こんなツイートを見かけた。
ハル・ノートを受諾していたらどうなっていたかという考察を聞いたことがないとすれば、それは当人の視野が狭いからだろう。
むしろ、歴史のifとして、誰しもが考えてみたくなることではないだろうか。
Googleで「ハルノートを受託していたらどうなっていたか」を検索してみると、Yahoo!知恵袋をはじめ、さまざまなコミュニティサイトで考察が展開されている。
手元にあった坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康の歴史家4人による討論集『昭和史の論点』(文春新書、2000)を開いてみると、ハル・ノートも取り上げられており、秦が「私は以前からハル・ノート受諾説なんです」「受諾するとか拒否するとかいわないで、しばらく放ったらかしにしておけばいい」と述べ、保阪が、有田八郎元外相は開戦後に読んで受諾すべきであったと書き残していると紹介しているのに対し、坂本と半藤は、受諾したとしても米国はすぐには石油をよこさないのではないかなどと否定的だが、わが国が米国の植民地と化したのではないかという不安など4人とも全く述べていない。
私が愛読した大杉一雄『日米戦争への道(下)』(講談社学術文庫、2008、親本は『真珠湾への道』講談社、2003)には、次のようにある。
大杉は続いて、枢軸国寄りではあったが第二次世界大戦では中立を維持したスペインの例を挙げて自説を補強している。
私はこの大杉の見解に強い説得力を覚える。
ところで、冒頭で挙げたツイ主のように、ハル・ノートについては、受諾か開戦かの二者択一で論じる人が多いが、ハル・ノートの冒頭には「試案ニシテ拘束力ナシ」とあり、またこれをいついつまでに受諾しなければかくかくしかじかの措置をとるといった文言もないのだから、いわゆる最後通牒ではない。したがって、大杉も述べているように、受諾も拒否もせずに交渉を続けるという選択肢も有り得た。
わが国がそうしなかったのは、このブログの以前の記事でも述べたように、交渉不成立の場合に開戦する期限をあらかじめわが国が決めていたからだ。ハル・ノートの内容があまりに堪えかねるものだったから開戦したのではない。もっと穏当な返答であったとしても、交渉不成立であれば開戦することになっていた。
そうした事情を抜きにして、ハル・ノートの内容のみをもって米国は不当だと断じる主張に、私は今や説得力を覚えない。
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平和を求めて1:「戦争は繰り返してはいけない」というのは誰でもわかるが、真珠湾攻撃をせずハルノートを受託していたらどうなっていたか、という考察は聞いたことはない。その場合日本は米国に石油を握られアジア他国同様植民地にさせられ、それは今でも続いていたかもしれない。それで良いのか?
ハル・ノートを受諾していたらどうなっていたかという考察を聞いたことがないとすれば、それは当人の視野が狭いからだろう。
むしろ、歴史のifとして、誰しもが考えてみたくなることではないだろうか。
Googleで「ハルノートを受託していたらどうなっていたか」を検索してみると、Yahoo!知恵袋をはじめ、さまざまなコミュニティサイトで考察が展開されている。
手元にあった坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康の歴史家4人による討論集『昭和史の論点』(文春新書、2000)を開いてみると、ハル・ノートも取り上げられており、秦が「私は以前からハル・ノート受諾説なんです」「受諾するとか拒否するとかいわないで、しばらく放ったらかしにしておけばいい」と述べ、保阪が、有田八郎元外相は開戦後に読んで受諾すべきであったと書き残していると紹介しているのに対し、坂本と半藤は、受諾したとしても米国はすぐには石油をよこさないのではないかなどと否定的だが、わが国が米国の植民地と化したのではないかという不安など4人とも全く述べていない。
私が愛読した大杉一雄『日米戦争への道(下)』(講談社学術文庫、2008、親本は『真珠湾への道』講談社、2003)には、次のようにある。
