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日々の思いをたまに綴るブログ。

『佐藤賢了の証言』を読んで(下) 戦後も国民をだまし続けた軍要人

2013-08-29 22:27:08 | 大東亜戦争
((上)はこちら

 本書の第三部「言い残しておくこと」の中に、昭和18年の大東亜政略要綱や大東亜会議についての一節がある。
 その中で佐藤はインドネシアについてこう書いている(〔〕内は引用者による註。以下同)。

 東條首相は〔昭和18年〕七月六日、スマトラのパレンバン石油産地に飛び、七日バタビアを訪れた。スカルノ、ハッタ両氏を始め指導者たちを激励すると共に、国民大会に臨んだ。極めて盛会であり、インドネシア民衆の盛り上がる力を如実に感得した。
 五月三十一日、御前会議で決定された大東亜政略指導要綱で、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは重要資源の供給源としてこれが開発、民心把握につとめ、原住民の民度に応じ、つとめて政治に参与させる。ただし当分軍政を継続す」
 と決められたので、インドネシア訪問の前日、東條首相は臨時国会で、
「インドネシア人の政治参与を許すとともに、その独立に対して、能(あた)う限り速やかにその実現を期する」
 旨を声明し、彼等が始めて政治参与できることとなったので、意気頗る上がっていた。その前からスカルノが委員長、ハッタが副委員長で実施していたプートラ運動(民衆総力結集運動)にはいよいよ熱を加えた。
 インドネシアの政治参与は十八年八月一日、次のように実施された。
 中央参議院  軍司令官に直属する軍政の最高諮問機関である。議長はスカルノであった。
 参議院  各州、および特別市に開設され、議院は州内の県や市から一名ずつ選ばれ、諮問に応じ建議もできた。
 参与  軍政監部各局に、民族運動の指導者が任命され、将来、大臣の見習という格であった。
 州長官  ジャカルタ州ほか三州に、インドネシア人を州長官に任命した(オランダ統治時代には県長以上にはインドネシア人は任命されなかった)。
 以上のようにして、政治参与の道は開かれたが、スカルノ以下の指導者達及び民衆も、ビルマ、比島〔フィリピン〕に独立が与えられたのに、独立が許与されないので大いに不満であった。日本は比島及びビルマには独立を与える旨早く宣言したが、インドネシアには政治参与だけで独立を与える期日は明言しなかった。
〔中略〕
 インドネシアに独立を与えようとしなかったのは、民度も低く、経済も困難なので、独立させてもうまくやって行けそうもない。独立の資格のないものに独立を与えると結局、日本が絶えず内政干渉をしなければならなくなる。
 特にインドネシアは石油・アルミ・ニッケル・ゴム・キナ等重要資源の宝庫であって、戦後各国の利権活動が激しくなることは予想に難くない。独立となれば外国の利権活動とからんで、絶えずその内政が攪乱される。この宝庫は日本の生命線で、この宝庫から閉め出されたから戦争に訴えた。といっても過言でないのだから、この地域はしっかり日本が把握しなければならない。
 しかしその把握、すなわち帰属、および統合の形式は軽々決定し得ないから、東條内閣では一切言明を避けたのであった。東條首相は特に何人にも、政府が宣言したものの外は、一切帰属に関しては厳に言明を封じたのである。
 しかし、こうした考え方は適当でなかった。民族の独立の願望は、民度や経済などで律することの不可能なものがある。長い間の侵略搾取の圧制下に呻吟してきたインドネシア民族の独立の願望が、かくまで熱烈であろうとは、戦争初期には、われわれには十分理解できかった〔原文ママ〕。前述のように偉大な宝庫の帰属をどうしようかは、過度に言質を与えてはならない、ということで頭が一杯であったのはたしかに誤りであった。〔中略〕
戦局いよいよ悪化し、終戦の間際になって 始めて独立許与の声明をしたのはたしかに日本の不手際であった。もし早くからこの挙に出ていたら、戦後、インドネシアの民心は更に親日的なものになったであろうと思われる。
 戦時中のインドネシアの民族独立運動の熱烈であったことは、われわれには十分わからなかった。戦後、これを聞きかつ読んで、大いに反省した次第である。(p.432-434)


「民度も低く、経済も困難なので、独立させてもうまくやって行けそうもない。独立の資格のないものに独立を与えると結局、日本が絶えず内政干渉をしなければならなくなる」
 この箇所には驚いた。
 これはいったい、オランダがインドネシアを支配していた論理とどう違うのだろうか。

 ところで、ここで佐藤が挙げている大東亜政略指導要綱の引用は正確ではない。
 江藤淳・編『終戦史録』(北洋社、1977)の1巻から大東亜政略指導要綱のうちインドネシアに関連する部分をを引用する(太字は引用者による)。

六、その他の占領地域に対する方策を左の通り定む。
 但し、(ロ)(ニ)以外は当分発表せず。
 (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む。
 (ロ)前号各地域においては原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ。
 (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては前二号に準じ追て定む。
 (ニ)前記各地においては当分軍政を継続す。


 「帝国領土と決定」していたのだから、政治参与は認めたとしても、独立など有り得なかったのである。

 しかし、佐藤の引用では上記の太字部分が抜け落ちている。
 「当分発表せず」とされた部分を除外して当時実際に発表されたものを、佐藤は元にしているのではないだろうか。

 『終戦史録』は、もともと外務省が編纂して1952年に刊行した全1巻の大冊の史料集である。私が引用した江藤淳・編の北洋社版はそれを6巻に分冊し、一般読者向けにカタカナをひらがなに直したり、漢字をひらがなに開いたり、漢字の旧字体を新字体にしたりといった手が加えられ、江藤による解説や波多野澄雄による補註が付された新版である。
 しかし、「新版にするに当たって、原本を一字一句余さず完全に再録し」たと凡例にはあるので、原本にない文章が加えられているはずはない。
 とすれば、上記の大東亜政略指導要綱の「当分発表せず」とされた部分も、1952年には既に公刊されていたということになる。
 なのに、それを佐藤は隠している。

 佐藤は、1942年4月から1944年12月まで、陸軍省軍務局長を務めている。
 軍務局とは、軍における行政(軍政)を担当し、また軍の政治的意志を司った部署である。その長を務めていた佐藤が、「当分発表せず」とされた部分を含めた大東亜政略指導要綱の全文の内容を知らぬはずがない。
 それを、戦後数十年経ってもなお「当分発表せず」とされた部分を明らかにせず、「軽々決定し得ないから、東條内閣では一切言明を避けた」と述べるにとどめるのは、戦後の読者を惑わすものだろう。

 また、「東條首相は特に何人にも、政府が宣言したものの外は、一切帰属に関しては厳に言明を封じたのである」のくだりは、読みようによっては、「言明を封じた」のは東條であり、自分はそれに従ったにすぎず、今も従っているだけなんだよ、との弁明とも受け取れる。

 こんな態度でありながら、独立を認めなかったのは「不手際であった」「反省した」と書かれても、私は説得力を覚えない。

 しかし佐藤は、独立を明言しなかったと言う一方で、「東條首相は臨時国会で、「インドネシア人の政治参与を許すとともに、その独立に対して、能(あた)う限り速やかにその実現を期する」旨を声明し」と書いている。
 不思議に思って帝国議会会議録に当たってみると、まず、東條が議会で声明したと佐藤が言う「インドネシア訪問の前日」とは、「東條首相は七月六日、スマトラのパレンバン石油産地に飛び、七日バタビアを訪れた」とあるから1943年の7月5日か6日ということになるが、両日とも議会は開かれていない。
 同年の6月16日の衆議院速記録にそれらしき東條の発言があった。大東亜の動向を概観するとして、満洲国、中華民国(汪精衛政権)、タイ、そして独立の準備を進めるビルマとフィリピンに続いて、インドネシアについて言及している。以下引用する(カタカナはひらがなに、漢字の旧字は新字に直した)。

 尚ほ「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」等の原住民は、皇軍の軍政下に営々として協力の度を増大しつつあるのであります、即ち戦争下に於きましても、既に彼等は現地皇軍の心からなる指導に依り、従来の精神的圧迫より解放せられ、現に教育、其の他各種の文化的恩恵に浴し、未だ嘗てなき希望に満ちたる生活を営んで居るのであります、「インドネシア」民衆の為め、洵〔まこと〕に欣快に存ずる次第であります、帝国は此の際更に進んで原住民の念願に基き、それぞれの民度に応じて、本年中には原住民の政治参与に関する措置を逐次執つて参る所存であります(拍手)就中「ジャワ」に付きましては、其の民度に鑑み、民衆の輿望に応へて、能ふ限り速かに是が実現を期せんとするものであります


 これで全てである。大東亜政略指導要綱のとおりであり、「能ふ限り速かに是が実現を期せんとする」のは「ジャワ」における「原住民の政治参与」である。どこにも「独立」の文字はない。
 佐藤は嘘をついている。

 こうした「証言」を残す者は、歴史を愚弄していると言えるだろう。
 つくづく、昭和戦中期というのはろくでもない人間が国の中枢に巣くっていたのだなあと思う。

(関連拙記事
日本にはマレーシアを独立させるつもりはなかった」

『佐藤賢了の証言』を読んで(上) 「黙れ」事件について

2013-08-28 22:32:19 | 大東亜戦争
 佐藤賢了(1895-1975)は、昭和期の高級軍人で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた。中佐時代に衆議院における国家総動員法の審議において「黙れ!」と発言したことで著名。当時の陸軍の横暴を示すものとされる。

 昔読んだ『佐藤賢了の証言』(芙蓉書房、1976)を読み返していて、ちょっと思うことがあったので書き留めておく。

 この本は、全四部で構成されている。「第一部 私の生きてきた道」は佐藤の手による自伝だが、生まれてから満洲事変のあたりまでで記述が止まっており、「自伝をここまで書き進んだ時、著者は逝去した」との註が付されている。
 満洲事変から敗戦までについて述べた「第二部 弱きが故の戦い」「第三部 言い残しておくこと」については、「(第二部、第三部は著者が陸上自衛隊幹部学校での講演を参考にした)」と第二部の「まえことば」に付されているが、著者である佐藤賢了が自身の講演を参考にして書いたものなのか、それとも他の者が佐藤の講演を元に記述したものなのか、よくわからない。

