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53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動

2013-12-30 09:41:36 | その他の本・雑誌の感想
 ドイツ文学者の西義之(1922-2008)は、昭和後期にいわゆる進歩派を批判した評論家として知られる。津田左右吉批判や文化大革命を扱った『変節の知識人たち』(PHP研究所、1979)については以前取り上げたことがある。

 その西義之の文集『戦後の知識人 自殺・転向・戦争犯罪』(番町書房、1967)を読んでいたところ、末尾に収録された「�安保�とある知識人の死――上田勤教授のこと、そのほか――」の内容の一部が大変興味深かったので、紹介したい。

 この文は、本書には明記されていないが調べたところ、雑誌『自由』の1965年3月号に掲載されたものである。
 1960年の安保騒動を支持した知識人の言説を振り返り、英文学者上田勤(1906-1961)が騒動のさなかである60年6月末に発表した「もっと理性を、もっと辛抱強さを――市井の一凡人の意見」という文の内容とを対比したものである。
 西が金沢の四高生時代に上田が教師であり、後に西が四高に勤めた一時期同僚でもあったのだという。

 私が興味深く思ったのは、ここで西が挙げている、安保騒動を支持した知識人の言説が、先般問題となった特定秘密保護法案への反対論とあまりにも似通っている点だ。
 以下引用する(〔〕は引用者註、太字は原文では傍点、青字は引用者による強調)。 

 つまりここで双方〔安保騒動参加者とそれへの批判者〕のあいだにコミュニケーションがまったく断たれているということに、私はなんども注意をひかれるのである。というのは当時改定反対に積極的に活動した丸山真男氏のつぎのような見解を思いだすからである。
 丸山氏はその後福田〔恆存〕氏から批判をうけたが、それにたいして反論はしていない。しかし『現代政治の思想と行動、増補版』の追記には、収録してある「現代における態度決定」と「現代における人間と政治」の「二論稿が実質的な答えになっていると思う」と書いてある。わたしの関心をひくのは後者のほうであるが、丸山氏がこれをどの程度当時の状況のアナロギーとして書いているのか不明なので、わたしがこれを丸山氏の「私小説的告白」として読むのは、あるいは深読みにすぎるかもしれないが、すこしく紹介してみよう。
 丸山氏はここでいわゆる「忍び足〔「クリーピング」とのルビ〕で迫るファシズム」について語っているのだが、ニーメラーらを引用しつつ例にあげられているのはドイツ・ナチズムである。氏は「外側の住人」(異端)と「内側の住人」とのあいだのイメージの鋭い分裂、両者の言語不通の問題を論じながら「要するにナチ・ドイツには、このように真二つに分裂した二つの『真実』のイメージがあった。だから一方の『真実』から見れば、人間や事物のたたずまいは昨日も今日もそれなりの調和を保っているから、自分たちの社会について内外の『原理』的批判者の語ることは、いたずらに事を好む『おどかし屋』〔「アラーミスト」とのルビ。以下多用されるこの語には全て「アラーミスト」のルビがある〕か、悪意ある誇大な虚構としか映じないし、他方の『真実』から見るならば、なぜこのような荒涼とした世界に平気で住んでいられるのかと、その道徳的不感症をいぶからずにはいられない。もしもこの二つの『真実』がイメージのなかで交わる機会をもったならば、ニーメラーのにがい経験をまたずとも、『端初に抵抗』することは――すくなくとも間に合ううちに行動を起すことはもっと多くの人々にとって可能であり、より容易であったろう」と書いている。
 しかし、道徳的不感症をいぶからずにはいられない、とはなかなかにてきびしい。というのは、池田内閣が総選挙を発表したとき、郷里へ帰って戦おうという中国革命まがいの「上山帰郷」が叫ばれたが、夏は軽井沢住いの進歩派の口からそれがでると、農村の子弟であるわたしなどには、そちらのほうの不感症をいぶからずにはいられないからだ。いずれにせよ氏は、安保のときの自分の行動は、「端初に抵抗」したものだと言っているようにきこえる。すなわち氏自身の認識では、あの当時の情勢は「忍び寄るファシズム」であり、それを警告することは決して内側の住人(体制内の)にそう思われているような「おどかし屋」の行動ではなく、かえって内側の人間にこそ道徳的不感症が見られるのではないか――というかのようである。

