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日々の思いをたまに綴るブログ。

60年安保騒動は「戦後民主主義擁護の闘い」だったか

2023-02-24 08:08:29 | 日本近現代史
(以下の文章は、2020年5月9日に朝日新聞に掲載された、60年安保騒動についての特集記事を読んでの感想である。
 大部分はその頃に書いたものだが、完成させずに放置していて、昨年書き終えたものの、公開するのをを忘れていたものである。
 完全に時機を逸しているが、この感想は今も変わっていないので、これ以上古くならないうちに、公開しておく、)

 2020年5月9日付朝日新聞は「歴史特集 日米安保」の第2回「「転機」 60年安保改定、岸信介の強行と退陣」を載せた。1ページ丸々充てた特集記事だ。
 それを読んで、昨今60年安保が語られるのを聞いて受ける違和感を改めて覚えた。

 かつて軍部と組んで権力中枢を担った岸が戦後に目指したのは、占領下で制定された憲法を改正し、強い国家を再建することだ。吉田が結んだ51年の安保条約は、占領を継続する屈辱的内容だと批判していた。
 岸は、保守勢力を束ねて55年に自由民主党を結成。57年に首相になると安保改定を目指した。岸を反共指導者と見た米国も応じた。60年1月19日、新条約がワシントンで調印された。

 ■もはや問答無用
 この時点で、世論の評価は必ずしも否定的ではなかった。新条約は米国の日本防衛義務を明記し、内政関与につながる「内乱条項」を削除。対等性が増したことは間違いなかった。
 だが、思わぬ展開になった。両国はアイゼンハワー大統領が6月19日に国賓として訪日することで合意。日本としてはそれまでに条約に必要な国会承認を得たい。条約は衆院で承認されれば、参院で承認されなくても30日で自然承認される。訪日1カ月前が衆院のデッドラインになった。
 国会はもめた。条約に定める「極東」の範囲はどこなのか。「事前協議」に日本側の拒否権はあるのか。
 岸は「もはや問答無用というのが偽らざる気持ち」(「岸信介回顧録」)となった。5月19日深夜、警官隊が社会党議員を排除、自民党単独で衆院本会議で会期延長を可決し、引き続き条約承認を決めた。 
 戦前の岸を覚えていた国民は激しく反発した。
 オピニオンリーダーの東大教授丸山真男は訴えた。「権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません」(「選択のとき」)。安保論争は、戦後民主主義擁護の闘いとなった。
 

 ここに書かれている旧日米安保条約と改定後の対比は正しい。

 旧条約は、日本は自国を防衛する有効な手段を持たないから、米国の駐留を「希望する」となっている。しかし、米国に日本を防衛する義務があるとはなっていない。
 おまけに、第1条では、

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


と、外国によつて引き起されたわが国の内乱や騒擾に対しても米軍が出動できるとなっている。

 これを改め、米国の日本防衛義務を明記し、内乱条項を削除したのが、1960年の新条約である。
 結構なことではないか。

 では何故、あれほどの広範な反対運動が起こったのか。
 記事が述べるように、岸政権がアイク訪日に合わせてデッドラインを引き、衆院で強行採決を行い、それに世論が強く反発したのは事実である。
 だが、それ以前から、安保改定は政治の争点になっていた。

 1959年3月、「安保改定阻止国民会議」が結成された。これは、社会党、総評、中立労連、原水協(原水禁が分裂する前の)、日中国交回復国民会議など13団体が幹事となり、当初134の団体が参加した。翌年3月には1633団体にまでふくれあがったという。共産党はオブザーバーとして参加した。
 国民会議は計19回に及ぶ統一行動を実施した。その参加者は労働組合員と全学連の学生が大多数を占めていた。

 では何故、社会党や共産党は安保改定に反対したのか。
 彼らは、そもそも、旧安保条約にも、それと同時に結ばれたサンフランシスコ平和条約にも反対であり、在日米軍にも自衛隊の存在にも反対だった。
 東西対立の時代に、西側の一員であること自体に反対し、非武装中立を主張していた。
 1959年3月、社会党の浅沼稲次郎書記長は、北京での演説でこう述べた(当時まだ日中に国交はなかった)。

極東においてもまだ油断できない国際緊張の要因もあります。それは金門,馬祖島の問題であきらかになったように,中国の一部である台湾にはアメリカの軍事基地があり,そしてわが日本の本土と沖縄においてもアメリカの軍事基地があります。しかも,これがしだいに大小の核兵器でかためられようとしているのであります。日中両国民はこの点において,アジアにおける核非武装をかちとり外国の軍事基地の撤廃をたたかいとるという共通の重大な課題をもっているわけであります。台湾は中国の一部であり,沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います。(拍手)〔太字は引用者による〕


 いわゆる「米帝国主義は日中国民共同の敵」発言である。
 ここに見られるように、台湾は中国に併呑されるべきだというのが、当時の左翼の立場だった。
 もちろん、朝鮮半島においては北朝鮮が正統な政権であり、韓国は米帝国主義の傀儡だと見ていた。

 1959年7月、社会党右派の西尾末広は、現行条約に代わる新しい安保体制をどうするかという具体的な対案のない単なる反対運動は駄目だという趣旨の発言をして、左派の反発を招いた。同年9月の党大会では西尾を除名するかどうかが問題となり、統制委員会に付することになった。西尾は10月に離党し、1960年1月に民主社会党(のちの民社党)を結党した。

 また、1959年3月、砂川事件について、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、在日米軍の存在は憲法違反であるとの判決を言い渡した(12月、最高裁判決により破棄)。

 このような時代背景を忘れてはならない。

 「「極東」の範囲はどこなのか」は確かに国会で論戦となった。
 しかし、「極東」の範囲を明確にすることに何の意味があったのか。
 原彬久『岸信介』(岩波新書、1995)にこうある。

社会党の安保特別委員の一人飛鳥田一雄は、「あの議論はわれわれ自身バカバカしいと思ったが、大衆性があった」と回想する(飛鳥田インタビュー)。
 確かに「極東の範囲」は、理論的にはほとんど意味をなしていなかった。なぜなら、在日米軍の行動はそれが「極東の平和と安全」(第六条)を目的とする限り、地域的に制約されないのであって、「極東の平和と安全のためならば極東地域の外に出て行動してさしつかえない」(『安全保障条約論』)という旧条約上の論理は、新条約においても正しいからである。(p.217)


 岸が「もはや問答無用」となったのは何故だろうか。
 それは、院外の反対運動の盛り上がりに加え、野党第1党である社会党の姿勢に全く妥協の余地がなかったからである。
 原の同書にはこうもある。

「政府与党が批准を断念する以外に社会党が納得する方法がないとすれば、もはや問答無用というのが偽らざる気持ちだった」(岸インタビュー)(p.218)


 少数党が座り込み、院外で反対派が吠え立てれば、審議を中止して批准を断念するのが、戦後民主主義のあり方なのだろうか。
 それでは、少数派が多数派を支配することにならないか。

 仮に安保改定が成立していなければどうなっていただろうか。
 安保改定は、もちろん米国が持ち出した話ではない。岸が主導して、米国を了承させたものだ。

 米国は岸を信頼して不利になる条約改定に応じたのに、それが日本国内の事情で失敗に終われば、米国のわが国に対する不信感は増しただろう。
 改定は遠のき、わが国にとって不利な条約が継続することになっただろう。沖縄や小笠原の米国からの返還だって、どうなったかわからない。

 また、社会党や共産党、労働組合や全学連はいざしらず、国民一般は、岸の強引な政治手法に反発したのであって、安保改定そのものはもちろん、日米安保にも自民党政権の継続にも必ずしも反対ではなかった。
 だから、岸退陣後に成立した池田政権に退陣が要求されることはなく、1960年11月に行われた衆院選は自民党の大勝に終わった。
 日米安保条約は、改定により10年ごとに延長されることになった。1970年の延長に際しては、学生運動が延長阻止を主張したが、それは国民に広く浸透することはなかった。そして、80年から後は延長が政治的争点になることもなかった。
 1993年に自民党が下野し、誕生した細川政権の一員となった社会党は、自衛隊を合憲と認めた。

 とすれば、岸信介の決断は正しかったのではないか。
 となると、安保闘争は誤っていたということになるのではないか。

 この朝日の記事で、山本悠里記者は、

 ■闘争の意味は、終わらぬ問い
 国会議事堂を幾重にも人が取り囲み、抗議の叫びが続く。平成生まれ、28歳の私にとって、「60年安保」とは白黒の映像や写真だ。しかし、今と断絶した昔話ではない。あの闘争とは何だったのか。市民の怒りは無力だったのか。60年安保の意味を、なおも問いかける人々がいる。


として、反対運動に加わった父をもつ木版画家と、2015年にSEALDsで安保法制に反対した活動家の発言を紹介し、

 風間さんや牛田さんを通じて浮かぶのは、直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義ではないか。


と述べている。

 こんにちでも、安保改定は誤っていた、旧条約のままで米国にわが国の防衛義務など持たせない方がよかったと思うのなら、そう主張すればよい。
 あるいは、在日米軍も自衛隊も不要である、非武装中立を目指すべきだと思うのなら、そう主張すればよい。
 そうするわけでもなく、「あの闘争とは何だったのか」との問いに、「直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義」などを説いて、何になるというのだろうか。
 そんなものは、わが国は米英の侵略を防ぐためやむにやまれず立ち上がったとか、大東亜解放のための戦争だったとかいったフィクションを信じ、特攻に殉じた若者の純粋さを賛美する姿勢と何も変わらないのではないか。


小池都知事が朝鮮人虐殺への追悼文を断った件について

2017-08-28 07:07:41 | 日本近現代史
 8月24日、ツイッターで東京新聞のこんなニュースが引用されているのを見た。

関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る
2017年8月24日 朝刊

 東京都の小池百合子知事が、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)で九月一日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが分かった。例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請し、歴代知事は応じてきた。小池氏も昨年は送付していたが方針転換した。団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、近く抗議する。 (辻渕智之、榊原智康)

 追悼文を断った理由について、都建設局公園緑地部は本紙の取材に、都慰霊協会主催の大法要が関東大震災の九月一日と東京大空襲の三月十日に開催されることを挙げ、「知事はそこに出席し、亡くなった人すべてに哀悼の意を表しているため」と説明。「今後、他の団体から要請があっても出さない」としている。

 追悼文は一九七〇年代から出しているとみられ、主催者によると確かなのは二〇〇六年以降、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池各知事が送付してきた。

 追悼式が行われる横網町公園内には、七三年に民間団体が建立した朝鮮人犠牲者追悼碑があり、現在は都が所有している。そこには「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。

 追悼碑を巡っては、今年三月の都議会一般質問で、古賀俊昭議員(自民)が、碑文にある六千余名という数を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名、虐殺の文言がある」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。

 これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁しており、都側はこの質疑が「方針を見直すきっかけの一つになった」と認めた。また、都側は虐殺者数について「六千人が正しいのか、正しくないのか特定できないというのが都の立場」としている。

 式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長(76)は「犠牲者数は碑文の人数を踏襲してきた。天災による犠牲と、人の手で虐殺された死は性格が異なり、大法要で一緒に追悼するからという説明は納得できない」と話した。

<関東大震災の朝鮮人虐殺> 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが広がった。あおられた民衆がつくった「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された。通行人の検問が各地で行われ、殺害には刃物や竹やりなどが用いられた。


 この記事を引用していた方は、ツイートでこう批判していた。

《天災の死者、戦災で亡くなった自国民の追悼はもちろんだけど、それとは別個に「流言飛語で自国民が殺した国内の外国人」に対する言葉が必要なのは当然で、謝罪どころか追悼文まで辞めるのか。マジかこれ。東京五輪を前にしてこんな振り切れ方するのか。》

《これトランプ大統領が彼の支持層である白人主義者やネオナチを非難しなかったのと同じで、小池都知事の支持層には関東大震災朝鮮人虐殺否認論者がいるんですよ。だから記者は小池都知事に聞かないと。「あれは虐殺ですよね」と。構造全く同じですよこれ》

 確かに、天災による死者と、流言飛語が原因とはいえ、人に殺された死者とは違う。
 だが、「それとは別個に」「言葉が必要なのは当然」なのか。
 また、「謝罪どころか追悼文まで」と言うが、流言飛語が原因の94年前の虐殺について、小池都知事がどういう立場で何を謝罪するのか。

