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インボイス反対派が根拠とする「判例」について-「対価」への消費税分の上乗せは正当か

2022-11-21 11:26:51 | 現代日本政治
 あまりにひどいと思ったのでブログにアップすることにしました。

 来年10月から実施が予定されているインボイス制度に対して、一部で反対の声が上がっています。
 そうした声の中には、免税事業者が受け取った消費税分は「預かり金」ではなく「対価」の一部であって、「益税」なんてものは存在しない、そういう判例もあると主張するものがあります。




《消費税法上も、判例上も、財務省の見解的にも消費税は預り金ではありません。益税なんてありません。》





《橋下徹が「インボイスで課税逃れをしている事業者が消費税を払うようになっているのだからいいことだ」みたいなことを言っているらしいが、自称法律家のくせに、国税が上訴しなかった「消費税分の代金等は対価の一部」という東京地裁の裁判例を知らないのだろうか。》





《→受託先から消費税を預かってるんだから、ちゃんと払えというのは間違い。

消費税は預り金ではなく、正当な対価であるという判決が出ています。》





《他の方が指摘している通り、消費税は預り金ではありません。
これは過去の地裁判決でも確定していて国は控訴しませんでした。
なので益税は存在しないのです。》

 そんな判例があるのかなあと調べてみたら、全国商工団体連合会(全商連)という団体のサイトに「全国商工新聞 2006年9月4日付
」として

判決確定「消費税は対価の一部」
――「預り金」でも「預り金的」でもない


という記事があって、そこに判例として

《(注1)東京地裁平成2年3月26日判決、平成元年(ワ)第5194号損害賠償請求事件、判例時報1344号115頁。同様の主旨の判示が大阪地裁平成2年11月26日判決、平成元年(ワ)第5180号損害賠償請求事件、判例時報1349号188頁を参照。》

と挙げられていたので、そのうち東京地裁の方を見てみました。
 そして、確かに反対派が主張するような内容もあるにはあるんですが、益税否定論の根拠とするのはあまりにひどいと思ったので、こうしてブログで取り上げることにしました。

 判決全文はこちら
 長いですが、内容はそんなに難しくはありません。

 まず、この裁判は、1988年に法律が成立し、翌年導入された消費税について 諸々の問題点があり、憲法違反であるとして、国及び成立時の首相であった竹下登に対して、損害賠償を請求したものでした。
 免税事業者の件は原告が挙げた多数の問題点のうち1つにすぎません。

 そして、原告が、免税事業者について
 
《業者免税点制度は、免税業者が消費者からの消費税分を徴収しながら、その全額を国庫に納めなくてもよいことを認めている。この制度は、(1)〔引用者註:仕入れ税額控除制度〕と同様に不要な消費税分の転嫁を認めたことにより、全部のピンハネを認めたものである。》

と主張し、被告(国側)が

《消費税は、我が国の企業にとって馴染みの薄いものであり、その実施に当たっては種々の事務負担が生ずるので、その軽減を図る必要があるところ、特に、人的・物的設備に乏しく、新制度への対応が困難であることが多く、かつ、相対的に見て納税関係コストが高く付く零細事業者に対しては、特にこの面での配慮がなされなければならないと考えられる。

以上の点を考慮して、事業者免税点制度が設けられたのであるが、

〔中略〕

事業者が取引の相手方から収受する消費税相当額は、あくまでも当該取引において提供する物品や役務の対価の一部である。この理は、免税事業者や簡易課税制度の適用を受ける事業者についても同様であり、結果的にこれらの事業者が取引の相手方から収受した消費税相当額の一部が手元に残ることとなっても、それは取引の対価の一部であるとの性格が変わるわけではなく、したがって、税の徴収の一過程において税額の一部を横取りすることにはならない。》

と主張したのに対し、判決は、

《(二)  事業者免税点制度
(1) 消費税の適正な転嫁を定めた税制改革法一一条一項の趣旨よりすれば、右制度は、免税業者が消費者から消費税分を徴収しながら、その全額を国庫に納めなくて良いことを積極的に予定しているものでないことは明らかである。同法一一条一項が、消費税を「適正に転嫁するものとする」と規定していることに鑑みると、事業者免税点制度の適用を受ける免税業者は、原則として消費者に三パーセント全部の消費税分を上乗せした額での対価の決定をしてはならないものと解される。したがって、消費税施行にともない、いわゆる便乗値上げが生じることはあり得るとしても、それは消費税法自体の意図するところではない

(2) 右制度の目的は、消費税が、我が国の企業にとって馴染みの薄いものであり、その実施に当たっては種々の事務負担が生じるので、その軽減を図る必要があるところ、特に、人的・物的設備に乏しく、新制度への対応が困難であることが多く、かつ相対的に見て納税コストが高くつくものと思料される零細事業者に対しては、特にこの面で配慮をして、右のような業者を免税業者としたものである。右立法的配慮が明らかに不合理であるということもできない。》

