トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

中山成彬国土交通相の問題発言について

2008-09-29 00:39:10 | 「保守」系言説への疑問
 内閣発足からわずか4日で、辞任することとなってしまった。
 当初は、以下の発言が問題視された。「アサヒ・コム」の記事から。

中山国交相が「誤解を招く表現」を連発、撤回

 中山国土交通相は25日、報道各社のインタビューで問題発言を連発した。「誤解を招く表現があった」として撤回したが、今後、波紋を呼びそうだ。

 住民の根強い反対もあり整備が遅れる成田空港。今後の施策、整備の考え方を問われ「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも捨ててもというのが無くて、なかなか空港拡張もできなかった」と、住民の対応を批判した。

 来月1日に観光庁が発足するなど注目を集める観光行政。訪日観光客を増やすには閉鎖的な国民性の克服が必要ではないかとの質問に「日本はずいぶん内向きな、単一民族といいますか……」と答えた。86年、当時の中曽根首相は、「日本は単一民族」と発言し、アイヌ民族から抗議を受けた。

 文部科学相を経験している中山国交相は、教育問題にも言及。大分県教委の汚職事件について「日教組(日本教職員組合)の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と主張した。自ら提唱した全国学力調査については「日教組の強いところは学力が低いんじゃないかと思ったから」と実施の背景を説明。その仮説が証明されたとして「テストの役目は終わった」とも述べた。

 成田空港の問題っていうのは、果たして「ごね得」によるものなのか?
 私は詳しい経緯は知らないのだが、少なくとも当初の政府の対応に不手際があったことは事実であり、決して「ごね得」の一言で片付けられるようなものではないことぐらいは知っている。
 単に「ごね得」によるものなら、とっくに解決しているはずの問題ではないか?
 ましてや、この問題は1960年代に始まっているのである。その当時に抵抗を開始した農民は、決して戦後教育を受けた世代ではないだろう。
 ウィキペディアの「三里塚闘争」の項目に次のような記述があるので、参考までに引用しておく。

1960年代初頭、来るべく国際化に伴う航空(空港)需要の増大を見越し、政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。1963年(昭和38 年)の案では、現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発し、2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は、1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定した。御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。
開港後の現在では、『三里塚闘争』というと新左翼による反政府・反権力運動というイメージが強いが、当初は純然たる農民による農地防衛を意図する闘争活動であった。空港用地買収を困難にさせる為に土地一坪を購入し合う「一坪運動」を展開し、「無抵抗の抵抗で土地を守る」という考えに基づいたものであった。三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。そのため、自分たちが創り上げた土地を自分たちで守るという考え方が特に激しくなっても無理がない背景があった。反対同盟は、当初は農民を中心に1500戸の世帯を組織し、その中には少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊までが組成され、村ぐるみ、家族ぐるみの活動として始まった。

 次に、大分県教委の汚職問題は、果たして日教組の問題なのか? では、他の日教組の強い都道府県でも、同様の問題が起こっているのか? そして、日教組が弱い都道府県では、そうした事態は起こっていないのか?
 全国学力調査の目的が日教組の強弱と学力の相関関係を計るものだったというのも、どう考えてもそんなはずはないんで、元文科相としてそのような発言はいかがなものだろうか。
 ちなみに、朝日新聞がわざわざ調べたところによると、日教組の組織率の高低と学力の高低に必ずしも相関関係はないという(ウェブ魚拓)。まあ、そうだろうな。

 「単一民族」発言については、私は特に責める気にはならない。アイヌや沖縄人、在日韓国・朝鮮人などがいるというが、彼らがわが国でどれほど独自の民族性を保持していると言えるか疑問だからだ。日本はほぼ単一民族国家と言っていいと思うし、前の2つと異なりこの発言を問題視するのはむしろ「言葉狩り」的であると思う。

 これらの発言について、就任早々いらんことを言うものだと感じたが、その後撤回し謝罪したというので、辞任にまでは至らないのではないかと思っていた。
 しかし、中山はさらに次のような日教組批判を展開したという。これも「アサヒ・コム」の記事から。

中山国交相、日教組巡る発言撤回せず「教育のがん」
 中山国交相は27日、地元・宮崎市であった自民党宮崎県連の衆院選候補者選考委員会に出席した。あいさつの中で中山氏は「成田『ごね得』」「日本は単一民族」との発言は謝罪したが、「日教組の強いところは学力が低い」との発言は撤回せず、改めて「日教組は解体する」「日教組をぶっ壊せ」と強調。さらに、日教組が民主党の支持団体であることなどを指摘し、「小沢民主党も解体しなければいけない」と批判した。

 中山氏は会合の冒頭、「言葉足らずというか、説明不足もあって、不愉快な思いをさせてしまった。心から謝罪させていただきたい」と陳謝。26日に、アイヌ民族最大の団体「北海道ウタリ協会」の加藤忠理事長や、成田空港のある千葉県の堂本暁子知事らに謝罪したことも説明した。

 ところが、日教組をめぐる発言については「私も言いたいことがある」と切り出した。「日本では様々な犯罪が起こっている。もうけるためならうそを言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうかと。かつての日本人はどこに行ってしまったのか」と述べたうえで、その原因は日教組に問題があると主張。日教組が教育基本法改正や国旗・国歌や道徳教育の強制などに反対してきたことを挙げ、「何とか日教組を解体しなきゃいかん」「(元首相の)小泉さん流に言うと、『日教組をぶっ壊せ』。この運動の先頭に立つ」と力説した。

 さらに、社会保険庁の労働組合が自治労で、昨年の参院選比例区では自治労出身者が民主党の中では1位で当選したことについて言及。「日教組や社保庁という本当に働かなくても給料がもらえる官公労の職員に支援してもらっている民主党が政権を取ったらどうなるんだろうか」と強調し、「日教組解体、小沢民主党も解体しなければいけない」と述べた。

 会合を中座した中山氏は記者団に「日教組が一番の問題。日本の教育のがんが日教組」とも発言した。

 この発言で、私は中山に対してひどく失望した。
 「かつての日本人はどこに行ってしまったのか」とは何だろう。彼らは、現代の日本人に比べて道徳的にはるかに優れていたというのか。
 それは、単なる幻想にすぎないと私は思う。
 例えば、最近話題になった『戦前の少年犯罪』という本は、少年犯罪が近年とみに悪化しているとの説に何の根拠もないことを示していると聞く。
 そもそも、1943年生まれの中山が、「かつての日本」をどれだけ知っているというのだろう。

 日教組が教育を歪めてきたとは私も思う。
 だからといって、現代日本の諸悪の根源が日教組だなどと、下らないにも程がある。
 また、「日教組を解体」と言うが、組合は政治家が解体できる筋合いのものではない。テロ組織を非合法化するのとはわけが違う。

 中山は東大法学部卒で、大蔵官僚を15年ほど務めている。
 こうしたキャリアが、上記の諸発言に影響していないはずはないと思う。
 自分は賢いから、ロクな知識がない分野について勉強しなくても、自分の判断は常に正しいと過信しているのではないか。

 戦前のわが国では、たしかに成田空港のような問題は生じなかっただろう。
 それは、戦前の日本人が、「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」という精神に満ち溢れていたからではない。
 そもそも国家に抵抗することが許されなかったからだ。

 田中正造で有名な、足尾銅山鉱毒事件をまともに解決できなかったのが明治憲法下の政府である。
 国家無答責、すなわち、国家が国民に被害を与えても、国家はその責任を問われないのが当然とされた時代である。
 中山は、むしろそうした時代にあこがれを抱いているのではないか。