 第二部の中に、「黙れ」事件についての記述がある。発言の経緯や佐藤の心情を示すため、かなり長くなるが引用する(〔〕内は引用者による註。以下同)。

5 佐藤説明員の「黙れ!」事件

 支那事変はいよいよ長期戦の様相を呈するに至ったので、総動員体制を整える必要に迫られた。そこで、総力戦に即応する体制を整える法的根拠を作る必要が感じられた。
 上海に出兵するやたちまち頑強な抵抗にあい、非常な苦戦に陥った。〔中略〕攻撃は困難をきわめ、いたずらに砲弾を消耗した。〔中略〕
 陸軍省の心配は悲痛なものであった。こうなっては道はただ一つ、民間工場に砲弾製造設備の新設・拡張をやってもらうよりほかに方法がない。〔中略〕当局の苦衷は、容易に企業者たちに通じない。〔中略〕彼らにはその立場からする判断がある。
「〔中略〕軍の要求を真に受けて、固定資本を注ぎ込んだら、戦争がすんで注文がとまり、莫大な損失を蒙る」
 そこで弾薬だけでなく、軍需産業全般に設備の新設・拡張もでき、企業主に損失をかけないですむような特別の工夫を要するのであった。それには、
「政府は必要なる設備の新設・拡張を企業主に命令することができ、それによって損失が生じたら、政府はこれを補填する義務を負う」
 という制度を作るよりほかにない。〔中略〕こうした制度が総動員体制であり、総動員法の狙うところである。〔中略〕
 統制しなければ乏しい物の分配は不公平になる。〔中略〕自由に放任しておいては、戦力・国力造出に必要な生産力の拡充に、重点的に力が向けられるはずがない。
 政界も、財界も、世間一般もどうしてこの情勢、この気持がわかってくれないのか。私は議会における総動員法案審議の成り行きが心配であり、また憤慨に堪えなかった。
 質問の第一陣に立ったのは牧野良三議員である。違憲論を掲げて、得意の雄弁をふるい、ゼスチュアたっぷりの質問演説はあっぱれだった。こうした違憲論は、初めから予期できたことなのだから、近衛首相が受けて堂々と所信を披瀝すれば、出足は満点だったのである。
 ところが首相が欠席しているので、首相代理の広田外相が答弁に立ち、
「こと重大なる憲法問題だから、法制局長官をして答弁させます」
 といって引っ込んだ〔正しくは法制局長官ではなく企画院総裁に答弁させた。この時点で企画院総裁を務めていた滝正雄が少し前まで法制局長官を務めていたための記憶違いと思われる〕。法制局長官が出ようとすると、議員は「首相が出ろ」「国務大臣が答弁しろ」といきり立って、議場はたちまち混乱した。これは議員のいう方が正しい。〔中略〕
 休憩の後、法律問題だからというので塩野司法大臣が立って、違憲でないゆえんを答弁したが、論旨が徹底しないばかりか、派手な人物でないため、本会議での論戦は政府側の完敗という感じであった。
 委員会になってからも首席は塩野司法大臣であった。総動員法には全大臣が関係あるわけだが、司法大臣は一番関係が薄い。また塩野大臣は総動員業務の実体には、ほとんど理解がないようであったから、答弁も要点には触れなかった。議員の側も実務がわからないから、入れ代わり、立ち代わり相も変わらぬ違憲論や、国民の忠誠心無視や、統制不可論に終始して要点に触れるところが少なかった。〔中略〕
 そのうち政府側は、議員の反対を緩和するため「この法律は支那事変には使わぬ。もっと大きな戦争を予想する時使う」と答弁した。たしか滝法制局長官であったと思う。私はこれは大変だと思って、法制局長官のもとへねじ込んだ。〔中略〕
「佐藤さん、そんなにむきになりなさるな。法案さえ通せばそれでよいのです。」使う必要があったら、いつでも使ったらよいのです。答弁の言葉にとらわれる必要はありません。早く通すために、ああいっただけですよ」〔中略〕
 こうした答弁が議会側に意外な好餌を与えた。
「支那事変に使う必要がないなら政府は引っ込めたがよい。大戦争に使うというが、今どこにも大戦争が起こる気配などありはしない。大戦争が起こりそうになったら、いつでも提出したがよい。〔中略〕」
 という議論が起こった。もっともな話だ。次のような意見も出た。「総動員法案には大別して、準備に関する規定と、実施に関するものとがある。いつ起こるかわからぬ大戦争の準備をしようというのなら、準備の規定だけでよろしいではないか。〔中略〕よろしく実施の規定全部を削除すべきだ」
 この意見も抽象論としてはもっともである。しかし実施の規定を削除しては総動員法は死んでしまう。これは法理論や抽象論では納得させられない。総動員の実務、およびそれにつながる軍需動員の実務を例示して説明しなければ諒解させられない。
 私は整備局に前後五年勤務して、もっぱら軍需動員に関する事務に当たった。この説明は私の得意とするところであった。〔中略〕私は重ねて内閣に政府委員にしてくれと申し入れたが、政府委員は通常、勅任官でなければならぬとか、何とかいって容れられなかった。私は当時中佐であった〔軍人の勅任官は少将以上〕。
 私は相変わらず、やきもきしながら委員会に出席していた。〔中略〕
 政府側は相変わらず、のらりくらりお茶を濁した答弁をするのに業を煮やして、板野議員は。〔。は原文ママ〕
「この法案は若い軍人や官僚が作ったのだろう。だから大臣たちはわかっていやしない。誰でもよいから、よくわかっとる人が説明してくれ」
 といったような主旨を述べた。
 私は議会では説明員という資格で、自ら進んで議員の質問に対して答弁する資格はない。国務大臣や政府委員の指示によって、限られたことの説明をするだけである。ところが今、議員から誰でもよい、説明してくれとの発言があったのだから、私にとっては渡りに舟である。私はバネ仕掛けの人形のように飛びあがって、総動員や、軍需動員の実際業務を例にとって滔々と説明しだした。約三十分も説明を続けた。議員たちも静かに傾聴してくれた。一説明員の説明に三十分も傾聴することはめったにないが、内容が今までの法律論や抽象論とは異って、具体的であったからかもしれない。宮脇長吉議員がにわかに立って、「委員長、この者にどこまで答弁を許すのですか」
 と食ってかかった。そこで私は「説明をやめろとおっしゃるならやめます。つづけよといわれるならつづけます」
 といって委員長の指示を待った。
 〔中略〕小川委員長が私に続けろと指示したので、私は説明を続けたところ、宮脇議員はまたガナリ立てて、私の説明を妨害したので、堪忍袋の緒を切って、「黙れッ、長吉」とのどまできたのだが、場所柄を考えて「黙れッ」だけいって、あとの「長吉」を呑みこんだ。(p.116-122)


 何故「黙れッ、宮脇」ではなく「黙れッ、長吉」なのか。
 それは、佐藤は宮脇長吉議員のことを陸軍の教官としてかねてから知っていたからである。
 本書の「第四部 追悼」に収録された、陸軍士官学校で佐藤と同じ29期であった額田坦・元陸軍省人事局長の文にこうある。

 さて工兵科の術科担任教官は宮脇長吉工兵大尉殿であったが、頗る熱心で屡々中隊の自習室に見えるので、「また『長吉』が来ているぞ」と私語していたものである。それが後に君が勇名を馳せた『黙れ』事件の基になろうとは、仏様でも御存知なかったであろう。
 後年、君が陸軍省整備局課員として衆議院の委員会で、国家総動員法案について気合いをかけて説明していると、頻りに大きな声で野次る議員があった。見ると昔の宮脇長吉大尉殿である。思わず『黙れ(長吉)』とやってしまった。後に君の曰く、『長吉』の二字が咽喉まで出たがやっと抑えてよかった。もし出ていたら「これ(首をたたいて)だったよ」と呵々大笑したことがある。


 同じ第四部に収録された、林唯義・元衆議院議員(自民党)の談話を元にした文にもこうある。

当時、わたしは直接その真相について佐藤さん自身に聞いたところ、問題の点は、代議士全般に対する誹謗ということではなく、陸軍出身の宮脇長吉氏(十五期、工兵)が自分の育った陸軍に対して実に皮肉きわまる悪意に満ちた質問で食い下がった。たまりかねた佐藤さんは「だまれ長吉!」と云うべきところを押えて「だまれ!」といってしまった。したがって事は宮脇個人と佐藤個人の感情的なものが出たにすぎず、軍の先輩の間の感情的もつれが経緯となって生じた発言にすぎない。後に云う軍が国会を蔑視したとかいう問題では断じてなかったのです。


 しかし、だからといって「黙れッ、長吉」などという言葉がスラッと口に出るものだろうか。

 学生が教師を仲間内で呼び捨てで語るということはあるだろう。私にも覚えがある。
 だが、卒業後何十年も経った、いい年をした大人が、教師を語るときに、呼び捨てにするものだろうか。
 ましてや、自らの属する組織の大先輩に対して、面と向かって、しかも公の場で、下の名で呼び捨てになどできるものだろうか。

 私はこの記述を読んで、十月事件の首謀者たちに上官を上官とも思わぬ態度があったというエピソードを思い出した。
 十月事件とは、1931年9月に勃発した満洲事変に連動して、同年10月に決行が予定されたクーデター未遂事件である。同年3月にも三月事件と呼ばれるクーデター未遂事件が起こっている。
 戸川猪佐武は『昭和の宰相第1巻 犬養毅と青年将校』(講談社文庫、1985)で十月事件が未遂に終わったさまをこう描いている。