 この都知事の対応は、そこそこ話題になり、26日には朝日新聞の天声人語が次のように取り上げた。

(天声人語)関東大震災の教訓
2017年8月26日05時00分

 関東大震災の混乱のさなか、ある銀行員が見聞きしたことである。広場で群衆が棒切れを振りかざしている。近づいてみると大勢の人たちが1人の男を殴っている。殺せ、と言いながら▼「朝鮮人だ」「巡査に渡さずに殴り殺してしまえ」との声が、聞こえてくる。「此奴(こやつ)が爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思ふと、私もつい怒気が溢(あふ)れて来た」(染川藍泉〈らんせん〉著『震災日誌』)。朝鮮人が暴動を起こしたとの流言飛語が、飛び交っていた▼人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。「一五円五〇銭」と発音しにくい言葉を言わせ、日本人かどうか調べた例もあった。あまりに多くの朝鮮人が虐殺された▼差別的な振る舞いや意識があったがゆえに、仕返しを恐れたか。官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。「当局として誠に面目なき次第」と警視庁幹部だった正力松太郎が後に述べている。不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である▼そう考えると、首をかしげざるをえない。朝鮮人犠牲者を悼む式典に、小池百合子東京都知事が追悼文を送らない方針だという。例年とは異なる判断である。都慰霊協会の追悼行事があるので、「個々の行事への対応はやめる」のが理由というが、見たくない過去に目をつぶることにつながらないか▼今からでも遅くない。方針を改め、追悼文をしたためてほしい。大震災から94年となる9月1日。風化を許してはいけない歴史がある。


 「不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である」
 全くそのとおりである。
 そして、その後わが国は敗戦と占領を経験し、阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめとする大災害をも経験してきたが、他民族の虐殺が再現することはなかった。
 我々は教訓を忘れてはいない。

 ところで、東京新聞の記事には、「式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長」のコメントが載っている。
 日朝協会とは何だろうか。
 1955年に結成された、日本と北朝鮮との友好関係を深めようとする、日本人によって作られた団体である。
 協会のサイトにこう書いてある

Ⅱ 日朝協会は1955年11月、日本の中の良心的進歩的な人びとによってつくられました。日本が進めた朝鮮植民地支配やアジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った人々の伝統を受けついで、1950年~53年の朝鮮戦争に反対し、アジアと世界の平和を願う国民的な運動の中から結成された団体です。


 「アジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った」とは、日本共産党が自画自賛するときに使う言葉である。
 日本共産党は1968年までは北朝鮮と親密な関係にあった。日朝協会はその共産党の外郭団体のような存在であった。
 今では悪名高い北朝鮮への帰国運動を推進し、また日本と韓国が国交を正常化しようとする日韓会談に反対した。
 北朝鮮と日本共産党との関係が断絶した後、日朝協会が何をしていたのか私はよく知らないが、サイトを見ると、金大中への支援や、反核運動、戦後補償運動などを行ってきたとある。

 そのような団体が、何故、何のために、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」を主宰するのだろうか。
 日朝協会のブログに掲載された小池都知事への抗議声明によると、

 関東大震災50年にあたる1973年に朝鮮人犠牲者を心から追悼し、不幸な歴史を再び繰り返させないことを誓い東京都横網町公園に朝鮮人犠牲者追悼碑が設置された。以降、毎年9月1日に関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が執り行われてきた。
 東京都知事はこれまで同式典に追悼の辞を寄せてきた。都知事追悼の辞は式典で読みあげられ参列者らに紹介されてきた。


とある。
 1973年といえば、美濃部亮吉の革新都政の時代である。また、前年には日中共同声明が発表されて中国との国交が正常化し、本多勝一の『中国の旅』が刊行されるなど、わが国の大東亜戦争や植民地支配における加害性が意識され始めていた時期である。
 そんな雰囲気の中で、追悼碑の設置も受け入れられたのだろう。

 しかし、それから既に半世紀近くが過ぎている。もはや関東大震災を体験した人はほぼいない状態である。そして、わが国であのような虐殺が再現することもなかった。
 なのに、未だに追悼を続けなければならないのだろうか。
 いや、追悼したい人がするのはいい。それに都知事がいつまでも付き合わなければならないのだろうか。

 日朝協会のブログを見ていると、今年6月5日付のこんな記事があった。
 
「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」撤去の動きについて/李一満
日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復を

〔中略〕

08年8月9日、東京で「関東大震災85周年朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」が、13年8月22日から23日にかけてソウルで「関東大震災90周年韓日学術会議 関東大震災と朝鮮人虐殺事件」が開催された。

関東大震災と朝鮮人虐殺研究における3人の泰斗が、二つの国際シンポで明らかにした見解は、次のとおりである。

朝鮮大学校図書館・琴秉洞元副館長は、日本の近代史と現代史の分岐は1923年9月1日の関東大震災であるとしつつ、侵略と殺戮にまみれた日本現代史は関東大震災時の朝鮮人虐殺に始まると見た。元副館長は朝鮮人虐殺事件の本質は、国家犯罪であり民族犯罪だと看破した。国家犯罪である所以は、大虐殺の引き金となった戒厳令を政府治安担当の指導的人物(内務大臣、警保局長、警視総監)が起案・執行し、国家機関・権力機関、即ち軍隊、警察が虐殺を先導し、さらには朝鮮人暴動流言を内務省が伝播したからである。民族犯罪である所以は、虐殺された朝鮮人の圧倒的多数が自警団員、青年団、またはその他の日本民衆によって殺されたからである。

立教大学・山田昭次名誉教授は微視的に観察し、在日朝鮮人労働者や社会主義者・無政府主義者の運動と、日本人の社会主義者や労働者との間に生じた連帯の萌芽に危機を感じた官憲の動向に、関東大震災時の官憲主導の朝鮮人虐殺の原因を見た。また、朝鮮人が暴動を起こしたと誤認した官憲の責任のみならず、誤認に気づいた後も朝鮮人暴動説を主張して誤認の国家責任を隠した官憲の事後責任も追及し、天皇制国家に心服し、朝鮮人虐殺を愛国的行為と考えた多くの日本人民衆にも責任があるとした。

滋賀県立大学・姜徳相名誉教授は、関東大震災時に布告された戒厳令を重視し、朝鮮人暴動の流言の発生源として官憲説を取る。軍隊が戒厳令に基づいて朝鮮人虐殺を始め、さらに在郷軍人・青年団員・消防団員、その他の民衆によって構成された自警団がこれに加わったと見るのである。また戒厳令布告の背景として日本の朝鮮侵略の過程、特に朝鮮に対する植民支配の下で行われた朝鮮人の抵抗に対する過酷極まりない軍事的弾圧を挙げる。言い換えれば、朝鮮に対する日本の侵略と植民支配の歴史に対する巨視的な視点から、関東大震災朝鮮人虐殺事件を見たのである。

泰斗たちの見解は、朝鮮人虐殺の歴史的背景には朝鮮植民地支配と朝鮮人民の抵抗運動(3.1人民蜂起)に対する日本官憲の恐怖があり、ジェノサイド、大人災の直接的かつ最大の原因は戦争でもないのに戒厳令を実施したためである、ということである。

東京では「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」(10年9月24日)が、ソウルでは国会議員、弁護士、牧師、学者、市民、遺族等により「関東大震災朝鮮人虐殺事件の真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法推進委員会」(14年5月26日)が結成された。朝鮮民主主義人民共和国の歴史学会も1960年代から朝鮮大学校と連携し、関東大震災朝鮮人虐殺事件の調査・研究を進めてきた。

関東大震災95周年や100周年に際し、朝鮮大学校が呼びかけ三者のシンポジウムを開けば、闇にうずもれている事件の真相が解明され、日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復が大きく前進するであろう!


 この記事は、朝鮮総聯の機関紙である朝鮮新報のサイトから転載されたもののようだ。筆者の李一満氏は「東京朝鮮人強制連行真相調査団 事務局長」との肩書だが、東京朝鮮中・高級学校などで教員を務めた人物である。
 朝鮮総聯と日朝協会は同一の団体ではないが、こうした記事を日朝協会が注釈なしに転載するのだから、日朝協会もこの問題については同様の立場であると見てよい。

 東京新聞の用語解説が
「「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された」
とし、天声人語が
「人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。……官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。」
としているように、虐殺の主体となったのは自警団を組織した民間人だったというのが一般的な理解である。ところが李一満氏は、軍や警察が虐殺を先導し、内務省が流言飛語を伝えたといった学説を持ち出している。

 つまり、彼らは、朝鮮人虐殺について、わが国の国家責任を追及し、謝罪と補償を求めているのである。
 単に「風化を許してはいけない」といった思いで追悼しているのではない。

 したがってこれは、東京新聞が報じている、単なる碑文の犠牲者数をめぐる問題ではない。それは都が言うように「見直すきっかけの一つ」にすぎない。
 このような団体が主催する「追悼式」に、都知事が慣例にのっとっていつまでも追悼文を贈り続けることが、果たして妥当なのだろうか。


1993年の総選挙で「野党全体では躍進」していないし「自民党を過半数割れに追い込」んでもいない

2013-12-25 00:10:33 | 日本近現代史
 朝日新聞朝刊の経済面に毎週月曜「証言その時」が連載されている。過去に活躍した経済人などのインタビューを何回かに分けて掲載するもので、最近は「小異を捨てて」と題して山岸章・連合元会長(任1989-1995)の回顧が取り上げられている。
 12月16日に掲載された「小異を捨てて」の第4回「悪魔とも手を組もう」に、自民党が初めて下野した1993年の総選挙について次のような記述があるのを見て、あれれと思った。

 総選挙は私の誕生日の7月18日と決まりました。7月初め、労組代表者と社会、公明、民社など各党首らを集めます。政策のすりあわせをしていなかった日本新党の細川氏や新党さきがけの武村正義代表も呼びました。

 「自民党政権を打倒するため、新しい仲間も支持して戦おう」と呼びかけ、各党首らが決意表明をしました。盛り上がったまま、選挙戦に突入したのです。

55年体制が崩壊

 選挙の結果、社会党は議席数半減の大敗だったが、野党全体では躍進した。自民党を過半数割れに追い込み、自民一党支配の「55年体制」が崩壊した。


 太字部分は原文ではゴシック体。山岸の証言ではなく記者による説明文だ。記事には「聞き手・豊岡亮」とあるのでこの記者によるものか。

 こうして歴史は誤って伝えられていくのかなあ。

 自民党を離党した小沢、羽田らが新生党を、同じく武村らがさきがけを結党したことにより、自民党は選挙前に既に過半数を割っていた。選挙の結果過半数割れに「追い込」まれたのではない。
 そして、「野党全体では躍進」してもいない。選挙後の各党の議席と公示前からの増減は次のとおりだ。


自民党    223   +1

野党・無所属    288   -2
 社会党    70   -66
 新生党    55   +19
 公明党   51   +6
 日本新党    35   +35
 民社党   15   +1
 新党さきがけ   13   +3
 社会民主連合    4   ±0
 共産党     15   -1
 無所属   30   +1


 自民党は1議席増やしている。記事にもあるように社会党がほぼ半減し、共産党も1議席減らした。
 自民党が+1、野党・無所属が-2で全体の増減が-1となるのは、人口の変動により衆議院の定数が512から511に改められたからだ。

 要するに、新生党とさきがけの離脱による自民党の過半数割れが維持され、新勢力である日本新党が躍進し、新生、公明、さきがけも議席を増やす一方、社会党がひとり負けした選挙だったと総括できる。

 また、日本新党とさきがけは 選挙中は必ずしも反自民を鮮明にしておらず、自民党との連立の余地を残していた(宮沢内閣不信任案に賛成した後自民党を離党した新生党は、反自民を鮮明にしていた)。この箇所の後で山岸も述べているように、選挙後の小沢らの多数派工作により初めて連合政権への参加を表明したのだ。
 したがって、国民は必ずしも自民党政権の継続を拒否したとは言えない。劇的に議席が変動して政権が交代した前回や前々回の総選挙とは異なるものだった。
 そんなことは、日本政治史における常識として、頭に置いておきたいものだ。


