今年1月27日、ポーランドのアウシュヴィッツで解放70周年の記念式典が行われた。
これを受けて、同月28日付朝日新聞夕刊の1面コラム「素粒子」はこう述べた。
「どちら側だったかを思い戦慄」?
わが国はアウシュヴィッツに強制収容所を建設したナチス・ドイツの側、ソ連の後身であるロシアはその解放者の側ということか。
しかし、わが国は、ドイツのように占領地に強制収容所を建設し、ホロコーストを行ったのではない。
中国の王毅外相は1月28日イスラエルの外相と北京で会談した際に、この解放70周年について「欧州にはアウシュビッツ収容所の悲劇があり、中国には南京大虐殺があった」「歴史的な事実は否定できず、不正なことと正しいことを混同してはならない」と述べたと報じられているが、いわゆる南京大虐殺は戦争の過程で生じた不祥事であって、わが国は政策として中国人の絶滅を企図したのではない。
また、アウシュヴィッツ収容所などで何が行われていたかは、ドイツの敗北後明らかになったことだ。
わが国はそれを承知の上で日独伊三国軍事同盟を結び、第二次世界大戦に加わったのではない。
「どちら側」と言うなら、ロシアは解放者の側だと安易に言えるのか。
ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった1939年9月1日に先立つ8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれた。ドイツはソ連から攻撃を受けるおそれを解消して、ポーランドと同盟を結んでいたフランス及びイギリスとの開戦に臨んだわけだが、この条約にはさらに秘密議定書があり、ドイツとソ連で東ヨーロッパを分割占領することで合意していた。ドイツの侵攻にポーランド軍が後退を続ける中、ソ連は9月17日にポーランド東部に侵攻した。ソ連の占領下では捕虜となった4000人以上のポーランド軍将校らが虐殺されるカティンの森事件などが生じた。ポーランドにとってソ連もまた侵略者であった。
1941年6月、ドイツはソ連に宣戦した。ドイツ軍はポーランド東部からソ連軍を駆逐し、さらにソ連領内に侵攻した。ソ連は当初敗退を重ねたが、スターリングラードの戦いを機に反攻に転じ、やがてポーランドを「解放」し、共産党政権を打ち立てた。しかし戦後のポーランドのソ連との国境は、戦前に比べて大きく西にずれたものとなった。ソ連がかつての占領地を併合したからである(一方敗北したドイツの東部がポーランド領に組み入れられた)。
第二次世界大戦における連合国は、領土不拡大を原則としていた。その主要国の中で唯一領土の大幅な拡大に成功したのがソ連であった。
わが国に対しても、日ソ中立条約を破って侵攻し、北方領土を併合し、長期にわたって捕虜の不当な抑留を続けたことは言うまでもない。
そしてまた、当時のソ連国内にも強制収容所が設けられていた。
ロシアが自国を解放者だと強弁するのはロシアの自由だ。それがロシアの国益に資すると考えているのだろう。
しかし、被害を受けた側の国の人間が、そんな強弁を真に受けて、自国を卑下してみせることもあるまい。
朝日新聞の報道によると、アウシュヴィッツでの記念行事にはコモロフスキ・ポーランド大統領をはじめガウク独大統領、オランド仏大統領ら各国の元首級が出席しているが、10年前の式典でスピーチしたロシアのプーチン大統領は早々と欠席を表明したのだという。
時代はかくも動いているというのに、わざわざ時計の針を巻き戻して「戦慄する」不可解。
これを受けて、同月28日付朝日新聞夕刊の1面コラム「素粒子」はこう述べた。
アウシュビッツ70年。虐殺工場を解放したソ連軍に敗戦を決定づけられた国。どちら側だったかを思い戦慄(せんりつ)する。
☆
当時迫害されたユダヤ人といま誤解を受けるイスラム教徒。情勢込み入る中東で安倍首相の言葉は妙に勇ましく。
☆
11月に気づきながら確認できなかった現実と邦人救出に自衛隊もという飛躍。あぜんとする間もなく期限は迫る。
「どちら側だったかを思い戦慄」?
