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日々の思いをたまに綴るブログ。

菅談話を論じる天声人語と朝日社説を読んで

2010-08-28 00:20:45 | 日本近現代史
 今月10日、菅直人首相が韓国併合から100年に当たっての談話を発表したが、翌11日の天声人語はこう書いた(太字は引用者による。以下同じ)。

 北朝鮮の特別機で、平壌からソウルまで飛んだことがある。9年前、欧州連合の訪朝団に同行した時だ。モデルのような乗務員が、軍用らしい真空パック詰めのピーナツを配ってくれた▼いったん公海上に出た旧ソ連製の機体は、できたばかりの仁川(インチョン)空港に降りた。北の飛行機は珍しく、韓国の取材陣が待ち受けていた。青い光に浮かぶ新鋭ターミナルを窓から見て、乗務員の表情が陰る。別れ際、失礼を承知で当夜の宿泊地を聞くと、「このまま祖国に帰ります」と冷たく返された▼平壌―ソウルは、東京―長野ほどの距離だ。同じ民族が半島の南北に分かれ、いがみ合う不条理。塗炭の現代史の根っこで、日本も軽からぬ責めを負う。極東の安定に資する明るい日韓関係は、暗い過去に向き合わねば始まらない▼韓国併合から100年にあたり、菅首相が談話を出した。日本式の名前を押しつけるなど、国と文化を奪ったことに「痛切な反省と心からのお詫(わ)び」を表し、未来志向の付き合いを呼びかけた内容である。韓国大統領も喜んだという▼謝罪で始まる関係はそろそろ終わりにしたい。それには、先方の意に反して植民地にし、民族の誇りを傷つけた史実を直視するほかない。またぞろ保守派が「謝罪外交」などと言い出せば、進むものも進まない▼あの乗務員は南の発展をどう伝えただろう。いや、口外はできまい。すべては北の独裁者のせいだが、半島の変転に深く関与した国として、この地の将来に無関心ではいられない。日韓で手を携え、別の100年を紡ぎたい。


 同じ11日の社説は次のようなものだった。

併合100年談話―新しい日韓協働の礎に

 他国によって国を奪われ、母国語を自由に話せなくなり、戦地や工場に動員される――。そんな屈辱的で悲痛な体験を朝鮮の人たちに強いた日本による「韓国併合」から今月で100年である。

 菅直人首相はきのう発表した談話で「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明した。

 首相談話として初めて、植民地支配について「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々の意に反して行われた」と位置づけた。「民族の誇りを深く傷付けられた」とも述べ、韓国民の心情に思いを寄せた。

 共感できる認識だ。私たちも重く受け止めたい。

 植民地支配を正面から取り上げて「深く陳謝したい」と語った1993年の細川護熙首相発言に始まり、戦後50年の村山富市首相、同じく60年の小泉純一郎首相の両談話と続いた流れに沿った内容ではある。それでも、併合100年という節目に焦点を当て、国家指導者が歴史認識を語り、将来に向けた期待と方針をあらためて示したことには大きな意味がある。和解と信頼獲得にもつながってほしい。

 だが、自民党など野党だけでなく与党民主党内にも、談話発表に反対や慎重論があった。「決着済みの補償問題を蒸し返す」などという批判だ。保守系の議員グループは「国民や歴史に対する重大な背信だ」とする声明まで出していた。浅く、また見当違いの見方ではないか。

 これまで、首相談話を出しても、自民党や閣僚の中から、それを否定するような発言が出て、日本の真意はどちらかと、外から不信のまなざしを向けられることが繰り返された。もう、そんなことに終止符を打つべきだ。

 談話にある通り、勇気と謙虚さを持って歴史に向き合い、過ちを率直に省みることが必要だ。深い思慮に基づく冷静な言動を心がけてこそ、未来志向の関係を構築できる。

 そのためには、談話だけでなく、誠実な行動を積み重ねることが大切になる。その点で今回、日本政府が保管する朝鮮王朝の文書を韓国に渡すようにしたのは良いことだ。

 アジアにおいて日本と韓国は、最も手を取り合うべき間柄にある。中国の台頭、温暖化やエネルギーといった地球規模の課題を前に、その連携をさらに強めていかねばならない。

 談話に北朝鮮問題についての言及はなかったが、不安定な北朝鮮情勢に対応し打開していくためにも、日韓の協調がさらに求められる。

 両国は歴史や領土問題をめぐって、わだかまりをまだ抱えている。そんな問題をうまく管理し、和解と協働の新たな100年へ、この首相談話を礎石にしたい。


 天声人語の「同じ民族が半島の南北に分かれ、いがみ合う不条理。塗炭の現代史の根っこで、日本も軽からぬ責めを負う。」とはどういう意味だろうか。
 わが国が韓国を併合したことは事実だ。それを韓国民が屈辱の歴史ととらえるのは当然だろう。
 だが、南北分断について、わが国に何の責任があるというのだろうか。

 何故、朝鮮半島は南北に分断されたのか。
 それは、わが国の領土であった朝鮮を、米国とソ連が半々に占領したからだ。
 ソ連はわが国と中立条約を結んでいたにもかかわらず、大戦末期にこれを破って満洲、さらに北朝鮮に侵攻し占領した。そして米国もそれを容認し南半部のみを占領した。わが国が分断して占領してくれと頼んだわけではない。
 そして、韓国と北朝鮮が独立して60年以上が経つ。分断は東西冷戦の産物だが、冷戦が終結してからも20年ほどが経過した。その間の歴代の両国の指導者はいずれも韓国人(朝鮮人)なのだろう。とすれば、これまで統一できなかった責任は両国にあるのであって、わが国にはない。
 
 「謝罪で始まる関係はそろそろ終わりにしたい。それには、先方の意に反して植民地にし、民族の誇りを傷つけた史実を直視するほかない」というのも意味がわからない。
 「終わりにしたい」のなら終わらせればいいではないか。
 何故そのために「史実を直視する」必要があるのか。
 これまでにわが国は何度も謝罪してきたのではなかったか。
 何度「史実を直視」すればいいのだろうか。

「またぞろ保守派が「謝罪外交」などと言い出せば、進むものも進まない」
 「保守派」が謝罪を批判することが、障害だと言いたいのか。

 社説もこう述べている。
「これまで、首相談話を出しても、自民党や閣僚の中から、それを否定するような発言が出て、日本の真意はどちらかと、外から不信のまなざしを向けられることが繰り返された。もう、そんなことに終止符を打つべきだ。」
 せっかく首相が謝罪しても、他の政治家がそれを否定していては、日本の真意がくみ取られない。政治家は謝罪を否定するような見解を発表すべきでない。そうすれば、韓国も謝罪について文句の付けようがないだろう。
 こういう理屈か。

 しかし、わが国の言論は自由なのだし、韓国に対しても謝罪が必要という立場で国論は一致していないのだから、それを規制するというのは無茶な話だろう。
 また、仮に政治家の口を封じることができたとしても、一般国民はそうはいくまい。
 すると、やはり「日本の真意はどちらかと」疑われかねないから、一般国民の言動までもが規制されるということにならないか。

 朝日のホンネとしては、ドイツのように、ナチス礼賛が法で規制されるような社会にしてもらいたいのだろう。
 しかし、韓国併合は、何も生物学的にも文化的にも韓民族の消滅を企図したものではなかった。わが国とドイツを同列に論じてはならない。
 当時、先進国は当然のように海外領土を有していた。わが国だけが非難されるには当たらない。

 「決着済みの補償問題を蒸し返す」という批判が何故「浅く、また見当違いの見方」なのだろうか。
 現に朝日が評価している朝鮮王朝の文書については「引き渡し」なのか「返還」なのかが問題になったではないか。蒸し返しにならないよう政府が配慮したのだろう。
 それとも朝日は「蒸し返」したいのか?

「勇気と謙虚さを持って歴史に向き合い、過ちを率直に省みることが必要だ。深い思慮に基づく冷静な言動を心がけてこそ、未来志向の関係を構築できる。」
 謝罪批判は思慮の浅い感情論だと言わんばかりだが、本当にそう言い切れるのか。
 何だか知らないけど、うるさく言ってくるからとりあえず謝っておこう。
 そんな事なかれ主義による謝罪もまた、思慮の浅いものではないか。
 近年のわが国の韓国への対応とは基本的にそうしたものであり、だからこそいつまでたっても「未来志向の関係を構築」できないのではないか。
 「深い思慮に基づく冷静な言動」は確かに必要だ。だがそれは謝罪一辺倒と批判封じであってはならないだろう。

 韓国は最近、竹島について、わが国が「固有の領土」であるとの立場をとること自体を批判している。
 また、日韓併合条約が法的に無効であるとの見解をわが国にとるように求めている。
 どちらもわが国にとっておよそ無理な主張だが、朝日の言うようなスタンスで、こうした問題を解決することが本当にできるのか。

 私は、両国は早く「普通の国」同士の関係に成熟すべきだと思っている。
 歴史認識に介入するのは「普通の国」の関係ではない。 

金賢姫「元死刑囚」という呼称・補

2010-08-27 00:03:34 | マスコミ
 (前回の記事「金賢姫「元死刑囚」という呼称」はこちら

 検索してみると、この「元死刑囚」という呼称に違和感を覚える方はやはりほかにもおられるようだ。

 こちらのブログの「★「金賢姫・元死刑囚」という呼び方に違和感あり!」という記事は、今回の訪日ではなく、2009年3月に釜山で行われた拉致被害者家族と金賢姫さんと会見の際の報道での呼称をこうまとめている。

新聞・テレビといったメディアは、はたして金賢姫さんをどう伝えたか。

新聞社・通信社
・ 金賢姫元死刑囚 ‥‥ 読売  朝日  毎日 (日)   朝鮮  中央 (韓)   AFP (仏)

・ 金賢姫元工作員 ‥‥ 産経 (日)   東亜  聯合 (韓)   ロイター (英)

・ 元北朝鮮工作員 ‥‥ 共同  時事 (日)

