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日々の思いをたまに綴るブログ。

オコジョさんはこんな人

2018-09-30 11:56:30 | ブログ見聞録
 先日、北方領土問題についての記事を書いていて、オコジョさんというブロガーのことを思い出した。

 以前、私が北方領土についてのいくつかの記事を書くきっかけをいただいた方だ。

 その経緯を記しておくと、

1.私が2012年9月8日付けで
松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」
という記事を書いた。

2.これに対して、オコジョさんというブロガーが、
「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって
米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など
という2つの記事を書いた。

3.それに対して私が、同年9月17日付けで
4島返還論は米国の圧力の産物か?
を書いた。

4.オコジョさんが3への批判として
日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」
四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題
の2つの記事を書いた。
さらに続けて、私の記事への批判ではなく、オコジョさん自身の北方領土問題に関する見解として
「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?
「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲
を書いた。

5.私は、オコジョさんが挙げたいくつかの文献に当たった上で、2013年2月13日付けから同年3月12日付けにかけて、私の以前の記事における誤りを訂正し、またオコジョさんの主張のある面については反論し、さらに私自身の北方領土問題に関する見解として、以下の記事を書いた。
オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について
オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について
オコジョさんの指摘について(3) 「間違いない事実」という表現
オコジョさんの指摘について(4) 「米国の意思を体現」という表現
オコジョさんの指摘について(5) 「米国の意思」をどう見るか
オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について
再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心
再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について
再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策

――となる。

 5の私の一連の記事に対するオコジョさんの私への反応はなかった。
 そして、「オコジョのブログ」をのぞいてみると、しばらくの間、更新も、ご本人のコメントもなされていなかった。
 私は、何か気の毒なことをしてしまったような気持ちになった。
 また、オコジョさんの上記の記事それ自体についての私の考えは、上記の経緯5の私の一連の記事で既に言い尽くしていた。
 加えて、後述するが、私は当時オコジョさんへの関心を既に失っていた。
 そのため、私は、以後オコジョさんについてこのブログで言及することはなかった。

 しかし、先に述べたようにオコジョさんのことを思い出し、「オコジョのブログ」をのぞいてみたところ、以前のような更新頻度ではないものの、現在でもブログを順調にお続けになっているようだ。

 先に述べたように、オコジョさんの記事自体についての私の考えは既に言い尽くしている。
 しかし、オコジョさんの人となりについて、私としては当時少し思うところがあった。
 オコジョさんがブログを停止したのなら、私としてはそれ以上述べる必要もあるまいと思っていたのだが、現在オコジョさんは元気にブログを続けておられるようなので、私が当時オコジョさんの人となりについて思ったことを二点、記録として書き留めておく。
 一つは、ブログのコメントやトラックバックをめぐるオコジョさんの言動について。
 もう一つは、私がオコジョさんへの関心を失うきっかけとなったある出来事についてである。
 以下、完全に私事にわたる内容であり、かつ長いので、興味のない方には読むことをお勧めしない。

 まず前者について。
 私が上で述べた、経緯の4と5の間には、約4か月のタイムラグがある。
 これは、4の時点での私には、オコジョさんが呈示した資料を入手して検討する時間がすぐにはなかったこと、そしてその後オコジョさんへの関心を失ったため(理由は後述)、記事を書く意欲が減退したことによる。

 私は、オコジョさんの記事「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」を読んで、 2012年9月22日にこうコメントした。

一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。
〔以下略〕


 すると、オコジョさんは、

わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
 どうか、存分にご研究ください。
〔以下略〕


と返答した。

 その後、しばらくの簡、オコジョさんから、いくつかのオコジョさんの記事のトラックバックが私のブログに送られてきた。それは、トラックバックが付けられた私の記事と、トラックバック元のオコジョさんの記事の内容が全く無関係なものであった。
 今やトラックバックといってもご存じない方も多いだろうが、トラックバックとは、あるブログの記事中で別のブログの記事にリンクしたことを、リンク先のブログに通知する機能だ。
 当時、必ずしもそのように限定して使われていたわけではなく、単に新記事を書いたことを相手ブロガーに通知する目的で用いるブロガーもいた。しかし私としては、私の記事の下に、それとは何の関係もない他ブログの記事のトラックバックが表示されていることには違和感があった。
 そこで、私のある記事に付けられたトラックバック元の「脱原発の根拠――反論にお答えして」というオコジョさんの記事(私の記事はもちろん原発とは何の関係もない)に、私は次のようにコメントした。

本記事のトラックバックをいただきました。

 トラックバックとは、ブログの記事において他のブログにリンクを張った際に、リンク先に対してその旨を通知するための機能だとされています。また、他のブログの記事に関連する内容を自分のブログに書いた際に、その旨を通知するのに用いられることもあるそうです。私もこの二通りの利用法に従っています。

 これまでにも何度かトラックバックをいただいておりましたが、リンクの通知でもなく当方の記事の内容に関連するわけでもない記事からのトラックバックはご遠慮ください。

投稿: 深沢明人 | 2013年1月 9日 (水) 00時14分


 すると、オコジョさんは、上記の経緯3の私の「4島返還論は米国の圧力の産物か?」という記事に、唐突に次のコメントを付けた。この方の人となりがよくわかるものなので、長いものだが全文貼り付けておく。

トラックバックとは? (オコジョ) 2013-01-09 20:04:22

 以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!
 しばらくは、あいた口がふさがりませんでした。

 たとえば、サランラップをご存じですか?
 サランラップで野菜をつつんだら、深沢さんは文句をつけるかどうか、です。

 あれは、もともとは戦争で使っていたモノで、弾薬を包むのに使われていました。いざという時に使い物にならなくなっては大変ですから、しっかり湿気から防護するのにピッタリの発明品でした。
 詳しく書くのは面倒ですから簡単にすませますと、戦争が終わったあとにラップを沢山持ち帰った兵士の奥さんが、サンドイッチを包んだりするのに「転用」したのが始まりでした。二人の兵士の奥さんが、サラさんとアンさんで、サラン・ラップだとか――。
 この手の話はいくらでもあります。

 深沢さんがご利用のインターネットで、その記述言語になっているHTMLは、元来が文章の論理構造を規定していたものだったのですけど(そして現在でもそうであり続けているのですけど)、現在一般的にはパソコン画面での表示方法を按配するものとして活用されています。

 いや、そのインターネット自体。
 インターネットというのは、インターナショナルがナショナルのインターであるのと同様、ネットワークのネットワークのことです。
 もともとが研究者の情報交換のために、それぞれのネットワークをつなげるというところから始まりました。
 何も、エッチ画像を見られるようにするために作ったものではありません。

 深沢さんは、なんなら18禁のサイトに行って、あんたたちの使い方は違うと文句をつけたらいかがでしょうか。

 そもそも――トラックバックとは何ぞや???
 それを深沢さんが決めようというのですか。あれまあ……。
 「そもそも論」をしたって仕方ありません。使えるモノは使うのが相場です。

 私たちの場合、トラックバックというのは「こんなコトを書きましたよ」という“お知らせ”の意味を持っています。現に複数のブログとそういうトラックバックをやりとりしています。こちらからもリンクするし、むこうからもリンクしてきます。それで何の文句もありません。当然のことです。

 私自身は、以前にも書いたように、コメントもトラックバックも基本的に自由放任です。私が判断して「許可」したり「拒否」したりということをしていません。
 でも、人によってはどちらも「許可」制をとっていたりします。すべて、公開される前に管理者の目がチェックするという過程があるわけですね。

 深沢さんも、気にくわなければ私のトラックバックを削除すれば――あるいは拒否すれば――いいだけです。
 なにも、トラックバックが“そもそも”どういうものかなんて説教を垂れる必要はありません。

 私としては、気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけさせていただいている次第です。

 資料を取り寄せるのに或る程度の時間、それを読むのに或る程度の時間、かかるので、少し待ってくれというコメントをいただいています。

 その後、連絡が入っていませんので、いまだに取り寄せ中か何かなのだろうとは思っております。
 誤解をいつまでも引きずっているのは、そう望ましいことではありません。
 4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」は、ただそうあってほしいという深沢さんの願望だけに基づいているものですから、なるべく早いところ脱却した方がいいのではないかとは、心配しているところではあるのです。


 私には書かれていることは理解できるが、事情を知らない第三者には、何のことやら理解できまい。
 しかし、オコジョさんにとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。ただ私に対して自分の言いたいことが伝わりさえすればそれでいいのだろう。

 これを受けて、私は同じ記事に次のコメントを書いた(重複する部分を省略。全文は「4島返還論は米国の圧力の産物か?」に残っている)。

Re:トラックバックとは? (深沢明人)2013-01-15 22:56:46

〔前略〕

 このブログを読むのは、あなたと私だけではありません。何の説明もなしにこんなコメントをされても、事情を知らない読者は面食らうでしょう。
 不特定多数の方が読まれるブログにおいて、こうした対応はいかがなものかと思います。
 何故そちらのブログでコメントされなかったのか不思議です。

 まあ、いちいち場を変えるのも面倒なので、こちらでお話ししましょうか。

 私は「そもそも論」などしていません。今現在の話をしています。
 オコジョさんお使いのココログのサポートページには、トラックバックについて次のような解説があります。

http://cocolog.kaiketsu.nifty.com/faqs/17514/thread

《トラックバックとは、あるブログの記事にリンクをはると、その相手(記事)に対してリンクをはったことを伝えられる機能です。
例えば、A さんが B さんの書いた記事に対して「私(A さん)はあなた(B さん)の書いた記事と同じ話題について、こんな記事を書きました」ということを、記事を投稿することによって、お知らせする機能です。これを、「トラックバックを送る」と言います。》

《マナーとして、トラックバックをしたときには、必ず記事本文中にトラックバック先の相手のブログへ、「ネタ元」や「関連記事」などとしてリンクをはってあげましょう。
トラックバックは、楽しく意見交換をしながら交流していく機能です。マナーを守りながら、いろいろな人とコミュニケーションの輪を広げてください。》

 トラックバックとはそういうものです。サランラップやインターネットの講釈は的外れです。

 そうではなく、トラックバックを単なる記事のアップの連絡に用いられる方がおられるのも承知しています。
 そして、そういう方々同士では、それで何の問題もないことも承知しています。
 しかし、私はそうは考えておりませんということをお伝えしたかったのです。
 別に、オコジョさんや同様の方々のトラックバックの使い方を否定しているのでも、全てのブロガーがトラックバックをこう使うべしと主張しているのでもありません。
 あくまで、私に対するトラックバックの話をしています。
 私はこう考えているから、私に対するこのようなトラックバックは遠慮していただけませんかとお「願い」しているのです。
 以前、同様にお願いして聞き入れていただいたケースもあります。

 また、以前オコジョさんは、あるブログに対するトラックバックが表示されなかったことをもって、都合の悪い内容だから削除したのだろうといった趣旨のことをおっしゃっていました。
 しかし、ブログを使っていて、相手方がトラックバック非承認制であっても、トラックバックが表示されないことはしばしばあります。相手方が同じブログでも、トラックバックが通ったり通らなかったりすることがあります。
 一度表示されたトラックバックが削除されていたというのなら話は分かりますが、単に送ったトラックバックが表示されなかったことをもって削除されたと主張するオコジョさんは、果たしてトラックバックについてどれほどご存じなのかという疑問があったことも、先の私のコメントの動機の1つです。

 相手方がどう考えていようが、自分は送る、削除したければすればいいとおっしゃるなら、それはそれでかまいません。
 それは、スパマーの思想だろうとは思いますが。
 そして、それと異なる考えを述べただけで「アホ」呼ばわりされる筋合いの話ではないとも思います。

>私としては、気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけさせていただいている次第です。

 これはおかしいですよね。
 トラックバックを送るということは、あなたが覚えているということですもの。
 あなたがではなく、私が忘れないように、注意を喚起しているということではないのでしょうか。

 ともあれ、忘れないようにという目的があることは了解しました。

 北方領土問題についての記事が遅れていることは、申し訳なく思っています。
 私もずっと気にしています。忘れているわけではありません。
 あなたが言及されていたいくつかの文献は入手しました。しかし、読み込む時間がありません。
 そして私は、あなたのように多岐にわたる内容をスラスラとは書けないのですよ。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。
 そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。

