだ。デンマルク国のような先例がそのことを証明する。之が一つの議論であります。
 併し、となおも心配性の人は言いましょう。今日の国際情勢に於いて、非武装国たる日本は外国から軍事的に侵略せられる。又は現在よりももっとひどい内政干渉を受けて、属国にされてしまうことはないか。こういう風に心配する議論もあるだろう。そこになって見ると、平和国家を利益問題として考えることは不徹底である。平和国家になった方が経済的生活がより豊富になり、国民が経済的にも富む事が出来るという様な利益論でなくて、平和国家は義務の問題である。宗教的に言えば神に対する義務の問題である。真理の問題である。真理の問題であるが故に、斯る理想に忠実に生きる国民が滅ぶということはあり得ない。若しも世に真理というものがあって、真理は凡てのものに越えた力であるとすれば、真理に忠実に生きるものが滅びるということはない。之は一つの信仰であります。神は必ず之を守り給う。個人の生活で見ましても、真理に忠実に生きるものを神が捨て給うことはない。時には苦難を受けるだろう。時には世の中から迫害を受けるだろう。けれども、神が永久的に彼を捨て給うことはない。必ず守り給うのである。》(p.105)

《併し疑う人は更に言うだろう。そうでないこともあるじゃないか。忠実に真理に事えた者が結局貧乏の中に死んでしまうこともあるじゃないか。悪人が贅沢の中に一生を終ることもあるじゃないか。それはそういう事もあります。けれども人間の幸福とか品位とかいうことを、地上に於ける若干年の物質的生活とか社会的名誉とかで量らないで、永遠の生命、永遠的価値という標準で量るならば、真理に忠実にしてその為め苦難の中に世を去る人は、真理に背いて物質的繁栄の中に此の世を去る人よりも、いくら幸福であり、いくら価値ある生涯を送ったかわからない。国の問題にしても同じであります。〔中略〕かかる国民は、此の世に於ける制度としての国家が敵に滅されることが万々一仮にあったとしても、国民としての生命は永遠に其の光を放つのである。》(p.106)

 そして、日本の歴史上も、例えば天照大御神が岩戸に隠れたエピソードを、無抵抗主義による平和の態度だとして、日本国民にとって平和国家の理想は決して縁もゆかりもないものではないとする。

《日本は武装を棄てました。デンマルクやスイスのような小国は別として、大国にして完全に武装を有たぬ国は世界歴史上ドイツを除いて他に例を見ないのでありまして、我が国は其のような国となったのであります。武装を有ちながら唱える平和論は不徹底であります。武装のない国にして始めて平和国家ということを純粋且つ真剣に考え、又その実現に努力し得る立場に置かれたのであります。》(p.113)

《平和国家は民主主義以上であります。民主主義国でも戦争をします。侵略的でもあり得ます。民衆は時には君主以上に暴君的であり、非合理的であります。之に反し平和国家は神の御心の行われる国である。日本は平和国家として生きてゆく外なき状態に置かれました。そういう国として神が日本を選び給うたのです。之を止むを得ざる運命として諦めたり、或いは敵に対する憎悪とか復讐とかを心に蔵しつつ不平不満を以て屈従したりするのではなく、神が我が国に課し給うた特別の光栄ある使命として受けるならば、本当に日本は世界に光となることが出来るのです。》(p.114)

 矢内原は、クリスチャンとしての立場から、平和国家であることを神から課せられた日本の使命として受け入れるよう訴えている。

 昔のアニメ「新造人間キャシャーン」の「キャシャーン無用の街」(第14話)というエピソードを思い出した。
(ストーリーを紹介しているブログがあったので、未見の方は参考にしてください。
http://blog.livedoor.jp/luna_kozuki/archives/715246.html
http://plaza.rakuten.co.jp/catrice/diary/200510040000/ )
 無抵抗主義を貫き、自分は間違っていないと言い残して死んでいく市長。当人はそれでいいかもしれないが、市民は果たしてそれに納得していただろうか。
 個人の信念として無抵抗主義をもつのは一向にかまわないと思うが、それは国家に適用すべきことだろうか。 

