私が約1年前に当ブログで取り上げた、マッカーサーが日本の戦争は自衛戦争だったと米国上院で証言したという主張は、遅くとも1990年代には、一部の保守系言論人などの間では当然のように語られていた。
この主張がいつ、どのようなきっかけでなされるようになったのか、私はかねてから気になっていた。
6年前、月刊誌『正論』平成24年7月号を読んでいて、渡部昇一(1930-2017)、伊藤隆(1932-)、小堀桂一郎(1933-)の鼎談「「マッカーサー証言」と戦後アカデミズムの退廃」に、次のようにあるのが目に留まった。
私はこれを読んで、いずれ、この菅原裕(1894-1979)の『東京裁判の正体』を読んでみたいものだと思っていたが、当ブログで昨年マッカーサー証言関係の記事を書いた後、ようやく読むことができた(時事通信社、昭和36年刊。『正論』鼎談中の35年刊は誤りか)。
内容的には、私が以前読んだ、やはり東京裁判で弁護人を務めた瀧川政次郎の『東京裁判をさばく』ほど興味を引かれる箇所はなく、ただただ、現代でもよく見る東京裁判否定論と同様の見解が記されているばかりの、あまり得るところのない本だった。
渡部昇一や小堀桂一郎、田中正明(1911-2006)や江藤淳(1932-1999)らの東京裁判否定論の源流をさかのぼっていくと、結局、こうしたA級戦犯の弁護側の主張に突き当たるのだろう。
本書において、マッカーサー証言に言及している箇所は3つある。
まず、昭和28年11月12日に書かれたという自序で、次のように述べている。
次に、本文中で、上記のマッカーサーが再審権を行使しなかったことをより詳しく論難する中で、証言を再び持ち出している。
さらに、チャールズ・ベアード博士をはじめ、米英の学者や判事らが東京裁判を批判していると挙げる中で、
と、みたび持ち出している。
小堀氏が言うように、「マッカーサー証言にもっとも早く着目」したのは、本当に菅原裕なのだろうか?
菅原の筆致からは、これまで見過ごされてきた事実を自らが初めて指摘したというような気負いは感じられない。むしろ、既に広く知られた事実を取り上げただけという印象を受ける。
本書以前にも、マッカーサーのウェーキ島での発言や、米国上院での証言は、わが国で既に広く報じられていたのではないだろうか。
「マッカーサー トルーマン ウェーキ島」で検索してみると、Yahoo!知恵袋に次のような問答があった。
----------------------------
『昭和の精神史』に当たってみた。
竹山道雄は、東京裁判中、オランダ人判事のローリングと交流があったという。ローリングは、広田弘毅ら5名の被告人を無罪とする少数意見を書いた人物である。件の箇所は、そのローリングを扱った章の中にあった。
この『昭和の精神史』は、昭和30年に『心』という雑誌の8~12月号に連載されたものだという。
だから、字句は正確ではないかもしれないが、その執筆当時、マッカーサーがウェーキ島で「極東裁判はあやまりだった」と語ったと、竹山道雄が認識していたのは確かなのだろう。
ウェーキ島での会談については、以前にも取り上げたことがあるが、小堀氏が『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011)で次のように解説している。
この解説について、私は昨年の記事で次のように述べた。
その感想は今も変わらない。
検索結果には、このウェーキ島会談の議事録にアクセスしたというブロガーによる、「60. マッカーサーは東京裁判を取り消した?」という記事もあった。
この方は、議事録のアクセス先を明らかにしていないので、私は直接検証できないのだが、小堀氏が引用している朝日新聞の記事の内容に照らしても、その内容はおそらく正しいのだろうと思える。
しかしこれを、わが国において、「「東京裁判は誤りだった」という趣旨」の発言ととらえる見方が、遅くとも1955年までにはあったこともまた事実なのだろう。
また、マッカーサーの米国上院での証言が、菅原が言うように
「根底から日本の侵略を否定した」
ものかどうかについての私の考えは、既に昨年の記事で述べたとおりである。
菅原は、
