内閣発足からわずか4日で、辞任することとなってしまった。
当初は、以下の発言が問題視された。「アサヒ・コム」の記事から。
成田空港の問題っていうのは、果たして「ごね得」によるものなのか?
私は詳しい経緯は知らないのだが、少なくとも当初の政府の対応に不手際があったことは事実であり、決して「ごね得」の一言で片付けられるようなものではないことぐらいは知っている。
単に「ごね得」によるものなら、とっくに解決しているはずの問題ではないか?
ましてや、この問題は1960年代に始まっているのである。その当時に抵抗を開始した農民は、決して戦後教育を受けた世代ではないだろう。
ウィキペディアの「三里塚闘争」の項目に次のような記述があるので、参考までに引用しておく。
次に、大分県教委の汚職問題は、果たして日教組の問題なのか? では、他の日教組の強い都道府県でも、同様の問題が起こっているのか? そして、日教組が弱い都道府県では、そうした事態は起こっていないのか?
全国学力調査の目的が日教組の強弱と学力の相関関係を計るものだったというのも、どう考えてもそんなはずはないんで、元文科相としてそのような発言はいかがなものだろうか。
ちなみに、朝日新聞がわざわざ調べたところによると、日教組の組織率の高低と学力の高低に必ずしも相関関係はないという(ウェブ魚拓)。まあ、そうだろうな。
「単一民族」発言については、私は特に責める気にはならない。アイヌや沖縄人、在日韓国・朝鮮人などがいるというが、彼らがわが国でどれほど独自の民族性を保持していると言えるか疑問だからだ。日本はほぼ単一民族国家と言っていいと思うし、前の2つと異なりこの発言を問題視するのはむしろ「言葉狩り」的であると思う。
これらの発言について、就任早々いらんことを言うものだと感じたが、その後撤回し謝罪したというので、辞任にまでは至らないのではないかと思っていた。
しかし、中山はさらに次のような日教組批判を展開したという。これも「アサヒ・コム」の記事から。
この発言で、私は中山に対してひどく失望した。
「かつての日本人はどこに行ってしまったのか」とは何だろう。彼らは、現代の日本人に比べて道徳的にはるかに優れていたというのか。
それは、単なる幻想にすぎないと私は思う。
例えば、最近話題になった『戦前の少年犯罪』という本は、少年犯罪が近年とみに悪化しているとの説に何の根拠もないことを示していると聞く。
そもそも、1943年生まれの中山が、「かつての日本」をどれだけ知っているというのだろう。
日教組が教育を歪めてきたとは私も思う。
だからといって、現代日本の諸悪の根源が日教組だなどと、下らないにも程がある。
また、「日教組を解体」と言うが、組合は政治家が解体できる筋合いのものではない。テロ組織を非合法化するのとはわけが違う。
中山は東大法学部卒で、大蔵官僚を15年ほど務めている。
こうしたキャリアが、上記の諸発言に影響していないはずはないと思う。
自分は賢いから、ロクな知識がない分野について勉強しなくても、自分の判断は常に正しいと過信しているのではないか。
戦前のわが国では、たしかに成田空港のような問題は生じなかっただろう。
それは、戦前の日本人が、「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」という精神に満ち溢れていたからではない。
そもそも国家に抵抗することが許されなかったからだ。
田中正造で有名な、足尾銅山鉱毒事件をまともに解決できなかったのが明治憲法下の政府である。
国家無答責、すなわち、国家が国民に被害を与えても、国家はその責任を問われないのが当然とされた時代である。
中山は、むしろそうした時代にあこがれを抱いているのではないか。
中山がこの機に日教組批判を繰り返して、誰にどんなメリットがあったというのだろう。
「中山先生のおっしゃるとおりだ! 日教組は何としてでも解体しなければならん!」などと同調する者は国民のごく一握りだろう。
誰にも求められていないのに、極端な持論を展開し、就任したばかりの大臣の地位をみすみす棒に振る。
日教組批判はそうまでしてしなければならないことなのか?