 また、前回紹介した「日本精神への反省」では、矢内原は日本精神の非合理性を批判していたが、この「平和国家論」では、自ら、平和国家は利益問題ではない、神が課された義務であるとしている。矛盾しているのではないだろうか。
 「平和国家論」もまた、安易な現状是認論にすぎないのではないだろうか。


(本書では旧かなづかい、旧漢字が用いられているが、全て新かなづかい、新漢字に直した。また赤字による強調は引用者による)

矢内原忠雄『日本精神と平和国家』(岩波新書、1946) (1)

2007-05-20 17:51:59 | 日本近現代史
 矢内原忠雄(やないはら・ただお 1893-1961)は、戦前・戦後に活躍した経済学者。『帝国主義下の台湾』などの著作で知られる。クリスチャン。自由主義者。1937年、軍国主義批判を攻撃され、東大教授を辞職。戦後東大に復帰し、1950年代には総長を務めた。



 表紙の「岩波新書」の下に「100」の番号がある。岩波新書の旧赤版は100点で終了したそうだから、これが最後の1点だったのだろう。
 刊行は1946年の6月だが、45年の10月に行われた「日本精神への反省」と題する講演と、同年11月に行われた「平和国家論」と題する講演(ともに長野県で行われた)の2つを収録したもの。

 数年前の古本市で見かけて、高名な矢内原が終戦直後に日本精神云々と語っている、果たしてその内容は?と気になって購入し、そのまま本棚の片隅で眠らせていたもの。
 私は矢内原の著作を読むのはおそらくこれが初めて。
 以下、私の無知ゆえ、感想というよりも、内容の紹介と若干の印象を述べる。

 まず、「日本精神への反省」について。
 「民族精神とは何か」「日本精神の特質」「本居宣長の思想」「本居宣長批判」「太平洋戦争と日本精神」「日本精神を嗣ぐ者」の全6章で構成。
 最初に、民族精神とは何であるかを定義づけ、次いで、日本精神の特質として、神を拝む心、清浄を尊ぶこと、淡泊であること、迷信的要素が少ない(偶像崇拝が少ない)といったことを挙げる。
 そして、日本精神を説いた代表格として本居宣長の思想を取り上げ、解説する。

《宣長の言うには、天皇が日本の国を治め給うということ、そして日本の国が本つ国であることは天つ神の御意によって定まった事であって、日本の国自体の個別的な価値とか天皇の個人的価値とかによって定まったのではない。神意によって定まったのである。それ故にわが国は小国であるなどという事を以て、日本が世界の本つ国であるということを疑ったり、けちをつけられたり、自ら卑屈に考える事は少しもないんだ。又天皇の中には善き事をせられる天皇もあるし、それほどでもない天皇も御歴代の中にはあったけれども、そんな事でもって、天皇が日本の国を治め給うという事の意味を少しも動かすことは出来ない。そんなことを考えるのは漢心(からごころ)だ。漢心によると、善人が出て悪王を覆して自ら王となる。そして一旦自分が王となれば、君に背くは悪い事だと教える。併し自分自身が君に背き、君を顛覆して王となったことは口を拭うて顧みない。日本の国柄はそうでない。日本の国柄は、その地位に当たる人の人物如何によって君になったり、ならなかったりするのでなくして、天皇が君であるという事は神の定めである。或る時代の政治が善くない事があっても、之を顛覆して新しい王朝を立て、又それが顛覆せられてゆく事によって世の中が乱れる事に比べて見れば、君如何に拘わらず君は君として畏み事えるということの方が、本当はよく国が治まるんだ。これが宣長の国体論であり、又政治論であります。》(p.18~19)

 その上で、唯一絶対神の信仰が宣長にはない、人格的存在としての神の観念がない、非常に安易な現状是認論となる、理想に向かっての追求、真理に向かっての探求という真の意味の宗教的若しくは哲学的な熱情を抑えてしまうと批判する。
 クリスチャンとしての矢内原の面目躍如といったところか。

