トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

勇気のルンダ

2011-03-28 08:59:17 | マンガ・アニメ・特撮
 ありがちな話だが、仕事で嫌なことがあって、しばらく鬱々とした日々を送っている。
 気分転換を試みても、どうにもそのことが頭から離れない。
 そして、そんなことをいちいち気に病んでいる自分の心の弱さがさらに情けない。

 そんな時、子供のためにアンパンマンの歌を集めたCD-Rを作っていて、「勇気のルンダ」という歌を初めて通しで聴いた。

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
戦うときは 心に言うんだ
頼るものは何もないんだ

勇気一つが友達なんだ

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
ナンダルンダガンバルンダ

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
倒れた時は 立ち上がるんだ
勇気の花を 胸に挿すんだ

赤い血潮の花びらなんだ

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
ナンダルンダガンバルンダ

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
苦しい時は 我慢するんだ
勇気の歌を思い出すんだ

負けるものかと 自分に言うんだ

ナンダナンダルンダ
ガンバルンダルンダ
ナンダルンダガンバルンダ


 歌で勇気づけられたという話は時々目にするが、私には理解不能だった。

 自分でそれを経験したのは、ン十ン年生きてきて、実に初めてのことだった。


 テレビアニメのオープニング「アンパンマンのマーチ」の

そうだ 恐れないで みんなのために
愛と勇気だけが友達さ


という一節や、「生きてるパンをつくろう」などからも、アンパンマンの歌詞が普通でないことは知っていたが。


 「赤い血潮の花びら」は、同じくやなせたかし作詞の「手のひらを太陽に」の

真っ赤に流れる 僕の血潮


を想起させる。


 一昨日の朝日新聞の朝刊に、アンパンマンの歌が震災の被災者を励ましているという記事が載っていたが、わかる気がする。


(文中引用した歌詞の表記は、私が耳にした音(おん)に基づいて文字に起こしたものであり、正規に歌詞として流通しているものとは異なる可能性があります)


(以下2011.4.3追記)
「戦うときは 心に言うんだ」
「負けるものかと 自分に言うんだ」
と、敵愾心を奮い起こすのではなく、自分を叱咤激励しているのがポイントですね。

「モナコやルクセンブルクでさえも」は正しいか

2011-03-26 09:39:48 | 大東亜戦争
 東京裁判で日本無罪論を唱えたパル判事が、その意見書の中で、ハル・ノートについて、同様のものを受け取ったらモナコやルクセンブルクのような小国でさえも米国に対して戦っただろうと述べているとしばしば指摘されることがある。
 例えば前野徹『戦後 日本の真実』(扶桑社文庫、2002)にはこうある。

 パール博士は、その意見書の中で、ハル・ノートにふれ、激しく非難しています。
「これと同じ通牒を受け取った場合には、モナコ公国か、ルクセンブルグ大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を手にして立ち上がったであろう」(p.82)


 パル意見書をわが国に広く知らしめたであろう故・田中正明の『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫、2001、親本は『パール博士の日本無罪論』慧文社、1963)には次のような記述がある。

 パール博士は、〔中略〕日本の指導者たちが愛国者であるかぎり、アメリカの苛酷なる最後通牒を退けて、起ち上がらざるを得なかったのは当然である。それは日本にとって、生存のため自衛のため、やむを得ない措置であったとして、つぎのごとく述べている。
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう」と。(p.157)


 この田中の書きぶりから、モナコやルクセンブルクのくだりはパル自身による表現であるとの誤解が広まったようだ。
 私もしばらく前まではそのように思っていた。
 しかしこれは、パルではなく「現代の歴史家」が述べた内容である。
 講談社学術文庫の東京裁判研究会『共同研究 パル判決書(下巻)』(1984)では、意見書の該当部分の邦訳はこうなっている。

 現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとって起ちあがったであろう」。(p.441)
 

 ではその「現代の歴史家」とは誰なのか。

 東京裁判研究家である牛村圭は、このモナコやルクセンブルクのくだりは、東郷茂徳の弁護人ブレークニによる最終弁論で引用されたものであることを明らかにした。そして、それをパルが自身の意見書にさらに引用したと推測している。
 さらに、その歴史家とはアルバート・ジェイ・ノックという米国人であり、1943年刊の『要らぬ男の回想録』という本にその箇所があるという。
 これらの詳細やノックの人物像などについては、牛村『「文明の裁き」をこえて』(中央公論新社、2001)の第7章(初出は『諸君!』1992年1月号に掲載された「ハル・ノートを叱ったアメリカ人」)に詳しい。

 さて、「モナコやルクセンブルクでさえも」という言葉から、ハル・ノートとはそれほどまでに苛酷な要求だったのか、ならばわが国が開戦を決意しても不思議ではないと漠然と思っていた私だが、その後いろいろと知識を深めるにしたがって、この例え話は果たして適切なものなのか、疑問に思うようになってきた。
 実際、モナコやルクセンブルクが、いかに苛酷な要求を受けたとはいえ、米国に対して宣戦するなどという事態が考えられるだろうか。
 ちなみに、第2次世界大戦で、ルクセンブルクはドイツに占領され、モナコは当初イタリアに、イタリアの撤退後はドイツに占領されている。しかし占領前に宣戦を布告し一戦を交えたとは聞かない。

 植民地を持たなかったモナコやルクセンブルクは、ハル・ノートについて考える例としてはそもそもふさわしくないだろう。
 植民地を有していた小国としては、ベルギーやオランダが挙げられるだろう。ベルギーはコンゴ(旧ザイール)、オランダはインドネシアを植民地としていた。
 仮に、インドネシアに現地人による独立政府があり、オランダがこれまでに築いた権益擁護を理由に独立政府と戦争を続けていたとする。
 そこへ、ドイツでも米国でもいい、ある大国が、インドネシアの市場は開かれているべきであるとして、オランダ軍の撤退を求めて経済制裁を加えたとする。そのままでは資源を欠くオランダは戦争の続行が不可能になるのは時間の問題だったとする。
 ではそこでオランダは、自国が即、攻められるというわけでもないのに、およそ勝ち目のない大国に対して、自ら「戈をとって起ちあが」るであろうか。

