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豊永郁子「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」を読んで

2022-08-22 06:26:46 | ウクライナ侵攻
 8月12日付け朝日新聞朝刊に、豊永郁子・早稲田大学教授のウクライナ戦争についての寄稿「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」が掲載された。
 9条平和主義による降伏論の典型だと思われるので、感想と共に書き留めておく。

《〔前略〕
 ウクライナ戦争に関しては、2月24日のロシアの侵攻当初より釈然としないことが多々あった。むしろロシアのプーチン大統領の行動は独裁者の行動として見ればわかりやすく、わからなかったのがウクライナ側の行動だ。まず侵攻初日にウクライナのゼレンスキー大統領が、一般市民への武器提供を表明し、総動員令によって18歳から60歳までのウクライナ人男性の出国を原則禁止したことに驚いた。武力の一元管理を政府が早くも放棄していると見えたし(もっともウクライナにはこれまでも多くの私兵組織が存在していた)、後者に至っては市民の最も基本的な自由を奪うことを意味する。

 さらに英米の勧める亡命をゼレンスキー氏が拒否し、「キーウに残る、最後まで戦う」と宣言した際には耳を疑った。彼自身と家族を標的とするロシアの暗殺計画も存在する中、ゼレンスキー氏の勇気には確かに胸を打つものがあり、世界中が喝采した。これによってウクライナの戦意は高揚し、NATO諸国のウクライナ支援の姿勢も明確化する。だが一体その先にあるのは何なのだろう。

 市民に銃を配り、すべての成人男性を戦力とし、さらに自ら英雄的な勇敢さを示して徹底抗戦を遂行するというのだから、ロシアの勝利は遠のく。だがどれだけのウクライナ人が死に、心身に傷を負い、家族がバラバラとなり、どれだけの家や村や都市が破壊されるのだろう。どれだけの老人が穏やかな老後を、子供が健やかな子供時代を奪われ、障害者や病人は命綱を失うのだろう。大統領はテレビのスターであったカリスマそのままに世界の大スターとなり、歴史に残る英雄となった。だが政治家としてはどうか。まさにマックス・ウェーバーのいう、信念だけで行動して結果を顧みない「心情倫理」の人であって、あらゆる結果を慮(おもんぱか)る「責任倫理」の政治家ではないのではないか。》

 何が「釈然としない」「わからなかった」のか私にはわからなかった。
 侵略に抵抗するため一般市民に武器を供与し、総動員をかけることがそれほど不可解だろうか。
 国際連合広報センターのサイトの通常兵器に関するページには次のようにある。

すべての国は個別的もしくは集団的自衛に対して固有の権利を有し、国連憲章に従って武力を使用することができる。自国の軍隊もしくは治安部隊を武装することとは別に、ほとんどの国は、一般にある種の条件のもとに、民間の警備会社や市民による銃器もしくは武器の所有を許し、合法的な目的のためにはその使用を許可する。


《 日本には今、ウクライナの徹底抗戦を讃(たた)え、日本の防衛力の増強を支持する風潮が存在するが、私はむしろウクライナ戦争を通じて、多くの日本人が憲法9条の下に奉じてきた平和主義の意義がわかった気がした。ああそうか、それはウクライナで今起こっていることが日本に起こることを拒否していたのだ。

 冷戦時代、平和主義者たちは、ソ連が攻めてきたら白旗を掲げるのか、と問われたが、まさにこれこそ彼らの平和主義の核心にあった立場なのだろう。本来、この立場は、彼らが旗印とした軍備の否定と同じではない。だが彼らは政府と軍の「敗北」を認める能力をそもそも信用していなかったに違いない。その懸念は、政府と軍が無益な犠牲を国民に強い、一億玉砕さえ説いた第2次世界大戦の体験があまりにすさまじかったから理解できる。同じ懸念を今、ウクライナを見て覚えるのだ。》

 まあ、当時の「平和主義者」は、そういう者もいただろう。もっとも、正面からそう言い切った者はそれほど多くなかったように思うが。
 むしろ、ソ連の侵攻など有り得ないと、イデオロギーから、あるいは単なる願望から、そう思い込み、思考停止していた者が多かったのではないか。
 
 そして、開戦初期ならいざしらず、ウクライナが頑強に抵抗を続けている今の段階で、「無益な犠牲を国民に強い、一億玉砕さえ説」くことへの懸念をウクライナに覚えるということが私には理解できない。

《 人々が現に居住する地域で行われる地上戦は、凄惨(せいさん)を極め得る。4人に1人の住民の命が失われた沖縄の地上戦を思うとよい。第2次大戦中、独ソ戦の戦場となったウクライナは住民の5人に1人を、隣のベラルーシは4人に1人を失ったという。今、ウクライナはロシアの周辺国への侵攻を止める防波堤となって戦っているとか、民主主義を奉じるすべての国のために独裁国家と戦っているとか言われるが――ともにウクライナも述べている理屈だ――再びウクライナで地上戦が行われることを私たちがそうした理屈で容認するのは、何かとても非人道的なことに思える。米国などは、徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めることとうそぶくが、ウクライナに住む人々の人権はどこに行ってしまったのだろう。》