 中山がこの機に日教組批判を繰り返して、誰にどんなメリットがあったというのだろう。
「中山先生のおっしゃるとおりだ! 日教組は何としてでも解体しなければならん!」などと同調する者は国民のごく一握りだろう。
 誰にも求められていないのに、極端な持論を展開し、就任したばかりの大臣の地位をみすみす棒に振る。
 日教組批判はそうまでしてしなければならないことなのか?
 今の国政の課題は、また国交相としての中山の課題は、日教組批判ではないだろうに。
 そして、中山個人はそれでも信念を貫いて気持ちがいいかもしれないが、彼を新大臣として迎え入れていた国交省の面々にとってはどうだろう。モチベーションは当然下がるだろう。後任の大臣も、リリーフ的に起用されて、いい気持ちはしないだろう。
 また、自分の私的な見解を披瀝することの方が、大臣の地位に留まることよりも重要だというのだから、大臣の地位を軽く見ているということでもある。つまり、自らわが国の権威を貶めている。
 それはまた、任命権者である麻生首相に対しても、閣僚候補として送り出した町村派に対しても、極めて失礼な行為であろう。
 こんな人物が「公共の精神」がどうのこうのとは笑わせる。
 「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」とは、まず自分に言い聞かせるべき言葉だったのではないか。



町村派の体質に関する仮説

2008-09-17 00:04:23 | 現代日本政治
 安倍や福田が首相になるに至った経緯を考えると、どうも、町村派という派閥内で、安倍や福田は当初から将来の首相候補と目されていた節がある。
 それも、安倍や福田が並はずれて優れた才覚の持ち主であるというならともかく、単に、安倍晋太郎の息子(あるいは岸信介の孫)、福田赳夫の息子であるという理由のようだ。
 つまり、あの人に世話になったのだから、あの人の息子を是非首相にしてさし上げねばという感覚らしい。
 町村信孝前会長にしても、警視総監、北海道知事、自治相、自民党参院議員会長などを務めた大物議員である町村金五の息子ということで、おさまりがいいから会長の座に据えられていたように思える。
 これは、自民党の他の派閥ではちょっと例がない現象だと思える。
 もちろん、親子2代で同じ(あるいは同系列の)派閥に属することはしばしばあるが、例えば佐藤信二、鈴木俊一、中曽根弘文は、率直に言ってパッとしない2代目だし、故人である池田行彦も、外相や党3役を務めたものの、まあ似たようなものだろう。竹下元首相の異母弟である竹下亘や宮沢喜一の甥である宮沢洋一にしても、将来の首相候補と目されているとも思えない。

 町村派は福田康夫の父、赳夫の派閥である福田派の直系である。
 福田派に連なる人々は、国家観や安全保障、歴史認識について、「戦後日本」を象徴するかのような田中派、大平派の系列の人々よりははるかにましなものをもっていたように思う。そういう点で、私はこの派閥に好感を持っていた。
 ただ、この派閥が、かつてのボスの血を引く者だからという理由で、首相候補に引き立てるような前近代的な集団であることには、最近まで思い至らなかった。

 そしてまた、首相に据えること自体を目的とするあまりに、首相に就任した後のことにはさして関心がなくなっているのではないかとも思える。
 安倍や福田を何が何でも守ろうという気迫が感じられない。
 小泉は「国会議員は使い捨て」と言ったと聞くが、これでは、総理総裁は使い捨てということではないか。

 もっとも、福田の辞任により、町村派も弾切れの様子である。
 小池百合子が総裁選に立候補し中川秀直がバックアップしているものの、当選の見込みは薄い。
 総裁派閥として肥大化しすぎたことだし、今度の総裁選後の状況によっては、分裂することも十分考えられると思う。
 それでも、福田派の系譜を継ぐ者どもは、今後も当面は自民党の主流の座に収まり続けることだろう。


(以下2009.2.28追記)
 中川秀直『官僚国家の崩壊』(講談社、2008)に次のような記述がある。

翌一九八〇年六月に衆議院解散・総選挙があり、幸いにも私の浪人生活は八ヶ月で終わりを告げる。
 浪人時代、清和会と縁ができて安倍晋太郎氏の支援を受けたこともあって、選挙では、トップ当選で返り咲いた。こうして自民党入党後は、清和会のメンバーとなった。
 このとき安倍晋太郎さんから受けた恩義も重いものがある。一九九一年に亡くなられた安倍さんには恩返しの機会がないままだった。しかしその後、安倍晋三総理誕生の動きの一端を担わせていただき、幹事長として支えることができたので、少しでも恩に報いることができたのでは、と思っている。(p.141~142)


領海侵犯と朝日新聞の姿勢

2008-09-16 23:00:19 | マスコミ
 私は朝日新聞を購読している。

 たまたま15日の読売新聞朝刊を見る機会があった。
 1面左上に、以下の記事が掲載されている。

国籍不明の潜水艦、高知沖で領海侵犯(読売新聞) - goo ニュース

 由々しき事態である。

 私はその日自宅で、朝日新聞の朝刊をざっと読んできてはいた。しかし、そのような記事を読んだ記憶はない。
 帰宅して確認すると、社会面(後ろから3ページ目)に掲載されていた。ベタ記事ではないので普通に読んでいれば気がついただろうが、急いでいて見過ごしたらしい。
 朝日は1面にその日の紙面全体のダイジェストを載せている。ここにこの潜水艦の件も載っているのだが、ちょうど上下の折り目のすぐ下にあり、やはり見過ごしていた。

 他紙も確認してみると、産経、毎日、日経のいずれも1面で扱っている。全国紙で社会面にのみ載せているのは朝日のみである。

 私は、朝日の報道姿勢にいろいろと問題があるのは知っている。他紙を購読していたこともあるが、結局朝日に戻ってきた。いろいろな面で比較して、最も購読に値する新聞だと考えるようになったからだ。
 しかし、領海侵犯という重大な事態をこのように軽視する姿勢には、さすがに疑問を禁じ得ない。
 この1件で購読をやめるつもりはないが、こんなことでは、どこの国の新聞だかわからないとか、反日日本人などと言われても仕方がないだろう。

松前重義の「伝説」について

2008-09-15 23:55:09 | 日本近現代史
 少し前に、東條英機関連の記事を書いていて、松前重義について以前から気になっていたことを思い出した。

 松前重義(1901-1991)は東海大学の創立者であり、長期にわたって総長を務めた。また社会党の衆議院議員も務め、ソ連との民間交流のボス的存在であったことでも知られる。

 戦時下において、松前は逓信省工務局長という高官でありながら、東條と対立したため、年齢的に徴兵の対象外であるにもかかわらず、二等兵として召集され、危険な戦地へ向かわされたというエピソードは有名である。
 最近刊行された『別冊歴史読本 東條英機暗殺計画と終戦工作』に収録されている平塚柾緒「政策批判者を次々抹殺した東条英機首相の「憲兵政治」」においてもこのエピソードが取り上げられ、次のように述べられている。
松前の部下たちは先輩の召集解除に駆け回った。そして仕事の上で関係の深い、兵器行政本部長の菅靖次中将に解除を依頼した。菅中将は陸軍次官の富永恭次中将に松前の召集解除を求めた。すると富永は直立不動の姿勢をとり、きっぱりと断ったという。
「この事件については何も言わないでくれ。これは直接総理の命令であるから」
 このエピソードは、「竹槍では間に合はぬ」と書いて召集された毎日新聞の新名丈夫記者や、中野正剛の自決と並んで、東條独裁の悪しき面としてよく知られている。