テレビ局
・ 金賢姫元死刑囚 ‥‥ NHK  日本テレビ  フジテレビ  TBS (日)   KBS (韓)

・ 金賢姫元工作員 ‥‥ テレビ朝日 (日)


 してみると、今回、読売新聞や日本テレビ、TBSは「元死刑囚」から「元工作員」に改めたことになる。


 産経新聞ソウル支局長黒田勝弘による以下の記事には大いに共感した。

【から(韓)くに便り】ソウル支局長・黒田勝弘 金賢姫氏はつらい? 2010.8.6 02:57

 日本人拉致問題に関連し金賢姫(キム・ヒョンヒ)・元工作員が先ごろ、日本政府の招きで日本を訪れた。日本ではマスコミで大きな話題になり、帰国後もその待遇ぶりが国会で取り上げられるなど、話題が続いた。

 ソウルから見ていて、まずマスコミでの彼女の“肩書”が気になった。産経新聞は昨年から「元工作員」としているが、NHKや朝日新聞、毎日新聞などかなりのメディアが依然として「元死刑囚」と報道していた。これはおかしいと思う。

 周知のように、彼女は北朝鮮による大韓航空機爆破事件(1987年)の犯人として逮捕され、韓国で死刑判決を受けたが、後に特別赦免となり、今にいたる。赦免されたのは、彼女が北朝鮮の国家テロの“生き証人”だからだ。

 テロ工作員だった彼女は、その詳細な自白によってテロ国家・北朝鮮の実態を初めて世界に暴露した。そして罪を悔い、その余生は北朝鮮の非道な体制を糾弾し、変えるためにあると覚悟し、生きてきた。いや生かされてきた。

 したがって彼女は、北朝鮮の「元工作員」だから意味があるのであって、「元死刑囚」だからではない。まして日本人拉致問題でいえば、「元工作員」だからこそ関心の対象になっているのではないか。

 無意味な「元死刑囚」はやめてほしい。ちなみに韓国のマスコミは「氏」や「さん」にあたる「シ」を使い「キム・ヒョンヒ・シ」と呼んでいる。

 「金賢姫氏」にとって今回の日本訪問は、つらい結果になった。彼女を招いた中井洽(ひろし)国家公安委員長(拉致問題担当相)をはじめ、日本政府の“仕切り”が実にまずかったからだ。

 彼女の姿を絶対外部に見せないなど、極端過ぎる秘密主義はマスコミや世論の反感をかった。拉致問題は国民的関心の支えがあってここまできたのではなかったのか。

 政府招待なら当然、記者会見などで彼女を国民に紹介すべきだろう。にもかかわらず一部のテレビとだけインタビューというのでは、他のメディアは当然、反発し、すべてに批判的になる。

 鳩山由紀夫前首相の軽井沢別荘での滞在やヘリコプター遊覧も、姑息(こそく)すぎる。すべて警備上の理由と言い訳するだろうが、あの極端な秘密主義は、木を見て森を見ない、それこそ民主党政権が忌み嫌ってきた役人的発想だ。金銭問題の雑音をふくめ、結果的に彼女の日本訪問にキズを付けることになってしまった。

 彼女に“罪”はない。

 彼女は拉致日本人の田口八重子さんの存在を証言したが、日本人拉致問題の解決に力になりたいと心から思っている。被害者家族を慰労、激励し、支えてあげたいと、心から願っている。

 その意味では日本の多くの国民と気持ちは同じなのだ。それが「生かされている自分」の役目のひとつと考えている。

 今回の“金賢姫騒ぎ”をめぐって日本では、民主党政権批判(?)のあまり「テロ犯の日本入国許可はおかしい。日本はテロに甘い」などといった声まで出ていたという。これまた、木を見て森を見ない話だ。

 金賢姫・元工作員は、日本人拉致問題解決など「テロとの戦い」の生き証人であり、貴重な協力者なのだ。北朝鮮問題は彼女のことを抜きには語れない。


 韓国のマスコミが一般に敬称をどう扱っているのかわからないので一概に比較はできないが、「工作員」という正式な職業があるわけではないのだから、韓国と同様、「金賢姫氏」あるいは「金賢姫さん」で問題ないのではないかと私は思う。

吉田茂のルーズベルト陰謀論

2010-08-26 08:52:12 | 大東亜戦争
 ルーズベルト陰謀論というものがある。
 ルーズベルト大統領は暗号解読により事前にわが国の真珠湾攻撃を知っていたが、第二次世界大戦に参戦する口実を得るために、敢えて対策をとらずに攻撃を受け損害を被るにまかせた。その上でわが方を「騙し討ち」と非難し、国論を参戦で統一したのだ――というものだ。

 真珠湾攻撃については、わが国外務省の不手際により開戦通告が遅れたという問題があるわけだが、こうした陰謀論者の中にには、ルーズベルトは事前に知っていたのだから通告の遅れなど問題ではないとする者がいる。
 また、米国こそが開戦を望んだのでありわが国は心ならずも開戦するように仕向けられたのにすぎない、わが国こそが被害者であるという主張の補強としてもこうした陰謀論が用いられることが多いようだ。

 真珠湾攻撃の被害の甚大さとその後の米国の行動から考えて、知っていたのに放置したとは常識的に見ておよそ成り立たない判断だろう。
 また、仮に知っていたとしても、わが国の開戦通告に不手際があったという事実は揺るがない。ルーズベルトが知っているとわが国は知らなかったのだから、わが国に通告義務があることには何ら変わりなく、それでわが国の不手際が相殺されるわけではない。
 そして、米国に開戦するように仕向けられたのだとしたら、わが国首脳陣はそれにまんまと乗せられて、主体性も何もなくただひたすら米国の掌の上で転がされていたにすぎない、愚か者の集団だったということになる。先人をそれほどまでに貶めるのが彼らの趣味なのだろうか。
 ルーズベルト陰謀論を唱える者は、いったい何を考えているのか理解に苦しむ。

 ところが、かの吉田茂元首相もまた、米国は真珠湾攻撃を事前に知っていたとの印象を受けていると述懐していることをしばらく前に知り、大変驚いた。
 あまり知られていない話ではないかと思うので、紹介したい。

 中公文庫に吉田茂著『日本を決定した百年』という本がある(タイトルとなっている「日本を決定した百年」という論文は、巻末の粕谷一希による解説で、実は高坂正尭による代筆であることが明らかにされている)。
 この本に、「思出す侭(まま)」というエッセイが併録されている。これは首相を辞任した翌年の1955年の7月から9月にかけて『時事新報』夕刊に連載されたもので、粕谷によると、「記者のまとめたものであろうが、吉田さんの肉声が聞こえるような気がする」という。
 この「思出す侭」の第7回に、真珠湾攻撃についての言及がある(以下、太字は引用者による)。

 さて真珠湾攻撃は世に奇襲作戦なりと喧伝せらるるも、米国側はわが方の電報を解読しそのことあるを知悉せるものの如く、ただ当時米国国内にあってもなお戦争反対の空気が強かったため国論を統一する必要から敢えて攻撃を甘受したのだ、というのが真相だとする説がある。私が在職中来朝した某米国政府要人も真珠湾攻撃を事前に知っていたと語っていたが、私もそれが本当のような気がする。(p.191-192)


 吉田はその根拠として、1954年に訪米した際に立ち寄ったホノルルで、現地の運転手から「あれがパール・ハーバーだ」と「得意げに説明」されたこと、また海軍士官も「あれがパール・ハーバーだ」と指して「分ったかといわぬばかりの顔つきを」していたことを挙げ、

 勿論その運転手も若い士官も私が日本の首相であることを承知してのことであり、珍客? にハワイの名所? を教えてやろうとする親切心からだとは思うのであるが、聞く方はうんざりする。そこで私は、これらの人々が奇襲をされ、しかも相当な被害を受けたいわば負け戦の場を攻撃した国の者に誇らしげに(少くとも私にはそう見えたが……)指さすあたりは「攻撃されることは百も承知していたのだ」といわんばかりの風情であったと思えてならない。この私の見方はあるいは僻み心のせいかも知れない。しかしこれらのことを抜きにして、真珠湾攻撃は決して奇襲ではなかったと信ずるこの気持は、今なお払拭出来ないのである。
 もう一つ附け加えたいことは真珠湾の〝奇襲〟を受けた当の責任者たる太平洋艦隊司令長官キング大将が、その故をもって軍事裁判に附されながら、結局処罰が非常に軽かったという一事である。勿論真相は局外者にわかることではないが、キング司令長官が予定の犠牲者であったためではないかと私には思われるのである。(p.192-193)


と述べている。

 司令長官のキングとはキンメルの誤りだろう。
 ウィキペディアによると、キンメルはハワイ方面陸軍司令長官だったウォルター・ショート中将とともに12月17日付けで司令長官を解任され、予備役少将へ降格されたという。キンメルは合衆国艦隊司令長官も兼任していたがその後任はアーネスト・J・キング大将が就き、太平洋艦隊司令長官の後任にはニミッツ少将が大将に昇進して就任したという。

 大将が少将に降格されて予備役入りという処分が、「非常に軽かった」のかどうか、私は軍の昇進システムに通じていないのでよくわからない。ただ、勝てる戦いを失策で負けたというのならともかく、真珠湾攻撃は「騙し討ち」だったのだから、キンメルの責任はそれほど重いものではないだろうし、厳重処分が下されたのなら酷ではないかと思える。
 ちなみに、負けいくさを戦ったわが軍において、将官クラスが責任をとって降格させられたとは寡聞にして聞かない。出世した者はいるようだが。
 
 某要人が事前に知っていたと語ったり、ハワイの人々が「攻撃されることは百も承知していたのだ」といわんばかりの風情であったのが仮に事実だとしても、それは緒戦で手ひどくやられたが、最終的には勝利したという余裕から来るある種の負け惜しみではないだろうか。
 吉田が挙げている理由はどうにも弱いように思う。

 ただ、吉田においてすらそのような感触をもったことは事実なのだろうし、それほど真珠湾攻撃による快勝とその後の大敗との落差は大きかったのだろう。
 そして、注目すべきは、吉田はここで何一つ米国に対して非難がましいことを口にしていないことだ。
 それは吉田のような大戦時を過ごした者には当然の感覚だったのだろう。
 仮に米国が真珠湾攻撃を知っていたとしても、それは米国の優れた諜報活動を讃え、わが国の機密漏洩を批判するということにはなるだろうが、わが国が米国を道徳的に非難できる筋合いの話ではない。
 米国民からは、あれほどの犠牲を払って日本から開戦させる必要があったのかという非難が生じる余地はあるだろう。だが、わが国にそんなことを言える筋合いはない。
 知られていたのなら、知られていながら知られていることにも気付かず開戦に踏み切ったわが方が愚かだった。そういう結論にしかならないはずだ。

 米国は真珠湾攻撃を知っていたとの印象を持っていた吉田茂も、後世、日本は悪くない、悪いのは米国だとする主張の論拠としてこの種の説が用いられるとは予想だにしなかったことだろう。


天皇は靖国神社に「行幸」はしても「参拝」はしない?