 およそ有り得ない選択だと私は思う。

 牛村によると、ノックという人物は、第1次世界大戦の責任をドイツのみに帰す見方に異議を唱えたという。
 同様の見方をわが国に対してもしていたのかもしれないが、牛村によると、『要らぬ男の回想録』には、モナコやルクセンブルクのくだり以外には、わが国に関する記述はないのだという。
 当時の日中関係や日米関係をどこまで正確に理解していたのか、疑わしいように思える。

 戦中期の米国にも、こうしたわが国に対する同情論があったのは事実だろう。
 そしてそれを、東京裁判の弁護側が利用したとしても不思議ではない。
 しかし、その内容が妥当なものかどうかは、また別に考えなければならない問題だろう。


(関連記事「ハル・ノートは開戦を決定づけたか」)

増税でいいじゃん。

2011-03-24 22:36:03 | 現代日本政治
 震災から間もない13日に自民党の谷垣総裁が時限的な復興支援税制創設の可能性に言及したと報じられた。
 アサヒ・コムの記事から。

野党の一部増税意見 首相、与野党党首と個別会談

 菅直人首相は13日、東日本大震災の被災者救援や福島の原子力発電所への対応策をめぐり、大震災後初めて与野党党首と個別に会談した。首相は自民党の谷垣禎一総裁に協力を要請。谷垣氏は被災地の復興財源のため、増税の可能性も含む時限的な立法措置を検討するよう提案した。

 谷垣氏は会談後の記者会見で時限措置の具体的な内容を問われ、「(復興の)財源を国債発行だけで賄うことができるのか。復興支援税制のようなことを考える必要があるかもしれない」と語った。増税の可能性について、枝野幸男官房長官は記者会見で「今の時点であらゆる可能性を否定しない」としつつも、「検討や分析をしている段階ではない」と強調した。

 首相は同日夜の「経済情勢に関する検討会合」で、谷垣氏との会談について「復興には財源が必要だという話はあったが、増税という話は一切ない」と説明した。

 1991年の湾岸戦争時には「法人特別税」などで臨時に財源を確保したが、95年の阪神大震災では財源確保の増税は実施していない。野田佳彦財務相は11日の記者会見で「財政が制約となって災害対策に怠りがあってはならない」と述べ、当面の復興対策費は今年度予算の予備費や新年度の補正予算編成で確保する考えを示している。〔後略〕


 かつて自民党総裁選で消費税増税による財政再建を訴えた谷垣ならではの発言だろう。

 しかし、その後増税に向けた動きが具体化している様子はない。

 同じ13日に行われた名古屋市議選では、河村たかし市長が代表を務める地域政党「減税日本」が過半数には達しなかったものの第1党に躍進した。
 河村は当然増税には批判的で、14日の会見で「庶民が苦しんでいる時は減税だ。阪神大震災のときも増税なんて声は上がらなかった。あまりにもイージーすぎる」と述べたと報じられた

 ネットニュースを検索すると、増税論には批判的な見方が多いようだ。
 では復興財源はどうするのか。
 竹中平蔵は18日付け産経新聞「正論」欄で、国債増発を唱えている。

 
≪増税でなく国債増発で対応を≫

 財源調達手段として、国民に一定の負担を求める構想、つまり増税案が浮上している。だが、所得が少なくなる国民にさらに負担を求めるのは経済の論理に反する。今回のような場合こそ、国債増発で対応すべきである。ばらまきと批判の強い子ども手当などをこの際思い切って棚上げし災害対策に振り向ける政治決断が必要だ。

 増税以前に行うべき政策として寄付の控除拡大も挙げられる。国民の高いモラルと連帯意識を考えれば、税制上の考慮で、相当額の寄付が集まると考えられる。その分、税収減となるが、資金に余裕のある人からの調達であり、そうでない人にも負担を課す増税よりはるかに優れた措置といえる。

 経済正常化後に国民負担を求める、いわば「つなぎ国債」のような工夫はあり得よう。今回の教訓を生かした長期的な対応策もとる必要があり、リスク管理の検証チームを現段階から機能させておくことも、あってしかるべきだ。

 当面の問題は、以上の措置をいつどんな形で実施するかだ。本来なら速やかな補正予算で対応すべきだが、補正予算を組むにしても2週間程度の時間が必要であり、年度末であることを考えると、審議中の来年度本予算との関連が出てくる。与党は本予算を通したうえでの補正予算編成を主張、野党は本予算の組み替えを求める。

 政局より国民生活を優先する観点でいえば、子ども手当の一時棚上げなど大幅な予算組み替えで対応するのが望ましかろう。少なくとも、こうした選択肢の検討を首相は急ぎ指示すべきではないか。その際、使途を定めず国庫債務負担行為(契約など)を可能にする「ゼロ国債」も考慮に値しよう。


 なるほど寄付控除の拡大、予算組み替えも結構。
 しかし、それプラス国債増発で、本当に復興財源がまかなえるのか。
 そして、これ以上国債を増発するという選択は適切なのだろうか。
 私は、赤字国債によっていますぐわが国の経済が破綻するとは全く思わないが、財政健全化は喫緊の課題だと考えているので、安易に国債増発を支持する気にはなれない。

 朝日新聞は全国の有権者3000人に対し社会保障のあり方についての郵送による世論調査を2月上旬から3月中旬にかけて実施し、その結果を22日付け朝刊で発表した。回答の大半は震災前に得られたものだという。
 紙面の「質問と回答」によると、「社会保障の財源を確保するために、消費税を引き上げることに賛成ですか。反対ですか。」との質問に対し、賛成が57%、反対が37%とある。
 そこで賛成と答えた人に、何%ぐらいまでなら引き上げを認めてもよいかと問うと、「7」が32%、「10」が53%、「15」が8%だったという。
 社会保障財源として賛成なら、震災復興財源としてはなおのこと賛成が得られるのではないか。

 増税で何故いけないのだろうか。
「所得が少なくなる国民にさらに負担を求めるのは経済の論理に反する。」
 それはそうだ。
 しかし、では国民はこれまで給付に見合った負担をしてきたのだろうか。