「もし以上の言葉が真実なら、彼は何故に戦犯判決の再審において考慮しなかったか。またもしその認識が再審申し立て却下以後であったなら、何故その後において改めて恩赦を施さなかったか?」
と問うているが、その答えは簡単である。菅原が述べているような意味において、「以上の言葉が真実」ではなかったからである。つまり、マッカーサーはウェーキ島でのトルーマンとの会談において、「東京裁判は誤りであった」とは述べていないし、米国上院の軍事外交合同委員会の聴聞会でも「日本の開戦が自衛のためであって、侵略ではなかった」とは証言していないからである。
もっとも、そんなことは、菅原自身、よくわかっていたのではないかとも思う。
何故なら、菅原が本書を刊行した当時、マッカーサーはまだ存命だったからである。
菅原は本書を占領下で執筆し、出版をはばかっていたというが、もはや独立を回復して久しいのだから、何の遠慮も要るはずがない。
直接マッカーサーに真意を問いただし、東京裁判誤り論を世界に問うこともできたはずだ。
しかし菅原はそうはせず、かつてわが国において語られたであろうマッカーサー証言の評価に自説を依拠するにとどめた。
これは、結局のところ、その主張がいわば内輪受けでしかないことに、彼自身気付いていたからではないだろうか。
そして、本書で菅原が述べているようなマッカーサー証言の評価が、いつ、誰によって、どのようにしてなされるようになったのかは、さらに調べなければならないようである。
この主張がいつ、どのようなきっかけでなされるようになったのか、私はかねてから気になっていた。
6年前、月刊誌『正論』平成24年7月号を読んでいて、渡部昇一(1930-2017)、伊藤隆(1932-)、小堀桂一郎(1933-)の鼎談「「マッカーサー証言」と戦後アカデミズムの退廃」に、次のようにあるのが目に留まった。
渡部 まず、マッカーサー証言が世に知られるようになったのは、小堀桂一郎さんの功績であることを強調しておきたいと思います。私がマッカーサー証言の存在を知ったのは、田中正明先生(歴史家、元松井石根陸軍大将の私設秘書)を通してでした。しかし、その資料はないというので、小堀さんに電話をしたのです。小堀さんは「私もあれは重要だと思っていたところでした」と応じ、すぐに探し出して私にコピーをくださった。私はすぐに『Voice』に重要な部分を原文で紹介しました。しばらくすると、小堀さんは講談社学術文庫から『東京裁判日本の弁明』という本を刊行され、その中で一ページにわたって証言の原文と訳文を紹介してくださった。
小堀 私ども(東京裁判資料刊行会)は平成四年から終戦五十年(平成七年)に向けて『東京裁判却下未提出弁護側資料』を編纂していました。それが最終段階にさしかかった平成六年のことだったと思います。真珠湾が奇襲攻撃を受けたことで太平洋艦隊司令長官キンメル海軍大将とハワイ軍管区司令官ショート陸軍中将がその責任を問われた。あの査問委員会の内容は、東京裁判の直接の資料ではありませんが、参考資料として入れるべきだということになり、それならば、マッカーサー証言も入れようという話になったのです。マッカーサー証言にもっとも早く着目されたのは『東京裁判の正体』(昭和三十五年刊、執筆は二十八年ごろ)を書かれた菅原裕さんでした。
伊藤 東京裁判で荒木貞夫大将の弁護人を務めた菅原さんですね。
小堀 ええ。あの本で早くも触れておられる。しかし、そこには原文は掲載されていなかったので渡部さんとも連絡して、やはり原文を探そうと思い立ちました。マッカーサー証言は、昭和二十六年五月三日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の公聴会で行われたことははっきりしていました。私は鈴木貫太郎内閣の終戦工作でのアメリカ側の反応を調べたとき、東京大学の新聞研究所で「ニューヨーク・タイムズ」のマイクロフィルム版をかなり活用した経験がありましたので、その公聴会の翌日五月四日の紙面にはきっと詳しい記事があるだろうと見当をつけました。それで学生に頼んで、その部分のマイクロフィルムからのプリントを作ってもらいました。
渡部 私がいただいたのは、そのコピーなんですね。
