トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

ナチスはいかにして権力を獲得したか-麻生発言に思う(2)

2013-08-12 00:05:04 | その他海外情勢
 「ナチスの手口に学んだら」で問題となった7月29日の麻生太郎副総理兼財務相の講演の報道に対して、マスコミは発言を恣意的に解釈して報じている、麻生の真意はそのようなものではないとの批判があった。

 例えば、私がtwitterでフォローしているある方は、当初の読売新聞の報道にこうツイートしていた。

これさ「ナチスがワイマール憲法をいかに変えたか?それは喧騒と熱狂の間に変えてしまった。そんな事はせずに静かに議論しよう。ナチスの手口を知ってそうならないようにしよう」みたいな事を言ったらしいな。つまり読売新聞のミスリードっぽい。
 

 これに対して、私が

それはちょっと違うと思います。主旨は「静かに議論しよう」だったのでしょうが、麻生は、ナチスは静かにワイマール憲法を変えた、その手口に学べと言っているのです。ナチスが喧騒と熱狂の間に変えたなどとは言っていません。理解しがたい発言です。


と述べたところ、


記事を読むと「ナチスがワイマール憲法を変えた時のように狂騒の中で決めないで欲しい」と言ってるって事だと思うんだけど?「冷静に考えて欲しい」と言ってると思うんだけど?


ナチスが政権を取った時は「ナチスが第一党に躍り出た時で、その時に過半数以上を取り、議会を完全に掌握。さらに民主も、ナチスなら間違いない。ヒトラーに任せて大丈夫」って、時期でこれが「狂騒」


そもそもワイマール憲法が骨抜きにされたという批判は「ヒトラーと言うカリスマが民衆を狂騒の中に落としいれ、合法的に憲法を骨抜きにした」って、批判されているわけで。その前提を踏まえるて憲法を変えようとしている自民党の発言としては「静かにやろうや」「あの手口を学んではどうか」との発言は矛盾するわけ。


といったツイートが返ってきたが、しかし麻生は、朝日新聞デジタルの「発言の詳細」によると

 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。


と、憲法は良くてもヒトラーという悪いものが出てくるとは言っているものの、喧噪だの熱狂だの狂騒だのという話はしていない。
 そして、

昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。


と言っているのだから、麻生が、ナチスの下で憲法は「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」「みんないい憲法と……納得して……変わっている」と考えていることは明らかだ。そう考えないと、この方のおっしゃるように前後が矛盾してしまう。

 もっとも、それでも「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」と、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」もまた矛盾するので、このあたりは要するに適当なことを言っているのだろう。
 
 では、ナチスは憲法を「だれも気づかない」うちに変えたのか、あるいは「みんないい憲法と……納得し」た上で変えたのか。
 また、ナチスは「きちんとした議会で多数を握って」出てきたのか。「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」のか。

 そもそも「ナチス憲法」などというものはなく、ナチスは全権委任法によりワイマール憲法の効力を停止したにすぎないことは以前述べたとおりだが、その経過について、もう少し詳しく説明しておきたい。

 1918年、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝は退位し、帝制は倒れた。臨時政府はワイマールの地に国会を招集し、第1党となった社会民主党の党首エーベルトを初代大統領に選出し、新憲法を制定した。国民主権が定められ、大統領は国民の直接選挙により選出されるとされ、任期は7年、緊急命令権が認められていた。国会では過半数を制する政党はなく、連立内閣がめまぐるしく交代した。
 1925年にエーベルトが死去すると、後任の大統領には第一次大戦の英雄であるヒンデンブルク元帥が保守派に担がれて当選した。賠償とインフレに苦しんだドイツ経済は立ち直りを見せ、国際連盟に加盟するなど国際社会に復帰し、議会政治も定着し、国民の生活は安定しつつあった。

 ナチスの前身は1919年に結成されたドイツ労働者党というミニ政党であった。軍人であったヒトラーはこの党の調査を命じられてこれに接触し、彼らに勧められて入党し、特異なカリスマ性で党を牛耳った。党は1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と改称し(ナチスは俗称)、勢力を拡大し、極右団体の指導者格となった。
 1923年、ナチスはバイエルン州のミュンヘンで革命政権の樹立を試みたが失敗し(ミュンヘン一揆)、ヒトラーは入獄してナチスのバイブル『わが闘争』を口述した。1924年末には釈放されて、党を再建した。しかし1920年代後半のドイツは比較的安定しており、ナチスの出番はなかった。