 ほかのテーマでは記事を書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、まだしも楽だからです。
 難しく、時間のかかる課題は後回しにしているというわけです。

 しかし、オコジョさんにしてみれば、私があなたのブログで

《言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》

と述べたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
 ただ、無言で何の関係もない記事をトラックバックしてくるだけでは、そんな意図は伝わりません。

>4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」

 私はそんなことは言っていませんし、考えてもおりません。

 その点も含めて、確かに「誤解をいつまでも引きずっているのはそう望ましいことではありません」ね。
 まだ時間はかかりますが、記事は書きます。


 私のブログにこうコメントしただけでは、オコジョさんがこれを読まない可能性もあったから、念のため、「オコジョのブログ」の上記の記事「脱原発の根拠――反論にお答えして」のコメント欄にも転載しておいた。だから、オコジョさんはこれを読んでいるはずである。

 それからさらに1か月ほどして、私は上記5の「オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について」に始まる一連の記事をアップしたわけである。

 早速オコジョさんにお知らせしようと、私はオコジョさんの再々反論記事「「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」」にトラックバックを送った。ところが、私のトラックバックはオコジョさんの記事に表示されなかった。
 しかし、トラックバックが通らないのはよくあること(特に他社間のブログ同士では)だったので、私は気にせずに、代わりにこのオコジョさんの記事のコメント欄にこう書いた。

トラックバックが通らないので、コメントでお知らせします。

ようやく記事を書きました。お待たせしました。

オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/b409af40d7d353c1302e56487d16f8be

投稿: 深沢明人 | 2013年2月13日 (水) 00時57分


 私が続いて書いた「オコジョさんの指摘について」の(2)~(5)についても、同様にトラックバックが通らなかったので、同じ記事にコメントした。
 「オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」は、オコジョさんの記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」にコメントした。
 「再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心」は、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」にコメントした。
 「再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について」と「再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策」は、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」にコメントした。

 先に述べたとおり、2013年2月13日以降の私の一連の記事に対するオコジョさんの私への反応はなかった。
 そして、「オコジョのブログ」は、2013年1月12日付けの記事「そろそろ本気で始めませんか――三大紙の不買運動を!」を最後に、しばらく更新されなかった。
 
 次に「オコジョのブログ」に新記事がアップされたのは、同年6月24日付けの「「思い出づくり」だってさ」という記事である。
 オコジョさんは、この記事の冒頭でこう述べている。

重篤な「失語症」におちいっていました。最近になって、やや持ち直してきたものの、“健常者”にはほど遠いありさま。そこからなんとかして抜け出すためのリハビリが、これから書いていく雑文です。
 内容はつまらない・どうでもいいことになりそうですが、書きやすいところから始めようという次第です。


 この記事に、こんなコメントが付いている。

オコジョ様、ご無沙汰しています。
こちらのブログの更新が滞ってから、オコジョ様の身に何か遭ったのかと案じておりました。大変なご苦労をされたようですね・・・

また貴重なご見解をお聞かせ下さい。ブログの更新を楽しみにしています。

投稿: 海坊主 | 2013年6月29日 (土) 01時18分


 この海坊主さんのコメントに、オコジョさんはこう返答している。

 海坊主さん、コメントありがとうこざいます。
 ご心配いただき、なんとも恐縮です。軟弱者が少々くじけてしまったというだけの話です。ブログを続けていくことの意味をなんとか見いだしていきたいものと現在は考えております。
 ご覧のとおりで、いくつもの記事に“荒らし”のコメントがつきまくっています。面倒なのでそのままにしてありますが、私のブログ程度にこんなことをする輩がいるとは……?
 こんなに一生懸命“いやがらせ”をされると、自分が重要人物であるような錯覚におちいってしまいそうです(100%冗談ですけど)。
 以前、「ねずみとり」と巷間では言われる“交通取締り”をやっている警官に聞いたことがあります。
「あなた、自分のやっていることを恥ずかしいと思わないんですか」って。
 おまわりさんには失礼だったかもしれませんが、この“荒らし”をやっている人間には、なんの留保もなく、同じコトを言ってやりたいと思います。

投稿: オコジョ | 2013年6月29日 (土) 12時09分


 「ご覧のとおりで、いくつもの記事に“荒らし”のコメントがつきまくっています」とある。

 正確にいつだったかは覚えていないが、私はこのコメントが付けられた2013年6月29日からそう離れていない時期に、このコメントを見た覚えがある。そして、“荒らし”らしきコメントとやらは見当たらなかった。ただ、私がトラックバックが通らないので代わりに付けたコメントは、そのまま残っていた(現在も残っている)。
 オコジョさんは、あれらの、単なる記事を書いたという通知にすぎないコメントを“荒らし”と称しているのだろうか。

 だとしたら、以前の自分による、私のブログに無関係の記事をトラックバックするという行為も、“荒らし”であり“いやがらせ”だとの認識の下で行っていたことになる。

 私のコメントがオコジョさんの言う“荒らし”なのかどうかはさておき、「面倒なのでそのままにしてありますが」ともあるが、ブログをやったことがある方ならおわかりかと思うが、コメントの削除は別に面倒な作業ではない。該当コメントにチェックを付けて「削除する」ボタンを押すだけである。
 毎日毎日、百も二百も“荒らし”コメントが付くというのなら、確かに面倒かもしれない。しかし、私が当時見たところ、「オコジョのブログ」はそのような状況にはなかった。

 なので、「そのままにしてあ」るのならば、何かしらほかの理由があるのだろう。
 例えば、先に挙げた私宛のコメントで
「私自身は、以前にも書いたように、コメントもトラックバックも基本的に自由放任です。私が判断して「許可」したり「拒否」したりということをしていません。」
と誇らしげに述べていたこととか。

 しかし、
「深沢さんも、気にくわなければ私のトラックバックを削除すれば――あるいは拒否すれば――いいだけです。」
と言ってのけた人物が、たかがいくつかのコメントをもって“荒らし”だの“いやがらせ”だのと被害者ぶるというのは、全く不可解だ。
「自分のやっていることを恥ずかしいと思わないんですか」
とは、こういう人物にこそふさわしい言葉ではないだろうか。
――と、当時思った。

 次にもう一点、私がオコジョさんへの関心を失うきっかけとなったある出来事について述べておく。
 それは、オコジョさんと、kojitakenさんというブロガーとのやりとりでわかったことである。
 「kojitakenの日記」の2012年10月14日付けの記事「「オコジョのブログ」のブログ主による当ダイアリーに対する虚偽に基づく誹謗中傷に断固抗議し、謝罪を要求する」に、こんなことが書いてある。記録として全文を引用しておく(赤字はkojitakenさんの原文のまま)。

外務省の「謀略」――「北方領土」交渉において: オコジョのブログ に、こんなことが書いてある。

 左派による孫崎享『戦後史の正体』擁護論には苦しい論理付けが目立つ

 と題された記事が、こんなブログに掲載されました。

 kojitakenの日記

 孫崎享さんの『戦後史の正体』を論じた私のブログ記事に文句をつけています。

 内容は、読めばお分かりのように大したものではありません。

 この記事に対する私の方の考えを少し書いてみようかな、と思う一方で、少々迷ってもいます(簡単に言えば、面倒くさいなあ、というだけですが)。

 この人は、歴史認識がいい加減なだけでなく、そもそも人ときちんとした議論が出来るかどうか疑わしいところがあるからです。

(だいたい、私の二つの記事をゴッチャにして区別もしていません)

 実は、対象となっている二つの記事をアップするときに、私はこの人のブログにトラックバックをつけています。ブログを参照すれば、記事がアップされたのがいつか確認できます。

 『戦後史の正体』――「自主独立」と「対米追随」     10月11日

 孫崎享著『戦後史の正体』――「あり得ない」謀略説? 10月8日

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。

 上に挙げたこの人の記事は、10月14日のアップです。

 つまり、この人の言論というのはこんなものだということです。

 自分が批判記事を書く前に、私の記事がトラックバック欄に登場することを未然に防いだという訳です。まあ、なんという狭量でしょう。

 言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか。


上記の文章のうち、「二つの記事をゴッチャにして区別もしていません」という指摘はその通りだった。これは当方の手違いであり、非礼を深くお詫びする。ご指摘の記事は一部書き換えておいた。

しかし、

 『戦後史の正体』――「自主独立」と「対米追随」     10月11日

 孫崎享著『戦後史の正体』――「あり得ない」謀略説? 10月8日

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。


これは全くの事実無根である。当ダイアリーへのトラックバックは携帯に転送される設定にしてあるが、携帯メールの受信記録にも残っていない。つまり、私はブログ主からのトラックバックを受け取っていない。「オコジョのブログ」のブログ主による、当ダイアリーに対する虚偽に基づく誹謗中傷に断固抗議する。

たとえば、私が運営するもう一つのブログである「きまぐれな日々」は言及リンクがない限りTBを送っても受け付けない設定にしてあるから、言及リンクのないTBは送っても受信されない。当ダイアリーに関していえば、特にそういう設定はしていないし、コメントやTBの承認制もとっていないが*1、そもそも「はてなダイアリー」はそもそも言及リンクがなければTBを受けつけない設定になっていたと記憶する。実際には言及リンクがなくてもTBを受けつけることもあるが、いずれにせよ当ダイアリーは当該ブログから送られたであろう上記2件の記事のTBを受信していない。これは天地神明に誓って真実だ。従って、ブログ主の書いていることは事実に反する。とんでもない言いがかりである。

そもそも、ブログを運営している人間であれば、「TBを送ったけれども受け付けられない」ことなど日常茶飯事であることくらい百も承知のはずだ。しかるに、このブログ主は、

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。


などと、虚偽(というより思い込みないし決めつけ)に基づく誹謗中傷を当ダイアリーに対して行った。これは、決して看過できるものではない。ブログ主の謝罪を要求する。

当該ブログ記事は、

 つまり、この人の言論というのはこんなものだということです。

(略)

 言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか。


などと決めつけているが、これらの言葉は、そのままブログ主自身にそっくり当てはまることはいうまでもない。

私がつけ加える言葉は、「恥を知れ!」という一語だけである。


 kojitakenさんの引用終わり。

 ところが、オコジョさんの2012年10月14日付けの記事「外務省の「謀略」――「北方領土」交渉において」を読んでみても、「kojitakenの日記」に全く触れていない。

 これも記録として全文を引用しておく。

以前、「日米関係と『北方領土』問題――再び『ダレスの恫喝』」という記事で、日ソ国交回復について書きました。
 ソ連側から日本の予想もしていなかった「二島返還」の提案がなされ、松本俊一全権は「これで交渉妥結だ」と喜んで本国に報告するのですが、これが外務省によって握りつぶされてしまったのでした。

 あまり詳細にわたっても、ひたすら長文になってしまうので、その時にはふれませんでしたが、このあとの展開についてもう少し書いてみます。

 当時は鳩山政権の時代ですが、外務省は完全に吉田茂の意思で動いていました。いわゆる「Y項パージ」というやつで、吉田の意に従わない職員は辞めさせられるか閑職に追いやられるかのどちらかだったのです。

 吉田茂は日ソ国交回復に反対していましたから、外務省も鳩山の手足になって働くどころか、何かというと交渉を妨害することばかりやっていました。

 さて、松本俊一からの知らせを受け取った外務省・吉田局は、次のような行動をとりました。
•情報は、しっかり秘匿し、鳩山首相に伝わらないようにした
•新聞記者に、こんなリークを行なった
•「ソ連と交渉中のわが国政府は、従来よりさらに踏み込んで、択捉・国後・歯舞・色丹の四島の返還を要請する旨、ソ連側に伝えた」
•(新聞は当然このリークをそのまま報道します)
•リーク情報が、十分に浸透したタイミングを見計らって、松本全権からの報告を発表した
•すなわち、ソ連が「歯舞・色丹の二島の返還」を提案してきたという報告です

 すごいですね。
 松本俊一からの報告は、一時的には発表を控えたものの、交渉場所のロンドンにも日本の記者が行っていますし、いつまでも抑え続けるのは不可能です。いずれは発表しなければなりません。そして、現に発表されたわけです。