 以前、保阪正康の『忘却された視点』(中央公論社、1996)を読んでいると、この松前のエピソードの信憑性に疑問があるとの文が収録されており、大変驚いた記憶がある。

 この件については気になってはいたのだが、その後、その保阪の本以外にそういった記述を目にすることはなかった。
 松前が、死後あっさりと忘れ去られていった人物だからかもしれない。

 『忘却された視点』を読み返してみた。
 『諸君!』1991年11月号に掲載された「松前重義の「伝説」」という文が収録されている(注1)。これは、松前の訃報に接した保阪による一種の追悼文である。ただ、掲載誌の性格もあってか、筆致は多分に揶揄的である。
 文中に、以下のような記述がある。
 松前重義という人物は多面体の人間であった。教育者、政治家、科学者、スポーツ振興の立役者、対ソ民間交流の実力者といった側面が次々に浮かんでくるが、その実像はよくわからない。ドンといわれ、黒幕といわれ、ときにフィクサーとも怪物ともいわれるのだが、実際にはどのような人物なのか。
 私は、深い関心をもってその解剖にあたってみた。
 松前には伝説、風評、噂の類がいくつも語られている。〔中略〕その実像が不明なために流言も飛びかった。
 たとえば、東條内閣に反対したために二等兵として南方に召集されたという伝説がある。昭和初期に劃期的な無装荷ケーブルを発明したという伝説。さらに社会党の衆議院議員であったが、その体質は社会党にあわなかったのではないかという疑問。東海大は四十八年間で巨大なマンモス私学に成長したが、そのプロセスでのさまざまな噂。昭和五十年代初めに社公民中道路線の旗振り役をつとめた真意。
 対ソ民間交流の前面にあって、ソ連との友好を進めたが、一貫して「ソ連のエージェントでは……」というデマゴギーも意識的にであろうが、政界などで流布されていた。
 どれをとっても、松前の素顔が明らかにならないための苛立ちから出発しているし、松前自身もそういう伝説を巧みに利用して、自己の影響力の拡大を図った節がある。
 本稿では、東條に反対して召集を受けたという「伝説」のみに話を絞る。
〔引用者注・松前の〕前半生には、重要なふたつのエピソードがある。ひとつは、無装荷ケーブルの発明であり、もうひとつは東條内閣に抗した反骨の士というレッテルである。後半生の松前は、このふたつのエピソードをフルに利用している。
 保阪によると、無装荷ケーブルの発明は専門家に高く評価されているという。
ところが、もうひとつのエピソードになると、松前神話はどうも不透明になってくる。
 例の「勅任官から二等兵」という反東條のエピソードである。これは東條内閣退陣の日(昭和十九年七月十八日)に召集令状を受けたために、東條の報復といわれているが、それを裏付ける正確な資料はない。
 保阪によると、戦後松前と政治行動を共にした松井政吉(当時、日本対外文化協会副会長)は、東條の仕業だと断言しているという。
二等兵召集の真相は、いまとなっては検証できぬもどかしさがあるが、松前自身はこのエピソードを巧みに使って戦後のアリバイにした。そのために、真偽とりまぜて不必要に語りすぎている面もある。自伝のなかでも語っているが、戦後すぐに逓信院総裁になったときに、下村定陸相が「陸軍からのお詫びだ」といって百万円をもってきたという。しかし、そんなことは、当時の事情を知っている者には考えられないことだ。現に前出の松井も「当時の陸軍の残党にそんなことができるわけがない」というのである。
 さらに松前の息のかかった書物やパンフレットでは「大東亜戦争に反対し……」とまでもちあげている。何やらその辺のいい回しは、少々自分に都合のいいようにできすぎている。東條内閣が倒れたのも、松前の生産力の数字を昭和天皇が目をとおして信任しなくなったからと自ら書いているのも昭和史の歴史的経緯とは異なっているのである。
 それは確かに歴史的経緯と違うなあ。

 ネットで検索してみると、なるほど、松前重義の長男達郎(現東海大学総長)による次のような文章が見つかった。
-父の”懲罰徴収”-

 やがてわが国は太平洋戦争に突入、科学技術と資源を基盤とする戦いが始まった。科学技術者である松前重義は、人間が体力や技能や精神力で戦ってきた過去の戦争は終わり、新しい時代の戦争は、科学技術を駆使した兵器や、それらを生産する技術と人材、資源量などによって優劣が決定すると主張、日本の将来を憂える代表的技術者と共に日米の生産力や資源量の調査を始めた。調査の結果は当時の政府が主張したデータとは全く異なる結果となった。 即ち、当時の日米の生産力を比較すると、日本は米国の約十分の一であり、とうてい大規模な戦争を行うことは不可能である。もしも、日本が米国と対等に戦争をするのなら、技術の格差は別にして、年間最低六百万トンの鉄鋼と三十万トンのアルムニュームと、十六万トンの銅、十三万トンの鉛等が必要であるにもかかわらず、当時の日本の生産実績は鉄鋼が約四百二十万トン、銅が七万八千五百トン、鉛が二万三千トン程度であった。しかも、アルミニュームやニッケルなどは原材料を海外に依存せざるを得ない。このような現実を隠蔽し、戦争を続けようとするのは無謀であるという結論である。当時の軍部(陸軍)にとって、松前重義の存在は目の上のコブであった。私達の家の周辺には憲兵が出没するようになり、やがて軍部により松前重義に対する懲罰召集が実行された。この召集を懲罰でないと言う人がいるが、当時四十三才、逓信省工務局長という勅任官であり、わが国の情報通信の責任者を召集令状も提示せずに東条内閣総辞職の代償として最後の権力を行使し電報一本で召集したのである。これは懲罰召集以外何ものでもない。この召集に関して高松宮殿下は日記のなかで次のように述べられている。
 『松前運通省工務局長が応召したとの話で尋ねたら、やはり熊本の西部22部隊に二等兵として召集された由、実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である』
 東海大学のホームページには、「松前重義と建学の精神」と題する文章があり、こう述べられている。
やがて第二次世界大戦が始まると、松前はわが国の生産力などの様々な科学的データをもとに戦争の早期終結を唱えたため、通信院工務局長(当時のわが国における通信部門の最高責任者)という国の要職にありながら、42歳で兵隊の位で一番低い二等兵として南方の激戦地に送られました。そのため望星学塾の活動も停止せざるを得なくなりました。
しかし九死に一生を得て帰国すると、やがて技術院参議官となり、原爆投下の翌日には広島の現地調査に入って、原爆の惨状を目の当たりにしました。そして終戦後すぐ逓信院総裁に就任し、廃墟となった日本の通信事業の復興に努めます。一方、1943年に開設した航空科学専門学校を前身とし、文科系と理科系の相互理解と調和を基本に掲げて東海大学(1946年旧制東海大学、1950年新制東海大学となる)を開設しました。
 ともに、松前重義が大政翼賛会の総務部長を務めたこと、また戦後公職追放を受けたことには触れていないのがほほえましい。

 一方、報復説の信憑性に疑問を呈するものは見当たらなかった。たまたま私が探し出せなかっただけかもしれないが、そう広く語られていないことは確かだろう。

 しかし、保阪も「それを裏付ける正確な資料はない」と述べるのみで、どこがどう疑わしいのか具体的に示しているわけではない。
 この話自体よりも、この話を政治利用した松前重義に対して、うさんくささを感じていたということだろうか。