この陰謀はどこからか洩れて、結局は木戸幸一内大臣秘書官長の知るところとなった。木戸は内大臣の牧野伸顕にはかった。この筋から、クーデターの中心人物に擬せられていた荒木貞夫教育総監本部長〔陸士9期〕に、
「かような噂があるがいかがか?」という形で、厳重な忠告がもたらされた。〔中略〕元凶は橋本〔欣五郎、陸士23期〕で、本拠が築地の金竜亭にあるとわかった。
 この陸軍首脳の動きを、クーデター側もキャッチして、橋本が陸相官邸に乗りこみ、会議中の荒木を呼び出すという場面が演じられた。
「荒木、決起せい!」と橋本はいったものである。佐官クラスが将軍をそっちのけにして、クーデター計画をこしらえあげ、それに将軍を乗せようという行き方は、すでに陸軍内部の下克上、綱紀紊乱の風潮をあらわすものであった。〔中略〕
 荒木は、このあと金竜亭に乗りこんでいって、そこに陣取っていた長勇〔ちょう・いさむ。陸士28期。のち沖縄戦で自決〕に、
「みなわかっとることだ。おまえ、やめれ」といって、中止を勧告した。
「やめる……が、おヒゲ、あとはたのむ」と、長は答えた。おヒゲ――というのは、荒木が八字髭をたくわえていたので、そんな綽名をつけられていたのだ。
「わかった」ということで、荒木はクーデター派の面々と、二時間、三時間、飲み交わしたものである。当時の荒木は、青年将校たちが抱いている日本主義的な革新思想についても、よく知っていて、シンパめいた発言をしていたので、彼らのあいだではたいそう人気があった。それだけにクーデター派をびしびし取締るようなことはしなかった。
 結局、首謀者の長たちを待合に軟禁、酒、女を与えて、ことを起こさせないほうに運んだ。(p.258-259)


 セリフの一字一句まで正確ではないだろうが、こうした雰囲気の下で説得が行われたのだろう。

 二・ニ六事件で退陣した岡田啓介内閣で陸相を務めた林銑十郎(陸士8期)は、閣議で決まったことを陸軍の部下に反対されて撤回することがしばしばあったと、岡田は回顧録で述べている。
 日中戦争で陸相、対米英蘭戦開戦時には陸軍参謀総長を務めた杉山元(陸士12期)は、押せばどちらにでも動くことから「便所の戸」とあだ名されたといわれる。

 「黙れ」事件も、これら昭和陸軍の組織としての欠陥の発露の一つであり、決して、佐藤と宮脇の個人的な問題ではないのではなかろうか。

 佐藤は、先に引用した箇所にこう続けている。

「政党の腐敗、議会のだらしなさを憤慨している陸軍の少壮将校が、二・二六事件の一周年記念日に、熱海で会談して議会対策をした。佐藤は熱海会談に参加し、その決議に基づいて、どなったのだ。議員が今のようなていたらくでは、またピストルが飛ぶかもしれない」
 この流言飛語を飛ばしたのは、元長崎県知事であった西岡竹次郎〔1890-1958、西岡武夫・元参議院議長の父〕氏だったという。これは「麹町老人」といわれた政界の黒幕、秋山定輔〔1868-1950〕氏の指しがねで、議会をしずめ、近衛内閣に議会を乗り切らそうとした謀略であったそうである。
 私はそのことを「麹町老人」からあとで直接聞いた。熱海会談など全くのデマであった。私の関知するところでもなく、そんな事実もない。私がこんな挙に出たのは誰の指図でもない。私は杉山大臣に詫びて、処分を請うたくらいであった。爾後、登院を自発的に遠慮した。処罰は受けなかった。
 この事件を世間では大きく取り扱いすぎる感があった。まるで陸軍が議会を圧迫し、その勢力を衰頽させたかのようにいったのである。実に、ばかげたことである。一説明員の一喝で衰頽するような議会なら、放っておいても潰れるであろう。そればかりでなく、開戦当時、一課長にすぎなかった私が、大臣たちと並んでA級戦犯の仲間入りする光栄(?)に浴したのもこの事件のお陰のようだ。(p.122)


 確かに、「黙れ」事件は、まるで陸軍が議員を一喝して、国家総動員法を可決させたかのように語られることもあるが、そういうわけではない。
 昭和13年3月3日の帝国議会会議録を確認すると、佐藤の「黙れ」発言に対して議員らが抗議し、委員長に促されて佐藤はその場で発言を取り消している。
 そして翌日の委員会では冒頭に杉山元陸相が陳謝している。
 審議はその後何日もかけて進められ、最終的には全会一致で可決している。
 だから、陸軍が議会を恫喝して意のままとしたというような話ではない。
 しかし、少壮将校の傲慢さ、尊大さの現れだとは言えるだろう。

 佐藤が続いて紹介している次のエピソードも、それを示しているのではないかと思える。

 議会にからむ、もっと大きな失態を告白しよう。大本営が設立されてまもなく、陛下から大本営の首脳者に御陪食を賜わった。私は参内の前にちょっと議会の様子を見に行って、中国問題に関する委員会に出席したとたん、御陪食のことを忘れてしまった。
 委員会が終わってから気がついたがもうまに合わぬ。ない〔原文ママ〕東条陸相の退出を待って報告すると、陸相もあわてて、言下に「軽謹慎を命ず」と叫び、「自分は今から参内して陛下にお詫びを申し上げる。おまえは松平宮内大臣の許へお詫びに行け」と命じた。
 明治いらい、御陪食を忘れたのは私だけだと聞き、まったく恐懼の至りであった。(P.123)


(もっとも、大本営が設立されたのは日中戦争中の昭和12年で、東條が陸相となったのは昭和15年だから、「設立されてまもなく」では時期が合わないのだが)


終戦の日の産経「主張」がひどすぎる

2013-08-17 15:00:12 | 「保守」系言説への疑問
 MSN産経ニュースの8月15日付「主張」(各紙の社説に相当)「終戦の日 憲法改正で「靖国」決着を 参拝反対論は根拠を失った」の後半部分。

 憲法論争以外にも、総理大臣の靖国参拝に反対の人たちは、さまざまなことに主張のよりどころを見いだそうとする。政治的思惑で異議を唱える勢力も存在する。

 反対論の論拠の一つに、いわゆる「A級戦犯」14人の合祀(ごうし)がある。昭和天皇がそれを機に親拝を中止されたのだから、総理大臣も参拝を控えるべしとの主張だ。

 「昭和天皇が合祀に不快感を示されていた」とする富田朝彦元宮内庁長官の日記など「富田メモ」が根拠の一つになっている。

 しかし、昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述があったとしても、いわば断片情報のメモからだけで、合祀そのものを「不快」に感じておられたと断定するには疑問が残る。

 むしろ、昭和50年のきょう、三木武夫首相(当時)が参拝した後、国会でご親拝についての質問が出たことから、宮内庁が政治問題化するのを恐れたのではないかという論考が説得力を持つ。

 合祀がご親拝とりやめの原因なら、その後も春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っていることや、皇族方が参拝されていた事実を、どう説明するのか。


 「富田メモ」は、単なる「昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述」ではない。
 問題になった箇所を引用する。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ


 これを、「松岡(洋右)、白取(=白鳥敏夫)」に対する不快感の表明にすぎないとする見方が、メモが報じられた当時にもあったが、「その上」「までもが」とあるのだから、この2人に限った話ではないことは明白だ。
 そして、筑波と松平の子の対処の違い、つまり筑波藤麿宮司がA級戦犯の合祀を宮司預かりとして保留しており、1978年の筑波の死後、後任の宮司に就いた松平永芳がひそかに合祀したことに触れているのだから、「合祀そのものを「不快」に感じておられた」としか考えようがない。
 「富田メモ」の報道後に公刊された『卜部亮吾侍従日記』にも2001年7月31日付で「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述があることもこれを裏付けている。
 もともと、A級戦犯の合祀を昭和天皇が不快に感じて靖国に参拝しなくなったという説は、合祀の経緯や、侍従長を務めた入江相政の日記、徳川義寛の回想録に基づいて、かねてから主張されていたことである(例えば秦郁彦『現代史の対決』(文藝春秋、2003)所収の「靖国神社「鎮霊社」のミステリー」)。それが「富田メモ」によって明確となり、さらに卜部日記により補強されたのだ。産経が言うように、断片情報の「メモからだけで」「断定」されているのではない。

 産経が挙げる、1975年の三木首相の参拝後に国会で天皇の参拝が問題視されたことは事実だ。しかし、三木が「一私人として」参拝したのは8月15日であり、それを機に参拝者は公人か私人かが問われることになったにもかかわらず、その年の11月21日に昭和天皇は参拝している。参議院内閣委員会で天皇参拝が取り上げられたのはその前日の11月20日のことで、当時宮内庁次長を務めていた富田朝彦は、終戦30周年を機に靖国神社からの要請を受けて私的行為として参拝することとなった、これまでの戦後の天皇の参拝も全て私的行為であったと答弁している。
 その後も首相の参拝は私人として続けられたのだから、天皇の参拝が同様の理屈で続けられてもおかしくない。

 確かに「政治問題化するのを恐れた」ことも考えられる。しかし、それを裏付ける証拠は現在のところ示されていない。そして「恐れた」主体が宮内庁なのか、昭和天皇なのかはなおのことわからない。それを「宮内庁が」と断じてしまう論考が「説得力を持」つとは私には思えない。

 「春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っている」のは、参拝はしないが勅使の派遣までは停止する必要がないと考えてのことだろう。何も説明のつかない話ではない。
 誰だったか忘れたが、この勅使の派遣をアピールすることは、かえって派遣を政治問題化し、中止となる恐れもあるから、アピールすべきではないという主張があった。
 そんな配慮もなく、勅使派遣が天皇のA級戦犯合祀支持の証左であるように語る産経の愚かさには呆れるばかりだ。

 皇族の参拝についても、昭和天皇の意向がどうであれ、他の皇族が参拝を続けるのはその皇族独自の判断によるもので、これも説明のつかない話ではない。
 産経は、皇族の発言や行動は全て天皇の意向と完全に一致しているはずだとでも考えているのだろうか。
 産経の論法では、天皇は専制君主や独裁者ではないのではなかったか。
 
 ところで、今、靖国神社のホームページを見てみると、以前には写真も合わせて詳しく記されていた過去の皇族の参拝についての記事がなくなっている。
 これは何を意味するのだろうか。

 さらに産経「主張」はこんなことまで持ち出す。

 ≪我国にとりては功労者≫

 昭和天皇の側近だった木戸幸一元内大臣の「木戸日記」も、大きな示唆を与えてくれる。

 昭和20年12月10日の項、昭和天皇が、A級戦犯に指定され、収監を控えた氏について、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」といわれたとの記述がある。昭和天皇のお気持ちの一端がうかがえる。

 そもそも、昭和天皇のご胸中を忖度(そんたく)し、総理大臣らの参拝の是非を論じること自体、天皇の政治利用であり許されまい。


「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」
 しかしこれは日記の当人木戸幸一を指しての言葉であり、A級戦犯全般を指しての言葉ではない(なお、木戸は東京裁判で死刑に処されず獄死もしていないので、靖国神社には祭られていない)。
 ましてやまだ裁判も始まっていなかった時点での発言である。