2010-08-22 09:31:53 | 「保守」系言説への疑問
 無宗ださんの記事「天皇陛下は靖国神社に参拝するか?」によると、今年7月3日に発行されたメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻3011号に掲載された「読者の声」に、天皇陛下が靖国神社に「行幸」することはあっても「参拝」することはありえないと述べられているという。
 興味深い話である。
 メルマガ本体から問題の「読者の声」の部分を引用する(太字は無宗ださんが記事中に引用している箇所)。

(読者の声1)以前から気になっていましたが、天皇陛下の寺社への行幸に関しての世上に広がっている大きな誤解をまたみてしまいました。しかも、天皇と皇室に関しての誤解を解くこと標榜しているメルマガの中です。
斎藤吉久氏の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.143にある以下の部分です。これは、日本人の多く、そして真正保守の日本人言論人の多くも冒している間違いなので指摘させてください。
(引用はじめ)
「たとえば昭和7年のいわゆる上智大学生靖国神社参拝拒否事件のとき、学長の代理として陸軍省当局におもむいた丹羽浩三の回想(『未来に向かって』所収)は、大きな示唆を与えてくれます。
小磯大将(丹羽の回想では陸相だが、次官の誤りと思われる)が「天皇が参拝する靖国神社に参拝しないのは不都合ではないか」と詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は何か」と逆に問いかけたのでした。「日蓮宗だ」と小磯が答えると、丹羽は重ねて「浄土真宗や禅宗の寺院に参拝するか」と質し、小磯が「他宗の本山には参拝しない」と返答すると、「陛下はどの本山にも参拝します」という問答が重ねられ、やがて小磯は「書生論を取り消します」と切り上げたというのです。
(引用終り)

天皇陛下がどこかを訪問されることを「行幸」といいます。つまりこれは天皇陛下向けの「訪問」の尊敬語です。訪問先で「拝む」場合、一般人の場合は、「参拝」といいますが、天皇陛下の場合敬語表現で「親拝」(シンパイ)あるいは「御親拝」(ゴシンパイ)ともいいます。
尊敬語か一般語かの違いを除いて、字義の上での本質的な違いは、行幸は単なる訪問であり、相手に対して挨拶として会釈をお行いになられ、参拝(親拝ないし御親拝)では、90度の礼をして拝まれます。
「挨拶」と「拝」は本質的な違いです。
天皇陛下は、参拝あるいは親拝、御親拝を天皇家のご先祖様の祀られているところ(神社あるいは御陵)に対してしかなさいません。これは現御神として地上における天照大御神様の代理である天皇として当然のことです。
靖国神社を天皇陛下が行幸(訪問)されるときは、地上おける天照大御神様の現われとして、英霊達の功を嘉したまえます。
英霊達を天照大御神様が拝むはずはありません。したがって天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。
サイパンで韓国系日本人が崖から飛び降りて自決なされたところを行幸された天皇陛下の写真をご覧になれば、90度の礼つまり拝ではなく会釈をなされていたことがわかります。御霊様も天照大御神様の現世での現われである天皇陛下の会釈をこそ歓ばれたことと確信致します。
それを「参拝」と書いた新聞の不見識は言語道断です。天照大御神様に拝まれたら英霊も韓国系日本人自裁者たちも恐縮のあまり昇天できないことでしょう。
このことを理解すれば、富田元宮内庁長官のメモにあった「参拝」の主語が天皇陛下でないことも、天皇陛下が寺社を行幸されたときに会釈されることが参拝でないことも明白です。
「行幸」と「参拝(親拝、御親拝)」の違いが戦前の小学生用教科書に書かれているのを読んだことがあります。それを小磯氏も丹羽氏も斉藤氏も忘れてしまわれたのでしょう。
Y染色体は男系、ミトコンドリアは女系で伝わると高校の生物の教科書の書かれていることを有識者会議とよばれた老人ボケ者の集まりの参加者達が知らなかったのと同様です。
また、宗旨によって信仰の対象が、釈迦、阿弥陀、エホバ等とことなるに反して、全ての日本人が崇敬する対象の天照大御神を配する神道という日本の伝統を区別することができなくなります。
これは中国から日本に到着したばかりのシナ人が生活保護を受けるのを容認することと同様です。
こういったことを区別できるエントロピーの高い意識を持つことが、今後日本が生き残る必須の要件です。
  (ST生、千葉)


 無宗ださんは、

この「読者の声」に書かれた内容を読み、直感的に正しい情報だと感じる。


としながらも、

しかし、これらの内容はどのようにして裏づけすればいいのだろうか?
なにしろ、靖国神社のWEBサイトにおいてすら、
明治天皇が初めて招魂社に参拝された折に
との表現が見られるのだから。


として、同サイトの記述を挙げた上で、

個人的な感触として、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が適切である可能性よりも、
「読者の声」に書かれた内容が正しく、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が不適切である可能性が
圧倒的に大きいと考える。


と結んでいる。

 なかなか面白い点に目を付ける方がおられるものだ。
 検索してみたが、同様の主張は見つからなかった。この千葉のSTさん独自の見解だろうか。

 富田メモの参拝云々の記述とは、よく知られた、これのことだろう。

だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ


 天皇陛下が「参拝」などという言葉を使うはずがない、だからこの「私」は陛下ではない、と言いたいのだろう。
 これが本当に天皇の発言なら、

だから 私あれ以来行幸していない
それが私の心だ
 

となるはずだとでも言いたいのだろうか。

 しかし、「行幸」とは、この千葉のSTさんも書いているように、天皇がどこかへ行くということを、敬意をもって表現する場合に用いられる。
 つまり、天皇の周囲をはじめ、国民一般が用いる言葉ではあっても、天皇自身が用いる言葉ではない。
 したがって、「私あれ以来行幸していない」などという発言は有り得ない。

 そして、天皇の靖国「参拝」とは、新聞に限らず、左右を問わず幅広く用いられてきた表現である。
 それが正しくないとすれば、これまでの先人たちは皆、目が節穴だったということになる。
 そんなことがあるものだろうか。

 無宗ださんは「直感的に正しい」と感じたそうだが、私はまずそのような疑問を抱いた。

 手元にあった大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984)を開いてみた。
 本書の第三章「靖国神社信仰」の冒頭に、靖国神社の前身である招魂社の時代に、明治天皇が全国各地の神社を訪れた記録が『明治天皇記』から列挙されている。
 これによると、招魂社には三回「御拝」している。
 この間、ほかに三回の「御拝」があったのは、賀茂両社(上賀茂・下鴨)と氷川神社のみであるという。大江は、これはいずれも社格制度の制定とともに官弊大社に列格された、京都と東京の総鎮守であり、天皇が両京から移動するたびに「御拝」しているから、「招魂社の位置づけがいかに大きなものであったかが知られる」という。
 また、格下の神社においては、「御拝」ではなく「一揖」(いちゆう)と記されているという。一揖とはYahoo!辞書(大辞泉)によると「軽くおじぎをすること。一礼。」とあるから、社格による扱いの差は確かにあったのだろう。しかし招魂社には「御拝」しているのだ。

 さらに、靖国神社に改称されてからは、天皇は「親拝」したとの表現を大江はとっている。そして招魂社時代の三回の「御拝」も「親拝」に含めて計上している。
 この「親拝」という表現の根拠は明記されていないが、何かしらあるのだろう。

 大江は天皇の靖国「親拝」を次のようにまとめている。

 すでにのべたように、明治天皇の靖国神社「親拝」は、招魂社時代に三回、日清戦争後の臨時大祭の二回、日露戦争後の臨時大祭に二回、合計七回であった。
 招魂社時代は別として、日清戦争後、日露戦争後の「親拝」時の服装はいずれも陸軍式の通常礼装であり、大元帥としての資格における「親拝」であった。〔中略〕
 大正天皇の「親拝」は、二回であった。第一回は、一九一五(大正四)年四月二九日、第一次世界大戦(日独戦争)戦死者合祀の臨時大祭である。第二回は、一九一九年五月二日、靖国神社創建五〇周年に際してである。なお、一九二五年四月二九日、第一次世界大戦とそれに引きつづくロシア革命干渉のシベリア出兵の戦没者合祀の臨時大祭に、大正天皇の摂政として現在の天皇が参拝している。
 現在の天皇の「親拝」は、一九二九(昭和四)年四月二六日、山東出兵の戦没者合祀の臨時大祭が最初である。第二回目の「親拝」は、一九三二年四月二六日、満州事変・第一次上海事変の戦没者合祀の臨時大祭である。第三回が翌年四月二六日、おなじ事変の戦没者合祀の臨時大祭である。以後、太平洋戦争開始前の一九四一年春の臨時大祭までに第一二回目の「親拝」が行われている。とくに日中戦争が本格化して以来、一九三八年四月二六日に日中戦争関係者合祀の最初の臨時大祭に「親拝」して以後、毎年の春秋の臨時大祭への「親拝」がおこなわれるようになった。このことは、太平洋戦争開始後も変わらなかった。(p.132-133)