 たしか、このエピソードは、細川護貞の『細川日記』(注2)にも取り上げられていたはずだ。
 確認すると、昭和19年10月1日の記述に、次のようにある。
尚余は旅行中にて知らざしりも、松前重義氏は東条の為一兵卒として召集せられ、去る七月東条内閣退陣後二日に発令、熊本に入営せりと。初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり。
 だから、少なくとも戦中にそのような説がささやかれていたのは事実だろう。

 ところで、『細川日記』には、便利なことに人名索引が設けられている。
 それで松前重義を検索してみると、次のような記述を見つけることができた。
 昭和18年11月16日の箇所には、こうある(太字は引用者による。以下同じ)。

五時、通信院工務局長松前重義博士を訪問。築地増田にて会食。博士は技術的方面より観察するに、現内閣の施策は総て上滑りの状態にて、極論すれば生産を減退せしむることのみに専念しつヽありとすら云ひ得る状態なりと。斯の如き状態にては、勝ち得る戦も敗れざるを得ず。一日も速やかに政府を転覆するを可とするも、その方法は東条の名誉欲を満足せしむる様な方法として、彼を元帥伯爵位に奏請すれば、恐らく彼も退陣すべく、国家を救ふ為には、之位の代価は実に安価なるものなりと。博士は当初より東条反対を以て知られ、且つ戦争前より南進論者なりしを以て、意見を徴したるも、要するに東条に対する反感は別として、今日の要務は生産の増強にあり。而も夫れが為に政治なかるべからずとの意見なり。若しその施策にて当を得んか、全体として二倍、個々の産業に於て十倍に近き増産を為し得べく、現在にては、個人当り生産能率が、独米の十分の一なるを以て、全体として倍加するごときは易々たることなりと。
 また、昭和19年1月31日の箇所には、こうある。
四時頃、近衛公訪問、富田氏も同席。富田氏は〔中略〕又人によりては(松前重義、長沼、石川海軍少将等は、)松岡元外相を偉人の如く称揚し、此の人のみが最適の首相なりと云ひ居る由を、笑い乍ら話す。
 昭和19年3月15日の箇所には、こうある。
正午、軍需省にて清水伸氏の紹介により、監理部長渡辺渡少将に面会、松前重義、清水伸四人にて会食。松前氏は此のまヽにては我国敗戦の他なきことを云ひ、〔中略〕若し東条を倒し、理想的なる内閣出現せば、国内の不急鉄道を取りはづし、又は各工場、殊に軍工場の不要品を集めて、百万噸の鉄を得べく、是で急場をしのぐこと可能なりと。又電波兵器の如きは、我国の技術のレベルが、米国に比し極めて劣り居るを以て、是が水準を高めざるべからずと。而して今理想的なる内閣を作らねば、四月の初めには重大なる危機来るべしとのことなりしを以て、余は、「四月と云へば後十数日を出でず。若し今東条内閣倒れ、理想的なる内閣出現するとするも、夫が実務につくを得るは、少くとも一ヶ月を要すべく、屑鉄の回収も、斯の如く速かには実現せざるべく、又技術の如きは、全体のレベルの問題なれば、一朝一夕のことに非ざるを以て、結局松前氏の議論は、理想的なる内閣出現するも、我国は敗北すとの見解に他ならざるごとく考ふるも、其点如何」と質問したれば、氏は言を左右にして、明答を避けたり。
 ここで示されている松前重義像は、上記の松前達郎や東海大学によるそれとはかなり異なると言えるだろう。

 しかし、それはそれとして、懲罰召集説が不透明であると言えるのかどうか、私には疑問である。
 富永恭次は戦後も存命していたはずだが、この件について見解を明らかにすることはなかったのだろうか。
 もし、懲罰召集説を認めていたのなら、保阪がわざわざこのように書くはずはないから、否定していたか、見解を明らかにしていないか、どちらかなのだろう。

 そして、独裁者というものは、通常、重要事項については全て把握しているはずである。
 些末的なことならともかく、重要事項について、独裁者のあずかり知らぬところで、下僚が独断で行うということはありえない。
 とすると、松前重義が東条にとってどの程度重要な人物であったかということになると思うのだが、このへんは正直断言ができないが、『細川日記』で挙げられている星野直樹書記官長のエピソードなどから考えても、かなり重要視されていたと考えていいのではないだろうか。

 私は、保阪正康という人物は、基本的に信頼できる書き手だと思っている。
 しかし、この「松前重義の「伝説」」におけるこのエピソードの扱い方については、やや不信感を抱いている。
 掲載誌の読者や編集者への迎合の気運が感じられる。

 ただそれでも、戦前の松前重義の行動が、必ずしも戦後松前自身がアピールしていたようなものではなかったということを知らしめたという点で、この文章には十分意義があると思う。
 あまり知られていない話だと思われるので、ここで紹介する次第だ。

注1 『忘却された視点』は版元品切れだが、収録内容をやや変更して、『昭和戦後史の死角』とのタイトルで朝日文庫から刊行されている。「松前重義の「伝説」」も収録されている。
注2 細川護貞は、細川護煕元首相の父。熊本藩主を務めた細川家の17代当主。近衛首相の秘書官を務めた後、戦時中、近衛の意を受け、天皇に国情の実際を知らせるべく高松宮に各種情報を報告する任務に就く。その間の昭和18年11月から21年10月までに書かれた日記が、1953年『情報天皇に達せず』とのタイトルで刊行された。1978年『細川日記』と改題されて中央公論社から再刊、のち中公文庫に収録。昭和史に関する一級史料の1つである。

死刑廃止論者の言い分

2008-09-14 01:18:25 | 事件・犯罪・裁判・司法
 私は素朴な死刑存置論者だが、少し前に『世界』9月号が「死刑制度を問う」という特集を組んでいるのを店頭で見て、たまには死刑廃止論者の言い分にも耳を傾けてみようと思い、購入した。
 いくつかの論文や対談、インタビューが掲載されていたが、しかし、心に響くものはなかった。存置論を修正する必要があるとは感じなかった。

 印象に残った箇所について、心覚えとして書き留めておく。

 加賀乙彦と安田好弘(麻原彰晃や光市事件被告の弁護人を務めた)との対談で、加賀は次のように述べている。
一般の人びとは、死刑がどのような刑罰であるかという、基本的なことを知りません。拘置所の中での死刑囚の実態についても、一切官の側からの情報が流れないのです。
そして、ジャーナリズム全体に徳川時代と全く同じ仇討ちの思想がいまだに残っている。死刑の判決が出ると社会部の記者は必ず被害者家族にインタビューして、「死刑の判決が出てほっとしました」といった〝誘導尋問〟をして記事にします。ところが何人かの記者に聞きましたが、彼らは死刑囚の実態をほとんど知らない。〔中略〕被害者の家族の方々も、死刑囚の実態を知らされることなく、一律に「死刑判決が下ってよかった」と言わされているように思います。
 たしかに、死刑囚の実態が広く知られているとは思わない。私も詳しくは知らない。
 しかし、死刑囚の実態を知らなければ、死刑の存否について判断を下すことはできないのか?