 しかし、事情を知らない国民は、その発表をどう受け止めたか?
 私たちには、容易に想像がつくと思います。
 そうです。何のセンセーションも呼び起こさなかったのでした。

 この発表より一つ前の報道では、日本が「四島返還」を求めたとありました。
 ソ連の提案は「二島」です。日本の要求を受けいれずに、値切ってきたことになりますから、国民が「これで交渉妥結だ!」と喜んだりするはずもありません。

 時間的には前後しますが、松本全権は訓令の支持どおり、その後の交渉で確かに「四島返還」を日本の方針としてソ連に伝えることになります。
 ですから、外務省の発表には、結果的には何の虚偽もなく、すべては発表され、すべては思惑どおり、暗礁に乗り上げてくれたのです。

 しかしながら、前回の私の記事をお読みの読者にはお分かりのように、外務省が「四島返還」をリークした時点では、そんな方針は存在していませんでした。日本のもともとの方針は「二島返還」であり、ソ連の提案はそれに完全に合致していたのです。

 以上は、極秘情報でもなんでもありません。当時の新聞報道を、縮刷版で読めばすべて確認できます。当時の新聞読者が持っていなかった情報――松本俊一の『モスクワにかける虹』という本――を参照しながら、新聞記事を読めば、現在の私たちにとって真実は紛れもなく明らかなのでした。

 以上は、なんのことはありません。一つの「謀略」の例です。
 「謀略」が私たちとは無関係の話でないことを確認いただけるでしょう。


 この記事には、

はじめまして。

TBした記事にも書きましたが、私はあなたの10月8日付記事と10月11日付記事のTBは受け取っていません。該当箇所についての訂正と謝罪を要求します。

なお、私があなたの2つの記事をごっちゃにして区別もしていないというあなたのご指摘については、事実を認め謝罪します。

投稿: kojitaken | 2012年10月15日 (月) 08時32分


というkojitakenさんのコメントが付いており、ほかの方も

トラックバックに出ていますよ
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121014/1350187764
左欄の下方にもトラックバック記事のリンクが出ます。
はてなダイアリーに慣れてないので気づかれにくいのかもしれませんが、
「kojitakenの日記」の場合、
日付欄にかかれた総見出しではなく、
項目ごとの小見出しをクリックすると、コメントもトラックバックも表示されます。

コメントは、はてなユーザーのみ書き込めるようです。

投稿: nessko | 2012年10月14日 (日) 20時30分
 

とコメントしておられるので、アップされた10月14日の時点では、kojitakenさんが引用した、トラックバック削除についての言及があったことは明らかだ。

 つまり、オコジョさんは、kojitakenさんからの指摘(あるいはほかの方からの指摘)を受けて、kojitakenさんに関する記述を記事から削除したのだ。
 だが、そのことは現在の記事からは明らかではない。加えて、kojitakenさんからは謝罪を要求されているのに、それにどう対応するのかも全く明らかではない。
 一般には、こういう行為を「改竄」と言うのではないか。

「2つの記事をごっちゃにして区別もしていないというあなたのご指摘については、事実を認め謝罪します」
と、訂正すべき点は認めて謝罪するkojitakenさん。

 たかだかトラックバックが通らなかっただけで、
「要するに、検閲・削除をしたのでしょうね」
と断じ、
「人ときちんとした議論が出来るかどうか疑わしい」
「言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか」
とまで書いておきながら、自分の誤りに対しては、弁明も謝罪もなく、後から記事を改竄して事足れりとするオコジョさん。

 何とも好対照を成している。
(念のため書くが、私は「kojitakenの日記」をほとんど読んでおらず、kojitakenさんがふだんどのようなブログライフを送っておられるのかは知らない。あくまで、オコジョさんとのこの一件における私の評価である)

 私は、おそらく、2012年10月15日付けのkojitakenさんのコメントを見て、このやりとりを知ったのだと思う。
 そして、これは論者として信頼に値しない、つまり相手にするべきではない人物を相手にしてしまったのだと悟った。
 私の落胆は大きかった。

 私は「オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について」でこう書いた。

加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
 当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
 しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
 そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
 今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。


 この「ある残念な出来事」というのが、先に述べたオコジョさんとkojitakenさんとの一件である。

 人を見る目を養わなければならないということを強く認識させられた出来事であった。


日ソ共同宣言の「履行を拒否した」のはソ連である

2018-09-25 06:32:59 | 領土問題
承前

 古谷経衡氏の記事「日露平和条約締結は日本の決断次第~そろそろ2島返還で決着の時だ~」には、もう一点大きな疑問がある。
 それは、本年9月12日、東方経済フォーラムに出席したプーチン大統領が、1956年の日ソ共同宣言について「「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張」したと報じられたことについて、

「日本人の多くはこのプーチン発言を「一方的なロシアの言い分ではないか?」と捉えるかもしれないが、いや実際には一理も二理も、プーチン発言は正しい側面がある。〔太字は引用者による。以下同じ〕


と評したことである。

 古谷氏は、これに
「いったいどういうことだろうか? 」
と続けて、その理由を縷々述べるのだが、これが私には理解できない。

 古谷氏が述べるその理由とは、前回も挙げたが、
・1951年、サンフランシスコ条約で日本は千島列島を放棄した。この千島列島には国後、択捉が含まれると当時の日本政府は答弁していた。
・1955~56年の日ソ交渉の途中で、「「ダレス恫喝」が強く影響」して、政府は国後・択捉を含む「四島一括の帰属の確認」の強硬路線に転換した。そのため政府は、「千島列島」には国後、択捉が含まれないと主張を変えた。
・しかし、歴史的に見て、千島列島に国後、択捉が含まれるとされてきたことは明らかであり、政府の主張は「無理筋」である。

というものである。

 そして古谷氏は、

冒頭紹介したプーチン発言の”平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言に言及した上で、「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張”という部分は、こういった意味で、ある意味正解ともいえるのである。

 なぜなら日本政府は少なくとも「ダレス恫喝」の前までは、国後・択捉の放棄を渋々ながら承認し、2島返還で決着(重光)という方向に動いていたからだ。その方針を1956年2月以降、強硬路線に転換したのは日本自身だったからである。


と述べている。

 しかし、日ソ共同宣言は、「ダレス恫喝」の後の1956年10月に署名されたものである。当然、わが国がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後、択捉は含まれないと解釈を変更した後のことである。

 日ソ共同宣言の発効後、わが国が何らかの解釈変更により、共同宣言の内容を反故にするようなことがあったと言うなら、古谷氏の言い分もわかる。
 だが、日ソ共同宣言は、千島列島について何も触れていない。故に、プーチン大統領の「日本が履行を拒否した」発言は、「ダレス警告」や、わが国の千島列島の解釈変更とは何の関係もない。

 前にも書いたが、古谷氏は、自分が何を書いているのか理解していないのではないか。
 あるいは、論理的整合性がとれないことを承知で適当に書き飛ばしている人物なのか、どちらかだろう。

 このプーチン大統領の「日本が履行を拒否した」発言を聞いて、日ソ領土交渉の経緯をある程度知る者の中には、「いや拒否したのはソ連だろ」と思った者もいたのではないだろうか。
 私はそう思った。

 日ソ共同宣言には次のようにある。

9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。
ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。


 確かに、「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」との文言がある。
 しかし、それは「平和条約が締結された後に現実に引き渡される」ものとされている。
 わが国が、いつ、「平和条約の締結に関する交渉を継続すること」を拒否したと、プーチン大統領および古谷氏は言うのだろうか。

 「平和条約の締結」とは、戦争に起因する領土問題の最終的解決を意味する。
 日ソ共同宣言には、歯舞群島及び色丹島以外の領土に関する文言はない。しかしそれは、わが国がその他の領土をソ連が領有することを承認したことを意味しない。
 継続する「平和条約の締結に関する交渉」には領土問題についての交渉も含まれるというのがわが国の立場である。

 1956年8月に重光外相らによる第1次モスクワ交渉が失敗に終わり、鳩山一郎首相は、いわゆるアデナウアー方式、つまり合意が困難な問題(ここでは領土問題)を棚上げしてとりあえず国交正常化を先行する方式による解決を、そしてそのために自らモスクワに赴くことを決意した。
 鳩山はソ連のブルガーニン首相に、領土問題の継続交渉を前提として、抑留者の即時送還、漁業条約の発効、日本の国連加盟支持などの5原則にあらかじめソ連の同意があれば、国交正常化交渉に入る用意があるとの書簡を発した。
 ブルガーニンからの返簡には、5原則への同意は記されていたものの、肝心の領土問題の継続交渉については触れられていなかった。
 このため、松本俊一が9月25日モスクワを訪問し、グロムイコ第一外務次官と会談し、次のような書簡のやりとりを行った(いわゆる「松本・グロムイコ書簡」)。

 書簡をもつて啓上いたします。

 本全権は、千九百五十六年九月十一日付鳩山総理大臣の書簡とこれに対する同年九月十三日付ブルガーニン議長の返簡に言及し、次のとおり申し述べる光栄を有します。

 前記鳩山総理大臣の書簡に明らかにせられたとおり、日本国政府は、現在は、平和条約を締結することなく、日ソ関係の正常化に関し、モスクワにて交渉に入る用意がある次第でありますが、この交渉の結果外交関係が再開せられた後といえども、日本国政府は、日ソ両国の関係が、領土問題をも含む正式の平和条約の基礎の下に、より確固たるものに発展することがきわめて望ましいものであると考える次第であります。

 これに関連して、日本国政府は、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続せられるものと了解するものであります。

 鳩山総理大臣の書簡により交渉に入るに当り、この点についてソ連邦政府においても同様の意図を有せられることをあらかじめ確認しうれば幸甚に存ずる次第であります。

 本全権は、以上を申し進めるに際し、ここに閣下に向つて敬意を表します。

千九百五十六年九月二十九日

日本国政府全権委員 松本俊一

ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官 ア・ア・グロムイコ閣下

(仮訳)

 書簡をもつて啓上いたします。

 本次官は、千九百五十六年九月二十九日付の閣下の次のとおりの書簡を受領したことを確認する光栄を有します。

〔松本書簡の引用略〕

 これに関連して本次官は、ソヴィエト社会主義共和国連邦政府の委任により、次のとおり申し述べる光栄を有します。すなわち、ソヴィエト政府は、前記の日本国政府の見解を了承し、両国間の正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続することに同意することを言明します。

 本次官は、以上を申し進めるに際し、閣下に向つて敬意を表します。

千九百五十六年九月二十九日

モスクワにおいて

ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官

ア・グロムイコ

日本国政府全権委員

松本俊一閣下


 このように、国交正常化後も領土問題を継続して交渉することについてソ連政府の同意を取り付けたから、鳩山首相の訪ソが実現したのである。

 鳩山が赴いての第2次モスクワ交渉で、日本側は当然、日ソ共同宣言にも「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉」といった文言を含めるつもりだった。ソ連が一時呈示した案にはそれが含まれていたが、最終的にソ連は「領土問題を含む」の語句を削ることを要求した。河野一郎農相は抵抗したがソ連の拒否は変わらず、日本側はやむを得ず、歯舞、色丹の引き渡しは平和条約締結の時とする文言を盛り込むことと、先に挙げた松本・グロムイコ書簡を公表することで、共同宣言から「領土問題を含む」の語句を削ることに同意した。

 かくして、共同宣言には、「平和条約締結に関する交渉」から「領土問題を含む」は削られたが、これはもちろん平和条約締結に関する交渉に領土問題が含まれないことを意味するものではない。加えて松本・グロムイコ書簡があるのだから、ソ連政府は書簡のとおり「両国間の正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続す」べきであるというのが、わが国政府の立場である。

 ところが、1960年1月に岸信介内閣が日米安全保障条約の改定を実現させると、当時外相になっていたグロムイコは、次のような覚書を日本政府に送付した(いわゆる「グロムイコ覚書」)。

この条約が事実上日本の独立を奪い取り,日本の降服の結果日本に駐屯している外国軍隊が日本領土に駐屯を続けることに関連して,歯舞,および色丹諸島を日本に譲り渡すというソ連政府の約束の実現を不可能とする新らしい情勢がつくり出されている。