田中六助の保守本流観――『保守本流の直言』感想

2013-11-20 00:32:00 | 日本近現代史
 以前から気になっていた田中六助著『保守本流の直言』(中央公論社、1985)を古本屋で見つけて購入し、読んでみた。

 田中六助(1923-1985)は昭和戦後の政治家。早稲田大学政経学部卒。日本経済新聞社に入社しロンドン支局長、政治部次長を経て、池田勇人の秘書となり政界入り。衆院旧福岡4区から当選8回。大平内閣で官房長官、鈴木内閣で通産相、中曽根内閣で自民党政調会長、幹事長を務めた。自民党では宏池会(現岸田派)の幹部となり、鈴木善幸の後継会長の座を宮沢喜一と争ったが、1985年1月31日病死。享年62。同月発行された本書が遺著となった。
 官僚出身者が多く「お公家集団」とも揶揄される宏池会の中では異色の政局向きの人物であったとされる。

 宏池会と言えば保守本流でハト派(本書でも田中は「護憲派」を自称している)。そして本書が刊行された1985年は中曽根時代。「戦後政治の総決算」を掲げ、タカ派とされた中曽根を保守本流の立場から諫めるといった内容なのかとタイトルから勝手に想像していたが、全然違ってた。

 本書の構成は次のとおり。

序章 いま、なぜ中曽根か
第一章 薄氷の中曽根再選
第二章 「連立」への決断
第三章 二階堂擁立工作の根
第四章 私の保守本流論
第五章 「資産倍増論」について
あとがき

 そして、資料として

1983年1月31日の通常国会での自民党代表質問
1984年1月26日の自民党大会での幹事長としての党情報告
同年8月26日の地元田川市での講演
1982年10月から1984年11月までの政治日誌(当時の政治情勢を時系列に記したもの。本書の理解を助けるためのものと思われる)

が収録されている。
 政治日誌の末尾には〔作成 松崎哲久〕とある。自民党で研究員を務め、のちに佐藤誠三郎との共著『自民党政権』(中央公論社、1986)を刊行し、その後日本新党に参加したが除名され、民主党で衆議院議員2期を務めた松崎氏のことだろう。
 第一章から第三章には冒頭に「この章のながれ」という解説があり、末尾に「(M)」と書かれている。これも松崎氏によるものか。

 序章から第三章までは、中曽根の総裁再選とそれを阻止しようとする二階堂擁立工作、また新自由クラブとの連立といった当時の政治情勢に関する証言や資料が中心となっている。
 これはこれで貴重な証言だろうが、私が興味深く読んだのは、第四章の「私の保守本流論」だった。
 先に述べたように、保守本流として中曽根路線を批判しているのではないかというのは、私の勝手な思い込みであった。田中はこう述べている。 

 「保守本流」とは何か、という命題を考えてみると、つまるところ、日本政治の運営に責任をもち、その自覚と能力がある政治家や集団のことをさすのだと思う。換言すれば「統治責任」ということである。もちろん保守本流については多様な定義が可能であり、たとえば、吉田学校の系譜を引くか否かを条件とすることがある。そしてこの方法は、必ずしも一般に首肯しがたいものではない。しかしながら、戦後四十年になろうとする今日、先代の先代が誰か、というような詮索はもはや第二義的な問題と言うべきであろう。
 池田さんや佐藤さんが保守本流であることは何ぴとも疑いをいれないし、大平元総理、田中元総理がその派閥を引き継いだことも事実であるが、用はこれらの先輩政治家は戦後改革という極めて重大な時期に、吉田さんをたすけ、吉田さんの政権を担ってきたことによって、意識も行動も保守本流に徹底したわけである。なにもその派閥に属しているから本流、属していないから傍流という色分けはできないと思う。
 そこで吉田さんの政治は何かというと、戦後の大変な混乱期に政権を担当して、ともかくも国民を生活させなければいけない、国民が安心して暮らせるようにしなければならない、それから日本の伝統で守るべきものは守らなければならない、ということでGHQとの交渉に努めながら、政治を実践したのであり、それを一言で表わすと統治責任ということになる。批判だけでは政治はできない、キレイごとでは飯は食えないということを知悉していたのである。
 全面講和か単独講和か、などというときにも、統治責任ということを考えれば答はおのずから決まる。そのときそのときの現実を踏まえて、最もよい選択を積み重ねていくのが責任政治家のなすべきことであって、対米協調路線、あるいは今の言葉でいえば西側同盟の一員であることは保守本流のベーシック・ラインなのである。〔中略〕
 だから吉田さん自身、自分の流れに連なるから本流、そうでなければ傍流などという考え方をする筈はないのである。第一、そうしたら岸さんが本流でないことになってしまう。
 現在の政治家で、およそ岸さんほど統治責任ということを重く考えている政治家はいないのではないか〔引用者註:この時点で岸信介はまだ健在だった。1987年8月死去〕。六〇年安保当時、大衆に迎合するのではなく、何が日本にとって真に必要なことかということを考えて政治的決断を下した。そして「日米新時代」を開いたからこそ、今日の日米関係があると言えるのである。〔中略〕今となっては、当時の岸さんの決断が誤っていたと自信をもって言える者はおそらく一人としていないであろう。(p.118-120)


 そして田中は、二階堂擁立工作のように与党の党首選びに野党が参画することを、議会制民主主義からの逸脱であり保守本流ならば逡巡すべきことと批判し、さらにこう述べる。

 大磯で吉田さんと会ったときに、さかんに戦前政治からの流れを強調していたことを思い出す。保守本流という考え方を戦前にもあてはめることが適当かどうかはわからないが、明治以来の議会政治の伝統のもとに今日の政党政治が開花していることは疑いをはさむ余地はない。特に大正デモクラシーによって確立された「憲政の常道」は政友、民政の政権交代を政治原理としたのであって、議会政治は決して戦後の産物でも占領行政の賜物でもない。しかし、保守本流の定義を、統治責任をもつ集団とするならば、戦前の政党は必ずしも本流とは言い難い。超然的な官僚制が確固とした力を持っていたのが、明治憲法体制であったし、軍部の台頭によって政党政治の時代は幕を閉じてしまった。軍国主義が勢いを得た時代に、政党はむしろ統治責任を全うできなかった過去を背負っているからである。
 吉田さんが強調した戦前政治の流れというのは、官僚制と宮中に残されたリベラリズムだったという指摘に私も同感する。吉田さんは牧野伯(伸顕)の女婿として、また外務次官を務めた官僚としてこの流れの接点に位置している。宮中リベラリズムの巨頭は、かつての政友会総裁である西園寺公であるから、伊藤、西園寺、原と続いた政友会の本流は、昭和の政党ではなく宮中へと流れ込んでいく。戦後の政治を一身に背負った吉田さんは、そこに本流を見たのであろう。そうすれば鳩山一郎さんのことを「本流じゃないんだ」としきりに言っていたことも合点がいく。もちろん、吉田・鳩山の確執で割引くべき部分もあろうが、統治責任を全うし得なかった戦前の、特に昭和初期の政党に対する見方が辛辣だったのは当然であろう。そして政権担当能力を喪失した政党に、池田さんや佐藤さんをはじめとする高級官僚を招き入れることによって、新しい保守本流を形成したとの自負があったに相違ない。(p.127-129)


「戦前の政党は必ずしも本流とは言い難い」
「政友会の本流は、昭和の政党ではなく宮中へと流れ込んでいく」
「鳩山一郎さんのことを「本流じゃないんだ」としきりに言っていた」
 こうした視点は私にはなかった。実に意外だった。
 というのは、議会政治は戦後に始まったわけではなく、明治時代から連続しているものであると語られる時に、その連続性の証左として、鳩山一族の存在が取り上げられることがしばしばあるからだ。鳩山由紀夫・邦夫の祖父一郎は戦前からの衆議院議員であり、その父和夫も明治時代に衆議院議員や議長を務めた。
 しかし、吉田に上記のような視点があったのなら、鳩山一郎をはじめとする戦前からの党人派政治家に対して、吉田が冷淡であったことにも納得がいく。

 田中は続けて、「中曽根総理は保守傍流であるという人がいるが、それは適当でないと私は思う」として、系譜は関係ないし、中曽根は日米基軸外交の堅持も、規制緩和など自由主義経済体制の擁護も誰よりも積極的に推進しているし、議会制民主主義という基本線から離れることもあり得ない、中曽根は保守本流を正しく受け継いでいると評価している。
 また、中曽根の「戦後政治の総決算」という標語は、戦後民主主主義の否定ではなく、現実の変容に手段方法を変えるものであり、

 戦後政治が大きな成果をあげたことは言うまでもない。成果があがったからこそわが社会は変貌を遂げた。そして社会が変貌すれば、見直しが必要な部分が出てくるのが当然なのである。吉田さんが今日の政治家であれば、必ず「戦後政治の総決算」を唱えるに違いない、と私は思う。それが保守主義、保守本流の政治だからである。(p.130)


と述べている。

 田中はさらに、「宏池会の同志諸君へ」と題して、

 中曽根総理は、出自は保守傍流かも知れない。しかし、その政治は保守本流の政治である。そして翻ってかえりみれば、たとえ保守本流の系譜をひく政治家であっても、それだけでは保守本流の政治をおこなうものとは言えないのである。
〔中略〕
 伝統や系譜に安住していては宏池会政権は生まれない。宏池会の指導者には、保守本流政権を担う自覚と責任が必要である。担うべき政治家がいなければ、育てなければならない。そして育つあいだは、保守本流政権を支えていかなければならない。それが政治の王道である。
 私は宏池会の一員としての誇りを、いつまでも持ち続ける。そして宏池会を主軸とした保守本流政権が再現する日を、千秋の思いで待つ。その日が到来するまで、否、その日を到来させるため、同志諸君よ、一緒に手を携えて努めていこうではないか。


と述べて、この章を締めくくっている。

 第五章の「資産倍増論」とは、本書によると、宏池会が1984年6月6日発表した、同年秋の総裁選へ向けての政権構想だという(この総裁選では結局中曽根が無投票で再選された)。
 田中はこれに対して、資産倍増とは池田勇人の所得倍増計画のもじりだろうが、哲学あるいは「心」が提示されておらず、宏池会の伝統からは少し外れるもので、宮沢喜一の認識とも違うのではないか(当時宮沢が宏池会の総裁候補だったのだろうか)と疑問を呈している。
 そして、保守本流は批判よりも実行を考える、バラ色の夢を与えるよりも痛みがあっても必要なことを言う、現実に生活している人々に対する責任をまず第一番に考えるところから始まるものだが、資産倍増論のある部分は、実際の政治のプロセスを抜きにして理念、理想だけを論じているように感じられる、宏池会が位置してきた保守本流の道筋からずれてしまうのではないかと懸念を表明している。

 宏池会政権の復活を祈念した田中だったが、ライバルだった宮沢喜一を最後に、宏池会から首相は出ていない。宮沢も当時の自民党を牛耳っていた竹下派に用いられた印象が強い。宏池会出身の河野洋平と谷垣禎一は、共に野党の総裁という損な役回りを引き受けることとなった。
 宏池会における宮沢の後継が加藤紘一となったことに反発した河野洋平は1998年に宏池会を離脱し、河野グループを形成した。これが現在の麻生派となる。
 残った宏池会も、2000年のいわゆる「加藤の乱」を機に、加藤派と堀内光雄らの反加藤派に分裂した。加藤派は谷垣が、堀内派は古賀誠が継承し、2008年に両派は合流したが、2012年の自民党総裁選を機に谷垣グループが再び離脱し、残った岸田派ともども、昔日の勢いはない。
 田中が切望した「宏池会を主軸とした保守本流政権が再現」する日は来るのだろうか。

 中曽根を「出自は保守傍流かも知れない」としつつ「その政治は保守本流の政治である」と評した田中がもし健在なら、岸信介に連なる安倍晋三による現政権をどう評しただろうか。
 田中が本書で述べていることに照らすと、やはり「保守本流」と評したのではないかと、私には思える。


ドミニカ移民問題についての朝日新聞のコラムを読んで

2013-11-14 00:25:13 | 日本近現代史
 10日付朝日新聞の「ザ・コラム」欄で、大久保真紀・編集委員がドミニカ移民問題と小泉首相の談話を取り上げている。