 では、「親拝」の内容は、どのようなものだったのだろうか。
 これについても、次のような記述がある。

 「親拝」の具体的形式については、一九三八年四月から一九四五年一月まで靖国神社宮司の職にあった陸軍大将鈴木孝雄(敗戦時の総理大臣・海軍大将鈴木貫太郎の実弟)が「靖国神社に就て」(『偕行社記事 特号(部外秘)』第八〇五号、一九四一年一〇月)と題する文書で紹介している。〔中略〕
 これによると、天皇「親拝」のときは、大臣以下供奉の全員はすべて本殿の廊下にとどまり、天皇は侍従長だけを随えて本殿の御座につき、「御拝」をするという。天皇の玉串は、宮司がこれを侍従長に捧呈し、侍従長はそれを天皇に奉り、天皇はその玉串を暫し手にしてもっとも鄭重な「御拝」をする。相当に長い時間の「御拝」であるという。そののち、玉串を侍従長に手渡し、侍従長はそれを捧げて宮司に手交し、宮司はそれを頂戴して階段を上り、神前に捧げる。
 天皇の「親拝」すなわち公式参拝は以上のような形式で行われた。(p.134-135)


 「御拝」なのだから、90度だかどうだか知らないが、拝むのであって、会釈ではないだろう。
 それも、「相当に長い時間」。

 したがって、

天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。


といった千葉のSTさんの主張は、勝手な思いこみによる誤りか虚言である可能性が極めて高いと考える。

出入国管理法の「上陸の拒否の特例」について

2010-08-09 23:49:15 | 現代日本政治
 以前の記事で述べたように、先月訪日した金賢姫は、出入国管理及び難民認定法上は上陸拒否の対象であるが、同法に規定された「上陸拒否の特例」を千葉景子法相が適用したことにより、上陸が認められた。
 この特例は昨年の同法改正で設けられた条項で、千葉法相の就任後では初の適用だという。


(上陸の拒否)
第五条  次の各号のいずれかに該当する外国人は、本邦に上陸することができない。
〔中略〕
四  日本国又は日本国以外の国の法令に違反して、一年以上の懲役若しくは禁錮又はこれらに相当する刑に処せられたことのある者。ただし、政治犯罪により刑に処せられた者は、この限りでない。

(上陸の拒否の特例)
第五条の二  法務大臣は、外国人について、前条第一項第四号、第五号、第七号、第九号又は第九号の二に該当する特定の事由がある場合であつても、当該外国人に第二十六条第一項の規定により再入国の許可を与えた場合その他の法務省令で定める場合において、相当と認めるときは、法務省令で定めるところにより、当該事由のみによつては上陸を拒否しないこととすることができる。


 この第5条の2は、どうして新設されたのだろうか。
 1年以上の懲役に処された刑事犯を敢えてわが国に上陸させなければならない事態とはどういうものなのだろうか。

 検索していたら、拉致被害者とその家族を支援するという掲示板「蒼き星々」で、こんな記述を見た。


第五条の二「上陸拒否の特例」と第12条「裁決の特例」 投稿者:のんき 投稿日:2010年 7月20日(火)20時34分54秒

 今回キムの入国には、入管法(出入国管理及び難民認定法)の第五条の二の「上陸拒否の特例」が使われています。この条文は昨年の法改正で挿入されたものです。

「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律(平成二十一年法律第七十九号)」
 2009/3/6閣法として衆院に提出4/23法務委員会付託6/19可決。6/19本会議可決。(自民公明民主賛成、社民反対)参院法務委員会7/7可決本会議7/8可決7/15公布となっています。

 附則第1条第3号で公布後1年を越えないで施行となっていて、2010年7/1に施行されました。ほやほやです。

 衆院法務委員会の議事録を調べてみましたがこの条文を挿入した理由の説明も質問もありませんでした。当時は麻生内閣で森法相です。元入管所長が「国際テロ犯の入国は認められない」と反発しているようにたぶん抵抗は強かったんだろうと思います。この条文はキムヒョンヒに初適用されています。すでに入国準備は1年以上前から始まっていたと思われます。

 なお、ミックジャガーやシュワちゃんの場合は次の様な手続きを踏みました。
(1)上陸申請(第6条)を行ない
(2)入国審査管が審査(第7条)を行なって第5条の上陸拒否理由に該当する場合は特別審査官に引き渡し
(3)口頭審査(第9条)が行われ上陸条件条件に適合していないときは適合していない事と異議申し立てが出来る旨を告げられる。
(4)入国者が異議申し立てをすると法務大臣が裁決をする(第11条)
(5)異議申し立てに理由がなくても「法務大臣が特別に上陸を許可すべき事情があると認めるとき。」は「上陸を許可することができる」(第12条)

 従来は12条「裁決の特例」での入国です。キムの場合はこの手続きの前、「上陸拒否の特例」で入国しています。


 私も衆院法務委員会の議事録を調べてみたが、たしかに触れられていない。
 触れると目的を明らかにせざるを得なくなるから、敢えて伏せられたのだろうか。
 そして金賢姫の訪日は民主党政権ではなく、麻生内閣から準備されていた話なのだろうか。

 しかし、もう少し調べてみると、そうではないことがわかった。

 行政書士の方による「入管と日本のビザに関するブログ」というブログに、次のような解説があった。

◆今回の改正は,在留カードによる外国人管理制度という管理の厳格化(=ムチ?)と外国人の入国在留手続の利便性の向上(=アメ?)の抱き合わせだと,よく評されま
す。そのアメの部分の一つといわれるのが第5条の2の新設です◆

〔中略〕

☆解説☆
 この条文の新設は,これまで「上陸特別許可」という手続でしか上陸・入国を認められていなかった外国人につき一定の事由(法務省令で定める場合・・・婚姻ケースなど人道的理由)がある場合,上陸審判手続き(退去強制手続と同様の認定~判定という段階的な手続)を経ず,通常の上陸審査手続で上陸できるとしたものです。
 法務省令で定める場合=人道ケースが何かという基準についてはいまだ公表されていませんが,これまでの実務上の取扱に従ったものとなりそうです。すなわち,例えば子供無し夫婦の場合上陸特別許可を得るための在留資格認定証明書の申請は,退去強制から二年を経過かつ婚姻から二年を経過という線引きがされており,それをクリアしていないと交付の方向での審査は行われない(入国管理局内部の通達による取扱)というのが実情でした。
 おそらく,改正法による「上陸を拒否しない」という基準もその辺に落ち着くのではと識者の間では言われています。

 では,退去強制歴のある外国人配偶者を日本に呼寄せるのが簡単になるのか?
 答えはほぼNo!でしょう。上陸審査を受ける前提としての査証,その査証発給の前提としての在留資格認定証明書交付申請についての審査は,やはり退去強制歴の無い人より厳しく行われるでしょうし,昨今,箱物興行ビザの事実上の廃止に近い取扱から一部の国の人たちの偽装結婚が増加傾向にあるともいわれていますので,婚姻の信憑性立証には十分説得的な資料を提出する必要が高まっているという傾向があります。したがって,申請手続きそのものは決して楽になるとはいい難いと思います。

 もっとも,基準が明示されることにより,これまで何かと一般人には不透明であった配偶者案件の上陸特別許可(新法では特別許可でなく,ただの上陸許可となりますが)がわかりやすくなったというメリットはあります。また,在留資格認定証明書に上特が付記された場合は形式的なものであるといっても上陸口頭審理を受けるという,そのこと自体,当の外国人には心理的な負担になっている面もあったでしょうが,改正法施行後は一般人と一緒にパスポートコントロールを通って上陸できるのでその辺のプレッシャーは解消されます。

★参照条文=上陸特別許可★
(法務大臣の裁決の特例)
第十二条
 法務大臣は、前条第三項の裁決に当たつて、異議の申出が理由がないと認める場合でも、当該外国人が次の各号のいずれかに該当するときは、その者の上陸を特別に許可することができる。
一 再入国の許可を受けているとき。
二 人身取引等により他人の支配下に置かれて本邦に入つたものであるとき。
三 その他法務大臣が特別に上陸を許可すべき事情があると認めるとき。
2 前項の許可は、前条第四項の適用については、異議の申出が理由がある旨の裁決とみなす。

≪この裁決の前提として,上陸審査,上陸口頭審理のプロセスがあります≫



 つまり、上陸拒否の対象者に対し、法務大臣の裁量により上陸を許可する制度はこれまでにもあったが、そのプロセスが簡略化されたということか。

 別の行政書士の方のサイトには、昨年の法改正の解説が載っていたが、そこではこのように。


8.上陸拒否の特例に係る措置【施行日:公布日から1年以内】
 上陸拒否事由に該当する特定の事由がある場合であっても、法務大臣が相当と認めるときは、上陸を拒否しないことができる規定を設けます。例えば、不法残留によって退去強制された外国人が日本人と婚姻し、かつその日本人が当該外国人の本国を何度も訪問したなど婚姻の実体がある場合、上陸拒否期間中(5年又は10年)であっても上陸特別許可が認められ、在留資格「日本人の配偶者等」が与えられることがあります。このような外国人は、その後の再入国の際、上陸を拒否されません。


 別に金賢姫の上陸を想定して設けられた条文ではなさそうである。
 ただ、施行のタイミングから、たまたま金賢姫が最初のケースとなったということなのだろう。

日本にはマレーシアを独立させるつもりはなかった

2010-08-08 03:56:53 | 大東亜戦争
 以前、ラジャー・ノンチックについての記事を書いていて、ふと疑問に思った。
 1943年に東京で大東亜会議が開かれている。大東亜共栄圏内の各国首脳が一堂に会し、連合国側の大西洋憲章に対抗した大東亜共同宣言を採択した。
 参加した首脳は、
・日本 東條英機首相
・満洲国 張景恵首相
・中華民国(南京国民政府) 汪兆銘首相
・フィリピン ホセ・P・ラウレル大統領
・ビルマ バー・モウ首相
・タイ ワンワイタヤコーン殿下(ピブン首相の代理)
・インド チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班(オブザーバー)
の7名。

 ノンチックの出身地である英領マラヤからは参加していない。
 何故だろうか?

