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日々の思いをたまに綴るブログ。

さりげなく安倍晋三の出自を攻撃する朝日

2013-03-25 00:24:43 | マスコミ
 3月18日付け朝日新聞朝刊の天声人語。

 「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」と1952(昭和27)年4月28日の小欄は筆を起こしている。末尾は「占領よ、さようなら」の言葉で締めくくった。独立という、戦後の新しいステージへの静かな高揚が伝わってくる▼サンフランシスコ平和条約が発効したその日、日本は主権を回復した。同時に沖縄、奄美、小笠原は本土から切り離された。沖縄ではその後20年にわたって米軍統治が続くことになる。「屈辱の日」として記憶されてきたゆえんである▼平和条約をめぐって、国論を分かつ議論が起きたのはよく知られる。東西の両陣営と講和するか、米国など西側だけとの講和か、である。世論は沸騰した。しかし「日本」とは本土だけを指し、沖縄は忘れられていた▼それから61年、「主権回復の日」の式典なるものを政府が初めて行うそうだ。沖縄から反発の声が上がったのは当然だろう。復帰後も基地は集中し、治外法権的な地位協定は残る。今なお「占領よ、さようなら」と言えずにいる人は少なくあるまい▼「日本には長い占領期間があったことも知らない人が増えている」と安倍首相は言う。その通りだろうが、4・28は沖縄などを「質草(しちぐさ)」にしての主権回復だった。沖縄では日の丸も自由に掲げられなかった▼安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、沖縄への想像力を持たずしてこの日は語れない。万歳三唱で終わるなら、やる意味もない。


 末尾近くの、
「安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、」
唐突なこの一節は何だろうか。
 この流れでこんな話を持ち出す必要があるのだろうか。

 いや、筆者の意図はわかる。
 安倍晋三が岸信介の孫であることを改めて思い起こさせること。
 その岸信介はA級戦犯容疑者として拘束され、釈放された後も主権回復までは公職追放されていたことをも思い起こさせること。
 まるで祖父の公職追放解除を祝いたいのだろうと言わんばかりだ。

 こんな下衆な文章を大新聞の1面コラムに載せていいのか。「天声人語書き写しノート」なるものも販売されているというのに。
 あるいは、こんな下衆な文章が書けないと大新聞の論説委員は務まらないのか。

 同じ日の夕刊のコラム「窓 論説委員室から」は川戸和史が「満州国と安倍バブル」と題して次のように述べている。

〔前略〕東大教授の安富歩さんは、バブル経済と満州事変などの戦争が似ていると指摘してきた。
 「安倍バブル」に1980年代のバブルの熱気はないが、今の閉塞感はむしろ事変の当時により近いかもしれない。安富さんに聞いた。
 「社会の倫理が崩壊して暴走の歯止めを失うプロセスはバブルも戦争も同じなのです。過ちを犯さないためには、政治家が本質的な問題は何かを国民に率直に訴え、ごまかさずに正面から取り組むことです。しかし、往々にして政治家は話をすり替えて国民に安易な逃げ道を示し、大失敗する。満州国は新興財閥を動員して大陸に王道楽土を建設すると、良いことずくめの話でしたが、結果は破滅的な損失でした」 
 満州国を取り仕切った一人が安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相であったことはさておき、アベノミクスも一歩間違えば政府の誘導と民間の依存心の悪循環を生む危うさが漂う。
 「既得権益を破って成長産業を育てるという真の課題から逃げ、脱デフレの期待をあおるのでは、逆に問題を悪化させます」と安富さん。
 気をつけよう、王道楽土の甘い期待は高くつく。


 祖父が取り仕切った満洲国は破滅したから、「安倍バブル」もわが国を破滅させるおそれがあると言わんばかりである。
 満洲国が破滅したのは必ずしもその構想自体が誤っていたからではなく、もっと別の要因によるものだと思うが。

 朝日には、安倍首相と戦中・戦後の歴史をセットで語る時には、必ず岸信介に触れなければならないという決まりでもあるのか。
 しかも、「それはともかく」「であったことはさておき」と、あたかも本筋ではなく、ただちょっと触れてみただけという逃げの姿勢がまたいやらしい。

 こういうことを言うと、いや安倍は自ら岸の孫であることをウリにしているのだから、岸の負の面も継承すべきであるといった反論があるのだが、私はそれはおかしいと思う。

 本人が自分の出自や祖先を語るのはよい。自分にまつわることであり、その発言の責任は自分がとればよいのだから。
 しかし、他人が、ある人の出自を、その人を批判する材料として用いるのはよくない。
 何故なら、人は親を選べない。先祖が行ったことは本人の責任ではない。
 その人の責任ではないことで、その人を批判するべきではないと思うからだ。

 誤解しないでいただきたいのだが、私は公人の出自を全く明らかにすべきではないと言うのではない。
 公人が、出自はもちろん、家族や学歴、職歴、趣味嗜好、交友関係など、ある程度プライバシーをさらけ出さなければならないのは仕方ない。それがその人物を判断する材料に成り得るからだ。
 しかし、本人のあずかり知らないことや、本人ではどうにもならないことを、本人を批判する材料として用いるのはよくない。それは、アンフェアだからだ。

 安倍晋三が岸信介の孫であること。岸信介が満洲国を取り仕切ったこと。A級戦犯容疑者として拘束され、釈放後も主権回復まで公職追放されていたこと。
 これらはいずれも安倍本人にはどうしようもないことである。その人自身ではどうしようもないことを、その人を批判する材料として用いるべきではない。
 主権回復の日に疑問を呈すのに岸信介に触れる必要はないし、満洲国と「安倍バブル」を論じるにしても岸信介に触れる必要はない。上で引用した2記事は、いずれも岸信介の箇所がなくても成立するものだ。それを敢えて触れるというのは、それによって安倍政権にマイナスのイメージを与えようという意図があるからにほかならないだろう。

 公人の出自をもって、公人本人を批判する人に対しては、ではその批判者自身の出自はどうなのかと問いたい。
 批判者自身の先祖はどうなのか。戦中・戦後はどう過ごしたのか。一族郎党はどのような人物なのか。
 そうした点を明らかにしないまま、立場上プライバシーを明らかにせざるを得ない公人の出自をもって、その公人を批判するとすれば、それはフェアとは言えないのではないか。
 暗闇から石を投げるようなものではないか。

 半年ほど前に、朝日新聞社の子会社が発行する雑誌が、「出自を根拠に人格を否定するという誤った考えを基調とし、人間の主体的尊厳性を見失っている」記事を載せて問題となり、朝日新聞社自身も「前例のない深刻な事態として、非常に重く受け止めています。差別を許さず、人権を守ることは朝日新聞社の基本姿勢であり、」「この基本姿勢を当社内にも改めて徹底する」と述べているのだが、どうも全く懲りていないように見受けられる。


 

「みどりの風」議員によるNHK取材拒否の説明を読んで

2013-03-21 08:19:21 | 珍妙な人々
 BLOGOSで、「みどりの風」参議院議員の舟山康江による「NHKに対する取材拒否について」という記事を読んだ。

 「政党」要件は、公職選挙法、政党助成法、政治資金規正法に規定されており、これによると、(1)「所属する国会議員が5人以上」または、(2)「直近の衆院選か最近2回の参院選で全国を通じた得票率が2%以上」の政治団体を「政党」として扱うとしています。

 みどりの風は、5人以上の国会議員がいますので、れっきとした政党です。しかし、NHKがどうしても認めようとせず、もう一つの政党要件である「得票率2%以上」も満たさないと「日曜討論」には出さないと主張しています。そして、この判断は、「報道機関としての自主的な編集権」であると強弁しています。(NHKからの回答は末尾に掲載)

 この理屈では、まだ選挙に参加していない新しい政党は公共放送が取り上げないということになります。法律では、前記(1)または(2)いずれかを満たしていれば政党であり、両方ではありません。民間放送ではなく国民の税金を使った公共放送が、公職選挙法とは異なる独自の基準を用いて政党を選りすぐることが、果たして編集権の範囲なのか大いに疑問です。

 ちなみに、NHKは先日、NHK予算について「各党」に説明したい、「みどりの風」にも説明したいと時間を要求し、説明にやってきました。自分達の都合によって政党扱いしたりしなかったり非常に独善的であり、国が付けた予算にふさわしい組織だとはとても思えません。