小堀 そうです。そして『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会、全八巻)の八巻に付録として掲載しました。さらに、その抜粋版として『東京裁判 日本の弁明』を講談社学術文庫から出すことになりました。そのさい、マッカーサー証言のもう一つのポイントである、「過去百年間に太平洋地域でわれわれ(アメリカ外交)が犯した最大の政治的過ちは、共産勢力を中国で増大させたことである」という部分も入れようと思ったのですが、その時、その部分の原文コピーがふと手もとに見当たらず、収録できなかったのです。
刊行後、渡部さんがあちこちで「あの学術文庫を読め」とおっしゃってくださったものですから、かなり売れました。昨年八月には新たに筑摩〔引用者註:原文ママ〕学芸文庫から『東京裁判 幻の弁護側資料』と題名だけ改めて刊行され、講談社学術文庫版に入れそこなった「アメリカ外交における最大の過ち」という部分の原文をきちんと入れることができました。
私はこれを読んで、いずれ、この菅原裕(1894-1979)の『東京裁判の正体』を読んでみたいものだと思っていたが、当ブログで昨年マッカーサー証言関係の記事を書いた後、ようやく読むことができた(時事通信社、昭和36年刊。『正論』鼎談中の35年刊は誤りか)。
内容的には、私が以前読んだ、やはり東京裁判で弁護人を務めた瀧川政次郎の『東京裁判をさばく』ほど興味を引かれる箇所はなく、ただただ、現代でもよく見る東京裁判否定論と同様の見解が記されているばかりの、あまり得るところのない本だった。
渡部昇一や小堀桂一郎、田中正明(1911-2006)や江藤淳(1932-1999)らの東京裁判否定論の源流をさかのぼっていくと、結局、こうしたA級戦犯の弁護側の主張に突き当たるのだろう。
本書において、マッカーサー証言に言及している箇所は3つある。
まず、昭和28年11月12日に書かれたという自序で、次のように述べている。
検事団が「文明」が原告だと豪語した東京裁判の実態は果たしてどうであったか。
連合国は「極東国際軍事裁判」と、国際裁判を僭称しながら、戦勝国のみで法廷を構成し、敗戦国民のみを被告都市、裁判所条例なる事後法を制定し、侵略戦争を裁くといいながら、侵略の概念さえも示さずに、日本の侵略を既定の事実として、これを大前提とし、過去十八年間一貫して世界侵略の共同謀議がなされたというテーマの下に、太平洋戦争とはなんらの関係もない満州事変までも含めて、それ以来の形式上の責任者をつくり上げたのであった。
〔中略〕
マッカーサー元帥はこの判決に対し、最高司令官として持っていた再審の権利を抛棄して、無条件でこれを容認、確定させたのであった。
ところがマ元帥が、二年半の後、解任されて帰国するや、アメリカ上院において「日本が第二次大戦に赴いたのは安全保障のためであった」と証言して、根底から日本の侵略を否定した。アメリカ政府もまた、マ元帥は前年のウェーキ島会談において、トルーマン大統領に対して「東京裁判は誤りであった」と報告したと暴露的発表を行なったのである。
これはいったいなんとしたことであろうか。真面目に東京裁判を謳歌した知識人たちの権威はどうなるのか。利用された検事団や、判事たちの名誉はどうなるのだろうか。拘禁はとにかくとして、絞首刑はとりかえしがつかない。(p.7-8)
次に、本文中で、上記のマッカーサーが再審権を行使しなかったことをより詳しく論難する中で、証言を再び持ち出している。
裁判所条例は第十七条に、最高司令官の判決審査権を規定している。これは戦争犯罪や占領統治の如き、最も困難な政治的考慮を要する案件は、法律一途で、技術的に結末をつけるべきでないという配慮から、とくにこの規定が設けられたものと考えられる。「連合国最高司令官ハ何時ニテモ刑ニ付、之ヲ軽減シ又ハ其他ノ変更ヲ加フルコトヲ得。但シ刑ヲ加重スルコトヲ得ズ」との規定よりすれば、判決直後の再審査のみならず、刑の執行中は何時にても刑の軽減其他の変更をすることができたわけである。むしろこの規定よりすれば、軍事委員会の審理、判決が軍司令官の処罰権行使の参考意見を述べるにすぎないのと同様に、極東軍事裁判所の判決は実質上、最高司令官再審の予備的手続きにすぎないといい得るようである。