 英領マラヤは、シンガポールなどの「海峡植民地」と呼ばれた英国の直轄地と、19世紀末に成立した保護国群であるマレー連合州、そして20世紀以降に英国の支配下に置かれたマレー非連合州と呼ばれたスルタン国群の3地域に分かれていたと聞く。
 そのため、ビルマやフィリピンとちがって一体性を欠いており、また独立後の首班となるべき人物も存在しなかったのかもしれない。
 その程度に思っていた。

 しかし、しばらく前に井口武夫『開戦神話』(中央公論新社、2008)を読んでいると、次のような記述に出くわした。
(余談だが、この著者は対米英蘭戦開戦当時に駐米大使館参事官を務めた井口貞夫の子息であり、本書は大使館側の怠慢により開戦通告が遅れたとする「神話」の解体を企図したものである。ただ、それが全面的に成功しているとは言い難い読後感を受けた)

 四三年十一月の五日と六日、東京にアジア各地から指導者を招き、戦争完遂および大東亜共栄圏の確立に彼らの協力を求める大東亜会議が開催された。しかし日本の大東亜共栄圏樹立決意を世界に宣伝するこの会議の背後で、政府は極秘でアジア民族の解放という美名に反する目的を採択していた(波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会)。
 極秘の方針とは五月末に正式採択された以下の内容である。「大東亜政略指導大綱」で占領地域に対する方策として、「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力之が開発並に民心把握に努む」。現在のインドネシア、マレーシア、シンガポールは日本の領土に併合するというものである。


 これは初耳だった。
 領土とするつもりなら、そりゃあ独立国並みに扱うはずもないよな。

 その後読んだ江藤淳・編『終戦史録』(北洋社、1977)の1巻に、この「大東亜政略指導大綱」の全文が収録されていた(以下、太字は引用者による)。
 この大綱は昭和18年5月31日の御前会議で決定されたのだという。
 「第一 方針」と「第二 要領」の2部に分かれており、「第二 要領」は「一、対満華方策」に始まり「二、対泰方針」(泰はタイ)「三、対仏印方策」「四、対緬方策」(緬はビルマ)、「五、対比方策」(比はフィリピン)と続く。
 そして、

六、その他の占領地域に対する方策を左の通り定む。
 但し、(ロ)(ニ)以外は当分発表せず。
 (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む。
 (ロ)前号各地域においては原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ。
 (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては前二号に準じ追て定む。
 (ニ)前記各地においては当分軍政を継続す

七、大東亜会議
 以上各方策の具現に伴い本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国の指導者を東京に参集せしめ牢固たる戦争完遂の決意と大東亜共栄圏の確率を中外に宣明す。(前掲『終戦史録』1巻、p.98)


とある。
 この七に基づいて、1943年11月に大東亜会議が開かれたのだろう。

 先に挙げたノンチックは「南方特別留学生」としてわが国に留学したのだが、これもまた「民心把握に努む」の一環だったのだろうか。
 そしてそれは、ゆくゆくは「原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ」となったのかもしれないが、しかし、「帝国領土と決定し」「当分軍政を継続す」るのだから、独立するのは容易なことではなかっただろう。
 そういえばシンガポールは「昭南特別市」と改称されて軍政が敷かれたのだったなあ。

 井口は次のように書いている。

 たしかに当時の大日本帝国にとっては台湾と朝鮮半島が虎の子であり、これらの日本の旧植民地支配を継続するのに、上記諸地域を同等の新植民地にするという立場があったかもしれない。しかしこれでは戦争中大いに宣伝した、上記諸地域を欧米の植民地支配から解放し、その独立を助ける正義の聖戦であるとは到底いえない。戦争に勝てば東南アジアに日本の植民地を設けるという極秘の国策を、大東亜会議の五カ月前、五月三十一日の御前会議において決定していた事実にこそ、大東亜戦争の本質が表れている。戦略資源の自給自足体制の確立を急ぐ日本の本音が正確に反映されていたといえないだろうか。(『開戦神話』p.76)


 どの国でも、自国の権益拡大のために邁進するものである。スローガンと実際の意図するものが全て一致しているとは限らない。
 わが国が、大東亜共栄圏の美名を掲げながら、その実、資源獲得のために他国が開発済みの植民地を奪ったのだとしても、それは当時の状況から言って必ずしも非難すべきことだったとは思わない。
 しかし、こうした事実がある以上、

かつて 日本人は 清らかで美しかった
 かつて 日本人は 親切で心豊かだった
 アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた


といったノンチックの詩の一部を引用して事足れりとしていてはならないだろう。

 大東亜戦争は植民地解放を唱えてはいたがそれは本来の目的ではなく、何よりもまず資源獲得のための戦争であった。
 まずはその認識から出発するべきだろう。


わが国は日中戦争に「引きずり込まれた」か

2010-08-07 09:35:53 | 大東亜戦争
 しばらく前に、「偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」」というYahoo!ブログで、「日本を戦争に引きずり込め ~ 盧溝橋事件」という記事を読んだ。

昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発します。北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と支那国民革命軍第二十九軍との衝突事件です。これは支那共産党の策略と見て間違いなく、前年の西安事件によって蒋介石は命を助けてもらうかわりに抗日に同意し、共産党員らが早く決起するよう煽り立てたものでしょう。

盧溝橋事件より前に支那二十九軍は日本軍を各個撃破する計画をたてており、これは盧溝橋事件後に日本軍が計画書を発見しています。支那二十九軍は5月から増兵、トーチカなどの整備にあたっていました。副参謀の張克侠(共産党員)は積極的に日本軍撃滅を考えていました。張克侠は最終的には満州攻略を考えており、この計画を支持していたのが、共産党の指導者である劉少奇書記です。

この事件発生後、日本軍の憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが土砲と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事件拡大を策していたことが判明しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指導を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書にしるしてあります。

モスクワのコミンテルン本部は盧溝橋事件勃発をうけ、次のような指令を発しました。
1.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならない。
2.右目的の貫徹のため、あらゆる手段をりようすべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼等に行動をおこさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち判らしめなければならない。
・・・

共産党員はこの指令に基づいて幾度も停戦協定をやぶり、日本からの和平の働きかけを悉く壊していったのでした。


 ホントかしら。

 この人が「参考サイト」として挙げているウィキペディアの「盧溝橋事件」という項目には、

1発目を撃った人物
日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとの見方が大勢である。
 

という記述もあるのだが。

 この人にとって、「参考」とは、自説を補強する記述のみを引用し、自説に反する記述は無視する、つまり「つまみ食い」を指すらしい。

 盧溝橋事件は偶発だったのだろうと、私も思う。
 わが国は計画的に中国に攻め入ったわけではないのだろうと。

 しかし、これを契機に、満洲のみならず華北をも手中に収めようと画策する者は、わが国の指導者層にも当然いたことだろう。
 そして、国民の多くもそれを支持したのだろう。

 盧溝橋事件は偶発だ、わが国は計画的に中国に戦争を仕掛けたのではないという主張は以前からあった(例えば、1980年代に問題になった奥野発言)。
 しかしながら、わが国はコミンテルンの陰謀により心ならずも戦争に引きずり込まれたのだ、中国側こそが戦争を望んでいたのであって、わが国は被害者だという主張は、以前は耳にしなかったように思う。
 限られた場所ではあったのかもしれないが、声高に語られることはなかったように思う。
 声高に語られるようになったのは、ネットが普及するとともに、「つくる会」のような歴史見直しの気運が高まった、1990年代半ば以降のことではないだろうか。

 どんどん兵を進めて、主要都市を制圧した側が、「引きずり込まれた」、被害者だとはいったいどういう言い草だろうか。
 当時を知る人が多かった時代には、恥ずかしくて公然とは言えなかったのではないだろうか。

 真珠湾攻撃についても、ルーズベルトの陰謀だとする説が未だに一部では支持を得ているようだ。
 やられたやられた、だから我々は悪くない、悪いのは我々をそうするように仕向けた勢力だ。
 いつから日本人(の一部)は、こんなみっともない民族に成り下がったのだろうか。
 彼らが蔑視する、強制連行された、国を奪われた、だから我々は全く悪くない、我々をこのような境遇に陥れたのは日本だ、どこまでも謝罪せよと言いつのる一部の在日韓国・朝鮮人と何が違うのだろうか。

 そんなことを考えている時、たまたま読んだ杉森久英『昭和史見たまま 戦争と日本人』(読売新聞社、1975)という本に、日中戦争について興味深い記述があったので紹介したい。
 念のために言っておくが、杉森は別に左翼でも何でもない。自身も関与した大政翼賛会についての本や、頭山満や石原完爾、近衛文麿の伝記も書いている。
 本書の内容は月刊誌『自由』に1973年から74年にかけて連載されたもの。『自由』は最近見ないなと思っていたら、ウィキペディアによると2009年2月号で廃刊となったという。知らなかった。『正論』『諸君!』より歴史の古い右寄りの雑誌だった。


《中国との戦争、また米英との戦争は、国民の大多数が反対したのに、一部のきちがいじみた好戦主義者が強行したのだという言い方は、言葉としてはおもしろいが、事実には反している。人民、つまり労働者、農民、その他底辺の人々は戦争をしたくなかったのに、指導者に駆り出されただけなのだというような言い方も、正しくない。
 〔中略〕むしろ、広汎な国民一般の中に満ち満ちた戦争を望む声に従って起こったものであった。もちろん、上述したように、知識階級や官僚、財界人、外交官の一部には、戦争に気質的に反撥する者や、専門的な見地から敗戦を予想する者がいたが、その数は少なく、多数に押し流されたというのが本当のところだった。
 満州事変にしろ、日華事変にしろ、国民は決してしょうことなしに、しぶしぶあとをついていったのではなかった。満州事変は国民の知らないうちに起り、国民がイエスもノオもいう暇がないうちにすんでしまったが、日華事変は軍歌と万歳と旗の波がと提灯行列のうちに進展した。そこには軍部のたくみな新聞、ラジオ、映画による宣伝工作があったけれど、国民の中にもそれを受け入れる素地は充分あったので、日露戦争以来、戦争らしい戦争がなくて手持ち無沙汰で退屈、というほどではないにしても、物たりなく思っていた日本人全体は、ようやくのことで持ち前の戦争好きの本性を発揮することができて、いい気分だったのである。》(p.82~84)