《結局宣長の見た信仰心というものは人間的な気持ちに過ぎない。彼の見た神というものは人間的な神、否人間である。彼の見た神の国はありのままの人間の国である、そう言われても仕方がないでありましょう。それは彼の思想には信仰的な善い要素をもっておりながら、彼の神観があまりにも素朴であるからです。神をば人より超越せしめ、絶対者として仰ぐ時、始めて神は真の意味の霊的存在となり、我々のまことの神、まことの祭りの対象となるのです。又まことの学問、まことの政治の根本となるのであります。然るにそうでなくして、宣長の認識した程度の素朴さに止まっておりますと、凡ての事が人間の水準に引き下げられてしまう。現実の人間の状態、現実の社会の状態に引き下げられてしまう。そして名は神ながらと呼ばれようとも、実は人ながらという事になります。それからは宣長の考えた事と正反対な事、即ち不信仰、無宗教、無理想、無道徳の社会が起こってくる危険がある。宣長自身は真面目な学者であり、高潔純情の士でありました。それを私は疑いません。けれども宣長の説からは真の宗教と学問とを弾圧し、阻止する亜流の出る危険はあったのです。》(p.37~38)

 そして矢内原は、太平洋戦争と日本精神との関係について述べる。外国思想の排斥、国体観念の強調に日本精神がいかに用いられたかを説く。その中に、興味深い記述が散見される。

《神の大前に額づいて敬虔な祈りの感情を披瀝することは〔中略〕日本人のそれこそ神代ながらの姿であります。併し東京に於いても地方に於いても電車やバスが神社の前を通過する時、車掌の注意に従って、座席に座ったものは座ったまま、吊革にぶら下がったものはぶら下がったまま、或いは神社に背中を向け或いは横を向いたまま目礼して過ぎた。そういう事が要求せられ、それを実行しないものは非国民であるかの如くに言われた。之は〔中略〕敬虔な感情をどれだけ養成することが出来たか。之も結果はマイナスであったでしょう。そこに見られたものは、形式化した日本精神以外の何物でもなかったのです。》(p.39~40)

 こんな愚かなことをしていたとは、初めて知った。これでは北朝鮮を嗤えまい。

《戦争終了後の混乱は実際見っともない事でありまして、私は大に悲しみ大に恥じました。日本人というのはこんなにもつまらない民族であるか、こんなにも低級なものであるか。宣長は私心を去れと言っておりますけれども、私心ばっかしだ。而もそれが、日本精神日本精神とあんなに洪水のように言われ、それで養われて来た筈の日本人がこんな姿か。殊に日本精神をやかましく唱えた人々自身、日本精神による教育を重んじ、日本精神の権化であると言われた軍隊や学校の中にも、周章狼狽して幹部が非常な私心を発揮した実例を聞いているのであります。支那やフィリッピンに於いて日本の軍隊が暴行を働いたということを、支那の方はまだ公に暴露せられておりませんけれども、フィリッピンの事に就いてアメリカの方から発表があって、国民が苦い思いをさせられた。日本の軍隊が全体としてそういう行動をしたのではないでしょうし、軍全体の方針としてしたのではないでしょう。それを以て全班を推すことは間違だろうと思いたいのでありますが、併し或る部分に於いてはああいう事実があったのでしょう。之も日本精神が徹底していなかったというよりも、寧ろ日本精神そのものの中に欠陥がある、そう反省して考えた方がよいでしょう。村にありては善良な村民であり、家庭にありては善良な父であり夫である者が、こんな事をするとは思われないと言いますけれども、戦争その事が人を気違いにするものである。その上に軍隊という団体の中に入っていて、個人が責任を有たない。而もそれが日本本国でない事からして一層責任観念が曖昧となりまして、その場の勢いによって暴行を働くということはあり得るのです。》(p.47~48)

 支那における暴行とはいわゆる南京大虐殺を指すのだろうか。
 いずれにしろ、公にはされずとも、その種の情報が一部では伝えられていたことが推察される。

《太平洋戦争となった後に、八紘為宇、そういうことが持ち出されたのであります。時間的順序を見てごらんなさい。太平洋戦争を始めたときに、八紘を宇となすとか大東亜共栄圏とか東亜の諸民族の解放とか、そういうことが言われたのではありません。あれは戦争遂行上政治工作が必要になった時に始めて言われたことです。あとから附加えた理屈です。共栄圏とか八紘為宇とかいうことは、それだけ取り出してみれば立派な思想であります。之が国民を鼓舞したこともあるでしょう。併しそれが原因となって太平洋戦争が起こったのではありません。》(p.49)

