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間違いだらけの国籍法改正反対論(下)(過去記事転載)

2019-06-14 22:49:08 | ブログ見聞録
(この記事は、2009年9月20日に私のYahoo!ブログに掲載したものです。
Yahoo!ブログが本年12月にサービスを終了するため、こちらに転載するものです。
引用部分の表示の仕方がYahoo!ブログとgooブログでは異なるため、そのままではわかりにくい箇所があるので、本文を若干修正しました。
文中敬称略)


(前回の記事はこちら

 さて、問題とされている12月4日の参議院の法務委員会での発言阻止ですが、この記事中の賛成派議員による

《賛成派議員 「理事会で決まってんでしょ」》

《賛成派議員 「自民党どうするんですか!国対委員長!国対で話し合ったでしょ !」
 賛成派議員 「理事会で決まってるでしょ!国対委員長!委員長しっかりしなさいよ!」》

といった発言からは、法務委員会の理事会や、各党の国会対策委員長による協議により、既に結論は出ており、採決を待つばかりという段階だったことがうかがえます。

 なお、この改正案に対する質疑は、11月27日に行われています。
 その内容は、国会会議録検索システムで確認することができます(丸山和也議員も発言しています)。

 無宗ださんは、このパピヨンさんの記事を転載した自分のブログで、

日本には言論の自由があったはずだが…


とコメントしていますが、言論の自由とは、いつなんどきでも、いかなる場所においても、自由に発言できるという趣旨ではないことは言うまでもありません。

 この法務委員会では、記事にあるように、改正案は全会一致で可決されました。ということは、丸山和也議員も賛成しているわけです。何かしら、発言したいことはあったのでしょうが、反対意見を封殺されたというわけではなさそうです。

 記事がリンクを張っているYouTubeの動画のタイトルには「「音声とめて!」 民主党、千葉景子が国籍法をゴリ押し」とありますが、自民党の反対を押し切って民主党が採決を強行したというわけではなく、単に予定外の発言を封じたというだけですから、「国籍法をゴリ押し」という表現は不適切でしょうし、仮に発言封じを批判するにしても、その責任は議事進行役である澤雄二委員長(公明党)にあります。千葉批判は筋違いです。

 可決後、この動画にも収録されているように、理事である千葉景子が、附帯決議案を提案しています。これは、民主党・新緑風会・国民新・日本、自由民主党、公明党の各派共同提案です。

 この附帯決議の全文は、次のとおりです。

  政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。
 一 本法の施行により、生後認知された子も胎児認知された子と同様、届出のみで我が国の国籍を取得することができることとなることにかんがみ、本法の趣旨について十分な周知徹底に努めること。
 二 我が国の国籍を取得することを目的とする虚偽の認知が行われることがあってはならないことを踏まえ、国籍取得の届出に疑義がある場合に調査を行うに当たっては、その認知が真正なものであることを十分に確認するため、認知した父親に対する聞取調査をできる限り実施すること、当該父親と認知された子が一緒に写った写真の提出をできる限り求めること、出入国記録の調査を的確に行うこと等につき、調査の方法を通達で定めること等により、調査のための万全な措置を講ずるよう努めること。
 三 本法の施行後、改正後の国籍法の施行状況について、当分の間半年ごとに当委員会に対し報告するとともに、その施行状況を踏まえ、父子関係の科学的な確認方法を導入することの要否及び当否について検討する等、虚偽の届出を防止するために必要な措置を講ずること。
 四 ブローカー等が介在して組織的に行われる虚偽の認知による不法な国籍取得の動きが生じてはならないことを踏まえ、入国管理局、警察等関係当局が緊密に連携し、情報収集体制の構築に努めるとともに、適切な捜査を行い、虚偽の届出を行った者に対する制裁が実効的なものとなるよう努めること。
 五 本改正により、重国籍となる子供が増加する事態が起こり得ることにかんがみ、重国籍に関する諸外国の動向を注視するとともに、我が国における在り方について検討を行うこと。
   右決議する。


 前回引用した衆議院での附帯決議と比較すると、趣旨は基本的に同じであり、かつ偽装認知防止策について強化したものであることがわかります。
 この附帯決議も賛成多数で可決されました(全会一致ではない)。

 法案は、翌12月5日に参議院本会議で可決、成立しました。
 その投票結果は、会議録によると、

  投票総数         229
  賛成           220
  反対            9

だったそうです。反対者の内訳はわかりませんが、自民党も大多数は賛成していることがわかります。

 パピヨンさんの記事の本文に戻ります。

民主党・公明党は、どうしても在日韓国・朝鮮人・中国人、つまり特定アジア・反日3カ国の人々に参政権を与えたいわけですね。


 上記の最高裁判決は、いくつかの事例についてまとめて違憲だと認めたものですが、いずれも母はフィリピン人です。
 ウィキペディアには現在〔転載者註:2009年9月20日当時〕「国籍法改正騒動」という項目があり、その中で偽装認知を試み逮捕された事例があったと書かれていますが、その外国人とはペルー人です。

 この記事の筆者の頭の中には、日本国籍を取得したい外国人といえば中韓朝の3か国しか思い浮かばないようです。
 この3か国の国民に日本国籍を与えることに反対なのであって、それ以外の国民による偽装認知はどうでもいいようにも受け取れます。

 記事にはこうもあります。

麻生内閣が議論もせずに通してしまったように言っていますが、例によって売国政策を推進する民主党と公明党が主導なので、自民党が悪いわけではありません。


 繰り返しますが、内閣提出法案ですから、当然麻生内閣に責任があるのです。
 それでも自民党は悪くないと言い張るこの記事の筆者の姿勢からは、問題の本質を理解する意志はなく(能力もないのかもしれませんが)、ただ民主党・公明党叩きと外国人排斥ムードを作り出すためにこの騒ぎを利用したいだけだという意図が読み取れます。

 さて、偽装認知の問題は確かにありますし、それへの厳正な対処は必要でしょう。
 しかし、ではDNA鑑定を要件とすべきだったのでしょうか。
 この騒動の当時、衆議院の法務委員会のメンバーだった自民党の稲田朋美議員(弁護士)は、2008年11月27日付産経新聞「正論」欄で、最高裁判決を批判しながらも、DNA鑑定を要件にすることには慎重な姿勢を示しています。

【正論】「国籍付与」は国会の重い課題
〔前略〕
 今回改正について多くの反対意見が寄せられた。ほとんどが偽装認知の横行への不安から、DNA鑑定を必須条件にせよというものだ。偽装認知は防がなければならない。だがDNA鑑定を要件とするのは、日本の家族法制度に変容をきたす恐れがないか慎重に検討しなければならない。

 昨年自民党内で民法772条の300日規定が見直されようとしたとき、私はDNA鑑定を法制度にもちこむことの危険性を主張した(昨年4月17日本欄)。民法は「親子関係=生物学的親子」という考え方をとっておらず、法的親子関係は子の安全な成長を確保するための法制度である。安易にDNA鑑定を取り入れることは、生物学的親子関係をすべてとする風潮につながりかねない。

 これに対し、国籍付与の前提としての認知にDNA鑑定を行うことは「血統主義」をとる我が国では当然であり、民法の親子関係に直接影響を与えるものではないと主張する人もいる。

 しかし仮にDNA鑑定を要件とすれば、今までなら父の認知後、父母が婚姻をして準正により当然に国籍を付与した場合にも鑑定を要件としなければ平仄(ひょうそく)が合わない。なぜなら最高裁は「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かは、子にとっては自らの意思や努力では変えることのできない身分行為」である。これによって区別することは憲法14条の差別としたのだから、認知しただけの非嫡出子にDNA鑑定を要件とするのなら、父母が結婚した嫡出子にも鑑定を要件としなければ再度憲法違反をいわれる恐れが大きいからだ。

 しかし、父母が結婚している場合にまでDNA鑑定を要件とすることは、婚姻中に妻が懐胎した子を夫の子と推定している民法772条についても、真実の父を確定するためのDNA鑑定を持ち込まないとつじつまがあわなくなる恐れがある。

 そもそも国籍法上の「血統主義」は子の出生時に母または父が日本国籍であることを要求することである。そこにいう「父」は生物学上の父ではなく法律上の親子関係の発生した父を指す。つまり血統主義だから鑑定を義務付けるのが当然とはならない。

 むしろ国籍付与の条件としての父子関係と民法上の父子関係とは違うとして、国籍付与の場合にのみ鑑定を要件とするという考え方は、法的父子関係を複雑にし、理論上はありえても法制度として妥当とは言いがたい。


 私はこの稲田の記事を読むまで考えもしなかったことなのですが、要するに、わが国では法律上の親子関係は必ずしも生物学的に親子であることを意味しない(ということは、そうでない実例があるということなのだろう)から、そうした現状に波及しかねないDNA鑑定の要件は妥当ではないというのです。
 もっともな話だと思います。

 DNA鑑定を要件とすることによる偽装の防止と、民法の家族制度のあり方への影響は慎重に検討しなければならない。衆議院の付帯決議には課題として『父子関係の科学的確認を導入することの要否、当否を検討する』との文言が入った。現時点では届け出の際認知した日本人男性との面談を義務付け、母と知り合った経過を確認するなどして運用面での偽装防止策を充実させる方途を模索すべきである。


 私もこの稲田の結論に同意します。

間違いだらけの国籍法改正反対論(上)(過去記事転載)

2019-06-12 22:30:32 | ブログ見聞録
(この記事は、2009年9月20日に私のYahoo!ブログに掲載したものです。
Yahoo!ブログが本年12月にサービスを終了するため、こちらに転載しておくものです。
 なお、引用部分の表示の仕方がYahoo!ブログは独特であり、そのままgooブログで表示すると本文とのつながりがわかりにくい箇所があるので、本文を若干修正し、ついでに言葉足らずの点に補足を加えました。)


 以前から交流のある無宗ださんのブログで、次のような記事を見つけた。

「速記止めて!音声止めて!」参議院での国籍法改悪の瞬間

 これは転載記事で、オリジナルはこちら。パピヨンさんという方の「木漏れ日の中で 」というブログの記事である。

 この国籍法改正は昨年12月に成立し、本年1月1日から施行されているのだが、民主党叩きのために未だにこの問題をむしかえしたい人々がいるらしい。

 私はこの国籍法改正にそれほど詳しくないのだが、それでも、この記事が間違いだらけであることはわかる。

 記事にはこうある。

民主党、公明党が推進していた、国籍法改正。

例によって民主党と公明党が推進していました。


 違います。
 この改正案は内閣提出法案です。議員立法ではありません。

 では、何故内閣が提出したのか。
 法務省のホームページに、この国籍法改正案の要綱や本文、理由、新旧対照条文が載っています。
http://www.moj.go.jp/HOUAN/houan40.html
 その「理由」の全文を次に掲げます(太字は引用者による。以下同)。

出生後日本国民である父に認知された子の日本の国籍の取得に関する国籍法の規定は一部違憲であるとの最高裁判所判決があったことにかんがみ、父母が婚姻をしていない場合における認知された子にも届出による日本の国籍の取得を可能とする等の必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。


 この最高裁判決とは、2008年6月4日に言い渡された以下の2件

平成19(行ツ)164 国籍確認請求事件  
平成20年06月04日 最高裁判所大法廷 判決 破棄自判 東京高等裁判所
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=36416&hanreiKbn=01

平成18(行ツ)135 退去強制令書発付処分取消等請求事件  
平成20年06月04日 最高裁判所大法廷 判決 破棄自判 東京高等裁判所
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=36415&hanreiKbn=01