しかるにマッカーサー元帥は一九四八年十一月二四日特別宣告をもって、各被告の再審申し立てに対しなんらの変更を加えずと発表した。すなわち「国家の行動に責任を持つ人々が国際的道義の基準を作成し、法文化しようとして行なったこれら画期的裁判が持つ普遍的根本問題を批判するのは決して私の目的とするところではなく、また私はこの問題を批判するに必要な卓越した叡智をも持っていない……」と。とんでもない話だ。これではまさに重要なる最高司令官の職務を誤解し、これにタッチすることを回避し、その権限を放棄したものといわざるを得ない。
彼はまた「多くの人がこの判決にちがった意見をもつことは避けられないであろう」という。冗談ではない。彼は批評家として選ばれたのではない。チャーターは彼に対し彼自身の考えで判決を変更し得ることを規定しているのである。
さらに彼は死刑執行の日をもって「世界が維持され人類は滅亡せざるよう、神の助けと導きを求めて祈りを捧げるよう」にと要請した。これでは彼は最高司令官ではなくして、一牧師にすぎない。最高司令官の再審査権はさような、技術的かつ儀礼的もしくは宗教的な行事ではなく、占領統治の完璧と世界平和の確立とを期するための宝剣であったはずだ。しかるに彼の政治的無能はついにこの宝剣の活用を放棄して、国際法上幾多の問題ある新制度で、しかも事案の内容には多数の疑問のあった東京裁判を、ドイツでさえも三人の無罪があったにもかかわらず、少しの是正も加えず確定させてしまったのである。
彼は「この裁判が下した厳粛な判決の完全さについて、人間の機関としてこれ以上信頼できるものはあり得ないであろう。もしわれわれがこのような手続きやこの人たちを信頼できないとすれば、なにものをも信用できなくなる。したがって私は軍事裁判の判決どおり刑の執行を行なうよう第八軍司令官に指示する」と声明しながら、二年後の十月十五日のウェーキ会談においてはトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」と報告しているのである。
また彼が罷免されて帰国するや一九五一年五月三日(日本では五月四日)アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会では、日本の開戦が自衛のためであって、侵略ではなかったことを証言して左の如く述べた。
日本の潜在労働者は量においても質においても私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし彼らは労働者があっても生産の基礎材料を持たない。日本には蚕のほかには取り立てていうべきものは何もないのだ。日本人はもし原料供給が断たれたら、一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れている。それ故に日本人が第二次大戦に赴いた目的はそのほとんどが安全保障のためだったのである。
もし以上の言葉が真実なら、彼は何故に戦犯判決の再審において考慮しなかったか。またもしその認識が再審申し立て却下以後であったなら、何故その後において改めて恩赦を施さなかったか? 条例第一七条は最高司令官の判決変更権に対し時期的にも内容的にも、受刑者の利益のためにはなんらの制限を付していないのである。(p.308-310)
さらに、チャールズ・ベアード博士をはじめ、米英の学者や判事らが東京裁判を批判していると挙げる中で、
マッカーサー元帥が、ウェーキ会談において、トルーマン大統領に東京裁判は誤りであったと報告したこと、帰米後上院で「日本が第二次大戦に赴いたのは安全保障のためであった」と侵略を否定し自衛を是認する証言をしたことは既に述べたとおりである。(p.330)
と、みたび持ち出している。
小堀氏が言うように、「マッカーサー証言にもっとも早く着目」したのは、本当に菅原裕なのだろうか?
菅原の筆致からは、これまで見過ごされてきた事実を自らが初めて指摘したというような気負いは感じられない。むしろ、既に広く知られた事実を取り上げただけという印象を受ける。
本書以前にも、マッカーサーのウェーキ島での発言や、米国上院での証言は、わが国で既に広く報じられていたのではないだろうか。
「マッカーサー トルーマン ウェーキ島」で検索してみると、Yahoo!知恵袋に次のような問答があった。
「東京裁判は誤りだった」と、マッカーサーは認めたのか?