 おどかし屋

 私は丸山氏を別に「おどかし屋」だとは思いたくないが、当時の新聞をしらべてみると、「安保改定が戦争につながる」という「おどかし屋」的論理が横行していたことはたしかである。たとえば上田さんの小論の載った同じ『自由』には、総評事務局長岩井章氏が編集部の質問に答えて「新安保条約が通ったら、一切がっさい日本はだめになるというような意見が一部にあるし、そう思いこんでいる人も多いし、その責任はやはり社会党、総評にも一半はあると思います。安保闘争が非常に重要だということで。労働者なり国民の注意を喚起していくために、そういう非常に割り切った、明快な教宣の理論を立てたということもあるんですね」とはっきり語っている。
 これは記憶しておいていい発言である。なぜなら最近、そんなことはきいたことがないという健忘症的な言葉を吐く人がいるからである。
 また丸山氏の属する「民主主義を守る全国学者・研究者の会」が六月二日教育会館でひらかれているが、そこで辻清明教授は大略(『朝日新聞』の大意による)つぎのように述べている。
「……私は、ヘタをすると安保改定によって日本は対外的に要塞国家に、国内的には警察国家になるおそれがあると述べた。その後の事態をみると、わたしの心配はとりこし苦労ではなかった。
 現在の非常事態を、政府は社会党議員のすわりこみによって生じたものとしている。なるほど社会党のとった方法は通常の議事妨害の域を超えているが、政府はこの小悪を利して議会政治を無視するという大悪をおかした。これはかつてのヒットラーや関東軍のやり方に似ている。ちがうところはヒットラーや関東軍の相手が他の国であったのに、岸政府の場合はその相手が国民であったということである(拍手)……」
 ここでもヒットラーがでてきて、ドイツ・ナチズムとのアナロギーが暗示されている。これも相当の「おどかし屋」的発言ではないだろうか。美濃部亮吉教授の文京公会堂における発言にもヒットラーがでてくる。
「……民主主義は油断している間に一夜でくずれ去る。私はそれをこの目で見てきた。それは一九三三年、ヒットラーが政権をとったときのことだ。当時のドイツはあの民主主義的なワイマール憲法をもち、社会民主党が第一党だった。常識ではファシズムが権力を握るとは考えられなかった。……今の日本はあのころのドイツよりもいっそう危険な状態にある。この危機に立つ民主主義をまもるのは、民衆の結集した力しかない(拍手)……」
 この発言にも「おどかし屋」の匂いがするといえば、わたしはやはり無知を笑われることになるのだろうか。とにかくヒットラーをもち出すのは、近頃では最高のおどかしだと思われるがどうであろうか。わたしのようなのんきな男でもぎょっとしてしまうからだ。ほんとうに、「安保」の時点では「あのころのヒットラー出現直前のドイツよりもいっそう危険な状態に」あったのだろうか。ほんとうに「民衆の力しか」あの事態を救いえなかったのだろうか。ほんとうに?
 こまるのは、あとからこういう事実認識の当否を検証することがほとんど不可能だということである。この事実認識が正しいとしたら、安保反対運動に批判的であった人々こそ、逆にまさに事実の重大さに何一つ気づいていなかった、のんきな、体制の内側にあったころのニーメラーであり、道徳的不感症の人間だということになる。はたしてそうか。はたして反対運動の側のほうが「外」にあると自負できるのであるか。「端初に抵抗」というが、いったい「何の端初」であったのか。やはりヒットラー出現の? ファシズムの? あまりおどかさないでもらいたい。
 私に疑問なのは、反体制側、「外側」にあるものがつねに事態の危機を見抜いているという自負であり、内側のものに対しては、マルクス主義者の口癖の「ただあなたがたが知らないか、自覚しないだけだ」という論理を適用する安易さなのである。しかし丸山氏がマルキストを批判したらしい言葉が、そのまま両刃の剣として、「外側」にあると思っている丸山氏自身を斬るものでないのかどうかとわたしは考えるものである。
「現実の生活では現在の組織や制度が与える機会を結構享受していながら、自らはそれを意識せず、�外�にいるつもりで�疎外�のマゾヒズムをふりまわす人々を見ると、どうしても電車のなかで大の字になって泣きわめいて親を困らせている子供を連想したくなる」
 やはり、これはご自分のことではないのかと、わたしは一瞬奇妙な錯覚におちいりかける。氏はまた同じ「追記」のなかで、安保改定反対運動のなかに革命を夢想した人々、運動は敗北であったと認識した清水幾太郎氏ら、そして運動に批判的だったいわゆる良識派の人々を十把ひとからげにして、「最小限の政治的リアリズムを具えていたら、あの時点においてどう転んでも『成功』するはずがないことが明瞭なはずの『革命』の幻想をえがいたり、『ヘゲモニー』への異常な関心が満たされなかったりしたことからの挫折感をあの闘争全体の客観的意義にまで投影して『敗北』をおうむのようにくりかえし、それが良識を看板にしている評論家――高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人々――の見解と『一致』するというような奇異な光景がいたるところに見られた」と自信にみちた口調で言いきっている。
 わたしたちは一方の側の「報道」や「通信」が遮断されている全体主義国家に住んでいるわけではなく、豊富すぎるくらいの「通信」にとりまかれ、そこから事実を認識し、行動を「決断」する。にもかかわらずこのように両者のあいだのイメージは鋭く分裂し、言語不通の問題がおこるのである。丸山氏がもし自分への批判者をたんに「高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人々」という程度にしか認識していないとしたら、逆に、安保改定運動自体に対する進歩派の人々の事実認識すらもひどくうたがわしいものになるようにわたしは思う。すくなくともヒットラーの名を利用しただけでも。(p.233-239)