 私は、死刑のみならず、懲役刑の実態も詳しくは知らない。
 花輪和一の『刑務所の中』というマンガがヒットし、映画化もされるぐらいだから、きっと世の多くの人々もそうなのだろう。
 だからといって、私が懲役刑を存続させるべきだと考えることは許されないのだろうか。
 私が何らかの犯罪の被害に遭って、その容疑者が捕まれば、おそらく、警察の事情聴取の際に、処罰についての意見を聞かれることだろう。
「こんなケシカラン奴は、一日でも長く刑務所に入れておいてほしいと思います」
と言うことは、懲役刑の実態を知らなければ、許されないのだろうか。
 そんなことはないだろう。どうして被害者や第三者が、いちいち刑の実態を知った上でないと意見を述べてはならないのか。
 死刑についても、同じことではないだろうか。

 また、仮に、死刑囚の実態に人権上の問題があるとすれば、それは改善すれば済むことではないのか。
 そのことと、死刑の存否とは本来別の話だろう。
国家が殺人を犯すということは、国家が禁止している殺人を肯定することになってしまうのです。ですから死刑という刑罰は、殺人を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです。実際死刑は野蛮です。野蛮というのは、行為自体が野蛮なのではなくて、それによって醸し出される思想や価値観が野蛮なのです。
 ヨーロッパや韓国など、多くの国で死刑が廃止されていると聞く。
 わが国はそれら諸国と比べて、思想や価値観が野蛮なのだろうか。
 私はそれら諸国の社会の実態を知らない。だから、はっきりしたことは言えないのだが、海外事情に詳しいであろう知識人やジャーナリストなどからそういった趣旨の告発は聞かない。加賀も、わが国のどこが野蛮であると具体的に述べているわけではない。

 これが、懲役刑ならどうだろうか。
 加賀に倣って言うと、こうなるだろう。
「国家が懲役刑に処するということは、国家が禁止している拉致監禁して強制労働させることを肯定することになってしまうのです。ですから懲役刑という刑罰は、拉致監禁や強制労働を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
 さらに、罰金刑ならどうだろう。
「国家が罰金刑に処するということは、国家が禁止している窃盗を肯定することになってしまうのです。ですから罰金刑という刑罰は、窃盗を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
 こうした主張に賛同する方はそう多くはあるまい。そんなことを言い出せば、刑罰というものを科することはできなくなるからだ。いや、国家による刑罰に限らず、各種の共同体における、ルール違反に対するペナルティについても、同様のことが言えるだろう。

 安田弁護士は、昨今の世論調査で、死刑廃止論がさらに少数になり、死刑存置論が数を増していることについて、次のように述べている。
どうしてこんなことになったのか。日本には、もともと人の命を大切にするという思想や価値観が稀薄だったのかもしれません。あるいは、人を赦すということが、私たちの生き方、あるいは社会的価値観として共有されていなかったのかもしれません。
 それは逆ではないだろうか。
 人の命を大切にしたいからこそ、それを恣意的に奪った者に対して、極刑を求める感情が生まれるのではないだろうか。
 なんでもかんでも死刑にすればよい、例えば、万引きや痴漢でも吊せばよいのだというような意見が多数を占めているのなら、安田の言うこともわからないでもない。しかし、わが国の死刑存置論は、そういうものではないと思う。
 また、「赦す」とはどういうことだろうか。犯人が心から反省し、被害者に対して謝罪してから、はじめて被害者側に赦しの感情が生まれてくるものではないだろうか。反省も謝罪もないのに赦せと言われてもそれは無理な話だろう。また、反省し謝罪している犯人に対して、なおも世論が死刑を強く求めるケースが果たしてあっただろうか。
事件を犯した少年を非難することと彼を殺すことは別なのです。あの少年は事件当時一八歳一か月で、しかも幼いころから父親に徹底して虐待され、その父親の虐待が原因で自分の目の前で母親が自殺するという、大きな心の傷を負ったまま育ってきている。しかしそうした背景や社会全体が抱える問題を全部捨象して、彼を殺すことによって問題を解決しようというのは、思考停止、弱い者いじめのリンチ以外の何物でもないと思います。お互いの共存、他人への理解、人間の尊重という民主主義の前提からかなり逸脱しています。
 彼を殺すことによって問題は解決しない。
 そんなことは、司法関係者は百も承知だろう。
 裁判は、「社会全体が抱える問題」を解決するためのものではない。あくまで、彼個人にどのように刑事責任を取らせるかということを決める場にすぎない。
どうして事件を起こしてしまったのかという問題で象徴的なことがあります。多くの場合、裁判所は、被告人の幼少時の不幸が事件に影響していたとしても、これを否定します。彼らは、同じように不幸な境遇であっても、彼以外の大多数の人は事件を起こさずに生きているではないかというのです。
 しかし、実はそうではなく、逆なのです。同じような負の因子の中で育ちながらも、事件を起こさないで済んでいる理由を問うてみる必要があるのです。なぜ被告人は事件を起こし、彼以外の人は起こさないで済んでいるのか。もっと言ってしまえば、ぼくたち自身がどうして犯罪を犯すことなくいままで生きてこられたのか、それを問う視点がないから、いつまでたっても犯罪が個人の問題だけに還元されてしまう。個人の問題にされてしまうと、やはり復讐あるいは排除ということになってしまいます。司法が事実に向き合うという、司法たる責任を果たしていないことの積み重ねが、いまのような大変悲惨な事態を生み出しています。
 「それを問う」てどうなるのだろう。
 犯罪を個人の問題ではなく社会の問題だと考えるとする。すると個人の問題は消滅するのか? 考えなくてもいいのか?
 裁判は個人の問題を国家が裁く場である。社会の問題について結論を出す場ではない。

 安田は、司法に本来の役割以外のものを求め、それが果たされてないとゴネているだけである。
 そして、そういう理屈を持ち出すことで、死刑制度に対する疑念を膨らませようと画策している。
 だったら安田は、刑事弁護ではなくもっと違う分野で、社会の問題を解決せよと唱えるべきではないだろうか。

 「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香は、インタビューで次のように述べている。
みんな忘れているのですよ、自分自身も環境や場合によっては、凶悪犯罪を犯す羽目になるかもしれないということを。もちろん最終的に行動したその個人の責任は免れることはできません。しかし、たとえば鳩山大臣のように、生まれたときから何不自由なく物心のあらゆる面で恵まれた生活をしてきた人間には、そんな罪を犯すような瞬間はきわめて少ないでしょう。だから想像力が及ばないのだと思います。
 一緒にこの地球上に生息している存在として、私たちの社会の責任というものを全く考えないで、悪いことをした奴は除去していくという、強者の論理で押し切ることはやはり私はやめるべきだと思います。
 ここにも、論理の飛躍がある。
 「社会の責任というものを全く考えない」死刑存置論者がどこにいるというのだろう。
 社会の責任についてはまた別に考えればよい。
 社会にも責任があるから、個人に生命を奪うまでの刑を科すべきではないという理屈は、ちょっとよくわからない。
人間には、どんなに真面目に一生懸命生きていても、他人にたいへんな被害を与えている場合がある。
 たとえば食堂をやって一生懸命仕事をして、大繁盛する。これはいいことで、だれも批判することではない。ところが、それによってライバル店がつぶれる、サラ金から金を借りる、サラ金に金が返せない。一家心中するという場合だって、普通に起こりうることです。
 つまり、人間存在そのものが自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている存在でもあるのですよ。そう考えると、罪を犯した人間に対して単に自己責任だと、命を奪ってまで苛斂誅求することが本当にいいのかどうか。
 こんな、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな屁理屈を言い出せば、責任は無限に拡散し、誰にも何の責任も問えないことになるのではないか。
 「自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている」場合と、意図的に他人に被害を与える場合とでは、責任の有り様は当然異なる。
――亀井先生がずっと死刑廃止を主張し続けられる根本には何があるのでしょうか。
亀井 それは私は、あたりまえの感情を言っているのです。ごくごく自然に考えたら、死刑は廃止となりますよ。私は聖人君子でもないから、逆に犯罪を犯してしまう人に対してシンパシーがあるかもしれないですね。
 私は山の中の小さな村で、下から数えた方が早いような農家の生まれです。やはり生きていくことがどんなに辛いか、それはいろいろな経験をしました。〔中略〕
 簡単に言えば人間は偉そうなことは言えないということです。警察官だったときに連合赤軍の森恒夫を取り調べたこともありますが、かれら極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。かれらなりに世の中をよくしたいというところから始まって、武力闘争に至ってしまう。まちがった道だけれども、世のため人のためにと自分の生死を投げ打った、そこにはやはり尊いものがあると思ったのです。人間というのはそういうものではないでしょうか。
 私はこの箇所を読んで、愕然とした。
 亀井は警察の高級官僚でありながら、こんな感覚で公安事件を見ていたのか。
 まちがった道だけれども、動機が純粋であれば尊いのか。
 ならば、二・ニ六事件の青年将校や、サリンを撒いたオウム真理教の連中も尊いのだな?
 スターリンや毛沢東、ポル・ポトも尊いのだな?