マッカーサーは
「東京裁判結審2年後の昭和25年(1950)10月、ウエーク島で大統領のトルーマンと会談したときに、「東京裁判は誤りだった」と認めた。」
〔中略〕
これは事実でしょうか?当時の新聞などマスコミの反応はどうだったのでしょうか?
評論家などの反応や解釈はどうだったのですか?
----------------------------
『昭和の精神史』竹山道雄(元・東大教養学部教授)
講談社学術文庫 p155にも、
「マッカーサー元帥がトルーマン大統領とウェーキ島で会ったとき、「極東裁判はあやまりだった」と語ったということが、ただ一行新聞に出ていた。」と書いてあります。
何の新聞とは書いてありませんが、新聞で紹介されたことは事実のようです。
他の評論家やマスコミはどういう評価していたか?
この著者は直接には何の評価もしていません。
『昭和の精神史』に当たってみた。
竹山道雄は、東京裁判中、オランダ人判事のローリングと交流があったという。ローリングは、広田弘毅ら5名の被告人を無罪とする少数意見を書いた人物である。件の箇所は、そのローリングを扱った章の中にあった。
その後ひさしく判決について追従はあったが、批判はなかった。占領政策批判になるのだった。私が二十四年に『ローリング判事への手紙』という一文を書いたときにも、編輯者の注意で方々の文句を削った。ただマッカーサー元帥がトルーマン大統領とウェーキ島で会ったとき、「極東裁判はあやまりだった」と語ったということが、ただ一行新聞に出ていた。やがて「逆コース」風潮となって批判がたくさん出たが、その多くはジャーナリスティックな感情的なものである。はやく歴史家に正確な解明をしてほしいものだけれども――。(p.154-155)
この『昭和の精神史』は、昭和30年に『心』という雑誌の8~12月号に連載されたものだという。
だから、字句は正確ではないかもしれないが、その執筆当時、マッカーサーがウェーキ島で「極東裁判はあやまりだった」と語ったと、竹山道雄が認識していたのは確かなのだろう。
ウェーキ島での会談については、以前にも取り上げたことがあるが、小堀氏が『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011)で次のように解説している。
なお数点書き添えておくと、マッカーサーが昭和二十五年十月十五日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際に、「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をしたという報道も現在では広く知られていることである。このウェーキ会談の内容も、それまでは秘密とされていたものが、この上院の軍事外交合同委員会での公聴会開催を機会に該委員会が公表にふみ切ったものである。この件についての朝日新聞の五月四日の記事によれば、次に引く如き間接的な表現が見出されるだけである。即ち〈戦犯裁判には/警告の効なし/マ元帥確信〉との見出しの下に、〈ワシントン二日発UPI共同〉として、
〈米上院軍事外交合同委員会が二日公表したウェーキ会談の秘密文書の中で注目をひく点は、マ元帥が次の諸点を信じているということである。
一、マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。(後略)〉
以上の如く、上院委員会でのマッカーサー証言〔引用者註:いわゆる「自衛戦争」証言〕、上院の公表したウェーキ会談の内容の双方について、その中の日本に関する注目すべき言及は、当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていないことがわかる。しかしその二つの言及は、英字新聞の原文を読んだであろう一部日本の知識人の口から、新聞の報道した範囲(当時なお「検閲」をうけていた可能性は考慮すべきであろうが)を越えて次第に世間に広まっていったものの如くである。
この解説について、私は昨年の記事で次のように述べた。
小堀氏は、マッカーサーは「「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をした」と述べている。
しかし、引用している朝日新聞の記事にあるのは、次の記述である。
「北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた」
小堀氏はこれを「間接的な表現」としているが、間接的も何も、マッカーサーが述べたのが上記のとおりなら、それが全てだろう。