と、国の主張を基本的には認める一方で、免税事業者は対価を決定するに当たって消費税分を上乗せしてはならないのが法の趣旨であると述べています。

 また、「預かり金ではない」との主張については、原告が

《(4) 政府広報における説明

政府広報「消費税って何でしょう。」によれば、消費税を税抜きで処理する場合、課税売り上げに対する税額については「預かり金」、仕入税額控除対象額については「仮払い金」として処理を行うよう指導しているが、右のような処理は所得税法に基づく給与所得者からの源泉徴収額に関する源泉徴収義務者の経理処理と全く同様であり、大蔵省及び自治省もまた消費税の徴収義務者が事業者であって、納税義務者は消費者であるということを前提としている。》

と主張し、被告が

《なお、政府広報「消費税って何でしょう」には、確かに原告ら主張のとおり、所得税あるいは法人税の計算上、税抜きで処理する場合には税額分は預かり金とし、課税仕入れに含まれる税額については仕入れ税額控除対象額は仮払金とすること等の記載があるけれども、これはあくまでも消費税相当額を企業会計上どのように取り扱うかという会計技術に関する説明であり、消費税の納税義務者の問題とは無関係である。
また、原告らの援用する各通達は、消費税法の施行にともない所得税法の所得計算等の適用関係について、その運用の統一を図るために発せられたものであり、所得税相当額は対価の一部を構成するものではないという解釈を前提としたり、あるいは法の明文に反して納税義務者は消費者であるとの解釈のもとに定められたものではない。》

と主張したのに対して、判決は、

《原告の主張する、消費税に関する国税庁長官通達や、政府広報の説明内容は、消費税施行に伴う会計や税額計算について触れたものであって、法律上の権利義務を定めるものではない。そこで述べられていることは、取引の各段階において納税義務者である事業者に対して課税がなされるが、最終的な負担を消費者に転嫁するという消費税の考え方と矛盾するものではなく、消費者が納税義務者であることの根拠とはなり得ない。

以上のとおりであるから、消費者は、消費税の実質的負担者ではあるが、消費税の納税義務者であるとは到底いえない。》

と国側の主張を認めました。

 「預かり金ではない」と判決が認めたというのはこの限りにおいては正しいのですが、ここで言う「預かり金」とは、原告が主張するような、所得税の「源泉徴収義務者の経理処理と全く同様」のものを指すのであって、それに当たらないことは制度上そもそも明白であって、これは原告の主張が無理筋なのです。

 判決は、「その全額を国庫に納めなくて良いことを積極的に予定しているものでないことは明らかである」とし、そもそも上乗せしてはならないのが消費税法の趣旨であるともしているのですから、免税事業者が消費税分を上乗せした対価を得ることが正当であると認めているわけでは決してありません。

 付け加えると、判決は、争点の1つである仕入税額控除制度の是非については

《 先に述べたように、消費税の納税義務者が消費者、徴収義務者が事業者であるとは解されない。したがって、消費者が事業者に対して支払う消費税分はあくまで商品や役務の提供に対する対価の一部としての性格しか有しないから、事業者が、当該消費税分につき過不足なく国庫に納付する義務を、消費者に対する関係で負うものではない。

もっとも、消費税の実質的負担者が消費者であることは争いのないところであるから、右義務がないとしても、消費税分として得た金員は、原則として国庫にすべて納付されることが望ましいことは否定できない。

と述べています(これは免税事業者ではなく課税事業者の話です)。

 そして、この判決は国側が勝訴したのだから、国側が控訴しないのは当然のことです。

 にもかかわらず、インボイス制度反対派は、この判決の中の自説に都合のいい部分だけを切り取って、根拠としているにすぎません。「益税は存在しない」なんてどこにも書いてません。

 インボイス制度の導入により、事務負担の増加とか課税事業者となることを強いられるとか、いろいろ問題があるのはわかります。

 しかし、消費者は、税収となるものと考えて、消費税分を支払っているのです。それが税収にならず、事業者の余禄となることに同意して、消費税分を支払っているのではありません。

 この本質的な点についての説明を抜きにして、ただただ事業者側の都合だけを言い立てても、一般消費者の理解を得るのは難しいでしょう。

(引用文中の太字はいずれも引用者による)


反戦運動は反米運動でしかないことの一例-平岡敬・元広島市長へのインタビューを読んで

2022-11-20 11:48:29 | ウクライナ侵攻
 前回、山本昭宏氏がインタビューで述べているように、日本で反戦運動が盛り上がるのは「米国の戦争」に対してだけだったという話をした。
 そしてそれは、必ずしも山本氏が言うように「『加担すること』と『巻き込まれること』を感じやすい」からだけではなく、要は反戦運動は反米運動の一手段でしかなかったからだという話をした。
 
 そのことを如実に示す記事が、8月17日の朝日新聞夕刊に掲載されていたので取り上げたい。
 平岡敬・元広島市長(任1991~1999)へのインタビュー。

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15390386.html
(核に脅かされる世界に 被爆国から2022)平岡敬さん まず米国が謝らないと
2022年8月17日 16時30分

■元広島市長(94歳)