 動機がどうであれ、間違っていることはしてはいけないのである。
 それが20世紀における人類の教訓であると私は思っているが、亀井の思うところはどうやら違うらしい。

 そして、
「極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。」
 そんなことは当たり前で、彼らは言うなればイデオロギーに殉じた人々、もっと単純に言えば狂信者である。いわゆる「悪人」とは違うだろう。
 では、暴力団の幹部や、前科何十犯というような職業的犯罪者なら、「根っからの悪人」か?
 私は、「根っからの悪人」などそうそういないと思う。
 世に伝えられる凶悪犯罪者にしても、おそらく、実際に接してみれば、程度の差はあれど、普通の人間と同様、長所も欠点もあるだろう。会話を交わしてみれば、愛すべき点も見られるだろう。
 しかし、そのことと、その犯人に刑罰を科すべきかどうかということとは別の問題である。たとえ、その刑罰が死刑であろうとも。

 井上達夫、河合幹雄、松原芳博の3人による座談会「死刑論議の前提」で、河合幹雄・桐蔭横浜大学法学部教授(1960-)が次のように発言している。
これは、知る人ぞ知る話ですけれども、殺人事件というのは実は被害者側に責任があるケースがほとんどです。そうでないと殺せない。けれども、被害者が無垢なケースしかマスコミに出られないものだから、ものすごく違うイメージになっている。学生たちにいわせると、被害者、特に遺族に量刑を決めさせたらいいとかいいますけれども、殺された人の遺族は加害者本人というケースが過半数です。だから、殺人の現状を全然知らないわけです。
井上 つまり、多くの殺人事件は家族間で起こっている。
河合 そうです。既遂に絞ると家族間で過半数です。しかも正式に結婚していないと家族外とカウントされますから、実際は大多数が家族内と考えてもらっていい。見知らぬ被害者は一割ぐらいでしょうか。
 また、次のようにも。
被害者の中で感情移入が本当にできるような人は少なくて、「あいつだけは生かしてはおけないと思っていた」とか、「おれがやらなくても誰かがやった」という事件はゴロゴロあるのが実態です。
 私は、殺人事件の実態を詳しくは知らない。
 しかし、仮に河合の言うとおりだとしても、それは、殺人事件一般の話だろう。死刑事件一般の話ではない。
 河合が言うような被害者側に責任があるケースについては、そうそう死刑にならないのではないか。

 現に、先日の3名に死刑執行との報道を見ると(大阪・東京拘置所で3人の死刑執行…保岡法相で初(読売新聞) - goo ニュース
万谷死刑囚は、1968年に起こした強盗殺人事件で無期懲役の判決を受けた後、仮出所中だった88年1月、大阪市の市営地下鉄谷町四丁目駅構内の通路で、短大生(当時19歳)の胸を包丁で刺して殺害したほか、87年8、9月にも、同市内で通りがかりの若い女性をナイフや鉄パイプで襲い、バッグを奪うなどした。2001年12月に最高裁で死刑判決を受け、確定した。

 山本死刑囚は2004年7月、いとこ夫婦に借金を断られ2人を包丁で刺殺し、約5万円を奪うなどした。神戸地裁の公判では、迅速化のため事前に争点を整理する「期日間整理手続き」を適用。06年3月、初公判から約2か月で、死刑判決を言い渡した。弁護側は控訴したが、本人が取り下げ、死刑が確定した。

 平野死刑囚は94年12月、過去に住み込みで働いていた栃木県内の牧場経営の男性(当時72歳)宅に侵入。男性とその妻(同68歳)をナイフなどで殺害、現金約56万円や貴金属などを奪い、放火して男性宅を全焼させた。
 いずれも、家族間の犯行ではないし、被害者側に責任があるとも思えない。
 また、死刑存置論者が想定している対象事件も、当然河合の言うようなケースではないだろう。
 河合は、関係ない話をさも関係あるかのように持ち出して、ごまかしているだけである。

 河合はまた、次のようにも言う。
私の言う理想は、死刑ができる裁判がある、けれども死刑判決が出ない。だから、死刑賛成ではないけれども、制度としての死刑廃止は反対なんです。
死刑判決をもらったあとの人間の変わりようというのは、すごいものがある、あれだけはあってもいいということを、現場の刑務官でいっている人がたくさんいます。だから最後に殺してしまわない制度をつくったらどうかという提案ができるし、実はそれは簡単にできるんですね。一審を死刑にして、最後を死刑にしなければできる。治安維持法時代は完全にそういう手法を使っていて、初めは厳罰で、その後転向させるという伝統があったのに、最近は、逆に最後に最高裁で死刑でしょう。あれは日本の伝統からいっても、まさに無様といいたいです。
 治安維持法違反で死刑になった者は日本人にはいないと聞くが、1審判決が死刑で、上級審で覆った事例があったのであろうか。
 仮にあったとしても、それは政治犯のことだろう。
 当時、刑事犯にそのような「一審を死刑にして、最後を死刑にしな」いということが行われていたのかどうか。
 おそらく行われていないはずだ。行われていれば、死刑廃止論者の多くがは「戦前は死刑が実質廃止されていたのに、戦後になって復活し、最近になって執行が増加している。反動的である」と主張するだろうからだ。
 だから、河合の言うような「伝統」は存在しない。
 これもまた、本来関係のない話を持ち出して、すり替えているだけだ。
 河合というのは、なかなか欺瞞的な人物であるらしい。
 

小池百合子は「政党を転々として」などいない

2008-09-13 02:21:27 | 現代日本政治
 このたびの総裁選に立候補した小池百合子は、自民党に入党してもう6年近く経つというのに、未だに「政界渡り鳥」などと評されるのだなあ。
ウェブ魚拓1
環境、防衛相などとして敏腕をふるう一方、時局をみて所属政党を転々と変えてきた小池氏の評価は分かれる。時代の流れをよむセンスのよさとみるのか、信念のない「渡り鳥」とみるのか。
「小池氏は変わり身の早さはあっても、政策に芯を感じない」

ウェブ魚拓2
小池氏は92年に日本新党から参院選に出馬して当選。翌93年に衆院議員になって以降は、02年に自民党に落ち着くまでに新進、自由、保守と政党を転々としてきた。