今の国政の課題は、また国交相としての中山の課題は、日教組批判ではないだろうに。
そして、中山個人はそれでも信念を貫いて気持ちがいいかもしれないが、彼を新大臣として迎え入れていた国交省の面々にとってはどうだろう。モチベーションは当然下がるだろう。後任の大臣も、リリーフ的に起用されて、いい気持ちはしないだろう。
また、自分の私的な見解を披瀝することの方が、大臣の地位に留まることよりも重要だというのだから、大臣の地位を軽く見ているということでもある。つまり、自らわが国の権威を貶めている。
それはまた、任命権者である麻生首相に対しても、閣僚候補として送り出した町村派に対しても、極めて失礼な行為であろう。
こんな人物が「公共の精神」がどうのこうのとは笑わせる。
「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」とは、まず自分に言い聞かせるべき言葉だったのではないか。
当初は、以下の発言が問題視された。「アサヒ・コム」の記事から。
中山国交相が「誤解を招く表現」を連発、撤回
中山国土交通相は25日、報道各社のインタビューで問題発言を連発した。「誤解を招く表現があった」として撤回したが、今後、波紋を呼びそうだ。
住民の根強い反対もあり整備が遅れる成田空港。今後の施策、整備の考え方を問われ「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも捨ててもというのが無くて、なかなか空港拡張もできなかった」と、住民の対応を批判した。
来月1日に観光庁が発足するなど注目を集める観光行政。訪日観光客を増やすには閉鎖的な国民性の克服が必要ではないかとの質問に「日本はずいぶん内向きな、単一民族といいますか……」と答えた。86年、当時の中曽根首相は、「日本は単一民族」と発言し、アイヌ民族から抗議を受けた。
文部科学相を経験している中山国交相は、教育問題にも言及。大分県教委の汚職事件について「日教組(日本教職員組合)の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と主張した。自ら提唱した全国学力調査については「日教組の強いところは学力が低いんじゃないかと思ったから」と実施の背景を説明。その仮説が証明されたとして「テストの役目は終わった」とも述べた。
成田空港の問題っていうのは、果たして「ごね得」によるものなのか?
私は詳しい経緯は知らないのだが、少なくとも当初の政府の対応に不手際があったことは事実であり、決して「ごね得」の一言で片付けられるようなものではないことぐらいは知っている。
単に「ごね得」によるものなら、とっくに解決しているはずの問題ではないか?
ましてや、この問題は1960年代に始まっているのである。その当時に抵抗を開始した農民は、決して戦後教育を受けた世代ではないだろう。
ウィキペディアの「三里塚闘争」の項目に次のような記述があるので、参考までに引用しておく。
1960年代初頭、来るべく国際化に伴う航空(空港)需要の増大を見越し、政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。1963年(昭和38 年)の案では、現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発し、2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は、1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定した。御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。
開港後の現在では、『三里塚闘争』というと新左翼による反政府・反権力運動というイメージが強いが、当初は純然たる農民による農地防衛を意図する闘争活動であった。空港用地買収を困難にさせる為に土地一坪を購入し合う「一坪運動」を展開し、「無抵抗の抵抗で土地を守る」という考えに基づいたものであった。三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。そのため、自分たちが創り上げた土地を自分たちで守るという考え方が特に激しくなっても無理がない背景があった。反対同盟は、当初は農民を中心に1500戸の世帯を組織し、その中には少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊までが組成され、村ぐるみ、家族ぐるみの活動として始まった。
次に、大分県教委の汚職問題は、果たして日教組の問題なのか? では、他の日教組の強い都道府県でも、同様の問題が起こっているのか? そして、日教組が弱い都道府県では、そうした事態は起こっていないのか?