 朝日の紙面ではこの世論調査について橘木俊詔・同志社大教授による解説が掲載されているが、その中に次のような記述がある。

 これまでの日本の福祉は、家族、地域、会社といった共同体内での助け合いを基調としていた。税金と社会保険料の支払いを合わせた日本の国民負担率は、実は先進国中アメリカとともに最低水準にある。それでもよかったのは、仲間うちで支えられていたからである。しかし、格差社会に入って貧困者の数が増加したし、無縁社会に入って血縁、地縁、社縁が希薄となって、福祉にほころびが目立つようになった。
 残された道は二つである。アメリカのように自由至上主義に立脚し、自立心を強調してほとんどを個人で解決する策か、リベラリズムの立場からヨーロッパのように社会が支援する策である。自立自助の道か、福祉国家への道か、の選択肢である。


 私は「格差社会」「無縁社会」といった概念には否定的だし、自立自助か福祉国家かという2者択一もあまりに話を単純化しているようで疑問だが、わが国の国民負担率が低いという点は重視する必要があると思う。
 給付には応分の負担があって当然なのに、批判をおそれるあまりにそれを避け続けてきたのが、わが国の政治家たちである。
 これでは大平正芳や竹下登は浮かばれまい。

 義捐金のような個人の善意に頼るのではなく、政府の責任において増税を行い、全国民が幅広く復興への負担を分かち合うべきではないか。
 被災者に対しては、別途、給付措置を講じればよい。
 そして、復興成ったあかつきには、増税分をそのまま社会保障に転用すればいいではないか。

 菅も谷垣も財政健全化を志向していたはずである。
 リーダーシップを発揮して、協力できる点では協力を進めていただきたい。

谷垣総裁の入閣拒否は当然

2011-03-22 00:30:19 | 現代日本政治
 未曾有の国難である。ねじれ国会のままでは対策の進展はおぼつかない。大連立、あるいは挙国一致内閣も当然有り得る選択肢だと思っていた。

 しかし、野党第1党党首の一本釣りを試みるとは。

 一昨日の朝日新聞朝刊1面の記事から。

谷垣総裁、入閣を拒否

 菅直人首相は19日、自民党の谷垣禎一総裁に「副総理兼震災復興担当相」として入閣するよう電話で要請した。自民党トップを加えた「危機管理内閣」の発足で政権を安定させ、東日本大震災の対策を強める狙いがあった。だが自民党は緊急役員会で入閣要請を拒否することを決め、谷垣氏が首相に通告した。

 首相は19日昼、谷垣氏に電話で「国家的危機だ。復興には相当なエネルギーが必要だ。ぜひ協力をお願いしたい。副総理兼震災復興担当大臣でお願いしたい」と要請し、谷垣氏との会談も求めた。だが、谷垣氏は「あまりに唐突な話だ」と回答を保留した。

 谷垣氏はこの後、自民党本部で緊急役員会を開いて対応を検討。出席者からは、入閣すれば自民党が反対してきた子ども手当法案など新年度予算関連法案の成立に協力せざるを得ず、菅政権の延命につながるとの意見が大勢を占め、入閣要請を拒否することを全会一致で決定した。一方、災害復興には与野党で設けた「各党・政府震災対策合同会議」などを通じて協力する方針も確認した。


 これは拒否されて当然だろう。
 大連立を持ちかけるなら、副総理とはいえ、谷垣1人のみなどとはおよそ常識外れな話だろう。
 重要閣僚を含めた半数近くを自民党に差し出すぐらいの覚悟でないと。
 ましてや「震災復興担当相」とは。民主党は震災対策を自民党に押しつけるつもりなのかとの疑念が生じても不思議ではない。

 4面の関連記事の中に、次のような記述があった。

首相独断 与党内に不満

 谷垣氏への入閣要請は、首相の独断専行だった。岡田克也幹事長が首相から告げられたのも、首相が谷垣氏に電話を入れる直前だった。
〔中略〕
 震災前、首相は支持率低迷にあえぎ、野党に加え民主党内からも倒閣の動きが出ていた。震災対策を契機に自民党を閣内に引き込んで政権を安定させなければ、原発事故対応と震災復興という長く困難な仕事を乗り切ることはできない。そんな危機感が「独走」へと向かわせたようだ。
 しかし、民主党議員の多くは、首相の言動を「政権の延命策」と感じている。震災対策の責任を自民党にも負わせることで長期政権への展望を開きたい、と思い描いているのではないかという不信感が足元に広がっているのだ。
 首相は谷垣氏に電話する直前、首相官邸に鳩山由紀夫前首相、小沢一郎元代表、前原誠司前外相の3人を呼んで約40分間話していたが、谷垣氏への入閣打診について一切打ち明けなかった。
 2007年当時、民主党代表だった小沢氏は福田康夫首相(自民党総裁)と大連立構想を水面下で進め、最後は役員会で拒否された。今回は首相が役員会を開くこともないまま構想はついえそうだ。
〔中略〕
 ただ、首相はあきらめていない。19日夜には公明党の山口那津男代表に電話で「谷垣氏には断られた。公明党にも協力をお願いしたい」と要請した。山口氏は「震災復興担当相を早く決めて復興に専念してください。公明党は復興に協力します」と答えた。


 菅首相の独断だったというのだが、いったいこれは、公明党の山口代表への打診も含め、どこまで本気だったのだろうか。
 あるいは、野党には入閣を要請したが断られたという実績を残すための、断られることを前提としたポーズだったのだろうか。
 本気だとしたら、こんなやり方はないだろうし、これぐらいで引き下がるべきではないだろう。
 私としては後者のように思えるのだが、それが果たして、今後の国政に益する方策だったのだろうか。

 一方で、仙谷前官房長官が官房副長官として政権中枢に復帰した。
 アサヒ・コムの記事から。

菅首相、官房副長官に仙谷氏起用 再び政権中枢に
2011年3月18日0時6分

 菅直人首相は17日、民主党の仙谷由人代表代行を官房副長官に起用する人事を決めた。各省庁に人脈があり政策にも通じた仙谷氏を再び政権中枢に据え、東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の対応を強化するねらいがある。