 「昭和天皇のお気持ち」を言うなら、いわゆる『昭和天皇独白録』で松岡は酷評されているが、東條英機は高く評価されており、そんな天皇が東條らの合祀を不快に思うはずがないという批判も「富田メモ」の報道当時にあった。
 しかし、人物に対する評価は、数十年経っても変わらないものだろうか。
 仮にそうであったとしても、人物の評価と合祀の是非は別問題ではないだろうか。
 A級戦犯の合祀が松平永芳によってひそかに行われたことからもわかるように、戦争に殉じた国民と、その戦争を指導した者とを同列に祭ること自体がそもそも問題なのだ。
 仮に合祀当時の昭和天皇が東條を忠臣と認めていたとしても、それが合祀への不快感と矛盾するとは言えない。

 そして、昭和天皇の胸中を忖度することは天皇の政治利用であると批判するならば、産経は木戸日記など引用すべきではないだろう。

 産経新聞とは立場が異なる朝日新聞の調査を紹介しよう。

 参院選直後の7月23日付によると、同紙と東大が共同で非改選を含む全参院議員に聞いたところ、「首相の靖国参拝」に賛成が48%、反対は33%だった。憲法改正の是非では「賛成」「どちらかといえば賛成」が計75%と改正の発議に必要な3分の2を超えた。

 直近の選挙で国民の信託を受けた新議員を含む全参院議員の回答だ。憲法改正、公式参拝の道は開けた、とみるべきだろう。


 そもそも調査に「立場」は関係ない。産経は自社の調査に「立場」によるバイアスをかけてもらってかまわないと考えているのか。

 「賛成が48%、反対は33%」なら、賛成は半数に満たず、結構な割合で反対派がいるということではないのか。何故それがタイトルのように「参拝反対論は根拠を失った」となるのか。
 しかも、調査は「首相の靖国参拝」について問うたものなのに、何故「公式参拝の道は開けた」となるのか。
 「主張」前半で取り上げられている産経の改憲案では公式参拝で問題はないからか。しかし、3分の2超の「賛成」「どちらかといえば賛成」を得たのは、一般論としての憲法改正であって、産経の改憲案に対してではない。
 自社で国会議員に対して、産経の改憲案に対する賛否を問い、それが3分の2超の賛成を得てから「主張」すべきではないか。

 産経が首相の靖国公式参拝を主張しようが、独自の改憲案を出そうが、大東亜戦争肯定史観に立とうが、それは自由だ。
 しかし、そうした主張を補強するために、事実を歪曲してはならない。
 同紙で最近櫻井よしこも述べていたように、新聞は「公器」なのだから。政治団体の機関紙ではないのだ。

 いや、事実を歪曲しないと、産経流の歴史観、政治観は維持できないのかもしれないが。


(関連記事 かくて歴史は偽造(つく)られる(2)

歪曲しているのはどちらか――櫻井よしこの麻生発言評と朝日批判を読んで

2013-08-14 14:00:08 | 「保守」系言説への疑問
 少し前に、MSN産経ニュースで、櫻井よしこの「朝日が日本を国際社会の笑い物に…歪曲された麻生発言」(8/5付)を読んだ。

朝日が日本を国際社会の笑い物に…歪曲された麻生発言
2013.8.5 17:26

 なるほど、朝日新聞はこのようにして事柄を歪曲(わいきょく)していくのか。麻生太郎副総理発言を朝日新聞が報じる手口を眼前にしての、これが私自身の率直な感想である。

 8月1日と2日、朝日の紙面は麻生発言で「熱狂」した。日によって1面の「天声人語」、社会面、社説を動員し、まさに全社あげてといってよい形で発言を批判した。

 討論会の主催者兼司会者として現場に居合わせた私の実感からすれば、後述するように朝日の報道は麻生発言の意味を物の見事に反転させたと言わざるを得ない。

 7月29日、私が理事長を務める国家基本問題研究所(国基研)は「日本再建への道」と題した月例研究会を主催した。衆議院、都議会、参議院の三大選挙で圧勝、完勝した安倍自民党は、如何(いか)にして日本周辺で急速に高まる危機を乗り越え、日本再建を成し得るかを問う討論会だった。

 日本再建は憲法改正なしにはあり得ない。従って主題は当然、憲法改正だった。

 月例研究会に麻生副総理の出席を得たことで改正に向けた活発な議論を期待したのは、大勝した自民党は党是である憲法改正を着実に進めるだろうと考えたからだ。

 が、蓋を開けてみれば氏と私及び国基研の間には少なからぬ考え方の開きがあると感じた。憲法改正を主張してきた私たちに、氏は「自分は左翼」と語り、セミナー開始前から微妙な牽制(けんせい)球を投げた。

 セミナーでも氏は「最近は左翼じゃないかと言われる」と述べ、改正論議の熱狂を戒めた。私はそれを、改正を急ぐべしという国基研と自分は同じではないという氏のメッセージだと、受けとめた。

 「憲法改正なんていう話は熱狂の中に決めてもらっては困ります。ワァワァ騒いでその中で決まったなんていう話は最も危ない」「しつこいようだが(憲法改正を)ウワァーとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で決めてほしくない」という具合に、氏は同趣旨の主張を5度、繰り返した。

 事実を見れば熱狂しているのは護憲派である。改憲派は自民党を筆頭に熱狂どころか、冷めている。むしろ長年冷めすぎてきたのが自民党だ。いまこそ、自民党は燃えなければならないのだ。

 にも拘(かか)わらず麻生氏は尚(なお)、熱狂を戒めた。その中でヒトラーとワイマール憲法に関し、「あの手口、学んだらどうかね」という不適切な表現を口にした。「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」と氏はいうが、その事実はない。有り体に言って一連の発言は、結局、「ワイマール体制の崩壊に至った過程からその失敗を学べ」という反語的意味だと私は受けとめた。

 憲法改正に後ろ向きの印象を与えた麻生発言だったが、朝日新聞はまったく別の意味を持つものとして報じた。



 たとえば1日の「天声人語」子は、麻生発言を「素直に聞けば、粛々と民主主義を破壊したナチスのやり方を見習え、ということになってしまう」と書いた。前後の発言を合わせて全体を「素直に聞」けば、麻生氏が「粛々と民主主義を破壊」する手法に習おうとしているなどの解釈が如何(いか)にして可能なのか、不思議である。天声人語子の想像力の逞(たくま)しさに私は舌を巻く。

 朝日の記事の水準の高さには定評があったはずだ。現場にいた記者が麻生発言の真意を読みとれないはずはないと思っていた私は、朝日を買いかぶっていた。

 朝日は前後の発言を省き、全体の文意に目をつぶり、失言部分だけを取り出して、麻生氏だけでなく日本を国際社会の笑い物にしようとした。そこには公器の意識はないのであろう。朝日は新たな歴史問題を作り上げ、憲法改正の動きにも水を差し続けるだろう。そんな疑惑を抱くのは、同紙が他にも事実歪曲(わいきょく)報道の事例を指摘されているからだ。

 典型は「読売新聞」が今年5月14、15日付で朝日の誤報が慰安婦問題を政治問題化させたと報じた件だ。読売の朝日批判としては珍しいが、同件について朝日は説明していない。

 古い話だが、歴史問題にこだわるなら、昭和20年8月の朝日の報道も検証が必要だ。終戦5日前に日本の敗戦を示唆する政府声明が発表され、朝日新聞の編集局長らは当時こうした情報を掴(つか)んでいた。新聞の使命としていち早く、日本敗戦の可能性を国民に知らせなければならない。だが、朝日新聞は反対に8月14日、戦争遂行と戦意高揚を強調する社説を掲げた。これこそ、国民への犯罪的報道ではないか。朝日の歴史認識を問うべきこの事例は『朝日新聞の戦争責任』(安田将三、石橋孝太郎著、太田出版)に詳しく、一読を勧めたい。

 これらのことをもって反省なき朝日と言われても弁明は難しい。その朝日が再び麻生発言で歴史問題を作り出し、国益を害するのは、到底許されない。

 それはともかく、自民党はまたもや朝日、中国、韓国などの批判の前で立ちすくむのか。中国の脅威、韓国、北朝鮮の反日、米国の内向き志向という周辺情勢を見れば、現行憲法改正の急務は自明の理だ。それなのに「冷静な議論」を強調するのは、麻生氏を含む多くの自民党議員は憲法改正に消極的ということか。日本が直面する危機に目をつぶり、結党の志を横に措(お)き、憲法改正の歩みを緩めるのだろうか。であれば、護憲の道を歩む朝日の思う壺(つぼ)ではないか。自民党はそれでよいのか。私の関心は、専ら、この点にある。


 なるほど、櫻井よしこはこのようにして事柄を歪曲していくのか。これが私の率直な感想である。

 櫻井が前半で述べている、麻生が「左翼」を自称し改憲論議の熱狂を戒めたという話は、それまでの発言をめぐる報道や論評で触れられていなかった点であり、なかなか興味深いが、本題ではないのでここでは置く。

 にも拘(かか)わらず麻生氏は尚(なお)、熱狂を戒めた。その中でヒトラーとワイマール憲法に関し、「あの手口、学んだらどうかね」という不適切な表現を口にした。「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」と氏はいうが、その事実はない。有り体に言って一連の発言は、結局、「ワイマール体制の崩壊に至った過程からその失敗を学べ」という反語的意味だと私は受けとめた。


 この肝心の点をさらっと流しているが、意味不明である。
 麻生は、単に、事実でない「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」ことに学べと発言したのではない。
 朝日新聞デジタルが伝える「発言の詳細」にはこうある。

憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。


 「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」「みんないい憲法と……納得して……変わっている」、そのナチスの手口に学んだらどうかと述べているのだ。
 それが何故「「ワイマール体制の崩壊に至った過程からその失敗を学べ」という反語的意味だと」受けとめられるのか、私にはまるで理解できない。

 仮に、ナチスはわーわー騒いで、熱狂、狂乱の中で憲法を変えた、その手口に学べと麻生が口にしたのなら、「反語的意味」だと櫻井が言うのもわかる。
 しかし、麻生発言の文脈では、ナチス自体を肯定しているわけではないが、ナチスの改憲の手口は肯定すべきものとなっている。それがどうして「反語的意味」となるのか。
 無理矢理「反語的意味」とすることで、問題視すべきものではないと収束を図っているとしか考えられない。