 平和条約調印後日本に対し右諸島を譲渡することを承諾したのは,ソ連政府が日本の希望に応じ,ソ日交渉当時日本政府によつて表明せられた日本国の国民的利益と平和愛好の意図を考慮したがためである。

 しかしソ連邦は,日本政府によつて調印せられた新条約がソ連邦と中華人民共和国に向けられたものであることを考慮し,これらの諸島を日本に譲り渡すことによつて外国軍隊によつて使用せられる領土が拡大せられるがごときを促進することはできない。

 よつてソ連政府は日本領土から全外国軍隊の撤退およびソ日間平和条約の調印を条件としてのみ歯舞および色丹が一九五六年十月十九日付ソ日共同宣言によつて規定されたとおり,日本に引き渡されるだろうということを声明することを必要と考える。


 日米安保改定という「新らしい情勢」が生じたため、共同宣言に規定された歯舞、色丹の引き渡しは「日本領土から全外国軍隊の撤退」後とするとの新たな条件を付けたのである。

 しかし、旧日米安保条約は既に日ソ共同宣言当時には存在していたものであり、これは共同宣言の障害になってはいない。安保改定はわが国の片務性を解消することを意図したものであり、防衛目的であることに変わりはなく、ソ連や中国への脅威を高めるものではない。
 また、共同宣言第3条には

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。


との文言があり、わが国が集団的自衛権に基づいて外国の軍隊を駐屯させることを禁止してはいない。

 にもかかわらず、ソ連は一方的に共同宣言の履行に新たな条件を付したのである。これが背信行為でなくて何だと言うのだろうか。
 さらに、その後ソ連は、日本との間に領土問題は存在しない、領土問題は解決済みと公言した。そのため領土問題は停滞し続けたのである。
 ゴルバチョフ政権の末期になって、ソ連はようやく領土問題の存在を認めるに至った。それはソ連崩壊後のロシアも継承したが、日ソ共同宣言の有効性を認めたのは、プーチン政権発足後のことである。
 日本が共同宣言の「履行を拒否した」だって? とんでもない。履行を拒否してきたのはソ連、そしてそれを継承したロシアである。

 何度も言うが、私は2島返還論それ自体を否定するつもりはない。
 だがそれは、「ダレス恫喝」でわが国が2島返還論から4島返還論に転じたなどという嘘に基づくものであってはならないし、わが国が日ソ共同宣言を拒否したなどという嘘に基づくものであってもならない。
 そして2島返還論者は、わが国が国後、択捉の要求を取り下げることにより、どのような見返りを得ることができるのかを直截に語るべきだ。
 古谷氏は、北極航路の可能性やシベリアの地下資源を挙げ、日露の平和条約締結(国境線画定)がなければロシアとの友好関係の基礎が築けないと説いている。
 しかし、国境線の画定がなければ経済活動は進められないものだろうか。
 わが国は、韓国との間に領土問題を抱えている。中国との間には、わが国としては領土問題は存在しないとしているが、中国側の見解は異なる。しかし、それらはわが国と中韓との経済活動を妨げてはいない。ロシアに対しても同様ではないだろうか。

 鳩山首相が領土よりも日ソ国交正常化を優先したのは、抑留者の問題、漁業問題、わが国の国連加盟という3つの大きな難問を解決するためだった。当時において、その判断は正しかったと私は考えている。
 だが、この3つの難問が解決したこんにち、何故国後、択捉の要求を取り下げなければならないのか。2島返還論者はその理由を十分な説得力をもって語るべきだろう。


千島列島の範囲の変更は許されないか――古谷経衡氏の2島返還論を読んで

2018-09-23 07:12:43 | 領土問題
 以前の記事で述べたように、「ダレスの恫喝」で4島返還論に転じたという古谷経衡氏の主張(古谷氏に限らず、同様の論者はしばしば見かけるが)は嘘であるが、ほかにもこの古谷氏の記事にはいくつか疑問がある。
 その最大のものは、千島列島の範囲をめぐるわが国政府の解釈の変更をやたらと強調している点である。

 古谷氏は概略次のように述べている。
・1951年、サンフランシスコ条約で日本は千島列島を放棄した。この千島列島には国後、択捉が含まれると当時の政府は答弁していた。
・1955~56年の日ソ交渉の途中で、「「ダレス恫喝」が強く影響」して、政府は国後・択捉を含む「四島一括の帰属の確認」の強硬路線に転換した。そのため政府は、「千島列島」には国後、択捉が含まれないと主張を変えた。
・しかし、歴史的に見て、千島列島に国後、択捉が含まれるとされてきたことは明らかであり、政府の主張は「無理筋」である。
・千島列島ではない歯舞・色丹なら辛うじて返しても良い、というのがロシアの最大限度の譲歩であり、「北方新時代」の扉を開くため、「結局、2島返還しか道はない」。

 これも、2島返還論者にしばしば見られる主張である。

 サンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲について、条約締結当時と日ソ交渉時以降で政府の解釈が異なっているのは、古谷氏の指摘するとおりである。
 しかし、これはそれほど重要視すべき問題なのだろうか。

 そもそもわが国は何故千島列島を放棄したのだろうか。
 サ条約で日本の領域を定めた第2条には、確かに次のようにある(太字は引用者による。以下同じ)。

第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

〔同条文以下略〕


 だが、わが国が連合国に降伏すると決めたのはポツダム宣言を受諾したからである。ポ宣言は降伏後のわが国の領域について次のように規定している。

八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝〔ナラビ〕ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 「吾等ノ決定スル諸小島」とあるから連合国が好き勝手に決められるように思うかもしれないが、その前に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある。
 カイロ宣言とは、1943年に米中英3国の首脳名で発表された、連合国の対日方針を示したものである。その文中に次のようにある。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス


 日本の侵略に対する懲罰が戦争の目的であり、領土拡張の念を有するものではないとしている。
 そして、第一次世界大戦以後にわが国が奪取または占領した太平洋の島々の剥奪、満洲、台湾及び澎湖島などの中国への返還、わが国が暴力及び貪欲により略取した一切の地域からの駆逐、朝鮮の独立が述べられている。
 しかし、千島列島及び南樺太についての言及はない。これはソ連がこの宣言に加わっていない以上当然のことだが、ポツダム宣言に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある以上は、わが国の主権の及ぶ「吾等ノ決定スル諸小島」の範囲は、カイロ宣言の精神にのっとって決定されるべきだろう。

 日露戦争により獲得した南樺太は、「暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域」に含める余地もあるかもしれない。
 しかし、千島列島のうちウルップ島以北の北千島は1875年の千島樺太交換条約により平和的に取得したものだから「略取」した地域には当たらないし、国後、択捉は1855年のロシアとの国境画定以来のわが国固有の領土だからなおさら「略取」したものではない。

 では何故、サ条約でわが国が放棄すべき地域に千島列島が含まれたのか。
 それは、古谷氏も述べているように、1945年2月に米英ソ3国首脳が秘密裏に結んだヤルタ協定で、次のように定められていたからである。
 
二、千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルヘシ (イ) 樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」連邦ニ返還セラルヘシ
〔(ロ)(ハ)略〕

三、千島列島ハ「ソヴィエト」連邦ニ引渡サルヘシ


 南樺太は「返還」なのに千島列島は「引渡」とされていることに留意されたい。
 つまり、千島列島が「略取」された地域でないことは、米英ソはいずれも承知した上で、ソ連の対日参戦を決めていたのである。
 米英は、カイロ宣言で領土不拡大を掲げながら、ソ連にはこれを適用しなかったのである。

 サ条約で千島列島の放棄が定められているのは、このヤルタ協定(戦後公表された)を受けてのことだろう。
 だが、ソ連はこのサンフランシスコでの講和会議に参加はしたが、条約には結局署名しなかった。
 サ条約第25条には

第二十五条

 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定〔引用者註:中国と朝鮮の権利に関するもの〕を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない


とあるから、わが国が千島列島を放棄したのはサ条約を締結した国々に対してであり、ソ連に対してではない。ソ連と、それを継承したロシアは、千島列島領有の根拠にサ条約を援用することはできない。
 また、わが国が放棄した千島列島や南樺太の帰属は、わが国を除いたサ条約の締結国が決めることである。それらの国々がソ連、ロシアによる千島列島や南樺太の領有を承認したことはない。
 そもそも、ソ連が千島列島や南樺太を自国領に編入したのは、サ条約にはるか先立つ1946年2月のことである。サ条約とソ連による領有は直接関係ない。

 以上のことを前提に、サ条約における千島列島の範囲の変更について考えてみたい。
 政府による千島列島の範囲の解釈の変更は、果たして許されないことなのだろうか。
 わが国は、サ条約の会議に出席して意見を述べることはできた。しかし条約の文言を変更する権限はなかった。戦勝国が決めた条約の文言をただ受け入れるほかなかった。それが嫌なら、そもそも条約を拒否するしかなかった。しかしそうすれば、わが国の独立はますます遅れたことだろう。
 したがって吉田茂首相は、サ条約の受諾演説でこう述べるにとどめるしかなかった。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(吉田『回想十年』第3巻、中公文庫、p.103-105)


 そして、1951年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、外務省の西村熊雄条約局長はこう答弁した。

 条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島〔引用者註:国後、択捉〕の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございますあの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。(松本俊一『日ソ国交回回復秘録』朝日新聞出版、2012、p.258)


 やがて、吉田は退陣し、鳩山一郎政権の下で日ソ交渉が始まった。その中で、日本政府は、サ条約で放棄した千島列島に国後、択捉は含まれないと解釈を変更した。これが「無理筋」だと古谷氏は言う。

 しかし、サ条約の文言の解釈を決めるのは誰か。それは、わが国を含むサ条約の締結国である。
 サ条約の締結国が、わが国の解釈変更は不当である、国後、択捉も放棄したと言ったではないかと主張するなら問題となるのもわかる。しかし、そんな主張をどの締結国がしているというのか。
 米国は、1956年に、サ条約の千島列島に国後、択捉は含まれないとのわが国の見解を支持すると表明した。当時、英国は態度を明確にしなかったが、後にわが国のソ連への要求を支持したと記憶している。そして、解釈変更に異を唱えた国があるとは聞かない。
 わが国がサ条約の解釈を変更したとしても、他の締結国がそれに異を唱えなければ、それがその後の条約の解釈として通用するのである。そして非締結国であるソ連、ロシアに異を唱える権利はない。
 したがって、この解釈変更は、それほど重要視すべき問題ではないのである。

 この政府の解釈変更は、当然国会でも指摘された。1961年10月6日、小坂善太郎外相は衆議院外務委員会で、自民党議員の質問の際にこう答弁している。

先般〔1961年10月3日〕予算委員会において講和条約締結当時の政府委員の答弁〔上記の西村熊雄条約局長の答弁〕が取り上げられて問題になっておった〔池田勇人首相は「その政府委員の発言は間違いと考えております」と答弁し、社会党から追及された〕のでありまするが、この答弁はその当時における政府の一応の見解を述べたものでございますが、一方においていわゆる千島の中には南千島も入ると言いながら、他方日本政府としては南千島と北千島は歴史的に見て全く違うものであると考えており、その考え方は今後も堅持すると言っております。この二つの答弁は矛盾した内容を持っておるのであります。そこでそういう矛盾した内容を持つ明確を欠いた答弁がなされたわけでございまするがこのことはひっきよういたしまするに条約発効以前の各国の微妙な事態を反映して、その当時においてまだ占領下にあるわけでありますし、また各国も平和条約を批准していないというその事態において、わが国の立場のみを強く前面に押し出すことを避ける考慮もあったと考えられますが、これはいずれにもせよその当時における一応の考え方を述べたものにはかならないと思うのであります。その後さらに慎重に検討をいたしましたる結果、今申しましたように各種の交渉からいたしましても国後択捉が日本国の領土であることは明らかでございまして、しかもなおサンフランシスコ講和条約で放棄いたしました千島列島の中には含まれていないとの解釈が明確化いたしまして、昭和三十一年重光外務大臣の言明となっておる次第でございます。


 占領下では、条約の文言に従って、放棄したと答弁せざるを得なかった。
 その後実際にソ連と交渉が始まって、国後、択捉も返還を要求すべきわが国の領土であるとの結論に至った。

 解釈変更を問題視する見解に対しては、この答弁で十分反駁できるのではないかと私は考える。

斎藤健農水相への「辞表を書け」発言は「圧力」か?