 藤井裕久副長官は首相補佐官に回り、加藤公一首相補佐官は退任する。

 仙谷氏を起用することで、被災者対策と原発対応の指揮系統を事実上、分離。原発事故や計画停電の問題などを枝野氏が統括し、仙谷氏は被災者の生活支援を担当する。枝野幸男官房長官は17日夜の記者会見で「仙谷副長官において、強力な官房態勢で被災者生活支援を進めたい」と表明した。

 仙谷氏は菅内閣が発足した昨年6月から官房長官を務め、内政・外交の全般にわたり屋台骨として内閣を支えた。だが、国会での発言などを問われ、昨秋の臨時国会で参院問責決議案が可決され、今年1月中旬の内閣改造で官房長官を退いていた。

 仙谷氏起用には野党からの反発も予想されるが、枝野氏は「被災者の生活支援は強力な政治力を要する仕事。関係省庁とも様々な調整をしなければならない。これはあらゆる事項に優先する」と述べた。

 枝野氏は78歳の藤井氏については「震災発生以来、高齢のなか公務にあたってもらったが、そろそろ限界との申し出があった」と語り、辞任の意向が寄せられていたことを明らかにした。

 皇居・宮殿で17日夜に行われた仙谷副長官の認証式は、平服で行われた。モーニング着用が決まりだが、震災の対応に忙殺されている菅内閣側が「平服でできないか」と打診し、宮内庁が了承。天皇陛下をはじめ、仙谷氏、菅首相、侍従長ら出席者全員がスーツ姿で出席した。

 宮内庁式部職によると、平服の式は長い歴史で初めてだという。

 宮殿は震災発生後、天皇陛下の強い意向で、節電のため閉鎖している。今回は、国事関連行為である式の最中だけ「松の間」などで最小限の照明を点灯した。


 なるほど仙谷は民主党にとって、いや菅にとって、第一級の人材なのかもしれない。
 しかし、記事中にもあるように、野党による問責決議を受けて、官房長官を退いた人物だ。
 それをわずか2か月で副長官に起用するとはどういう神経をしているのか。
 いかに非常時とはいえ、野党を、そして参院を、あまりにも軽視してはいないか。

 また、藤井が高齢であるのもあらかじめわかっていたことだ。
 そんな人物を枝野の下で副長官として起用したこと自体疑問だが、その「そろそろ限界」と言う人物をなおも首相補佐官に残し、40代の働き盛りである加藤公一を退任させるとはどういうことなのか。

 前回の記事で取り上げた蓮舫の節電啓発担当相兼任、辻元清美の首相補佐官起用も含め、震災以後の菅内閣の動きに私はひどく危うさを覚える。


「節電啓発相に蓮舫氏 辻元氏は首相補佐官」との報道を読んで

2011-03-14 00:20:36 | 現代日本政治
 昨日アップされた毎日jpの記事より。

東日本大震災:節電啓発相に蓮舫氏 辻元氏は首相補佐官

 政府は13日、東日本大震災による電力供給不足を踏まえ、蓮舫行政刷新担当相に節電啓発担当相を兼務させた。また、震災復興でのボランティアの役割を重視し、無所属の辻元清美衆院議員を災害ボランティア担当の首相補佐官に起用した。

 枝野幸男官房長官は記者会見で、蓮舫氏の役割について「(節電の必要性を)国民に分かりやすく具体的に伝えることだ」と説明。辻元氏に関しては「阪神大震災などでボランティア活動に取り組み、NPOとの連携でも先頭に立ってきた」と述べた。

 辻元氏は政権交代を受け鳩山内閣で社民党から副国土交通相に就いたが、同党の連立離脱で昨年5月に辞任。7月に離党表明し、無所属となった。9月には衆院会派の「民主党・無所属クラブ」入りした。


 節電については、同じく毎日jpに次のような記事が上がっている。

東日本大震災:東電、「輪番停電」実施へ 戦後混乱期以来

 東京電力は、東日本大震災で発電所の停止が相次ぎ、電力供給が大幅に落ち込むことから、14日以降、地域ごとに3時間ずつ電力供給を止める「輪番停電」を実施する。電力需要の少ない休日の13日は、通常通り供給できたが、企業活動の本格化する週明け14日は、供給不足が避けられないと判断した。国内の輪番停電は、戦後の混乱期以来。東電は「最低でも1週間は続く」としている。

 14日は、既に停止している原子力、火力発電所に加え、夜間電力でくみ上げた水で発電する「揚水式」水力発電所用の水を使い果たすとみられる。その結果、供給能力が13日より500万キロワット少ない3100万キロワットに減少する。これに対し、電力需要は、平日で企業活動が活発化することにより、最大4100万キロワットに達しそうで、1000万キロワットの供給不足となる見通しという。

 そのため、契約者約2800万件を約150万件(約500万キロワット相当)の供給区域に分け、事前連絡した上で2区域ずつ輪番停電することで埋め合わせる。病気療養者がいて、医療用機器を常用している世帯などには、発電機を貸し出すことも検討する。

 輪番停電は家庭、工場、オフィスの区別なく実施する。対象から、病院や公共施設などを除くことは「技術的に困難」(東電)なため、自家発電などで対応する必要が出てくる。鉄道は、複数の供給区域にまたがって走っているため、電力供給がとだえることはないとみられる。

 輪番停電は、電力会社の経営危機で供給不足に陥った米カリフォルニア州が01年に実施。信号機の停止で交通事故が多発したり、工場が操業停止に追い込まれるなど大きな影響があった。【大久保渉】


 こうした事態に対応するために節電啓発が必要だということか。

 節電が必要なら粛々と実施すればいいだろう。
 だがそのために啓発担当大臣なるものが必要なのだろうか。
 そして、電力事業の所管は海江田万里経済産業相ではないのか。
 何故蓮舫に兼務させる必要があるのか。
 どうせ行政刷新どころではないし、PRを担当させておけということなのだろうか。