《過ぎたあとからは何とでも言えるというそしりを顧みず言えば、日本は中国を見くびりすぎていた。中国のうしろに米、英がいることに気がつかなかった。米国と英国が日本の勝利を欲しないだろうということに気がつかなかった。日本が中国を打ち負かせば、こんどは米国と英国を中国から追い出そうとするだろう、それがいやだったら、米国と英国は蔭になり日向になって中国をかばうだろうということに、気がつかなかった。気がついた者がいても、大きな声で言えない空気だった。
 大きな声で正論が吐けないという空気が、いつも日本を誤った方向へ導いた。中国の軍隊そのものは日本軍に比べて物にならぬくらいの弱体でも、うしろで米、英が見ている限り、簡単につぶれないだろうと考えても、それを言ったが最後、敗北主義、弱腰、欧米追随、その他、いろんな悪罵が待ちかまえていた。戦争遂行についてのいろんな障害や悪条件をならべ立てるのは、勇気を欠いているからであり、困難を乗り越えようという意志がないからであり、結局は日本の敗北を望むからであると見られた。》(p.89~90)


《だから、戦後よく言われたように、日本人民は一握りの好戦的指導者にひきずられて、心ならずも戦争に駆り出されたのだといった耳触りのいい言葉は、平和を望む外国の友人たちを喜ばせるかもしれないが、本当をいえば、すこしばかり事実とちがっている。日本人の大部分は中国人をナメていたのだし、自分たちが行けば、敵はクモの子を散らすように逃げるだろう。何よりも、敵を負かすのは面白いことである。それは山で兎を追ったり、雉を打ったり、鹿を射止めたりすると同じくらい面白いことである――そういう浮き浮きした気分で出かけた者も多かったことは認めなければならない。日本人は昔ロシア人に死物狂いでぶつかった時のことを忘れて、赤子の手をねじるような気持で、鼻歌まじりで出かけたのである。
 こういう気分は、兵隊たちばかりでなく、司令官や幕僚や、幹部将校たちの間により多く見られたことである。それは事変初期に軍部が繰り返していった「不拡大方針」という言葉に、何よりはっきりと現れている。
 なぜ不拡大というか? 自分の意志で、拡大しないでおけると思ったからである。敵はやがてわが武力に圧倒されて、降伏して来るだろう。そこで矛を収めれば、それが即ち不拡大である。敵が降伏せず、どこまでも抗戦を続ければ、戦線はますます拡大するだろう、そうすれば、こちらで勝手に拡大しないつもりでいても、そうはいかないだろう、ますます泥田の中へ深くはまってゆくだろうなどと考えもしない呑気さである。相手の都合を聞きもしないで、自分で勝手に不拡大だときめている思い上りが、そもそも日華事変の敗因だったといったいいだろう。》(p.93~94)


《ともかく、日本じゅう戦争気分で浮き浮きしていた。なにしろ、日露戦争以来三十年ぶりで戦争らしい戦争をやるのである。火事と喧嘩が飯より好きで(江戸っ子に限ったことではない)、威勢のいいことが大好きで、ちょっと町をあるいても、子供が棒切れを持ってチャンバラの真似をしているような国柄で、戦争が面白くないはずがないのである。
 しかも、相手は負けるにきまった(別に誰がきめたのでもない、自分が勝手にきめていたのだが)弱虫の国である。やってみたら案外強かったが、それはあとからわかった話で、ともかく戦争をはじめる時は、頭から相手を呑んでいた。これで戦争が面白くなかろうはずがない。当時の新聞を読んでみればわかることだが、たいてい日本の一方的勝利の記事ばかりで、時には苦戦の話や、壮烈な戦死の話があっても、それは皇軍の赫々たる武勲を引き立てるような役目しか果たしていないのである。》(p.95)


 国民もまた戦争を熱烈に支持したとは、以前紹介した石射猪太郎も書いていたな。
 それが同時代人の感覚だったのだろう。

石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (4)

2010-08-06 01:45:23 | 日本近現代史
 だいぶ前に本書を紹介する記事を書いたが、最後の分を載せるのを忘れていた。

(前回までの記事)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (1)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (2)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (3)

 本書は「結尾三題 天皇、勲章、外交」という章で結ばれている。
 この三題のうち、外交に関する文章が非常に興味深い。長くなるが、是非とも紹介しておきたい。


○外交とは
《学者や評論家は、好んで理念の文字を用いる。戦争中は新秩序理念、大東亜理念が論じられ、外交にまで理念がついてまわった。理念といえば、何か哲学的な要素が織り込まれて、立論の奥深さが感じられ、またそういう感じを持たせるのが論者の意図かもしれなかったが、少なくとも理念の文字を冠する外交論は、いずれも曲学阿世の舞文であった。
 私は外交というもの、また霞ヶ関外交の姿を、いつも卑近な言葉で人に説明した。
 外交に哲学めいた理念などあるものか。およそ国際生活上、外交ほど実利主義的なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。理念も何もない。外交の意義はそこに尽きる。問題は、どうすればプラスを取り、マイナスから逃れ得るかにある。外務省の正統外交も、これを集大成した幣原外交も、本質的にはこの損得勘定から一歩も離れたものではないのである。
 この意味において、外交は商取引きと同じである。一銭でも多く利益を挙げたいのが商取引きだが、そこには商機というものがある。市場の動き、顧客の購買力、流行のはやりすたり、それらの客観情勢によって、売価に弾力を持たせなければならない。売価を高くつけ得ないために、時によっては見込んだ利益を挙げ得ないのもやむを得ない。あるいは流行おくれのストックに見切りを付け、捨て売りにして、マイナスを少なくするのも商売道であり、薄利多売も商売の行き方である。
 外交もこれと同じなのだ。国際問題を処理するに当たって、少しでもわが方に有利に解決したくとも、自国の国力、相手国の情勢、国際政治の大局を無視して、無理押しはできない。彼我五分五分、あるいは彼七分我三分の解決に満足し、マイナスをそれ以上背負い込まない工夫も必要であり、そこに妥協が要請される。そして、こうした操作に当るのが外交機関なのだ。
 商取引きに商業道徳が重んぜられるように、外交には、国際信義がある。商人が不渡り手形を出したり、契約を実行しなかったりすれば、その店はついには立ちゆかなくなる。国家が国際条約を無視したり、謀略をほしいままにすれば、その国際的信用は地に落ち、自ら破綻の基を開く。この国際信用を維持し、発揚するのが外交の大道であり、特に幣原外交は、力強くこの大道を歩み、一歩だも横道にそれなかった。
 要するに外交の行き方は、商売の行き方と全く軌を一にする。外務省正統外交の本領は、国際社会に処して算盤を正しく弾き、正しい答えを出そうとするところにあった。まどろかしく見えても、正直で地味な行き方が、総合的に大きなプラスをわれに収めるゆえんだと信ぜられた。が、軍部や政党や右翼は、目前の利益をのみ望んで、二プラス二イコール五、あるいは五マイナス三イコール三の答えを外交に強要した。こうした強要に屈した外交が、強硬外交と持て囃され、あくまでこれに屈しなかった幣原外交が、軟弱外交中の軟弱外交と烙印された。
 幣原外交以後の霞ヶ関外交は、正統外交の理想を温存しながらも、全く自主的性格を喪失した。軍人と右翼が、霞ヶ関外交を手ぬるしとして、外交の表面に躍り出した。これを商売にたとえれば、店をあずかる外交機関の商売ぶりが気に入らぬとして、用心棒の権助が奥から飛び出し、この値段で買わなければ、目にもの見せるぞと顧客を脅しつけるようなものであった。政党や国民は、こうした強硬外交を喝采した。いったん失った自主性は、容易に取り戻せない。かくして霞ヶ関の正統外交は亡びた。国民は外務省を、皆無省と嘲り、その没落を痛快事とした。国民は常に、無反省に猛き者とともにあった。
 一時、国民外交が叫ばれた。国民の世論が支柱となり、推進力とならなければ、力強い外交は行われないというのだ。それは概念的に肯定される。が、外務省から見れば、わが国民の世論ほど危険なものはなかった。政党は外交問題を政争の具とした。言論の自由が暴力で押し潰されるところに、正論は育成しない。国民大衆は国際情勢に盲目であり、しかも思い上がっており、常に暴論に迎合する。正しい世論の湧こようはずがないのだ。こうした世論に抗しつつ、自己の正しいと信ずる政策に忠実ならんとするところに、信念と勇気の外交が要請されるのだ。悲しい哉、幣原外交以来、近年のわが外務省の外交には、信念と勇気がない。私の説明は、いつもここに落ちるのだった。
 まだ太平洋戦争に間のあった頃、ドイツ人を乗せたわが商船を、イギリス軍艦が房州沖で臨検し、それが日本・イギリス間の問題となったことは、世人の記憶に新たなところであろう。イギリス軍艦としては、国際法上認められた権利を行使したまでのことであったが、日本の強硬論者が騒ぎ立てた。たとえ領海外の臨検であっても、いやしくも富士山の見ゆるところでのこの権利行使は許しておけないと怒号し、合理的に問題を解決しようとする政府の態度を軟弱外交だとして責めた。今日、富士山の見えるところは愚か、皇居前の広場で、進駐軍の閲兵式が行われるようになったのは、こうした強硬論の集積した結果に他ならない。》(p.504-508)

 最後の一文は、昭和戦前期に関心を持つ者は心して読むべきだろう。



「要するに外交の行き方は、商売の行き方と全く軌を一にする。」
 そこまで言うのかと、最初は思った。
 だが考えてみると、たしかにそうだろう。
 内政についても、何らかの理念に忠実であったかどうかよりも、どのような結果を出したかが評価される。とすれば、外交もまた同様だろう。