 特定秘密保護法案に対しても、やれ現代版治安維持法だ、大日本帝国の再来だと、荒唐無稽な反対論が見られた。 わが国におけるこの種の層は、半世紀前から進歩していないらしい。

 いや、
「「外側」にあるものがつねに事態の危機を見抜いているという自負」
をもち、
「内側のものに対しては」「「ただあなたがたが知らないか、自覚しないだけだ」という論理を適用する」
のは、何も彼らの専売特許ではない。
 いわゆるネット右翼における、在日特権だの、政治家の誰それが帰化人だの、外国人に日本がのっとられるだのといった陰謀論などにも、全く同様の傾向が見られる。
 左右を問わず、運動家とはそうしたものなのだろう。
 西が引用している岩井章が述べているように、「国民の注意を喚起していくために」は「非常に割り切った、明快な教宣の理論」が必要だとされているのだろう。
 国民を、程度の低いデマに踊らされる愚民としか見ていないのだろう。

 さて、西は続いて上田の文を紹介する。上田は安保騒動の無意味さ、愚かしさに絶望したと西は見る。そして上田の言いたかったことは次の箇所に要約されるだろうと引用する。

「自民党も社会党もおしなべて、これはと思う人物がおらず、どれも団栗の背くらべで、こういう政治家しかもたない日本の国民は、つくづく不幸だと思う。まったくやりきれないことだ。しかしいかに不幸でも、やりきれなくても、これが日本の現実だとすれば、そこから出発するよりしかたがない。いかに地団太ふんで口惜しがっても、人間は、国民は、国家は、ドンデンがえしに立派になるものではない。革命を考える人もあるだろうが、敗戦とかなんとかいう非常事態でもないかぎり、革命の起り得る条件は、いまの日本では皆無に近いし、たとえ革命を起してみても、人間が、国民が、国家がドンデンがえしに立派になるものでもない。いたずらに犠牲ばかり大きいだけだ。となると、残された道はただひとつ、辛抱強く、気長に時間をかけて民主主義の育成をはかることだ。……つまり感情に流されないで、どこまでも冷静に、理性的に、すなおに現実をみつめること、焦らず騒がず、じみな努力を根気よく続ける辛抱強い、粘液質な性格と、この二つが、全般的に見て、日本人の性格にいちばん欠けているのではないか、ということだ……」(p.242-243)


 西は、これは丸山の言うような「高揚する運動にとり残された内心の焦燥感を冷笑にまぎらわしていた人」のものではないとし、こうした常識論が声高な論調にかき消されてしまうことが日本の不幸だと述べている。
 そして、上田が学生に対して、防衛大学や自衛隊の者と胸襟を開いて話し合ってみてはどうかと説いたことを挙げ、

 このような意見はいまでこそなんの変てつもないようにきこえるが、昭和三十五年六月末という時点ではかなり勇気のいる発言ではなかったかと思われる。上田さんがくりかえし力説したのは、与野党にすくなくも「外交」の面では話しあい〔「コミュニケーション」とのルビ〕ができないかと言うことであり、自衛隊や防衛について語ることを知識人のあいだでタブーとする気分、「言語不通」の問題をどうにかしてのぞくことができないかということである。最近、安保のときの諸問題はすでに決着がついたと言う人もあるが、この国の知識人社会にまだこの種のタブー、言語不通が根づよくのこっていることを感ずるわたしには「決着」どころの気分になれないことを言っておかなくてはならない。
 とくに上田さんの突然の死を思うとき、この国の知識人社会の「イメージの鋭い分裂と言語不通の問題」はほとんど絶望的な気分にさせるのである。その日上田さんは、ある席上で友人の英文学者を右翼だと攻撃する進歩的な人と論戦し、ひどく興奮して帰宅されたという。そしてたまたま訪れた客と一献かたむけているとき、卒然として逝ったのである。(p.245)


とこの文を結んでいる。

 「言語不通」の問題が存在するのは現在でも変わらないだろうが、その範囲は当時よりは狭まっているように思う。
 特定秘密保護法案に対して60年安保のような大衆行動は生じなかったし、また欧州のように外国人排斥を唱える極右勢力が議会へ進出することも今のところはない。
 国民は、このころよりは多少なりとも賢明になったと考えていいのだろうか。

 「辛抱強く、気長に時間をかけて」か。
 だが、冷戦の中である意味安定していた1960年代ならいざ知らず、現代にそんな余裕はあるのだろうか。

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朝日新聞の特定秘密保護法案への反対報道に思う」 



早川いくを『ウツ妻さん』(亜紀書房、2013)感想

2013-11-05 00:23:05 | その他の本・雑誌の感想
 早川いくを氏といえば、昔『へんないきもの』『またまたへんないきもの』がベストセラーになった方だ。
 これらを寝床に置いて、毎晩のようにちょこっと読んで寝ていたものだった。
(私はこうした肩のこらない、癒されそうな本を寝床で少しだけ読んで寝る習慣がある。この本の後は日高トモキチの『トーキョー博物誌』に移り、今は『毎日かあさん』や『よつばと!』がそうだ)

 たまたま最近早川氏のツイートをフォローするようになり、たまたまそこで新刊『ウツ妻さん』のことを知った。
 10月16日付けの氏のツイートに、

「老後はブルーシートで暮らして万引きして警察に捕まる」
「夫は先に死ぬ、将来は孤独死だ」
「痩せてキレイになって死ね死ね団にいれてもらう」
妻がある日、こんな事を言い出したらどうするか!? 
早川いくを新刊「ウツ妻さん」今日発売!