 さらに言えば、「民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」とわざわざ断っているということは、自らの発言が民主主義を否定するものととらえかねないことを麻生が自覚しているということになるはずだが、これはどう説明するのか。

 朝日の「発言の詳細」は全文でないから作為が施されているのだという批判がある。仮にそうであれば、櫻井は国基研の理事長なのだから正確な全文を入手できるはずであり、それに基づいて朝日を批判すればよい。しかし、櫻井が引用している発言はいずれも朝日が報じている内容と同様である。

 そして櫻井は、朝日の報道を麻生の真意を歪めるものと批判する。

たとえば1日の「天声人語」子は、麻生発言を「素直に聞けば、粛々と民主主義を破壊したナチスのやり方を見習え、ということになってしまう」と書いた。前後の発言を合わせて全体を「素直に聞」けば、麻生氏が「粛々と民主主義を破壊」する手法に習おうとしているなどの解釈が如何(いか)にして可能なのか、不思議である。天声人語子の想像力の逞(たくま)しさに私は舌を巻く。


 私は、前後の発言を合わせて全体を「素直に聞」いても、麻生が「粛々と民主主義を破壊」する手法に習おうとしている解釈も十分に可能だと思う。現に麻生自身が「民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」とわざわざ断っているのだし。

 当の産経の8月3日付「主張」(他紙の社説に相当する)にしても、

《「学んだらどうか」といった、ナチスの行為を肯定すると受け取れかねない表現を用いたのはあまりに稚拙だった。》

《「いつの間にか」「誰も気づかないで」憲法が改正されるのが望ましいかのような表現は不適切だ。》

と同様の趣旨で発言を批判しているのだが、櫻井は産経の報道には疑問を覚えないのだろうか。

 櫻井が挙げた天声人語にしても、何も麻生がナチスの手法に習おうとしているとストレートに批判しているわけではない。「素直に聞けば」そうなるということであり、麻生の真意が「冷静で落ち着いた論議をすべきだという考えなら、わかる。」ともしており、主旨は発言の不適切さの指摘にある。念のため全文を引用しておく。

ぎょっとした。麻生副総理が7月29日、ある会で改憲に触れて、こう述べたという。「気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうか」。同僚記者の取材と麻生事務所に確認した結果をあわせ、以下紹介する▼麻生氏はまずナチスがどうやって独裁権力を獲得したかを語った。それは先進的なワイマール憲法の下でドイツ国民が選択したことだ、と。いかに憲法がよくても、そうしたことは起こるのだ、と▼次に、日本の改憲は騒々しい環境のなかで決めてほしくないと強調した。それから冒頭の言葉を口にした。素直に聞けば、粛々と民主主義を破壊したナチスのやり方を見習え、ということになってしまう▼氏は「民主主義を否定するつもりはまったくない」と続けた。としても、憲法はいつの間にか変わっているくらいがいいという見解にうなずくことは到底できない▼ヒトラー政権は当時の議会の機能不全に乗じて躍り出た。対抗勢力を弾圧し、全権委任法とも授権法とも呼ばれる法律を作って、やりたい放題を可能にした。麻生氏の言うナチス憲法とはこの法のことか。そして戦争、ユダヤ人大虐殺へと至る▼巨大な罪を犯した権力集団を、ここで引き合いに出す発想が理解できない。熱狂の中での改憲は危うい、冷静で落ち着いた論議をすべきだという考えなら、わかる。なぜこれほど不穏当な表現を、あえてしなければならないのか。言葉の軽さに驚く。


 「前後の発言を省き、全体の文意に目をつぶり」「部分だけを取り出して」批判しているのは誰なのだろうか。
 なお、紙面で見る限り、朝日は発言を批判する記事に併せて、何度も発言の要旨を掲載している。

 そもそもこの講演の「ナチス」発言を最初に報じたのは読売新聞であり、朝日ではない。櫻井が触れている慰安婦問題と異なり、朝日が火を付けたのではない。

 「現場にいた記者が麻生発言の真意を読みとれないはずはないと思っていた私は、朝日を買いかぶっていた」とあるが、天声人語子が現場にいたはずもあるまいに、天声人語を引きながら現場の記者を批判するというのも理解不能だ。
 現場にいたかどうかは知らないが、講演当日の29日付の朝日新聞デジタルの記事は次のとおりで、

「護憲と叫べば平和が来るなんて大間違い」麻生副総理

■麻生太郎副総理

 日本の置かれている国際情勢は(現行憲法ができたころと)まったく違う。護憲、護憲と叫んでいれば平和がくると思うのは大間違いだし、仮に改憲できたとしても、それで世の中すべて円満になるというのも全然違う。改憲の目的は国家の安全や国家の安寧。改憲は単なる手段なのです。狂騒・狂乱の騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げるべきなんです。そうしないと間違ったものになりかねない。(東京都内で開かれたシンポジウムで)


「ナチス」の語には全く触れておらず、狂騒の中で改正すべきでないという麻生の真意をきちんと報じている。
 
 朝日がこの発言を問題視し始めたのは、他のマスメディアで報じられ、海外でも注目され始めた後のことである。
 なのに、朝日だけをことさら目の敵にする櫻井の書きぶりは尋常でない。

 さらに昭和20年8月の朝日の報道まで持ち出して批判するのは、ほとんど言いがかりというものではないだろうか。朝日が最後まで徹底抗戦を唱えたことは事実だが、それは他紙でも同様だろう。「いち早く、日本敗戦の可能性を国民に知らせ」た新聞がほかにあったというのでなければ、朝日だけを批判する意味はないし、だいたいこれは麻生発言と何の関係もない話である。

 私は、憲法改正が急務であるという点では全く櫻井と同意見であり、朝日的な護憲論には反対である。しかし、このような、ひたすら朝日を悪く言えばいいというだけの粗雑な主張が改憲派のシンクタンクの理事長名義で発せられることが、果たして本当に憲法改正に資することになるのか、疑問に思う。


ナチスはいかにして権力を獲得したか-麻生発言に思う(2)

2013-08-12 00:05:04 | その他海外情勢
 「ナチスの手口に学んだら」で問題となった7月29日の麻生太郎副総理兼財務相の講演の報道に対して、マスコミは発言を恣意的に解釈して報じている、麻生の真意はそのようなものではないとの批判があった。

 例えば、私がtwitterでフォローしているある方は、当初の読売新聞の報道にこうツイートしていた。

これさ「ナチスがワイマール憲法をいかに変えたか?それは喧騒と熱狂の間に変えてしまった。そんな事はせずに静かに議論しよう。ナチスの手口を知ってそうならないようにしよう」みたいな事を言ったらしいな。つまり読売新聞のミスリードっぽい。
 

 これに対して、私が

それはちょっと違うと思います。主旨は「静かに議論しよう」だったのでしょうが、麻生は、ナチスは静かにワイマール憲法を変えた、その手口に学べと言っているのです。ナチスが喧騒と熱狂の間に変えたなどとは言っていません。理解しがたい発言です。


と述べたところ、


記事を読むと「ナチスがワイマール憲法を変えた時のように狂騒の中で決めないで欲しい」と言ってるって事だと思うんだけど?「冷静に考えて欲しい」と言ってると思うんだけど?


ナチスが政権を取った時は「ナチスが第一党に躍り出た時で、その時に過半数以上を取り、議会を完全に掌握。さらに民主も、ナチスなら間違いない。ヒトラーに任せて大丈夫」って、時期でこれが「狂騒」


そもそもワイマール憲法が骨抜きにされたという批判は「ヒトラーと言うカリスマが民衆を狂騒の中に落としいれ、合法的に憲法を骨抜きにした」って、批判されているわけで。その前提を踏まえるて憲法を変えようとしている自民党の発言としては「静かにやろうや」「あの手口を学んではどうか」との発言は矛盾するわけ。


といったツイートが返ってきたが、しかし麻生は、朝日新聞デジタルの「発言の詳細」によると

 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。


と、憲法は良くてもヒトラーという悪いものが出てくるとは言っているものの、喧噪だの熱狂だの狂騒だのという話はしていない。
 そして、

昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。


と言っているのだから、麻生が、ナチスの下で憲法は「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」「みんないい憲法と……納得して……変わっている」と考えていることは明らかだ。そう考えないと、この方のおっしゃるように前後が矛盾してしまう。

 もっとも、それでも「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」と、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」もまた矛盾するので、このあたりは要するに適当なことを言っているのだろう。
 
 では、ナチスは憲法を「だれも気づかない」うちに変えたのか、あるいは「みんないい憲法と……納得し」た上で変えたのか。
 また、ナチスは「きちんとした議会で多数を握って」出てきたのか。「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」のか。

 そもそも「ナチス憲法」などというものはなく、ナチスは全権委任法によりワイマール憲法の効力を停止したにすぎないことは以前述べたとおりだが、その経過について、もう少し詳しく説明しておきたい。

 1918年、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝は退位し、帝制は倒れた。臨時政府はワイマールの地に国会を招集し、第1党となった社会民主党の党首エーベルトを初代大統領に選出し、新憲法を制定した。国民主権が定められ、大統領は国民の直接選挙により選出されるとされ、任期は7年、緊急命令権が認められていた。国会では過半数を制する政党はなく、連立内閣がめまぐるしく交代した。
 1925年にエーベルトが死去すると、後任の大統領には第一次大戦の英雄であるヒンデンブルク元帥が保守派に担がれて当選した。賠償とインフレに苦しんだドイツ経済は立ち直りを見せ、国際連盟に加盟するなど国際社会に復帰し、議会政治も定着し、国民の生活は安定しつつあった。

 ナチスの前身は1919年に結成されたドイツ労働者党というミニ政党であった。軍人であったヒトラーはこの党の調査を命じられてこれに接触し、彼らに勧められて入党し、特異なカリスマ性で党を牛耳った。党は1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と改称し(ナチスは俗称)、勢力を拡大し、極右団体の指導者格となった。
 1923年、ナチスはバイエルン州のミュンヘンで革命政権の樹立を試みたが失敗し(ミュンヘン一揆)、ヒトラーは入獄してナチスのバイブル『わが闘争』を口述した。1924年末には釈放されて、党を再建した。しかし1920年代後半のドイツは比較的安定しており、ナチスの出番はなかった。