 1929年10月のウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌はドイツ経済を直撃した。失業者が激増し国家財政は破綻した。1930年、社民党のミュラーを首班とする連立内閣は与党間の不統一により瓦解した。ヒンデンブルク大統領は、側近シュライヒャー将軍の進言により、後継首相に第3党である中央党(カトリック系の中道政党)のブリューニングを指名した。この内閣はそれまでと異なり、国会の多数派に拠らず大統領の権力に依拠したものであり、以後同様の内閣が3代続き「大統領内閣」と呼ばれる。
 ブリューニング内閣は増税と緊縮財政による再建を図り、大統領緊急命令によりこれを実行した。国会がこれに拒否権を行使すると、国会の解散をもって応じた。
 1930年9月に行われた総選挙で、ナチスは12議席から107議席に大躍進し、社民党に次ぐ第2党となった。

社民党 143
ナチス 107
共産党 77
中央党 68
国家人民党 41
ドイツ人民党 30
民主党 20
バイエルン人民党 19
その他 72
計 577

 共産党も前回の54議席から77に伸ばし、両党の武装組織がベルリン市街で衝突した。ブリューニング内閣は大統領の権限を多用して政権を維持したが、不況は悪化し、首相の人気は低迷した。
 1932年3月には任期満了による大統領選挙が実施され、ヒトラーや共産党のテールマンが立候補したが、ヒンデンブルクが1900万票を獲得して再選された(ヒトラーは1300万票で2位)。ブリューニングはこの再選に尽力したが、大統領の信任を失い、同年5月に内閣は総辞職した。
 後継首相に指名されたのは騎兵出身のパーペン男爵だった。パーペンは中央党に属するプロイセン州議会議員であったが、政治的には無名であり(国会議員ではない)、シュライヒャー将軍の傀儡として起用された。首相就任に反対した中央党はパーペンを除名した。シュライヒャーは国防相として入閣した。彼は以前からナチスに接近し、そのワイマール体制への取り込みを図っていた。
 国会に基盤を持たないパーペンはナチスに協力を要請し、ナチスの国会解散の要求に応じた。1932年7月に行われた総選挙で、ナチスはさらに倍以上の議席を獲得し、ついに第1党となった。しかし過半数を得ることはできなかった。共産党も議席を増やし第3党の座を維持した。社民党は第1党から転落したが第2党にとどまった。

ナチス 230
社民党 133
共産党 89
中央党 75
国家人民党 37
バイエルン人民党 22
ドイツ人民党 7
民主党 4
その他 11
計 608

 パーペンやシュライヒャーはヒトラーに副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求し、交渉は決裂した。
 9月に国会が招集され、議長に第1党であるナチスのゲーリングが就任した。パーペンは大統領令により直ちに国会を解散しようと図ったが、ゲーリング議長はパーペンの発言より共産党が提出した内閣不信任決議案の採決を先行させ、これが512対42の圧倒的賛成で可決された後、国会は解散された。
 11月に同年二度目の総選挙が行われ、ナチスは第1党の座は維持したものの議席を減らした。第2党の社民党も議席を減らしたが、第3党の共産党は議席を増やした。

ナチス 196
社民党 121
共産党 100
中央党 70
国家人民党 52
バイエルン人民党 20
ドイツ人民党 11
民主党 2
その他 12
計 584

 パーペンは再びヒトラーに副首相としての入閣を要請したが、ヒトラーも再び拒否し、パーペン内閣は総辞職した。パーペンは国会を停止し政党や労組を解散させて新憲法を制定するというプランを提唱したが、シュライヒャー国防相は、パーペンの案ではナチスや共産党の蜂起を招き国防軍も治安を維持できないとしてこれに反対し、自分であればナチスを分断し社民党や中央党をも与党に取り込めると主張した。ヒンデンブルク大統領はシュライヒャーに組閣を命じた。シュライヒャー首相兼国防相はナチス左派の領袖シュトラッサーに入閣を求め、シュトラッサーはナチス党内で政権参加を主張したが、ヒトラーは彼を裏切り者呼ばわりし、党議は拒否に決した。シュトラッサーは党の役職を辞任して国外に去り、ナチス分断は失敗した。シュライヒャーは他の政党の取り込みにも失敗し、ついに軍部による独裁を提言したが、大統領に拒否され辞任した。
 大統領はお気に入りのパーペン前首相に再び組閣を命じ、パーペンはナチス及び右派政党である国家人民党と連携を図り、大統領もこれを容認した。1933年1月30日、ヒトラーはついに首相に就任した。副首相はパーペン、経済相に国家人民党の党首フーゲンベルク。ナチスからはフリッツ内相とゲーリング無任所相の2名しか入閣しなかった。パーペンはヒトラーを取り込んだつもりでいた。
 ヒトラーはすぐさま国会を解散し、3月5日に総選挙が行われたが、その直前の2月27日国会議事堂が炎上した。オランダ人の共産主義者の青年が実行犯として逮捕されたが、ナチスはこれを共産党の武装蜂起の一端であると宣伝して、党員や支持者を大量に逮捕するなど大弾圧を加えた。
 選挙の結果、ナチスはさらに議席を増やしたが、それでもなお過半数には達しなかった。社民党は第2党のままであり、苛烈な弾圧にもかかわらず共産党も第3党を維持した。