 このような中で、残念ながら、誠意ある回答をいただけるまで、みどりの風として一切の取材をお受けできない、という立場をとらせていただきました。

ネット上で賛否両論、議論されているようですが、誤解がないように背景をお伝えします。
〔太字は原文のまま、機種依存文字である丸数字はカッコ数字に直した〕


 しかし、記事末尾に掲載されているNHKからの回答を読むと、「「得票率2%以上」も満たさないと「日曜討論」には出さないと主張して」はいない。

(参考)NHKからの回答

平成25年3月1日
みどりの風代表
谷岡郁子様

日本放送協会報道局
政経・国際番組部長馬場弘道

 「みどりの風」の皆様には、日頃からNHKの放送に対して、深い御理解をいただき、誠にありがとうございます。

 「日曜討論」で御出演していただく政党につきましては、放送時間や討論番組としての物理的な制約などから、国政選挙の結果や国政への参加の状況などを踏まえ、報道機関としての自主的な編集権に基づいて判断しています。

 同番組では、様々な形式での討論番組を企画しております。例えば、与野党の代表者に同席していただく討論の場合、公職選挙法上の政党の要件を2つ満たす政党を参考にして御出演をお願いする企画や、公職選挙法上の政党の要件を1つ満たす政党を参考にして御出演をお願いする企画、与党第1党と野党第1党による討論などです。これは、その時々の政治状況を踏まえて、NHKが独自に判断しているものです。

 なお、公職選挙法上の政党の要件を2つ満たす政党を参考にして御出演をお願いする企画の場合、直近の衆参両院の国政選挙に示された民意と国会議員の数など国政への参加状況をあわせて参考にしつつ、討論番組としての制約などを考慮して判断しているものです。

 「日曜討論」では、これまで、その時々の政治状況に応じて御出演をお願いしてきました。今後につきましても、今の政治状況を踏まえて、政党討論の枠組みを検討していきたいと考えております。

 こうしたNHKの考え方について、ぜひともご理解いただきますよう、お願い申し上げます。


 この回答によると、与野党の代表者による討論の場合、
・「公職選挙法上の政党の要件を2つ満たす政党を参考にして御出演をお願いする企画」
・「公職選挙法上の政党の要件を1つ満たす政党を参考にして御出演をお願いする企画」
・「与党第1党と野党第1党による討論」
などがあり、「その時々の政治状況を踏まえて、NHKが独自に判断している」としている。

 そして、「日曜討論」も「その時々の政治状況に応じて御出演をお願いしてき」た番組であり、今後も同様であるとしている。

 したがって、この回答は「「得票率2%以上」も満たさないと「日曜討論」には出さないと主張」するものではない。

 にもかかわらず、何故舟山議員はこんな記事を書いたのか。
 次のようなことが考えられる。
・NHKはこの回答より前に、得票率2%以上も満たさないこと理由であると伝えており、それが舟山議員の念頭にあった
・NHKはこの趣旨の回答をしたが、「みどりの風」の誰かが誤読して舟山議員に伝えた、あるいは舟山議員自身が誤読した
・NHKはこの趣旨の回答をしたが、その内容自体はもっとも至極で反論しがたいので、「みどりの風」は敢えて、NHKは得票率2%以上を満たさないことが理由であると主張していることにして、それに反論した

 いずれにせよ、これではNHKからの回答を添付している意味がない。
 読者はいちいちNHKからの回答などは読まないだろうと、馬鹿にしてかかっているのではないか。

 舟山議員は「国民の税金を使った公共放送」とも言うが、NHKの主な収入源は税金ではなく受信料である(国際放送や政見放送は国費で賄われている)。
 舟山議員はまた、「国が付けた予算にふさわしい組織だとはとても思えません」とも言うが、NHKの予算が国会の承認を必要とするのは、受信料を強制的に徴収する公共放送であるため、その収支について国民の了解を得る必要があるという趣旨によるものであり、国がNHKの予算を策定しているわけではないので、「国が付けた予算」という表現は不適切であろう。

 こんなことは、NHKと国との関係や受信料制度の意義について多少なりとも疑問をもったことがあれば常識だと思うのだが、舟山議員は、しばしば「某国営放送」などと揶揄されるNHKを、本当に税金で運営される国営放送だと勘違いしているのではないか。

 「誤解がないように背景をお伝えします」としているのに、これでは、NHKからの回答を読まない読者はさらに誤解を重ねてしまう。
 「みどりの風」のレベルが知れると言えるだろう。

 この党の議員のうち、亀井静香を除く4名はいずれも当選1回の参議院議員で、今年改選を迎える。
 何人が生き延びられるだろうか。


政治家と学歴についてちょっと思ったこと

2013-03-19 08:27:07 | その他の本・雑誌の感想
 少し前に、小谷野敦の『天皇制批判の常識』(洋泉社(新書y)、2010)を読んでいたら、こんなことが書いてあって、笑ってしまった。

私はよく「学歴差別」をすると言われるのだが、〔中略〕学歴というのは能力であり、能力によって人が違う扱いを受けるのは当然のことである。そう言えば、東大を出ていたってバカはいるだろう、と言われるだろう。もちろん、いる。現実に何人も知っている。しかし、成蹊大卒の安倍晋三や、学習院大卒の麻生太郎の、ぶざまな総理ぶりを見たら、やはり学歴は目安になる、と思うだろう。
 〔中略〕高度経済成長以前なら、頭がいいのに家が貧しくて大学へ行けなかった、ないしは十分な勉強の余裕がなくて二流大学へ行けなかった〔ママ。二流大学へ「しか」行けなかったの意か〕、というようなこともあるだろうし、それはむろん勘案している。しかし安倍や麻生は、東大卒の政治家の息子や総理大臣の孫であり、そんな家に生まれて成蹊大や学習院大では、そりゃ頭が悪かったんだろうと思うしかないではないか。もちろん二人とも、私のこの予想には見事に応えてくれた。そして東大卒、スタンフォード大博士号の鳩山由紀夫は、国連で英語でちゃんと演説している。(p.180-181)


 そりゃあ確かに学歴はある種の能力の指標だろう。一般論としては、高学歴者はいわゆる頭が良い(頭の回転が早い、飲み込みが早い)ということになるだろう。
 しかし、いくら英語で演説ができたって(できないよりはできるにこしたことはないだろうが)、政治家としてダメなものはダメなのである。
 数年前まで、私は戦後歴代首相のワーストは芦田均だと思っていたが、今は何といっても鳩山由紀夫である。

 本書の奥付に記載されている発行月は2010年2月。原稿はまだ鳩山由起夫内閣の失態がそれほど露呈していない時期に書かれたのだろうし、今となっては小谷野もこんなことは言うまい。
 それにしても、鳩山由紀夫、邦夫兄弟の体たらく(邦夫は東大法学部卒。自民党下野後の2010年3月に、与謝野馨、舛添要一ら自民党離党者の「坂本龍馬をやりたい」として離党したが、彼らの糾合などできないまま無所属で過ごし、自民党が政権を奪回した後の昨年12月に復党を認められた。1990年代にも自民党の下野直前に離党し、新進党を経て由紀夫と共に旧民主党を結成し、現民主党の結成にも加わったが、やがて離党し、2000年に自民党に復党)は、頭が良いからといって必ずしも良い政治家とは限らないことを示しているのではないか。

 そもそも政治家の学歴はそれほど高いのか。また高学歴の政治家が優秀な政治家であったか。
 確かに東大卒の首相はたくさんいるが、あれは官僚出身だからだろう。高級官僚から代議士に転身するコースは戦前からあった。東大は高級官僚を養成するために設けられたのだから、多いのは当然だ。官僚出身でない、党人派の政治家には、東大卒はそれほどいなかったはずだ。
 ちょっと戦後の歴代首相の学歴を確認してみた(皇族の東久邇宮稔彦王は除く。明記しない限り中退は除く。また便宜のため当時と現在とで呼称が異なる場合は現在の大学・学部名で示した)。

 ○幣原喜重郎 東京大学法学部
 ○吉田茂   東京大学法学部
  片山哲   東京大学法学部 弁護士
 ○芦田均   東京大学法学部
■ 鳩山一郎  東京大学法学部 弁護士
  石橋湛山  早稲田大学文学部卒、宗教研究科修了
 ○岸信介   東京大学法学部
 ○池田勇人  京都大学法学部
 ○佐藤栄作  東京大学法学部
  田中角栄  中央工学校(専門学校)
  三木武夫  明治大学法学部
 ○福田赳夫  東京大学法学部
 ○大平正芳  一橋大学商学部
  鈴木善幸  農林省水産講習所(現東京海洋大学)
 ○中曽根康弘 東京大学法学部
  竹下登   早稲田大学商学部
  宇野宗佑  旧制神戸商業大学(現神戸大学)中退(学徒出陣、シベリア抑留による)
  海部俊樹  早稲田大学第二法学部
 ○宮沢喜一  東京大学法学部
  細川護煕  上智大学法学部 旧大名家
■ 羽田孜   成城大学経済学部
  村山富市  明治大学専門部政治経済科(専門学校に相当)
■ 橋本龍太郎 慶応大学法学部
■ 小渕恵三  早稲田大学第一文学部、同大学院政治学研究科
  森喜朗   早稲田大学第二商学部
■ 小泉純一郎 慶応大学経済学部
■ 安倍晋三  成蹊大学法学部
■ 福田康夫  早稲田大学第一政治経済学部
  麻生太郎  学習院大学政経学部
  鳩山由紀夫 東京大学工学部、スタンフォード大学大学院博士課程
  菅直人   東京工業大学理学部
  野田佳彦  早稲田大学政治経済学部