(ザ・コラム)ドミニカ移民 小泉談話の持つ力 大久保真紀


 私がこの問題を初めて知ったのは、確か2001年に出版された若槻泰雄の『外務省が捨てた日本人』(毎日新聞社)によってだったと思う。
 若槻の著作はそれまでに『韓国・朝鮮と日本人』『日本の戦争責任(上・下)』『売文業者たちの戦後責任』(いずれも原書房)を読んでおり、信頼できる書き手だと思っていたこと(天皇制批判は激烈だが、スジは通っている)と、題材に興味を惹かれて購読した(たしか当時の外務省バッシングの流れの中で刊行されたように記憶している)。

 私はそれまで、日本人の移民についてほとんど何も知らなかった(今もそれほど知らないが)。
 ハワイやブラジルなどに移民が行われ、苦労された人々が数多くいたことは知っていたが、明治時代のことだと思っていた。
 戦後の、それも昭和30年代に、官の募集により移民が行われていたとは思いもしなかった。
 しかも、それが実質的には棄民と言っていいほどのものだったとはなおさら。

 その後、ドミニカ移民らが国を提訴したものの、時効を理由に棄却されたこと、しかし政府は責任を認め、当時の小泉首相が謝罪談話を出し、移民らに見舞金が支払われたことを報道で知った。良かったなあと素直に思ったものだが、コラムにはさらにこうあった。

 その裏に、裁判を傍聴し、移住者を支援した元厚生労働相で自民党参院議員の尾辻秀久さん(73)の存在がある。尾辻さんはこの問題に興味をもち、外務省の役人を呼んで説明を求めた。が、「ホームページを見て下さい」。その態度にあきれ、自ら調べるようになり、現地にも足を運んだ。

 首相だった小泉さんとは怒鳴り合いのケンカをしたこともある仲だったが、首相談話を出す際、「謝るならきちんと謝って下さい」と言うと、小泉さんは「そうだな」と応じたという。文面は当初の「遺憾」から、率直な謝罪に変わった。「普通の総理ならああは書かない」と尾辻さんは言う。

 首相談話は書状として、移住50周年記念式典で移住者一人ひとりに手渡された。


 これはこのコラムによって初めて知った。

 今回、ドミニカを訪問して「政治の力」を改めて痛感した。以前は移住問題を訴える人たちを歯牙(しが)にもかけなかった現地の大使館や国際協力機構(JICA)事務所の対応が百八十度転換していたのだ。慰霊祭に参列した大使に直接取材を申し込むと、二つ返事でOKが出た。佐藤宗一大使(64)は1時間も時間をとり、移住者問題について「総理談話はバイブル」と語った。植松聡領事(59)も「移住者が訴訟によって勝ち取ったもの。大使館もJICAもいろんな問題があったが、小泉談話を受けて、できることからやっていこうと歩み寄っている。やっと本音で話せるようになった」と話した。その成果として、高齢の移住者世帯に年22万円の保護謝金(特別困窮世帯には55万円)の支給や、助成事業としての医療保険への加入も始まっている。

 政治家が方向性を打ち出さない限り、官僚は動かない。それが日本の現実なのだ。原発ゼロ発言で時の人となった小泉さんに、あの時の首相談話について取材したいと申し込んだが、なぜか断られた。


 「それが日本の現実なのだ」って、日本以外の国では、政治家が方向性を打ち出さなくても、官僚が臨機応変に動いてくれるのかな、それはそれで問題ではないかなと皮肉を言いたくもなったが、政治にそうした役割が期待されているのは確かだろう。

 もっとも、いわゆる従軍慰安婦問題や大戦時の日本企業による徴用をめぐって日韓関係がこじれているこの時期に、このように政治の役割を強調するのは、日韓関係においても新たな「談話」による政治解決を期待しているのかとも思えるが、深読みが過ぎるだろうか。

 ともあれ、昭和30年代をわが国の黄金期であったかのように思っている人には、こういうことがあったことも知ってほしいものだと思った。

(検索してみたら、この問題を取り上げたサイトやブログが多数見つかった。多くは訴訟当時のものだが、関心の高さにホッとする思いだった)

三好徹『評伝 緒方竹虎』(岩波書店、1988)

2013-10-19 23:34:16 | 日本近現代史
 副題は「激動の昭和を生きた保守政治家」。だいぶ前に古本で購入し、最近読了した。

 緒方竹虎(1888-1956)は大正・昭和期の言論人、政治家。朝日新聞の主筆、編集局長、副社長を歴任。1944年に小磯内閣の国務相兼情報局総裁として入閣し,敗戦後の東久邇宮稔彦王内閣でも国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁を務めた。A級戦犯に指名されたが病気のため収監はされず、1951年に公職追放が解除され、翌年の総選挙で福岡1区から当選。吉田茂内閣で国務相兼内閣官房長官、さらに副総理を務め、吉田の後継者と目された。吉田の退陣後は自由党の総裁を継ぎ、鳩山一郎首相の民主党と保守合同を進め、1955年に結党された自由民主党の総裁代行委員の1人となり、後継首相の有力候補であったが、翌年急死した。

 著者の三好徹(1931-)は読売新聞記者出身の作家。推理小説、歴史小説、ノンフィクションなどの作品が多数ある。

 本書は岩波書店の総合月刊誌『世界』の1987年7月号から1988年2月号にかけての連載に補筆したもの。連載時期は中曽根内閣の末期から竹下内閣の初期に当たる。
 著者は本作の前の1982年から1986年にかけて、『週刊ヤングジャンプ』で「興亡と夢」を連載している。二・二六事件から敗戦までの歴史を当時の風俗や海外情勢も含めて若者向けに描いた概史で、集英社から全5巻で単行本化されており、昔読んだことがある。本書もその絡みで興味をもち、購入したのだった。

 初めの方にこんな記述がある。

 いま緒方竹虎の名を知る人は少いであろう。〔中略〕逆にいまごろなぜ緒方をとりあげるのかという疑問をもつ向きもあろう。だが、いまの政界の現状を見るとき、保守派でありながら前掲のような文章〔引用者註:新聞が太平洋戦争を防げなかったことへの反省〕を書いた政治家を分析してみることの必要性を感ずるのである。政治とは、本来、権力をめぐっての権謀術数策の別称であってはならないものだが、現在の日本においては、この公理がまったく通用しなくなっている。政治家はその識見をステートする必要はなく、多数派工作が政治そのものになっている。その点、昭和三十一年一月に急死した時点において、緒方は衆目の見るところ、保守合同のなった自由民主党の鳩山一郎についで、総裁つまり総理大臣になることは確定的であった。むろん合同したばかりの自民党の内情は複雑をきわめており、緒方が総理総裁の座につくまでは一波乱はあったかもしれないが、それでもなおかつ緒方の器才と将来を否定するものは一人もいなかった。彼の死を悼んで、英紙タイムズまでが論評を掲載したことでも、それは明らかなのである。(p.6-7)


 また、「あとがき」には次のようにある。

 緒方に対する期待は、政界だけでなく、各界を通じて存在した。しかし、緒方はその期待にこたえる前に急死してしまった。保守政治家として、緒方は理想に近い条件を備えていた人物であった。彼は、議会制民主主義の本質を心得ており、それを実現しようという強い意欲をもっていた。その基盤である言論の自由の大切さについて、現役の記者にも劣らない認識を有していた。それだけに昨今の政治情勢をみるとき、緒方の早すぎた死を思わざるをえないのである。保守合同は緒方一人の力によるものではないが、彼の存在を抜きにして語ることはできない。いま政界の現状、つまり自由民主党の半永久的な政権独占とそれに伴うさまざまな弊害をみるとき、これが緒方の望んだものだろうかという疑問に筆者はとらえられる。
 いうまでもなく、万物は流転する。この構造が永久に続くことはありえない。しかし、それがどういう形で変るのか、政治学者もジャーナリズムも予測し得ていない。要するに誰にもわからないのであろう。ただ、緒方の時代には存在した進歩的保守がしだいに影を薄め、超保守が勢いを増しつつあることは否定できないであろう。そういう状況下であるが故に、緒方を見直してみることが必要である、と考えて筆者は長い文章を書いた。保守党の中にも良識派はいるに違いない。保守政治家の理想像とはどういうものか、それを考える手がかりにしてもらえれば幸いである。(p.292)


 とのことなので読んでみたが、緒方の生涯についてはひととおり理解できたものの、彼がどう「保守政治家の理想像」に近い人物であったのかはよくわからず、著者の言う理想像とはどういうものなのかもまたわからなかった。

 私は中曽根、竹下の時代は体験しているが、緒方と同時代は生きていない。だから、緒方が当時どのように国民に受け取られていたのか、実感としてはわからない。
 著者は政治部の記者ではなかったが、必要があって国会議事堂の中に入った時、しばしば緒方の姿を見たという。そうした同時代人でなければわかりづらい何物かがあるのかもしれない。昨今の若い方が、中曽根や竹下、あるいはその同時代のレーガン、サッチャー、ゴルバチョフといった名前を聞いても、おそらくピンと来ないのと同じように。

 緒方を高く評価し、その早すぎた死を惜しむ声は著者に限らず多々ある。そして、緒方を悪く言う声を私は聞いた覚えがない。それは確かに、緒方の人格・識見のたまものなのだろう。
 しかし、それをもって、「良識派」はともかく、「保守政治家の理想像」と言えるのだろうか。

 著者は、(本書が書かれた1987~1988年には)「多数派工作が政治そのものになっている」と批判し、緒方は急死した時点で「衆目の見るところ」「総裁つまり総理大臣になることは確定的であった」と評価する。
 しかしそれは、多数派工作に及ぶまでもなく、緒方は自由党において吉田に次ぐ実力者として迎え入れられていたからではないのだろうか。
 朝日新聞の主筆や重役を務め、政治家や軍人と親交があった緒方は、その縁で小磯内閣の閣僚を務め、東久邇宮内閣でも起用された。そうしたキャリアが、吉田の後継者としてふさわしいものだと見られたからではないか。
 本書でも挙げられているように、緒方の公職追放解除当時、吉田の四天王と言われた広川弘禅(1902-1967)、池田勇人(1899-1965)、佐藤栄作(1901-1975)、保利茂(1901-1979)のいずれも、緒方のキャリアには及ぶべくもなかった。

 仮に、緒方が政界復帰に際して、吉田の自由党ではなく、他の中小政党に加わったり、新党を結成したりしたのなら、やはり多数派工作に手を染めることになったのではないだろうか。
 また、のちに緒方が尽力した保守合同も、一種の多数派工作とは言えないか。

 小磯内閣で国務相兼情報局総裁を務めたこと、さらにそれ以前に長期にわたって主筆を務めていた朝日新聞の報道姿勢から、私には緒方は戦争協力者だとのイメージが非常に強い。
 著者は、緒方は右翼を嫌っていたと述べている。議会制民主主義を支持していたとも。なるほどそうなのかもしれない。
 しかし、そうであっても、時勢にうまく順応した人物だったと言えるのではないか。
 そして、そうした緒方の立場に鑑みて、戦犯指名や公職追放を経たとはいえ、政界に復帰するということが果たして妥当だったのだろうか。
 そうした違和感は本書を読んでも解消されなかった。

 緒方が第5次吉田内閣で副総理を務めていた時、造船疑獄が起こった。東京地検特捜部は与党自由党の佐藤栄作幹事長を逮捕する方針を固めたが、犬養健法相(五・一五事件で殺害された犬養毅首相の子)が指揮権発動により逮捕を中止させた。
 犬養は当初指揮権発動はできないとして、緒方に辞表を提出した。緒方は自身が法相を兼任することも考えたが、吉田の方針により、結局犬養の辞表を受理せず、指揮権発動を実行させた。犬養は発動の翌日に辞任し、その政治生命は終わった。
 本書で著者も疑問を呈しているのだが、これは「保守政治家の理想像」にふさわしい振る舞いだろうか。

 再軍備をめぐって、次のような記述がある。

 緒方は、日本が独立を回復する以上、最小限の自衛戦力を持つべきであり、そのためには憲法九条の改正が必要である、と主張していた。この問題について書いた彼の文章は、信濃毎日にのせた一文があるだけで、その考えの深層までたどることができないが、緒方はこの点に関する限りは、まぎれもなく保守政治家だった。
 かつて軍部に痛めつけられた緒方が、再軍備論者になったこと自体、一つの矛盾であるが、シビリアン・コントロールが確立していれば戦前のような軍部横暴は避けられるという考えを彼はもっていた。しかし、その自衛戦力の規模をどの程度のものにするかについては、緒方は何も明らかにしていない。(p.234-235)


