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浅羽通明『右翼と左翼』(幻冬舎新書、2006)

2006-12-11 23:34:05 | その他の本・雑誌の感想
 先月創刊された幻冬舎新書の1冊。帯に「右翼って何ですか? 左翼って何?」とある。
 「プロローグ 本書の読み方」に、

《本書のテーマは、(中略)「右ー左」」という対立軸です。この対立軸がどういうものかを、とりあえず「わかりたい」という人へ向けて本書は書かれました。》

とある。
 といって、本当に「右-左」がわからない人(そうした人はままいるものだが)への入門書とは言い難い。普通に用いられる「右-左」の意味は一応わかっているが、何故それを「右-左」と言うのかとか、具体的に何を指すのかとか、もっと突っ込んだことが知りたい人向けの本。
 全7章のうち6章までは、もっぱら右翼、左翼についての歴史が語られており、こうしたことにはある程度知識があったのでそれほど注目すべき箇所はなかったが、「第7章 現代日本の「右」と「左」」と「エピローグ-「右-左」終焉の後に来るもの」は、現代から将来についての話で、著者の主張が色濃く出ており、読み応えがあった。
 ただ、結論には同意できないが。
 「右」「左」という分類はもはや有効性を失い、一方で宗教と民族主義が台頭していると浅羽は説く。そして、

《「自由「平等」という近代的価値のみでは、人々の需要を充たすには足りず、近代国家という単位も、普遍性に疑問があるとわかってきた現在、我々にはいかなる社会思想が構想できるでしょうか。
 まずは、「右-左」図式が出現する以前、「権威・序列・忠誠」を柱とし、「権威」と「秩序」の公正を保障する普遍性ある巨大宗教(儒教を含む)がそれらを支えた「帝国」の可能性をもう一度検討すべきでしょう。
 (中略)
 科学技術、(中略)大衆社会、帝国主義、共産主義、ファシズムなどの歴史的経験、これら明暗交錯する蓄積を繰り込み、新たな千年紀を費やすやもしれぬ普遍的思想(宗教)を構築してゆくべし。こうならざるを得ないでしょう。》(p.244~245)

と結論づけるのだが、何故そうならざるを得ないのかわからない。
 何故、そのような大思想というか哲学体系というか、かつてのマルクス主義や現代のチュチェ思想みたいなものを必要としなければならないのだろう。

 浅羽は、7章後半においても、こう述べている。

《現在、日本の「右」「左」の対決はこれまでにもまして、不完全燃焼なものとなってきています。
 すなわちどちらにも「現実」から大きく飛翔してゆく「理念」が極めて乏しいからです。
 もし「右」が「理念」的であろうとするのならば、「右」を突き詰めて、日米安保の「現実」を否定、武装中立する日本となるべく準備していかねばなりますまい。
 (中略)
 よくいわれる「右傾化」「保守化」も現状追認のいい換え以上ではなく、現状否定が求められてはいない。これが現在の日本でしょう。
 (中略)
 あるいは、「左」が「左」を突き詰めるならば、単に非武装中立を実現して侵略の危険なき日本をアジアへ示すだけでは甘すぎましょう。徴兵制、徴労制を布いて、支那、南北朝鮮ほかアジア諸国への実効ある真の謝罪として、日本の男性は弾除けの兵役と労務、女性は慰安婦として永遠に償いを果たす制度くらいは実現すべきでしょう。》(p.211~213)

 現実から遊離した「理念」に、思考実験以上の何の意味があろうか。現実から遊離した「右」「左」それぞれの「理念」によって、世界中でさまざな悲惨な出来事が生じたのではなかったか。現状追認、結構なことではないか。
 どうも浅羽は、マルクス主義に代わるような新たな大思想、あるいは宗教、そういったものが世界には当然必要であるという前提があるように思える。

 「あとがき-非正規兵から一言」に、次のような一節がある。

《「右翼」「左翼」を生み出した近代を根底から問い直す「封建主義」を構想し、幕藩体制復興を唱える呉智英氏の思想的営為は、本書でも著者の大きな背景をなしています。》

 さもあらん。呉智英もたしかそのようなことを述べていた。私も以前は呉の著作を愛読していたが、最近見方が変わった。彼の所為は思考実験以上のものではないし、そこから大思想が生まれることもないだろう。本質的に彼は近代主義者である。隠れ左翼と言ってもいい。浅羽にも同様の限界を感じる。
 


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