 1929年10月のウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌はドイツ経済を直撃した。失業者が激増し国家財政は破綻した。1930年、社民党のミュラーを首班とする連立内閣は与党間の不統一により瓦解した。ヒンデンブルク大統領は、側近シュライヒャー将軍の進言により、後継首相に第3党である中央党(カトリック系の中道政党)のブリューニングを指名した。この内閣はそれまでと異なり、国会の多数派に拠らず大統領の権力に依拠したものであり、以後同様の内閣が3代続き「大統領内閣」と呼ばれる。
 ブリューニング内閣は増税と緊縮財政による再建を図り、大統領緊急命令によりこれを実行した。国会がこれに拒否権を行使すると、国会の解散をもって応じた。
 1930年9月に行われた総選挙で、ナチスは12議席から107議席に大躍進し、社民党に次ぐ第2党となった。

社民党 143
ナチス 107
共産党 77
中央党 68
国家人民党 41
ドイツ人民党 30
民主党 20
バイエルン人民党 19
その他 72
計 577

 共産党も前回の54議席から77に伸ばし、両党の武装組織がベルリン市街で衝突した。ブリューニング内閣は大統領の権限を多用して政権を維持したが、不況は悪化し、首相の人気は低迷した。
 1932年3月には任期満了による大統領選挙が実施され、ヒトラーや共産党のテールマンが立候補したが、ヒンデンブルクが1900万票を獲得して再選された(ヒトラーは1300万票で2位)。ブリューニングはこの再選に尽力したが、大統領の信任を失い、同年5月に内閣は総辞職した。
 後継首相に指名されたのは騎兵出身のパーペン男爵だった。パーペンは中央党に属するプロイセン州議会議員であったが、政治的には無名であり(国会議員ではない)、シュライヒャー将軍の傀儡として起用された。首相就任に反対した中央党はパーペンを除名した。シュライヒャーは国防相として入閣した。彼は以前からナチスに接近し、そのワイマール体制への取り込みを図っていた。
 国会に基盤を持たないパーペンはナチスに協力を要請し、ナチスの国会解散の要求に応じた。1932年7月に行われた総選挙で、ナチスはさらに倍以上の議席を獲得し、ついに第1党となった。しかし過半数を得ることはできなかった。共産党も議席を増やし第3党の座を維持した。社民党は第1党から転落したが第2党にとどまった。

ナチス 230
社民党 133
共産党 89
中央党 75
国家人民党 37
バイエルン人民党 22
ドイツ人民党 7
民主党 4
その他 11
計 608

 パーペンやシュライヒャーはヒトラーに副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求し、交渉は決裂した。
 9月に国会が招集され、議長に第1党であるナチスのゲーリングが就任した。パーペンは大統領令により直ちに国会を解散しようと図ったが、ゲーリング議長はパーペンの発言より共産党が提出した内閣不信任決議案の採決を先行させ、これが512対42の圧倒的賛成で可決された後、国会は解散された。
 11月に同年二度目の総選挙が行われ、ナチスは第1党の座は維持したものの議席を減らした。第2党の社民党も議席を減らしたが、第3党の共産党は議席を増やした。

ナチス 196
社民党 121
共産党 100
中央党 70
国家人民党 52
バイエルン人民党 20
ドイツ人民党 11
民主党 2
その他 12
計 584

 パーペンは再びヒトラーに副首相としての入閣を要請したが、ヒトラーも再び拒否し、パーペン内閣は総辞職した。パーペンは国会を停止し政党や労組を解散させて新憲法を制定するというプランを提唱したが、シュライヒャー国防相は、パーペンの案ではナチスや共産党の蜂起を招き国防軍も治安を維持できないとしてこれに反対し、自分であればナチスを分断し社民党や中央党をも与党に取り込めると主張した。ヒンデンブルク大統領はシュライヒャーに組閣を命じた。シュライヒャー首相兼国防相はナチス左派の領袖シュトラッサーに入閣を求め、シュトラッサーはナチス党内で政権参加を主張したが、ヒトラーは彼を裏切り者呼ばわりし、党議は拒否に決した。シュトラッサーは党の役職を辞任して国外に去り、ナチス分断は失敗した。シュライヒャーは他の政党の取り込みにも失敗し、ついに軍部による独裁を提言したが、大統領に拒否され辞任した。
 大統領はお気に入りのパーペン前首相に再び組閣を命じ、パーペンはナチス及び右派政党である国家人民党と連携を図り、大統領もこれを容認した。1933年1月30日、ヒトラーはついに首相に就任した。副首相はパーペン、経済相に国家人民党の党首フーゲンベルク。ナチスからはフリッツ内相とゲーリング無任所相の2名しか入閣しなかった。パーペンはヒトラーを取り込んだつもりでいた。
 ヒトラーはすぐさま国会を解散し、3月5日に総選挙が行われたが、その直前の2月27日国会議事堂が炎上した。オランダ人の共産主義者の青年が実行犯として逮捕されたが、ナチスはこれを共産党の武装蜂起の一端であると宣伝して、党員や支持者を大量に逮捕するなど大弾圧を加えた。
 選挙の結果、ナチスはさらに議席を増やしたが、それでもなお過半数には達しなかった。社民党は第2党のままであり、苛烈な弾圧にもかかわらず共産党も第3党を維持した。

ナチス 288
社民党 120
共産党 81
中央党 74
国家人民党 52
バイエルン人民党 18
民主党 5
ドイツ人民党 2
その他 7
計 647

 3月23日、全権委任法が国会で成立した。この可決には3分の2を要するとされたが、与党であるナチスと国家人民党だけではそれに達しなかった。しかし中央党などの諸政党もナチスの圧力により賛成に転じた。共産党は出席できず、反対したのは社民党のみで(社民党も一部の議員が逮捕されていた)、441対94の圧倒的賛成により可決した。
 ヒトラー政権は6月に社民党を禁止し、国家人民党や中央党などの諸政党も解党した。7月には政党の新規結成は禁止され、ナチスのみが唯一の政党として残った。フーゲンベルクは閣外へ去り、パーペンは副首相にとどまったが何の力も持たなかった。ナチスの一党独裁体制が確立された。

 外交官を務めた加瀬俊一(1903-2004)は『ワイマールの落日』(光人社文庫、1998、親本は文藝春秋、1976)でこう書いている。

 ヒトラーはナチス文献が宣伝するように、国民革命の大潮流に乗って、政権を獲得したのではない。いわば、謀略によって裏階段から首相官邸に忍びこんだようなものでもある。現に、ナチスは選挙〔引用者註:政権獲得前の〕において三七パーセント以上を獲得したことはない。だから、もし残りの六三パーセントが一致して抵抗したら、政権を奪取することはできなかったはずである。
 そうならなかったのは、まず、共産党がナチスよりも社民党を、「社会ファシズム」と呼び、最大の敵として戦ったからであり、他方、社民党が労組出身者にひきいられる無気力なプチ・ブル集団に転落し、また、中道保守派が分裂抗争を反復して、反ナチス大同団結の必要に目ざめなかったからである。中央党に到っては、最後までナチスと妥協を試みるような不見識を暴露したのである。だが、ヒトラーをして名を成さしめた最大の責任は、右翼保守派のナショナリストが負わねばなるまい。彼らは敗戦後も格別痛めつけられず、むしろ、陽の当たる場所にいたにもかかわらず、共和体制になじまず、これを敵視し、機会があればワイマール体制を打倒し、帝制を回復して昔の権力を再び握ろうと画策した。しかも、派閥抗争に勢力を徒費し、敗戦-インフレ-不況-失業の連打にうちのめされて、絶望にある大衆の救済を怠った。だから、大衆は救世の指導者が出現することを待望した。ヒトラーはこの心理を巧みに衝いたのである。(p.232-233)


 また、フランスの学者クロード・ダヴィドは『ヒトラーとナチズム』(長谷川昭安訳、文庫クセジュ(白水社)、1971)でこう書いている。

 不満と不安とにかられたドイツ国民が急進的な政党にはしり、やけっぱちになったのはむりもないところである。しかし、ここで注意しなければならないのは、右翼勢力の進出はまちがいない事実であったにしても、その進出ぶりが野火のように急であったとする説があやまりであるということである。ちなみにヴァイマル共和制時代におこなわれた選挙の結果を順をおってしらべてみるならば、社会民主党とカトリック中央党が共和制の最後まで安定した勢力をたもっていたことがわかる。〔中略〕それでは理屈にあわないということになるが、理由は簡単である。それはナチ党がすべての右翼系政党を吸収する一方、穏健派はしだいに急進的となり、人民党や民主党は姿を消していったからである。由緒ある正統右翼、国家人民党がナチ党と対立していたとする説を今日でもしばしば耳にすることがある。しかし、この国家人民党こそ金融界、産業界、国防軍などとならんで、はじめはヒトラーを買収し、やがてヒトラーの命令にいっさい服さねばならなくなったのである。のちナチ党への抵抗運動が組織されたのも、これら伝統的保守勢力のなかからであった。かつて唯一の支持者としてヒトラーに独裁者への道をひらいてやり、いままたそのゆきすぎをくいとめるために抵抗をこころみるのであるが、ときすでにおそかったのである。(p.50-51)


 確かに、ナチスは選挙で第1党となった。しかし単独過半数を得ることはできず、他勢力との連立によってようやく政権を獲得した。
 その段階においても、ワイマール体制を維持してきた既成政党である社民党や中央党は一定の支持を確保していたのであり、決して国民がこぞってナチスを支持し、熱狂したのではない。
 したがって、麻生発言の「きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきた」「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」といった箇所は、やや問題がある。

 そして、ヒトラーはかねてから議会による民主制を否定し独裁制を採るべしと主張していたのであり、全権委任法はヒトラー内閣誕生の当然の帰結だった。そういう意味では「ある日気づいたら……変わっていた」わけでもないし、暴力を背景とした圧力により賛成させ、反対派は弾圧したのだから、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」わけでもない。

 以前の記事で、「麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか」と述べた所以である。


誰が靖国参拝を「静か」でなくしたのか――麻生発言に思う(1)

2013-08-07 00:36:12 | 靖国
 「ナチスの手口に学んだら」で問題となった7月29日の麻生太郎副総理兼財務相の講演は、靖国神社参拝の問題にも触れていた。
 朝日新聞デジタルに掲載された「発言の詳細」(全文ではないらしい)から一部引用する。