 わが国は大東亜解放の理想に燃えて欧米諸国と戦った。武運つたなく敗れはしたが、戦後に植民地は次々と独立を果たした。我々の理念は正しかった――といったことを言う人がいる。
 そもそも植民地解放戦争だったと言い得るのかどうか疑問だが、仮にそうだとしても、そのためにわが国が多数の人命、財産、資源を失い、占領されて国家を改造されたことが果たして妥当だったのか。
 わが国の犠牲、いやわが国だけではなく敵国も含めた諸国、地域における犠牲と、植民地の独立という結果を天秤にかけたらどちらが重いのか。
 そもそも植民地はそれほどの犠牲を払ってまで解放しなければならないものだったのか。
 そうした視点から昭和戦前期を見直すことは必要だろう。

 あるいは、唯一の被爆国であるわが国は、非核3原則を国是として世界に反核を訴え続けなければならない――といった主張がある。
 しかし、原爆の惨禍をよく知る我々だからこそ、二度と落とされないように、核による報復攻撃が可能な態勢をとるべきである、という考え方も成り立つ。
 周辺諸国が核兵器を保有する中、わが国が非核でいられるのは、端的に言って米国の核の傘に入っているからである。
 でありながら、核搭載米艦船の領海内航行すら認めないといった硬直した姿勢は、「損得勘定」から言ってどうなのか。米国との関係はもちろん、周辺諸国に対してもどうなのか。誤ったメッセージを送ってはいないか。

 膠着している拉致問題についても同様のことが言えるだろう。
 残りの拉致被害者の帰国、あるいは死亡しているならその経緯について情報開示や遺骨の返還、そして国家としての明確な謝罪。
 それらを実現させるために経済制裁その他の圧力が有効なのであれば、それを続ればいいだろう。
 しかし、圧力をかけ続けても事態が進展しないのであれば、別のアプローチも検討されなければならない。
 これは、北方領土のように原則論を唱え続けていればいい問題ではない。
 被害者とその家族の時間は刻一刻と失われつつあるのだから。
 国民の反北朝鮮感情に配慮するあまり、事態の進展に向けた動きが損なわれるようなことがあってはならない。
 外務省やその他の政府・与党関係者がそんなこともわからないほど愚かだとは私は考えたくない。
 世論は無視していい。秘密外交でかまわない。「損得勘定」の上での事態の進展を期待する。


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辻元清美の社民党離党を歓迎する

2010-08-05 06:00:03 | 現代日本政治
 先月27日、辻元清美・衆議院議員が社民党離党を表明した。
 アサヒ・コムの記事より。

辻元氏、社民離党を正式表明 大阪で会見

 社民党の辻元清美衆院議員(50)=大阪10区選出=は27日、大阪市内で記者会見し、同日付で離党届を出したことを明らかにした。今後は無所属で活動する考えを示したうえで、民主党に入る可能性について「これからのことは全く白紙。いま申し上げるのは難しい」と明言を避けた。

 辻元氏は離党を決断した理由について「日本の政治状況は危機的で、政権交代を逆戻りさせてはならない。私も野党として批判の急先鋒(きゅうせんぽう)として反対を唱えたが、それだけでは日本を変えることはできない」と述べ、連立を離脱した社民党に属していても政策実現が難しいことを挙げた。

 また、国土交通副大臣を経験したことで「現実との格闘から逃げずに仕事を進めたい思いが強くなった。社民党の枠を超えて出発したい」と説明。昨夏の衆院選で民主、国民新両党の推薦を受けた経緯にもふれ、「有権者は社民党の主張だけで私を選んだわけではない」とも語った。

 辻元氏は離党について「参院選前から考えていた。参院選が終わり、次の国会が始まるまでが一つの区切りになると思った」と述べた。会見に先立ち、辻元氏は東京都内で福島瑞穂党首に会い、離党の意向を伝えた。辻元氏は福島氏に慰留されたが応じなかったという。


 私は率直に言って、ピースボートの時代からこの人物が嫌いだった。
 「市民」運動とは名ばかりの、左翼の一変形にすぎないと見ていた。
 衆議院議員に初当選したときも、選挙民はいったい何を考えているのかと唖然としたものだった。
 小泉政権の下、国会で「ソーリ、ソーリ」「ど忘れ禁止法を」「疑惑の総合商社」といった発言で注目される様も苦々しく見ていた。
 そういえば、拉致問題について、戦前の朝鮮人強制連行の歴史を抜きにして、数名の日本人を返せと言ってもしょうがないといった趣旨の発言もあったと記憶している。
 だから、秘書給与問題で議員辞職に至ったときには、正直せいせいしたものだ。これで彼女の政治生命も終わっただろうと。

 しかし、彼女は国政に復帰した。
 2005年の衆院選では、小選挙区では自民党の松浪健太に敗れたものの比例区で復活当選し、昨年の衆院選では、選挙協力で民主党が候補者を立てなかったこともあり、松浪を破って小選挙区で当選した。
 そして成立した鳩山政権では、国土交通副大臣として政府の一員にまでなった。
 副大臣就任には本人が強く抵抗したと伝えられたが、就任後は特にトラブルを起こすこともなく、前原大臣とも協調してよく政務をこなしていたと聞く。したがって社民党の連立離脱に伴い副大臣を辞任するのは不本意であったようだとも。

 同じくアサヒ・コムの記事から。
 
辻元氏離党、支援者「驚きない」「残念」 地元に波紋

 社民党の辻元清美衆院議員(50)=大阪10区選出=の離党表明に、辻元氏を知る人や地元関係者の間に波紋が広がった。国土交通副大臣の経験を踏まえ、「現実との格闘から逃げずに仕事を進めたい」と語った辻元氏。今後は無所属で活動すると表明したが、選挙区事情も含め、民主党との関係に視線が集まる。

■元私設秘書「実は現実主義の人、驚きない」

 「初当選から15年。『社民党の辻元』として応援頂いた方に、おわびを申し上げなければなりません」

 辻元氏の会見は、硬い表情での「おわび」から始まった。「昨夜は一睡もできなかった」と明かした後、離党を決意した経緯や思いを記した紙を取り出し、落ち着いた口調で読み上げた。党幹部に離党の意向を伝える前、沖縄を訪れ、基地問題の運動の関係者に直接思いを伝えたことを紹介し、「沖縄に関してはいささかも考えは変わっていない」とも強調した。

 初当選した1996年の衆院選を前に、立候補を口説かれた土井たか子氏に話が及ぶと、「私の政治の母。お目にかかると決断が鈍ると思い、事前にご相談できなかった」とわずかに声を詰まらせた。

 だが、会見で辻元氏は離党の意志の固さを繰り返した。「党の方には大変申し訳ないと思うが、党のための政治より国民のための政治。(離党)届を出した決意は固く、踏み切ったわけです」

 社民党が連立を離脱し、国土交通副大臣を辞職した後、苦労しながら物事を実現させたい自身は「与党体質」、政権批判を強めた福島瑞穂党首は「野党体質」だという指摘を受け、納得したという。会見ではその言葉を引き、「私は大阪の商売人の娘。泥も呑(の)むけど、政策を実行できるようちょっとでも進もうという体質」と述べた。

 辻元氏の地元、大阪10区は高槻市と三島郡島本町からなる。支援してきた野々上愛・高槻市議(32)=無所属=は離党届の提出に「ついに来たかと思った。(05年の)国政復帰以来、小さな党の中での役割分担に悩んでいた様子だった」。

 辻元氏の元私設秘書(44)は「批判の急先鋒(きゅうせんぽう)のように受け止められているが、実は現実主義の人で驚きはない」と冷静に受け止めた。菅直人首相や枝野幸男・民主党幹事長らと勉強会で同席することが多く、辻元氏は「このメンバーなら市民に近い政権ができる」と話していたという。元秘書は「彼らと距離を置く状況に耐えられなかったのではないか」と推測した。

 ただ、疑問を抱く関係者もいる。辻元氏の秘書給与詐取問題への説明不足を感じ、距離を置いた島本町議の一人は「今回は地元にきちんと説明したのか。社民党が泥船になった状態で離れるのも理解しがたい。政権の外では政策を実現できないと言うなら、無所属になって何をどう解決するのか聞きたい」。同町の元支援者の女性(55)も「小さな政党には小さな政党の役割がある。残念」と話した。

■民主府連は「しばらく静観」

 昨夏の衆院選で、民主党は社民党公認の辻元氏を推薦、ともに政権交代を訴えた。辻元氏は27日の会見で「(連立離脱した社民党にいると)今度は選挙で互いに攻撃しあうこともある。いろんな方に立候補する自由があり、苦悩していた」と述べ、民主党が対立候補を立てることへの不安があったことを示唆した。

 ただ、今後は無所属で活動すると表明した辻元氏に対して、民主党の大阪府連幹部は「しばらくは静観だ」と慎重な姿勢を崩さない。

 来春の統一地方選時に行われる大阪府議選で、辻元氏の地元の高槻市・三島郡選挙区(定数5)では、民主党は社民党の現職府議と戦うことが予想される。「衆院選で民主党が辻元さんの対立候補を立てるかどうかは、地元議員の意向が影響する。府議選の辻元さんの対応で変わってくる」(府連幹部)という。

 かつて辻元事務所のスタッフだった川口洋一・高槻市議(35)=社民=は「社民党に残っても次の衆院選は厳しいし、無所属でも旧社会党時代からの古い支持者が離れ、厳しいだろう」と話す。川口氏自身も統一選での市議選を控え、辻元氏の「離党」に言葉を失ったという。「選挙で頼り切っていた面もあった。従来のような支援を受けるのは難しくなるだろう」

 一方、2005年と09年の衆院選大阪10区で、辻元氏と議席を争った自民党の松浪健太・衆院議員は「権力を批判することで名をはせてきた方だけに、離党の理由がわかりにくい」と指摘した。