 これは前にも書いたことだが、1年以上経ったのでもう一度書いておこうか。
 
 小池百合子は確かに日本新党から初当選し、新進党→自由党→保守党→自民党と所属政党を変えてきた。しかし、小池は、既存の政党を渡り歩いてきたのではない。例えば、現時点で言うなら、社民党から初当選し、やがて民主党、はたまた国民新党、そして自民党に移ったということではない。
 日本新党は他の野党とともに解党して、2大政党の一方を目指す新進党に結集した。小池もまたそれに応じたにすぎない。
 そして、新進党は内紛のためわずか3年余で解党した。その中で小沢一郎党首を支持する一派が自由党を結成した。小池もそれに加わったにすぎない。
 日本新党と新進党、それぞれの誕生から消滅までの間、小池は所属し続けた。
 
 自由党はやがて自民党と連立するが、さらに公明党を加えた短期間の自自公連立の後、連立から離脱した。この際、連立残留を主張する一派が自由党から分裂し、保守党を結成した。野田毅、扇千景らだ。小池もこれに加わった。
 さらに、保守党が熊谷弘ら民主党からの離脱組を加えて保守新党に改組した際、これに加わらずに、野田らとともに自民党に合流した。
 保守党についても、最初から最後まで小池はメンバーであった。

 現在の自民党を除き、小池が所属してきた政党は、いずれも短命に終わってきた。
 しかし、小池が政党を転々としたのではない。小池は、中途離脱した自由党を除き、それぞれの政党に殉じてきた。

 小池と違って保守新党にも参加した上、結局自民党に戻った二階俊博や扇千景は、
自民党→新生党→新進党→自由党→保守党→保守新党→自民党
というさらに複雑な経過をたどっている。しかし、彼らに対して、政界渡り鳥といった批判は聞かない。
 何故、小池だけがあのように批判されなければならないのだろうか。

 小池が批判に値するとすれば、それはまず、自民党の長期政権を批判して政界入りしたにもかかわらず、自民党に加わったということと、自分の実力よりも、その時その時の権力者(細川→小沢→小泉)に取り入ることで脚光を浴びてきたかのような印象があることだろう。
 しかし、前者については、何度も言うが、小沢、鳩山、菅の民主党トロイカもまた自民党との連立経験者である。
 また、小池と同じく総裁選に立候補している石破茂は新進党からの出戻り組なのに、小池に対するような批判は聞かない。
 後者についても、そうしたことは必ずしも異例ではないと思える。

 彼女への批判については、多分に、出る杭は打たれるといった面が強いのではないかと思う。
 あるいは、かつての、自民党政権を倒してくれるという期待への反動か。

 小池が仮に自民党総裁に当選した場合、安倍や福田同様の担がれ政権となって短命で終わりそうな気がするので、私は今回の総裁選で小池を支持するつもりはない。
 しかし、小池が「政党を転々として」はいないということは、この機会に強調しておきたい。


「ブロガー新党」の解消を祝して

2008-09-12 23:37:22 | ブログ見聞録
 久しぶりに堀端勤さんのブログを見てみると、こんな記事が。
ユナイト・ゼロ 政治・社会刷新共同体
設立宣言

 あれま。
残念なことに、日本の市民運動は長年に渡り政治の様な「派閥対立と分断・世代間の価値観ギャップ」によって低迷を続けてきた。私は色々な運動の集まりにも顔を出したが「あの団体は○○派だから一緒に活動したくない。」や「あいつらのバックには○○との繋がりがあるからカンパには応じない。」等の声を多数聞いた。
〔中略〕
唯一活動の中に入って行けた「反貧困ネットワーク」で、私は「立場を超えてつながる」と言う大切さを知ることとなった。その中で失念したが「ゼロになって繋がろう」と言う言葉にハッとさせられた。
「ゼロ・0・ZERO」…そう、人は生まれた時はみんな「ゼロ」。其処にはプラスもマイナスも無い世界。「ゼロ」は無限の可能性と平等を示す言葉。それが何時しかしがらみの中でプラスやマイナスを付けられ、対立や闘争、そして戦争へのきっかけとなってしまう。
何故私達は「ゼロ」になれないのだろう…。
だから…今こそ「ゼロ」に立ち返り「現在の政治・社会を小手先の『改革』するのではなく、綺麗さっぱり『刷新』するための『繋がり→共同体作り』」。それこそこの新団体の名前に込めた思いがある。

 「ブロガー新党」はどうなったの?
堀端が進めてきた「ブロガー新党」などの運動は、全て今後この「ユナイト・ゼロ」に集約される方針は全て継承した上で、当面の目標である「自公独裁政権打倒」を旗印に、全ての市民運動・労働運動に携わる方に広く門戸を開けて結集を求めたい。

 「「ブロガー新党」など」は「全て」「集約」ですか。
 「ブロガー新党」以外に何かありましたっけ?

 「方針は全て継承」って……。
 その「方針」と、堀端勤さんの日頃の言動が全く異なる点については、どう考えているのだか。

 ともあれ、今後は「ブロガー新党」ではなく「ユナイト・ゼロ」であるらしい。
 「ブロガー新党」のネーミングを苦々しく思っていた1ブロガーとして、実に喜ばしい事態が到来したものだと思う。

 しかし、「ユナイト・ゼロ」……。
 unite は動詞である。
 動詞を団体名には普通もってこないと思うが。
 unite zero って、意味わかんないし。  

 ところで、「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなきゃダメだ」という伊東正義の名言があるが、堀端勤さんにも同じことが言えるだろう。
この記事のコメントに賛意を記載すれば即会員として認定の上、活動をお願いしたい。
という態度は、「ブロガー新党」時の
では、これで当面は党の骨格が出来ましたので、後は今後集まるだろう実務者の方に付託して、我々は一人でも多くの協力者を探しましょう。

と、何も変わらない。
 ブログで何やら団体を名乗って適当なことを書き連ねていたら誰かが担いでくれるだろうという、果てしなく他人頼みな姿勢に何の変化もない。
 早速コメントを寄せているTOCKAさんが、
ですからやはり、外の現場で動かないと駄目でしょうねえ。

と一蹴しているのももっともだ。

 ただ、当人もさすがに今となっては、そんなことは十分承知しているだろう。
 それでも、
ユナイト・ゼロ政治・社会刷新共同体
代表 堀端 勤 

などと名乗りたいという欲望には抵抗しがたいものらしい。
 1人で「代表」を名乗って何が楽しいのだか、私には想像もつかないが。 



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福田康夫首相の辞意表明の報を聞いて(2)

2008-09-07 23:59:44 | 現代日本政治
 福田にしても、安倍にしても、政権を実に簡単に手放しすぎだと思う。
 それは結局、何が何でも首相になるんだと自力で獲得した政権だからではなく、勝ち馬だということで、他の思惑がある者どもに担がれて成立していた政権にすぎなかったからだろう。

 「ねじれ」で国会対策が困難だとはいえ、内閣不信任案が可決されたわけじゃなし、首相の座に居座ろうと思えば居座れるのである。
 それを、早々に辞任してしまうというのは、地位に恋々としないと言えば聞こえはいいが、要は、首相としてどうしてもやり遂げたいことがあるわけではなかったということではないか。
 あるいは、担いでいた者どもの離反の臭いを嗅ぎ取り、先手を打ったのか。引きずり下ろされるよりは、潔く辞任すべしという或る種の美学によるものか。

 支持率が低下していたというが、竹下内閣の末期など、ある世論調査によると、1ケタ台の支持しかなかった。閣僚の辞任も相次ぎ、満身創痍になりながらも、消費税の導入を成し遂げた上で竹下は辞任した。
 岸内閣が、アンポ反対の大合唱の中、安保改定を成立させた上で辞任したことは周知のとおりである。
 三木内閣は、いわゆる「三木おろし」に遭いながらも、衆議院の任期満了まで持ちこたえた。
 そうした例と比べて、安倍や福田はあまりにもふがいないと思う。 