 全くそのとおりだろう。そんないきさつも知らずに、日本が解放戦争を戦ったかのように言いつのる輩が最近増えているようで嘆かわしい。

 最後の章で矢内原は、次のように述べる。

《現代に於いて日本精神を反省し、之に新生命を与えて、之を深め、充実し、展開する仕事をする人間は、何処に見出されるか。それは之まで日本精神を振りかざして来たところの所謂日本主義者ではないと、私は信ずるのであります。》(p.51)

 だからといって、儒教、仏教も、死物同然だという。そして武士道もまた。

《武士道は封建時代の華でありまして、日本の武士の生き方を明らかにしました。けれども今は武士道が復興すべき社会的地盤がありません。軍人の中には立派な人もありますけれども、一般的に見て今日の職業的軍人が武士道精神をもって行動したとは言えず、又行動し得ると私は思わない。》(p.52~53)

 では、何者が日本精神を嗣ぐのか。
 
《結論と致しまして私が申すことは大胆にお聞きかもしれないけれども、今日日本精神を反省して之を立派なものに仕上げる力は、基督教である。私はそう信ずるのであります。》(p.53)

 いや、そりゃアナタはクリスチャンだからそうかもしれないけど・・・。

 矢内原は、基督教も日本精神も共に真理であり、信仰的、霊的であり、私心を去って神の御心に拠るという点で、脈絡がないわけではないと説く。日本は明治維新で西欧文明を取り入れたがそれは形だけで、その精神、つまり基督教を取り入れていなかった、今こそ取り入れるべきだと説く。
 しかし日本古来の神道と基督教とは対立するのではないか?
 だが矢内原は、基督教の神は絶対神であるから日本の神でもあると説く。

《日本には日本でなければ果たすことの出来ない使命を神から与えられている。そういう意味で、日本は神の選びを受けた国として絶対的な存在価値を有する。他の国も同様である。日本はほかの国より卑下する事もないけれども、他の国は夷である、日本だけ神国であると言って、他国を軽蔑する事もない。それぞれの国がいずれも唯一の絶対神によって絶対的なる存在価値をもつのである。完き万邦平和はこの認識の基礎の上に於てのみ成立つのです。》(p.57)

 では基督教と天皇との関係はどうなるのか?

《之だけ申してまだ大に言い足りません。天照大御神或いは天皇の問題に就いて論じませぬといけませんけれども、私は基督教の信仰によって実際的にも思想的にも日本の国体を毀すものではなく、却って一層美しく又一層確実なものとすることが出来ると思うのであります。其の事に就いてはもっとお話ししたいのでありますけれども、もう時間がありませんから省略致しまして、最後に私は》(p.57~58)

 省略しないでいただきたい・・・・・・。
 最後に矢内原自作の詩を朗読した上で、基督教の下での日本復興を唱えて、この講演は終わる。

 結論には全く同意できないけれども、戦争直後の自由主義的知識人(そしてクリスチャン)の主張を知る上で、参考になる箇所が多かった。
続く


(本書では旧かなづかい、旧漢字が用いられているが、引用文中では全て新かなづかい、新漢字に直した。ひとえに入力上の便宜のためである)

集団的自衛権をめぐる朝日記事について

2007-05-19 18:05:21 | 日本国憲法
 昨日の『朝日新聞』朝刊が、社説「集団的自衛権―何のために必要なのか」で、集団的自衛権を認めるべきではないと主張している(魚拓)。また、4面には「論考―集団的自衛権」という連載で、集団的自衛権を認めるには改憲を要するとの秋山收・元内閣法制局長官のインタビューが掲載されている。
 ともに、いろいろと疑問が多い。

 社説はこう述べている。

《どんな場合が集団的自衛権の行使にあたるのか、それは容認されるのかという検討の対象として、四つの類型があがっている。公海上で自衛艦の近くにいる米艦船が攻撃を受けた場合の応戦など、どれも一見、なんとかしなければいけないと思わせる具体例だ。

 だが、よく吟味してみると、個別的自衛権で考えるべきものや、そもそも集団的自衛権に該当しそうにないものが含まれている。これで議論を進めようというのは乱暴である。

 米艦船への助太刀だが、実際に起こりそうなのは日本近海で共同行動をとっている場合だ。それは日本有事か日本有事に極めて近い状況だろう。個別的自衛権の延長で考えるべきことである。