 ○は官僚出身。■は世襲議員(父から直接地盤を継承)。

 1960年代までは東大法学部出身者が多い。これは、官僚出身者が多いからだろう。当時のトップエリートはそうした層だったのだろう。
 しかし、やがて他大学出身者が増えてゆき、宮沢喜一を最後に東大法学部出身の首相はいない。
 また、東大の出身者も、宮沢の後は鳩山由紀夫だけしかいない。
 そういう点では、「よく「学歴差別」をすると言われる」小谷野にとって、鳩山は、久々に登場した東大卒の首相として、期待を寄せられる存在であったのかもしれない。

 そして、上記の東大卒の首相が、首相として、あるいは政治家として優秀であったか、非東大卒、中でもそうレベルが高くない学校卒の首相が、首相として、あるいは政治家として劣っていたかとなると、そういうわけでもないように思う。

 また、首相経験者や派閥領袖の2世、3世だからといっても、必ずしも派閥領袖や首相になれるというわけでもない。
 それを考えると、安倍晋三や麻生太郎は政治家としてそれなりに有能だったと言えるのではないだろうか。
 小谷野が言う意味で「頭が悪かった」とはそのとおりなのかもしれないが、そういう頭の良さだけで政治をするのではないからな。

 ついでに、最初の本格的な政党内閣とされる原敬内閣以後の戦前・戦中の首相の学歴も参考までに掲げておく(原敬より前は藩閥内閣の時代であり、学歴を云々しても意味がないので省略)。
 ▽は軍人出身。

 ○原敬    司法省法学校(のち東京大学法学部に統合)退校
 ○高橋是清  ヘボン塾(のち明治学院大学に発展)
 ▽加藤友三郎 海軍大学校
 ▽山本権兵衛 海軍兵学校
 ○清浦奎吾  咸宜園(広瀬淡窓が現大分県日田市に開いた私塾)
 ○加藤高明  東京大学法学部
 ○若槻礼次郎 東京大学法学部
 ▽田中義一  陸軍大学校 陸軍大将から政党政治家へ転身
 ○浜口雄幸  東京大学法学部
  犬養毅   慶応大学中退
 ▽斎藤実   海軍兵学校
 ▽岡田啓介  海軍兵学校
 ○広田弘毅  東京大学法学部
 ▽林銑十郎  陸軍大学校
 ○平沼騏一郎 東京大学法学部
  近衛文麿  京都大学法学部 五摂家
 ▽阿部信行  陸軍大学校
 ▽米内光政  海軍大学校
 ▽東條英機  陸軍大学校
 ▽小磯國昭  陸軍大学校
 ▽鈴木貫太郎 海軍大学校

 

「がんこ一徹」朝日の一国平和主義

2013-03-15 08:25:49 | マスコミ
 3月4日付け朝日新聞朝刊のコラム「天声人語」を一読して、脱力した。

 中国の古典は「アリの穴から堤も崩れる」と教える。英語では「小さな水漏れ穴が巨船を沈める」と説くらしい。金科玉条に見えた原則も同じく、一つの例外から滅ぶ▼戦闘機のF35が武器輸出三原則の例外となった。敵レーダーが捉えにくい新鋭機は、日本企業を含む国際分業で生産され、第三国への移転は米国に任される。周辺国と緊張関係にあるイスラエルに日本製部品が渡り、戦争を支えることもあろう▼三原則を緩め、安保で近しい国との共同開発を認めたのは野田内閣だ。安倍内閣は、国際紛争を助長しないという輸出の前提を取り払った。民主と自民の骨抜きリレーに、防衛産業は喜びを隠さない▼安倍首相は憲法を変えて、自衛隊を国防軍にするという。次は集団的自衛権、ついでに非核三原則もという勢いだ。誇るべき平和国家のブランドが色あせていく。このまま「普通に戦争ができる国」まで落ちてしまうのか▼なるほど、大戦の反省から生まれた憲法は普通ではない。だが先進的な理想主義は、世界が追いつくべき「良き例外」である。「米国に押しつけられた」憲法とそれに基づく国是を、「米国と共に責任を果たすため」に改める……一人二役の米国も忙しい▼国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない。現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。がんこ一徹の平和国家が、一つぐらいあってもいい。


 相変わらずの蟻の一穴論。

 北朝鮮が3度目の核実験を行った翌日、今年2月13日付けの朝日新聞朝刊2面で加藤洋一編集委員はこう書いていた。

「核の脅威」認識転換を

〔前略〕もし本当に核弾頭の小型化に成功し、長距離弾道ミサイルに搭載できるようになったのであれば、アジア太平洋の安全保障環境は根本的に変わる。〔中略〕
 日本にとっての脅威はより深刻だ。すでに「100~200基」(英国際戦略研究所)の配備が推定される、ノドンミサイルの射程に入っているからだ。その多くに核弾頭が搭載されたらどうなるのか。〔中略〕
 抑止力の強化も考えなければならない。森本敏・前防衛相は「米軍がグアムに(核兵器を搭載できる)戦略爆撃機を展開しているのはそういうことだ」と指摘する。「通常戦力による抑止体制づくりで、日韓が協力しないと万全ではない」とも言う。
 さらに、実際に攻撃を受けた場合への備えだ。米国は「弾道ミサイル防衛など何らかの明確な対抗策をとる」(キャンベル米国防次官補)と明らかにしている。森本氏は「日本も日本海上空で、確実に撃ち落とす能力を持たなければならない」と語る。
 中国をも巻き込んだ、制裁や非核化の外交努力が第一であることは言うまでもない。しかし、限界があることも事実だ。北朝鮮の「核の脅迫」に屈せず、最悪の場合に自らを守る方策を真剣に検討すべき段階に近づいたという、新たな脅威認識が必要だ。 


 なんで3度目の核実験でようやく「新たな」「認識」に至るのか不思議だし、「真剣に検討すべき段階に近づいた」「認識が必要だ」といった表現ももどかしいが、これでも朝日としてはかなり踏み込んだ書きぶりで、少しは論調も変わるのかなと期待したが、天声人語子の論説委員(福島伸二と冨永格が交替で書いているという)は十年一日のごとき一国平和主義。

このまま「普通に戦争ができる国」まで落ちてしまうのか
 

 「普通に戦争ができる国」になることは「落ち」ることなのか。
 では、現在「普通に戦争ができ」ないわが国は、他国に比べて高みにいるということなのか。
 戦後、わが国が軽武装路線を維持できたのは、端的に言って米国の傘の下にいたからだ。自力で達成したものではない。
 そして、その根拠となっている憲法の戦争放棄は、言うまでもなく押し付けられたものだ。
 押し付けられたものをありがたく押し頂いてるにすぎないのに、自らは彼らの及ばぬ高みにいるとは、何か感覚がおかしくないか。奴隷が主人に対して、人間性では自分の方が優っていると内心で慰撫するようなものではないか。

 そんなに「先進的な理想主義」が重要なら、わが国は、その持てる経済力を利用して、交戦国や武器輸出国に対して経済制裁を加えるなどして、軍縮や平和を追求してはどうか。
 在日朝鮮人に対する処遇をタテに、北朝鮮に核兵器の放棄を迫ってはどうか。
 そういった行動に踏み切らないというのは、要するに、きれい事を口にしているだけではないか。
 押し付けられた憲法の改正が容易でないからやむを得ず軍を派遣できないと言うならまだしも、それを逆手にとって、自らは手を汚さないことを自慢するとは、どういう神経をしているのか。

 湾岸戦争に際してわが国の一国平和主義はさすがに問題視され、PKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣が行われるようになった。あれから20年が経過しているというのに、人語子の頭の中はまるで時計が止まったままのようだ。

 憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」を、ただ単に、世界の国々は皆平和を愛し戦争など起こすはずはないから、わが国は戦力を放棄することにしたという意味にとらえる向きもあるが、そうではない。
 「平和を愛する諸国民」の「国」とは、国際連合の加盟国、つまり第二次世界大戦における勝者である連合国を指している。
 大戦に敗れたわが国は平和を愛さない侵略国であったから、武装解除して連合国の庇護下に入ります、その代わり何かあったら守ってくださいね、という意味である。