2018-09-20 06:42:32 | 現代日本政治
 今月14日付産経ニュースの記事。

石破派の斎藤健農水相が首相支持議員の圧力告白「辞表書いてからやれ」

 自民党石破派(水月会、20人)の斎藤健農林水産相は14日、総裁選(20日投開票)で安倍晋三首相(総裁)を支持する国会議員から「内閣にいるんだろ。石破茂元幹事長を応援するなら、辞表を書いてからやれ」と圧力を受けたことを明らかにした。議員の名前は明らかにしていない。千葉市で開かれた石破氏の支援集会で述べた。

 斎藤氏は「ふざけるな。(首相は)石破派と分かってて大臣にした。俺が辞めるのではなく、クビを切ってくれ」と反論したという。その上で「首相の発想と思わないが、そういう空気が蔓延(まんえん)しているのを打破したい」とも語った。


 この発言をめぐって、両陣営が非難の応酬をしていると伝えられている。
 また、野党やマスコミにはこれを安倍批判に利用する向きもある。
 18日付朝日新聞夕刊「素粒子」は、

「名前を言って」と首相。農水相への圧力発言に、お得意の全否定戦術で応酬した。安倍政治の本質を見る思い。


と述べた。  

 産経に限らず朝日も毎日も読売も、この斎藤氏への発言を「圧力」と報じている。
 しかし、これは「圧力」なのだろうか。

 安倍首相や菅官房長官が言ったというなら、それは確かに圧力だろう。
 しかし、斎藤氏は、「安倍応援団」(上の記事にはないが、私はテレビでこう聞いた)の議員から言われたと言っている。
 それで斎藤氏が辞表を書いたというならともかく、氏は突っぱねたとしている。そしてそれを公表している。
 こんなことが何で「圧力」と呼ばれるのか、私にはわからない。

 斎藤氏の発言について、麻生財務相は、18日の記者会見で次のように述べたという(19日付朝日新聞朝刊の記事より)。
「現職がいなくなった後の総裁選と、現職がいる時じゃ意味が違う。現職が出る時は、どういうことになるかという話を根本に据えておかないと」
 これは全くそのとおりだと思う。
 現職が再選を目指しているのに、対抗して立候補するというのは、現職に対して不信任を突きつけているのと同じである。
 現職の対立候補が「正直、公正」をスローガンとするなら、それは現職が不正直、不公正だと言っているのと同じである。

 こういうことを言うと、自由社会の政党なのに党首選への立候補の自由はないのかと問う人がいる。
 もちろん立候補の自由はある。立候補の自由があることと、現職側が、あるいは第三者が、対立候補をどう見るかというのは別の話である。

 現在の国会の勢力では、自民党総裁に当選することは、すなわち首相に選出されることを意味する。
 農林水産相は、言うまでもなく、首相によって任命される職である。
 首相によって任命された者が、別の人物を首相に推すとは何事か、やるなら職を辞してからやれと考える者がでてきても、何もおかしな話ではない。

 もっとも、閣僚が現職以外の人物を総裁に推してはならないなどというルールはない。
 だから、斎藤氏が辞任の必要などないと考えるのならば、そんな発言など無視すればよい。それだけのことだ。

 こんなことで「圧力」だ何だと騒ぎ立てるなんて、自民党はスケールが小さくなったものだと思うし、マスコミは暇なんだなあ。


「ダレスの恫喝」についての古谷経衡氏の嘘

2018-09-19 00:33:20 | 領土問題
 またか!
 私は慨嘆した。

 BLOGOSに引用されたYahoo!ニュースの記事「日露平和条約締結は日本の決断次第~そろそろ2島返還で決着の時だ~」で、古谷経衡氏がこんなことを言っている(太字は原文のまま)。

 
ではサンフランシスコ講和条約で放棄した「千島列島」とはどの島々を指すのかといえば、当然、国後島・択捉島を含む占守島までの全千島である。事実、1951年9月7日、吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約で「放棄した千島列島には、北千島と南千島(国後島・択捉島)が含まれる」と明言し、同年1951年10月19日、西村外務省条約局長は衆議院での国会答弁でも同様の政府見解を繰り返した。

〔中略〕

 そしてこの路線のまま1955年から1956年まで、ロシアとの国交回復・平和条約交渉が開始される。以下、『日ソ国交回復秘録~北方領土交渉の真実~(松本俊一著、朝日新聞出版)”モスクワにかける 虹 日ソ国交回復秘録”から改題』は日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する。

 そしてこの本の中で、紆余曲折はあったものの、当時、日本側の重光葵全権大使は、 

「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、一週間ばかり経つと『事ここに至っては已むを得ないから、クナシリ、エトロフ島はあきらめて、平和条約を締結する』」といって来た。

出典:前掲書。強調筆者〔深沢註:筆者とは古谷氏〕)


 と、無念の思いは強いが、国後・択捉の両島を諦めて平和条約を併結する方針だったのである。ところが重光外相(鳩山一郎内閣)の態度はこの後急変し、国後・択捉・歯舞群島・色丹の「四島一括の帰属の確認」と強硬路線に転換した。なぜだろうか。公な文章にはなっていないものの、ここに冷戦下にあって日ソ和解を嫌うアメリカの横やり、つまり有名な「ダレス恫喝」が強く影響したのだ。

ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった

出典:前掲書


 これが「ダレス恫喝」である。

・態度を急変させた日本

 この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる。結局、『日ソ共同宣言』がなされ日ソの国交は回復したが、平和条約の締結ができないまま、この異常な状態が70年以上続いたまま現在に至る。


 政府の4島返還論に批判的な論者がよく持ち出す、わが国は歯舞・色丹の2島返還でソ連とまとまりかけていたのに、米国の「ダレスの恫喝」で4島返還論に転じざるを得なくなり、領土問題は膠着したとの主張の典型である。

 私はこれまでに何度も述べているが、これは嘘である。

 重光は元々対ソ強硬論者であった。外相としてこれまでの交渉(その多くは松本俊一が携わった)でソ連に歯舞・色丹の線で妥結の用意があることはわかっていた。しかし、このモスクワ交渉で、歯舞・色丹以外の領土についてはしばらく棚上げとしようとするなど、より多くのものを獲得しようとがんばった。だがソ連は、あくまでも歯舞・色丹の引き渡しをもって平和条約の締結、つまり領土の画定とする姿勢を崩さなかった。
 すると重光は豹変し、やむを得ずソ連案をそのまま呑む以外にはなく、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと松本に言い出した。
 松本は、これまでの交渉で、歯舞・色丹で妥結の可能性があったのにもかかわらず、重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受けて苦労した経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対し、重光もしぶしぶ請訓することに応じた。
 請訓を受けた鳩山政権の閣僚、自民党の3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。交渉はまたも決裂した。

 「ダレスの恫喝」とは、この第1次モスクワ交渉の帰路、重光がロンドンに立ち寄ったときのことである。
 重光はロンドンの米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明した。このときに「国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」云々といった話があったという。
 しかし、これは鳩山首相が重光の2島返還での妥結の請訓を拒否した後の話である。それ以前に、松本俊一を全権とする日ソ交渉で、重光外相は既に国後、択捉を貫徹せよとの訓令を出していたのである。
 だから、2島返還でまとまりかけていたのに、「ダレスの恫喝」でわが国が4島返還論に転じたとの主張は成り立たない。

 こんなことは、古谷氏が挙げている、松本俊一の『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』をちゃんと読めば全て書いてあることである。
 古谷氏は、もっともらしく「日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する」と述べているが、本当に本書を読んだのだろうか。読んだとしても拾い読みではないのだろうか。

 古谷氏が挙げている本書からの引用2箇所のうち、「ダレスは全くひどいことをいう」以下の箇所は確かに本書にあるが、「かくて重光君は」以下の箇所は、私が今確認した限りでは本書には見当たらない。
 本書の第1次モスクワ交渉の箇所で、松本は「重光全権」と記している。松本から見て外交官としても衆議院議員としても先輩の重光を「重光君」とは言わないのではないか。
 また、「モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、〔中略〕といって来た」とあるのもおかしい。松本は第1次モスクワ交渉で重光に同行しているからだ。
 これは、鳩山一郎の回顧録あたりからの引用ではないのか。

 また、古谷氏は
「この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる」(太字は引用者=深沢による。以下同)
と述べているが、重光が2島返還で妥結しようとした第1次モスクワ交渉は、古谷氏がどこからか
「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが」
と引用しているとおり、7月末以降のことである(「ダレスの恫喝」は8月)。これでは因果関係が前後している。
 古谷氏は、自分が何を書いているのか理解していないのではないか。

 北方領土問題が停滞して久しい。
 この際、2島返還でもいいから、日露平和条約締結で関係改善をという主張が出てきても不思議ではないと思う。
 4島かそれ以上を要求しないなど日本国民としてあってはならないかのような雰囲気が蔓延するよりは、はるかに健全なことだろう。

 だが、嘘で国民を騙すのはやめてもらいたい。
 著名人であればなおさらのことである。



関連過去記事

領土問題をめぐる議論のウソ(1) 「ダレスの恫喝」でわが国は4島返還論に転じたというウソ(2016)

領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ(2016)

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について(2012)

北方領土問題を考える(2009)

「2島」は4島の半分ではない(2009)




自民党総裁選討論会の報道を読んで――安倍首相の9条改正論を支持する

2018-09-18 00:13:16 | 日本国憲法
 私は、憲法9条について、もうン十年前から、改正すべきと考えてきた。
 それは、最近安倍首相が言うように、自衛官に誇りを持って職務を遂行してもらいたいからではない。
 よく言われるように、現在の9条を素直に読めば、自衛隊のような組織であっても、保有は許されないとの見るのが当然だからである(新憲法施行当初の政府もそうした解釈だったし、だからこそ、かつて長らく野党第1党だった社会党も自衛隊違憲論を唱えていた)。

 そして、自衛隊のような最強の暴力装置が、憲法に明記されていないのは、立憲国家であるわが国にとって極めて危険であるからでもある。
 例えば、自衛隊の最高の指揮監督権を有するのが内閣総理大臣であることは、自衛隊法で規定されており、憲法には何の規定もない。
 ということは、仮に○○党が両院で過半数を占め、その党が「○○党首は、自衛隊の最高の指揮監督権を有する。」と自衛隊法を改正すれば、それが現実のものとなるということである。あるいは、ポピュリスト政治家個人に最高指揮監督権を委ねることすら可能である。
 これは極端な例だが、最高指揮監督権にまで至らずとも、時の権力により恣意的な法改正がなされ、自衛隊が変質する可能性がある。それに歯止めをかけておくのが立憲主義のはずだ。にももかかわらず、こんにち「立憲」を声高に唱える人々からそうした主張が上がってこないのは不思議である。
 岩波文庫の『世界憲法集』を確認してみたが、本書に収録されている憲法のうち、わが国のほかに、軍に関する規定がない国などない(自衛隊は軍ではない? しかし軍に近いもの、いや専守防衛に限定された特殊な軍と言うべきだろう)。

 さらに、憲法と現実との乖離をいつまでも放置しておくことは、国民主権の国家として恥ずかしいという理由もある。
 国民が憲法を未だに自分のものとしていないということだからだ。
 北朝鮮や中国のように 憲法が飾りものであってもかまわないと国民が考えているということだからだ。

 今月14日の日本記者クラブでの自民党総裁選討論会で、安倍首相がいいことを言っていた(以下、太字は引用者による)。

質問者)安倍さんについてねお伺いしたいんですけど、そもそも安倍さんは、2項の削除論だったじゃないですか。変わったのはなぜなのか、これはやはりあまり現実的じゃないなと、削除に対して反対論が多い、なかんずく与党である公明党に慎重論が多い。であるならば、ここは公明党に配慮しよう、あるいは現実可能性を考えようと、ということで、2項は残したまま火種は残るけども、しかしそれは目をつむって新たな条項をつくると、こういうことだったんですか。