(3)日米戦争が避け得たならばそれに越したことはなかった、とは誰でも考えることであろう。そう思っても、いまさら詮ないことなのだが、そのような発想が少ないのは、そこに日本はあの戦争に負けてよかったのだという思いが潜在しているからであろう。たとえば「城山さん、あの戦争、負けてよかったですね。負けたのがいちばんの幸せ」という吉村昭と城山三郎の対談がある(城山は「負けてよかったとは言いたくないけどね」と応じているが。吉村昭『歴史を記録する』)。あの敗戦がなければ、今でもなお軍国主義日本が存続していて、軍人が幅をきかせており、市民的自由も、人権尊重も、また経済成長もなく、戦前の惨めな状態が続いているだけだという思いが強いのではないだろうか。〔中略〕
「ハル・ノート」に関する次のような見解も同様ある。
〔前略=深沢による〕私は、あのときにハルノートを受けいれた日本が、いまのこの時代までつづいていたと仮定したら、いささかゆううつになってしまう。……(政治的自由や経済的発展の観点からではなく)増上慢きわまりない国家になっていて、世界の鼻つまみになっていたはずだ。……とくべつの国家目標もなく太平洋を徘徊し、極東の権益に軍事力でしがみつき、国民は“神の子”と有頂天になっていたはずだからである。(保阪正康『さまざまなる戦後』)
(4)しかし筆者はどうしてもこのように想定することができない。日本がハル・ノートを受けいれ、あるいは事態の推移を見守った場合、後者のケースでは日中戦争はなお続くわけだが、その後の問題はヨーロッパの戦局推移、とくに独ソ線の行方である。真珠湾攻撃の日はドイツ軍のモスクワ敗退の日であったが、いずれ米国は参戦しドイツの敗北は必至である。しかみ日本の不参戦によって、その時期は早まり、勝利した連合国は、日本に対してさらに圧力をかけてくるだろう。すなわち撤兵および蒋介石政権を相手とする日中戦争の解決、中国における門戸開放の要求とともに、日本国内の民主化、軍備縮小を迫ってくるだろう。〔中略〕
ドイツ壊滅後、国際的にまったく孤立した日本は、もはや抗すべくもない。とても「極東の権益に軍事力でしがみつき、国民は“神の子”と有頂天になってい」るわけにはいかないのである。紆余曲折はあろうが、国内における軍部勢力は衰退せざるを得ず、親英米勢力が復活し、政権は文民の手に復帰することとなるだろう。軍部クーデタが起こったとしても、もはや軍事政権の永続を許す国際情勢ではあり得ない。むしろ戦時中抑えられていた国民のエネルギーは、その反動も加わって、はげしく盛り上がり、他から与えられたものでない、民主主義復活の方向に動くだろう。要するに「大正デモクラシー」の蘇生である。このように日本が第二次世界大戦に入らなかった場合の結果の想定は、決して悲観的に見る必要はない。もちろんその成果は、われわれの経験した戦後のそれに比べれば、テンポは緩慢で、徹底を欠き、不十分のものではあるだろう。しかしそれは何よりも、あの戦争の内外における、有形無形の犠牲と損害と惨禍を避け得たものであるし、また民族の誇りと自主性を保つこととなり得るのである。(前掲書、p.352-354)
大杉は続いて、枢軸国寄りではあったが第二次世界大戦では中立を維持したスペインの例を挙げて自説を補強している。
私はこの大杉の見解に強い説得力を覚える。
ところで、冒頭で挙げたツイ主のように、ハル・ノートについては、受諾か開戦かの二者択一で論じる人が多いが、ハル・ノートの冒頭には「試案ニシテ拘束力ナシ」とあり、またこれをいついつまでに受諾しなければかくかくしかじかの措置をとるといった文言もないのだから、いわゆる最後通牒ではない。したがって、大杉も述べているように、受諾も拒否もせずに交渉を続けるという選択肢も有り得た。
わが国がそうしなかったのは、このブログの以前の記事でも述べたように、交渉不成立の場合に開戦する期限をあらかじめわが国が決めていたからだ。ハル・ノートの内容があまりに堪えかねるものだったから開戦したのではない。もっと穏当な返答であったとしても、交渉不成立であれば開戦することになっていた。
そうした事情を抜きにして、ハル・ノートの内容のみをもって米国は不当だと断じる主張に、私は今や説得力を覚えない。
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