を指します。

 裁判所には、違憲立法審査権があります。最高裁で違憲判決が確定したら、その違憲状態を解消するために所管官庁が法律を改正しようとするのは当然のことです。
 別に民主党と公明党が推進していたのではありません。

 いわゆる外国人参政権の問題で両党が導入に積極的なのは事実です。しかしこの国籍法改正はそれと全く別の話です。

 パピヨンさんの記事はこう続きます。

日本国籍を得るために嘘をついた場合の罰則は、懲役一年以内。20万円以内の罰金。日本国籍のパスポートは世界でも信頼性が高く、日本国籍を得られることのメリットと比べれば、ほとんど罰則の意味をなさず、抑止力にもなりません


 それだけではすみません。
 法務省民事局のホームページにある「改正国籍法Q&A」には次のようにあります。

Q3 なぜ罰則が設けられたのですか。

A3 今回の改正により,日本人男性と子の間に実際には親子関係がないのに,親子関係があると偽って認知届をし(偽装認知),その認知事項が記載された戸籍謄本を添付書類として国籍法第3条の国籍取得の届出書を法務大臣に提出して不正に日本国籍を取得しようとする事案が発生する懸念があります。

そこで,改正法では,虚偽の国籍取得の届出書を提出した者(本人が15歳未満のときは父母などの法定代理人)に対する制裁として,1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する刑罰が設けられました(国籍法第20条)。

なお,虚偽の認知届を提出する行為及び虚偽の国籍法第3条の国籍取得届によって不正に取得した国籍証明書を添付して戸籍法第102条の国籍取得届をする行為についても,公正証書原本不実記載罪(刑法第157条第1項)等により,それぞれ5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられます。


 パピヨンさんはこうも述べています。

DNA検査などは特に必要なく、「自分の子だ」と認めればいいだけですから。


 では、DNA鑑定を要件にすべきなのでしょうか。
 この点については、後述します。

 さらに、パピヨンさんはこう続けます。

さて、ろくに審議もされずに衆議院を通過してしまいましたが、そのあと、その危険性を感じた多くの国民が抗議して、考えなしに法案を通してしまった衆議院でも、慌てて対応を取りました。付帯決議を付けたのです。

1.本当に二人の間の子であることを科学的に証明する必要性があるのではないか

2.罰則を現実的な効力を持ったものにした方が良いのではないか

この2点について参議院で議論して欲しい、ということでした。


 附帯決議というのは、法案の可決に伴って決議するものです。「そのあと」「付けた」のではありません。

 そして、「参議院で議論して欲しい」というものではありません。法律の施行に伴い政府に対して要望する事項などを明記したものです。

 この記事を書いた人が、何もわかっていないことがわかります。

 ちなみに、衆議院での附帯決議の全文は次のとおりです。

  政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。

 一 日本国民から認知された外国人の子が届出により我が国の国籍を取得することができることとなることにかんがみ、国外に居住している者に対しても、本法の趣旨について十分な周知徹底に努めること。

 二 我が国の国籍を取得することを目的とする虚偽の認知が行われるおそれがあることを踏まえ、国籍取得の届出に疑義がある場合に調査を行うに当たっては、その認知が真正なものであることを十分に確認するため、調査の方法を通達で定めること等により出入国記録の調査を行う等万全な措置を講ずるよう努めるとともに、本法の施行後の状況を踏まえ、父子関係の科学的な確認方法を導入することの要否及び当否について検討すること。

 三 ブローカー等が介在し組織的に虚偽の認知の届出を行うことによって日本国籍を取得する事案が発生するおそれがあることを踏まえ、入国管理局、警察等関係当局が緊密に連携し、情報収集体制の構築に努めるとともに、適切な捜査を行い、虚偽の届出を行った者に対する制裁が実効的なものとなるよう努めること。

 四 本改正により重国籍者が増加することにかんがみ、重国籍に関する諸外国の動向を注視するとともに、我が国における在り方について検討を行うこと。


 パピヨンさんが述べる付帯決議の内容とはだいぶ違うようですね。

 なお、この法案は11月18日に衆議院法務委員会を全会一致で可決し(この際に附帯決議も可決されました)、その日のうちに本会議も全会一致で可決しています。
 言うまでもなく、当時の衆議院は自民党が圧倒的に多数です。
 議員全員が出席する本会議はともかく、分野別に設けられている委員会では、出席者が審議すべき法案の内容を理解しているのは当然です。でなければ職務怠慢でしょう。
 衆議院の会議録によると、この日の法務委員会のメンバーは次のとおりです。

   委員長 山本 幸三(自民)
   理事 大前 繁雄 理事 桜井 郁三
   理事 塩崎 恭久 理事 棚橋 泰文
   理事 谷畑  孝 理事 加藤 公一
   理事 細川 律夫 理事 大口 善徳
      赤池 誠章    伊藤 忠彦
      稲田 朋美    近江屋信広
      木村 隆秀    笹川  堯
      清水鴻一郎    杉浦 正健
      平  将明    丹羽 秀樹
      萩山 教嚴    早川 忠孝
      町村 信孝    武藤 容治
      村田 吉隆    森山 眞弓
      矢野 隆司    柳本 卓治
      若宮 健嗣    石関 貴史
      枝野 幸男    河村たかし
      中井  洽    古本伸一郎
      神崎 武法    保坂 展人
      滝   実

 自民党では法相経験者や派閥の領袖、党3役、保守派の「青年将校」と呼ばれた人物などの名が目につきますが、彼らの目が皆節穴だったと、この記事を書いた人は考えているのでしょうか。

(続く)

BNN365北海道の外国人参政権に関するアンケートについて(過去記事転載)

2019-06-11 19:56:05 | ブログ見聞録
(この記事は、2010年1月31日に私のYahoo!ブログに掲載したものです。
Yahoo!ブログが本年12月にサービスを終了するため、こちらに転載しておくものです)

 無宗ださんのブログの記事「民意って何?」で、次のようなコメントをいただきました。

たとえば、
「永住外国人の地方参政権」に関してアンケートをとって
http://www.hokkaido-365.com/news/2009/11/post-563.html

・必要 169票
・不要 1万4053票

なんて、結果がでたとすれば、
「民意は永住外国人の地方参政権付与に反対している」といっても構わないと考えますけど。


 本題の「民意って何?」についてはあちらのコメント欄で書きましたが、このアンケートについていくつか思うところがあったので、こちらで記事にすることにしました。

 外国人参政権についての世論調査は時々見かけます。
 例えば、朝日新聞が今年の1月16日と17日に行った調査では、永住外国人への地方参政権の付与について、賛成60%、反対29%とされています。
http://megalodon.jp/2010-0130-2043-29/www.asahi.com/politics/update/0118/TKY201001180431.html
 また、フジテレビの系列局によるネットワークであるFNNが昨年11月21日と22日に行った調査では、「実現すべきと思う」53.9%、「思わない」34.4%となっています。
http://megalodon.jp/2010-0130-2332-08/www.fnn-news.com/archives/yoron/inquiry091123.html

 こうした結果については聞いたことがあるので、それに比べると、この無宗ださんが引用したBNN365北海道によるアンケートの結果は、ずいぶんと偏っているなと思いました。

 無宗ださんが示しているURLを見てみました。
 おや、ページの下の方にこんな注意書きがありますね。

※このWebアンケートは統計手法に基づくものではありません。そのため、集計結果は必ずしも世論を反映した内容になるとは限りません。

 そのようですね。
 答えたい人だけが応募する単なるアンケートですから。調査ではない。
 こんなものが「民意」の名に値するわけがないでしょう。

 アンケートの質問も誘導的ですね。
 普通は「賛成」か「反対」かを問うものだと思いますが、「必要」か「不要」かを問うていますね。

 誰にとって「必要」なのか「不要」なのかは明示されていませんね。
 これでは、多数派であろう日本国民にとって「不要」であるという答えが導かれやすいでしょうね。
 仮に外国人参政権に賛成するとしても、「必要」か「不要」かと問われれば、「必要」とまでは言えないな……と考えてしまうのではないでしょうか。

 また、このアンケートは、毎週さまざまなテーマについて行われているようですが、最近の回答数を見ると、

1月18~24日 「小沢幹事長が"続投"、あなたの意見は?」 3014人

1月11~17日 「ゴン中山が札幌に入団、あなたが望むことは?」 107人

1月4~10日 「たばこ税が大幅値上げ、あなたはどうしますか?」 126人

12月28日~1月3日 「国債依存度が加速、消費の引き上げは必要ですか?」 144人

となっており、この

11月9~15日 「永住外国人の地方参政権は必要ですか?」 1万4280人

とは大幅に差があるのですが、これはどうしたことでしょう。

 組織票によるものではないのでしょうか。

 検索していたら、右派系の有力ブログである「博士の独り言」が昨年11月16日にこのアンケートを取り上げていました。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2891.html〔転載者註:現在はリンク切れ〕

「BNNプラス北海道365」の最新アンケート

 表題に参照する「BNNプラス北海道365」とは、「北海道にまつわるニュースを既存メディアとはひと味違った切り口で、即座にお伝えするニュース専門サイト」とのことだ。そのサイトが、「毎週新たなテーマを設け、読者のみなさんが参加する「365アンケート」を月曜日から1週間のサイクルで実施しています」と題する最新アンケートとして、「永住外国人の地方参政権は必要ですか?」と設置しておられる。云く、「今週の365アンケートは「永住外国人の地方参政権は必要ですか?」です。実施期間は11月9日から15日までの1週間です。ぜひ、ご参加ください」、と公示されているので、小稿の場を借りてみなさまに紹介し、意識ある方の投票をお願いする。

 設問は次の通りで、地方参政権の要・不要の回答には「自由記述」の理由を記すことができるので、ご意見、指摘すべき事柄などを記されるのも有意義かと思う。併せて、同アンケートの結果は、Web上での1つの発言力となるに違いない。


 こうした呼びかけに応じて、「不要」票が集中したと言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、私は永住外国人への地方参政権付与に反対です。
 しかし、こんなアンケートの結果をもって

「民意は永住外国人の地方参政権付与に反対している」といっても構わない


などと述べる人の頭の程度を疑います。

オコジョさんはこんな人

2018-09-30 11:56:30 | ブログ見聞録
 先日、北方領土問題についての記事を書いていて、オコジョさんというブロガーのことを思い出した。

 以前、私が北方領土についてのいくつかの記事を書くきっかけをいただいた方だ。

 その経緯を記しておくと、

1.私が2012年9月8日付けで
松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」
という記事を書いた。

2.これに対して、オコジョさんというブロガーが、
「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって
米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など
という2つの記事を書いた。

3.それに対して私が、同年9月17日付けで
4島返還論は米国の圧力の産物か?
を書いた。

4.オコジョさんが3への批判として
日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」
四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題
の2つの記事を書いた。
さらに続けて、私の記事への批判ではなく、オコジョさん自身の北方領土問題に関する見解として
「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?
「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲
を書いた。

5.私は、オコジョさんが挙げたいくつかの文献に当たった上で、2013年2月13日付けから同年3月12日付けにかけて、私の以前の記事における誤りを訂正し、またオコジョさんの主張のある面については反論し、さらに私自身の北方領土問題に関する見解として、以下の記事を書いた。
オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について
オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について
オコジョさんの指摘について(3) 「間違いない事実」という表現
オコジョさんの指摘について(4) 「米国の意思を体現」という表現
オコジョさんの指摘について(5) 「米国の意思」をどう見るか
オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について
再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心
再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について
再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策