 さらにわからないのが、辻元清美の災害ボランティア担当首相補佐官への起用。
 たしかに辻元はNPO出身であり、阪神大震災でもボランティア活動に従事したとされる。
 その活動内容についての批判的見解も以前ネット上で目にしたが、それもまたどこまで信頼していいのかわからない。
 まあそれはいい。

 記事中にもあるように、辻元は社民党の連立離脱により国土交通副大臣を辞任せざるを得なくなり、その後社民党を離党し、民主党の会派に加わった。
 それを変節と見る向きもあろうが、私は現実主義への転身としてむしろ肯定的にとらえている。そのことは以前述べた

 どういうかたちかではわからないが、辻元はゆくゆくは民主党の看板として起用されるのだろうとは思っていた。
 しかし、それはせめて、辻元が正式に民主党に入党し、次の衆院選で当選してからの話だろうと思っていた。

 こうしたかたちでの辻元起用を企図したのは果たして菅首相本人なのか。それとも側近の手によるものか。
 いずれにせよ、天災を機に政権復帰を果たさせたわけで、何か不純な印象を受けた。

 実際、首相補佐官の権限自体不明確だというのに、災害ボランティア担当として何をやるというのだろうか。
 ボランティアと政府との窓口となることが期待されているのだろうか。
 阪神大震災の際にも、無秩序なボランティアの来訪が、かえって現地の迷惑となっているという指摘もあったと記憶している。
 果たして辻元に、そうした動きを統御することができるのだろうか。

 阪神大震災の時には、村山内閣で国土庁長官を務めていた小沢潔が本来の所管大臣であった。
 しかし、不適任と見なされたのか、発生から3日後には、北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めていた小里貞利が震災対策担当相専任となり、代わって小沢潔が北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を兼務した。

 国土庁は2001年の省庁再編により国土交通省に統合された。
 となると、現在国土交通相を務める大畠章宏がこのたびの震災を所管することになるのだろうか。
 しかし、そのような報道は見当たらない。

 節電啓発担当相、災害ボランティア担当首相補佐官の人事などに手をつける前に、菅内閣はまず、震災対策担当相を置くのか置かないのか、置かないのであれば誰が所管するのかを早急に決定すべきであったと思う。


東日本大震災雑感

2011-03-13 01:02:58 | 身辺雑記
 あまりの被害の大きさに、すぐにはその全貌がわからない。
 少しずつ、少しずつ、恐るべき実態が明らかになっていく。
 おそらく、今後も死者は増えるのだろう。
 その報道を見ながらも、自らは何もできない無力感。
 阪神・淡路大震災の時もそうだった。

 それにしても、被害が広範囲に及んでいるのに加え、町や集落が「壊滅」と表現されている。
 これは、わが国において、関東大震災以来最大規模の自然災害となるのかもしれない。

 11日に報じられた菅直人首相に対する在日韓国人による政治献金問題もこれで吹っ飛んだ。
 今のところ、野党も政治休戦を表明しているようだ。
 これまた、阪神・淡路大震災と同様。

 あの時、山花貞夫らが進めていた新党結成の動きが実現していれば、その後の政局も大きく変わっただろうに。
 今は言っても詮無きこと。

 とにかく、復興に全力を尽くすということになるのだろう。
 そしてまた、赤字国債の大盤振る舞いだろうか。

 しかしこれでは、消費税増税どころではない。
 またしても先送りか。
 いつになったら財政健全化への道筋をつけられるのだろうか。

 これで、当面は(少なくとも今年いっぱいは?)解散も総辞職もないだろう。
 もっとも、復興事業すらまともにできないとなれば、いよいよ国民から総スカンを食らうおそれもあるが。

外国国章損壊罪についての大いなる誤解

2011-03-08 00:47:15 | 「保守」系言説への疑問
 少し前に「虚構の皇国」というブログで、自民党が「国旗損壊罪」を新設すべく刑法改正案をまとめたと知った。

「国旗損壊罪」は「日の丸」フェチの極致

ついに「日の丸」フェチシズムが刑法にまで進出するのか。すさまじいリビドー政治だな。

もしも法案が成立すれば、国家的暴力装置を背景として一部の人間の性的物神崇拝が国家宗教にまで高められることになるわけで、我が神国日本も、米仏独伊にならぶ糞ったれ近代宗教国家に堕落してしまう。嗚呼、恥ずかしい国・ニッポソ!

「国旗損壊罪」刑法改正を提案へ 自民  - MSN産経ニュース

 自民党は23日の法務部会で、国旗「日章旗(日の丸)」を侮辱する目的で傷つけたり汚したりした場合に刑罰を科す刑法改正案をまとめた。議員立法で今国会中の提案を目指す。

 刑法には、外国国旗を損壊すれば刑罰を科す内容が盛り込まれているが、日章旗については尊重義務や罰則がない。改正案では、「国旗損壊罪」を新設し、外国国旗と同様、「2年以下の懲役または20万円以下の罰金」を科すこととした。国会図書館によると、米仏独伊などの主要国では刑法や個別法で、自国国旗に対する侮辱には罰金や懲役を科している。



 このブログは、以前興味深い記事を見かけて、しばらくROMしていたのだが、この記事はいただけない。
 「フェチシズム」「リビドー」「性的物神崇拝」……何でも性的なものと結びつけずにはおけない変態さんかしら。

 さて、この改正案だが、「政調会長預かり」となったそうだ。
 MSN産経ニュースから引用する。

日の丸「格下」扱いをこれ以上放置するな!!
2011.3.5 18:00

 自民党の石破茂政調会長は2日の記者会見で、国旗(日章旗、日の丸)を傷つけたり汚したりした場合、罪に問われる「国旗損壊罪」を新たに盛り込んだ刑法改正案を今国会に提出する方針を明らかにした。現行刑法には外国の国旗に対する損壊罪が明記されているが、日の丸に関する条文はない。石破氏は「外国の国旗に対する罪があるのに、なぜ日章旗を汚損しても罪に問われないのかと言うのは素朴な感情だ。(本来は)国旗国歌法で国旗が日章旗だと定められた時(国旗損壊罪も)立法しておくべきだった」と語った。