安倍)政治家というのはですね、学者でもありませんし、いわば評論家でもございません。いわば、正しい論理を述べていればいいということではなくて、経済においてはそれを政策として実行し結果を出していくことだろうと思います。そしてこの憲法論争において9条の問題、自民党結党以来の大きな課題であります。でも残念ながらまったく指一本触れることができなかった。国民投票に持ち込むことももちろんできない。その3分の2、衆参が発議できないからです。国民のみなさんが賛成にしろ反対にしろ、自分たちの意見を表明する機会がなかった。国会の中に閉じ込められているんです。

では、今、自衛隊の諸君が、誇りをもって任務をまっとうできる、環境を作ってくことは私の責任だと思ってます。もちろん、自衛隊日々の活動、今回の北海道胆振東部地震におきましても大変な活躍していただいて感謝しています。でも先ほど共産党の話でましたよね。共産党は明確に違憲という立場です。そして、すでに彼らはすべての憲法改正に対する行動に反対するということを明確に打ち出している。これは変わらないです、共産党ですから、そして実はさまざまな催しがあります。共産党と…共産党じゃない、自衛隊とですね、地域の人たちと。でもそういうの結構反対運動されていて、中止になったものも随分あるんですよ、実際、実態としては。ですからそういう中、そういう状況やっぱり変えていく必要がありますよね。我々は国旗国歌法を作って、それまでさまざまな問題が起こってきましたが、ほとんどなくなってきました。まあ、ですから我々の責任としては、まず与党でですね、与党で十分に、与党の中で賛成を得られるそういう条文にしていくという責任が、私は自由民主党のリーダーとしてはあるのではないかと考えたわけであります。


 また、同日午後に自民党本部で開かれた同党の青年局・女性局主催の討論会では、こんな発言があったという。

憲法改正を巡っては、石破氏が「憲法改正は(自民党の)党是だ」と明言。その上で戦争の惨禍を経験した世代が存命している間に実施したい」ものの、「スケジュール観ありきでやるべきとは思わない」との持論を繰り返した。これに対して首相は「『なぜ今急ぐのか』というのは『やるな』と言うのと同じこと」と反論した。


 全くそのとおりだと思う。
 これまで「なぜ今急ぐのか」の声の下、何度9条改正が先送りされてきただろうか。
 本来は、独立回復後にすぐさま国民に問うべきだったことだ。

 石破氏は、9条改正よりも緊急事態条項や参院の合区の方が改憲の緊急性は高いと主張していると聞く。
 確かに緊急事態条項や参院の合区も重要である。しかしこれまでの経緯を考えると、9条をこれらより後回しにすべきではないと私は思う。

 このまま安倍首相が自民党総裁に3選され、自民党が憲法改正を進めたとして、両院で3分の2を超える勢力により改正が発議され、国民投票で過半数を得られるのか、それはわからない。
 いずれかの段階で否決に終わる可能性も十分ある。
 しかし、私はそれでもかまわないのではないかと思う。
 否決が国民の意思なら、それはそれでやむを得ないだろう。
 否決があれ可決であれ、国民の手でそれが明確にされることに十分な意義がある。

 そのための近道であろう、安倍氏の総裁3選を私は支持する。
 (私は自民党員でも何でもないので、全く蚊帳の外の話でしかないのだが)
 


関連過去記事

朝日新聞の自衛隊「加憲」論批判を憂える(2017)


日本共産党の加害責任

2018-09-16 00:06:07 | 日本共産党
 日本共産党の前衆議院議員、池内さおり氏がこんなツイートをしていた。

地元を歩き高齢者の尊厳ある暮らしについて考えました。
訪問した方のお宅は、ドアを開けていただくと玄関まで袋に詰まったゴミの山。互いに袋の脇から顔出し会話。心の病抱え買い物も洗濯も不自由。介護認定が軽くなりヘルパーさんが来てくれる日数も時間も減らされた。
社会保障を削る政治は棄民だ!


 そして、

93歳の方が「日本の人たちは、こんな被害は受けたという話はするが、こんなに酷いことを我々はしたという加害について語らない。被害と加害両面ある。捕虜に対して酷いこともした。関東大震災のとき朝鮮人虐殺もあった。こういう加害を語らなければならない」とご自身の軍隊経験を交え話して下さった。


とも

 「日本の人たちは」とあるところを見ると、その93歳の方は日本人ではないのだろう。朝鮮人虐殺に触れているところを見ると、在日韓国・朝鮮人だろうか。

 確かに、わが国において、戦後二三十年ごろまでは、先の大戦について、被害者としての面ばかりが強調され、加害者としての面がないがしろにされてきたようには思う。
 しかし、1970年代から80年代にかけては、中国との国交正常化の効果か、あるいは戦争の被害が回復されたり忘れられたりしたからか、加害者としての面にも目を向けられることが多くなってきたように思う。
 90年代のある夏、確か終戦記念日のNHKの特番までが加害者責任を追及する内容で、私は辟易した記憶がある。
 細川護煕首相の「侵略戦争」発言や、いわゆる河野談話、村山談話、天皇陛下の「痛惜の念」発言をこの93歳の方はご存じないのだろうか。

 また、関東大震災の朝鮮人虐殺は、発生当初から日本人が大いに問題にしてきたからこそ、歴史に残り、常識となっている。
 そして同じような事態は、その後の戦中期にも、敗戦後の混乱期にも、平成における大震災においても、生じていない。

 ところで、共産党の人が、1950年代の極左冒険主義の時代の加害について語るのを、私は聞いたことがない(離党者を除く)。
 また、戦前の非合法時代の、大森銀行ギャング事件やリンチ事件といった犯罪の責任について語るのも、聞いたことがない。

 共産党は、戦前は治安維持法で弾圧されたとか、こんにちでも公安調査庁から不当に監視対象にされているとか、被害を受けた話はいっぱいしているようだが、「被害と加害両面ある」はずだ。

 極左冒険主義は分裂した一方の側が勝手にやったこと、ギャング事件は警察のスパイによる挑発だと共産党が主張してきたのは知っている。
 しかし、そんな主張は共産党の盲目的な支持者以外には通用しない。
 何故なら、共産党はその極左冒険主義時代の分裂を経て「統一」したと主張している。現在の日本共産党は、極左冒険主義に同調しなかった側が新たに作った党ではない。極左冒険主義に従事した者も、そうでない者も含めて、党の「統一」を回復したのだ。ならば、極左冒険主義時代の責任も当然負うべきだろう。
 また、戦前期に仮にスパイによる挑発があったとしても、共産党員の全てがスパイであったのではない以上、スパイに牛耳られた責任、スパイによる指導を無批判に実行した責任というものが生じることは言うまでもない。

 かつて司馬遼太郎は、戦中期のわが国について、「日本そのものが、日本史に類を見ない非日本的な勢力によって“占領”されていた」と表現した。
 だからといって、その「非日本的な勢力」を戦犯裁判や公職追放で排除したから、わが国は戦争責任を負う必要はないなどという言い分が通用するはずもない。

 日本人が加害について語らなければならないのであれば、共産党員もまた自党の加害について語るべきだろう。


日本共産党が目指す共産主義社会では私有財産を保障?

2018-09-12 06:44:53 | 日本共産党
承前

 しかしそれでも、大野氏が、日本共産党が目指す「共産主義社会」を、私有財産や、反対政党を含む政治活動の自由は保証されると説くのはおかしい。
 何故か。
 ちょっと長くなるが、現綱領を引用する(太字は引用者による。以下同じ)。

五、社会主義・共産主義の社会をめざして

(一五)日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。
 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
 社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。
 さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。

(一六)社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。
 日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する。
 日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる。日本共産党は、そのなかで、次の諸点にとくに注意を向け、その立場をまもりぬく。
1.(1)生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない。
2.(2)市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される。


 まず、私有財産について。
 綱領には、
「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」
とある。
 生産手段とは何だろうか。また生活手段とは何だろうか。
 日本共産党のサイトにしんぶん赤旗のこんな記事がある(太字は引用者による。以下同)。

「生産手段の社会化」って どういう意味?
2006年4月8日(土)「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 日本共産党の綱領にある「生産手段の社会化」って、どういう意味ですか?(岡山・一読者)

 〈答え〉 生産手段とはごく簡単にいえば、物を生産するための原料(=労働対象)と工場・機械など(=労働手段)のことです。いまの資本主義社会は、これをごく一部の人たちが占有し、もうけ本位に生産しており、これが社会のゆがみや環境破壊につながっています。

 当面する民主的変革の過程を経て、私たちがめざす次の段階が、資本主義を乗り越えた未来(社会主義・共産主義の社会)への前進です。ここでの変革の中心的な指標が「生産手段の社会化」です。生産手段の社会化を土台にどんな社会をつくるか。第23回党大会で決めた新しい日本共産党綱領はそれを次の三つの側面から描きだしています。

 (1)生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。

 (2)生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。

 (3)生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的発展の条件をつくりだす。

 この変革は、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程です。人類史の新しい未来をひらく歩みですから、青写真はありません。国民が英知をもって挑戦する創造的な開拓の過程となるでしょう。

 ですから、新しい綱領では、(1)生産手段の社会化は多様な形態をとるが、どんな場合でも「生産者が主役」という原則を踏み外してはならないこと(ソ連では「国有化」して国家が工場などをにぎりさえすれば、これが「社会化」だということで、現実には官僚主役の経済体制がつくりあげられた。これを絶対にくりかえしてはならないこと)(2)改革の道すじの全体が「市場経済を通じて社会主義へ」という特徴をもつが、どのようにして、計画性と市場経済とを結びつけるのかなどは、知恵の出しどころであること(3)「計画経済」を、国民の消費生活を規制する「統制経済」に変質させてはならないこと―など、基本点を明記しています。(喜)

 〔2006・4・8(土)〕


 これを読んでも、「生産手段の社会化」が具体的に何を指すのか、明らかではない。

 また、こんな記事もある。

生産手段の社会化 交通機関や放送局は?
2007年2月14日(水)「しんぶん赤旗」

 〈問い〉日本共産党の綱領第5章には、「社会主義的変革の中心」は「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と書かれています。生産をしていない交通機関や放送局は社会化されないのでしょうか。(大阪・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の綱領第5章は、日本社会が資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義社会への前進をはかる段階の展望を述べているものです。そこでは、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化」であり、「生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」という基本的な発展方向を明らかにしています。その際、どの分野の生産手段が社会化の対象となるのか、それがどのような所有形態へとすすむのか、といったことは、この変革が現実の課題になった段階で、政治情勢や経済・社会の状況を踏まえて検討されるべきものです。

 当然、資本主義時代の価値ある成果や経験がうけつがれ、いっそう発展させられるでしょう。

 綱領はまた、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」た後に、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」という、長期の展望も明らかにしています。ここに書かれている未来の共同社会は、搾取そのものがなくなる社会です。そこへいたる過程では、財貨の生産をおこなわないサービス産業も含めて、今日の大企業が担っている経済活動のすべてが、いずれは何らかの形で社会的な所有・管理・運営へすすんでいくだろう、というのが理論的展望です。

 なお、鉄道などの交通機関は、原料や商品を運ぶことで生産の一端を担うという性格をもっていますし、国民生活と日本経済を支える大事な産業です。したがって、そのあり方については、安全性と経済効率の両面からの検討が必要です。

 また、放送や新聞などのマスメディアは、国民の言論の自由や人権の保障という面からも重要な機関であり、「真に平等で自由」な社会の言論機関にふさわしい経営の形態が探求されることになります。(哲)

 〔2007・2・14(水)〕


 「生産手段の社会化」は「この変革が現実の課題になった段階で、政治情勢や経済・社会の状況を踏まえて検討されるべきもの」だから、今青写真を示すべきではないのだそうだ。

 しかし、綱領が
「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」
としている以上、生産手段が私有財産であれば、これが現在のようなかたちで私有できるものでないことは明らかだ。