 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。

 何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

 僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。

 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。


 確かに、マスコミが、ささいなことを針小棒大に取り上げて、閣僚や官僚の首を取ったり、政策をつぶしたりすることはある。
 しかし、だから一切騒ぐな、静かにやれというのも無茶な話で、言論の自由は重要だろう。
 そして、靖国参拝問題は、そのような騒ぐ側だけの問題なのだろうか。彼らが騒ぐように、格好のネタを提供した者はいなかったのか。
 靖国問題の経緯をちょっと振り返ってみたい。

 主権回復後、吉田茂首相は靖国神社に参拝した。続いて首相となった鳩山一郎と石橋湛山は参拝しなかったが、その後の岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄は皆参拝した。そして彼らの参拝は特に問題視されなかった。
 しかし、彼らは8月15日に参拝したのではなかった。主に春と秋に開かれる例大祭に合わせて参拝したのだった。

 8月15日に初めて参拝した首相は田中角栄の後任の三木武夫である。1975年のこの日、三木首相は全国戦没者追悼式に出席した後、自民党総裁専用車で靖国神社を訪れ、肩書なしの「三木武夫」と記帳して参拝し、「私人」であることを強調した。
 これ以後、首相や閣僚の靖国参拝の是非と「公人」か「私人」かが問われることになる。
 しかし、このころは中国や韓国はまだ靖国参拝を問題視してはいなかった。

 1978年10月17日、靖国神社はA級戦犯14名を合祀した。しかしこれは公表されず、翌年4月に初めてマスコミに報じられた。
 厚生省は既に1966年にA級戦犯の祭神名票を靖国神社に送っていた。しかし当時の筑波藤麿宮司が合祀を保留していた。1978年3月20日の筑波の死後、後任の宮司に就いた松平永芳によってようやく合祀されるに至った。
 昭和天皇がこの合祀に不快感を示していたことが後にいわゆる「富田メモ」により明らかになった。昭和天皇が以後靖国神社を参拝することはなかった。
 靖国神社は戦争責任者であるA級戦犯を神としてまつっているとの批判を受けることとなった。
 しかしこの時点でも、中国や韓国は靖国参拝を問題視してはいなかった。

 靖国参拝が外交問題になったのは、1985年の中曽根康弘首相による「公式参拝」の時である。
 「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根は、靖国神社の「公式参拝」にも当初から意欲を示していた。宗教的意味をもたない形式であれば首相の「公式参拝」は可能であるとして、8月15日、公用車で閣僚と共に公務として靖国神社を訪れ、「内閣総理大臣 中曽根康弘」と記帳したものの、「二拝二拍手一拝」の神道形式ではなく本殿で一礼する形式で参拝し、玉串料でなく供花料を公費から支出した。
 国内でも批判は高まったが、この時初めて中国、韓国の政府から強い批判の声が上がった。両国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを問題とした。
 中曽根が以後在任中に靖国神社を参拝することはなかった。自民党はA級戦犯合祀の取り下げ、あるいは分祀を働きかけたが、神社側に拒否された。

 なるほどマスコミが騒がなければ国際問題にはならなかっただろう。
 しかし、マスコミが騒ぐ原因となったのは、
1.8月15日の参拝
2.A級戦犯の合祀
3.「公式参拝」の強行
であり、1と3は自民党政権、2は靖国神社によるものである。
 これらを行った者に責任はないのだろうか。
 これらを無視して、「昔は静かに行っておられました」「いつのときからか、騒ぎになった」と、何の変化もないのに突然マスコミが騒ぎ出したかのように語る麻生の見識には疑問がある。

 そしてこれらが問題となるのは、結局のところ、わが国の政教分離原則と靖国神社の存在がどうしても抵触することと、わが国にきちんとした公的な戦死者を追悼する施設がないからではないか。

「お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい」
 私もそう思う。
 中曽根は首相時代に、国のために命を落とした人に感謝を捧げる場がなくして誰が国に命を捧げるか という趣旨のことを言っていた。感謝を捧げる場がなくても国に命を捧げることは必要ではないかと思うが、そうした感謝の場はあっていいし、あるべきだろう。
 しかし、その場が、何故一宗教法人である靖国神社でなければならないのか。
 何故一宗教法人に、国家が追悼する対象者を決める権限があるのか。
 靖国神社と国との関係が不透明なままであることが、そもそもの問題の原因ではないか。

 かつて麻生は、靖国神社を政治から遠ざけ、静かな祈りの場とする必要があるとして、靖国神社が宗教法人を自主的に解散させ、国が関与する特殊法人に移行し、無宗教の国立追悼施設とするという案を唱えていた。
 私もできるものならこれに賛成だが、靖国神社は反対だろうから、新たな国立追悼施設の建設が現実的ではないかと以前述べた
 この気持ちは今も変わらない。
 与党に復帰し、副総理を務める今、その実現に向けて力を尽くしていただきたい。

(関連過去記事
靖国神社と新追悼施設に思うこと(上) )


呉善花の入国拒否に思う――好ましからざる人物の入国拒否は当然

2013-08-05 00:11:37 | 「保守」系言説への疑問
 韓国出身の呉善花・拓殖大学教授が先月27日、親族の結婚式出席のため韓国を訪れたところ、入国を拒否された。
 この件を30日付の産経新聞が、1面コラム「産経抄」と社説に当たる「主張」でそろって取り上げている。

【主張】呉氏の入国拒否 韓国は納得のいく説明を
2013.7.30 03:49

 韓国出身の評論家で日本国籍をもつ呉善花・拓殖大教授が明確な理由を告げられず、韓国への入国を拒否された。

 呉氏は歴史問題などをめぐって、韓国に厳しい評論活動で知られる。入国拒否の理由について、韓国当局に納得のいく説明を求めたい。

〔中略〕

 韓国に批判的な呉氏の言論活動が入国拒否の理由だったとすれば、由々しき問題である。

 韓国は中国や北朝鮮と違い、自由な言論を尊重しなければならない民主国家だ。どんな批判でも、それがテロなど危険な行為を伴うものでない限り、許容し、入国を認めるべきではないか。


 しかし、「主張」の文中にもあるように、呉善花は韓国出身ではあるが既にわが国に帰化している。韓国にとっては外国人である。

 本紙の取材に、入管当局は「プライバシーに関することで回答できない」と語ったが、説明として不十分だ。


 何故不十分なのだろうか。一外国人の私的な入国を拒否したからといって、いちいちその理由を他国のマスメディアに説明しなければならない義務があるのか。

菅義偉官房長官は「思想信条を理由に入国を拒否されたのであれば、日本国民に対する極めて残念な措置だ」「事実関係を把握した後、適切に対応する」と述べた。当然である。


 だが産経の報道によれば、菅官房長官はこうも言っているのである。「国際法上、一般的に外国人の入国を認めるか否かは、基本的には各国主権に基づく裁量だ」と。

呉善花氏の韓国入国拒否「極めて残念」 菅官房長官
2013.7.29 12:37

 菅義偉官房長官は29日午前の記者会見で、評論家の呉善花氏=日本国籍=が韓国入国を拒否され、日本に引き返した問題について「思想信条を理由に入国を拒否されたのであれば、今回の韓国側の措置は日本国民に対する措置として極めて残念である」と述べた。

 また、「国際法上、一般的に外国人の入国を認めるか否かは、基本的には各国主権に基づく裁量だ」としつつも、「事実関係を把握した後、適切に対応する」と語った。〔太字は引用者による〕


 民主国家であれそうでない国家であれ、外国人の入国を認めるか否かは、その国が独自に判断すべきことである。それが国家主権というものである。
 「自由な言論を尊重しなければならない民主国家」であるとしても、その「自由」はあくまでその国内において、その国の国民に対して保障されるのである。国外における外国人の言論の自由をも保障しなければならないというものではないし(そもそもそんな権限はない)、その外国人の入国に際してその言論の内容を理由に拒否してはならないという根拠もない。
 産経は何かとてつもない勘違いをしているのではないだろうか。

 同じく産経の記事によると、呉善花は韓国側から入国拒否の理由として、韓国の出入国管理法第76条を挙げられたという。

韓国入国拒否の呉善花氏「言論の自由の侵害。民主国家ではあり得ない」
2013.7.31 19:30

 韓国から7月27日に入国を拒否された同国出身の評論家で拓殖大教授の呉善花氏(56)=日本国籍=が31日、東京都内の日本外国特派員協会で記者会見し、「明らかに言論の自由の侵害で、民主国家としてあり得ない」とあらためて韓国に対する強い抗議を表明した。

 呉氏によると、入国拒否の理由について韓国の空港では一切説明されず、日本に戻った後、成田空港でようやく「出入国管理法76条の規定により」と記された書類を渡された。同法は韓国の安全や社会秩序を害する恐れのある外国人の入国禁止について定めている。

 呉氏は「私はどれも該当しない。著作活動を理由としているとしか考えられない」と指摘。今回の問題について「嫌韓をあおる呉善花」と呉氏への非難しか伝えず、言論の自由の侵害に触れようとしない韓国メディアの論調も批判した。


 韓国Web六法というサイトによると、韓国の出入国管理法の第76条は次のようになっている。

第76条(送還の義務)次の各号の1に該当する外国人が乗った船舶等の長又は運輸業者は、その者の費用と責任でその外国人を遅滞なく大韓民国外に送還しなければならない。

 1.第7条第1項から第4項まで又は第10条第1項の規定による要件を備えない者

 2.第11条の規定により入国が禁止され、又は拒否された者

 3.第12条第4項の規定により船舶等の長又は運輸業者の帰責事由で入国が許可されない者

 4.第14条の規定により上陸した乗務員であってその者が乗っていた船舶等が出港する時まで帰船しない者

 5.第46条第5号又は第6号の規定に該当する者であって強制退去命令を受けた者


 このうち、呉善花の入国拒否に関連するものは、第2号で挙げられている同法第11条なのではないかと思われる。
 同じサイトで第11条を見るとこうある(機種依存文字を変更。太字は引用者による。以下同じ)。