 「ねじれ」は、仮に次の衆院選で自民党が過半数を獲得したとしても変わらないから、次期政権が衆院選後も続くとしても、安倍、福田と同様の担がれ政権であるならば、同様の事態が生じるおそれは多分にある。
 現時点で総裁選に何人か名乗りを上げているが、本来党内に基盤を持たない小池百合子など、人気先行で首相になってしまった場合、非常に危ういのではないだろうか。


解散総選挙を露骨に志向する朝日

2008-09-03 00:39:55 | マスコミ
 福田康夫首相の辞意表明を伝える2日付けの『朝日新聞』朝刊の紙面は、とにかく流れを解散総選挙に持っていこうとの意図が感じられる、報道機関としての中立性を問われても仕方がないとの印象を与えるものだった。
 1面に星浩・編集委員による「政権降りて総選挙を」との見出しの解説記事がある。自民党内で政権をたらい回しするのではなく、民主党に政権を譲り、選挙管理内閣で民意を問えと説いている。
 3面の大見出しは「高まる解散気運」。しかし、記事のリードは、《臨時国会で指名された新しい首相は与野党の激しい国会攻防に直面し、年末・年始の解散を余儀なくされる可能性が高まっている》というもので、今すぐ解散をとの声が高まっているわけではない。
 同じく3面の社説の見出しは「早期解散で政治の無理正せ」。
 5面の見出しは「野党「審判仰げ」」。
 投書欄の「私の視点」には、早速、飯尾潤・政策研究大学院大教授の投稿が掲載されている。《自民党は野党になることを恐れすぎる。与党であることにしがみつこうとするので、停滞感が生まれ、弱体化が進んだ。なぜ勝負に出ないのか。自分たちの主張を掲げ、信を問うべきだ。》と、やはり解散総選挙を説いている。
 
 1面の星浩の記事の冒頭に、次のようにある。

《1年前の安倍首相の辞任表明のリプレーを見ているかのようだ。》

 私もそう思った。と同時に、解散総選挙、あるいは民主党への政権移譲を説く声もまた、1年前と同じではないかと思った。

 朝日社説は言う。


《 ■政権の正統性回復を

 首相には、打開の道もあったはずである。首相の座についてから最初の予算案を編成したあと、今年1月にも衆院の解散・総選挙に打って出て、政権の正統性を取り戻すことにほかならなかった。

 小泉政権時代の郵政総選挙から3年。安倍、福田と政権がたらい回しされたのに、政権選択を問う衆院選は一度も行われていない。参院選では与党が惨敗した。

 衆院では自民、参院では民主と、多数派が異なる中で、政策の方向がなかなか決まらないのは構造的なものだ。自民党のだれが首相になろうと、政権運営は早晩、行き詰まらざるをえない。その根本的な矛盾がある限り、世論の支持も上がらない。

 自民党総裁選を経て選ばれる新首相の使命は、できるだけ早く衆院を解散し、国民の審判を受けることだ。それなしに、まともで力強い政権運営をすることはできない。

 政治がいま迫られているのは、社会保障の立て直しと財政の再建を両立させる方法を国民に示すことだ。さらに、効果的な景気対策をどう講じるかという難題も重なっている。

 場合によっては、国民に痛みを強いる選択も避けられまい。民意を体した正統性のある政権を一日も早く日本に取り戻さなければならない。 》


 次期政権は衆院選を経ない限り民意を体しておらず正統性はないと言わんばかりである。

 以前にも述べたように、こうした考え方には非常に問題があると思う。
 衆議院議員に4年の任期が保障されている以上、任期中の議院の構成こそが間接民主制の下での「民意」である。
 そして、衆議院の解散は、内閣の専権事項であり、他者が容喙すべきものではない。

 そういう朝日は、2000年の衆院選で、自公保連立の下で勝利した森喜朗内閣に対して、どういう態度をとってきたのか。
 「民意を体した正統性のある政権」として尊重していたか?
 朝日の言う「民意」「正統性」など、方便にすぎない。

 星浩の解説記事は言う。


《福田氏は、辞任にあたって「国民のため」と強調していたが、自民党がいま、国民のためになすべきことは、自民党内の政権たらい回しではない。民主党に政権を譲り選挙管理内閣によって、衆院の解散・総選挙で民意を問うことである。国民の手に「大政奉還」して、新しい政治を築き上げる時だ。

 自民党が誕生する前の保守政治の歴史には、時の政権が行き詰まったら「憲政の常道」として、野党第1党に後を委ねる慣行が成立していた時期もある。》


 前にも書いたが、そんな慣行が成立していたと何をもって言い得るのか、不可解である。
 芦田内閣から第2次吉田内閣に政権が移ったのは、芦田内閣の与党3党が連立を維持できなくなった上に、吉田茂の民主自由党が衆議院で第1党であったという事情がある。第5次吉田内閣から鳩山内閣に政権が移ったのは、吉田の自由党が既に少数与党に転落しており、内閣不信任案が可決され、さらに首相指名で鳩山を民主党のみならず左右の社会党が支持したからだ。いずれも、与党が参議院では過半数に満たないもののの衆議院では圧倒的多数を占める現在の国会の状況とは全く異なる。
 それとも星は、昭和前期のことを念頭に置いているのだろうか。昭和前期にも「憲政の常道」の名の下に少数野党への政権交代が行われたことがあったが、これは、当時首相は議院とは無関係に元老が指名できる制度であったため、西園寺公望が独自の観点から行ったことにすぎない。与党が主体的に野党に政権を譲ったのではない。

 「慣行が成立していた」などともっともらしいデマを持ち出してまで政権交代を説く星浩・編集委員の見識を疑う。
 

福田康夫首相の辞意表明の報を聞いて

2008-09-02 22:51:13 | 現代日本政治
 昨晩、たまたまテレビをつけたら、このニュースだった。
 時間がなかったので、記者会見の内容や詳しい解説は聞いていない。

 1年前の安倍前首相の時と同様の衝撃を受けた。
 しかし、安倍の時のような憤りは全く覚えなかった。
 期待がなければ、失望もない。
 また、所信表明演説後に辞意表明というような、あまりにも不誠実な振る舞いではなかったせいもあるだろう。

 戦前、広田弘毅に林銑十郎、また平沼騏一郎に阿部信行、米内光政と、在任1年に満たない短命内閣が続いた時期があったことを思い出す。
 今また、そういう時期なのだろうか。
 もっとも、安倍、福田両政権が短命に終わったのは衆参両院の「ねじれ」が原因だから、戦前の短命内閣と同列には論じられないが。

 後継は麻生が有力視されているが、麻生が立つことで果たして潮目が変わるだろうか。
 事実上の禅譲だから、その上福田改造内閣を継承するようなことをしたら、決して良いイメージは与えないだろう。少なくとも、最初から自前の内閣で臨むことは必要だろう。
 また、「ねじれ」はそのままなのだから、民主党が方針を変えない限り、国会運営でも苦しむことには変わりない。今さら大連立もできまいし。
 とすると、危険な賭けだが、解散総選挙か。それで勝ったとしても、やはり「ねじれ」は変わらないから、その上で大連立か。あるいは、民主党の一部を引き抜くか。
 総選挙で自民、民主ともに過半数を得られない場合、公明を排除して大連立ということも有り得るな。

 私としては、自民、民主ともに解体し、わかりやすい対立軸で再編成してもらいたいものだと思うが、無理だろうなあ。