――となる。

 5の私の一連の記事に対するオコジョさんの私への反応はなかった。
 そして、「オコジョのブログ」をのぞいてみると、しばらくの間、更新も、ご本人のコメントもなされていなかった。
 私は、何か気の毒なことをしてしまったような気持ちになった。
 また、オコジョさんの上記の記事それ自体についての私の考えは、上記の経緯5の私の一連の記事で既に言い尽くしていた。
 加えて、後述するが、私は当時オコジョさんへの関心を既に失っていた。
 そのため、私は、以後オコジョさんについてこのブログで言及することはなかった。

 しかし、先に述べたようにオコジョさんのことを思い出し、「オコジョのブログ」をのぞいてみたところ、以前のような更新頻度ではないものの、現在でもブログを順調にお続けになっているようだ。

 先に述べたように、オコジョさんの記事自体についての私の考えは既に言い尽くしている。
 しかし、オコジョさんの人となりについて、私としては当時少し思うところがあった。
 オコジョさんがブログを停止したのなら、私としてはそれ以上述べる必要もあるまいと思っていたのだが、現在オコジョさんは元気にブログを続けておられるようなので、私が当時オコジョさんの人となりについて思ったことを二点、記録として書き留めておく。
 一つは、ブログのコメントやトラックバックをめぐるオコジョさんの言動について。
 もう一つは、私がオコジョさんへの関心を失うきっかけとなったある出来事についてである。
 以下、完全に私事にわたる内容であり、かつ長いので、興味のない方には読むことをお勧めしない。

 まず前者について。
 私が上で述べた、経緯の4と5の間には、約4か月のタイムラグがある。
 これは、4の時点での私には、オコジョさんが呈示した資料を入手して検討する時間がすぐにはなかったこと、そしてその後オコジョさんへの関心を失ったため(理由は後述)、記事を書く意欲が減退したことによる。

 私は、オコジョさんの記事「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」を読んで、 2012年9月22日にこうコメントした。

一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。
〔以下略〕


 すると、オコジョさんは、

わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
 どうか、存分にご研究ください。
〔以下略〕


と返答した。

 その後、しばらくの簡、オコジョさんから、いくつかのオコジョさんの記事のトラックバックが私のブログに送られてきた。それは、トラックバックが付けられた私の記事と、トラックバック元のオコジョさんの記事の内容が全く無関係なものであった。
 今やトラックバックといってもご存じない方も多いだろうが、トラックバックとは、あるブログの記事中で別のブログの記事にリンクしたことを、リンク先のブログに通知する機能だ。
 当時、必ずしもそのように限定して使われていたわけではなく、単に新記事を書いたことを相手ブロガーに通知する目的で用いるブロガーもいた。しかし私としては、私の記事の下に、それとは何の関係もない他ブログの記事のトラックバックが表示されていることには違和感があった。
 そこで、私のある記事に付けられたトラックバック元の「脱原発の根拠――反論にお答えして」というオコジョさんの記事(私の記事はもちろん原発とは何の関係もない)に、私は次のようにコメントした。

本記事のトラックバックをいただきました。

 トラックバックとは、ブログの記事において他のブログにリンクを張った際に、リンク先に対してその旨を通知するための機能だとされています。また、他のブログの記事に関連する内容を自分のブログに書いた際に、その旨を通知するのに用いられることもあるそうです。私もこの二通りの利用法に従っています。

 これまでにも何度かトラックバックをいただいておりましたが、リンクの通知でもなく当方の記事の内容に関連するわけでもない記事からのトラックバックはご遠慮ください。

投稿: 深沢明人 | 2013年1月 9日 (水) 00時14分


 すると、オコジョさんは、上記の経緯3の私の「4島返還論は米国の圧力の産物か?」という記事に、唐突に次のコメントを付けた。この方の人となりがよくわかるものなので、長いものだが全文貼り付けておく。

トラックバックとは? (オコジョ) 2013-01-09 20:04:22

 以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!
 しばらくは、あいた口がふさがりませんでした。

 たとえば、サランラップをご存じですか?
 サランラップで野菜をつつんだら、深沢さんは文句をつけるかどうか、です。

 あれは、もともとは戦争で使っていたモノで、弾薬を包むのに使われていました。いざという時に使い物にならなくなっては大変ですから、しっかり湿気から防護するのにピッタリの発明品でした。
 詳しく書くのは面倒ですから簡単にすませますと、戦争が終わったあとにラップを沢山持ち帰った兵士の奥さんが、サンドイッチを包んだりするのに「転用」したのが始まりでした。二人の兵士の奥さんが、サラさんとアンさんで、サラン・ラップだとか――。
 この手の話はいくらでもあります。

 深沢さんがご利用のインターネットで、その記述言語になっているHTMLは、元来が文章の論理構造を規定していたものだったのですけど(そして現在でもそうであり続けているのですけど)、現在一般的にはパソコン画面での表示方法を按配するものとして活用されています。

 いや、そのインターネット自体。
 インターネットというのは、インターナショナルがナショナルのインターであるのと同様、ネットワークのネットワークのことです。
 もともとが研究者の情報交換のために、それぞれのネットワークをつなげるというところから始まりました。
 何も、エッチ画像を見られるようにするために作ったものではありません。

 深沢さんは、なんなら18禁のサイトに行って、あんたたちの使い方は違うと文句をつけたらいかがでしょうか。

 そもそも――トラックバックとは何ぞや???
 それを深沢さんが決めようというのですか。あれまあ……。
 「そもそも論」をしたって仕方ありません。使えるモノは使うのが相場です。

 私たちの場合、トラックバックというのは「こんなコトを書きましたよ」という“お知らせ”の意味を持っています。現に複数のブログとそういうトラックバックをやりとりしています。こちらからもリンクするし、むこうからもリンクしてきます。それで何の文句もありません。当然のことです。

 私自身は、以前にも書いたように、コメントもトラックバックも基本的に自由放任です。私が判断して「許可」したり「拒否」したりということをしていません。
 でも、人によってはどちらも「許可」制をとっていたりします。すべて、公開される前に管理者の目がチェックするという過程があるわけですね。

 深沢さんも、気にくわなければ私のトラックバックを削除すれば――あるいは拒否すれば――いいだけです。
 なにも、トラックバックが“そもそも”どういうものかなんて説教を垂れる必要はありません。

 私としては、気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけさせていただいている次第です。

 資料を取り寄せるのに或る程度の時間、それを読むのに或る程度の時間、かかるので、少し待ってくれというコメントをいただいています。

 その後、連絡が入っていませんので、いまだに取り寄せ中か何かなのだろうとは思っております。
 誤解をいつまでも引きずっているのは、そう望ましいことではありません。
 4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」は、ただそうあってほしいという深沢さんの願望だけに基づいているものですから、なるべく早いところ脱却した方がいいのではないかとは、心配しているところではあるのです。


 私には書かれていることは理解できるが、事情を知らない第三者には、何のことやら理解できまい。
 しかし、オコジョさんにとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。ただ私に対して自分の言いたいことが伝わりさえすればそれでいいのだろう。

 これを受けて、私は同じ記事に次のコメントを書いた(重複する部分を省略。全文は「4島返還論は米国の圧力の産物か?」に残っている)。

Re:トラックバックとは? (深沢明人)2013-01-15 22:56:46

〔前略〕

 このブログを読むのは、あなたと私だけではありません。何の説明もなしにこんなコメントをされても、事情を知らない読者は面食らうでしょう。
 不特定多数の方が読まれるブログにおいて、こうした対応はいかがなものかと思います。
 何故そちらのブログでコメントされなかったのか不思議です。

 まあ、いちいち場を変えるのも面倒なので、こちらでお話ししましょうか。

 私は「そもそも論」などしていません。今現在の話をしています。
 オコジョさんお使いのココログのサポートページには、トラックバックについて次のような解説があります。

http://cocolog.kaiketsu.nifty.com/faqs/17514/thread

《トラックバックとは、あるブログの記事にリンクをはると、その相手(記事)に対してリンクをはったことを伝えられる機能です。
例えば、A さんが B さんの書いた記事に対して「私(A さん)はあなた(B さん)の書いた記事と同じ話題について、こんな記事を書きました」ということを、記事を投稿することによって、お知らせする機能です。これを、「トラックバックを送る」と言います。》

《マナーとして、トラックバックをしたときには、必ず記事本文中にトラックバック先の相手のブログへ、「ネタ元」や「関連記事」などとしてリンクをはってあげましょう。
トラックバックは、楽しく意見交換をしながら交流していく機能です。マナーを守りながら、いろいろな人とコミュニケーションの輪を広げてください。》

 トラックバックとはそういうものです。サランラップやインターネットの講釈は的外れです。

 そうではなく、トラックバックを単なる記事のアップの連絡に用いられる方がおられるのも承知しています。
 そして、そういう方々同士では、それで何の問題もないことも承知しています。
 しかし、私はそうは考えておりませんということをお伝えしたかったのです。
 別に、オコジョさんや同様の方々のトラックバックの使い方を否定しているのでも、全てのブロガーがトラックバックをこう使うべしと主張しているのでもありません。
 あくまで、私に対するトラックバックの話をしています。
 私はこう考えているから、私に対するこのようなトラックバックは遠慮していただけませんかとお「願い」しているのです。
 以前、同様にお願いして聞き入れていただいたケースもあります。

 また、以前オコジョさんは、あるブログに対するトラックバックが表示されなかったことをもって、都合の悪い内容だから削除したのだろうといった趣旨のことをおっしゃっていました。
 しかし、ブログを使っていて、相手方がトラックバック非承認制であっても、トラックバックが表示されないことはしばしばあります。相手方が同じブログでも、トラックバックが通ったり通らなかったりすることがあります。
 一度表示されたトラックバックが削除されていたというのなら話は分かりますが、単に送ったトラックバックが表示されなかったことをもって削除されたと主張するオコジョさんは、果たしてトラックバックについてどれほどご存じなのかという疑問があったことも、先の私のコメントの動機の1つです。

 相手方がどう考えていようが、自分は送る、削除したければすればいいとおっしゃるなら、それはそれでかまいません。
 それは、スパマーの思想だろうとは思いますが。
 そして、それと異なる考えを述べただけで「アホ」呼ばわりされる筋合いの話ではないとも思います。

>私としては、気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけさせていただいている次第です。

 これはおかしいですよね。
 トラックバックを送るということは、あなたが覚えているということですもの。
 あなたがではなく、私が忘れないように、注意を喚起しているということではないのでしょうか。

 ともあれ、忘れないようにという目的があることは了解しました。

 北方領土問題についての記事が遅れていることは、申し訳なく思っています。
 私もずっと気にしています。忘れているわけではありません。
 あなたが言及されていたいくつかの文献は入手しました。しかし、読み込む時間がありません。
 そして私は、あなたのように多岐にわたる内容をスラスラとは書けないのですよ。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。
 そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。

 ほかのテーマでは記事を書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、まだしも楽だからです。
 難しく、時間のかかる課題は後回しにしているというわけです。

 しかし、オコジョさんにしてみれば、私があなたのブログで

《言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》

と述べたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
 ただ、無言で何の関係もない記事をトラックバックしてくるだけでは、そんな意図は伝わりません。

>4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」

 私はそんなことは言っていませんし、考えてもおりません。

 その点も含めて、確かに「誤解をいつまでも引きずっているのはそう望ましいことではありません」ね。
 まだ時間はかかりますが、記事は書きます。


 私のブログにこうコメントしただけでは、オコジョさんがこれを読まない可能性もあったから、念のため、「オコジョのブログ」の上記の記事「脱原発の根拠――反論にお答えして」のコメント欄にも転載しておいた。だから、オコジョさんはこれを読んでいるはずである。