第11条(入国の禁止等)①法務部長官は、次の各号の1に該当する外国人に対しては、入国を禁止することができる。<改正97・12・13>

 1.伝染病患者・麻薬類中毒者その他公衆衛生上危害を及ぼすおそれがあると認められる者

 2.銃砲・刀剣・火薬類等取締法で定める銃砲・刀剣・火薬類等を違法に所持して入国しようとする者

 3.大韓民国の利益又は公共の安全を害する行動をするおそれがあると認めるだけの相当な理由がある者

 4.経済秩序又は社会秩序を害し、又は善良な風俗を害する行動をするおそれがあると認めるだけの相当な理由がある者

 5.精神障害者・放浪者・貧困者その他救護を要する者

 6.強制退去命令を受けて出国した後5年が経過しない者

 7.1910年8月29日から1945年8月15日まで日本政府、日本政府と同盟関係にあった政府、日本政府の優越した力が及んでいた政府の指示又は連繋の下に人種、民族、宗教、国籍、政治的見解等を理由として人を虐殺・虐待する仕事に関与した者<<施行日98・3・14>>

 8.その他第1号から第7号までの1に準ずる者であって法務部長官がその入国が不適当であると認める者<<施行日98・3・14>>

2 法務部長官は、入国しようとする外国人の本国が第1項各号以外の事由で国民の入国を拒否するときは、その者と同じ事由でその外国人の入国を拒否することができる。


 呉善花は、韓国の出入国管理法の「どれも該当しない」と述べたそうだが、この条文の第3号か第4号、あるいは第8号に該当すると判断されたのではないだろうか。

 わが国の出入国管理法にもこの第3号や第2項と同様の規定がある。

(上陸の拒否)
第五条  次の各号のいずれかに該当する外国人は、本邦に上陸することができない。
〔中略〕
十四  前各号に掲げる者を除くほか、法務大臣において日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者
2  法務大臣は、本邦に上陸しようとする外国人が前項各号のいずれにも該当しない場合でも、その者の国籍又は市民権の属する国が同項各号以外の事由により日本人の上陸を拒否するときは、同一の事由により当該外国人の上陸を拒否することができる。


 おそらく、どの国にもこうした規定はあるのではないのだろうか。

 かつてべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の代表を務めた作家の小田実(1932-2007)は、ベトナム戦争終結後10年以上経っても米国から入国を拒否されていたと記憶している。1990年代にはわが国の731部隊の関係者がやはり米国から入国を拒否された。
 わが国だって、2008年に『<帝国>』の著者の1人であるイタリアの哲学者アントニオ・ネグリの入国に際し、予定されていた訪日の直前にビザを申請するよう要求し、事実上入国を拒否していたことがある。
 産経はこれらに際し、自由民主主義国家として入国拒否はまかりならんと論陣を張っただろうか。

 また、仮に呉善花の言論の内容自体には問題がないとしても、韓国メディアの論調に見られるように呉善花への世論の反発が強いのなら、呉善花に対する不測の事態の発生を恐れての入国拒否という面もあったかもしれない。
 さらには、入国を認めることにより、政府への批判が沸き起こることを恐れたとも考えられる。
 その判断を、外国の一メディアが、言論の自由の観点から一概に批判できるのだろうか。

 産経「主張」はさらにこう続ける。

 韓国は一昨年、当時野党だった自民党の国会議員3人が竹島に近い鬱陵(うつりょう)島を視察しようとした際も、「公共の安全を害する行動を起こす恐れがある」として、ソウルの空港で入国を拒否した。入管当局は入国目的も聞かず、いきなり不許可を告げた。これも著しく礼を失した対応だった。


 この件については当時の記事でも述べたが、国会議員であれ何であれ、外国人の入国を認めるか否かはその国の裁量の問題であろう。一国の国会議員という特別な地位にある者なのだから、外国においてもその地位を尊重して極力便宜を図るのが当然であるとは言えない。
 領土紛争の現場に乗り込んで視察することが、紛争の相手国の国会議員として当然認められるべきと考えているならば、やはりとてつもない勘違いをしているとしか思えない。

 また、ソウルで28日に行われたサッカー東アジア・カップ男子の日韓戦で、韓国側応援団が「歴史を忘れた民族に未来はない」と日本を誹謗(ひぼう)する横断幕を掲げた。韓国政府の意向ではないにしても、国際的なスポーツ競技でのマナーに反する行為である。


 確かにマナーに反するが、「主張」も言うように韓国政府の意向ではないのだし、これは全国紙の社説が取り上げるべき話題なのだろうか。

 日本と韓国は、歴史認識や領土問題で対立しても、北朝鮮の核開発や中国の軍拡など安全保障面では協力しなければならない関係にある。経済的なつながりも深い。日本と同じ自由と民主主義を重んじる隣国として、韓国には冷静で理性的な対応を望みたい。


 いかにも、産経が「自由と民主主義を重んじ」「冷静で理性的な対応」を心がけているようだが、そもそも、韓国が一外国人の私的な入国を拒否したからといって、「納得のいく説明を求めたい」「由々しき問題である」と騒ぎ立てる産経も、相当ヒートアップしているように見えるが。
 他の全国紙4紙は、この話題を1面コラムでも社説でも取り上げてはいないし、そのようなレベルの話だとも思えない。

 自由民主主義国家においては「テロなど危険な行為を伴うものでない限り」外国人の入国を拒否すべきではないとするならば、わが国においても、テロなどの理由がないならば、政府が好ましからざると考える外国人、あるいは民間が好ましからざるとして批判している外国人の入国を拒否できないことになる。
 私はそれはよろしくない、理由が何であれ外国人の入国においてその国の裁量権は当然認められるべきだと考えるが、産経はそれでもかまわないと考えるのだろうか。どちらが国益に合致しているだろうか。

 今年の「主権回復の日」の翌日、「主張」は「本紙は「国民の憲法」要綱で、国家主権を明記した。政府も国民も、国家主権の大切さを改めて考えてみる必要がある。」と説いた。
 そんな産経が、他国もまた国家主権を行使できることに極めて鈍感な論説を掲げるのは珍妙と言うほかない。




麻生太郎副総理兼財務相の「ナチスの手口に学べ」発言について

2013-08-01 00:03:18 | 現代日本政治
 7月30日にYOMIURI ONLINEが次のように報じたのを読んで、ンン??と思った。

ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演

 麻生副総理は29日、都内で開かれた講演会で憲法改正について、「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」と述べた。

 その上で、ドイツでかつて、最も民主的と言われたワイマール憲法下でヒトラー政権が誕生したことを挙げ、「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民が)騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。


 「落ち着いた世論の上に成し遂げるべき」なのはそのとおりだろうが、何故ナチス?
 そもそもナチス憲法って何だ? そんなのあったか? いや、ナチスは独自の憲法を制定してはいない。
 ナチス政権の下でもワイマール憲法は存続したが、全権委任法の成立によって事実上無効化したのではなかったか?
 そして、ナチスは議会の過半数を占めてはいなかったから、国会議事堂放火事件を機に暴力を用いて反対派議員を取り締まり(共産党は非合法化された)、あるいは圧力をかけて全権委任法に賛成させたのではなかったか? 決して国民が「納得して変わっ」たのではない。

 東京新聞のサイトが31日に報じた発言要旨は、次のようになっている。

 麻生太郎副総理兼財務相の二十九日の講演における発言要旨は次の通り。

 日本が今置かれている国際情勢は、憲法ができたころとはまったく違う。護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違いだ。改憲の目的は国家の安定と安寧だ。改憲は単なる手段だ。騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、われわれを取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げられるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない。

 ドイツのヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法(の下)で出てきた。憲法が良くてもそういったことはありうる。

 憲法の話を狂騒の中でやってほしくない。靖国神社の話にしても静かに参拝すべきだ。国のために命を投げ出してくれた人に敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かにお参りすればいい。何も戦争に負けた日だけに行くことはない。

 「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。僕は民主主義を否定するつもりもまったくない。しかし、けん騒の中で決めないでほしい。


 ここには「ナチス憲法」という言葉はない。
 読売記者が発言を要約した中での造語かもしれない。

 なお、同じ講演を取り上げたと思われる朝日新聞デジタルの29日付の記事は、

「護憲と叫べば平和が来るなんて大間違い」麻生副総理

■麻生太郎副総理

 日本の置かれている国際情勢は(現行憲法ができたころと)まったく違う。護憲、護憲と叫んでいれば平和がくると思うのは大間違いだし、仮に改憲できたとしても、それで世の中すべて円満になるというのも全然違う。改憲の目的は国家の安全や国家の安寧。改憲は単なる手段なのです。狂騒・狂乱の騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げるべきなんです。そうしないと間違ったものになりかねない。(東京都内で開かれたシンポジウムで)


と、「ナチス」の語には触れていない。この講演を主催した国家基本問題研究所のホームページに掲載されている産経新聞の記事にも、「ナチス」の語はない。
 重要な箇所とは見なされなかったからだろう。

「護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違い」
 全くそのとおり。改憲と叫んだら戦争が来ると思うのも大間違い。
「改憲の目的は国家の安定と安寧」
 これもそうだろう。何も明治憲法や軍国主義に戻そうとしているのではない。
 麻生の講演の趣旨は、改憲が明治憲法への復古や軍国主義への回帰であるかのような、実態からかけ離れた感情的で大げさな反対論を唱えるのではなく、冷静に議論されるべきだということだろう。それに異論はない。

 ワイマール憲法の下でヒトラーが出てきたという点は私も以前の記事で少し指摘した(コメント欄でさらに補足)。憲法がいかに優れていてもそれだけでは独裁者の登場を防ぐことはできない。

 だが、そうした麻生の講演の文脈の中で、

「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。


などという発言が何故出てくるのか、まるで理解できない。
 ヒトラーの登場を否定的にとらえながら、何故「あの手口を学んだら」となるのか。
 反対派を暴力的に排除した上での「静か」な変化を望んでいるのかと誤解されかねない。

 思うに、麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか。
 麻生の舌禍は今に始まったことではないが、重要な立場にある方は、どんな場であれ、よく知らないことは不用意に語らない方がよい。
 既に韓国メディアは批判している。欧米に波及する前に、速やかに取り消すべきではないだろうか。
 わが国の副総理兼財務相がネオナチだったなどと報じられても、いいことは何一つない。


(関連拙記事)
ナチスはいかにして権力を獲得したか――麻生発言に思う(2)

歪曲しているのはどちらか――櫻井よしこの麻生発言評と朝日批判を読んで