 ところが、大野氏はブログでこう断言している

 「生産手段の社会化」の詳しい説明は省略しますが、「社会化≠国有化」である事だけは強調させていただきたいと思います。
 いずれにせよ、共産主義になったからといって、個人の財産が没収されることは100%ありません。


 綱領は、
「「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」
とはしているが、「生産手段の社会化」が国有化ではないとは言っていない。しんぶん赤旗の説明でもその点はあいまいである。
 そして、綱領が保障している私有財産は生活手段だけで、生産手段については保障していないことは、先に述べたとおりである。
 故に、大野氏の主張は、綱領に照らして、誤っている。

 次に、反対政党を含む政治活動の自由について。
 確かに綱領には、
「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される」
云々とある。
 しかし、こうもある。

社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。


と、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」が作られるのは「出発点」だとしている。
 「社会主義をめざす権力」が作られた後も議会政治が行われるのかどうかはわからない。国会が存続するのかどうかすらわからない。
 「国民の合意」を強調しているが、ロシア革命も中国や北朝鮮の共産化も、国民の合意によるものとされてきた。
 そんな言葉に意味はない。
 あまり知られていないが、現在の中国にも北朝鮮にも、複数の政党が公式に存在していることを思い起こしていただきたい。

 それに、この綱領の第15、16節で述べられている「社会主義的変革」の前に、まず、共産党を含む民主連合政府による「民主主義的変革」が行われることになっている。これは綱領の第13節で述べられている。

 (一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。
 日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量と、労働者をはじめ国民諸階層と広く深く結びついた強大な組織力をもって発展することは、統一戦線の発展のための決定的な条件となる。
 日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。
 日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。
〔中略〕
 民主連合政府の樹立は、国民多数の支持にもとづき、独占資本主義と対米従属の体制を代表する支配勢力の妨害や抵抗を打ち破るたたかいを通じて達成できる。対日支配の存続に固執するアメリカの支配勢力の妨害の動きも、もちろん、軽視することはできない。
 このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。


 「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となる」とはどういう意味だろうか。
 これは、行政の諸機構の革命化ということではないのか。
 その時その時の政府に行政機構が従うのではなく、行政機構自体が共産党の意向に従ったものに作り変えられるということではないだろうか。

 現に、しんぶん赤旗のサイトによると、志位和夫委員長は、2011年に党本部で開かれた綱領教室で、こう述べたという。

 「独立・民主・平和の日本の実現は、資本主義の枠内で可能な民主的改革」であるのに、なぜ革命というのか――。

 志位さんは「革命とは、ある社会勢力から、他の社会勢力に『国の権力』、国家機構の全体を移すことです。そのことによってはじめて民主的改革を全面的に実行できるようになります」と語りました。

 「革命というと民主党を思い出します」と志位さん。自らの「政権交代」について、「革命的改革」とか、「民主主義革命」とかいいましたが、「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」(綱領)がしっかり握っていた「国の権力」には指一本触れず、行き着いたのは自民党政治の継承者になることでした。「私たちが目指す革命とは、こうした『政権交代』とはまったく違う、根本的な日本の変革です


 このような思想の下で、「行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手とな」った後に行われる「社会主義的変革」において、「反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される」のか、私は不安でしかたがない。

 さらに、大野氏は、綱領に次のようにあるのを無視している。

 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。


 これこそが、共産主義者が目指す共産主義社会の姿である(ここでは仮に「真の共産主義社会」と呼んでおく)。つまり、共産主義とは、一種のユートピア思想である。この点で、議会による民主制を前提とした一般の政党と、共産党とは大いに異なる。
 民主連合政府による民主主義的変革も、その次の段階における社会主義的変革も、真の共産主義社会の実現までの過渡期に行われるものにすぎない。真の共産主義社会に至れば、私有財産がどうなるのか、反対政党を含む政治活動がどうなるのか、そんなことは何もわかっていない。
 なのに、大野氏は、過渡期である、私有財産(生活手段に限られるが)や反対政党を含む政治活動の自由が保障される社会を、「日本共産党が目指す共産主義社会」と呼んでいる。しかも、しんぶん赤旗が、
「日本共産党も今後は〔中略〕未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現することにしています」
と述べているのに、勝手に
「日本共産党綱領では、目指すべき未来社会を「社会主義・共産主義」もしくは「社会主義」という言葉を使っていますが、本稿では便宜上「共産主義」と表現します。意味に違いはありません
と、党の方針に合わない表現を用いている。
 いったいこの人は、共産党や共産主義について真面目に考えたことがあるのだろうかと、不審に思う。

 こんな大野氏のツイートも、それを読んだ国民に「日本共産党が目指す共産主義社会」が私有財産を保障するものだと誤解させることは党の利益になるから、党からも黙認されているのだろう。
 あるいは、「社会主義・共産主義社会」という珍妙な表現は、そうした誤解を生じさせること自体を意図して用いられたのかもしれない。
 まあ共産党のやることなんてこんなもんですよ。

日本共産党の「社会主義」と「共産主義」は同じ?

2018-09-11 09:03:14 | 日本共産党
 共産党千葉県中部地区委員会地区委員である大野たかし氏のこんなツイートを見た。

ブログを更新しました。「日本共産党が目指す共産主義社会について」
http://korede.iinoka.net/?p=1227
「共産主義」に対して悪印象を持つ人は少なくありませんが、日本共産党の目指す共産主義は、そのような先入観と全く異なるものです。その違いを日本共産党綱領を元に書きました。


 そしてこんな画像が貼ってある。



 「日本共産党が目指す共産主義社会」では
・私有財産は保証される。
・反対政党を含む政治活動の自由を保証。
・労働時間の短縮・社会の全ての構成員の人間的発達を保障。
とある。

 すごいこと言うなあ。党綱領のどこにそんなことが書いてあるんだろうか。党規違反じゃないか。

 大野氏のリンク先のブログを読んでみると、さらにこんなことが書かれている。

(※日本共産党綱領では、目指すべき未来社会を「社会主義・共産主義」もしくは「社会主義」という言葉を使っていますが、本稿では便宜上「共産主義」と表現します。意味に違いはありません。)


これはひどい。綱領上、社会主義社会と共産主義社会は異なる。共産主義社会の第1段階が社会主義社会じゃないのか。

 と思ったが、綱領を確認してみると、「共産主義」の語が用いられているのは「社会主義・共産主義」としてだけで、単独では用いられていない。
 何と、2004年の第23回党大会で採択された現綱領で、共産主義社会の第1段階を社会主義社会とする規定は改められたのだそうだ。
 同大会での不破哲三・中央委員会議長の「綱領改定についての報告」で詳しく述べられている。長くなるが引用する。

レーニンに由来する国際的な“定説”の全面的な再検討

 第二に、現代の諸条件のもとでの社会主義・共産主義の社会への道を探究するためには、科学的社会主義の先人たちのこの分野での理論的な遺産を発展的に整理し、とりいれることが必要でした。

 この分野は、率直に言って、国際的にみても遅れた理論分野の一つでした。とくにソ連が「社会主義社会の完成」を宣言した後には、この分野でのマルクス、エンゲルスの理論的遺産の研究も本格的にはおこなわれませんでした。未来社会の理論として支配的だったのは、レーニンがマルクスの「ゴータ綱領批判」をよりどころに、著作『国家と革命』のなかで展開した共産主義社会の二段階発展論でした。

 この二段階発展論というのは、未来社会を、生産物の分配という角度から、“能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる”という原則が実現される「第一段階」と、“能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる”という原則が実現されるようになる「高い段階」とに分けるもので、通例、この「第一段階」が社会主義社会、「高い段階」が共産主義社会と呼ばれてきました。

 この二段階発展論は、とくにスターリン以後、国際的な運動のなかでも、未来社会論の“定説”とされてきました。とくにソ連では、この“定説”には、社会主義の立場を踏み外して別の軌道に移ったソ連社会の現状を、そのときどきに、「社会主義社会はついに完成した」とか、「さあ、共産主義社会の移行の時期が始まった」とか、そういう合言葉で合理化する役割さえ与えられました。

 しかし、科学的社会主義の学説をつくりあげた先人たちの未来社会論は、この“定説”の狭い枠組みには到底おさまらない、はるかに豊かな内容をもっています。私たちがその全内容を発展的に受けつごうとするならば、レーニンのマルクス解釈の誤りを是正することを含め、従来からの国際的な“定説”を根本的に再検討することが、避けられない課題となってきます。

 この問題を全面的に探究するなかで明らかになった主な点は、つぎの諸点であります。

 第一点。生産物の分配方式――まず「労働におうじて」の分配、ついで「必要におうじて」の分配、こういう形で生産物の分配方式のちがいによって未来社会そのものを二つの段階に区別するという考えは、レーニンの解釈であって、マルクスのものではありません。マルクスは、「ゴータ綱領批判」のなかで、未来社会のあり方を分配問題を中心において論じる考え方を、きびしく戒めています。

 第二点。マルクスもエンゲルスも、未来社会を展望するさいに、特定の形態を固定して、新しい社会の建設に取り組む将来の世代の手をそれでしばってしまう青写真主義的なやり方は、極力いましめました。彼らは、分配方式の問題もその例外とはしませんでした。

 第三点。マルクスが、党の綱領に書き込むべき社会主義的変革の中心問題として求めたのは、分配問題ではなく、生産様式をどう変革するか、でした。それは具体的には、生産手段を社会の手に移すこと、すなわち、「生産手段の社会化」という問題でした。「生産手段の社会化」は、この意味では、未来社会を理解するキーワードともいうべき意義をもっています。

 第四点。マルクスもエンゲルスも、未来社会を人類の「本史」――本来の歴史にあたる壮大な発展の時代としてとらえました。だから、「必要におうじて」の分配という状態に到達したら、それが共産主義社会の完成の指標になるといった狭い見方をとったことは、けっしてありませんでした。マルクス、エンゲルスが、その未来社会論で、社会発展の主要な内容としたのは、人間の自由な生活と人間的な能力の全面的な発展への努力、社会全体の科学的、技術的、文化的、精神的な躍進でありました。

 以上のような理論的な準備にたって、私たちは第五章の作成にあたりました。

未来社会の呼称について

 順を追っての解説はしませんが、改定した綱領案のいくつかの中心点についてのべます。

 綱領改定案の未来社会論にもりこんだ新しい見地の大要はつぎのとおりであります。

 第一は、未来社会の呼び名の問題です。

 改定案では、これまでの綱領にあった社会主義社会、共産主義社会という二段階の呼び名をやめました。マルクスやエンゲルスの文献では、未来社会を表現するのに、共産主義社会という言葉を使った場合も、社会主義社会という言葉を使った場合もあります。しかしそれは、高い段階、低い段階という区別ではなく、どちらも同じ社会を表現する用語として、そのときどきの状況に応じて使ったものであります。

 改定案は、その初心にかえる立場で、呼び名で段階を区別することをやめ、未来社会をきちんと表現するときには、「社会主義・共産主義社会」と表現することにしました。

 このことは、社会主義、あるいは共産主義という呼び名を、今後単独では使わないということではありません。綱領の改定案そのものにも、「社会主義」という表現を単独で使っている場合が少なからずあります。

 この呼び名の問題をめぐっては、今後のことを考えても、かなり複雑な状況があります。

 古典でも、マルクスの『資本論』では、未来社会は「共産主義社会」と表現されています。エンゲルスの『空想から科学へ』や『反デューリング論』では「社会主義社会」と表現されています。さきほども言いましたように、二つの呼び名は同じ意味で使われています。

 また、日本でも世界でも、両方の呼び名が使われる状態が続くでしょうが、おそらく多くの場合、従来型の解釈で、未来社会の異なる発展段階を表すものとされる場合が多いでしょう。

 そういうなかで、日本共産党綱領が、未来社会について、「社会主義・共産主義社会」と二つの呼び名を併記する表現を使うことは、私たちが「社会主義」も「共産主義」も同じ未来社会の表現だという新しい立場――もともとは一番古い立場なのですが、その立場にたっていることを明示するという意味をもちます。

 ここに主眼があるわけですから、共産党員が議論する場合、どんな場合でも、二つの言葉を並べて言わないと綱領違反になるということではないことを、理解してほしいと思います。(拍手)

 なお、“定説”とされてきた二段階発展論をやめたということは、未来社会がいろいろな段階をへて発展するであろうことを、否定するものではありません。

 マルクスが、未来社会とともに、人類の「本史」が始まるとしたことはすでにのべました。この「本史」は、彼らの予想でも、それまでの人類の歴史の全体をはるかにこえる長期の時代となるものでした。当時は、太陽系の寿命が数百万年程度に数えられていた時代でしたが、エンゲルスは、ほぼそれに対応するものとして、人類の「本史」を「数百万年、数十万年の世代」にわたって続くものとして描き出しています。現在、人間がもっている自然認識によれば、人類の未来を測る時間的なものさしは、当時よりもはるかに長い、数字のケタが二ケタも三ケタも違うものとなるでしょう。

 当然、そこで展開される人類の「本史」には、いろんな段階がありうるでしょう。いまからその段階についてあれこれの予想をしないというのが、マルクス、エンゲルスの原則的な態度でした。私たちも、この点は受けつがれて当然の態度だと考えています。


 そして、しんぶん赤旗は2004年の記事でこう書いている。

社会主義と共産主義の違いは?