 不思議な「保守」の用い方だと思う。
 再軍備や憲法9条の改正は、本来保守・革新といった立場とは無関係だろう。
 軍部に痛めつけられたからといって再軍備を支持するのが「矛盾」だとも言えまい。
 少し前まで野党第1党が非武装中立論を唱えていた時代ならではの記述だと思った。

 著者は、緒方は自らの言論によって国民にわかりやすい政治を実現しようとした、まれに見る政治家であったと評価している。
 確かにそうしたいくつかのエピソードは紹介されているが、しかし、本書を読んでも、緒方が戦後のわが国をどのようにしたいと考えていたのかは、よくわからない。
 終章「早すぎた死」で、著者はこう述べている。

 みずから積極的にポストを狙ったことのなかった緒方が、生まれて初めて最高のポストを狙い、まさにそれを手中にしようとする寸前、死がすべてを無駄にしてしまったということは、何か人生の皮肉といったものを感じさせる。そしてまた、鳩山引退後の石橋首相の病気退陣は、岸に政権をもたらした。結果として、日本の政治の方向を変えたという意味においても、緒方の死は日本の政治史上、痛恨事であったといえるであろう。(p.288)


 鳩山の後継が緒方ではなく、石橋湛山の短期政権を経て岸信介となったことにより、結果としてわが国の政治の方向が変わった、これは痛恨事であると言っている。
 しかし、緒方政権と岸政権は、それほどかけ離れたものとなったのだろうか。
 緒方は吉田以上の反共であったことは本書でも語られている。鳩山による日ソ国交回復に批判的であり、米国との協調を重視していた。再軍備も9条改正も肯定していた。
 仮に緒方政権が成立していたとしても、岸と同様、片務的な旧日米安全保障条約の改定が志向されていたように私には思える。元A級戦犯容疑者であり復古的なイメージの強い岸よりも、それはスムーズに成立させることができたかもしれない。

 何故、著者がこれほど緒方に傾倒するのか、私にはよくわからない。
 特段の汚点もなく、次期総理総裁を確実視されながら急逝した人物に、勝手な理想を託しているだけなのではないだろうか。
 連載当時、『世界』の読者には緒方と同時代を生きた者もまだ多くいただろう。彼らは著者の示す緒方像に疑問をもたなかったのだろうか。
 そんな読後感をもった。

 重光葵や外交についての記述が興味深かったので、少し書き留めておく(〔〕内は引用者による註、太字は原文では傍点)。
 いわゆる繆斌工作に対する重光の反応について。

 外交は外務省(大臣)に任せてもらわなければならぬ、という考えは、重光においては不動の信念であったろう。繆斌問題がこじれたときに、重光は、外交の一元化に反するようなことは認められない、といった。同じことは、松岡洋右もいったし、現在の外交官もそういうだろう。
 その当時、歴代の外相が一元化をいったのは、陸軍の動きを封ずるためだった。相手と交渉しているさなかに、陸軍は勝手に別の窓口から話をつけようとしたり、外交交渉をぶちこわす動きをした。これでは、日本の大使のいうことは信用できない、といわれてしまう。外務省に任せて、余計な動きをしないでくれ、というのは当然である。
 しかし、じつはここに微妙なスリカエがある。前記傍点の部分は、正しくは「外務省の交渉ルート一本にしぼって」であり、それが外交の一元化である。そのことと、外交はすべて外務省に一任することとは別である。
 第一次大戦後のベルサイユ会議のときから、外交は外務省(大臣)専任のものではなくなった。ロイド=ジョージ、クレマンソー、ウィルソンがそれぞれ国の外交をとりしきった。欧米では、このときから、外交は外務省のものではなくなった。十年後、ムッソリーニ、ヒットラー、スターリン、チェンバレン、チャーチル、ルーズベルトが登場し、かれらは外相を伴って東奔西走した。外交は一元化されていたが、外務省の専任ではなくなった。
 先進諸国のなかでは、日本だけが例外だった。一九二〇年代から三〇年代にかけて、日本の首相が外国へ出かけて、相手の首脳と外交をしたものは一人もいなかった。ベルサイユ後、日本の首相で海を渡ったのは、東條英機が初めてだった。外相でさえ、めったに出て行かず、出先の大使に任せるか、特使を送るのがセキのヤマだった。もし近衛首相が中国へ行き、アメリカへ行っていたら、歴史はかなり変っていただろう。
 もっとも、近衛は開戦前ルーズベルトに会おうとした。ルーズベルトは、はじめのうちはハワイにしよう、などといっていたが、そのうちに態度をかえた。ルーズベルトは野村大使をあしらっておく方が好都合であることに気がついたのだ。
 外交は外務省に、というのは、日本のみに通用し、即一元化と錯覚されていた。
 繆(江)の出してきた手を、重光が素気なく払いのけたのは、このルートが外務省ないしは彼の開拓したものではなかったからであろう。重光にしてみれば、外交一元化に反するものだったのだ。
 もちろん、繆斌ルートがこの時点で活用されたとしても、重慶工作が実を結んだとは限らない。(p.182-183)


 そういえば、日ソ国交回復交渉においても、重光には外務省の独断で事を進めようとする傾向があった。

 とはいえ、著者も留保を付けているように、繆斌工作が成功したとは限らない。というより、繆斌の末路から考えても、成功する見通しがあったとは到底思えない。
 小磯や緒方が繆斌工作に固執したことは、かえって降伏を遅らせたと見るべきではないか。

 東久邇宮内閣における閣内対立について。

 組閣は、首相、近衛、緒方の三人の協議で進められた。近衛の秘書官になった細川護貞の日記によると、首相と緒方が主としてあたり、近衛がこれを助ける形だったが、互いに自分の意中の候補を出すことを遠慮しあったふしがあるという。
〔中略〕
近衛は副総理格の国務大臣、緒方は書記官長〔現在の内閣官房長官に相当、ただし国務大臣ではない〕だったが、焦点は、米国との今後の交渉の矢表に立つ外相を誰にするかであった。
 首相は、はじめ東郷の留任を求めた。しかし東郷は、自分が開戦時の外相だった経歴を理由に強く辞退し、有田八郎を推した。有田は即答をさけ、近衛と相談する許可を求めた。そして、別室に入り、やがて出てくると、近衛ともども重光を推した。
 繆斌工作からまだ半年もたっていなかった。しかし、首相は即決し、重光を呼び出した。重光は〔中略〕
「〔中略〕とくに注意していただきたいのは、全ての交渉は一途に外務当局を通して行うことです。これが行われないと、思わざる結果を生ずると思いますので、この点がお約束いただけるなら外務大臣をお受けいたします」
 といった。
 首相はそれを了承した。
〔中略〕
 緒方は内閣の番頭として、夜遅くまで激務をこなした。首相の演説の草稿に目を通し、ときには筆をとって補正した。首相秘書官は、朝日の記者だった太田照彦だった。〔中略〕
 こうした人的配置をみると、首相・書記官長サイドと、外相および木戸内大臣、近衛サイドとの間に、微妙な緊張をかもし出す要素のあることがわかる。
〔中略〕
 間もなく、両グループの対立が浮き上がってきた。
 米軍との交渉を担当する「終戦連絡事務局」の問題である。
 重光は、外務省の専任機構たらしめることを主張した。こういうときこそ、外交一元化が絶対必要だ、といった。
 首相と緒方は、内閣直属を計画していた。この局は、単なる外交ではなく、国体(天皇制)、産業復興、その他を扱う。それを考えれば、外務省に一任するわけにはいかない、というのである。
 近衛が仲に入って、問題は誰を責任者にするかである、と両者を妥協させた。
 緒方らは、池田成彬を選んだ。池田は固辞した。
「自分は人嫌いをしない方だが、重光君だけは困る」
 というのだ。どうやら根は深いようであった。
 翌日、重光が辞表を提出した。

 首相の東久邇宮と外相の重光との間に、意思の疎通を欠くものがあったことは、両者の手記を比べてみれば明らかである。
〔中略〕
 〔降伏文書調印を終えた九月〕二日の夜、重光が帝国ホテルで寝ようとしたところへ、終戦事務局長官の岡崎勝男がやってきて、重大情報をもたらした。占領軍司令部は、日本に軍政を布告することに内定して、その布告文まで用意してあるというのである。
 重光は三日の早朝宿舎を出発して横浜へ行き、マッカーサーと参謀長のサザーランドに会見して、アメリカ側の真意を確かめた。軍政を行うことは、日本政府の存在を否定することであり、また、ポツダム宣言の違反にもなる。
 重光によると、マッカーサーは彼の話を聞いて「よくわかった」といい、サザーランドが「命令を取り消しましょう」といって電話で部下に指示を出したことになっている。そして帰京後に首相に報告、午後七時に参内して天皇にも報告した。
 一方、細川によると、これは岡崎が米軍参謀の一人から入手したもので、マッカーサーは下僚が勝手にやったものだといって撤回したことになっている。(p.187-194)


 この軍政撤回を重光の功績ととらえる向きがあるが、本当にそこまで準備されていたのなら、重光の抗議一つで覆ったとは考えがたい。ポツダム宣言の内容に照らしてもおかしい。マッカーサーが言うように下僚が勝手にやったことか、或る種のブラフだったのではないだろうか。

 そんなことがあって、岡崎機関つまり外務省内に設けられた終戦事務局に不信の声が生じ、近衛は、幣原喜重郎を国務相にして、この役をやらせようと考えるに至った。しかし幣原は承知しなかった。
 そのことがあって以来、重光は何回か総司令部を訪れたが、マッカーサーは重光には会わず、サザーランドが出てきて重光の話を聞いた。
 首相の方は、マッカーサーが日本にきたときから、会見する必要を感じて、重光に伝えたのだが、重光は、まだその時期ではありません、といって、首相の意向をマッカーサー側に連絡しなかった。
 ところが、首相秘書官の太田照彦が九月十四日に横浜の総司令部へ別の要件で行ったとき、マッカーサーの副官にそれとなく聞いてみると、マ元帥は首相のくるのを喜んで待っている、という返事だった。
 そこで東久邇宮は九月十五日に太田を連れて横浜へ行った。宮はフランスに七年留学してフランス語は堪能だったが、英語は使えなかった。そこで、緒方、太田のルートで、朝日新聞の鈴川勇を通訳として同行した。鈴川は朝日きっての英語の練達者だった。
 〔中略〕
 重光は、この首相の訪問を個人的なものだ、としている。首相と司令官の公式会見であるならば、外相が立ち会うべきだし、通訳は外務省の人間でなければならない。が、外相にも知らされず、通訳に至っては民間人が用いられるような会見は、正式の記録が残らないわけだから、私的なものとみなすことになるのだ。
 形式論では、重光のいうことは正しいであろう。しかし、そういう日本政府内部の事情や対立は、アメリカ側には関係がない。東久邇宮が個人として総司令部を訪問してきた、とみなすはずはないのである。また、首相の側からいわせれば、総司令官と政府の最高責任者との会見は緊急に必要なことであるにもかかわらず、外相はそれを妨げようとしているかのようである。だから、形式はどうであれ、実質を重んじたのだ。
 当時の憲法からいえば、各省大臣は、その職務について天皇に対して直接に輔弼の責任を負っている。重光としては、外交一元化の建前からしても、マッカーサーとの交渉は外相に一任さるべきだ、と確信していた。また、外務省は、政府の表玄関であり看板にひとしいものである。つまり、外国に対して日本の主権を代表している。首相や緒方がいうように、外国(この場合は総司令部が唯一のものである)と折衝する機関を内閣の直属にすることは、外務省が対外関係の窓口機関であることを否定するようなものとある。さらに、そういう直属機構が生れれば、外務省不用論が出てきて、それは外務省が政府の表看板ではないことになり、日本側でみずから主権否認をするにひとしいことになる。外務省がすべてに出しゃばるつもりはないが、外務省の職責をなくすようなことを、日本側がすべきではない――と重光はいうのだ。
 首相や緒方にいわせれば、これは偏頗な考え方だった。
 首相、緒方だけでなく、どの省もアメリカが何を考えているかを知りたいと思っている。その情報を外務省に独占させたのでは、自分たちの仕事にさしつかえる。
 現に、首相と総司令官との会見を、外務省はいつまでたってもセットしなかった。こんなことでは先が思いやられる。
 このころ、総司令部は焼け残った建物を徴発しはじめ、大蔵省もその対象となった。蔵相の津島寿一は、何とか解除してもらうよう重光に依頼したが、総司令部は徴発した。津島は、重光を無能であると、正面切って非難した。
 重光は、東久邇宮がマッカーサーと会見した日に、内閣改造を進言した。閣僚の中に戦争遂行に責任があって戦犯に指定されるようなものがいては、新生日本への脱皮は不可能だし、アメリカの新聞もそれを指摘している。ポツダム宣言の実行のためには、戦争に責任のない新しい人を当てなければ、不慮の事態が起こりかねない。
 重光によると、首相は、至極賛成である、と答えたにもかかわらず、十七日に呼ばれると、改造はしない、それより外相に辞めてもらいたい、といわれて、そくざに辞表を出すことにしたという。
 が、首相サイドは反対のことを記録している。そして、重光は全閣僚から反感をもたれていた、というのだ。
〔中略〕
 重光にその気があれば、首相の要求をつっぱねて内閣を倒すことができたろうが、潔く彼は去った。(p.194-197)