全国学力調査の目的が日教組の強弱と学力の相関関係を計るものだったというのも、どう考えてもそんなはずはないんで、元文科相としてそのような発言はいかがなものだろうか。
ちなみに、朝日新聞がわざわざ調べたところによると、日教組の組織率の高低と学力の高低に必ずしも相関関係はないという(ウェブ魚拓)。まあ、そうだろうな。
「単一民族」発言については、私は特に責める気にはならない。アイヌや沖縄人、在日韓国・朝鮮人などがいるというが、彼らがわが国でどれほど独自の民族性を保持していると言えるか疑問だからだ。日本はほぼ単一民族国家と言っていいと思うし、前の2つと異なりこの発言を問題視するのはむしろ「言葉狩り」的であると思う。
これらの発言について、就任早々いらんことを言うものだと感じたが、その後撤回し謝罪したというので、辞任にまでは至らないのではないかと思っていた。
しかし、中山はさらに次のような日教組批判を展開したという。これも「アサヒ・コム」の記事から。
中山国交相、日教組巡る発言撤回せず「教育のがん」
中山国交相は27日、地元・宮崎市であった自民党宮崎県連の衆院選候補者選考委員会に出席した。あいさつの中で中山氏は「成田『ごね得』」「日本は単一民族」との発言は謝罪したが、「日教組の強いところは学力が低い」との発言は撤回せず、改めて「日教組は解体する」「日教組をぶっ壊せ」と強調。さらに、日教組が民主党の支持団体であることなどを指摘し、「小沢民主党も解体しなければいけない」と批判した。
中山氏は会合の冒頭、「言葉足らずというか、説明不足もあって、不愉快な思いをさせてしまった。心から謝罪させていただきたい」と陳謝。26日に、アイヌ民族最大の団体「北海道ウタリ協会」の加藤忠理事長や、成田空港のある千葉県の堂本暁子知事らに謝罪したことも説明した。
ところが、日教組をめぐる発言については「私も言いたいことがある」と切り出した。「日本では様々な犯罪が起こっている。もうけるためならうそを言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうかと。かつての日本人はどこに行ってしまったのか」と述べたうえで、その原因は日教組に問題があると主張。日教組が教育基本法改正や国旗・国歌や道徳教育の強制などに反対してきたことを挙げ、「何とか日教組を解体しなきゃいかん」「(元首相の)小泉さん流に言うと、『日教組をぶっ壊せ』。この運動の先頭に立つ」と力説した。
さらに、社会保険庁の労働組合が自治労で、昨年の参院選比例区では自治労出身者が民主党の中では1位で当選したことについて言及。「日教組や社保庁という本当に働かなくても給料がもらえる官公労の職員に支援してもらっている民主党が政権を取ったらどうなるんだろうか」と強調し、「日教組解体、小沢民主党も解体しなければいけない」と述べた。
会合を中座した中山氏は記者団に「日教組が一番の問題。日本の教育のがんが日教組」とも発言した。
この発言で、私は中山に対してひどく失望した。
「かつての日本人はどこに行ってしまったのか」とは何だろう。彼らは、現代の日本人に比べて道徳的にはるかに優れていたというのか。
それは、単なる幻想にすぎないと私は思う。
例えば、最近話題になった『戦前の少年犯罪』という本は、少年犯罪が近年とみに悪化しているとの説に何の根拠もないことを示していると聞く。
そもそも、1943年生まれの中山が、「かつての日本」をどれだけ知っているというのだろう。
日教組が教育を歪めてきたとは私も思う。
だからといって、現代日本の諸悪の根源が日教組だなどと、下らないにも程がある。
また、「日教組を解体」と言うが、組合は政治家が解体できる筋合いのものではない。テロ組織を非合法化するのとはわけが違う。
中山は東大法学部卒で、大蔵官僚を15年ほど務めている。
こうしたキャリアが、上記の諸発言に影響していないはずはないと思う。
自分は賢いから、ロクな知識がない分野について勉強しなくても、自分の判断は常に正しいと過信しているのではないか。
戦前のわが国では、たしかに成田空港のような問題は生じなかっただろう。
それは、戦前の日本人が、「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」という精神に満ち溢れていたからではない。
そもそも国家に抵抗することが許されなかったからだ。
田中正造で有名な、足尾銅山鉱毒事件をまともに解決できなかったのが明治憲法下の政府である。
国家無答責、すなわち、国家が国民に被害を与えても、国家はその責任を問われないのが当然とされた時代である。
中山は、むしろそうした時代にあこがれを抱いているのではないか。
中山がこの機に日教組批判を繰り返して、誰にどんなメリットがあったというのだろう。
「中山先生のおっしゃるとおりだ! 日教組は何としてでも解体しなければならん!」などと同調する者は国民のごく一握りだろう。
誰にも求められていないのに、極端な持論を展開し、就任したばかりの大臣の地位をみすみす棒に振る。
日教組批判はそうまでしてしなければならないことなのか?
今の国政の課題は、また国交相としての中山の課題は、日教組批判ではないだろうに。
そして、中山個人はそれでも信念を貫いて気持ちがいいかもしれないが、彼を新大臣として迎え入れていた国交省の面々にとってはどうだろう。モチベーションは当然下がるだろう。後任の大臣も、リリーフ的に起用されて、いい気持ちはしないだろう。
また、自分の私的な見解を披瀝することの方が、大臣の地位に留まることよりも重要だというのだから、大臣の地位を軽く見ているということでもある。つまり、自らわが国の権威を貶めている。
それはまた、任命権者である麻生首相に対しても、閣僚候補として送り出した町村派に対しても、極めて失礼な行為であろう。
こんな人物が「公共の精神」がどうのこうのとは笑わせる。
「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも」とは、まず自分に言い聞かせるべき言葉だったのではないか。