 〈問い〉 社会主義と共産主義の違いについて教えてください。(愛知・一読者)

 〈答え〉 日本共産党は今年一月の第23回党大会で綱領を改定し、社会主義社会と共産主義社会を区分してとらえる、二段階論はとらず、一つの社会の連続的な発展としてとらえる立場を明確にしました。

 未来社会について、これまでは、生産物の分配の仕方を基準にして、「能力に応じて働き、労働に応じて受けとる第一段階」=社会主義と、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」という「高い段階」=共産主義という区分でとらえることが国際的な“定説”でした。

 しかしこれは、科学的社会主義の学説をつくりあげたマルクスやエンゲルスの考え方ではなく、レーニンが『国家と革命』のなかで展開したもので、のちにスターリンらによって、ソ連社会を美化する道具だてとして最大限に利用されました。

 マルクスやエンゲルスが、未来社会の中心的問題としたのは、分配問題ではなく、生産様式の変革=「生産手段の社会化」にありました。

 日本共産党は、今回の綱領改定にあたり、「レーニンのマルクス解釈の誤りを是正することを含め、従来からの国際的な“定説”を根本的に再検討」(「綱領改定についての不破議長報告」)し、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と、明確に記しました。

 マルクスやエンゲルスは、用語上も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、状況に応じて使っていました。日本共産党も今後は、「社会主義」「共産主義」の二つの用語を同じ意味で使うことにし、未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現することにしています。(湯)

 〔2004・5・29(土)〕


 いや、こんなことになってるとは知らなかった。
 私は2年ほど前、共産党が破防法の調査対象とされていることを批判したのをきっかけに、現綱領を真面目に読んでみたのだが、この点には不覚にも気づかなかった。

 マルクスやエンゲルスが「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、ねえ。
 だったら、『共産党宣言』は、社会党宣言でもよかったのだろうか。
 「共産党」という党名はレーニン時代に設けられたコミンテルンの支部を意味するものだから、日本共産党も、別に「日本社会党」に改称しても差し支えないことになるが、どうか。

 仮に、マルクスやエンゲルスが「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で使っていたとして、だから日本共産党も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で使うことにするというのは、まあわかる。
 しかし、「未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現する」というのは、理解できない。何故なら、マルクスやエンゲルスはそんな珍妙な表現をしていないからである。マルクスやエンゲルスがやったというように、状況に応じて使い分ければよい。そうしないのは、上記の理由のほかに、もっと別の意図があるからではないだろうか。

 それにしても、こんな珍論が何の抵抗もなく受け入れられ、それが十数年も続いている(もっと続くのだろう)。つくづく、異様な政党であると思う。

(続く)


吹田事件の本質を覆い隠す朝日新聞論説委員

2018-09-09 10:22:50 | 韓国・北朝鮮
 古い話だが、昨年の9月15日付朝日新聞夕刊に掲載された「葦 夕べに考える」というコラムの内容が、以前からどうにも気になっていたので、ここで書き留めておく。筆者は中野晃・論説委員。

敗戦後の「戦争」を忘れぬ

 国鉄職員だった兵庫県の奥野博實さん(85)は朝鮮戦争(1950~53)の最中の51年9月、米軍の弾薬を運んだ。

 神戸港で陸揚げされた弾薬を二十数両に積んだ貨物列車のダイヤは「軍秘」。京都の梅小路から舞鶴まで乗務した。

 奥野さんは日記にこう記した。「占領下にあるのでやむなくやっているが、日本の軍事基地化の手伝いをしているようなものだ。第三次大戦の準備か?」

 朝鮮戦争で、日本は武器弾薬や軍需物資の「特需」にわき、米軍を核とする国連軍の出撃や兵站の拠点にもなった。

 「東洋一の貨物ヤード」と呼ばれ、重要な輸送経由地となった国鉄吹田操車場では52年6月、戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た。当時、デモ隊に加わった詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(88)=奈良県=は「軍用列車を1時間遅らせれば、同胞千人の命が助かると言われていた。切実な思いだった」と振り返る。

 朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る。敗戦後、日本が巻き込まれた戦争の歴史を忘れず、再びそうならないための道を探りたい。


 金時鐘氏が参加したという国鉄吹田操車場でのデモとは、いわゆる吹田事件を指すのだろう。
「戦争に反対する学生や労働者らがなだれ込み、警官隊と衝突して双方に多数のけが人が出た」
 何だか、やや程度の激しい反戦デモだったかのような読後感を受けるのだが、果たしてそんなものだったのだろうか。
 確か吹田事件は、血のメーデー事件、大須事件と並んで、戦後三大騒擾事件とされているはずだが。

 検索すると、コトバンクの世界大百科事典 第2版の解説に、次のようにある。

すいたじけん【吹田事件】

大阪府吹田市で学生,労働者,朝鮮人などが起こした事件。1952年6月24日夜,豊中市の大阪大学北校校庭などで,〈朝鮮動乱2周年記念前夜祭〉として大阪府学連主催の〈伊丹基地粉砕,反戦・独立の夕〉が開催されたが,この集会に集まった学生,労働者や朝鮮人など約900名は翌25日午前0時すぎから吹田市に向かい,国鉄吹田操車場を経て吹田駅付近までデモ行進をおこなった。その際,警官隊と衝突,派出所やアメリカ軍人の乗用車に火炎びんや石を投げつけ,また途中,阪急電車に要求して臨時電車を運転させ〈人民電車〉と称して乗車したり,吹田操車場になだれ込んで20分間にわたって操車作業を中断させたりしたなどとして,111名が騒乱罪(騒擾罪(そうじようざい))や威力業務妨害罪などの容疑で逮捕,起訴された事件。


 毎日新聞社の「昭和毎日」というサイトにも吹田事件のページがあり、

「人民電車を出せと阪急石橋駅で駅長をつるし上げるデモ隊」
「竹やりを持って行進を始める徹夜デモ隊と対立する警官隊」

といったキャプションの付いた写真がある。
 また、このサイトに掲載されている当時の毎日新聞の紙面には、

「火炎ビン投げ暴れ回る」
「警官トラック火だるま」

といった見出しが確認できる。

 今、私の手元に、警察庁警備局が昭和43年に発行した『回想 戦後主要左翼事件』というA5版の本がある。主に昭和20年代後半の日本共産党による暴力事件の解説と、それを体験した警察官(実名)の手記によって構成されている。
 吹田事件も「吹田騒擾事件」の名で取り上げられており、いくつかの手記の中にはこんな記述がある。

 吹田駅に転進した私達は、国警自警の混成部隊〔引用者註:国警は国家地方警察、自警は自治体警察の略。当時、1947年公布の旧警察法により、市および人口5000人以上の市街的町村には各市町村公安委員会が管理する自治体警察が設置され、それ以外の区域には国家地方警察が置かれていた。1954年公布の現警察法により廃止〕で暴徒の鎮圧にはいつた。柵を飛び越えてホームに殺到した。暴徒は折からの通勤電車に混乗し、通勤客を楯に拳銃を発射し、さらには火炎びんを投げ、竹槍を投げ、あらゆる抵抗を示した。
 ホームに、道路に、血が吹き、炎が上がる。警備部隊のある者は焼けただれた制服のまま暴徒を追う。まさに現場は阿鼻叫喚の態であつた。しかし、市民はおののきながら警察官を励ましてくれた。(p.178)


 また、別の警察官によるこんな記述もある。

 午前七時半ごろ私達は国鉄吹田駅に急行した。
 現場は、まさに阿鼻叫喚の巷と化し、戦時中の爆弾投下時のさまもかくやとばかりの情景を現出していた。荒れ狂うデモ隊は、同駅構内、構外をうめつくし、停車中の通勤列車および一般乗客らに対し、火炎びんを投げつけたり、所持の竹槍で突いたりして暴行の限りを尽くしていた。
 私達は、事態の重大さに驚き、かつこれら暴徒の鎮圧と排除のため直ちに検挙にのりだしたが、ここにおいてもデモ隊のしつような攻撃を受けた。
 全身火だるまとなってホームに転落する者、竹槍で腕を突きさされて倒れる者、負傷者が続出する。婦女子を含む一般客はとみると、列車内でデモ隊員に竹槍、こん棒で殴りつけられ、また、車窓から投げ込まれる石、火炎びんを避けて頭をかかえ座席に失神した如く伏せて身を守っている者、泣きさけぶ者、この危急狂乱の場からのがれようと車内から線路上に転落する者等々。
 私達はデモ隊の検挙よりも、かかる攻撃、暴行により続出しつつある負傷者の救護に全力をそそいだ。
 デモ隊はここにおいて徒歩進撃を中止し、大阪行列車に乗り込みを開始、なおも一般民家、民衆に石、火炎びんなどを投げつつ、ついに吹田駅をあとにした。(p.181-182) 


 この吹田事件は、一審の裁判の法廷で、被告側が、朝鮮戦争休戦に際して、平和勢力(北朝鮮・中国・ソ連側)の勝利を祝う拍手と戦死者に対する感謝の黙祷を行いたいと申し出、裁判長がこれを黙認したことでも知られる。
 このことでもわかるように、これらの暴徒は単に戦争反対のために騒乱を起こしたのではない。米軍の軍事物資輸送を妨害することで北朝鮮・中国軍を支援するために暴動を起こしたのである。後方攪乱である。

 ところで、朝鮮戦争とは何だろうか。
 米国が北朝鮮を侵略した戦争なのだろうか。
 違う。
 言うまでもないことだが、北朝鮮が韓国を併合しようと、ソ連の了解の下、計画的に戦争を仕掛けたのである。
 そして、それを防ぐために米国が国連軍を組織して介入し、逆に北朝鮮を追い詰めたところ、それを救おうと中国が義勇軍と称して参戦したのである。
 なのに、この中野晃・論説委員は、その点には全く触れず、まるで、米国が北朝鮮を攻撃しているのだから、在日朝鮮人らがそれに抵抗するのは当然であったかのように描いている。
 米国が介入しなければ、韓国は北朝鮮に併合されていただろう。そうなれば現在の韓国の発展もなく、朝鮮半島全域が金王朝の圧政の下に置かれることになっただろう。わが国は現在よりさらに強力になった北朝鮮と間近で接することになっただろう。その方がよかったと中野委員は考えているのだろうか。

 中野委員はこうも言う。
「朝鮮半島で軍事衝突が起きれば、日本はまた軍事拠点となり得る」
 そう、再び北朝鮮が南進すれば、わが国はまた軍事拠点となるだろう。それは韓国を守るために必要なことではないのだろうか。それとも韓国が蹂躙されようがわが国は中立を守るべきだと中野委員は考えているのだろうか。
「再びそうならないための道を探りたい」
 それは簡単である。北朝鮮が武力統一路線を放棄すればよい。ただそれだけのことである。何故なら、こんにちの韓国も、また米国も、武力による統一など主張していないし、望んでもいないからである。
 しかし、北朝鮮の戦争責任にも吹田事件の本質にも触れることを避ける中野委員が、どのような方法で「再びそうならないための道を探」ろうとしているのか、私には不思議でならない。