 在韓被爆者を長年取材し、冷戦終結後の1990年代に広島市長を務めた経験から、私はつねに、米国が原爆投下を謝らない限り、核兵器はなくならないと言い続けてきました。

 ロシアのプーチン大統領が核兵器を実戦使用しかねない発言をしたけれども、核を持っている国はすべてそう思っています。「使うぞ」と言わないだけ。核の保有自体が脅威なのです。

 冷戦が終わった時、これで核兵器の恐怖はなくなったと私たちは思いました。だけど米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。それにウクライナが使われたと私は考えています。

 米国の責任を問わずにきたことが跳ね返ってきている気がします。プーチン氏の立場で考えれば、「米国は実際に核兵器を使ったのに謝ってもいない。米国に責められるいわれは全然ない。使って何が悪い」と

 いま日本で「核共有」や「敵基地攻撃」が論じられていますが、どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因です。

 民衆がナショナリズムに乗ったとき、結局、被害を被るのもすべて民衆です。支配者はほくそえむだけ。そういう構造を変えていかないといけません。

 今の状況はロシアと米国の戦争だと私は思っています。非はもちろんロシアにありますが、「戦争で犠牲になるのは市民だ」と言い続けなければならない。即時停戦させるべきなのに、武器をどんどんウクライナに渡すというのは、もっと戦争しろと言うことです。

 ロシアが武力行使に踏み切った背景もきちっと理解しない限り、この戦争の意味はわかりません。マスコミの仕事は「みんな冷静になれ、冷静になれ」と言うことに尽きると思います。もっと冷静になれ、と。(聞き手 編集委員・副島英樹)

     *

 ひらおか・たかし 1927年、大阪市生まれ。中国新聞の記者として在韓被爆者問題を掘り起こし、91~99年に広島市長。95年にオランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で核兵器の違法性を証言した。著書に「無援の海峡 ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声」「希望のヒロシマ」など。》
〔太字は引用者による〕

 プーチン大統領が核兵器使用を示唆する脅しをしたことも米国のせい。
 きっとロシアが実際に核兵器を使用しても米国のせいだと言うのだろう。

 「米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。それにウクライナが使われた」
 ロシアの言い分そのままではないか。
 「弱体化させようとする基本政策」とは具体的に何を指すのか。
 例えばいわゆるNATOの東方拡大か。
 しかし、国家には、どの軍事同盟に参加するか、あるいはしないかを選択する権利があるのではないか。
 そして、クリミアを支配されたウクライナが、反ロシアに傾くのも当たり前のことではないか。
 それとも平岡氏は、超大国の近隣国には主権など無いとお考えなのだろうか。
 ならばわが国もそうなのか。

 「いま日本で「核共有」や「敵基地攻撃」が論じられていますが、どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因です」
 「どこかの国」が自国を敵視して軍備を増強しているときに、それへの対応を検討することがなぜ「平和を疎外する要因」なのか。
 平岡氏は非武装中立論者で無抵抗主義なのか。

 「民衆がナショナリズムに乗ったとき、結局、被害を被るのもすべて民衆です。支配者はほくそえむだけ。そういう構造を変えていかないといけません」
 それはプーチン大統領に言うべき言葉ではないのか。
 侵略に対して抵抗しようとするナショナリズムが支配者をほくそえますだけのものなのか。
 平岡氏は大東亜戦争での中国の抗戦や東南アジアの反日運動に対しても同じことが言えるのか。 

 「即時停戦させるべきなのに、武器をどんどんウクライナに渡すというのは、もっと戦争しろと言うことです」
 即時停戦は侵攻しているロシアに言うべきことではないのか。
 外国から武器を供与しなければ、国力ではロシアに及ばないウクライナが抵抗を続けることは困難だ。
 抵抗のための戦争であってもしてはならないと言うのなら、それはそれで1つの考えだが。

 「ロシアが武力行使に踏み切った背景もきちっと理解しない限り、この戦争の意味はわかりません」
 何故かこの手の人たちはロシア(ソ連)や中国(中華人民共和国)、北朝鮮などに対してだけはこのように言う。
 わが国が真珠湾攻撃に踏み切った背景、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した背景、米国がベトナム戦争に介入したりアフガニスタンやイラクで戦争をしたりした背景をきちっと理解すべきとは言わない。

 米国が原爆を投下した「背景もきちっと理解」すれば、米国が原爆投下を謝罪する必要はないのかもしれない。しかし彼らはそうは考えない。ロシアの言い分には耳を傾けるべきだが、米国に対してはそうではない。
 米国が核兵器を持っているからといって、ロシアもまた核兵器を持つことが必然ではない。「どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因」なのだとしたら。しかし彼らはロシアに対してはそうは考えない。
 謝罪すべき、譲歩すべきなのは常に米国、そしてわが国の側だけ。
 「非はもちろんロシアにあります」と口では言うものの、ではロシアを制止するための行動は全くとらない。あるのはただ米国批判のみ。

 反戦運動・反核運動が反米運動・反体制運動の一手段でしかないことを実によく示しているインビューだった。