ナチス 288
社民党 120
共産党 81
中央党 74
国家人民党 52
バイエルン人民党 18
民主党 5
ドイツ人民党 2
その他 7
計 647

 3月23日、全権委任法が国会で成立した。この可決には3分の2を要するとされたが、与党であるナチスと国家人民党だけではそれに達しなかった。しかし中央党などの諸政党もナチスの圧力により賛成に転じた。共産党は出席できず、反対したのは社民党のみで(社民党も一部の議員が逮捕されていた)、441対94の圧倒的賛成により可決した。
 ヒトラー政権は6月に社民党を禁止し、国家人民党や中央党などの諸政党も解党した。7月には政党の新規結成は禁止され、ナチスのみが唯一の政党として残った。フーゲンベルクは閣外へ去り、パーペンは副首相にとどまったが何の力も持たなかった。ナチスの一党独裁体制が確立された。

 外交官を務めた加瀬俊一(1903-2004)は『ワイマールの落日』(光人社文庫、1998、親本は文藝春秋、1976)でこう書いている。

 ヒトラーはナチス文献が宣伝するように、国民革命の大潮流に乗って、政権を獲得したのではない。いわば、謀略によって裏階段から首相官邸に忍びこんだようなものでもある。現に、ナチスは選挙〔引用者註:政権獲得前の〕において三七パーセント以上を獲得したことはない。だから、もし残りの六三パーセントが一致して抵抗したら、政権を奪取することはできなかったはずである。
 そうならなかったのは、まず、共産党がナチスよりも社民党を、「社会ファシズム」と呼び、最大の敵として戦ったからであり、他方、社民党が労組出身者にひきいられる無気力なプチ・ブル集団に転落し、また、中道保守派が分裂抗争を反復して、反ナチス大同団結の必要に目ざめなかったからである。中央党に到っては、最後までナチスと妥協を試みるような不見識を暴露したのである。だが、ヒトラーをして名を成さしめた最大の責任は、右翼保守派のナショナリストが負わねばなるまい。彼らは敗戦後も格別痛めつけられず、むしろ、陽の当たる場所にいたにもかかわらず、共和体制になじまず、これを敵視し、機会があればワイマール体制を打倒し、帝制を回復して昔の権力を再び握ろうと画策した。しかも、派閥抗争に勢力を徒費し、敗戦-インフレ-不況-失業の連打にうちのめされて、絶望にある大衆の救済を怠った。だから、大衆は救世の指導者が出現することを待望した。ヒトラーはこの心理を巧みに衝いたのである。(p.232-233)


 また、フランスの学者クロード・ダヴィドは『ヒトラーとナチズム』(長谷川昭安訳、文庫クセジュ(白水社)、1971)でこう書いている。

 不満と不安とにかられたドイツ国民が急進的な政党にはしり、やけっぱちになったのはむりもないところである。しかし、ここで注意しなければならないのは、右翼勢力の進出はまちがいない事実であったにしても、その進出ぶりが野火のように急であったとする説があやまりであるということである。ちなみにヴァイマル共和制時代におこなわれた選挙の結果を順をおってしらべてみるならば、社会民主党とカトリック中央党が共和制の最後まで安定した勢力をたもっていたことがわかる。〔中略〕それでは理屈にあわないということになるが、理由は簡単である。それはナチ党がすべての右翼系政党を吸収する一方、穏健派はしだいに急進的となり、人民党や民主党は姿を消していったからである。由緒ある正統右翼、国家人民党がナチ党と対立していたとする説を今日でもしばしば耳にすることがある。しかし、この国家人民党こそ金融界、産業界、国防軍などとならんで、はじめはヒトラーを買収し、やがてヒトラーの命令にいっさい服さねばならなくなったのである。のちナチ党への抵抗運動が組織されたのも、これら伝統的保守勢力のなかからであった。かつて唯一の支持者としてヒトラーに独裁者への道をひらいてやり、いままたそのゆきすぎをくいとめるために抵抗をこころみるのであるが、ときすでにおそかったのである。(p.50-51)