とあり、添付されている本の画像には、帯に

特撮ヒーローがウツ病を退治する!?

毎日、過激に「不安」と「悲鳴」を量産するウチの妻。
「さびしい」と泣いていても、特撮ドラマには大興奮!
笑いあり、涙あり、変身ありの
ウツウツ闘病記。


といった文字が。

 さらに別の日にはこんなツイート

「電磁波がこわい、鉄塔がこわい」
「精子が死ぬから熱いお風呂入んないで」
「痩せてキレイになって死ね死ね団にいれてもらう」
妻がある日、こんな事を言い出したらどうするか!? 
早川いくを新刊「ウツ妻さん」発売中!


妻は不安を吐き続けた。最初は温泉ライオンだった。やがてそれはマーライオンになった。不安はパワーアップし、強大化し、ついには巨神兵のごとくなった。「うつ妻さん」好評発売中。


もあり、興味をもってAmazonで買ってみた(市内の本屋にはまだ入っていませんでした)。

 実のところ、最も惹かれたのは特撮ヒーロー云々の箇所なのだが、そのへんは全体の一部でしかなかった。
 本質は、家族の視点からのまさに闘病記。
 早川氏独特の軽妙な文体に救われつつも、内容は結構重たかった。
 この分野の嚆矢であろう『ツレうつ』のエッセイ版といった感じだが、マンガではなく文章なので余計にそう感じたのかもしれない。
 『ツレうつ』とは異なり当然男性視点で、似たような経験がなくもない私としては 共感できる部分が多かった。

 「ウツ妻もの申す」というコーナーで、氏の奥方・トト子さんはこう述べている。

特撮ものにハマったのは、今思うと現実に戻りたくない、ファンタジーの世界に浸っていたいという気持ちの表れだったと思います。


 私は、子ども時代に見ていた特撮ヒーロー物が、成人してからも結構好きで、今でもたまにお気に入りのエピソードを見返すことがある。
 本書で取り上げられている「レインボーマン」もその一つだ。中でも第2クール「M作戦」編(特にその前半)は必見。

 一方、最近の特撮ヒーロー物には全く興味が湧かない。というか、一般向けのドラマもほとんど見ることがない。

 これも一種の逃避なのだろうか。自分の子供時代に戻りたいといった。

 しかし、子供にはある意味「レインボーマン」の凄さはわからないだろう。
 成人して見返して初めてわかる子供向けドラマの凄さを再確認するというのは、単なる逃避ではないような気もする。
 トト子さんがハマったのが「レインボーマン」「快傑ズバット」という特撮ヒーロー物としては特異な作品だったのは、単なる偶然ではないのではないだろうか。

 そんな話はさておき、『へんないきもの』などで印象的な著者の文体が好きだという方なら、その点は全く変わりありませんので、本書は「買い」だと言えるのではないかと思いました。


政治家と学歴についてちょっと思ったこと

2013-03-19 08:27:07 | その他の本・雑誌の感想
 少し前に、小谷野敦の『天皇制批判の常識』(洋泉社(新書y)、2010)を読んでいたら、こんなことが書いてあって、笑ってしまった。

私はよく「学歴差別」をすると言われるのだが、〔中略〕学歴というのは能力であり、能力によって人が違う扱いを受けるのは当然のことである。そう言えば、東大を出ていたってバカはいるだろう、と言われるだろう。もちろん、いる。現実に何人も知っている。しかし、成蹊大卒の安倍晋三や、学習院大卒の麻生太郎の、ぶざまな総理ぶりを見たら、やはり学歴は目安になる、と思うだろう。
 〔中略〕高度経済成長以前なら、頭がいいのに家が貧しくて大学へ行けなかった、ないしは十分な勉強の余裕がなくて二流大学へ行けなかった〔ママ。二流大学へ「しか」行けなかったの意か〕、というようなこともあるだろうし、それはむろん勘案している。しかし安倍や麻生は、東大卒の政治家の息子や総理大臣の孫であり、そんな家に生まれて成蹊大や学習院大では、そりゃ頭が悪かったんだろうと思うしかないではないか。もちろん二人とも、私のこの予想には見事に応えてくれた。そして東大卒、スタンフォード大博士号の鳩山由紀夫は、国連で英語でちゃんと演説している。(p.180-181)


 そりゃあ確かに学歴はある種の能力の指標だろう。一般論としては、高学歴者はいわゆる頭が良い(頭の回転が早い、飲み込みが早い)ということになるだろう。
 しかし、いくら英語で演説ができたって(できないよりはできるにこしたことはないだろうが)、政治家としてダメなものはダメなのである。
 数年前まで、私は戦後歴代首相のワーストは芦田均だと思っていたが、今は何といっても鳩山由紀夫である。