 この刑法改正案は議員立法。提出者の高市早苗元内閣府特命担当相は「日本人が外国の国旗を焼いたり切ったりしたら、刑法92条で2年以下の懲役または20万円以下の罰金となるのに、日の丸を日本人や外国人が傷つけても(条文がなく)対象にならない。主要国の(法令の)例を見てもアンバランス」と説明する。日の丸は「格下」扱いされていると言っていい。

 実際、米仏独伊などでは刑法や個別法で、自国国旗に対する侮辱には罰金や懲役を科している。国立国会図書館によると、米国では1年以内の禁固刑、フランスは約100万円の罰金刑や6カ月拘禁の加重刑、ドイツは3年以下の自由刑か罰金となっている。

 反日デモで「日の丸」が損壊されるケースが散見される近隣諸国も同様だ。韓国には自国国旗と同様、外国国旗に対する損壊罪もあるが、自国国旗への損壊罪の方がはるかに重罰。中国に至っては3年以下の懲役や政治的権利が奪われる罰則などがあるのは自国国旗(五星紅旗)を損壊した場合のみで、外国国旗を侮辱しても罪に問われない。

 自国国旗のみ尊重する国。外国より自国を尊重する国。自国と外国を対等に尊重する国。国によって対応はまちまちだが、少なくとも外国国旗だけを尊重する国など皆無だろう。「日の丸・君が代」に大半の日本人が賛意を示す現在、自国と外国を対等に扱う法制こそ国民感情にかなうのではないか。第一、自国の国旗も尊重しないような国は、他国から信用もされなければ相手にもされないのは国際的にも常識。高市氏が指摘する「アンバランス」解消は急務といえる。

 日本の国会は戦後、多くの「宿題」を先送りしてきた歴史がある。他国が日本を侵略した際、国民を避難誘導させる有事法制も「再び戦争を起こす国になる」という平和ボケとしか思えない反対論で長年、議論すら回避した。その意味で、高市氏が「6年前から提出を目指してきた」今回の改正案は、真っ当な国際国家に脱皮できるかの試金石となるはずだった。

 ところが、改正案は翌3日の自民党シャドーキャビネットで原則の全会一致の賛同を得られず、「政調会長預かり」となった。党関係者によると、「自民党が右傾化したと思われる」との反対論が一部議員から出たためだという。

 年度末を控え、混迷が増すばかりの今国会だが、自民党は後半国会も視野に同法案の提出を再考すべきだ。平成21年、地方の会合で国旗2枚を切り裂いて党旗に作り替えた過去がある民主党だが、「日の丸・君が代は国旗国歌として定着しており、こうした国民感情を尊重し、本内閣でも敬意をもって対応する」と今年1月の参院本会議で菅直人首相が述べたように、賛同者は少なくないはずだ。この機会を逃したら、それこそ国会は怠慢のそしりを免れないだろう。(森山昌秀)


 この記事を読んで、読者はどう思われただろうか。
 次のような感想を抱いたのではないだろうか。

「外国の国旗を損壊したら処罰されるのに、わが国の国旗を損壊しても処罰されないとは。これは確かにバランスを欠いている。外国の国旗を日の丸より尊重するとは、日本は本当におかしな国だ」

 私も少し前まではそのように思っていた。

 外国国章損壊罪を定めた刑法92条の条文は次のとおり。

(外国国章損壊等)
第92条 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。


 そして、わが国の国章については、同様の規定はない。

 となると、上記のような感想を抱くのが当然だろう。

 しかし、少し調べてみると、これは誤解の産物なのだとわかった。


 誤解その1 あらゆる外国国旗の損壊が処罰の対象となる

 刑法92条のみを素直に読むと、「その国の国旗その他の国章」としか書かれていないから、外国のあらゆる国旗その他の国章に対する損壊が処罰の対象となりうるように思える。
 例えばデモで、手製の外国国旗を損壊する行為も、その外国政府の請求があれば処罰の対象となりうるように思える。

 ところが、それは単なる素人考えで、学説でも判例でも、そのような解釈はしていない。
 『大コンメンタール刑法(第2版)』(青林書院)と昔の『注釈刑法』(有斐閣)の刑法92条の箇所を見てみたが、国章については、私人によるものは含まず、在日外国公館などで公的に使用されているものに限られるというのが通説であり、判例も方向性としてはそれに沿っているという。
 ただ、民間の国際的な行事で使用される国旗や、より広く、その国の祝祭日に私人が掲揚する国旗なども含まれるとする説もあるという。
 しかし、もともと損壊する目的で作成した手製の国旗もまた対象になるという見解は見当たらなかった。

 したがって、デモで手製の国旗を損壊するような行為は処罰の対象にはならない。

 先に、駐日ロシア大使館前において右翼団体がロシア国旗を引き裂いたとしてロシア政府から捜査を求められているのに対し、わが国外務省が罪とならないとの立場を表明しているのもうなずける。
 毎日jpの記事より。

ロシア:国旗は模造品、侮辱の事実なし 日本が伝達
 「北方領土の日」の2月7日、東京のロシア大使館近くで日本の右翼活動家がロシア国旗を侮辱したとされる問題で、日本外務省が同月下旬までに同大使館や在モスクワ日本大使館を通じて、ロシア側に「外国国章損壊罪(刑法92条)に当たる事実は確認されていない」と伝えていたことが分かった。

 ロシア側の情報によると、日本の警察当局が捜査した結果「侮辱されたのはロシア国旗を模した手製の物体。大使館に掲揚されている国旗を侮辱したのなら罪に問われるが、そうではない」と判断したという。【犬飼直幸、モスクワ田中洋之】



 誤解その2 日の丸を損壊しても罪に問われない

 そんなことはない。
 刑法261条に器物損壊罪がある。

(器物損壊等)
第261条 前3条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料に処する。


 政治的目的をもって、官公庁や式典などで掲揚されている日の丸を損壊すれば、当然罪に問われる。

 デモなどで、手製の日の丸を燃やしたり踏みつけたりしても、確かに罪に問われない。
 しかしそれは、外国の国旗でも同じことである。

 そして、器物損壊罪の法定刑は「3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料」だから、「2年以下の懲役又は20万円以下の罰金」しかない外国国章損壊罪より重い。
 したがって、日の丸の損壊犯に外国国旗の損壊犯よりも重罰を科すことも可能なわけだ。