 確かに、ナチスは選挙で第1党となった。しかし単独過半数を得ることはできず、他勢力との連立によってようやく政権を獲得した。
 その段階においても、ワイマール体制を維持してきた既成政党である社民党や中央党は一定の支持を確保していたのであり、決して国民がこぞってナチスを支持し、熱狂したのではない。
 したがって、麻生発言の「きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきた」「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」といった箇所は、やや問題がある。

 そして、ヒトラーはかねてから議会による民主制を否定し独裁制を採るべしと主張していたのであり、全権委任法はヒトラー内閣誕生の当然の帰結だった。そういう意味では「ある日気づいたら……変わっていた」わけでもないし、暴力を背景とした圧力により賛成させ、反対派は弾圧したのだから、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」わけでもない。

 以前の記事で、「麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか」と述べた所以である。


日本の中国批判者が中国の対日政策を助ける?

2010-06-28 00:18:57 | その他海外情勢
 数多くの海外事情に関する書籍が紹介され、時々興味深い論考が載るのでブックマークしている「新世界読書放浪」というブログに、しばらく前に次のような記述があった。

中国にに批判的な学者や評論家の中で、入国禁止になっている者とそうでない者がいるのは核心に触れているか、いないかというのが問題なのだという。宮崎正弘などは中国へ自由に行けるみたいだが、この手の人たちの言説は中国にとって痛くも痒くもないどころか、日本人が中国人を見下しているという証左にもなるから、むしろ中国の対日政策を助けるものなのであろう。水谷尚子や中嶋嶺雄といった真の「親中派」「知中派」が核心に触れてしまうと、そうはいかない。


 宮崎正弘のメルマガを愛読しているらしい無宗ださんあたりに聞かせてあげたいセリフだ。



シェワルナゼ「ロシアは後悔する」

2008-08-27 23:46:08 | その他海外情勢
「ロシアは後悔する」 グルジア前大統領シェワルナゼ氏(朝日新聞) - goo ニュース

《【トビリシ=飯竹恒一】グルジアのシェワルナゼ前大統領(80)が26日、トビリシの自宅で朝日新聞記者と会見し、ロシアが南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の独立を承認したことについて、「多民族国家であるロシア国内の分離運動を刺激することになり、いつか後悔するだろう」などと語った。

 ロシアは以前から「平和維持部隊」を南オセチアとアブハジアに駐留させ、グルジア政府の支配が及ばないよう分離派勢力を支援してきた。今回、正式に独立承認まで踏み込んだことは、ロシア自身がリスクを負ったことになると指摘。「チェチェン、ダゲスタンなど、ロシア内の共和国の独立を認めるべきだという話になるからだ」と述べた。》

 言われてみればそのとおりなのだが、今回の事態に対してそのような指摘は目にしなかったので、さすがだなと感心した。

 もっとも、ロシアはそのへんはダブルスタンダードでやり過ごすのだろうが、欧米諸国はそれでは済まないだろう。

 将来、今年が新冷戦開戦の年だったなどと言われることにならなければよいのだが。
 
 それにしても、あのシェワルナゼがもう80か。
 私もそれだけ年をとったのだなあ。


 