 本書の奥付に記載されている発行月は2010年2月。原稿はまだ鳩山由起夫内閣の失態がそれほど露呈していない時期に書かれたのだろうし、今となっては小谷野もこんなことは言うまい。
 それにしても、鳩山由紀夫、邦夫兄弟の体たらく(邦夫は東大法学部卒。自民党下野後の2010年3月に、与謝野馨、舛添要一ら自民党離党者の「坂本龍馬をやりたい」として離党したが、彼らの糾合などできないまま無所属で過ごし、自民党が政権を奪回した後の昨年12月に復党を認められた。1990年代にも自民党の下野直前に離党し、新進党を経て由紀夫と共に旧民主党を結成し、現民主党の結成にも加わったが、やがて離党し、2000年に自民党に復党)は、頭が良いからといって必ずしも良い政治家とは限らないことを示しているのではないか。

 そもそも政治家の学歴はそれほど高いのか。また高学歴の政治家が優秀な政治家であったか。
 確かに東大卒の首相はたくさんいるが、あれは官僚出身だからだろう。高級官僚から代議士に転身するコースは戦前からあった。東大は高級官僚を養成するために設けられたのだから、多いのは当然だ。官僚出身でない、党人派の政治家には、東大卒はそれほどいなかったはずだ。
 ちょっと戦後の歴代首相の学歴を確認してみた(皇族の東久邇宮稔彦王は除く。明記しない限り中退は除く。また便宜のため当時と現在とで呼称が異なる場合は現在の大学・学部名で示した)。

 ○幣原喜重郎 東京大学法学部
 ○吉田茂   東京大学法学部
  片山哲   東京大学法学部 弁護士
 ○芦田均   東京大学法学部
■ 鳩山一郎  東京大学法学部 弁護士
  石橋湛山  早稲田大学文学部卒、宗教研究科修了
 ○岸信介   東京大学法学部
 ○池田勇人  京都大学法学部
 ○佐藤栄作  東京大学法学部
  田中角栄  中央工学校(専門学校)
  三木武夫  明治大学法学部
 ○福田赳夫  東京大学法学部
 ○大平正芳  一橋大学商学部
  鈴木善幸  農林省水産講習所(現東京海洋大学)
 ○中曽根康弘 東京大学法学部
  竹下登   早稲田大学商学部
  宇野宗佑  旧制神戸商業大学(現神戸大学)中退(学徒出陣、シベリア抑留による)
  海部俊樹  早稲田大学第二法学部
 ○宮沢喜一  東京大学法学部
  細川護煕  上智大学法学部 旧大名家
■ 羽田孜   成城大学経済学部
  村山富市  明治大学専門部政治経済科(専門学校に相当)
■ 橋本龍太郎 慶応大学法学部
■ 小渕恵三  早稲田大学第一文学部、同大学院政治学研究科
  森喜朗   早稲田大学第二商学部
■ 小泉純一郎 慶応大学経済学部
■ 安倍晋三  成蹊大学法学部
■ 福田康夫  早稲田大学第一政治経済学部
  麻生太郎  学習院大学政経学部
  鳩山由紀夫 東京大学工学部、スタンフォード大学大学院博士課程
  菅直人   東京工業大学理学部
  野田佳彦  早稲田大学政治経済学部

 ○は官僚出身。■は世襲議員(父から直接地盤を継承)。

 1960年代までは東大法学部出身者が多い。これは、官僚出身者が多いからだろう。当時のトップエリートはそうした層だったのだろう。
 しかし、やがて他大学出身者が増えてゆき、宮沢喜一を最後に東大法学部出身の首相はいない。
 また、東大の出身者も、宮沢の後は鳩山由紀夫だけしかいない。
 そういう点では、「よく「学歴差別」をすると言われる」小谷野にとって、鳩山は、久々に登場した東大卒の首相として、期待を寄せられる存在であったのかもしれない。

 そして、上記の東大卒の首相が、首相として、あるいは政治家として優秀であったか、非東大卒、中でもそうレベルが高くない学校卒の首相が、首相として、あるいは政治家として劣っていたかとなると、そういうわけでもないように思う。

 また、首相経験者や派閥領袖の2世、3世だからといっても、必ずしも派閥領袖や首相になれるというわけでもない。
 それを考えると、安倍晋三や麻生太郎は政治家としてそれなりに有能だったと言えるのではないだろうか。
 小谷野が言う意味で「頭が悪かった」とはそのとおりなのかもしれないが、そういう頭の良さだけで政治をするのではないからな。

 ついでに、最初の本格的な政党内閣とされる原敬内閣以後の戦前・戦中の首相の学歴も参考までに掲げておく(原敬より前は藩閥内閣の時代であり、学歴を云々しても意味がないので省略)。
 ▽は軍人出身。