 国際連合憲章に次のようにある。

第1章 目的及び原則

第1条

国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。

第7章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動

第39条

安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。

第41条

安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。

第42条

安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

第43条
1.国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ1又は2以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益には、通過の権利が含まれる。
2.前記の協定は、兵力の数及び種類、その出動準備程度及び一般的配置並びに提供されるべき便益及び援助の性質を規定する。
3.前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべくすみやかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない。


 この憲章第43条が定めるいわゆる国連軍について、吉田茂は、1946年7月4日の衆議院帝国憲法改正案委員会において、首相兼外相として次のように答弁している。

又御尋ネノ講和条約ガ出来、日本ガ独立ヲ回復シタ場合ニ、日本ノ独立ナルモノヲ完全ナ状態ニ復セシメタ場合ニ於テ、武力ナクシテ侵略国ニ向ツテ如何ニ之ヲ日本自ラ自己国家ヲ防衛スルカ、此ノ御質問ハ洵ニ御尤モデアリマスガ、併シナガラ国際平和国体〔ママ。「団体」の誤記か〕ガ樹立セラレテ、サウシテ樹立後ニ於テハ、所謂U・N・Oノ目的ガ達セラレタ場合ニハU・N・O 加盟国ハ国際連合憲章ノ規定ノ第四十三条ニ依リマスレバ、兵力ヲ提供スル義務ヲ持チ、U・N・O 自身ガ兵力ヲ持ツテ世界ノ平和ヲ害スル侵略国ニ対シテハ、世界ヲ挙ゲテ此ノ侵略国ヲ圧伏スル抑圧スルト云フコトニナツテ居リマス、理想ダケ申セバ、或ハ是ハ理想ニ止マリ、或ハ空文ニ属スルカモ知レマセヌガ、兎ニ角国際平和ヲ維持スル目的ヲ以テ樹立セラレタU・N・Oトシテハ、其ノ憲法トモ云フベキ条章ニ於テ、斯クノ如ク特別ノ兵力ヲ持チ、特ニ其ノ国体〔前同〕ガ特殊ノ兵力ヲ持チ、世界ノ平和ヲ妨害スル者、或ハ世界ノ平和ヲ脅カス国ニ対シテハ制裁ヲ加ヘルコトニナツテ居リマス、此ノ憲章ニ依リ、又国際連合ニ日本ガ独立国トシテ加入致シマシタ場合ニ於テハ、一応此ノ憲章ニ依ツテ保護セラレルモノ、斯ウ私ハ解釈シテ居リマス


 そうしたシステムを前提として、わが国は戦力を放棄した憲法を受忍したのだ。

 しかし、その後の冷戦の進行(そして朝鮮戦争という「熱い戦争」の勃発)によって、このような国連軍が成立する見込みはなくなり、わが国は独立後も米国の庇護下に入ることになった。だが、専守防衛のための自前の戦力はやはり必要だろうということで、警察予備隊が発足し、保安隊、自衛隊へと進んだ。

 自衛隊は確かに専守防衛をうたっている。しかし、わが国を庇護する米国は先制攻撃をも是としている。そんな国の庇護下にありながら、「誇るべき平和国家のブランド」「世界が追いつくべき」理想とは笑うしかない。
 日本は専守防衛を唱えている、ではひとつわが国も、ならわが国もと、追随する周辺諸国がどこにあるというのか。
 朝日が、周辺諸国の専守防衛化に在日米軍は邪魔である、米軍はわが国から出て行けと唱えているのなら話はまだわかる。しかし、朝日は「米国との同盟と自衛隊で日本を守る」とし、「日米同盟を使いこな」せと主張しているではないか。

 わが国と同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは、戦争責任を認め謝罪してきたとして朝日がしばしば称揚してきた国だが、近年の国外における軍事活動の有り様はわが国とはかなり異なる。
 わが国と同様に湾岸戦争での多国籍軍には参加しなかったものの、その後は国連、NATOの一員としてのNATO域外への派兵を容認し、ボスニア紛争には多国籍軍の一員として参加し、コソヴォ紛争ではユーゴスラヴィアへの空爆にまで及んだ。9.11後のアフガニスタン戦争にも参加している。一方で2003年のイラク戦争にはフランスとともに反対しており、対米追従ではない。武器輸出や共同開発が厳しく制限されている様子もない。
 最近は、他国への介入がドイツの能力を超えているとして問題視されているとも聞く。確かに介入にはリスクも伴うだろう。安易に派兵しないことによるメリットもあるだろう。しかし、同じ敗戦国でありながらこうまで違うのは何故なのか。

 今年1月のアルジェリアの人質事件で、犯人グループはマリに介入したフランス軍の撤退を要求していたが、そのマリでは、フランス軍を歓迎する声が圧倒的だったと朝日新聞も報じていた。

 首都バマコ市内では、至るところでフランス国旗が売られ、バイクの後ろに国旗を立てて走る人も多い。

 バマコに住むヤヤさん(51)は「全国民が仏軍の介入を喜んでいる」と話す。昨年4月に北部が無政府化した後、なかなか介入の気配がないフランスに「北部を見捨てるな」と不満の声ばかりが聞こえたのとは一転した。

 アルジェリアの人質事件のニュースはすでに多くの市民の耳に届いている。ヤヤさんも「戦闘に何の関係もない人々を狙うのは愚かだ。日本人や米国人らはアルジェリアの経済発展に貢献してきた人だ。報復とは、戦闘に直接的に関係している者を狙うものではないか」と憤った。

 一方で、「バマコで同じことがあっても驚かない。戦時下にあるのだから、我々はその気構えができている」と話した。

 観光業のイブラヒムさん(34)も人質事件について「非常に悲しいことだ。日本人は何も関係ないのに卑劣な犯行だ」と言った。「仏軍はマリ軍や他の西アフリカの軍隊の10倍強い。ずっと介入を祈っていた。仏軍が介入しなければ、武装勢力は今頃、バマコに入っていた」と語った。


 その土地のことはそこに住む人々に任せよう、むやみに介入すべきではないという意見がある。
 しかし、ソ連が撤退した後のアフガニスタンをその土地の人々に任せていたら、紛争の末タリバンが跳梁し、アルカイダの温床になったのではなかったか。
 このマリのように、人道的に介入すべきケースはあるのではないか。

 人語子は集団的自衛権の容認にも否定的らしい。しかし集団的自衛権とは、要するに他国への侵略を自国への侵略と同様と見なして自衛戦争を行う権利のことだ。なるほどこれを認めることによってわが国が戦争に巻き込まれる危険は高まるだろう。しかし、いずれの国もが集団的自衛権を認めなければ、大国が小国を、軍事的強国が弱国を負かし、意のままにするということがまかりとおるのではないか。国連軍の成立が期待できない現在、そのような事態の発生を防ぐために、集団的自衛権は容認してよいのではないか。

 そういった言わば汚れ仕事は他国に任せっぱなしで、自らは手を汚していない「世界が追いつくべき」「先進的な理想主義」の具現者であると自賛する。
 他国民はこんなたわごとをどう聞くだろうか。

国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない。現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。


 「国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だから」日本も兵器の国際共同開発に加わり、侵略やテロに対処しようとなるのではないか、論理的には。
 何故「だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない」となるのか、まるで理解できない。
 では中国の台頭、核の拡散、テロの続発に誰がどのようにして対処するのか。それは米国をはじめとする他国に任せておけばよいというのか。他国が兵器開発で競争し、協力するのは別にかまわない、ただ自分の手さえ汚れなければそれでいいというのか。
 「現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。」
 理想を唱えているだけの、守ってもらっている分際の者が何を言うのか。

がんこ一徹の平和国家が、一つぐらいあってもいい。
 

 そりゃあ世界には様々な国があるから、変な国が一つや二つあってもいいかもしれない。
 しかし私は、超大国の庇護下に自らを置き、口では平和平和と唱えるばかりで、その具体化のためには何もせず、経済力に見合った軍事力をも担わず、あげく人類の理想の具現者であると勘違いして悦に入る、そんな情けない国がわが祖国であってほしくはない。


再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策

2013-03-12 23:07:11 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 和田氏の論はさておき、では今後わが国はこの問題にどう対応すべきなのか。
 私の考えは以前の記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で簡単に述べましたが、もう少し詳しく説明したいと思います。