 重光については、外交官としては優れていたが、政治家としては劣っていたという評価があるが、この閣内対立にもそれが現れているように思った。


片言隻句を取り上げて批判する手法の行く末

2013-05-19 02:04:44 | 日本近現代史
 2007年1月、第1次安倍内閣の柳沢伯夫厚生労働相が講演で「女性は産む機械」と発言したとされ、マスコミ、野党から激しい攻撃を受けた。
 その当時、まだタレント弁護士だった橋下徹が、あるテレビ番組でコメンテーターとして、柳沢の講演全体はこのように要約できるものでは全くない、これは発言の一部を極大化した不当な批判だという趣旨のことを述べていたのを強く記憶している。

 それから6年余。橋下もまた同様の立場に立たされるに至った。

 発言がどのような文脈でなされたか、発言全体の意図するところは何なのかはどうでもいい。
 あたかも、××××という片言隻句が発言の主旨であるかのように取り上げて、騒ぎ立てる。
 政治家の失言問題のいつもの構図。

 そして、××××の内容が妥当かどうかすらどうでもいい。
 とにかく、××××と口にしたことそれ自体がけしからん。
 傷ついた、人権感覚がない、公人の資格がない、国益を害する。
 何だか、大人流のいじめを見ている気分になる。

 日本人の多くは公人をこのような手法で叩くのを好むのかもしれないが、私はこういう風潮は好きじゃない。

 私はこうした「問題」発言騒動の際に、しばしば天皇機関説事件を思い出す。
 拙ブログの過去記事。


暴力装置? そのとおりだろ

久間防衛相の「原爆投下、しょうがない」発言とその朝日記事について
 


 天皇機関説は、昭和初期には広く知られていた憲法学説であり、何ら問題視されていなかった。
 ところが、軍国主義、天皇中心主義の風潮が高まる中、1935年2月に貴族院で菊池武夫議員(陸軍中将)が、美濃部達吉の天皇機関説は国体にもとると攻撃した。同じく貴族院議員であった美濃部は院内でこれに反論した。
 当時首相であった岡田啓介海軍大将(のち二・ニ六事件で襲撃され、九死に一生を得る)は、占領時代に刊行された回顧録でこう述べている。

 美濃部博士は二十五日の貴族院で「これは著書の断片的な一部をとらえて、その前後との関係を考えずになされた攻撃である。わたしは君主主義を否定してはいない。かえって天皇制が日本憲法の原則であることをくりかえし述べている。機関説の生ずるゆえんは、天皇は国家の最高機関として、国家の一切の権利を総覧し、国家のすべての活動は天皇にその最高の源を発するものと考えるところにある」と論じた。
 日ごろおとなしい貴族院でも、美濃部博士が降壇したときは拍手が起こるほどだった。わたしもりっぱな演説だ、と思ったが、問題はそれではおさまらなかった。(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987)


 さらに衆議院でも陸軍出身の議員が岡田首相に美濃部の国体観念に誤りなきや否やを問い質し、貴衆両院の議員が機関説排撃の懇談会を開く。

この問題の起こったのをいい機会に、あわよくば政府を倒してやろうという政友会側の策動も、そろそろはじまっていたわけだ。それからというものは、いろいろな委員会で、〔中略〕わたしをはじめ後藤内相、小原法相、松田文相、金森法制局長官に対してしつっこく、正気の沙汰とも思えないくらい興奮して質問し、言質をとろうとかかる。(同)


 昭和天皇自身は「機関説でいいではないか」と述べていたにもかかわらず、機関説排撃運動は高まった。
 陸軍はやがて機関説絶対反対を主張しだすに至った。

こちらが陸軍大臣に期待するところは、軍のそういった動きを押さえてくれることなんだが、林は、その点ではどうにもたよりにならなかった。この問題だけでなく、たいていの場合そうだったが、一ぺん閣議で承知していることを、すぐあとでひっくり返す。陸軍省へ帰ったあとで、電話をよこして、さっき言ったことは取り消す、とこうなんだ。
 つまり本人はごく常識的な物わかりのいい人なんだが、閣議で決めたことを部下に話をすると反対される。反対されると、押し切れなくて前言をひるがえすということになったんだろうね。〔中略〕
 三月九日の貴族院本会議で林は、「美濃部博士の学説が軍に悪い影響を与えたということはない。ただ用語については心持よく感じていない」といっていたのに、十六日の衆議院では「天皇機関説は今や学者の論争の域を脱して、重大な思想問題になっている。これを機に国体に異見のないようにしなければならない。かかる説は消滅させるように努める」とだんだん態度を変えてきている。この発言は、政府としても思いがけないほど行き過ぎたもので、もしわたしや他の閣僚が、この言葉と食い違うことを言えば閣内不統一になるし、といって陸相を押さえることは困難だし、自然政府の答弁もこれと歩調を合わせなければならなくなって、また一歩押し切られてしまった。外部の気勢もこれで大いにあがった。(同)


 憲法学者として美濃部の師である一木喜徳郎・枢密院議長の家に、日本刀を持った右翼青年が暴れ込み、警官に取り押さえられるという事件も起きた。

 そうこうしているうちに議会の会期も迫って、とうとう治安維持法改正案や農林関係の重要法案が審議未了のままで閉会してしまった。多数党である政友会を相手にしてのことだから、なんともしようがなかったけれど、このためますます弱体内閣のそしりをうけなければならんことになってしまった。さて、そういった情勢から、政府はなるべくなら美濃部博士の自発的な処置を望んでいたが、博士は「政府の苦しい立場はよくわかるが、自分の学説はなんら恥じるところのないものである。非難はすべて曲解と認識不足にもとづくものだ」という態度だった。
 さらに美濃部博士は陸軍方面のおもだったものに会見を申し入れたようだ。論争をしようという気ではなかったらしく、曲解を正そうとする意図から出たものだと思われるが、軍はそれをことわっている。陸軍の言い分は、「信念として天皇機関説に反対であるから、学問上の主張を聞く必要はない」という単純なものであった。(同)


 機関説の内容の是非を問うのではなく、とにかく機関説そのもの、というよりその支持者自体の排除を目的としていた陸軍にとって、美濃部の主張を聞くことなど何の意味もなかったのだろう。

 そして政友会は、政府は機関説は国体に反すると明言せよとの国体明徴運動を展開し、民政党も消極的ながら同調した。岡田内閣は美濃部の著書を発禁とし、8月に国体明徴声明を発し、美濃部は9月議員を辞職した。

 もちろん、橋下は別に学説を述べたのではない。また、以前の記事でも述べたように、当初の発言にはおかしな点も確かにある。
 それでも、発言の全体を捉えず、片言隻句を取り上げて、発言者を絶対悪と見なして排撃する姿勢は、機関説事件と同じようなものだろう。

 これでは、橋下が当初述べていた、

しかし、なぜ、日本の従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、その当時、慰安婦制度っていうのは世界各国の軍は持っていたんですよ。これはね、いいこととは言いませんけど、当時はそういうもんだったんです。ところが、なぜ欧米の方で、日本のいわゆる慰安婦問題だけが取り上げられたかというと、日本はレイプ国家だと。無理矢理国を挙げてね、強制的に意に反して慰安婦を拉致してですね、そういう職に就職業に付かせたと。

レイプ国家だというところで世界は非難してるんだっていうところを、もっと日本人は世界にどういう風に見られているか認識しなければいけないんです。慰安婦制度が無かったとはいいませんし、軍が管理していたことも間違いないです。ただ、それは当時の世界の状況としては、軍がそういう制度を持っていたのも厳然たる事実です。だってそれはね、朝鮮戦争の時だって、ベトナム戦争だってそういう制度はあったんですから、第二次世界大戦後。

でもなぜ日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、日本は軍を使ってね、国家としてレイプをやっていたんだというところがね、ものすごい批判をうけているわけです。

僕はね、その点については、違うところは違うと言っていかなければならないと思いますね。

〔中略〕

それから戦争責任の問題だって敗戦国だから、やっぱり負けたということで受け止めなきゃいけないことはいっぱいありますけど、その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。(SYNODOSによる全文書き起こしから)


こうしたことすら言えなくなってしまう。
 ただただ、韓国や米国の主張を、御説ごもっともと拝聴し、わが国だけが悪逆非道の国家だったのだと平伏するしかなくなる。

 それでいいのだと主張する者もいる。
 わが国はそうした第二次世界大戦の戦勝国側による歴史観を受け入れることにより独立を果たしたのであり、今さら波風を立てるようなことは言うべきではない、それが大人の対応だと。
 しかし、戦後何十年もそうした対応を続けてきた結果、わが国を取り巻く情勢は近年どうなっているだろうか。

 そして、いや韓国や米国の歴史認識を一方的に受け入れるわけにはいかない、わが国にはわが国の言い分がある、戦後体制は受け入れるにしろ、言うべきことは言うべきだと思う者は、政治的理由により橋下排撃に同調するだけでなく、肯定すべき点は肯定してはどうか。少しでもそうした声を上げるべきではないか。

 岡田啓介は回顧録で、政党による国体明徴運動について、「だんだん議会政治否定の方向へ動いていったことを考えると、こういうことで問題を起こすやり方は、かえって政党人が自分の墓穴を掘るような心ないことだったと思う」と述べている。
 自民党や民主党は、政友会の轍を踏むべきではない。

 私は、右であれ左であれ、韓国であれ米国であれ、これ以上わが国を自由に物が言えない社会にはしてもらいたくない。


「だまされた」という言い逃れ

2012-08-19 00:06:12 | 日本近現代史
 12日付け朝日新聞朝刊社会面に「だまされる罪 向き合う」というタイトルの記事が載っている。
 「今だから 伊丹万作の伝言」というシリーズの「上」となっている。

 7月29日、夕暮れ時の国会議事堂前。脱原発の声を上げ、道いっぱいに広がる人の渦に、吉村栄一さん(46)がいた。
 東京在住のフリーライターで編集者。音楽家の坂本龍一さんたちと反原発イベントを企画する。昨年8月、その仲間と「いまだから読みたい本―3.11後の日本」(小学館)を出版した。きっかけは一つのエッセーだ。
 「戦争責任者の問題」
 昭和初期に活躍した映画監督、伊丹万作が書いた。同じ映画監督の道を歩んだ伊丹十三の父。〔中略〕「戦争責任者」は敗戦翌年の1946年8月、亡くなる1カ月前に映画雑誌に発表した。
 〈だますものだけでは戦争は起(おこ)らない〉
 〈だまされるということもまた一つの罪〉
 戦中は結核にかかり、戦争賛美の映画こそつくらなかった。ただ、望んだのは国の勝利だけ。日本人全体が夢中でだまし、だまされあった。自己反省がなければ過ちを繰り返す――。
 福島第一原発事故から数週間後。吉村さんは、ツイッターで紹介されているこの文章を偶然見つけた。
 敗戦から六十数年。深刻な原発事故を経験した日本社会に、「安全神話」にだまされた、という悔いが残る。戦争を原発事故に置き換えて読むと、3.11後の今と重なった。
 14基の原発を抱える福井県出身。〔中略〕国内で事故が相次いだ90年代、原発問題はだんだんリアルに。2007年の新潟県中越沖地震の後は、原発再稼働の署名を呼びかけたこともある。
 だが、メルトダウンまでは想像していなかった。万作の言葉が胸に落ちた。自分もだまされていた。そして、誰かをだましていたかもしれない、と。
 この夏、野田政権は大飯原発の再稼働に踏み切った。それでも首相官邸前で、路上で、人々は、「原発ノー」の声を上げ続ける。動員されるのではなく、自分の意思で。始まったばかりだが、吉村さんは「この変化は希望だ」。
 翻訳家の池田香代子さん(63)は昨夏、ブログで「伊丹の予言は当たった」と引用した。今だから響いたのでは、と思う。
 著作権切れの文学作品が読めるネット図書館「青空文庫」のアクセスランキングでも、500位圏外から事故の1カ月後には6位に急浮上した。
 しかし、と池田さんは言う。「もうだまされない」と思うあまりか、政府と同じ意見を一つ言うだけで「御用」とレッテルを貼る動きも目立つ。「大切なのは情報を集めて自分の頭で考えること。でも、それが本当に難しい」
〔後略〕
(この連載は多知川節子が担当します)