 ○原敬    司法省法学校(のち東京大学法学部に統合)退校
 ○高橋是清  ヘボン塾(のち明治学院大学に発展)
 ▽加藤友三郎 海軍大学校
 ▽山本権兵衛 海軍兵学校
 ○清浦奎吾  咸宜園(広瀬淡窓が現大分県日田市に開いた私塾)
 ○加藤高明  東京大学法学部
 ○若槻礼次郎 東京大学法学部
 ▽田中義一  陸軍大学校 陸軍大将から政党政治家へ転身
 ○浜口雄幸  東京大学法学部
  犬養毅   慶応大学中退
 ▽斎藤実   海軍兵学校
 ▽岡田啓介  海軍兵学校
 ○広田弘毅  東京大学法学部
 ▽林銑十郎  陸軍大学校
 ○平沼騏一郎 東京大学法学部
  近衛文麿  京都大学法学部 五摂家
 ▽阿部信行  陸軍大学校
 ▽米内光政  海軍大学校
 ▽東條英機  陸軍大学校
 ▽小磯國昭  陸軍大学校
 ▽鈴木貫太郎 海軍大学校

 

『週刊ダイヤモンド』 新宗教特集

2009-09-11 22:28:50 | その他の本・雑誌の感想
 立正佼成会という新宗教がある。生長の家などと並んで、自民党の有力な支持団体である。

 ……と思っていたのだが、どうやらそれはもう過去の話だったようだ。

 今月7日発売の『週刊ダイヤモンド』9月12日号は新宗教を特集している。



 その最初の記事「総選挙の明暗! 新宗教代理戦争」(山口聖明)は、立正佼成会など70の新宗教団体が加盟する新日本宗教団体連合会(新宗連)が、民主党大躍進の立役者となったと述べている。
 自公連立の継続は立正佼成会など他の新宗教団体の反発を招いていた。民主党の熊谷弘(のち離党)は、同党の「宗教と政治を考える会」(宗政会)という議員連盟の初代会長となり、立正佼成会などの取り込みに成功していたのだという。熊谷の離党後、宗政会会長は仙石由人が務めている。新宗連は2007年の参院選比例区では民主2人、自民1人の候補を推薦して当選させており、新宗教票の民主党へのシフトは既に2年前に始まっていたのだという。
 世界救世教いずのめ教団も民主党のみ100人以上を推薦・支持し、崇教真光やPL教団も多くの民主党候補を支援したという。山口は、これら新宗教の支援と候補者の当落の状況について検証し、
あらためて、創価学会を除く新宗教が民主党になびいたことが見て取れる。国民と同じく、新宗教もまた自民党に愛想を尽かして行動を起こしたのだ。
と結論づけている。

 なるほど、自公連立が続けば、創価学会以外の宗教、ことに新宗教の反発を買うのは当然だろう。しかし、これまで私はそうした視点を全く欠いていた。そうした報道を目にした覚えもない。ためになる記事だった。
 自民党は郵政民営化で全国特定郵便局長会の支持を失い、農協や医師会といった旧来の支持団体も意のままにならなくなっているとは聞いていたが、宗教団体においても同様の現象が生じたということか。
 自公連立は自民党にとって麻薬に手を出したようなものだといった批判があったと記憶しているが、与党としての延命に寄与したにしろ、結果的には高くついたと言えそうだ。

 これ以外にも、本特集の記事には興味深いものが多い。
 新宗教に詳しくなく、現在の新宗教の状況について概観しておきたいという人には「買い」だろう。

 天理教は、奈良県の天理市を本部としているからそう呼んでいるのだと思っていたが、逆なのだそうだ。知らなかった。

 「池田大作のいない創価学会」(山田直樹)が次のように述べているのが印象に残った。
かねて池田は「いつかこの党が自立して、学会と離れるのではないか」という猜疑心を持っている。元委員長の竹入義勝、矢野絢也への執拗なバッシングを繰り返すのもそのためだ。いわば、現職議員の造反を防ぐ威嚇手段である。
 このバッシングを長年不思議に思ってきたのだが、そうなのか。
 創価学会も日蓮正宗から独立したわけだし(正確には破門されたのだが)、自らが同じ立場に立たされることを恐れているのかもしれない。

古田博司『新しい神の国』(ちくま新書、2007)

2007-12-08 23:58:30 | その他の本・雑誌の感想
 何だか森元首相の「神の国」発言を思い起こさせるような挑発的なタイトルだが、内容は、中国や朝鮮とわが国との文化の違いの指摘や、わが国は歴史的に東アジアではなかったとする、脱亜論ならぬ別亜論のすすめ。
 別亜論には大いに共感する。東アジア共同体なんてものを本気で支持しているような人は、少しはこういう本で頭を冷やした方がいいのではないだろうか。

