トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

朝日社説「ウィニー有罪 開発者が萎縮する 」

2006-12-14 22:54:56 | 事件・犯罪・裁判・司法
 今日の『朝日新聞』の社説が、昨日のWinny裁判の有罪判決を取り上げている。

「ウィニー有罪 開発者が萎縮する 」

《運転手が速度違反をしたら、速く走れる車をつくった開発者も罰しなければならない。
 そんな理屈が通らないのは常識だと思っていたが、ソフトウエアの開発をめぐってはそうではなかった。ファイル交換ソフトのウィニーをつくって公開した元東大助手が、著作権法違反幇助(ほうじょ)の罪で京都地裁から有罪判決を受けた。 》

 冒頭のこのたとえからして、既におかしいと思う。
 車は、ユーザーが常に速度違反をすることを前提に作られているわけではない。
 Winnyは、ファイル交換という名目のもと、実際は、ユーザーが著作権を侵害した利用法をするであろうことを十分にわかった上で、作成し公開したのではないか。

《このソフトを使って男性2人が無許可で映画などをネット上に流した。それが著作権法違反に問われた。元助手の罪は違法行為を手助けしたというものだ。
 この2人の行為は違法であることに間違いない。だが、元助手は2人と面識がなく、連絡をとりあったこともない。ウィニーには、違法な情報のやりとりをしないように注意書きもつけていた。
 しかし、元助手はファイル交換ソフトが著作権を侵害する状態で広く使われているとわかっていた。それにもかかわらず、ウィニーを公開してだれでも使えるようにしたのは幇助にあたる。これが判決の論理だ。
 ソフトの開発では、まず無料で公開し、意見を寄せてもらって改良するのが一般的な手法だ。しかし、今回の判決では、公開した時点で、悪用されるという認識があれば有罪になるというのだ。
 新しい技術を生み出した者は、それを悪用した者の責任まで負わされる。こんな司法判断では、開発者が萎縮(いしゅく)してしまわないか。納得しがたい判決である。》

 そうだろうか。
 悪用されることがわかった上で公開したのなら、悪用された責任は当然公開者にも及ぶのではないか。少なくとも、Winnyを公開しなければ、Winnyによる著作権侵害は生じなかったのだから、幇助罪に問われてもおかしくはない。
 そんなことで開発者が萎縮するというのなら、どんどん萎縮してもらいたいものだ。
 社説の言うのは、例えば、ワープロの登場により、脅迫状を活字で作成することができるようになって筆跡鑑定ができなくなったとか、インターネットの普及により、名誉毀損や侮辱が容易にできるようになったとか、そうしたケースになら該当すると言えるだろう。今回のケースには不適切だと思う。

《ファイル交換ソフトの開発者が刑事責任を問われたのは韓国と台湾で計3件あり、それぞれで1件ずつ無罪判決が出ている。問題のソフトでは著作権を侵害しないよう警告しており、合法的な情報も流れている。それが無罪の理由だが、こうした事情はウィニーも同じだ。 》

 では残る1件はどうなっているのか。審理中なのか。
 この社説は新聞紙上では3面に掲載されているが、その隣に「開発責任 割れる評価」という記事が載っている。それによると残る1件は台湾の事件で、「ソフトを開発し、音楽配信サービスを運営した3人が著作権法違反罪で起訴」され、「05年に地裁で禁固2~3年の有罪判決」を受けているという。このケースの事情は、Winnyと比較してどうなのか。何故有罪の事例とは比較しないのか。

《高速通信ができるブロードバンド時代を迎え、ウィニーのような技術は新たなビジネスモデルとして各国が開発を競っている。IT立国をめざす日本にとっても欠かせない技術だ。
 ただし、そうした技術は使い方次第で著作権を侵害する危険がつきまとうのも事実だ。ソフト開発の芽をつまずに、著作権を守ることを考えねばならない。それには、認証をとった人だけが使える管理機能を設け、利用者に課金するようなシステムをつくる必要があるだろう。
 技術者が開発をためらわない環境をいかに整えていくか。その問題が今回の有罪判決で改めて浮かび上がった。》

 だったら、そのようなシステムが構築された時点で公開すべきではないのだろうか。

 上記の「開発責任 割れる評価」という記事には、

《判決に批判的な見方もある。立命館大法学部の宮脇正晴助教授(知的財産法)は「実際にどんな行為が罪になるか明確ではない。技術者が社会的な影響を考え、慎重に判断して公開しなければならなくなる」と話した。》

とある。
 しかし、それは当然のことではないのか。社会的影響を考えずに、開発できたら即公開せよ、それが技術の進歩を促進し、社会の利益にもなると、朝日は考えているのだろうか。

独自の解釈に基づく「毛沢東主義」?

2006-12-14 00:44:41 | その他海外情勢
 12日からの『朝日新聞』国際面に、ペルー日本大使公邸人質事件の「10年後の証言」という連載が載っている。
 12日にはフジモリ元大統領、13日には、人質の一員だったが特殊部隊との連絡役を務めたという現副大統領が取り上げられている。
 その13日の記事中、「キーワード」というコラムで「ペルーの左翼ゲリラ」について解説されているが、その冒頭に次のような一節がある。

《独自の解釈に基づく「毛沢東主義」を唱えたセンデロ・ルミノソ(輝く道)と、人質事件を起こしたトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が二大組織。》

 「独自の解釈に基づく」ということは、毛沢東主義本来の解釈とは異なるということか?
 いや、「毛沢東主義」にカギカッコが付いているところをみると、「毛沢東主義」と呼ばれるもの自体が、外部勢力の勝手な毛沢東信奉の産物で、そういったものは中国には実在しないということなのか?
 しかし、現在の中国はともかく、かつて毛沢東が世界革命を主張し、各国の左翼勢力の一部がそれに呼応したことは事実だろう。
 ネパール共産党毛沢東主義派が国軍との停戦に応じたとの報道が最近あったが、彼らなども、「独自の解釈」というより、毛沢東思想そのものの信奉者ではなかったか。
 朝日がこうした表現をとるのは、やはり中国におもねっているのだろうか。