 それからさらに1か月ほどして、私は上記5の「オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について」に始まる一連の記事をアップしたわけである。

 早速オコジョさんにお知らせしようと、私はオコジョさんの再々反論記事「「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」」にトラックバックを送った。ところが、私のトラックバックはオコジョさんの記事に表示されなかった。
 しかし、トラックバックが通らないのはよくあること(特に他社間のブログ同士では)だったので、私は気にせずに、代わりにこのオコジョさんの記事のコメント欄にこう書いた。

トラックバックが通らないので、コメントでお知らせします。

ようやく記事を書きました。お待たせしました。

オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/b409af40d7d353c1302e56487d16f8be

投稿: 深沢明人 | 2013年2月13日 (水) 00時57分


 私が続いて書いた「オコジョさんの指摘について」の(2)~(5)についても、同様にトラックバックが通らなかったので、同じ記事にコメントした。
 「オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」は、オコジョさんの記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」にコメントした。
 「再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心」は、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」にコメントした。
 「再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について」と「再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策」は、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」にコメントした。

 先に述べたとおり、2013年2月13日以降の私の一連の記事に対するオコジョさんの私への反応はなかった。
 そして、「オコジョのブログ」は、2013年1月12日付けの記事「そろそろ本気で始めませんか――三大紙の不買運動を!」を最後に、しばらく更新されなかった。
 
 次に「オコジョのブログ」に新記事がアップされたのは、同年6月24日付けの「「思い出づくり」だってさ」という記事である。
 オコジョさんは、この記事の冒頭でこう述べている。

重篤な「失語症」におちいっていました。最近になって、やや持ち直してきたものの、“健常者”にはほど遠いありさま。そこからなんとかして抜け出すためのリハビリが、これから書いていく雑文です。
 内容はつまらない・どうでもいいことになりそうですが、書きやすいところから始めようという次第です。


 この記事に、こんなコメントが付いている。

オコジョ様、ご無沙汰しています。
こちらのブログの更新が滞ってから、オコジョ様の身に何か遭ったのかと案じておりました。大変なご苦労をされたようですね・・・

また貴重なご見解をお聞かせ下さい。ブログの更新を楽しみにしています。

投稿: 海坊主 | 2013年6月29日 (土) 01時18分


 この海坊主さんのコメントに、オコジョさんはこう返答している。

 海坊主さん、コメントありがとうこざいます。
 ご心配いただき、なんとも恐縮です。軟弱者が少々くじけてしまったというだけの話です。ブログを続けていくことの意味をなんとか見いだしていきたいものと現在は考えております。
 ご覧のとおりで、いくつもの記事に“荒らし”のコメントがつきまくっています。面倒なのでそのままにしてありますが、私のブログ程度にこんなことをする輩がいるとは……?
 こんなに一生懸命“いやがらせ”をされると、自分が重要人物であるような錯覚におちいってしまいそうです(100%冗談ですけど)。
 以前、「ねずみとり」と巷間では言われる“交通取締り”をやっている警官に聞いたことがあります。
「あなた、自分のやっていることを恥ずかしいと思わないんですか」って。
 おまわりさんには失礼だったかもしれませんが、この“荒らし”をやっている人間には、なんの留保もなく、同じコトを言ってやりたいと思います。

投稿: オコジョ | 2013年6月29日 (土) 12時09分


 「ご覧のとおりで、いくつもの記事に“荒らし”のコメントがつきまくっています」とある。

 正確にいつだったかは覚えていないが、私はこのコメントが付けられた2013年6月29日からそう離れていない時期に、このコメントを見た覚えがある。そして、“荒らし”らしきコメントとやらは見当たらなかった。ただ、私がトラックバックが通らないので代わりに付けたコメントは、そのまま残っていた(現在も残っている)。
 オコジョさんは、あれらの、単なる記事を書いたという通知にすぎないコメントを“荒らし”と称しているのだろうか。

 だとしたら、以前の自分による、私のブログに無関係の記事をトラックバックするという行為も、“荒らし”であり“いやがらせ”だとの認識の下で行っていたことになる。

 私のコメントがオコジョさんの言う“荒らし”なのかどうかはさておき、「面倒なのでそのままにしてありますが」ともあるが、ブログをやったことがある方ならおわかりかと思うが、コメントの削除は別に面倒な作業ではない。該当コメントにチェックを付けて「削除する」ボタンを押すだけである。
 毎日毎日、百も二百も“荒らし”コメントが付くというのなら、確かに面倒かもしれない。しかし、私が当時見たところ、「オコジョのブログ」はそのような状況にはなかった。

 なので、「そのままにしてあ」るのならば、何かしらほかの理由があるのだろう。
 例えば、先に挙げた私宛のコメントで
「私自身は、以前にも書いたように、コメントもトラックバックも基本的に自由放任です。私が判断して「許可」したり「拒否」したりということをしていません。」
と誇らしげに述べていたこととか。

 しかし、
「深沢さんも、気にくわなければ私のトラックバックを削除すれば――あるいは拒否すれば――いいだけです。」
と言ってのけた人物が、たかがいくつかのコメントをもって“荒らし”だの“いやがらせ”だのと被害者ぶるというのは、全く不可解だ。
「自分のやっていることを恥ずかしいと思わないんですか」
とは、こういう人物にこそふさわしい言葉ではないだろうか。
――と、当時思った。

 次にもう一点、私がオコジョさんへの関心を失うきっかけとなったある出来事について述べておく。
 それは、オコジョさんと、kojitakenさんというブロガーとのやりとりでわかったことである。
 「kojitakenの日記」の2012年10月14日付けの記事「「オコジョのブログ」のブログ主による当ダイアリーに対する虚偽に基づく誹謗中傷に断固抗議し、謝罪を要求する」に、こんなことが書いてある。記録として全文を引用しておく(赤字はkojitakenさんの原文のまま)。

外務省の「謀略」――「北方領土」交渉において: オコジョのブログ に、こんなことが書いてある。

 左派による孫崎享『戦後史の正体』擁護論には苦しい論理付けが目立つ

 と題された記事が、こんなブログに掲載されました。

 kojitakenの日記

 孫崎享さんの『戦後史の正体』を論じた私のブログ記事に文句をつけています。

 内容は、読めばお分かりのように大したものではありません。

 この記事に対する私の方の考えを少し書いてみようかな、と思う一方で、少々迷ってもいます(簡単に言えば、面倒くさいなあ、というだけですが)。

 この人は、歴史認識がいい加減なだけでなく、そもそも人ときちんとした議論が出来るかどうか疑わしいところがあるからです。

(だいたい、私の二つの記事をゴッチャにして区別もしていません)

 実は、対象となっている二つの記事をアップするときに、私はこの人のブログにトラックバックをつけています。ブログを参照すれば、記事がアップされたのがいつか確認できます。

 『戦後史の正体』――「自主独立」と「対米追随」     10月11日

 孫崎享著『戦後史の正体』――「あり得ない」謀略説? 10月8日

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。

 上に挙げたこの人の記事は、10月14日のアップです。

 つまり、この人の言論というのはこんなものだということです。

 自分が批判記事を書く前に、私の記事がトラックバック欄に登場することを未然に防いだという訳です。まあ、なんという狭量でしょう。

 言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか。


上記の文章のうち、「二つの記事をゴッチャにして区別もしていません」という指摘はその通りだった。これは当方の手違いであり、非礼を深くお詫びする。ご指摘の記事は一部書き換えておいた。

しかし、

 『戦後史の正体』――「自主独立」と「対米追随」     10月11日

 孫崎享著『戦後史の正体』――「あり得ない」謀略説? 10月8日

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。


これは全くの事実無根である。当ダイアリーへのトラックバックは携帯に転送される設定にしてあるが、携帯メールの受信記録にも残っていない。つまり、私はブログ主からのトラックバックを受け取っていない。「オコジョのブログ」のブログ主による、当ダイアリーに対する虚偽に基づく誹謗中傷に断固抗議する。

たとえば、私が運営するもう一つのブログである「きまぐれな日々」は言及リンクがない限りTBを送っても受け付けない設定にしてあるから、言及リンクのないTBは送っても受信されない。当ダイアリーに関していえば、特にそういう設定はしていないし、コメントやTBの承認制もとっていないが*1、そもそも「はてなダイアリー」はそもそも言及リンクがなければTBを受けつけない設定になっていたと記憶する。実際には言及リンクがなくてもTBを受けつけることもあるが、いずれにせよ当ダイアリーは当該ブログから送られたであろう上記2件の記事のTBを受信していない。これは天地神明に誓って真実だ。従って、ブログ主の書いていることは事実に反する。とんでもない言いがかりである。

そもそも、ブログを運営している人間であれば、「TBを送ったけれども受け付けられない」ことなど日常茶飯事であることくらい百も承知のはずだ。しかるに、このブログ主は、

 残念ながら「kojitakenの日記」を見ても、私の記事はトラックバック欄に出てきません。要するに、検閲・削除をしたのでしょうね。


などと、虚偽(というより思い込みないし決めつけ)に基づく誹謗中傷を当ダイアリーに対して行った。これは、決して看過できるものではない。ブログ主の謝罪を要求する。

当該ブログ記事は、

 つまり、この人の言論というのはこんなものだということです。

(略)

 言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか。


などと決めつけているが、これらの言葉は、そのままブログ主自身にそっくり当てはまることはいうまでもない。

私がつけ加える言葉は、「恥を知れ!」という一語だけである。


 kojitakenさんの引用終わり。

 ところが、オコジョさんの2012年10月14日付けの記事「外務省の「謀略」――「北方領土」交渉において」を読んでみても、「kojitakenの日記」に全く触れていない。

 これも記録として全文を引用しておく。

以前、「日米関係と『北方領土』問題――再び『ダレスの恫喝』」という記事で、日ソ国交回復について書きました。
 ソ連側から日本の予想もしていなかった「二島返還」の提案がなされ、松本俊一全権は「これで交渉妥結だ」と喜んで本国に報告するのですが、これが外務省によって握りつぶされてしまったのでした。

 あまり詳細にわたっても、ひたすら長文になってしまうので、その時にはふれませんでしたが、このあとの展開についてもう少し書いてみます。

 当時は鳩山政権の時代ですが、外務省は完全に吉田茂の意思で動いていました。いわゆる「Y項パージ」というやつで、吉田の意に従わない職員は辞めさせられるか閑職に追いやられるかのどちらかだったのです。

 吉田茂は日ソ国交回復に反対していましたから、外務省も鳩山の手足になって働くどころか、何かというと交渉を妨害することばかりやっていました。

 さて、松本俊一からの知らせを受け取った外務省・吉田局は、次のような行動をとりました。
•情報は、しっかり秘匿し、鳩山首相に伝わらないようにした
•新聞記者に、こんなリークを行なった
•「ソ連と交渉中のわが国政府は、従来よりさらに踏み込んで、択捉・国後・歯舞・色丹の四島の返還を要請する旨、ソ連側に伝えた」
•(新聞は当然このリークをそのまま報道します)
•リーク情報が、十分に浸透したタイミングを見計らって、松本全権からの報告を発表した
•すなわち、ソ連が「歯舞・色丹の二島の返還」を提案してきたという報告です

 すごいですね。
 松本俊一からの報告は、一時的には発表を控えたものの、交渉場所のロンドンにも日本の記者が行っていますし、いつまでも抑え続けるのは不可能です。いずれは発表しなければなりません。そして、現に発表されたわけです。

 しかし、事情を知らない国民は、その発表をどう受け止めたか?
 私たちには、容易に想像がつくと思います。
 そうです。何のセンセーションも呼び起こさなかったのでした。