 国連平和維持活動(PKO)などで隣り合わせた外国の部隊を守るのも、安全確保のための武器使用という文脈でとらえられる。それに集団的自衛権の対象になるのは同盟国の米国だけだろうが、米国以外の国の部隊とも行動を共にするのがPKOである。

 多国籍軍などへの後方支援としての武器輸送は、武力行使と一体となる場合が多く、そもそも憲法上許されない。

 米国に向けて発射された弾道ミサイルを自衛隊のミサイル防衛システムで迎撃する類型もある。だが、現在の自衛隊のシステムでは、米国向けのミサイルを撃ち落とすことは能力的に不可能だ。

 技術の進展によっては可能になるかもしれないが、ミサイル防衛の将来自体が不明確なうちに、そこまで突っ込んで議論する必要があるのか疑問だ。》

 4つの類型を検討することについて、いずれも否定的である。

 日本近海である公海上での米艦船への攻撃に対する反撃は、個別的自衛権の延長で考えるべきことだろうか。現行の政府解釈では、個別的自衛権の範囲外、あるいはグレーゾーンであるからこそ、検討を要するのではないか。
 仮に個別的自衛権の延長で考えるとすれば、今度は「日本近海」の範囲はどこかということが当然問題になってくるだろう。かといって、仮にそれを決めたとして、その付近で攻撃を受けた場合に、この線から内は反撃する、外は反撃せずに傍観するといった取り決めが実際に機能するとは思えない。ならば、最初から集団的自衛権の問題として検討しておくべきではないだろうか。

 PKOの他国部隊を守ることは「安全確保のための武器使用という文脈でとらえられる。」というのは、集団的自衛権の問題ではないと言いたいらしい。だからといって、この懇談会での検討課題になじまないということにはなるまい。「安全確保のための武器使用」ならば他国部隊を守るために応戦することは自明なのか? そうではなかったはずだ。

 後方支援としての武器輸送が、憲法上許されないと言うが、そうした憲法解釈がそれでよいのかを検討することが懇談会の目的ではないのか。

 MDについても、現時点で能力的に不可能だからといって、検討すべきでないということにはなるまい。

 社説は何やら集団的自衛権以外は議題としてふさわしくないと言いたげだが、この懇談会の名称は、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」である。その開催の趣旨は、内閣官房によると

《我が国を巡る安全保障環境が大きく変化する中、時代状況に適合した実効性のある安全保障の法的基盤を再構築する必要があるとの問題意識の下、個別具体的な類型に即し、集団的自衛権の問題を含めた、憲法との関係の整理につき研究を行う》

とされている。
 何も集団的自衛権の問題だけを検討するというものではない。

 朝日は本当に「よく吟味してみ」たのだろうか。私には単なる言いがかりのようにしか見えない。「これで議論を進めようというのは乱暴である」とは意味がさっぱりわからない。

 次に、秋山元内閣法制局長官のインタビュー(聞き手 鯨岡仁)について。
 秋山は、懇談会の人選を「非常に偏っている」と述べた上で、政府見解を次のように説明している。

《日本が自衛権を行使するには三つの要件が必要だ。(1)わが国への急迫不正の侵害 (2)他の適当な手段がない (3)必要最小限の実力行使にとどめる――の3要件だ。特に「わが国への」という点が重要で、他国が攻撃されても自衛隊が応戦できるという解釈はできない。》

「できない」
 何故だろう?

《第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》

 この条文のどこをもって、上記のような解釈ができるのか?
 条文には、自衛権の行使について何も触れられていない。それをいいことに、言わば条文の穴を衝いて、個別的自衛権の行使、自衛隊の保有を認めてきたのではなかったか?
 政府見解では、自衛のための武力の行使は、1項に言う「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」には当たらないというのだろう。
 ならば、その自衛が集団的自衛であって、何故いけないのか。
 それを認めるか認めないかは、解釈の問題だ。「できない」と決めつけられるものではない。「できる」という解釈も当然あり得る。

《政策論として集団的自衛権の行使を認めるべきだ、という主張は理解できる。だが、それは法律論ではない。憲法9条は、自衛隊の行動に国際法の基準以上の厳しい制約を課している。強引に解釈を広げれば、国際法と憲法の解釈が一致し、憲法の意味がなくなる》