 1956年の日ソ共同宣言で歯舞、色丹の引き渡しが規定され、2001年のイルクーツク声明などで日露がこの宣言の有効性を確認している以上、問題は結局のところ、択捉、国後の2島の扱いに尽きます。
 そして、この2島を実効支配しているのはロシアなのですから、わが国がそれを容認するのか、これまでどおり拒否するのか、あるいは中間点を探るのかということになります。
 そして、交渉事でこちらの主張が100%通ることはまず有り得ませんから、何らかの妥協を余儀なくされることになるのでしょう。

 ここで、大事なことがあります。
 わが国はロシアと妥協することにより、何を失い、何を得られるのか。

 以前にも当ブログで二度紹介したことがありますが、日中戦争期に外務省東亜局長を、大東亜戦争末期に駐ビルマ大使を務めた石射猪太郎は、回想録『外交官の一生』の結びで、外交について次のように述べています

 私は外交というもの、また霞ヶ関外交の姿を、いつも卑近な言葉で人に説明した。
 外交に哲学めいた理念などあるものか。およそ国際生活上、外交ほど実利主義的なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。理念も何もない。外交の意義はそこに尽きる。問題は、どうすればプラスを取り、マイナスから逃れ得るかにある。外務省の正統外交も、これを集大成した幣原外交も、本質的にはこの損得勘定から一歩も離れたものではないのである。
 この意味において、外交は商取引きと同じである。一銭でも多く利益を挙げたいのが商取引きだが、そこには商機というものがある。市場の動き、顧客の購買力、流行のはやりすたり、それらの客観情勢によって、売価に弾力を持たせなければならない。売価を高くつけ得ないために、時によっては見込んだ利益を挙げ得ないのもやむを得ない。あるいは流行おくれのストックに見切りを付け、捨て売りにして、マイナスを少なくするのも商売道であり、薄利多売も商売の行き方である。
 外交もこれと同じなのだ。国際問題を処理するに当たって、少しでもわが方に有利に解決したくとも、自国の国力、相手国の情勢、国際政治の大局を無視して、無理押しはできない。彼我五分五分、あるいは彼七分我三分の解決に満足し、マイナスをそれ以上背負い込まない工夫も必要であり、そこに妥協が要請される。〔中略〕
 要するに外交の行き方は、商売の行き方と全く軌を一にする。外務省正統外交の本領は、国際社会に処して算盤を正しく弾き、正しい答えを出そうとするところにあった。まどろかしく見えても、正直で地味な行き方が、総合的に大きなプラスをわれに収めるゆえんだと信ぜられた。が、軍部や政党や右翼は、目前の利益をのみ望んで、二プラス二イコール五、あるいは五マイナス三イコール三の答えを外交に強要した。こうした強要に屈した外交が、強硬外交と持て囃され、あくまでこれに屈しなかった幣原外交が、軟弱外交中の軟弱外交と烙印された。


 ある意味身も蓋もない主張ですが、これを私は支持しています。
 外交に理念を掲げるべきではないと言うのではありません。理念を掲げることにも意味はあるでしょう。理念を掲げたからこそ国際連合が成立しました。理念を掲げたからこそソ連を崩壊させることができました。しかし理念にとらわれすぎて、利害を軽視してはなりません。
 では、わが国は領土問題でロシアと妥協して、それによって何を得られるのか。

 これはロシア側も同じです。そしてロシアは実効支配しているだけに、妥協に踏み切るハードルはより高いでしょう。ロシアは、既に領土に編入し、近年開発も進めつつある択捉、国後の2島を、敢えて日本に返還することにより、代わりにどんな利益を得られるというのでしょうか(こちらのサイトでは、ソ連末期における、返還はソ連の利益にはつながらないとする学者の見解が紹介されています)。

 端的に言って、この点で両国の折り合いがつかないから、この問題がこんにちまでに至っているのでしょう。
 未解決の原因はここにこそあるのであって、決して、オコジョさんがおっしゃるような、米国の思惑やら、官僚の頑迷固陋といった話ではないと私は考えます。

 オコジョさんは「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」でこう述べています。

 北方領土返還運動は、税金で賄われています。北方領土問題対策協会は独立行政法人です。最近ハヤリの言葉を使えば「シロアリ」の一種です。北方にも生息できる種類のしぶといシロアリなのでしょう。
 このシロアリとその周辺に巣食うグループが、国民の利益など見向きもせずに、自らの利権維持に努めていることが、問題をこじらせています。


 こうした主張は北方領土問題に関する議論において時々見かけますが、私はあまり意味がないと考えています。
 何故なら、利権などというものは、何にだってついて回るからです。
 仮に、2島返還論が国策となれば、それはそれで新たな利権が発生することでしょう。
 利権云々というのは、既存の政策を批判するための方便にすぎないと私は見ています。
 政策は、利権の有無ではなく、その政策自体によって是非を判断すべきです。

 ところで、ここでオコジョさんは言っています。
「国民の利益など見向きもせずに、自らの利権維持に努めている」
 国民の利益と北方領土返還運動は相反するというのです。
 本当にそうなのでしょうか。
 では、仮に4島を諦め、2島返還で妥協するとしたら、どのような「国民の利益」が得られるのでしょうか。
 この点は、オコジョさんの記事では明確でありません。
 オコジョさんはしばしば和田春樹氏を引用しておられますが、前回紹介した和田氏の「日露共生の島、北の夢の島」といった構想に賛同されるのでしょうか。

 以前私が「北方領土問題を考える」という記事を書くきっかけとなったmig21さんは、こんなことを述べておられました

関係を築くことで得るメリットに思いを馳せるべきでしょう。
資源が豊富で国民の教養も高く、広大な国土を持つロシアとの関係強化は大いにメリットがあります。

既に民間企業はその関係強化を進めています。
今やロシアは輸出大国日本の大得意。
ここ数年での日本からの輸出額は10倍以上になっています。

昨今の世界的不況でしばらくは一息つきそうですが、この流れは今後も止まらないはずです。

加えてあまり知られていませんが、日本に対するロシアの感情は非常によいのです。
武道、食事、文学などの日本文化熱はもはやブームでない普遍的なものになりました。
さらにゲームや漫画などニューカルチャーも若者中心に高い支持を集めています。

大学では日本史や日本文学を研究する講座が急増し、Webサイトでは日本文化を学ぶような愛好者サイトの交流も盛んです。

日本を訪れるロシア人も増え、秋葉原などの電化製品免税店ではロシア語の看板も見られるほどです。


 現状でそれほど交流が進んでいるのであれば、別に平和条約は要らないのではないでしょうか。
 ロシアの対日感情は非常に良いのかもしれませんが、わが国の対露感情は良くありません。その原因の多くはソ連時代にありますが、現ロシアがそれを改めないのであれば、その感情は引き継がれていくことでしょう。
 わが国がロシアによる領土の不当な奪取を容認することが、対露感情の好転につながるとも思えません。

 一方で私は、前々回で述べたような心情と経緯から、択捉・国後には固執すべきという思いが捨てられません。
 以前にも紹介しましたが、久保田正明『クレムリンへの使節』は、新訓令により第1次ロンドン交渉を妥結できずに帰国した松本俊一に対して重光葵外相が「君、日ソ交渉が妥結しなくて、日本として何か困ることがあるのかね」と言い放ったと伝えています。
 私はこの箇所を読んで慄然としました。日ソ交渉を妥結して国交を回復しなければ、なお残されている抑留者の送還が進まない。漁業問題も解決しない。そして国連にも加盟できない。困ることだらけではないか。重光は、『昭和の動乱』などを読む限り、非常に知力に優れた人物なのだとは思いますが、どこまでも天皇の外交官であって、民主制の下での政治家ではなかったのだなと感じました。
 しかし、ロシアとの間に国交があり、それなりに経済関係も交流もある現在、このままで何が困るのでしょうか。

 オコジョさんが言及している、『北方領土問題』(中公新書、2005)の岩下明裕・北海道大学スラブ研究センター教授は、同書でフィフティ・フィフティによる解決案を呈示していますが、一方でこうも述べています。