 かつて、秘書給与問題で辞任する際の会見では、涙ぐんで「もっと国会で質問したかった」という趣旨のことを述べていたと記憶している。
 国会で質問したかったとは、「ソーリ、ソーリ」のように、野党として政府・与党への追及をもっと続けたかったということなのだろう。
 そこには、自らがいずれ政府・与党の一員となることもあるのだという意識は全く感じられなかった。永遠の批判者としての地位に安住したいかのようだった。
 政治家たる者、何らかの理想の実現を目指すべきであり、それには政権の一員となることを志向すべきである、「たしかな野党」など論外であると思っていた当時の私は、何という人物だろうかと嘆息したものだ。

 その同じ人物が、今や、
「野党として批判の急先鋒として反対を唱えたが、それだけでは日本を変えることはできない」
「現実との格闘から逃げずに仕事を進めたい」
「泥も呑むけど、政策を実行できるようちょっとでも進もう」
だそうである。
 辻元は今50歳。やや遅すぎた認識のようにも思えるが、ここは素直に現実主義への転身を歓迎したい。

 辻元はこのままでもおそらく福島瑞穂の後を継いで党首に成り得ただろう。しかしそれでも社民党の低落傾向に歯止めをかけることはできず、もしかすると最後の党首として歴史に名を残すことになったかもしれない。
 辻元が言うように、前回の小選挙区での当選は、社民党支持者によるものだけではない。そして連立離脱した今、民主党に対立候補を立てられたら、小選挙区はおろか比例区での当選も危うくなるかもしれない。
 政治家としてそうした判断は当然あっていいし、それに基づく離党を非難する気は私にはない。

 そしてまた、この離党は社民党にとっては大きな打撃となるだろう。
 三たび、アサヒ・コムから。

福島党首ら執行部の辞任迫る発言も 社民党常任幹事会

 社民党は29日午前、党三役会議と常任幹事会を開き、参院選総括や党刷新策を協議した。出席者によると、常任幹事会では、福島瑞穂党首ら党執行部の交代を迫る発言も出たという。福島党首は執行部交代に否定的だが、今後の対応しだいで執行部批判がさらに強まる可能性もある。

 常任幹事会では、照屋寛徳国会対策委員長が「辻元清美衆院議員はなぜ離党を決意しなければならなかったのか。福島党首、重野安正幹事長ら三役に責任がある。参院選の結果も含め、自ら身を引くべきだ」と発言。又市征治副党首も福島氏ら執行部に対し、「責任を取って辞めるくらいの覚悟を示さないと、示しがつかない」と発言したという。

 一方、福島党首は常任幹事会で「社民党は何としても日本の中に存在し、頑張らないといけない。党の危機は全党員と支援者のみんなで乗り切っていくしかない」と訴えたが、自身の進退には言及しなかった。

 同党は引き続き、地方組織の代表を集めた党内会議などを重ね、参院選の総括と党刷新策を協議する。


 何やら内輪もめの様相を呈している。
 執行部の責任追及もいいが、では福島らに代わり得る人材が今の社民党にいるのだろうか。
 又市も自身のスキャンダルが党のイメージダウンに影響していないはずがないと思うが。

 社民党はいずれ、現在の新社会党のような泡沫政党に成り下がるのだろう。
 かつての野党第1党としての姿を知る者としては若干の寂しさを覚えるが、これも国民のニーズに応えられなかったイデオロギー政党の末路だろう。素直に歓迎したい。


千葉法相の死刑執行批判について(兼・宗伯さんへの返答)

2010-08-01 01:14:10 | 事件・犯罪・裁判・司法
 以下の文章はもともと7月29日の「千葉法相の英断を評価する」という記事に寄せられた宗伯さんという方のコメントへの返答として書いたものだが、長文になったのと、他の千葉批判に対しても有効でありそうなので、新記事にしておく。

 宗伯さん、こんにちは。
 オノコロさんのブログでの私のコメントを見て来られたのですね。

 私が「英断」と表現しているのは、記事本文を読んでいただければわかると思うのですが、千葉が死刑廃止論者でありながら、個人的心情よりも法相としての職務を優先して執行に踏み切ったからです。
 それは法相としては当然のことなのですが、その当然のことができなかった法相が自民・自公政権下に数名おり、廃止論者でありながら千葉も同様の事態となることを不安視していたからです。
 しかも、千葉個人としては死刑廃止論を放棄したわけではないようです。
 死刑廃止論者の中には、法相が死刑を執行しなくなることにより、事実上死刑を廃止するという邪道を狙っている者もいますが、千葉はそうではなく、国民的論議の下での死刑廃止という正攻法を意図しているようです。私は死刑存置論者ですが、敵ながら天晴れと言うべきです。

 「見苦しい擁護」とおっしゃいますが、私はただ千葉の行為を評価しただけであり、別に擁護しているつもりはありませんし、千葉が私などに擁護されなければならないひよわな存在だとも思いません。
 「見苦しい」文章を書いているつもりもありませんので、どこがどう「見苦しい」のかご教示願いたいものです。

 コメントを読む限り、あなたがおっしゃりたいのは、要するに、

>落選して留任し批判が高まった途端に死刑執行したことが全てを物語っている

>椅子にしがみつくために殺したのは明白

>この人は自身への批判をかわすため「だけ」に死刑を執行した

ということのようですが、どうしてこのような批判が生じるのか不思議です。

 というのは、まず、死刑廃止論者たちからは当然何故執行したのかという批判が出ますし、野党からも私が記事で挙げたような批判が出ています。さらにネットでもあなたやオノコロさんのような愚にもつかない批判も出ています。
 千葉は、全く「批判をかわ」してはいないではないですか。

 「椅子にしがみつくため」とおっしゃいますが、千葉は落選を理由に菅首相に辞意を表明したものの、9月に予定されている民主党代表選後の内閣改造までは留任するよう求められたと伝えられています。
 つまり、9月までは千葉の地位は安泰です。
 死刑を執行するなら、退任直前にもできたはずです。
 にもかかわらず、このタイミングで何故執行したのでしょうか。

 千葉が言うように、落選が今回の死刑執行に全く影響していないのかどうか、私にはわかりません。千葉の言い分を支持する根拠もありませんが、かといってそれを否定する根拠もありません。
 しかし、「批判をかわすため」だの「椅子にしがみつくため」といった批判が的を得ていないことは明白だと思います。

 なお、

>ずっと執行していなかったものを

>法で定められた期日を散々無視しておいて

とおっしゃいますが、確定から6箇月以内に執行していないのは何も千葉に限ったことではなく、これまでの自民・自公政権で行われていたことです。この点で千葉のみを批判するのは不当です。
 宗伯さんは、死刑制度の運用について、あまりご存じないようですね。それとも意図的に誤りを書いているのでしょうか。

 さて、宗伯さんは、私へのコメントで

>いくらなんでも
英断という評価は、節操がないにもほどがある
のはないですか?

とおっしゃいますが、「節操」という言葉の意味を理解しておられるのでしょうか。

 そう言う宗伯さんは、ご自分のブログで、この死刑執行前の記事「立派な主張です
で、千葉をこう批判していますね。

死刑は慎重に、大変立派な主張だと思います。私は死刑が必要だと考える人間ですが
慎重であるべきだ、との考え方には耳を傾けるべきだとは考えています。

ただし、法相の仕事を放棄してよい ということにはなりませんけどね。

政治的な立場を主張するのは本来勝手ですが大臣となると話は別ですね。

大臣でありながら、政治的な立場により職務を遂行できないなら
それは即刻辞職すべきである、また国民もそれを要求しているということは

民主党支持者からも見放されなければ出ることのない
「現職大臣落選」
という厳然たる結果が出たことによっても明らかです。

どうして左翼の人って、こう無責任な人間が多いのでしょうか。
職務放棄して組合活動、政治活動に没頭している教員なんてのも多いですよね。
公務員はこういうことをしてはいけない、というのは常識なんですが
ルールを踏みにじって権利を絶叫する様はまさに滑稽の一言に尽きますよね。
まじめに教職に向き合っている教員に失礼でしょう。

話を千葉さんに戻しますが
とにかく立場をわきまえないこの図々しい態度、思想を建前に職務放棄、
選挙民から断罪されても大臣職にしがみつくこの厚かましさ・・・

仕事はしないわ、選挙には落ちるわ、

この老人が法務大臣であり続けてよい条件など 何一つないわけですが民主党は続投宣言。

よほどこの大臣が推進する日本解体3法案に傷がつくのが嫌なんですね。
死刑を遂行しない態度と同時に、この法案が否定されたから落ちたようなものなのにね。


 死刑を執行しないのは職務放棄であると述べていますね。
 私も同様の考えであることは、前回の記事や、昔の「死刑執行は法務大臣の職務」という記事などで述べました。

 ですから私は職務を執行した千葉を評価しました。
 しかしあなたは、執行が報じられた直後の「椅子の為に信念も捨てた」という記事で

批判を回避するためだけに信念を捨てアッサリ死刑を執行するのか?
これは法相の職務を遂行したのではなく批判をかわすために人間の命を利用したわけだ。
この老人こそ、もっとも人の命を軽んじていると遠慮なく言おう。

まぁ人権屋の正体など こんなものだ。

死刑に最後まで反対し、しかし民意を尊重せねばならぬと自ら職を辞すならば
その信念に一定の敬意を表するところだったが、
もはや民意も自らの信念も捨て、ただただ大臣の椅子に執着する見苦しい老人という印象以外
この人物への評価は何もなくなってしまったな。

辻本先生もよくみておくことだな。
ただ政権への執着から社民党を離脱したのならば この老人と同じ評価になる。

こんな信念も民意もアッサリ捨て批判回避のためだけに人間の命を利用するようなものを、
国民に否定されてなお続投させるとは、やはり民主党など論外だ。


と、やはり千葉を批判しました。

 死刑を執行しなければ職務放棄と批判し、死刑を執行したらしたで「批判を回避するためだけに信念を捨て」云々とやはり批判する。
 こうした行為こそが、「節操」がないと批判するにふさわしいものではないでしょうか。