 ただ、一点、どうにも気になった記述がある。

《日本人が選んだ道は、天皇を核とする立憲君主制であったが、それは国学や水戸学、ドイツ渡来の有機体国家論などにより、後に思想的にどんどん補強されて、国体思想が形成され、やがて大和民族の神聖国家のような有様になってしまった。
 そこで日本には今でも、「天皇制」の過去がどうしても許せないという人々がいる。日本共産党の三二年テーゼから始まり、「天皇制」を打倒してこそ日本人は絶対主義から解放され、個人になり得るのだと説く人々。戦時中に、天皇の名の下に徴兵され、軍隊で酷使されたことを未だ怨む人々もいる。明治以降、天皇を現人神にしてしまった国家神道を嫌悪し、靖国神社はその末裔であるからいけない、そう思っている人たちがたくさんいる。
 しかし、筆者はそのような議論にはいずれも与しない。そのような人々は、かつて朝鮮戦争は米韓軍の北進だと主張して北朝鮮を正当化し、単独講和反対や安保反対を唱えて日本を共産主義勢力に包摂しようと企て、戦争反対・文革万歳を叫んで中共の侵略的本性を糊塗し、北朝鮮の拉致は存在しない、核実験しない、ミサイル飛ばないと大合唱をした進歩的文化人や、良心的知識人に連なるのであり、筆者が青壮年期を送った冷戦という時代を振り返れば、それらの人々の責任の方が大いにあると考えられるからである。》

 これは、事態をあまりに単純化しすぎるものではないか。これでは、天皇制批判、旧日本軍批判、靖国参拝批判をしてきた者たちは、皆中国や北朝鮮の支持者であったかのようである。そう簡単に決めつけられるものではないだろう。

 タイトルの「新しい神の国」というのは、現代日本を指している。著者はわが国の現状に肯定的である。著者が結論部で示しているその点については私もおおむね同意するのだが、ただそれを何故「神の国」という言葉で表現しなければならないのかが、今ひとつ納得できない。

 しかし、興味深い記述(藤原正彦批判は痛快)も多々あり、わが国と東アジア諸国の歴史的関係に少しでも関心がある方には、面白く読めるのではないかと思われる。

高島俊男『漱石の夏やすみ』(ちくま文庫、2007)

2007-11-18 20:50:51 | その他の本・雑誌の感想
 『お言葉ですが…』『水滸伝の世界』などで知られる中国文学者、高島俊男の小著。2000年に朔北社から出版されたものの文庫化。私は高島ファンではあるが、本書の存在は知らなかったので、文庫化はありがたい。

 「漱石の夏やすみ」というと、作家夏目漱石が夏休みを取ってどこかへ行ったとかいう話かと思いきや、そうではない。
 漱石が第一高等中学校時代の夏休みに友人たちと房総を旅行し、帰京後に郷里松山で静養する級友正岡子規に、漢文による紀行文「木屑録」(ぼくせつろく)(注1)を送った。本書はその原文と高島による訳と解説、そして漱石と子規との交友や、漢文についての高島の考えなどを内容としている。
 第一高等中学校というのは、現在の中学や高校のことではない。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東大)に入るための予備課程であり、旧制第一高等学校(いわゆる一高)の前身である。「木屑録」を記した夏休みの時、漱石は23歳だった。

 私が本書を読んで面白かったのは、「木屑録」自体やその解説よりも、「「漢文」について」と「日本人と文章」の2章で示されている、高島の漢文に対する、そして日本文に対する考え方だ。

《いうまでもないことだが、支那にもいろんな気分の文章がある。おもおもしい文章もあるし、悲痛な文章もある。また、かるい調子の文章もあり、諧謔的な文章もある。
 ところがこれを漢文にすると、どれもこれも全部一律に、荘重な文章みたいになってしまう。まことにゆうづうのきかないものなのだ。
 たとえばここに、フランス語の文章を日本語にする翻訳家がいるとする。このひとは、フランス語ができるらしい。しかしこのひとは感覚に重大な難点があって、フランス語の文章の気分がわからない。硬軟の区別がつかない。だからこのひとが訳すと、原文がどんなものであろうと、全部おんなじ調子になってしまう。哲学の論文も、こどものよみものも、漫才も、このひとにかかるとみな同一の荘重体である。
 それのみではない。このひとは、ひとつのフランス語の単語に対応する日本語はひとつにきめてしまっている。〔中略〕前後がどうであろうと、どういう人物のセリフのなかにでてこようと、いっさい顧慮しない。
 こういうひとの訳した文章をよむ気になれますか? 到底なれませんね。
 カンブンとはそういうものなのである。》

 ではそういう漢文が何故、わが国で成立したのか、そしてどのように変化していったのかをわかりやすく説明している。

 さらに高島の話は日本語の文章に及んでいく。

《わたしのように日本をある程度そとがわから観察するたちばのものが見ると、日本というのはふしぎなくにで、このくにには、ずっとむかしからつい百年ほどまえまで、自分のくにのことばによる標準的な文章というものがなかったらしい。
 標準的な文章というのは、そのくにの知識人が普遍的にもちいるものであって、長期にわたって安定しており、国土内ならどこでも通用する文章である。そしてまた、それでもって歴史の記述もでき、法令や判決文も書け、政治や軍事を論ずることもでき、学問もでき、書翰や紀行文を書くこともできる、つまりどんな用途にもつかえる、そういう文章である。そういう標準的な文章がなくてよくやってこられたものだなあ、とふしぎに思うのである。
 支那にはある。「文言」とよばれる文章である。漢代、つまり西暦紀元のはじまる前後のころに確立して二十世紀のはじめごろまで、ざっと二千年ほどのあいだ安定していた。国土内ならどこへ行っても共通である。》