重要なことは、私たちが目指し続けてきたゴールそのものが、果たして実現可能なものだったかどうかを忌憚なく検討することだろう。〔中略〕
 もし、ソ連やロシアが四島返還にかなり踏み込んだ姿勢を何度も示したことがあり、日本外交の粘りや駆け引きが不足したからこそ、今まで返還にこぎつけられなかったとすれば、今後も戦術を練り直し、返還運動に向けて国民の声をより集約していくことで事態を動かすことは十分なしうる。しかし、私たちのこれまでの努力とは裏腹に、私たちが一方的に幻想を抱き続けてきただけであったのならば、私たちは今後のアプローチを再検討すべき時期にさしかかっていると思われる。
 もし後者であれば、私たちは四島返還の早期実現が容易ではないことを率直に認めることから再出発すべきである。その再出発において、四島返還を堅持するとしよう。その場合、たとえすぐ返ってこなくてもいいから、旗は降ろさない。四島が返ってくるまで何世代かけてもがんばり抜こう。ロシアと平和条約を結ぶことなど気にかけることもない。とにかく島を返還させることが、日本外交のトップ・プライオリティだ。こう決意を新たにしたらいい。ただし、現状維持(つまりロシアの実効支配とそれに伴う国境線の未画定状態)がこれからも長く続くことを私たちは甘受しなければならない。その状態が今後続いても、それが国益にかなうと言い続けなければならない。だが惰性によって「思考停止」に陥り、これまでの方針を念仏のように繰り返すことだけはもう止めよう。そして、四島返還に向けた新しくかつ具体性を伴ったプログラムとそれが実現しうる道筋を探そうではないか。私も喜んでその隊列に加わりたい。
 私個人は四島返還に向けての国民の意思確認ができ、かつそれが国益にかなうことが説得的に説明できるのであれば、長期戦を覚悟の上、旗を掲げ続けるのも合理的な一つの選択肢だと考える。〔中略〕双方が納得しえないかたちでの中途半端な妥協をするよりはましだろう。中途半端なかたちで譲ったり譲られたりすると、未来の報復への口実にされる。〔中略〕したがって、今、フィフティ・フィフティに基づく政治的妥協を決断するのであれば、どうして妥協をするのか、なぜこのラインで国境を画定するのか。その意味を徹底的に日ロ双方でつめる必要がある。そして、その結果が「互いの勝利(ウィン・ウィン)」だと国民に説得できないかぎり、将来に禍根が残る。未来への「借金」を背負うくらいであれば、無理に動かさずに惰性に応じて「思考を停止させ」、展望がないままに四島返還を訴えた方がまだましだ。(p.198-200)


 岩下氏が2006年に関西大学法学研究所で行った講演の記録を読むと、単純な対露柔軟派、2島返還論者と見られることを迷惑がっていることがわかります。

 また、オコジョさんが以前「在京英国大使館極秘電報公開事件」を引用された丹波實・元駐露大使は、『日露外交秘話 増補版』(中公文庫、2012)に収録された2012年5月24日付読売新聞への寄稿「北方領土交渉――四島返還要求は正義のため」で、次のように述べています。

重要なのは、この時代〔引用者註・エリツィン・プーチン時代〕を通じ、日本が四島返還を求めるのは歴史を通じて正義を実現するためであることを忘れ、二島返還論、二・五島論、三・五島論、面積折半論、二+αなど、バナナのたたき売りのような外交をやってきたことである。こういう人たちの意見を聞きたい。尖閣をどうするのか、竹島をどうするのか。これらの問題も折半論で解決するのか。
 最近入ってくる情報では、日本の対露・対中外交の現状に東南アジア諸国・モンゴルなどの国々が失望しているという。日本は、露中に対して歴史の正義を求めて行くべし。国家にとって、領土・領海・領空の確立は国家存立の座標軸であり、その基礎を軽々しく動かせばアジア諸国のみならず、米欧をはじめとする全世界に軽蔑されることになる。日本人はそんな日本を望まないはずである。
 かつて英国の老政治家は、この世に永遠の友も永遠の敵もいないと言った。国際情勢は動くのだ。今後のロシア、中国、欧米・ロシア関係など世界は動いて行く。焦らず、慌てず、諦めず――。日本はじっくりと腰を落とすべきだ。今は忍耐と我慢の時代である。(p.375-376)


 領土の返還要求という言わば私事が「正義」とはいささか面映ゆい気もしますが、強盗犯から被害品を取り戻すことは単に私益ではなく社会秩序を維持するという公益でもあるのですから、確かにそう言えるでしょう。

 久保田正明『クレムリンへの使節』は、重光外相が2島返還での妥結を試み鳩山一郎首相に拒否されて失敗に終わった第1次モスクワ交渉の際の新聞の論調を紹介しています。2島返還でもやむなしとして早期妥結を主張した読売新聞は少数派で、毎日新聞、朝日新聞、産経時事はソ連案は受け入れられないと主張し鳩山の拒否を支持したとしています。そのうちの朝日についての記述に、

朝日は重光が羽田を発った翌日の七月二十七日、「ソ連首脳に与う」という社説を掲げ、「領土問題について戦勝、戦敗ということで割り切ることは力は正義だという困った考えを肯定することになり〝力の政策〟以外の何物でもない。端的にいって、われわれは少なくともクナシリ、エトロフ両島の問題についてはソ連はあっさり返還する寛大さを示すか、さもなくばアメリカが沖縄、小笠原にたいして潜在主権を認めたと同じような措置をとるべきだと信じている」と領土問題についてきわめて具体的な立場を明らかにした。〔中略〕イズヴェスチヤ〔引用者註・ソ連政府の新聞〕から非難されると七日「イズベスチヤに答える」として「われわれは国際情勢の正常化のためにも、日ソ両国のためにも早く妥結させなければならないと固く信じている。従って妥結を支持することにおいて誰にも後れをとるものではない。しかし日ソの正常化はあくまで永続的な基礎の上に建てなければならない。日本固有の領土であるクナシリ、エトロフの返還を主張する日本の要求に何の不法があろうか、また少なくとも潜在主権を認める措置を求める、われわれの主張のどこに非難すべきものがあろうか」と激しく反論した。(p.147-148、太字は引用者による)


とあります。
 至極当然の内容だと思います。

 こうした、言わば「正論」を放棄して、妥協に転じることによって、得られる利益とは何なのか。
 それが納得できるものでない限り、「正論」を放棄する必要などないのではないかというのが私の考えです。

 例えば、軍事力の増強を続ける中国は、周辺諸国の脅威となりつつあります。
 ロシアと中国は国境をフィフティ・フィフティで画定させましたが、最近の中国の歴史教科書には、清の時代に不平等条約によってロシアに広大な領土を奪われたとの記述が登場したといいます。中露国境の現状を中国がいつまでも容認し続けるとは限りません。
 仮に中国が日本にとってもロシアにとっても潜在的敵国となったとすれば、これに共同して対処しようという気運が生まれるかもしれません。その場合、未解決の領土問題を、中国の脅威に比べれば小さいことだとして、双方の妥協により解決して結びつきを強めようということになるかもしれません。
 そうした国際情勢の大幅な変化などによって、日露関係の強化が求められる事態にならない限り、この問題の解決は極めて困難ではないかと思われますし、そして未解決であってもそれはそれでかまわないのではないかとも思います。

 なお、私は、4島一括返還に固執する必要はないと思っています。もともと歯舞、色丹と国後、択捉とでは経緯が異なるのですから、国後、択捉の継続協議を前提に、日ソ共同宣言にのっとって歯舞、色丹を先行返還させるという選択肢も有り得ると考えます。あるいは、国後、択捉については、ロシアがわが国の潜在主権を確認した上で、現状を考慮した特殊地域とするといった方法もあるでしょう。
 しかし、歯舞、色丹の2島の返還だけで最終的解決とすることには反対です。

 私は、妥協によって得られる利益がわからないのでこのように考えますが、いや、現状においても、妥協することによって得られる利益は大きいはずだと考えられる方は、どうぞそう主張すべきだし、議論はオープンになされるべきだと思います。
 上記の岩下氏は、同書への反響の大きさから、のちに領土問題についての発言を自粛されたと聞きます。単純な対露柔軟派、2島返還論者と誤解されたことによる批判が原因だとしたら、悲しいことだと思います。

 また、私はこの地域に全く利害関係がないので、このように「正論」に固執できますが、旧島民や北海道民、漁業関係者といった言わば利害関係の当事者が、それ故に妥協を求めるのであれば、それを否定するつもりもありません。

 さて、オコジョさんは「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」の最後で、唐突に在日米軍の話を持ち出して、記事を締めくくっています。

親米右翼というのがインチキだとは、よく言われます。
 「カイロ宣言」やら「大西洋憲章」の「領土不拡大」の原則を持ち出して、ソ連の「北方領土」占領を非難する人たちがいますが、私は大きな違和感を覚えます。
 「領土的たるとその他を問わず、いかなる拡大も求めない」というのが大西洋憲章です。

 戦争前と比べて戦後にはどうなっていたか、の問題ですね。
 戦前、日本に米国の基地なんかありましたか。米軍の基地は、実質的に日本の中の米国領土です。仮りに領土そのものでないとしても、上の「その他」であることは否定できないはずです。

 北方領土の総面積は「5,036km2」です。
 対するに、米軍基地の総面積は、専用基地に限っても「308,614km2」、共同の使用可能な基地なら「1,011,359km2」になるのです。
 前者で60倍以上、後者なら200倍以上になります。