 伊丹万作のエッセイの抜粋も載っている。

戦争責任者の問題

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
 〈略〉日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 〈略〉だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
 〈略〉「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。


 そういえば、わが亡き祖母も、あの戦争について、自分たちはだまされていたんだと言うのを聞いたことがある。
 それが多くの戦中派の感覚だったのだろう。

 しかし、当時のわが国民は、本当に「だまされた」のだろうか。

 そりゃあ、満洲事変が、日本側の謀略によって始まったのにもかかわらず、中国側の破壊工作に対する自衛行動であるとされていたということはあった。
 大本営発表が架空の戦果を宣伝していたこともあった。
 そういった意味では、「だまされた」面は確かにあった。

 しかし、権益擁護を理由に満洲に進出し、さらに華北分離工作を試み、その結果日中戦争に突入し、その展望が開けないと南方に活路を求め、ついには米英蘭との戦争に至るという大きな流れは、おおむね国民は支持したのではなかったか。

 「だまされた」のなら「だました」者がいるということになる。
 負けるとわかっているいくさを、勝てるとだまして引っ張っていった者がいるということになる。
 わが国にとって必要のないいくさを、無理強いした者がいるということになる。

 だから自分たちには責任はない。悪いのはだまそうとした奴らだ。もうだまされないぞ――と。

 しかし、当時のわが国の社会の一員に、一切責任はないなどということがあるだろうか。
 子供にはあるだろう。しかし、いい年をした大人たちはどうだろうか。

 1980年代のことだったと思うが、満洲国を扱ったテレビ番組を見ていると、当時のニュース映画のフィルムだったと思うのだが、こんなシーンがあった。
 満洲国での何かの式典。皇帝溥儀をはじめとする政府高官と群衆。
 高官らしき日本人が叫ぶ。

「だいにっぽんてーこくー、てんのーへーか、ばんざーい」
 万雷の拍手、歓声。
 そして、それに続いて、
「だいまんしゅうこくー、こーてーへーか、ばんざーい」
 続く拍手、歓声。
 カメラは溥儀の微妙な表情を捉える。

 これを見て祖母は、満洲国の式典なのに、天皇陛下万歳が最初に来るとはどういうことか、何ということをしていたのかと慨嘆した。

 たまたま祖母は知らなかったかもしれない。
 しかし、多くの日本人がこの式典に参加し、あるいはニュースでそれを見たのだろう。
 にもかかわらず、それに異を唱える声は上がらなかったということだろう。
 ならそれは、「だまされた」のではないのではないか。

 朝日の記事によると、吉村栄一には、原発事故について、「安全神話」にだまされたという思いがあり、それが伊丹のエッセイと重なるのだという。
 しかし、私は、以前は当然のように原発を支持し、事故後はこれはいかんと転向した者だが、「だまされた」などという認識はない。
 原発の危険性を訴える声はあった。だが、まさかそんなことにはならないだろうと、わが国の技術力を信じて、たかをくくっていたのだ。
 事故の直接の原因は地震と津波である。それらは原発関係者の想定外の規模であった。
 彼らの責任を問う声は強い。しかし、私はそれに与する気にはなれない。
 私もまた原発を支持したのだ(しかも戦時中のように言論統制がなされていたわけでもないのに)。その責任は負わなければならない。 

 戦争責任についても、同じことが言えるのではないだろうか。

 もちろん、一億総懺悔などというのは愚論である。責任はそれぞれの立場によって異なる。国民皆等しく反省しなければならないなどとは、立場の違いを無視した暴論でしかない。

 だが、責任が全くないなどということがあるはずもない。

 「だまされた」と言って、自らの責任を考慮しない者は、これからも何度となく「だまされ」ることだろう。
 「だまされた」として責任を回避することではなく、自らの責任を直視することこそが肝要だ。
 伊丹が言いたかったのは、そういうことではないのか。

 青空文庫で伊丹のこのエッセイを読んでみた。

 朝日の記事は全く触れていないが、このエッセイは、当時わが国の映画界にあった、戦争責任追及の動きを批判したものである。「自由映画人連盟の人たち」が映画界の戦争責任者の追放を主張しており、その主唱者の中には伊丹の名もあると聞いたが真意かと問われ、自らの考えを述べたものである。

 以下のような記述が興味深い。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

〔中略〕

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

〔中略〕

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。


 時間のある方は是非全文を読んでほしい。

 伊丹は、映画人の戦争責任追及については、「ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、」「人を裁く側にまわる」ことはできない、と言う。そして、自由映画人連盟には「文化運動」として単に名前を使うことを認めていたに過ぎないとし、連盟に対して自分を除名するよう求めたことを明らかにして、このエッセイを締めくくっている。

 これは、「反原発イベントを企画する」吉村や坂本龍一ら、そしてそれを好意的に報じる朝日新聞とは対極に位置する姿勢ではないか。

 朝日の記事が報じる池田香代子のブログを見てみると、たしかにこの伊丹のエッセイを引用した記事がある。

伊丹はきびしくたたみかけます。「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」そして極めつきは、「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。

この暗澹とした伊丹の予言はあたったのです。絶対安全な原発というウソで塗り固められた、経済成長という名の一本道を、私たちはむしろ意気揚々と突き進み、世界のトップに躍り出るかと思われた時期もありました。けれど、人口減少や世界情勢といった状況に、有効な手も打たずにのみこまれ、1人あたりGDPは08年には17位、2位のシンガポール、4位の香港のはるか後塵を拝することになっています。幸せ度ランキングだと、順位はもっと下がります。

そこへきて、今回の大地震津波による原発事故です。私たちは半世紀かけて滅びの支度をしてきたのかもしれません。
〔中略〕
もうやめませんか、騙されるのは。


 また、朝日の記事によると、吉村はツイッターで伊丹のエッセイに触れてこう感じたという。

万作の言葉が胸に落ちた。自分もだまされていた。そして、誰かをだましていたかもしれない


 しかし、伊丹はそもそも「口を揃えてだまされていたとい」い、「「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々」の姿勢を批判していたはずである。
 そのエッセイを、今また「だまされた」と見る材料として持ち出すのは、果たして伊丹の本意に沿っているだろうか。

 池田はこうも説いている。

伊丹は書いています。「現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」この「現在」は、残念ながら2011年でもあることを認め、思い切りへこんだらそれをバネにして、これからはすこしでもましな選択を重ねていきませんか。なによりも、このていたらくにたいして責任の軽い、なのにより放射能に影響を受けやすい若い人びとや子どもたちのために。


 しかし、伊丹はこのエッセイで、戦争責任者を映画界から追放せよという運動に与しないことを明らかにしたのである。自分にそんな資格はないと。また誰にそんな資格があると言えるかもわからないと。
 そんな伊丹が述べた「脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めること」とは、果たして吉村や坂本龍一らが企画するイベント、あるいは首相官邸前や国会議事堂前での示威行動といったようなものを指すのだろうか。
 そうではあるまい。それならば、伊丹がわざわざこのようなエッセイを書く必要はなかった。

 私には、自らの責任を顧みず(あるいは自らの責任を免れるために?)この当時戦争責任の追及にいそしんだ人々と、こんにち脱原発運動に興じる人々がダブって見える。


「とても美しい」は「流行語」だった

2012-03-11 20:19:48 | 日本近現代史
 反骨のジャーナリストとして知られる桐生悠々(1873-1941)の文集『畜生道の地球』(中公文庫、1989、親本は1952)を読んでいると、次のような文章があったのでちょっと驚いた。

 言語と思想と

 言語は思想、従って文化を表示する。この角度から眺めるとき、現在の私たちの思想、従って私たちの文化が、如何に混沌たる状態にあるかを察知するに足る。「とても」という否定的、消極的の言語が、肯定的、積極的、しかも最大級の形容語として用いられつつある、心あるものが見れば眉をひそめずにはいられないほどの現在の状態を見れば、思半ばに過ぐるものがある。
「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」という流行語を聞くとき、私は身震いするほど、厭な気持ちになる。(p.72)


 私はこれまで何の違和感もなく「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」といった用法をとっているが、これは「流行語」だったのか?
 びっくりして、goo辞書(デジタル大辞泉)を引いてみると、たしかにこうある。

とて‐も【×迚も】
[副]《「とてもかくても」の略》
1 (あとに打消しの表現を伴って用いる)どのようにしても実現しない気持ちを表す。どうしても。とうてい。「―食べられない量」「―無理な相談」
2 程度のはなはだしいさま。非常に。たいへん。とっても。「空が―きれいだ」
3 結局は否定的な結果になるという投げやりな気持ちを表す。どうせ。しょせん。
「―お留守だろうと思ったんですけどね」〈里見・多情仏心〉
「―、地獄は一定すみかぞかし」〈歎異抄〉
4 よりよい内容を望む気持ちを表す。どうせ…なら。
「―我をあはれみ給ふ上は」〈仮・伊曽保・上〉
[補説]「迚」は国字。


 1、2とあるから、まず1の意味があって、その後2の意味が派生したのだろう。

 私は子供のころから2の意味で「とても」を用いていたと思うが、わずかそのン十年前に流行した用法でしかなかったとは。

 ところで、続く桐生の文章は大変興味深いので、ここに紹介したい。

従って、現在の私たちの思想及び文化も、否定的、消極的であらねばならないところのものを、肯定的、積極的として取扱い、しかもこれに最高なる賞賛の辞を捧げている。例えば、ファシズムの如き、本能的に私たち自由を欲する人間が「とても」肯定し得ない思想や、観念を謳歌して、これをその儘、我国に応用せんとしているものがある。これと同様、コムミニズムも人間の獲得的本能から見て「とても」肯定し能わない制度を、絶対的に肯定している人たちもある。戦争は「必要悪」である。にもかかわらず、これを絶対善として肯定し、戦争する人のみが、忠君愛国の徒として、絶対に賞賛している人もある。
 また心ある人たちは、日本語の将来と進歩とを慮って、なりたけ漢語、漢字を用いないようにと、苦心惨憺しつつあるにもかかわらず、一般人は盛にこれを使用しつつある。少くともヨリ多くこれを使用しつつある。「宿屋」で、何人にも通り、またふさわしいものを強いて「旅館」といい「ホテル」といわなければ、承知しないのが、現在の我人心である。「木賃宿」まがいのものすらも「何々ホテル」と名づけられつつあるのを見ると、浮薄にして虚栄的なる現代の人心を察知するに足る。
 「監獄」というところが「刑務所」と改名されてから、監獄行が何でもない気持になったような気がする。「監獄」というだけで、「とても」厭な気持になるところが、「刑務所」となってから、人間が何か知ら、果さねばならないところの「義務」を、そこへ行けば果し得るという観念が流行しつつあるように思われる。(p.72-73)


 そして現在、「刑務所」ですらも耐え難い人々に配慮してか、PFI方式による一部の刑務所は「社会復帰促進センター」と名付けられている。
 ますますもって「何でもない気持」で赴けるというものだろう。