 この発表より一つ前の報道では、日本が「四島返還」を求めたとありました。
 ソ連の提案は「二島」です。日本の要求を受けいれずに、値切ってきたことになりますから、国民が「これで交渉妥結だ!」と喜んだりするはずもありません。

 時間的には前後しますが、松本全権は訓令の支持どおり、その後の交渉で確かに「四島返還」を日本の方針としてソ連に伝えることになります。
 ですから、外務省の発表には、結果的には何の虚偽もなく、すべては発表され、すべては思惑どおり、暗礁に乗り上げてくれたのです。

 しかしながら、前回の私の記事をお読みの読者にはお分かりのように、外務省が「四島返還」をリークした時点では、そんな方針は存在していませんでした。日本のもともとの方針は「二島返還」であり、ソ連の提案はそれに完全に合致していたのです。

 以上は、極秘情報でもなんでもありません。当時の新聞報道を、縮刷版で読めばすべて確認できます。当時の新聞読者が持っていなかった情報――松本俊一の『モスクワにかける虹』という本――を参照しながら、新聞記事を読めば、現在の私たちにとって真実は紛れもなく明らかなのでした。

 以上は、なんのことはありません。一つの「謀略」の例です。
 「謀略」が私たちとは無関係の話でないことを確認いただけるでしょう。


 この記事には、

はじめまして。

TBした記事にも書きましたが、私はあなたの10月8日付記事と10月11日付記事のTBは受け取っていません。該当箇所についての訂正と謝罪を要求します。

なお、私があなたの2つの記事をごっちゃにして区別もしていないというあなたのご指摘については、事実を認め謝罪します。

投稿: kojitaken | 2012年10月15日 (月) 08時32分


というkojitakenさんのコメントが付いており、ほかの方も

トラックバックに出ていますよ
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121014/1350187764
左欄の下方にもトラックバック記事のリンクが出ます。
はてなダイアリーに慣れてないので気づかれにくいのかもしれませんが、
「kojitakenの日記」の場合、
日付欄にかかれた総見出しではなく、
項目ごとの小見出しをクリックすると、コメントもトラックバックも表示されます。

コメントは、はてなユーザーのみ書き込めるようです。

投稿: nessko | 2012年10月14日 (日) 20時30分
 

とコメントしておられるので、アップされた10月14日の時点では、kojitakenさんが引用した、トラックバック削除についての言及があったことは明らかだ。

 つまり、オコジョさんは、kojitakenさんからの指摘(あるいはほかの方からの指摘)を受けて、kojitakenさんに関する記述を記事から削除したのだ。
 だが、そのことは現在の記事からは明らかではない。加えて、kojitakenさんからは謝罪を要求されているのに、それにどう対応するのかも全く明らかではない。
 一般には、こういう行為を「改竄」と言うのではないか。

「2つの記事をごっちゃにして区別もしていないというあなたのご指摘については、事実を認め謝罪します」
と、訂正すべき点は認めて謝罪するkojitakenさん。

 たかだかトラックバックが通らなかっただけで、
「要するに、検閲・削除をしたのでしょうね」
と断じ、
「人ときちんとした議論が出来るかどうか疑わしい」
「言論というもの――民主主義の根幹に関わるもの――に対する基本的な姿勢がこんな風であったら、何を書き散らそうと、全部ゴミではありませんか」
とまで書いておきながら、自分の誤りに対しては、弁明も謝罪もなく、後から記事を改竄して事足れりとするオコジョさん。

 何とも好対照を成している。
(念のため書くが、私は「kojitakenの日記」をほとんど読んでおらず、kojitakenさんがふだんどのようなブログライフを送っておられるのかは知らない。あくまで、オコジョさんとのこの一件における私の評価である)

 私は、おそらく、2012年10月15日付けのkojitakenさんのコメントを見て、このやりとりを知ったのだと思う。
 そして、これは論者として信頼に値しない、つまり相手にするべきではない人物を相手にしてしまったのだと悟った。
 私の落胆は大きかった。

 私は「オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について」でこう書いた。

加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
 当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
 しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
 そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
 今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。


 この「ある残念な出来事」というのが、先に述べたオコジョさんとkojitakenさんとの一件である。

 人を見る目を養わなければならないということを強く認識させられた出来事であった。


「だまってトイレをつまらせろ」? (追記)

2016-03-13 22:21:08 | ブログ見聞録
 先日の私の記事「「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム」を、マンマークさんという方が、「市役所職員の生活と意見」というブログの
とにかく朝日を責めたい人。
という記事で、やんわりと批判しておられます。

 私の記事を読まれた方が、それに同意しようが、批判しようが、はたまたくだらないと投げ捨てようが、それは全くその方の自由です。
 ただ、私としては、その批判の内容を読んで、少し申し上げたいことがありました。
 また、誤解しておられる点があるので その点についてもお知らせしたいと思いました。

 マンマークさんのブログの記事にコメントしてもよいのですが、他の場所でもこの方と似たようなことを書いている方がおられたので、そうした方にも伝わる可能性を考慮して、私のブログに新たに記事を書いて、マンマークさんにはトラックバックで伝えることにします(こんなことをするのは久しぶりだなあ)。

 さて、マンマークさんはこう書いています。

「んー? なんだこれは?」というのが最初の感想。
 これは、ここで取り上げられている朝日新聞のコラムじゃなく、このブログ記事を書いた人に対する感想です。
 
 朝日新聞のコラムで紹介されている「トイレをつまらせろ」は、雇用主である企業と被雇用者である労働者との話。
 それに対する反論として、このブログ主が持ち出している駅のトイレの話は、営業者である企業とその顧客との話。
 支配関係の有無という点で、まったく別物の話です。同じ文脈で比較していい話ではありません。

 しかし、このブログ主、そうした違いを理解せず勝手に話を発展させていきます。
 曰く「食費に困っている者が万引きしたら云々」あるいは「朝日新聞の購読者がこの記事が気に食わんと言ったら云々」…、妄想レベルです。
 
 朝日新聞のコラムの後段で安倍首相の話が出てきたのは唐突な印象も受けますが、それも支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気がしますし、少なくとも、このブログ主が示している幾つかの例に比べれば、的確だと思います。


 支配関係の有無という点で全く別物の話をごっちゃにするなとおっしゃっています。

 はて、雇用主と被雇用者は支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私は、雇用契約を結んだ上での、対等の関係にあるのだと思っていました。
 だから、被雇用者には労働基本権が認められ、雇用者による不当労働行為が禁止されているのではないのでしょうか。
 支配関係って、まるで被雇用者が奴隷みたいですね。

 そして、マンマークさんは、高橋次長のコラムが安倍政権批判に至る点についても、「支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気が」するのだそうです。
 はて、安倍政権と、高橋次長を含む国民とは、支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私も国民の一人ですが、安倍政権に支配されているなんて感覚はまるでないのですが。
 絶対王政や武家政治や藩閥政府の時代じゃあるまいし、共産党の一党独裁の国でもあるまいし、国民の普通選挙によって成立した国会が選出した首相をトップとする政府と国民が支配・被支配の関係にあるなんて、時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか。
 マンマークさんだって、市長と市民が支配・被支配の関係にあるなんておっしゃらないと思うのですが。

 まあ、マンマークさんがそれらを支配・被支配の関係にあると見るのは、別にご自由だと思いますが、だとすれば、私が最初に鉄道のトイレの例を持ち出したのは、果たして「まったく別物の話」なのでしょうか。
 鉄道の利用客には、他の交通機関を選択する余地がない場合が往々にしてあります。私は現在、通勤に□□電車を利用していますが、私の自宅と私の勤務先を電車通勤しようと思えば他の鉄道会社を選択する余地はありません。路線バスもありませんし(あったとしても低速です)、自動車通勤は禁止されています。
 そして、鉄道の運賃は、乗客と鉄道会社が交渉して決めるのではありません。鉄道会社が一方的に決めたものに、乗客は黙って従わざるを得ません。被雇用者の賃金が労使交渉で変えられる余地があるのとは違います。
 そんな鉄道のトイレに紙が設置されていなければ、それは、この高橋次長が挙げている工場の経営者の例と比較して、「そう的外れな論理展開でもないのかな」と私は思うのですが。

 それに、高橋次長は、船本洲治の第3の道「だまってトイレをつまらせろ」から、「きらめくなにかを感受し」、「別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」としながらも、「おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。」と述べています。
 そして、「他者を従わせたいと欲望する人」に同調することによって「ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる」と警告しています。
 これは、単に支配する側への抵抗というよりは、「他者を従わせ」ようとすること一般への抵抗なのではないでしょうか。
 一般論として、既成の社会秩序に無条件に従うことに対する疑問を提唱しているのではないのでしょうか。
 私はそのように理解して、先のブログの記事を書きました。
 マンマークさんがそうは読み取れないとおっしゃるなら、それはそれで別にかまわないのですが。

 また、仮に支配・被支配の関係にあれば、「トイレをつまらせる」のは果たして許される行為なのでしょうか。
 高橋次長がその前に①②として挙げているように、経営者と交渉するという方法があります。それが普通でしょう。
 実際に③に及べば、経営者がその後トイレをどうするかはさておき、それは犯罪になります。労働者にとっても、決して良い結果は生まないと思うのですが。
 活動家がアジテーションでそういう暴論を述べることは、そりゃああると思います。
 しかし、それを新聞社の役職者が「きらめくなにかを感受し」たと真に受けて、そうした「精神のありようを手放したくはない」とコラムで表明するのは、そしてさらにそれを政権批判とからめるのは、立場的にどうなんでしょうか。

 高橋次長が政権批判にからめて「だまってトイレをつまらせろ」「はい、もう一回」とシュプレヒコールを唱えるのは、平たく言うと、国民には気に入らない政権を転覆させる自由があることを忘れるな、と言いたいのだと私は理解しました。抵抗権とか革命権とかいうやつですね。
 それには私も同意します。
 しかし、清教徒革命や名誉革命やフランス革命やロシア革命といった歴史上の革命は、絶対王政への抵抗として起こったものです。民主制の国で起こったのではありません。
 何故なら、民主制の国では、言うまでもなく、国民が政権を支持しないのなら選挙で政権を交代させることができるからです。ですから、国民が暴力で政権を打倒する必要はありません。
 にもかかわらず、高橋次長は、選挙のことなどまるで考慮している様子はなく、単に安倍政権の姿勢が気に入らないというだけで「だまってトイレをつまらせろ」と説きます。それでは、単に高橋次長の好き嫌いを表明しているだけです。そんなことは、ブログやツイッターならともかく、わざわざ新聞記者がコラムで語るに値しないことだと私には思えました。
 
 それから、私の記事は、単に「トイレをつまらせろ」という文言だけを批判しているのではありません。
 高橋次長は「為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ」と述べていますが、為政者は国民に選択してもらうために自らの信じる道を示すべきですし、高橋次長だって、仮に安倍政権が道を示さなければ、逆にその点を批判するのではないかと説いています。
 それと、「他者を従わせたいと欲望する人」「さあご一緒に!」は高橋次長もまた同じではないかとも説いています。
 マンマークさんは、この二点には触れておられませんが、いったいどうお考えなのでしょうか。

 批判の内容について申し上げたい点は、以上です。
 誤解されている点については、次回述べます。

続く



「尖閣衝突の船長に起訴議決」の記事を読んで

2011-07-24 00:16:03 | ブログ見聞録
 BLOGOSで、昨年9月の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で、中国人船長が強制起訴されることになったとの記事を読んだ。
 この記事中で2人のBLOGOS参加ブロガーの意見が紹介されているが、その内容が解せない(以下、引用文注の太字は全て引用者による)。