ソルジェニーツィンの死を悼む

2008-08-05 00:22:30 | その他海外情勢
ソルジェニーツィン氏死去 ロシアのノーベル賞作家(朝日新聞) - goo ニュース

 私の精神に大きな影響を与えた書物を10点挙げよと言われたら、『収容所群島』は間違いなくそのうちの1つに入る。

 子供のころ、私は歴史が好きだった。
 今ではそうでもないのかもしれないが、その昔、歴史学の世界では左翼が跋扈していた。
 単なる歴史好きの少年だった私は、自然に左翼思想に染まっていった。
 吉田茂や岸信介をボロカスに評する少年向け歴史書を真に受け、自民党政権は何としても打倒しなければならないと思い込むようになっていった。もちろん、社会党または共産党を支持していた(参政権はなかったが)。
 また、共産主義国は平和勢力、資本主義国、特に米国は好戦勢力と信じるようになっていった。
 その後、年を経るに従い視野が広がり、様々な見解を目にするようになった。
 そのため、共産主義国にもいろいろな問題点があることがわかってきたが、それでも、共産主義の理想それ自体は評価すべきではないかとの思いをなかなか捨て去ることはできなかった。
 そんな中、たまたま読んだ『収容所群島』で、共産主義国の問題点はスターリンにではなくレーニンにこそ起因するという視点、つまり、特異な指導者が社会主義の理想を歪め、それが世界に蔓延したのではなく、史上初の社会主義革命を成し遂げたレーニンのイデオロギーそれ自体に、社会主義の誤りが内包されていた、社会主義革命自体が誤りだったという視点を得ることができた。
 本書によって、私は、共産主義の呪縛から解放されたと言っていい。
 ソ連崩壊後十数年を経た今となっては何とアナクロなと思われるかもしれないが、崩壊など予想もつかず、さらにはペレストロイカで共産主義の枠内での改革が進められようとした時代、ソ連にはまだ全面的な否定を許さないだけの影響力があったのだ。

 ソルジェニーツィンさん、ありがとう。
 健在なうちに、帰国してソ連崩壊後のロシアを目にすることができて、よかったですね。それはあなたの望んでいたものそのものではなかったかもしれませんが、少なくともソ連よりはマシな社会が誕生したことは疑いありません。それには、あなたの力も関与していたことでしょう。
 ご冥福をお祈りいたします。


ユリヤ・ユージック『アッラーの花嫁たち』(WAVE出版、2005)

2007-10-08 23:02:26 | その他海外情勢
 副題は「なぜ「彼女」たちは“生きた爆弾”になったのか? 」。

 以前、アンナ・ポリトコフスカヤの『プーチニズム』(NHK出版、2005)を Amazon で買ったら、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」として表示された(ところで、あのメッセージは本当なのだろうか? 私には、関連書籍を自動的に表示するようになっているとしか思えないのだが。だとすれば、虚偽表示ではないだろうか?)ことから本書を知り、内容に興味を抱いて購入してみた。

 チェチェン紛争では、女性による自爆テロが見られた。また、モスクワ劇場占拠事件(2002年)などにも多くの女性がテログループに参加している。
 彼女らの中には、宗教的信念や、個人的な復讐のために自爆をも辞さない者もいたという。
 しかし多くは、夫を失うといった個人的な悲劇、あるいは誘拐や人身売買により、そうした道へ進まざるを得なかった女性だという。
 彼女らはテロ組織の下で幽閉され、教育され、自爆テロ犯に仕立て上げられるのだという。その過程で向精神薬も用いられる。
 そして、爆弾を装着した女は群衆の中に放たれ、遠隔操作により爆発させられるのだという。

 そうした彼女らの実態を、若きロシア人女性ジャーナリスト(当時22歳!)が取材し、告発した本。ロシアでは発売禁止になった(一時的に解かれることもあった)という。
 
 チェチェン紛争というものがあることは知っていたが、詳しいことは知らず、そうした「花嫁」たちの存在もまた知らなかった。
 何ともおぞましい現実に、慄然とした。
 一方、テロ組織の指導者、シャミール・バサエフは、その経歴にロシア当局との関連が見られるという。著者は「クレムリンと連邦保安局のパートナーであるバサエフ」とまで述べている(バサエフは2006年ロシア軍により殺害された)。また、著者の取材活動に対する当局の不可解な干渉にも触れられている。

 テロとの戦いには終わりはない、テロリストにもそれなりの動機があるのだから、それを解消することにこそ力を注ぐべきだというような意見を時々見る。
 しかし、こうしたテロリスト側の現実を考えると、そんな簡単な問題ではないと思う。
 有効な異議申立の手段のない社会的弱者が、やむを得ずテロに走る――そういう構図ではないからだ。
 テロ自体が彼らの人生であり、またビジネスでもある、そういう人々が存在するからだ。

 ところで、本書は、翻訳がはなはだしく悪い。
「シャヒード」あるいは「女シャヒード」、「ジャマートの人たち」、「バーブ教」といった用語が頻出するが、何の脚注も解説もないので、何のことやらわからない。読み進めて行くにつれ、「シャヒード」はテロリスト、「ジャマートの人たち」はテロ組織、「バーブ教」はテロリストが信仰するイスラム教の一派のことかな……と推測してみたが。
 今ネットで検索してみると、「シャヒード」は、