わが国はアウシュヴィッツに強制収容所を建設したナチス・ドイツの側、ソ連の後身であるロシアはその解放者の側ということか。
しかし、わが国は、ドイツのように占領地に強制収容所を建設し、ホロコーストを行ったのではない。
中国の王毅外相は1月28日イスラエルの外相と北京で会談した際に、この解放70周年について「欧州にはアウシュビッツ収容所の悲劇があり、中国には南京大虐殺があった」「歴史的な事実は否定できず、不正なことと正しいことを混同してはならない」と述べたと報じられているが、いわゆる南京大虐殺は戦争の過程で生じた不祥事であって、わが国は政策として中国人の絶滅を企図したのではない。
また、アウシュヴィッツ収容所などで何が行われていたかは、ドイツの敗北後明らかになったことだ。
わが国はそれを承知の上で日独伊三国軍事同盟を結び、第二次世界大戦に加わったのではない。
「どちら側」と言うなら、ロシアは解放者の側だと安易に言えるのか。
ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった1939年9月1日に先立つ8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれた。ドイツはソ連から攻撃を受けるおそれを解消して、ポーランドと同盟を結んでいたフランス及びイギリスとの開戦に臨んだわけだが、この条約にはさらに秘密議定書があり、ドイツとソ連で東ヨーロッパを分割占領することで合意していた。ドイツの侵攻にポーランド軍が後退を続ける中、ソ連は9月17日にポーランド東部に侵攻した。ソ連の占領下では捕虜となった4000人以上のポーランド軍将校らが虐殺されるカティンの森事件などが生じた。ポーランドにとってソ連もまた侵略者であった。
1941年6月、ドイツはソ連に宣戦した。ドイツ軍はポーランド東部からソ連軍を駆逐し、さらにソ連領内に侵攻した。ソ連は当初敗退を重ねたが、スターリングラードの戦いを機に反攻に転じ、やがてポーランドを「解放」し、共産党政権を打ち立てた。しかし戦後のポーランドのソ連との国境は、戦前に比べて大きく西にずれたものとなった。ソ連がかつての占領地を併合したからである(一方敗北したドイツの東部がポーランド領に組み入れられた)。
第二次世界大戦における連合国は、領土不拡大を原則としていた。その主要国の中で唯一領土の大幅な拡大に成功したのがソ連であった。
わが国に対しても、日ソ中立条約を破って侵攻し、北方領土を併合し、長期にわたって捕虜の不当な抑留を続けたことは言うまでもない。
そしてまた、当時のソ連国内にも強制収容所が設けられていた。
ロシアが自国を解放者だと強弁するのはロシアの自由だ。それがロシアの国益に資すると考えているのだろう。
しかし、被害を受けた側の国の人間が、そんな強弁を真に受けて、自国を卑下してみせることもあるまい。
朝日新聞の報道によると、アウシュヴィッツでの記念行事にはコモロフスキ・ポーランド大統領をはじめガウク独大統領、オランド仏大統領ら各国の元首級が出席しているが、10年前の式典でスピーチしたロシアのプーチン大統領は早々と欠席を表明したのだという。
アウシュビッツを解放したソ連軍を継承し、「ファシズムに勝利した」自国の歴史を強調するプーチン氏の欠席はひときわ目立った。
ロシアはプーチン氏欠席の理由として「ポーランドから招待されなかった」ことを挙げた。一方、ポーランド側は「どの個人も招待していない。各国代表団の構成を決めるのはそれぞれの国だ」とする。両国が激しく対立するウクライナ問題をめぐってのさや当てである可能性が強い。
時代はかくも動いているというのに、わざわざ時計の針を巻き戻して「戦慄する」不可解。