 昔の「丁稚」「小僧」が「小店員」と改められた。これはたしかに一の進歩である。だが、それは言語上だけの進歩で、実質的の進歩ではない。彼等は「小店員」となっても、昔ながらの「丁稚」「小僧」である。否、彼等は「小店員」となったので、却って御主人と雇人とを結びつけた昔ながらの紐がゆるんで、二者共に、益利己主義となりつつある。店主は小店員の面倒を見てくれること昔の如く温からず、小店員が店主に奉仕すること昔の如く厚からぬようになった。
 だと言って、私たちは言語の上だけでも、昔には返られない。否、返ってはならない。言語も社会的の一現象であるから、社会が変化すると共に、変化する。特に外国の思想、従って文化に接して変化する、変化せずにはいられない。だが、変化中には退化がある。この退化は、なるべくこれを避けて、進化したもののみを取りたいものである。
 「日本精神」もよいが、私たちが「にほん」と言い来ったところのものを、今更「にっぽん」といいかえる必要もない。「にっぽん」というならば、寧ろ「日の本」といった方のよいことは、既に記者の言及したところ、そうも昔に返りたかったら「豊葦原瑞穂国」といった方がよい。だがそれでは今更始まるまい。(昭和十年十一月)(p.72-73)


 「にほん」ではなく「にっぽん」と呼ぶべしという主張がこのころあったのだろうか。
 近年でも小池百合子がそのような主張をしていたと記憶しているが、今検索してみると全く出所を見つけることができなかったので、誤認かもしれない。

 ファシズムと共にコムミニズムをも批判していることからもわかるように、桐生の本質は自由主義者である。別の文章では、政治は五箇条の御誓文の精神にのっとって行われるべしとも説いている。
 桐生が「関東防空大演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞を退社せざるを得なくなったのは昭和8年のことである。まだ日中戦争も始まっておらず、二・ニ六事件も起きていない。五・一五事件を受けて成立した齋藤内閣の時代である。
 今、「関東防空大演習を嗤う」を読んでも、しごくもっともなことが書かれているとしか思えない。当時であっても同様だろう。にもかかわらず、軍のやることを「嗤」ったというただそれだけのために、桐生は退社を余儀なくされた。その後『他山の石』という個人誌を発行するが、これもしばしば発禁とされ、昭和16年8月に廃刊となる。桐生は翌9月に病死し、日米開戦を見ることはなかった。

 昭和戦前期のわが国を、こんにちの北朝鮮のような社会と同列視するのは誤りだと説く人がいる(西尾幹二だったか?)。米国の映画も開戦直前まで上映されていた云々。
 しかし、桐生のような人物を排撃した当時のわが国は、やはり相当におかしかったのだと、本書を読みながら思わざるを得なかった。

崇拝と敬愛

2011-08-01 00:49:07 | 日本近現代史
 以前、書きそびれて気になっていたこと。

 昔書いた、「西義之『変節の知識人たち』(PHP研究所、1979)」という記事を無宗ださんにトラックバックしたところ、次のようなご指摘をいただいた。


日本の皇室
2008/9/16(火) 午前 3:52

 深沢明人さんよりTBしていただいた記事:西義之『変節の知識人たち』(PHP研究所、1979)の中に、以下の記述があった。

 津田左右吉(1873-1961)は歴史学者。戦前、古事記や日本書紀の内容についても、通常の歴史学と同様の史料批判を行うこと(記紀批判)を主張したことで知られる。そのため、国粋主義者から攻撃を受け、一部の著作は発禁とされ、さらに出版法違反で執行猶予付きの有罪判決を受けた。逆に戦後は、進歩派陣営からヒーローとして迎えられた。
 しかし津田は、皇室を崇拝する保守主義者であり、天皇制と民主主義は両立すると説いたため、天皇制廃止を志向する進歩派の期待は裏切られた。


私は「津田は、皇室を崇拝する保守主義者であり」との記述には違和感を覚える。
私は「津田氏は皇室を敬愛しているが崇拝はしていない。津田氏は日本を愛し日本の歴史を愛する歴史学者である。」と考える。

すうはい 0 【崇拝】 (名)スル

〔古くは「しゅうはい」とも〕あがめうやまうこと。信仰すること。
「偶像―」「余程人から―された人物だつたと見えて/あめりか物語(荷風)」


けいあい 0 【敬愛】 (名)スル

尊敬と親しみの気持ちをもつこと。
「―する人物」
〔後略〕



 無宗ださんが違和感を覚えたのも当然かもしれない。
 西義之も、西が取り上げた津田の論文「建国の事情と万世一系の思想」も、津田が皇室を「崇拝」しているとは書いていない。

 それどころか、津田はこの論文で次のように述べている(以下、引用文中の太字は引用者による)。


 〔引用者注・5世紀のわが国において皇室が不動のものとして定着した事情として〕第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以て其の権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与〔あずか〕られなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明らかにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。〔中略〕天皇が「現つ神〔あきつかみ〕」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格に於いてのしごとである、というだけの意義でこの称号が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称号なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称号が用いられたのである。
 これは、天皇が天皇を超越した神に代わってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びておられる、というような意味でいわれたのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には、天皇崇拝というようなことは全く無かった。天皇がその日常の生活に於いて普通の人として、普通の人にたちまじって、行動せられることは、すべてのものが明かに見も聞きも知りもしていた。


 また、次のようにも。

一般民衆はともかくそれ〔引用者注・明治新政府〕によって皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになったが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事実の如く説くことによってなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであった。皇室と国民との関係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語を以て表現せられた君臣間の道徳思想をあてはめようとしたのも、またこうした為政者のしわざであり、また別の方面に於いては、宗教的色彩を帯びた一種の天皇崇拝に似た儀礼をさえ学校に於いて行わせることにもなった。これらの何れも、現代の国家の精神また現代人の思想と相容れぬものであった。従ってこういう教育は、却って国民の皇室観を曖昧にし不安定不確実にし、或いはまた過まらせもした。
 さて、このような為政者の態度は、実際政治の上においても、憲法によって定められた輔弼の道をあやまり、皇室に責任を帰することによってしばしば累をそれに及ぼした。それにもかかわらず、天皇は国民に対していつも親和の心を抱いていられたので、何等かの場合にそれが具体的の形であらわれ、また国民、特にその教養あり知識あるものは、率直に皇室に対して親愛の情を披瀝する機会の得られることを望み、それを得た場合にそれを実現することを忘れなかった。〔中略〕そうして遠い昔からの長い歳月を経て歴史的に養われまた固められた伝統的思想を保持すると共に、世界の情勢に適応する用意と現代の国家の精神に調和する考えかたとによって、皇室の永久性を一層明かにし一層固くすることに努力してきたのである。
 ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起こったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののようにも見える。
 これは、軍部及びそれに付随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、或いは現にもっていられる如くいいなし、それによって軍部の恣なしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来がある。



 だから、もし津田左右吉に、あなたは皇室を崇拝していますか? それとも敬愛していますか? と尋ねたら、おそらく後者だと返答しただろう。           

 その限りにおいて、無宗ださんの指摘は正しい。

 では、私は何故、津田も西も用いていない「崇拝」などという言葉を持ち出したか。

 父母を敬愛するとは言う。師を敬愛するとも言う。上司を敬愛するとも言うだろう。
 しかし、皇室を、あるいは天皇を敬愛するという用法に、私は違和感を持つ。
 皇室や天皇というのは、「敬愛」という語の対象と成り得るものなのだろうか。
 「敬」はともかく「愛」などと気安く口にできる存在なのだろうか。

 また、敬愛というのは、その対象に敬愛するに値する美点があって、初めて成立するものではないだろうか。
 子を虐待する親、セクハラをする教師、パワハラをする上司に対して、敬愛の念を持つことなどできはしまい。

 この津田論文は、当時共産党やそれを支持する知識人などによって唱えられた天皇制廃止論に対抗して、実証史学の立場から、天皇がいわゆる専制君主とは異なり民主制とも反しないとして天皇制の堅持を説いたものだが、この論文末尾で示される天皇制を堅持すべき理由とは次のようなものである。重要な箇所なので、長くなるが大部分を引用する。


 日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想に於いては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、これを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上に於いて一度も無かった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。ところが、現代に於いては、国家の政治は国民みずからの責任を以てみずからすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義に於いて行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に、万世一系なのである。民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と事実に於いて民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き新しい状態、新しい思想に適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代に於いては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の氏族組織、令の制度の下における国民の生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。〔中略〕
 過去に於いて、皇室は美しい存在として時代時代のすべての教養あるものの心に宿って来た。ここに美しいといったのは、いろいろの意義に於いてであり、時代により人によってそれが違ってもいるが、君主国であるかぎり、その君主の家が、国家の成立のはじめから今日に至るまで、変らずに続いて来たということが、その美しさの一つの姿として、またその原因としても結果としても、考えられる。皇室は国民の生活とその進展との妨げとなるような行動をとられたことが、むかしから今まで一たびも、無かったので、国民が皇室の永久性を信じたのも、つまるところ、ここにその淵源があるが、その永久性のある皇室をもつことが、日本の国家の特質として、従ってまた国民の誇りとして、考えられて来た。そうしてそこから、皇室の国民に対してもたれる力の積極性が生じた。皇室に精神的権威があったというのはこのことである。〔中略〕このような皇室を遠い過去からもち伝えて来たわが国民は、それを一層美しくして後代に送るべきである。過去から伝えられたものを、現在の生活によって、新しく未来に展開させ、美しい精神と形とをそれに与えてゆくのが、国民の生活であり、それが即ち歴史の進展である。だから皇室についても、国民は、いわば一種の芸術的創造の力を以て、それを美しいものにもりたててゆくべきであって、これが歴史をもっている国民の自然の欲求である。そうしてそこに国民の皇室に対する愛の発現がある。
 国民自ら国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」を美しくするのも、しないのも、国民であり、そこに皇室が国民の皇室であられる所以がある。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。国民がすべてのことをなし得る能力を具え、またそれをなし遂げるところに、民主政治の本質があるからである。皇室を愛することができないような国民は、少くともその点に於いて、民主政治を実現する能力に欠けたところのあることを示すものである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。



 つまりは、皇室はわが民族内部から起こって、国民と対立するのではなく国民の内部において国民と共に在り、連綿と続いてきた、だからこれからも続けていくべきである、というのである。
 ここには、何故そうしなければならないのかという疑問に答えようとする姿勢はない。ただ、これまでがそうだったからこれからもそうすべきなのだと述べているにすぎない。
 皇室が歴史的に津田の主張するようなものだったとして、では明治政府が伝統に反して皇室と国民との関係を君臣関係と規定したことをどう考えるのか、あるいは昭和の軍部や官僚が天皇の名の下に彼らの恣に国を動かしたことをどう見るのか。そうしたことがあり、そのようなかたちで今後も皇室が利用される危険がある以上、必ずしも皇室の伝統を堅持する必要などないという主張も当然有り得るはずだ。
 また、民主主義と皇室は矛盾しないばかりか、民主主義を徹底させることによって皇室は国民と調和すると津田は説くが、民主主義とは自由と平等の思想に基づくものであり、どちらとも相反する皇室が民主主義下のわが国に存在するというのは原理的におかしいのではないか。それは、全ての国民に保障された自由と平等が皇室のみには保障されないということであるが、皇室の人々も津田が言うように「普通の人」であるはずである。それを「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴」という名の人身御供として維持していくことが可能なのか、また維持してゆくべきなのか。

 そうした疑問を棚上げして、言わば理屈抜きに国民は皇室を愛し、盛り立てよと説くのが津田である。

 そうした感情は、保守主義者としては自然なものだろう。しかし、そうした感情を「敬愛」と表現すべきなのだろうか。

 先にも述べたとおり、「敬愛」とは、その対象に敬愛するに値する美点があって、初めて成立する感情だと私は思う。
 しかし津田は、皇室が制度として優れているとか、わが国情に合致しているといった理由で、皇室の堅持を説いているのではない(そもそも連綿と存在してきたものなのだから、それが無い状態との比較などできない)。
 津田が皇室の堅持を説くのは、皇室がわが国の成立以来国民と共に続いてきたということ、ただそれだけが理由である。続いてきたことそれ自体を誇るべきであり、またそれ故に愛すべきだというのである。
 そうした感情は、「崇拝」と呼んで差し支えないと私は思う。

 それが、私が「崇拝」の語を用いた所以である。