 戦前にはなかったものが、戦争が終わってみたらこれだけ存在するのです。
 60分の1に対するこだわりが、どれほど不自然なものか、しっかり認識する必要があると私は思います。


 しかし、米軍基地は敗戦による賠償として提供されたのではありません。わが国が新憲法によって非武装化されたため、それを補うものとして置かれたのです。旧日米安全保障条約に次のようにあります。

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。

 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。

 平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。

 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。

 よつて、両国は、次のとおり協定した。

第一条

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


 米国が日本の基地を独立後も維持することにしたのは、もちろん単に日本を護ってやろうという義侠心などからではなく、それが米国の極東戦略のために必要だったからでしょう。わが国の吉田茂政権もそれが国益であると考えたから、同意したのでしょう。
 そしてこれは条約ですから、どちらかの国の意向次第で廃棄することができます。現行の新安保条約には次のように定められています(太字は引用者による)。

第十条  この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。
 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。


 しかし、こんにちまで日米の歴代政権は「条約を終了させる意思を通告」することはありませんでした。わが国は民主制ですから、国民は在日米軍の存在を容認しているということになります。

 そもそも、「他のあれこれは、何ら本質的な問題ではありません。」と、サンフランシスコ平和条約でわが国が放棄した「千島列島」に択捉、国後が含まれるか否か以外の論点を切り捨てていたオコジョさんが、在日米軍に言及する際にはカイロ宣言を持ち出すのは実に不可解です。
 北方領土問題でサンフランシスコ平和条約以外の論点を持ち出すべきでないのなら、在日米軍問題で日米安全保障条約以外の論点を持ち出すべきではないでしょう。
 議論の必要に応じて論点を切り捨て、また必要に応じて持ち出す。ちょっとお付き合いし難い手法です。

 鳩山由紀夫が首相辞任後に述べたように、「日本の防衛を米軍という他国に依存していることが未来永劫続くのは、国のあり方としては望ましくない」とは私も思います。
 しかし、全く性質の異なるこの二者を同列に論じようとするオコジョさんの感覚が私には理解できません。

 固有の領土論を「単なる心情論」と一蹴するオコジョさんが、戦前にはなかった米軍基地は北方領土の60倍、200倍にも及ぶと心情論に訴えている。
 これは結局、単なる反米論の変形にすぎないのでしょうか。
 オコジョさんの北方領土問題に関する一連の記事の意図は、領土問題それ自体を検討することにはなく(別の記事では「「領土問題」は私たちとは無関係」とも言っておられます)、問題の発生には米国が関与しており、米国が日ソ関係をこじらせたこと、また在日米軍基地は北方領土よりもはるかに広大なわが国土を占めていることなどを指摘し、つまりは米国の存在こそがわが国にとって有害なのであり、米国を排除することがわが「国民の利益」であると思い至らせることにある。
 そんな印象を受けました。


 これで、オコジョさんの北方領土問題に関する一連の記事への論評を終わります。

(完)

再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について

2013-03-06 20:48:58 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」は、まず、千島列島の範囲についての和田春樹氏の主張と、伊藤憲一氏との論争を取り上げています。
 私もこの論争を昔読んだことがあります。オコジョさんの同記事へのコメントでも述べましたが、これは和田氏が正しいのだろうと思いました。

 ただ、オコジョさんの

 前年の国会質疑を見ると、なんだか不思議な気持ちもします。
 伊藤は、公衆の面前で“論破”されるべく登場した感があります。しかし、その辺の事情は後日までの課題としておきましょう。


この箇所は、何度読み直しても意味がわかりません。「前年」とは、和田氏の論文が発表される前年の1986年ということになるのでしょうが、この年に何か北方領土に関する重要な国会質疑があったとは聞きません。
 どなたかおわかりになる方がおられたら、お手数ですがご教示願います。

 しかし、そもそもこの範囲の話は、さして重要ではないと私は考えます。
 何故なら、わが国は、択捉、国後がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれていない「から」、その返還を要求しているのではありません。
 前回私が述べたように、まず、固有の領土たる択捉、国後までをも奪われることは承伏しがたいという心情があり、それ故に返還を要求しているのです。放棄した「千島列島」に含まれていないという主張は、その要求を理屈づけるための方便にすぎません。
 
 そしてソ連、ロシアも、択捉、国後はわが国が放棄した「千島列島」に含まれる「から」、返還に応じないのではありません。
 ソ連は単に戦争による占領地を自国領に編入したにすぎません。自国が締結もしていないサ条約を持ち出してわが国が放棄したと主張するのは、占領と編入を正当化するための方便にすぎません。

 それに、択捉、国後がサ条約で放棄した「千島列島」に含まれるとしても、それ故にわが国がその返還をソ連に要求できないというものでもありません。現に、和田氏はそのような主張をしています。

 私は最近まで、和田氏は2島返還論者なのだと思っていました。和田氏は、択捉、国後はサ条約で放棄した「千島列島」に含まれると主張しているのですから、論理的にはそうなるはずです。
 現に、氏の論文集『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990)に収録された最初の論文「「北方領土」問題についての考察」(初出は『世界』1986年12月号)を確認すると、わが国は択捉、国後をサ条約で放棄したことを認めた上で、北方4島を(1)非軍事化(2)資源保護(3)共同開発(4)自由往来の4原則に基づいてソ連と協力経営し、択捉、国後はソ連領、歯舞、色丹は日本領とすると提案しています。2島+アルファ論です。

 ところが、和田氏の近著『領土問題をどう解決するか』(平凡社新書、2012)について朝日新聞に掲載された書評には、氏は3島返還論を唱えているとありました。どういうことなのかと思い同書を確認してみると、氏はこんなことを言っています。

 長い間日本は北方四島は日本の領土、「固有の領土」なのだから、ロシアは「不法占拠」をやめて日本に返せと要求してきて、拒絶されてきたのです。「固有の領土」論をすて、日ソ共同宣言を基礎にすれば、次のように主張するほかありません。
 北方四島はもとは私たちの国の領土であった。そのことは一八五五年の条約でロシアにも認められたところである。しかし、六五年前に戦争に負けて、ロシアを含めた連合国に降伏したあと、あなた方に奪われてしまった。〔中略〕たしかにわれわれが日露戦争で南樺太まで取ったのは、取りすぎだったろう。しかし、だからといって、こんどはサハリン(樺太)もクリル諸島も全部ロシアが取るというのは、取りすぎではないか。「日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して」二島を引き渡してくれる〔引用者註・日ソ共同宣言を指す〕というなら、もちろん受け取ろう。残りの島はサンフランシスコ条約で放棄した島だが、日本としてはロシアが領有することにいまさら異論はない。日本としては、ロシア領と承認しよう。まず、こういわざるをえないのです。(p.178-179)


 では、何が3島返還なのかというと、

しかし、ここでとどまるべきではありません。
 共同宣言の文言は「日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して」二島を「引き渡すことに同意する」となっているのですから、日本としては、この考えに立って、ロシア側に、もう一島、国後島の引き渡しに同意することを要請することができると思います。(p.179)


 では何故国後にとどまり択捉は含まないのかというと、

もとより択捉島の引き渡しまでも要請できないという文言ではありません。しかし、ロシア側は二島引き渡しが最大限だと一九五五-五六年交渉で言い続けたのですから、あたらしく要請するとすれば、五六宣言から出発して、三島を引き渡してくれないかと交渉するのが理性的な方針でしょう。
 択捉島はサンフランシスコ条約で放棄してしまった領土なのですから、ロシア化がもっとも進んでいるこの島について、敗者復活戦を戦うことは無理なのです。択捉島については断念せざるを得ません。
 国後島の引き渡しを要請するなら、それが日本国民の強い要望であること、そして、日本の利益にどれほどかなうかということをしっかり議論を組み立てて説明し、交渉を行わなければなりません。〔中略〕場合によっては、国後島をロシアと日本で分けるという案の検討を求めることも可能です。(p.179-180)


 こう説明されても、何故国後と択捉をこのように分けて取り扱わなければならないのか、私にはよくわかりません。
 そして、これは論理の組み立て方がやや異なるだけで、実質的には「固有の領土」論と何が違うのでしょうか。

 さらに和田氏は、2009年に行われたインタビューでは、1990年代後半から2000年代初めは4島返還論だったとも述べています。

 そこで96年10月16日の日ソ共同宣言40周年に際して、朝日新聞に談話をもとめられたとき、私は「国民が4島返還を望むのならば、4島を返してもらうようにどういう道があるか、考えたい」と述べました。それまで私は2島返還、4島共同経営を提案してきたのですが、4島返還にベースを変えたのです。これによって外務省とは、ますます関係が良くなったということですね(笑)。