 今回の事件にBLOGOSの参加ブロガーからも意見が寄せられている。まず、元公務員で尖閣問題のエキスパートである「あさってのジョー」氏は、「検察審査会二度目の起訴相当」という記事で、こう書いている。
「このまま行くと強制起訴の可能性が高いのですが、また超法規的措置の可能性もあります」

と、これまでも中国に対して弱腰だった民主党政権の動きに注目している。


 強制起訴の「可能性が高い」とはどういうことだろうか。検察審査会の2度目の起訴議決に対しては、被疑者死亡や刑の廃止などを除き、強制起訴以外の選択肢は存在しない。
 この強制起訴は、検察審査会からの議決書謄本の送付に基づき、裁判所が指定する弁護士によって行われるもので、検察庁すなわち行政府が関与する余地はない。
 検察審査会法をご覧いただきたい。

第四十一条の六  検察審査会は、第四十一条の二の規定による審査〔引用者注・一度目の起訴相当議決に対して検察庁が再び不起訴処分とした場合の審査〕を行つた場合において、起訴を相当と認めるときは、第三十九条の五第一項第一号の規定にかかわらず、起訴をすべき旨の議決(以下「起訴議決」という。)をするものとする。起訴議決をするには、第二十七条の規定にかかわらず、検察審査員八人以上の多数によらなければならない。
〔○2、○3略〕

第四十一条の七  検察審査会は、起訴議決をしたときは、議決書に、その認定した犯罪事実を記載しなければならない。この場合において、検察審査会は、できる限り日時、場所及び方法をもつて犯罪を構成する事実を特定しなければならない。
〔○2略〕
○3  検察審査会は、第一項の議決書を作成したときは、第四十条に規定する措置をとるほか、その議決書の謄本を当該検察審査会の所在地を管轄する地方裁判所に送付しなければならない。ただし、適当と認めるときは、起訴議決に係る事件の犯罪地又は被疑者の住所、居所若しくは現在地を管轄するその他の地方裁判所に送付することができる。

第四十一条の九  第四十一条の七第三項の規定による議決書の謄本の送付があつたときは、裁判所は、起訴議決に係る事件について公訴の提起及びその維持に当たる者を弁護士の中から指定しなければならない。
〔○2略〕
○3  指定弁護士(第一項の指定を受けた弁護士及び第四十一条の十一第二項の指定を受けた弁護士をいう。以下同じ。)は、起訴議決に係る事件について、次条の規定により公訴を提起し、及びその公訴の維持をするため、検察官の職務を行う。ただし、検察事務官及び司法警察職員に対する捜査の指揮は、検察官に嘱託してこれをしなければならない。
〔○4、○5、○6略〕

第四十一条の十  指定弁護士は、速やかに、起訴議決に係る事件について公訴を提起しなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当するときは、この限りでない。
一  被疑者が死亡し、又は被疑者たる法人が存続しなくなつたとき。
二  当該事件について、既に公訴が提起されその被告事件が裁判所に係属するとき、確定判決(刑事訴訟法第三百二十九条 及び第三百三十八条 の判決を除く。)を経たとき、刑が廃止されたとき又はその罪について大赦があつたとき。
三  起訴議決後に生じた事由により、当該事件について公訴を提起したときは刑事訴訟法第三百三十七条第四号 又は第三百三十八条第一号 若しくは第四号 に掲げる場合に該当することとなることが明らかであるとき。
〔○2、○3略〕


 そして、「また超法規的措置の可能性もあ」るとはどういうことだろうか。この事件についてはこれまでにも「超法規的措置」がとられたと、この「あさってのジョー」氏は考えているのだろうか。
 容疑者の釈放や不起訴処分は検察官の判断で行うことが法令上当然認められており、那覇地検の措置は「超法規的」でも何でもない。

 それに、仮にこの強制起訴が「超法規的措置」によってつぶされるとすれば、それは裁判所、すなわち司法機関の手によって行われるということになり、そんな事態は考えられない。

 報道各社も、中国人船長は強制起訴されるが2か月以内に起訴状が送達されなければ公訴棄却となり、仮に送達できても出廷しなければ未済事件となるだけだと報じている。
 アサヒ・コムの記事から。

 那覇地裁が指定した弁護士によって船長が起訴されると、地裁は起訴状を船長に送達しなければならない。那覇地裁などによると、送達は、日中間の捜査協力を定めた「刑事共助条約」にもとづいて中国側に頼むのが一般的。ただし衝突事件について、中国側は非を認めておらず、協力を拒む公算が大きい。2カ月以内に送達できなければ、刑事訴訟法によって、起訴状の効力が失われ、公訴棄却となる。

 仮に送達されても、船長が出廷しなければ裁判は開かれず、未済事件として休眠状態になる。日本の司法当局が、船長の身柄を中国国内から強制的に移すことは出来ない。


 この「あさってのジョー」氏は、そのブログを見るところ、例のビデオを流出させた元海上保安官であるようだが、BLOGOSが言うように「尖閣問題のエキスパート」なのかどうかはともかく、刑事手続については必ずしも詳しくないらしい(海上保安官は捜査機関であり刑事手続と無縁ではないはずだが)。

 BLOGOSの記事ではもう1人、

また、ソフトウェア・エンジニアのuncorrelated氏は「尖閣沖中国漁船衝突事件は、検察官適格審査会で決着をつけるべき」という記事を書いた。「(裁判が不可能なら)検察官の適格を直接問うしかない」として、
検察官適格審査会を開くべきだと思う。菅内閣から暗黙の圧力があったのかも知れないが、その場合は司法の独立性を脅かしたわけで、やはり検察官としての適格が疑われる。国際紛争に発展しかねない決断を避けたのだと思うが、外交判断を下す立場に無い以上は責任は回避できない。

と、厳しい言い方で検察の対応を批判している。今回の起訴議決を受けて、中国漁船への政府と検察の対応が改めて問われている。


との見解を紹介しているが、検察官適格審査会というのは、法務省のホームページによると「検察官が心身の故障,職務上の非能率その他の事由に因りその職務を執るに適しないかどうかを審査」するものであり、不起訴処分の妥当性を問うものとしては筋が違うのではないか。
 それはまるで、世論の大勢に反する判決を下した裁判官を、それ故に弾劾裁判所にかけよと主張するようなものではないだろうか。

 また、仮に審査会が開かれ、この検察官が不適格とされて罷免されたら、それでこの事件は決着したと言えるのだろうか。それはいわゆるトカゲのシッポ切りでしかないのではないか。

 この人のブログの記事全文を読むと、

尖閣沖中国漁船衝突事件で、那覇検察審査会が茶番を行っている。起訴相当とする2度目の議決を出したため船長が強制起訴される事が確定したが、船長は既に釈放・帰国しており現実的には意味が無い


とあるが、仮に公判が実際に開かれることがないとしても、検察審査会が「市民感覚」の発現として2度にわたって起訴相当と議決したことは十分意味があるのではないだろうか。
 強制起訴することとなった公判を現実的にどうやって実現するかは裁判所が考えるべきことで、検察審査会の役割は検察官の不起訴処分が妥当かどうかを判断することでしかないのだから。そして、申立てがあれば審査するのが審査員の義務であり、彼らが恣意的に事案をもてあそんでいるのではない。それを「審査会が茶番を行っている」とはどういう言い草だろうか。
 検察官を検察官適格審査会にかけよと言うのだから、uncorrelated氏は検察官の不起訴処分を妥当だとは考えてはいないのだろう。ならば那覇検察審査会の議決を素直に支持すべきではないのか。仮に検察審査会が不起訴を妥当だと判断していれば、検察官適格審査会が検察官を不適格とすることなどますます有り得ない話ではないのか。

明らかに違法性がある行為を『独断』で起訴猶予としたのであれば、検事の責任は免れない。そして那覇地検の鈴木亨次席検事は『独断』だと記者会見で述べた。


ともあるが、よく言われるようにわが国は起訴便宜主義をとっており(検察審査会による強制起訴はこの例外)、「明らかに違法性がある行為」であっても起訴猶予とされることは多々ある。


 私は、この事件は、当初仙谷官房長官(当時)が述べていたように、国内法にのっとって粛々と処理すべきだったと思うし、具体的に言えば起訴してもらいたかったと考えている。当然有罪となっただろう。
 しかし、当時の中国側の猛反発、さらに在中国日本人が拘留されるという事態の発生を受けて、船長を釈放した検察の判断は理解できるし、それを非難すべきだとは思わない。

 ちなみに、当の船長は、5月24日に香港紙「明報」が、ほぼ自宅軟禁状態にあると報じている。
 起訴議決を報じた今月22日の朝日新聞朝刊も、未だ同様の状態にあるとしている。

 船長の母親(62)は21日、朝日新聞の取材に対し「息子はほぼ毎日、家にいる。政府関係者が毎日のように見回りに来る」と語った。村の外に出ることや、人が家に訪ねてくることも「政府が許してくれない」という。


 「英雄」代はずいぶんと高くついたようだ。

 とはいえ政府には、刑事共助条約に基づいて、粛々と起訴状の送達への協力を要請してもらいたい。
 協力するしないは中国が決めることだが、わが政府としてなすべきことはなしていただきたい。


鏡に映る自分

2011-05-15 20:25:02 | ブログ見聞録
 しばらく前に考えたこと。

 以前Yahoo!ブログの方でパピヨンさんという方の記事を批判したが、そのころ、この人の他の記事を読むと、この人が批判的に書いていることが、いちいちその人自身に当てはまることばかりであり、不思議に思ったことがあった。

 例えば、2009年10月8日の「恐さを知る―――鈍感な人とスピリチュアル」という記事。

今の日本の状態は冗談抜きでヤバいんですね。

でも、そうしたことを人に話しても、察しの良い人とそうでない人がいるんですね。

〔中略〕

察しの良い人は、すぐに気付いて、想像力を活かして、仮にそうだとしたらどうなのかを考えます。
そうしながら話を聞いてくれるので、気持ち良く話が通じます。

ところが、安全な場所から外へ出ず、危険な目に遭ったり、
悪意や謀略に晒されたこともないような人は・・・
同じ人間とは思えないほど鈍感なんですね。鈍いんです。
だから、危険が近づいていることを教えてあげても、話が通じないんですね。
頭が悪いんじゃなくて、鈍感だからこうなってしまう。
鈍感だから、気付かない。気付かないから、自分の頭で考えない。悪循環ですね。


鈍感な人が、スピリチュアルな本とかブログを読んだりして、「恐怖や不安は不要だ」と思うのは別に結構です。
恐怖や不安を持たないのは良いかもしれません。よくわかりませんが。

でも、それとは別に、危険に気付く、危機感を持つ、自分の頭で考える。
これはとても大切なんですね。
それが出来ている人は良いんですが、出来ていない人、まだ何も身体を通していない、実感を得ていない人が、スピリチュアルな本やブログなんかを読んで、高級霊やら聖者の教えやらを、受け売りや知ったかぶりの意見を振り回して、わかったような顔をしているような人達がいるんですね。

別に本やブログを読むのが悪いとは思わないですけど、それだけで済むと思うのはヤバいと思います。
知識だけ勉強すればそれで良いんだったら、地上に生まれて来ていないと思います。


 こんなことを述べるパピヨンさんが、私がYahoo!ブログで書いたように、他人の受け売りか知ったかぶりそのものの国籍法改正批判記事をアップしている。

 2009年12月30日の「民主党、世論誘導の切り札か?池上彰」という記事のコメント欄では、私のコメントに対して、

率直にいって、貴方には、自分の頭で物を考える力が著しく欠けているようです。今の段階では、貴方と話すだけ、時間と労力の無駄というのが本当のところだと思います。

私がいうべきことを説明してさしあげたところで、当の貴方には十分な素養や理解力がないのですから、そんな無駄なことをするほど、私は暇ではありませんし、お人好しでもありません。