 誤解その3 外国国旗を日の丸より尊重するのはアンバランス

 これは一見正しいように見える。
 しかし、上記「誤解その1」で説明したように、客体である外国国旗が在日外国公館などで掲げられた公的なものと考えると、見方は変わってくる。
 例えば各国の駐日大使は、わが国において彼らの母国を代表する存在である。その大使館において掲げられる国旗は、まさに各国の権威を表すものだろう。そしてそれを損壊する行為は、各国そのものを侮辱したに等しい。
 日の丸も、海外においては、同様の役割を果たすことになるだろう。しかし、わが国国内に一般に掲揚される日の丸と、駐日大使館などで掲げられる外国国旗とでは、その重みは著しく異なるのではないか。

 だからこそ、わが国においては明治時代から外国国章損壊罪が設けられ、かつ自国の国章損壊を処罰する規定は設けられなかったのではないか。

 そう、上掲の産経記事は巧みに触れていないが、外国国章損壊罪は戦後の産物ではない。明治40年に制定された現刑法で初めて設けられたものだ(明治13年に制定された旧刑法にはなかった)。
 そして、100年以上、わが国はその「アンバランス」な状態を維持してきた。

 それでも、外国において、自国の国章損壊を処罰する規定があるのなら、わが国においても設けてもいいのではないかという意見はあるだろう。
 明治時代ならいざしらず、こんにち希薄となった国家意識を喚起する良いきっかけではないかという見方もあるだろう。

 それはそれでいい。
 ただ、私には、今このような法改正が必要だとは思えない。
 所詮、手製の日の丸を損壊する行為を取り締まれるわけではないのである。
 ならば、より重罰を科し得る器物損壊罪のままでもよいのではないか。

 そして、上記のような誤解をそのままにして法改正に及んだら、国民に対しても、海外に対しても、誤ったメッセージを発してしまうことにならないか。

 例えば、PONKOさんのブログ「反日勢力を斬る(2) 」の「外国旗を毀損したら有罪、日の丸は無罪」という記事を読むと、どうも、中韓の反日デモで見られるような日の丸損壊がわが国で行われた場合、これを処罰をすることを期待しているようである。
 もっともなことだと思う。
 ところが実際には、仮に法改正が成ったとしても、期待通りの運用をされないわけだ。
 これでは、一種の詐欺ではないか。
 自民党のような伝統ある大政党にはふさわしくない、姑息な手段だと思う。

 それとも自民党は、手製の日の丸損壊を本気で取り締まるつもりなのだろうか。
 私は、手製のものであれ、政治的意図に基づいて国旗を損壊する行為を、率直に言っておぞましいと思う。
 しかし、それを刑罰をもって取り締まるというのは、表現の自由とのかねあいから言ってどうなのか。



付記

 産経の森山昌秀記者は、改正案が「政調会長預かり」となった理由について「「自民党が右傾化したと思われる」との反対論が一部議員から出たためだ」とし、PONKOさんはこの点についてえらくご立腹だが、当の政調会長石破茂のブログを読むと、

 昨日の総務会で、日本国を侮辱する目的を持って国旗を損壊、汚損などした者を処罰することを可能とする刑法改正案が継続扱いとなりました。
 総務会の前の政策会議ではほとんど異論なく了承されただけにやや意外の感もありましたが、「このような行為に刑罰をもって臨むべきなのか」「党議拘束をかけるべきなのか」「シャドウ・キャビネットで異論が出た場合、政府における閣議のようにどうしても賛同しない『閣僚』がいた場合は罷免するのか」などなど、内容、手続きともに更なる検討が必要であるとの判断から、保留扱いとなりました。
 確かに、刑罰で臨む前に、国旗尊重義務を定めるべきだとの意見にも一理あるようです。この件と、いくつかご指摘を頂いている相続税についての考え方については来週また記します。


とあり、右傾化云々との表現はない。

 「このような行為に刑罰をもって臨むべきなのか」の「このような行為」とは何を指すのか気になる。
 少なくとも、私が上に挙げたいくつかの誤解はクリアした上での議論がなされているものと信じたい。


(関連記事 「自民党 日の丸損壊罪の法案提出」との報道を読んで

ブログの自由?と『学問のすゝめ』

2011-03-05 19:59:56 | ブログ見聞録
 だいぶ前に書きそびれていたネタ。

 以前、無宗ださんのブログで、「ブログの自由」という記事を読んだ。
 福沢諭吉の『学問のすゝめ』の

自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令(たと)い酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然(しか)らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。(初編)


という一節を引いた上で、 

我々には、いろいろな自由があるが、あくまでも公序良俗の範囲内でという制限がある。

自分の家において自由に振舞うのは当然のことである。
しかし、公共の場や他人の家を訪問した際には、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。

同様に
自分のブログに記事をアップすること。
その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したりは、基本的に管理人の自由である。
しかし、他人様のブログの記事にコメントしたり、TBしたり、ゲストブックに書き込む際に、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。

このような根本的な前提を無視して、
ブログにはコメント削除機能があるから、
コメントを削除するのは、管理人の基本的な権利である。
という主張に対して、
コメント欄が開放されているのならば、
コメント欄にコメントするのはコメンテーターの権利である。
と主張するのはどうかしている。


と述べている。

 無宗ださんが誰を念頭に置いているのかはわからないが、私は以前、コメントを削除するのはブログ主の自由だが、コメントするのは読者の自由だと無宗ださんに述べたことがあるように思う。

 引用している『学問のすゝめ』の一節と、そのあとの無宗ださんの主張がどう関連するのかわからない。

 福沢が言っているのは、他人の妨げをなすものは「自由」ではなく単なる「我儘」にすぎず、非難されるべきものだということだろう。
 その他人の妨げとは、単に他人の行動の自由を実力をもって阻止するというだけではない。もっと幅広い意味で用いているのだろう。
 現代でも、自分の金で酒色に耽ろうが放蕩を尽そうが自分の勝手というのが一般的な感覚だろう。ところが福沢は、それすらも「諸人の手本となり」「世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなす」から非難されるべきだと説いている。