 地上戦は凄惨だが、ロシアの占領下で行われた拷問や虐殺もまた凄惨だろう。朝日新聞は何度もその実態を報じているが、豊永氏はご覧になっていないのか。それとも、戦争による破壊よりは、占領下での蛮行の方がまだ容認できるとお考えなのだろうか。
 まさに「徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めること」だろう。徹底抗戦を唱えるゼレンスキー大統領の下、ウクライナ国民がいやいや戦争させられているというならともかく、そんな証拠もないのに、人権を憂えて抵抗や支援を否定することの方が、私にはよほど「とても非人道的なこと」に思える。

《 20世紀を通じ、とくに2度の世界大戦を経て、私たちの間には国境を越えて人権の擁護が果たされなければならないという規範が形成され、冷戦が終わった1990年代以降はこれがいよいよ揺るぎないものになったと見えた。だがそうでもなかった。欧米諸国の政府は、間断なくウクライナに武器を供給し、ロシアへの制裁における一致団結ぶりを誇示することで和平の調停を困難にし、戦争の長期化、すなわち更なる人的犠牲の拡大とウクライナ国土の破壊を促している格好にある。そしてこれが主権、つまりは自己決定権をもつウクライナが望み、ウクライナ人が求めることなのだからそれでよいのだとする。また、国際秩序を乱したロシアに代償を払わせるという主張も繰り返される。しかし国際秩序の正義のためにウクライナ1国が血を流し、自らの国土で戦闘を続けよというのは、正義でも何でもないように思う。

 色々なことが少しずつおかしい。》

 ではウクライナ1国ではなく、欧米やわが国も血を流すべきだと豊永氏は説くのか。そうではあるまい。そんなことをしたら第3次世界大戦になってしまう。核戦争に至る危険がある。
 豊永氏によると、ウクライナが戦争の継続と支援を望んだとしても、欧米諸国はそれに応じず、和平の調停を図ることが、ウクライナ国民の生命と国土の破壊を防ぐという「正義」にかなうということになる。
 そうなのだろうか。同じことを日中戦争の中国、第二次世界大戦のポーランドに対しても言えるのだろうか。
 「おかしい」のは豊永氏の方ではないか。

《〔中略〕
 さて和平派の立場は、戦争がもたらしたエネルギーや食料の不足などの経済問題、核兵器の使用も含む戦争のエスカレーションへの懸念から説明されることが多い。だが、これらにあわせて戦争による犠牲の拡大について道義的な疑念が広く存在することを忘れてはならない。また、ロシアを、プーチン氏を敗退させることが現実的にどこまで可能かも疑問だ。

 そもそも戦闘はロシアの外で行われている。かつて中国大陸に侵攻した日本が、欧米諸国による経済制裁や膠着(こうちゃく)する戦線に苦しみながらも、決して軍事的に譲歩しなかったことが思い浮かびはしないか。結局、日本が大陸を諦めるのには日本本土の焦土化を要した。さらに戦争の長期化は、ロシア国内におけるプーチン氏の権力を弱体化するのではなく、強化する可能性があることも留意すべきだ。戦時体制を通じて全体主義体制が成立する可能性すらある。》

 日本のようにロシア本土を焦土化することはできないから、ロシアを敗退させることは現実的には不可能ではないかと言う。しかし、例えばソ連のアフガニスタン侵攻は、ソ連国内が戦場になったわけではないが、ソ連軍は約10年で撤退するに至った。
 また、戦争の長期化はプーチン大統領の権力を強化する可能性もあると言う。そうかもしれないが だからといって、ウクライナの降伏による戦争の終結が、プーチン大統領の弱体化をもたらすわけではあるまい。それもまた権力強化につながるのではないか。

《 最近よく考えるのは、プラハとパリの運命だ。中世以来つづく2都市は科学、芸術、学問に秀でた美しい都であり、誰もが恋に落ちる。ともに第2次世界大戦の際、ナチスドイツの支配を受けた。プラハはプラハ空爆の脅しにより、大統領がドイツへの併合に合意することによって。パリは間近に迫るドイツ軍を前に無防備都市宣言を行い、無血開城することによって(大戦末期にドイツの司令官がヒトラーのパリ破壊命令に従わなかったエピソードも有名だ)。

 両都市は屈辱とひきかえに大規模な破壊を免れた。プラハはその後、ソ連の支配にも耐え抜くこととなる。これらの都市に滞在すると、過去の様々な時代の息づかいを感じ、破壊を免れた意義を実感する。同時に大勢の命と暮らしが守られた事実にも思いが至る。

 2都市に訪れた暗い時代にもやがて終わりは来た。だがその終わりもそれぞれの国が自力でもたらし得たものではない。とりわけチェコのような小国は大国に翻弄(ほんろう)され続け、冷戦の終結によりようやく自由を得る。プラハで滞在した下宿の女主人は、お茶の時間に、共産主義時代、このテーブルで友達とタイプライターを打って地下出版をしていたのよ、といたずらっぽく語った。モスクワ批判と教会史の本だったそうだ。私は彼女がいつ果てるともわからない夜に小さな希望の明かりを灯(とも)し続けていたことに深い感動を覚えた。》

 降伏により都市は大規模な破壊を免れるのだから戦争を続けるよりその方がいい。地下活動で抵抗する道もあるよ、ということか。
 ロシアのウクライナ占領地域で何が行われたかが明らかになっているというのに、どうしてこんな呑気ことが言えるのか、不思議でならない。
 「徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めること」である。
 
 朝日新聞デジタルの本記事には、「コメントプラス」として、三牧聖子・同志社大学大学院准教授とジャーナリストの江川紹子氏の秀逸なコメントが掲載されている。強く共感した。