ですが、少しだけ指摘するとすれば、インターネットにつなぐことができる環境におられるのならば、疑問に思ったことや知りたいことは、御自分から積極的に、検索エンジンで調べるなどして様々な情報に当たり、色々な視点から仮説を立てて考えてみる、ということをされた方が良いでしょう。


さらに、

自分の思い込みの世界に入り込み、そこから出ようとしない。それゆえ、自分の論理と違うもの、理解できないものは、相手が間違っていると判断してしまい、自分に欠けているもの、必要なものには目がいかない。貴方にはそういうところがあるようです。貴方は、自分自身の問題点に気付かず、自分ではなく相手に問題があると思ってしまうようですね。


と述べているが、国籍法の件にしても池上彰の件にしても具体的な反論一つできないこの人が、いったい何を述べているのか、誰を批判しているつもりなのか、理解に苦しんだ。

 2010/1/20の「「井の中の蛙」から脱皮するために 前篇」という記事でも、次のようなことを述べている。

人間には、身体を使うこと、矛盾を体験すること、人と関わることで感性を磨くことが必要です。

そうして磨かれた自分の感性を中心にして、自分の責任で考えること。それが自分の頭で物を考えるということ。

つまり、自分の頭で考えるというのは、自分の身体を使うことだ、ともいえます。

しかし、現在の日本では、そうした重要なことがわからないまま、自分の思い込みの世界に閉じ籠ってしまう人が、そこかしこに見られます。


失敗すること、恥をかくこと、痛い目を見ること。人は社会の中で働き、人と関わって生きていれば、そうした体験をします。

そうした体験は、そのときは、余り嬉しいことではないでしょう。そうしたことを避けたいと思う人もいるでしょう。

しかし、そうしたことは、人が生きていく上では必要なことなのです。そうした体験の中で、自分に欠けている、足りない部分や、自分の先入観による思い込みなどに気付き、方向性を修正していくことができるのです。


ところが、そうしたことを恐がるあまり、自分の世界に閉じ籠り、自分を脅かしたり、不愉快にさせるような人とは接することを拒否している人がいます。

結果、自分と向き合うこともなく、自分の思い込みの世界から出ることもありません。そうした人は人と接する上でも、異質な存在を拒絶しますが、それは当然、本や情報、知識についてもいえます。


しかし、自分と異質なものを拒絶し、思い込みの世界の中で、自分の思い込みや先入観を、大切に、必死に守ってばかりいる。

そうした人が、自分を否定しない、脅かさない、自分を受け入れてくれる優しい母親のような人々と、仲良しごっこを続けたとします。

そして、自分を否定せず、脅かさない価値観や世界観を表した本や作品など、様々な事物と接し続けたとします。


さて・・・この場合、この人に、成長や進歩というものはあるでしょうか?
駄目なところがあっても指摘することなく、「いいんだよ」と受け入れ、きついことや、突き放すようなことは言わない人達に保護され。

同じく、心をかき乱したり、脅かすようなことのないものばかりを見、読み、聴き。それ以外のものは拒絶して。

「このなかに閉じ籠っていさえすれば、安心・安全。自分に怖い思いをさせる人は悪い人。怖いものは悪いもの。」

「自分に理解できないようなことを言う人間は何もわかっていない。不愉快だ。怖い。恐ろしい。関わりたくない。なぜ自分に怖い思いをさせる。不愉快な思いをさせる。痛い思いをさせる。恥をかかせる。」


なぜかって?それはあなたの世界を広げるため。成長させるため。変化させるため。自分の至らない部分に気付かせるため。自分と向き合わせるため。

そのためには、あなたにとって恐ろしく、不愉快なことであっても、そうしたことが絶対に必要だからです。


 パピヨンさん本人はおそらくそう思っていないのだろうが、私には、パピヨンさん自身のことをそれと自覚せずに批判しているようにしか読めない。


 その後、私が「千葉法相の英断を評価する」という記事を書いたころに、たまたまオノコロさんという方のYahoo!ブログの「残虐法相死刑に笑み 執行に立ち会う」という記事を読んでコメントしたことがあったが、そのオノコロさんは、しばらくして「あなたのせいじゃない 偽善の常套句」という自身の記事のコメント欄で、

* 俺の努力不足でなく全部あいつ(他人)のせいだ。(責任転嫁)
* 面倒だ。他人を茶化して暮らそう。(安直への逃避)
* 肉食しながら動物愛護を説こう。(論理的思考の放棄)
* 自分の家族や隣人に親切かどうかを省みず、どこかかなたにいる人間の人権や平和を大切にしよう。(身近な事柄の切り捨て)
* 結果を考えない抽象論をさえずろう。さえずった結果の責任なんかとらないぞ。(無責任な放言、抽象論への逃避)
* 自分自身の問題点を省みず、他人の問題点をがなりたてよう。(他人に厳しく自分に寛大)
* 新興宗教や思想組織に盲従しよう。考えるのはやめよう。(異形への敬い)
* (祖先などへの)イジメやつるし上げを楽しむ自分の下劣さを省みるのはやめよう。やりたいことをするぞ。(サディズムの正当化)
* 本当に正しいことなんて解らない。殺しだって盗みだって時にはいいかもね。(教養の欠如からうまれる価値判断能力欠如)

* 自分がいかに祖先や他人様に世話になっているかを考えるのはやめよう。(思い上がり)
* 被害者になって、自分のエゴを通そう。(偽善)
* 加害者の人権を大切にしよう。被害者はさらし者にして人権侵害しまくろう。(倒錯人権論)
* 人殺しや強盗を礼賛しよう。なんか、かっこいいじゃん。それにより被害者がどんなに傷つくかなんて考えないぞ。(圧倒的無神経)

* 俺は正義だ。他人の悪をやっつけるぞ。だけど自分が悪者である可能性については考えないぞ。(サヨク)

5.2.3 内なるサヨクを根絶せよ より


と、珍妙な左翼批判?を挙げているが、その大多数はオノコロさん自身にもまたあてはまるものだと思える。


 そのオノコロさんの「残虐法相死刑に笑み 執行に立ち会う」への私のコメントを読んで私の「千葉法相の英断を評価する」にコメントし、さらにそれへの返答である「千葉法相の死刑執行批判について(兼・宗伯さんへの返答)」という記事に大量の駄コメントを投下していったた宗伯さんというYahoo!ブロガーがいた。
 他人を批判する用語として「カルト」を連発していたが、他人の言い分を全く聞こうとせず、ただ自分の主張だけをひたすらに言いつのるその姿勢こそがまさに「カルト」的であった。
 またこの人は、他人のブログで自身のコメントが削除されたことを激しく非難しつつ、自身のブログでは私のコメントを平然と削除するという矛盾した姿勢を見せていたウェブ魚拓)。

 彼らに限らず、こうした事例はネット上で時々見かける。
 どうしてこういうことになるのか、私は長年不思議だった。

 しかし、考えてみると、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言う。

 そして、「人はまわりをうかがう己の姿には、なかなか気づかない。」と白土三平は言っている
 
 たしかに、私もまた、自分だったらこう考え、こう行動するだろうと、自分を基準に他人の考えや行動を想定しがちなところがある。

 とすると、彼らもまた、自分の姿を敵に映し出しているのかもしれない。

 敵を批判するつもりが 己を批判しているのかもしれない。


 そんな間の抜けた批判者にだけはならないよう、自戒したいものだ。

ブログの自由?と『学問のすゝめ』

2011-03-05 19:59:56 | ブログ見聞録
 だいぶ前に書きそびれていたネタ。

 以前、無宗ださんのブログで、「ブログの自由」という記事を読んだ。
 福沢諭吉の『学問のすゝめ』の

自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令(たと)い酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然(しか)らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。(初編)


という一節を引いた上で、 

我々には、いろいろな自由があるが、あくまでも公序良俗の範囲内でという制限がある。

自分の家において自由に振舞うのは当然のことである。
しかし、公共の場や他人の家を訪問した際には、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。

同様に
自分のブログに記事をアップすること。
その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したりは、基本的に管理人の自由である。
しかし、他人様のブログの記事にコメントしたり、TBしたり、ゲストブックに書き込む際に、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。

このような根本的な前提を無視して、
ブログにはコメント削除機能があるから、
コメントを削除するのは、管理人の基本的な権利である。
という主張に対して、
コメント欄が開放されているのならば、
コメント欄にコメントするのはコメンテーターの権利である。
と主張するのはどうかしている。


と述べている。

 無宗ださんが誰を念頭に置いているのかはわからないが、私は以前、コメントを削除するのはブログ主の自由だが、コメントするのは読者の自由だと無宗ださんに述べたことがあるように思う。

 引用している『学問のすゝめ』の一節と、そのあとの無宗ださんの主張がどう関連するのかわからない。

 福沢が言っているのは、他人の妨げをなすものは「自由」ではなく単なる「我儘」にすぎず、非難されるべきものだということだろう。
 その他人の妨げとは、単に他人の行動の自由を実力をもって阻止するというだけではない。もっと幅広い意味で用いているのだろう。
 現代でも、自分の金で酒色に耽ろうが放蕩を尽そうが自分の勝手というのが一般的な感覚だろう。ところが福沢は、それすらも「諸人の手本となり」「世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなす」から非難されるべきだと説いている。

 ならば、無宗ださんのように、

自分のブログに記事をアップすること。
その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したりは、基本的に管理人の自由である。


と単純には言えないはずだ。
 無宗ださんは、

自分の家において自由に振舞うのは当然のことである。
しかし、公共の場や他人の家を訪問した際には、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。


と言うが、そもそもブログは自分の家ではなく公共の場である。
 また、自分の家であれば何をしてもいいなどとは福沢は言っていない。自分の金で酒色に耽り放蕩を尽すことも非難されるべきだと言うのだから。
 自分の金で(あるいは無料で)開設し、自分が管理するブログであっても、その内容や読者への対応は「諸人の手本とな」るのだから、「世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなす」場合は、やはり非難されるべきということになるだろう。
 福沢の理屈からすれば。

 もちろん、その後で無宗ださんが述べている、

しかし、他人様のブログの記事にコメントしたり、TBしたり、ゲストブックに書き込む際に、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。


という箇所は、福沢に照らすと正しい。
 しかし、「自分のブログに記事をアップすること。その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したり」することにもまた、福沢によると、当然「それなりの配慮が必要」だということになる。
 無宗ださんはその点に気付かないか、敢えて無視している。
 だから、引用の意図が理解できないし、全く説得力を欠いている。

 「それなりの配慮」を欠いた対応をした者に対しても、さらに「それなりの配慮」が必要なのかどうか。
 「それなりの配慮」を欠いた対応に対しては、「それなりの配慮」を欠いた対応も許されると考えるのだとすれば(私はそうは考えないが)、最初に「それなりの配慮」を欠いた対応をしたのは誰なのか。
 そこが、問題の本質ではないかと思うが。

 そして、この『学問のすゝめ』の一節のような訓話めいた話は、普通、自らの行動を戒めるものとして受け取るべきものだろう。
 ところが、無宗ださんの手にかかると、それが他人を非難するための道具になってしまう。
 それによって、自らの行動を顧みることはない。
 不都合なことは何でも人のせいにしたがる無宗ださんらしい反応だ。