 いや、法律論の問題でもある。個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は行使できないというのが一つの解釈に過ぎないのだから、他の解釈を採用する余地はある。条文上、集団的自衛権の行使が否定されているわけではないのだから。

《内閣法制局は憲法の規範的な意味を守ってきた。首相はそうした積み重ねを無視しないで欲しい。時の政府の判断で解釈を変更できるなら、公権力を縛る憲法の意味が失われてしまう。》

 では、内閣法制局が一度下した憲法解釈を変更することは未来永劫許されないのか?
 そんなバカな。
 たしかに、内閣が替わるごとに憲法解釈がコロコロ変わっては困るだろう。そういう意味で、憲法解釈の継続性というものは必要だろう。
 しかし、従来の解釈はおかしいと考える者が首相となり、その考えに沿って公に解釈変更を検討し、その結果を受けて変更することは、何ら問題ないのではないか。
 公権力を縛るのは憲法であって、内閣法制局ではない。
 秋山の言い分はまるで、内閣法制局が、憲法解釈の最高の権限を有するかのようだ。
 しかし、行政権は内閣にある。内閣法制局はその一機関にすぎない。内閣法制局の見解が「時の政府の判断」より優越するかのような秋山の物言いこそ、民主制を危うくするものではないか。

《歴代首相が集団的自衛権の行使を「真っ黒」(違憲)と言っているのを「真っ白」(合憲)にするのは至難の業だ。解釈変更をしたいのなら、憲法改正で正面から対応するのが筋だ》

 いや、集団的自衛権の行使を認めることと、改憲とは別問題だろう。
 懇談会のメンバーの1人、佐瀬昌盛の『集団的自衛権』(PHP新書、2001)を読み返していたら、次のような記述があった。

《他国の憲法で、自衛権を明記しているものはあっても、それを個別・集団の両面にわたって確認したり、いわんや集団的自衛権の保有に特に言及しているものはない。わが国は国連に加盟しており、国連憲章に意義または留保を唱えていない。そうである以上、集団的自衛権の保有および行使を憲法ないし他の国内法で明文的に否定しないかぎり、わが国がそれを個別的自衛権と並んで「固有の権利」として保有していることは自明なのだ。》(p.264)

 私は佐瀬の見解に賛成だ。改憲により集団的自衛権の行使を明文化しなくても、現行憲法の解釈変更は可能であるし、明文化する必要もないと考える。

「ふるさと納税」って?

2007-05-13 23:57:30 | 現代日本政治
『朝日新聞』12日朝刊の1面にこんな記事が。

「ふるさと納税」導入へ 骨太方針に盛る方向(朝日新聞) - goo ニュース

 何これ。

《菅氏が主張している仕組みは、現住所のある自治体に納めている住民税の1割程度を、住民が希望すれば生まれ故郷などに振り向けることができるというもの。ただ、この方式には「行政サービスの受益と負担の関係が崩れる」との批判がある。

 このため、実際の検討では、「寄付金税制」の拡充によって、出身地に振り向けた金額に相当する額を、現住所への納税額から控除する方式が軸になる可能性がある。例えば納税者がふるさとに10万円を寄付すれば、現在の住所に支払う税金が10万円減額されることになり、住民税の一部を振り替える方式と似た効果が出る。納税者の負担総額が増えることはない。対象を住民税に限定すれば国への納税額は変わらないため、財務省も制度の導入には反対しないとみられる。》

 私がバカなんだろうが、「寄付金税制」の拡充による上記の方式により、「「行政サービスの受益と負担の関係が崩れる」との批判」がどう解消されるのかがわからない。

 財務省は反対しないかも知れないけど、減額されてしまう自治体は当然反対するだろう。↓
 
ふるさと納税「ナンセンス」 石原都知事が批判(朝日新聞) - goo ニュース

 「税の体系とすればナンセンス」との石原の論は全くそのとおりだろう。
 ふるさとに貢献したいのであれば住民税とは独自に寄付すればいいのであって、何で現住所である自治体の税収が減らされる必要があるのだろうか。

《政府は、参院選前の消費増税論議を先送りするため、本格的な税制改正論議は秋から始めると説明してきた。その一方で有権者に受け入れられやすい税制論議だけを先行させる手法には、批判も出そうだ。》

