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日本共産党は1951年には統一していた(6)結び

2023-03-25 11:06:47 | 日本共産党
承前

 宮本顕治は、「私の五十年史」(『日本共産党の五〇年問題について』新日本出版社、1981に所収)で、「一九五五年のある日」、当時地下指導部で主導権を握っていた志田重男(もちろん所感派)から協力を求められ、指導部に復帰することとなったと述べている(p.191-192)。
 時期をぼかしているが、おそらくこのことと、前回述べた、1955年2月の衆院選に立候補したことには関係があるのだろう。

 六全協が、志田と宮本の妥協の産物であり、合作、野合であるとはよく言われる。
 宮本は、自己批判して所感派主導の党に復帰してからは、武装闘争に異を唱えることなく、沈黙していたのである。だからこそ、志田重男から協力を求められ、それを利用して指導部に復帰し、その後志田が醜聞で自滅したため、党を牛耳ることに成功したのである。
 それを道徳的に、また政治技術的に、どうこう論評する気は私にはない。
 ただ、宮本体制確立の経緯がこのようなものである以上、武装闘争時代の出来事を、「党が分裂した時期の一方の側の行動」であるから関知しないなどという姿勢は国民に通用しないということを指摘しておきたいだけである。

 こんなことは常識で考えて当たり前のことで、かつての共産党(宮本体制確立後、野坂失脚の前まで)の言い分ならば、

1.Aという会社があった
2.A社は経営方針をめぐってB社とC社に分かれた
3.B社は不祥事を起こし、国民に損害を与えた
4.B社とC社は再統合して新生A社となり、経営陣から旧B社の不祥事の責任者は一掃された

となるが、これで新生A社が、B社の不祥事による責任から逃れられるかといったら、厳密な法律的な話はどうだか知らないが、道義的、政治的には無理な話だろう。

 ましてや、党が完全に分裂していたわけではなく、1951年には分裂がほぼ解消されていたのだから、実際には

1.Aという会社があった
2.A社は経営方針をめぐってB社とC社に分かれた
3.C社は外部からの批判を受け入れてB社に吸収され、B社は新生A社となり、その経営陣は旧B社が占めた
4.新生A社は不祥事を起こし、国民に損害を与えた
5.不祥事を起こした旧B社のリーダーと、不祥事に無縁な旧C社のリーダーが協力し、一部の旧B社幹部に不祥事の責任を負わせて切り捨てて、経営陣に旧C社のメンバーを加えて再編成した
6.旧B社のリーダーに新たな不祥事が発覚して新生A社を去ったため、旧C社のリーダーが新生A社を率いることとなった

となって、なおさら責任を回避できるものではない。

 そして、1992年の野坂失脚後、現在までの共産党の言い分では、

1.Aという会社があった
2.A社の役員の多数派が、社外の勢力に使嗾されて、少数派の役員を排除して、社内に事実上の別会社(??)を作った
3.事実上の別会社はA社を名乗って不祥事を起こし、国民に損害を与えた
4.事実上の別会社のリーダーは病気で死亡し、その後継者と排除された少数派役員のリーダーが手を組んでA社を再建した
5.元事実上の別会社の後継者は新たな不祥事が発覚したためA社を去り、少数派役員のリーダーがA社を牛耳った

となる。
 多数派役員による「事実上の別会社」というのが意味不明だが、だとしても、少数派役員が分社して別会社を作ったのではない以上、同じことである。

 共産党が責任を回避し続けていられるのは、国政に責任を負わない少数野党にとどまっていることと、党員や支持者が党の方針に盲従し続けていること、ただそれだけの理由による。

(完)


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