《シャヒードとは殉教者と翻訳されることが多いのですが、信仰、祖国、思想など、何かの大義に殉じた人、と解説がつけられています。》 

と、フォトジャーナリストで『DAYS JAPAN』編集長の広河隆一のサイトに記述があった。
 あとの2つは、だいたい上記のような意味らしい。

 帯の背の部分に「衝撃的な内容に世界が涙した!」と書かれているように、どう考えても専門家ではなく一般人を対象としているので、チェチェン紛争や自爆テロ、劇場占拠事件についての簡単な解説も欲しいところだ。

 そして、訳文が硬く、読みにくい。
 意味不明の箇所もある。

《裁判官はムジャホエワに禁固二十年の刑を言い渡しました。被告はその場で激しいヒステリー症状に襲われました。
 この過酷な刑によって、ロシアの裁判はチェチェンの女性決死隊たちの事件に終止符を打ちました。それが終止符であることを望むばかりです。なぜなら多重点はありとあらゆることを想定させるからです。》(p.224)
(太字は引用者による)
 もうちょっとどうにかならないものか。

 Amazon 流に☆で点数を表示するなら、そういったマイナス面を考慮して☆3つ。


どの口が言うか

2007-02-13 23:58:08 | その他海外情勢
 カンボジアのシアヌーク前国王が、王党派の内紛などに業を煮やし、全ての王族は政治から手を退けと呼びかけたという。

「王族は政治から身を引け」 カンボジア前国王が書簡(朝日新聞) - goo ニュース

 たしかにそれは正論だ。
 50年前の自分自身にもぜひ呼びかけてほしいものだ。

 カンボジアの悲劇の要因としては、シアヌークの個性もまた大きな割合を占めているように思う。
 この人物の容共志向や中立志向がなければ、いやこの人物がそもそも政治にあれほど深く介入しなければ、カンボジアはもちろん、インドシナ半島の情勢自体が、現在とは大きく異なったものになっていただろう。

独自の解釈に基づく「毛沢東主義」?

2006-12-14 00:44:41 | その他海外情勢
 12日からの『朝日新聞』国際面に、ペルー日本大使公邸人質事件の「10年後の証言」という連載が載っている。
 12日にはフジモリ元大統領、13日には、人質の一員だったが特殊部隊との連絡役を務めたという現副大統領が取り上げられている。
 その13日の記事中、「キーワード」というコラムで「ペルーの左翼ゲリラ」について解説されているが、その冒頭に次のような一節がある。

《独自の解釈に基づく「毛沢東主義」を唱えたセンデロ・ルミノソ(輝く道)と、人質事件を起こしたトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が二大組織。》

 「独自の解釈に基づく」ということは、毛沢東主義本来の解釈とは異なるということか?
 いや、「毛沢東主義」にカギカッコが付いているところをみると、「毛沢東主義」と呼ばれるもの自体が、外部勢力の勝手な毛沢東信奉の産物で、そういったものは中国には実在しないということなのか?
 しかし、現在の中国はともかく、かつて毛沢東が世界革命を主張し、各国の左翼勢力の一部がそれに呼応したことは事実だろう。
 ネパール共産党毛沢東主義派が国軍との停戦に応じたとの報道が最近あったが、彼らなども、「独自の解釈」というより、毛沢東思想そのものの信奉者ではなかったか。
 朝日がこうした表現をとるのは、やはり中国におもねっているのだろうか。
 
 

劉少奇の元夫人が死去

2006-10-16 00:09:02 | その他海外情勢
劉少奇元国家主席夫人の王光美氏が死去(朝日新聞) - goo ニュース
 数年前、劉少奇に関する本を読んだときにつくづく思ったのだが、文化大革命とは、結局、失政により棚上げされそうになった毛沢東が、劉少奇らに対する巻き返しとして起こした権力闘争にすぎず、しかもそのターゲットは結局劉少奇個人だったのだということだ。もちろん、文革で犠牲になった国民は数多いが、党・政府の要人クラスで命まで奪われたのは劉少奇ぐらいのもので、小平をはじめ多くの者が失脚しただけで済んでいる(つるし上げや暴行は多々あったようだが)。この扱いの差には当然毛沢東の意志が反映されているだろう。そして毛沢東の死後、彼らは名誉回復し、要人として復活した。小平の改革開放路線以後の中国の発展ぶりを考えると、建国後の毛沢東の最大の功績とは、小平を殺さなかったことだというのが私の持論だ。