 2+アルファ→4→3 と変わってきたわけです。

 この間、わが国はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したという和田氏の主張は一貫しています。
 にもかかわらず、具体的な返還論となると、何故このようにコロコロ変わるのか。
 それは、この千島列島の範囲をめぐる議論が、前回も述べたように、結局のところ、問題の核心とは無関係だからでしょう。

 それでも、これまでとは違った和田氏流のアプローチにより、ロシアからもこれまでとは違った柔軟な対応が引き出せるのであれば、試みる価値はあると思います。
 しかし、本当にそのような可能性があるのでしょうか。
 オコジョさんがおっしゃったように、「単なる心情論」「過去へのノスタルジーが、外交交渉の根拠になるはずもない」として一蹴されてしまうのではないでしょうか。
 現に和田氏も次のようにも述べています。

 国後島の引き渡しを要請して交渉して、ロシア側がとても渡せないと最終回答してきたら、それ以上、交渉し続けることはできないと思われます。そこで次の提案としては、国後島はロシア領ということでいいから、日本に渡してくれる色丹島と一緒にして、日露共同経営、共同開発の地域にしないかという交渉を行うのがよいと思います。「三島引き渡し案」から「二島引き渡し、二島共同経営案」に移るということです。
 すでに述べたように、私は一九八六年に「二島返還、四島共同経営」を提案したことがあります。現在日露間では、四島共同開発を進めるという案が漂っているようです。しかし、二島引き渡しということを棚上げにして、四島の共同開発を進めると、二島引き渡しが消えてしまうという事態が生じる恐れがあると見ています。(『領土問題をどう解決するか』(p.180-181)


 和田氏はこの「二島引き渡し、二島共同経営案」の具体的な構想を詳しく語り、最後にこう締めくくります。

 最終的には、クナシリ島と色丹島は、ロシアと日本がそれぞれ領有する島ですが、ロシア人と日本人がまざりあって暮らす日露共生の島、北の夢の島になるのが望まれます。これが現状維持からはじめて、異なる人々の利害の調和にたどりつく道です。北方四島問題の解決とはそういうことではないかと私は考えます。(p.184)


 まるでユートピアですが、こんなことが本当に可能なのでしょうか。
 和田氏の過去の言動と、その後に起こったことをいくつか思い起こすと、疑問に思わざるを得ません。

 和田氏は、ソ連のゴルバチョフ共産党党書記長の時代に、ペレストロイカを礼賛し、新しい社会主義の可能性を説きました。しかしゴルバチョフはクーデターで軟禁され、クーデター失敗後も求心力を取り戻せず、やがてソ連は崩壊しました。
 金日成批判本を日本で出版した亡命北朝鮮人について、実在しないのではないかと主張しました。しかしソ連崩壊後、その実在が明らかになりました。
 謝罪と補償による韓国との和解を説き、村山内閣が設けたアジア女性基金の専務理事、事務局長を務めました。しかし、こんにちでも相も変わらず日本は謝罪を要求され続け、慰安婦問題は未だ日韓の火種となっています。
 北朝鮮による日本人拉致について懐疑的な主張を続けていました。しかし金正日自身が拉致を認めるに至り、氏の面目は潰れました。

 この人はしばしば将来を見誤っていると思います。北方領土問題においても、同様の事態が生じないとは限りません。

続く


「日本に生まれたこと」を「誇りに」?

2013-03-05 08:22:55 | 「保守」系言説への疑問
 数日前にテレビでこんなニュースを聞いて、ちょっと引っかかるものがあった。

 政府の教育再生実行会議は去年、学校でのいじめを巡る問題が全国で相次いだことを受けて、26日の会合でいじめや体罰への対策を盛り込んだ提言を取りまとめ、安倍総理大臣に提出しました。
これについて安倍総理大臣は「教育再生を果たすためには、子どもたちが日本に生まれたことに喜びや誇りを感じられる教育を実現する必要があり、提言は教育再生を実行する第一歩だ。スピード感を持って取り組むよう下村文部科学大臣に指示したい」と述べました。


 人は、ある国に生まれたことに誇りをもてるものなのだろうか。

 首相官邸のホームページにも、安倍首相はこう述べたとある

「ただ今、本会議の第一次提言をいただきましたことに心から感謝し、一言ご挨拶申し上げます。
 日本国の最重要課題である教育再生を果たすためには、まず、子供達が日本に生まれたことに喜びを感じ、誇りに思うことができる教育を実現する必要があります。


 検索してみると、昨年9月に自民党総裁に当選した時や、先の衆院選1月の衆議院本会議など、ずっと繰り返し言ってきたことなんですね。知りませんでした。

「日本に生まれたことに喜びを感じ」
 これはわかる。
 私も、日本に生まれてよかったなとは思う。
 戦乱の絶えない国、飢餓を克服できない国、独裁者の統制の下に呻吟する国などに比べたら。
 そして、素朴に、日本はいい国だとも思う。
 もっとも、私は他国で生活したことがないから、直接の比較はできない。単なる根拠のない印象にすぎない。
 それでも、この国から逃れたいというような不満は全くないし、将来に希望がないとも思えない。

 しかし、
「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」
 これはよくわからない。

 念のため、「誇り」を辞書(デジタル大辞泉)で引くと、

誇ること。名誉に感じること。また、その心。「一家の―」「―を傷つけられる」


とある。
 「誇る」は、

1 すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する。「技(わざ)を―・る」
2 誇示すべき状態にある。また、そのことを名誉に思う。「輝かしい実績を―・る」「長い歴史と文化を―・る都市」


 「名誉」は、

1 能力や行為について、すぐれた評価を得ていること。また、そのさま。「―ある地位」「―な賞」
2 社会的に認められている、その個人または集団の人格的価値。体面。面目。「―を回復する」「―を傷つける」


とある。

 だから、「誇りに思う」とは、その者自身の具体的な長所や美点に対する心理ではないだろうか。
 難関大学に合格したとか、勤め先の業績アップに貢献したとか。
 顧客に強く満足してもらったとか、ある分野で何らかの賞を授与されたとか。
 そういったことなら、「誇りに思う」のは当然だろう。

 しかし、「日本に生まれたこと」は、そういったことだろうか。

 母校が高名な賞の受賞者を輩出したら、何やら自分までもがその賞の近くに位置するような気がするかもしれない。
 知人が高い社会的評価を受けて著名人になったら、何やら自分までもが著名人の仲間になったような気がするかもしれない。
 しかし、それは錯覚であり、自分とは何の関わりもないことだ。

 日本がいかにすばらしい国であろうと、そこに生まれたことには、自分の力は何ら寄与していない。単なる運にすぎない。
 単なる運の良さを、人は「誇りに思う」ことが可能なのだろうか。
 宝くじに当たったことを、自分は天から選ばれた人間なのだと「誇りに思う」人間がいるとしたら、その人はどうかしているだろう。

 戦後の復興や高度経済成長を支えた世代が、我々が日本をここまでにしたんだと誇るというなら、わからないでもない。
 しかし、「生まれたこと」自体は、何ら誇るべきこととは私には思えない。
 
 仮に、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」のなら、他の国に生まれたことは「誇りに思」えないということになる。全ての国がそうでないかもしれないが、少なくともそうした国が存在するということになる。何故なら、上で辞書を引用したように、「誇り」とは他者との比較によって生じる感情だから。
 しかし、人は生まれてくる国を選べない。
 日本に生まれた子供がそのことを「誇りに思う」とすれば、それは、金持ちの子が、貧乏人の子を蔑むのと同じようなものではないか。
 名家に生まれた者が、無名の者に対して、出身を鼻にかけるのと同じようなものではないか。
 人として決して誉められた行いではないのではないか。

 おそらく、安倍首相らが「日本に生まれたこと」を「誇りに思」える教育をと説く真意は、そういうものではないのだろう。
 いわゆる自虐史観、戦前真っ暗史観が未だ払拭されていないのが不満なのだろう。そしてわが国ほど悪い国はこの世にないかのような論評がまかりとおっている現状が歯がゆいのだろう。
 わが国にも良い面は多々あるのであり、そうした自覚を子供時代から持たせたいということなのだろう。

 だとしても、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」心理とは、突き詰めていけば上記のようなものだろう。ちょっとわが国の伝統的な歴史観、国家観とは異なる気がする。わが国の歴史の悪しき面に通じるような気がする。

 日本はこんなにすばらしい、すごいんだ、偉いんだとうつつを抜かしている間に、後発国にあっさり抜かれてしまわないとも限らない。
 単に「感じ」「思う」ことによってどうにかなる部分よりも、実際の学力向上、競争力強化に重点を置いていただきたいものだ。

(関連拙記事「誇るべきものとは」)