 結局、地方向けの参院選対策ではないのか。
 実際にどれほどの人間がこの制度を活用するかも疑問だ。導入のための当局の負担の方が大きいのではないか。
 選挙対策に税制を弄ぶのはやめていただきたいものだ。

夢野久作の経歴に関する異説について

2007-05-10 23:59:54 | ブログ見聞録
 「反日ブログ監視所」のブログの3月1日のエントリに、「ドグラマグラと嫌安倍厨」というものがある。
 そこに寄せられたコメントの一つに、次のようなものがあった。

《夢野久作氏の本業は精神科医でして、そちらの業界でも名の知られた人でしたが、「ドグラ・マグラ」を発表したときは「ミイラ取りがミイラになった」と話題になったそうです。
静流さんもお気をつけて。彼らはかなりの割合で本物です。

Responded by ゲスト at 2007-03-02 20:20:59 》

 私は、もうかなり前のことになるが、「ドグラ・マグラ」をはじめ、夢野久作の主要作品は読んだことがある。三一書房版の全集も持っている。
 しかし、夢野久作の本業が精神科医だったというような話は聞いたことがない。
 そこで私は、このゲストさんの発言に疑問を呈するコメントを付けた。
 また、「反日ブログ監視所」の篠原静流氏も、ウィキペディアやはてなダイアリーの記述を元にした久作の経歴を示し、いつ精神科医だったのかと疑問を呈している。

 その後のやりとりの詳細は同エントリのコメント欄を参照すればわかるので省略するが、このゲストさんは次のように述べている。

《引用されている夢野久作氏の経歴は公式のものではあるものの、「夢野久作」名での著作は作品そのものだけでなく著者のプロフィールもフィクションです。(ある程度は事実を基にしているようですが)》

《夢野久作の公式プロフィールは1988年に公開された映画「ドグラ・マグラ」の制作前後に創作されたもので、その過程は当時の文芸誌に関連の記事を追えば自ずから判ることです。》

 私は88年の映画も見ていないし、当時の文芸誌でどのような記事があったのかも全く知らない。

 しまいこんでいた三一書房版の全集(初版は1969~70年刊)を出してみた。
 7巻に久作の年譜が掲載されているが、精神科医云々の記述はない。前述の篠原氏が挙げているのと同様の経歴だ。
 公式プロフィールは88年の映画「ドグラ・マグラ」の制作前後に創作されたとの説が虚偽であることがわかる。

 やはり7巻に収録されている、久作の妻クラ夫人及び子息の龍丸氏と、編者の1人である谷川健一との対談では、久作が「ドグラ・マグラ」の取材のため九州大学を訪ね、精神科の病棟を回ったとのエピソードが挙げられている。
 ネットで調べてみると、そのころ九大にいたという榊保三郎という精神科医が、「ドグラ・マグラ」に登場する精神科医のモデルであるとの説があるらしい。
 仮にそうだとしても、それはあくまでモデルであり、その人物が「ドグラ・マグラ」を書いたわけではあるまい。

 映画公開当時の文芸誌の記事に上記のゲストさんが言うような説があるのかどうか。
 あるいは、そのほかにでも、夢野久作は精神科医だったというような説があるのかどうか。
 ご存知の方がおられたら、御教示いただけたら幸いです。

 上記の私のコメント中、「ドグラ・マグラ」について、

《昔々読みましたが、最初と最後の時計の音とか、「オニイサマ、オニイサマー・・・」と繰り返し呼びかけられる箇所ぐらいしか覚えていません。》

と書いていたが、久しぶりに読み返してみたら、「お兄さま、お兄さま」又は「お兄様、お兄様」と、ひらがなと漢字だった。
 カタカナだったように思っていたのは、夢野久作独特のカタカナの使用法が印象に残っていたためのようだ。

《・・・・・・お兄さま。お兄さま。お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま。・・・・・・モウ一度・・・・・・今のお声を・・・・・・聞かしてエ――ッ・・・・・・・・》

《それは聞いている者の心臓を虚空に吊し上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずには措かないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。》

 ほかにもいくらでも例はあるのだが、私はこれほどカタカナを印象的に多用した作家を知らない。