朝鮮戦争の戦犯に手をつけるべきではない、東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないと当時のマッカーサーが考えたからといって、それで即「東京裁判は誤りだった」と考えていたと言えるものではない。
その感想は今も変わらない。
検索結果には、このウェーキ島会談の議事録にアクセスしたというブロガーによる、「60. マッカーサーは東京裁判を取り消した?」という記事もあった。
で、そのウェーク島会談 ―、
今や、ネット上で非常に詳しい情報にアクセスできる。
会議のテーブルに着いていたのはトルーマン大統領とマッカーサー元帥の他に、統合参謀本部長オマール・N・ブラッドリー、陸軍長官フランク・ペース、太平洋艦隊司令長官アーサー・W・ラッドフォード、駐韓国大使ジョン・ムチオ、国務次官補ディーン・ラスク、大統領特別補佐官アヴェレル・ハリマン、無任所大使フィリップ・C・ジェサップ、A・L・ハムブレン大佐の10人。
この会談でマッカーサーに何を質問し、ワシントン・サイドが何を強調すべきか、事前に入念な準備がなされている。前の晩にホノルルでハリマン、ラスク、ジェサップがたたき台を作り、大統領も交えた全員でレビューしてまとめた会談用メモも、今はネット上で読める。
会談の議事録そのものは全部で23ページあるが、その中で渡部昇一氏の言う東京裁判という“単語”が出てくるのは次の4行(英語のオリジナルで)だけ!! (ちなみに、これは《戦争犯罪人はどうする?》という質問への答えで、質問したのは大統領ではなくハリマン特別補佐官)。
「マッカーサー元帥 : 戦争犯罪人は放っておこう(Don’t touch the war criminals)。(裁判は)うまくいかない。ニュールンベルク裁判も東京裁判も抑止(deterrent)にならなかった。残虐行為を犯した者は、私の権限内で処分できる。もし捕えたら、軍事委員会で直ちに裁くつもりです」
これですべて!!
これをどう膨らませれば、渡部昇一氏のような“説”になるのだろう!?
ちなみに、ここで言っている戦争犯罪人は、南を侵略した北朝鮮人のこと。この時点で、アメリカは勝利が間近いことをまったく疑っておらず、侵略者をどう裁くかが話題になっているのだ。
そして、「抑止にならなかった」とは、ボクの解釈だけど、ニュールンベルク裁判をやって見せても、東京裁判をやって見せても、相変わらず北朝鮮のような侵略国家が出てきた、ということではなかったか。《東京裁判は間違いだった》なんてニューアンスはどこにもない。
(2016.10.4)
この方は、議事録のアクセス先を明らかにしていないので、私は直接検証できないのだが、小堀氏が引用している朝日新聞の記事の内容に照らしても、その内容はおそらく正しいのだろうと思える。
しかしこれを、わが国において、「「東京裁判は誤りだった」という趣旨」の発言ととらえる見方が、遅くとも1955年までにはあったこともまた事実なのだろう。
また、マッカーサーの米国上院での証言が、菅原が言うように
「根底から日本の侵略を否定した」
ものかどうかについての私の考えは、既に昨年の記事で述べたとおりである。
菅原は、
「もし以上の言葉が真実なら、彼は何故に戦犯判決の再審において考慮しなかったか。またもしその認識が再審申し立て却下以後であったなら、何故その後において改めて恩赦を施さなかったか?」
と問うているが、その答えは簡単である。菅原が述べているような意味において、「以上の言葉が真実」ではなかったからである。つまり、マッカーサーはウェーキ島でのトルーマンとの会談において、「東京裁判は誤りであった」とは述べていないし、米国上院の軍事外交合同委員会の聴聞会でも「日本の開戦が自衛のためであって、侵略ではなかった」とは証言していないからである。
もっとも、そんなことは、菅原自身、よくわかっていたのではないかとも思う。
何故なら、菅原が本書を刊行した当時、マッカーサーはまだ存命だったからである。
菅原は本書を占領下で執筆し、出版をはばかっていたというが、もはや独立を回復して久しいのだから、何の遠慮も要るはずがない。
直接マッカーサーに真意を問いただし、東京裁判誤り論を世界に問うこともできたはずだ。
しかし菅原はそうはせず、かつてわが国において語られたであろうマッカーサー証言の評価に自説を依拠するにとどめた。
これは、結局のところ、その主張がいわば内輪受けでしかないことに、彼自身気付いていたからではないだろうか。
そして、本書で菅原が述べているようなマッカーサー証言の評価が、いつ、誰によって、どのようにしてなされるようになったのかは、さらに調べなければならないようである。