 ならば、無宗ださんのように、

自分のブログに記事をアップすること。
その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したりは、基本的に管理人の自由である。


と単純には言えないはずだ。
 無宗ださんは、

自分の家において自由に振舞うのは当然のことである。
しかし、公共の場や他人の家を訪問した際には、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。


と言うが、そもそもブログは自分の家ではなく公共の場である。
 また、自分の家であれば何をしてもいいなどとは福沢は言っていない。自分の金で酒色に耽り放蕩を尽すことも非難されるべきだと言うのだから。
 自分の金で(あるいは無料で)開設し、自分が管理するブログであっても、その内容や読者への対応は「諸人の手本とな」るのだから、「世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなす」場合は、やはり非難されるべきということになるだろう。
 福沢の理屈からすれば。

 もちろん、その後で無宗ださんが述べている、

しかし、他人様のブログの記事にコメントしたり、TBしたり、ゲストブックに書き込む際に、それなりの配慮が必要になることもまた当然である。


という箇所は、福沢に照らすと正しい。
 しかし、「自分のブログに記事をアップすること。その記事を修正したり、コメントにレスを返したり、コメントやTBを削除したり」することにもまた、福沢によると、当然「それなりの配慮が必要」だということになる。
 無宗ださんはその点に気付かないか、敢えて無視している。
 だから、引用の意図が理解できないし、全く説得力を欠いている。

 「それなりの配慮」を欠いた対応をした者に対しても、さらに「それなりの配慮」が必要なのかどうか。
 「それなりの配慮」を欠いた対応に対しては、「それなりの配慮」を欠いた対応も許されると考えるのだとすれば(私はそうは考えないが)、最初に「それなりの配慮」を欠いた対応をしたのは誰なのか。
 そこが、問題の本質ではないかと思うが。

 そして、この『学問のすゝめ』の一節のような訓話めいた話は、普通、自らの行動を戒めるものとして受け取るべきものだろう。
 ところが、無宗ださんの手にかかると、それが他人を非難するための道具になってしまう。
 それによって、自らの行動を顧みることはない。
 不都合なことは何でも人のせいにしたがる無宗ださんらしい反応だ。

 無宗ださんは続けて次のように述べている。

ただ、この問題を複雑にするのは、「発言の責任」という概念とダブるからである。
記事であれ、コメントであれ、書きこんだ内容に対しては、自ずと「発言の責任」が発生する。
ブログ管理者には、自分のブログに書き込まれたコメントに対する管理責任も発生する。

批判的なコメントやトラックバックに対して、
どのように対応するかによって、管理人としての資質が問われる
という指摘には一理あるが、
批判的なコメントやTBの仕方(TPO)により、
そのコメンテーターやTB元のブログーの資質が問われる
のも当然のことである。

自分の机の上の整理整頓を行う自由と責任があるのと同様、
自分のブログを見苦しくないように努める自由と責任がブログ管理者にはある。


 私は、自分の机の上の整理整頓を行う「責任がある」などとは全く思わない(まあ、勤務先の机であれば、円滑な業務遂行のための机の整理整頓は雇主に対する責任と言えなくもないが、自宅で私用に使う机ならないだろう)。
 同様に、自分のブログを見苦しくないように努める「責任がある」とも思えない。商用のスパムコメントや個人に対する誹謗中傷めいたコメントを放置しているブログもよく見かけるが、それこそ個人の自由だろう。コメントの責任は誰よりコメントした人物にあるのだから。
 しかし、上記の福沢説に立つ無宗ださんは、それらがあると考えるのだろう。それはそれでいい。
 だが、それでは、現在無宗ださんのブログに次のようなコメントがそのまま残っているのは、どう理解すればいいのだろうか。

支那は異民族=満州族、蒙古族、鮮卑族(トルコ人)などの奴隷民族。朝鮮人はその奴隷。屑の中の屑。支那泥棒や朝鮮乞食にとやかく言われる筋合いは無い!それと強盗ロシア、こいつも屑
2011/2/18(金) 午後 11:47 [ 大和 ]


 いや、このコメントが付けられた記事自体に引用されている次のアスキーアートをどう理解すればいいのだろうか。

満州満州満州満州満州満州満州満州満州露助露助露  神
州満州満州満州満州満州満州満州満露助露助露    神州
満州満州満州満州満州満州満州満露助露助露              州
州満州満州満州満州満州満州満州助露助露助      神      神
満州満州満州満州満州満州満州満露助露助        州神  州
州満州満州満州満州満州満州満露助露助         神州神州
満州満州満州満州満州満州満塵助  露         神州神州
州満州満州満州満州満塵塵塵塵             神
州満州満 州満州満塵塵塵塵                 州
支那    満州満塵塵塵塵塵塵                神州
     州     塵塵塵                    州神
那          塵塵塵塵                  神州
支  支      塵塵塵塵               神 神州
那支那支那      屑屑屑    神          .神州
支那           屑屑屑          神 神州神
那            屑屑屑           神州神州神
支那          屑屑屑      州神州神州神さ神
那支          屑屑  神   神州神州神州 神州
支那                神州  神州 神
那支那            州神州神 神州         神
支那支              神州
那支               州神
支那支               神
那支
支那
那               神


 屑、塵、露助。
 無宗ださんは、こうした表現が「公序良俗の範囲内」だと本気で思っているのだろうか。


 ところで、私はこの無宗ださんの記事がきっかけで、『学問のすゝめ』を初めて読んだ。
 もちろんタイトルぐらいは知っていたが、単なる学問の実用性を説く啓蒙書だと思い込んで、敬遠していたのだ。
 惜しいことをしていたと思う。
 実にスリリングで、戦闘的な、読み応えのある本だった。

 その13編に次の一節がある。青空文庫から引用する。

 また誹謗と弁駁(べんばく)とその間に髪(はつ)を容(い)るべからず。他人に曲を誣(し)うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄(むもう)の公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易(やす)からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。


 無宗ださんは、この言葉をどう聞くのだろうか。

(関連記事「無宗ださんはこんな人」)