 無宗ださんは続けて次のように述べている。

ただ、この問題を複雑にするのは、「発言の責任」という概念とダブるからである。
記事であれ、コメントであれ、書きこんだ内容に対しては、自ずと「発言の責任」が発生する。
ブログ管理者には、自分のブログに書き込まれたコメントに対する管理責任も発生する。

批判的なコメントやトラックバックに対して、
どのように対応するかによって、管理人としての資質が問われる
という指摘には一理あるが、
批判的なコメントやTBの仕方(TPO)により、
そのコメンテーターやTB元のブログーの資質が問われる
のも当然のことである。

自分の机の上の整理整頓を行う自由と責任があるのと同様、
自分のブログを見苦しくないように努める自由と責任がブログ管理者にはある。


 私は、自分の机の上の整理整頓を行う「責任がある」などとは全く思わない(まあ、勤務先の机であれば、円滑な業務遂行のための机の整理整頓は雇主に対する責任と言えなくもないが、自宅で私用に使う机ならないだろう)。
 同様に、自分のブログを見苦しくないように努める「責任がある」とも思えない。商用のスパムコメントや個人に対する誹謗中傷めいたコメントを放置しているブログもよく見かけるが、それこそ個人の自由だろう。コメントの責任は誰よりコメントした人物にあるのだから。
 しかし、上記の福沢説に立つ無宗ださんは、それらがあると考えるのだろう。それはそれでいい。
 だが、それでは、現在無宗ださんのブログに次のようなコメントがそのまま残っているのは、どう理解すればいいのだろうか。

支那は異民族=満州族、蒙古族、鮮卑族(トルコ人)などの奴隷民族。朝鮮人はその奴隷。屑の中の屑。支那泥棒や朝鮮乞食にとやかく言われる筋合いは無い!それと強盗ロシア、こいつも屑
2011/2/18(金) 午後 11:47 [ 大和 ]


 いや、このコメントが付けられた記事自体に引用されている次のアスキーアートをどう理解すればいいのだろうか。

満州満州満州満州満州満州満州満州満州露助露助露  神
州満州満州満州満州満州満州満州満露助露助露    神州
満州満州満州満州満州満州満州満露助露助露              州
州満州満州満州満州満州満州満州助露助露助      神      神
満州満州満州満州満州満州満州満露助露助        州神  州
州満州満州満州満州満州満州満露助露助         神州神州
満州満州満州満州満州満州満塵助  露         神州神州
州満州満州満州満州満塵塵塵塵             神
州満州満 州満州満塵塵塵塵                 州
支那    満州満塵塵塵塵塵塵                神州
     州     塵塵塵                    州神
那          塵塵塵塵                  神州
支  支      塵塵塵塵               神 神州
那支那支那      屑屑屑    神          .神州
支那           屑屑屑          神 神州神
那            屑屑屑           神州神州神
支那          屑屑屑      州神州神州神さ神
那支          屑屑  神   神州神州神州 神州
支那                神州  神州 神
那支那            州神州神 神州         神
支那支              神州
那支               州神
支那支               神
那支
支那
那               神


 屑、塵、露助。
 無宗ださんは、こうした表現が「公序良俗の範囲内」だと本気で思っているのだろうか。


 ところで、私はこの無宗ださんの記事がきっかけで、『学問のすゝめ』を初めて読んだ。
 もちろんタイトルぐらいは知っていたが、単なる学問の実用性を説く啓蒙書だと思い込んで、敬遠していたのだ。
 惜しいことをしていたと思う。
 実にスリリングで、戦闘的な、読み応えのある本だった。

 その13編に次の一節がある。青空文庫から引用する。

 また誹謗と弁駁(べんばく)とその間に髪(はつ)を容(い)るべからず。他人に曲を誣(し)うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄(むもう)の公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易(やす)からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。


 無宗ださんは、この言葉をどう聞くのだろうか。

(関連記事「無宗ださんはこんな人」)


櫻田淳の意外な反応

2010-11-25 20:19:25 | ブログ見聞録
 雪斎こと櫻田淳氏が、こんなことを言っている

 「尖閣ビデオ」を流出させた海上保安官の振る舞いは、「義挙」とされるかもしれないけれども、「義挙」が堂々とまかり通る時代は、「困った時代」である。海上保安官の行為それ自体には、雪斎は何の評価も付していない。
 ところが、一部のブロガーには、「雪斎は海上保安菅の行動を肯定的に評価したと」と解した向きがあるらしい。
 こうした向きには、「自分が書いてもいないことには、雪斎は一切の責任を持てない」と反応するしかない。


 私は、先日の「いわゆる尖閣映像流出の問題について」という記事で、次のように述べた。

流出させたとされる海上保安官の行為を「義挙」ととらえる向きが多いという。

 保守派のリアリストである櫻田淳までが、何やら肯定的に評価しているようである。
 憂うべき事態だと思う。


 私はこの記事について櫻田淳氏にトラックバックも送っていないし、氏がこんな無名ブログの発言をわざわざチェックしているとも思われない。
 おそらく、どなたかほかに、同趣旨の発言をされた方がおられたのだろう。

 氏は続いて次のように述べている。

 こうした誤読、曲解の類は、自分がステレオタイプに陥った人々には、よくみられる現象である。
 「雪斎は、」保守派である」。
 「右翼・保守派は、海上保安官を擁護している」。
 「だから、雪斎の議論も、海上保安官を擁護する趣旨であるはずである」、
 こういう単純な三段論法による解釈である。
 率直に迷惑な話である。


 この箇所を読んで、ひどく意外に思った。

 私も、ステレオタイプに陥ったと思われる人々から、書いてもいないし思ってもいないことについて非難を受けることが時々あるので、氏のおっしゃることは理解できる。

 しかし、私自身はステレオタイプに陥っているつもりはないし、氏が示しているような三段論法にのっとって、「何やら肯定的に評価しているようである」と書いたのではない。

 たしかに私は氏を「保守派」と書いた。
 私は数年前から氏のブログを常時読んでいる。それ以前から、雑誌や新聞で氏の主張をしばしば目にしている。その経験からそう書いた。
 そして、保守派ならば当然海上保安官の行為を擁護するなどとも思ってはいない(私も保守を自任しているが、私が海上保安官の行為に否定的であることは上記の記事で書いたとおりである)。

 では私は何故、「櫻田淳までが、何やら肯定的に評価しているようである。」と書いたか。
 それは、氏の「「義士」が登場する時代」という記事に、次のような文章があったからである。

 ところで、この海上保安官を「義士」として扱う雰囲気が濃厚である。
ただでさえ、『喜びも悲しみも幾歳月』や『海猿』のような映画jの影響もあって、海上保安官に対する世間的な印象は、好ましいものであったはずである。自衛隊ほどには海上保安庁に対する忌避感情は大きくない。海上保安官の振る舞いもまた、「職を失ってまで真実を知らせてくれた…」と受け止める向きが強いであろう。

 自民党は、もしかしたら、次の選挙での有力候補者を手にしたかもしれない。
 要するに、彼が「義士」であると観られる限りは、処分が終わった後に、彼を選挙に出せば、相当な「票」をおお見込めるであろう。


 氏が、現在の民主党政権に否定的であり、自民党を支持していることは、これまでの氏のブログの記事から推察できる。
 その自民党にとって、この海上保安官が「次の選挙での有力候補者」と成り得るというのだから、氏がこの海上保安官の行為を肯定的に評価していると見なして何がおかしいのだろうか。

 そして、氏は続けて次のように述べている。

 「義士」が「義士」として登場する条件は、、その時々の「権力者」のやることが、どれだけ国民の「信頼」を得ているかに関わっている。
 赤穂浪士が「義士」である所以は、彼らが、「御上」に対する民衆の不満を代弁したと考えられたからである。  ただし、これは、「義士もどき」が続々、出現する危険と隣り合わせである。
 昭和初期には、こういう「義士もどき」が出現して、井上準之助や團琢磨を暗殺したのである。


 井上準之助や團琢磨の暗殺犯に対して「義士もどき」という言葉を用いている。
 しかし、この海上保安官に対しては、「義士もどき」ではなく「義士」と呼ぶにとどめている。
 ならば、氏は、この海上保安官に対して「義士」と呼ぶことを認めている、少なくとも「義士もどき」ではないと考えているということになる。

 氏が念頭に置いている方はどうだかわからないが、私が、氏がこの海上保安官の行為を肯定的に評価していると理解したのは、以上のような理由によるものである。
 それは氏の言うように「誤読、曲解」なのだろうか。
 その判断は読者にゆだねたい。

 私は、井上準之助や團琢磨の暗殺犯を仮に「義士もどき」と呼ぶのなら、この海上保安官もまた「義士もどき」、いや命まで賭しているわけではないので「『義士もどき』もどき」といったところではないかと考える。

 また私は、この海上保安官が自民党の「次の選挙での有力候補者」となることなど、有り得ないと考える。
 「たちあがれ日本」や維新政党・新風ならどうだか知らないが、自民党の候補者になるなど有り得ない話だと思う。
 何故なら、この保安官の行為は、公務員としてあるまじきことだからである。
 その理由は、上記の私の記事に書いたとおりだ。

 現に谷垣総裁も、保安官の行為については次のように述べているという。

「二・二六も命令無視」映像流出保安官を自民・谷垣氏が批判

 自民党の谷垣禎一総裁は14日午後、さいたま市で講演し、中国漁船衝突の映像流出事件で神戸海上保安部の海上保安官(43)が関与を認めたことについて、青年将校らがクーデターを企てた二・二六事件を引き合いに出し「映像流出を擁護する人もいるが、国家の規律を守れないのは間違っている」と批判した。

 同時に「二・二六事件でも『将校の若い純粋な気持ちを大事にしないと』という声があり、最後はコントロールできなくなった」と指摘した。

 一方で「政治の責任で解決する姿勢がなかったことが一番の問題だ」と菅内閣の対応を非難。「政権担当能力を失っており、一日も早く退陣させないといけない」と強調した。

 
 これが、まっとうな感覚であろう。

 氏がおっしゃるように、人は書いてもいないことに責任は持てないし、ステレオタイプに「○○派だから△△については□□と考えているに違いない」などと決めつけて非難すべきでないことは言うまでもない。
 ただ、書いた内容について、通常の読み方をしたとしても、必ずしも著者が意図していない理解をし得る場合があり得る。
 そうしたものも全て「誤読、曲解」と切り捨てるべきなのだろうか。

 記事「「義士」が登場する時代」にの読者に対して、「海上保安官の行為それ自体には、雪斎は何の評価も付していない。」と理解せよとは、いささか無理があるのではないかというのが、私の感想である。

 この記事は一応トラックバックを送っておくこととしよう。
 (トラバはうまく届かないこともしばしばあるが)

福田和也を小谷野敦が語る

2010-11-20 06:58:05 | ブログ見聞録
 小谷野敦が10月に筑摩選書で『現代文学論争』を上梓した。
 私は文学を読まないので、本書で取り上げられている論争の多くにはそれほど興味がないが、小谷野の書いたものには興味があるのでいずれ読むつもりで購入した。

 私は小谷野のブログの読者だが、11月8日の「「現代文学論争」補遺」という記事には、「福田和也という謎」という長文が掲載されている。
「現代文学論争」のために書いたのだが、分量の関係で割愛したものである。未完。

とのことである。

 これが実に面白い。資料としてもよくまとまっている。

 禁煙ファシズム論など同意できない点もあるが、こうしたものが読めるので、小谷野のブログをチェックするのはやめられない。

 11月15日の記事「萩原孝雄氏との対話」も興味深い。萩原孝雄という人物については全く知らないが、こんなメールを公開することによく同意したものだ。