《実は日本にも、全国で普遍的に、知識人が書く――すくなくとも、書くことが期待されている――標準的な文章はあった。ただしそれは日本語ではなく、支那語の文章であった。》

《つまりむかしの日本のこどもと支那のこどもとは、おなじ本をつかっておなじことをやっていたのであるが、しかしその意味はまるでちがう。支那においては自分たちの言語である。〔中略〕はじめは意味不明のチンプンカンプンだが、こどもが成長して使用する言語も豊富になり高度になると、両者はぐんぐん接近する。〔中略〕
 日本のこどもが素読の際にもちいるのも無論日本語にはちがいないが、それははなはだ不自然な日本語である。それにそもそもよんでいる書物が外国語の書物である。
 さらに重要なことは、支那のこどもがよむのは、自分の民族の生活のなかからうまれた書物である、ということだ。それをおぼえるのは、わが民族の歴史や思想を知ることである。おのずから、自分たちの文化に対する愛着、ほこりが生ずる。
 日本のこどもにとってはそうではない。〔中略〕自分たちとは縁もゆかりもない、生活も習俗ももののかんがえかたもまるで異質の、よそのくにの土にはえたものをよむのであり、だんだんと上級にすすんでも、どこまでいっても支那人の書いた書物をよむのが学問なのであるから、日本の学問は根なしぐさである。現に自分たちがいきている日本の社会とも日本人の生活とも、すこしもきりむすぶところのない、単なる知識である。》
(青文字の強調は引用者による。以下同じ)

《ではなぜ日本人が、そんなに苦労をして支那文を書く訓練をし、また支那文を書けるようになることを重要視したのかといえば、それにかわるものがなかったからであり、日本語は支那語とちがって低級なものだと思っていたからである。新井白石などごく少数のひとを例外として、日本語を格調あり気品ある言語にきたえあげようとする意思がなかった。あたまから、支那語支那文に跪拝していた。》

 朝鮮語についてよく聞くような話だが、日本語も似たような状況にあったらしい。

《しかし、まったくむだであったわけではない。自分たちとは無縁の生活に根をもち、自分たちの知らない言語で書かれた書物をよんで理解する、さらにその文章をまねして書くためには、つよい知的腕力を要する。日本人の、こどものころからのその訓練が、日本人の頭脳をきたえた。あたまの体操には、たしかになった。そうやって代々きたえてきたあたまで、日本人は幕末維新をのりきり、西洋の文化をうけいれ、あるいはたちむかった。その点、自分たちの生活、言語、文化しか知らなかった支那人よりずっと有利だった。》

 日本語を軽んじ、外国語である支那語、支那文を重視していたために、同じく「よそのもの」である西欧文明にも速やかに対応することができたと高島は説くのである。
 したがって高島は、歴史上、漢文が果たした役割については認めている。しかし、現代の国語の授業で漢文を教えることは「バカバカしい」「さっさとよすべし」と断じている。

 さらに、次のような興味深い指摘もある。

《そのかわり日本の知識人は、概して自分のくにのことには無知である。これは、支那の知識人が自分のくにのことしか知らなかったのと好対照である。〔中略〕
 漱石は「文學は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左國史漢より得たり」といっている。古今集や源氏物語から得たのではないのである。――なお、左國史漢は、春秋左氏傳(左傳)、國語、史記、漢書。〔中略〕おおくのばあい、支那の史書、あるいはさらにひろく支那の古典籍の意にもちいる。
 福澤諭吉はこどものころ本をよむのがきらいで、十四五になってから「近所に知て居る者は皆な本を讀で居るのに、自分獨り讀まぬと云ふのは外聞が惡いとか耻かしいとか」思って塾へゆきだしたのだそうだが、〔中略〕右文中に見える書物、もちろんみな支那の本である。いまの大学教授よりよほどよく読んでいる。
 そのかわり福澤諭吉は、万葉集も古今集も、枕草子も徒然草もよんだことはなかっただろう。通読はおろか、一部分もよんだことはないであろうと思う。
 これはなにも、福澤諭吉が特別のひとだったというのではない。いまのひとはそうしたいわゆる日本古典を学校でおそわるから、むかしの日本人も当然おそわりまたよんだことだろうと思うが、そうではない。そういうものを見るのは一部のひと(国学者とか歌人とか)であって、日本の知識人の中核をなす全国各地の武士は日本古典などとは無縁であった。そもそも「日本古典」というのが近代になってからのことばである。》

《日本は、明治の最初の十年で、ふるいうわぎをぬぎすててしまった。十年たってみると、日本中の男の子が〔中略〕みなきれいに英語にのりかえていた。ついこのあいだまで日本中で素読のこえがしていたのに、たちまちいまは日本中に英語練習のこえがひびきわたっている。〔中略〕
 明治十年代の反動で漢文は多少いきをふきかえしたが、おおむね明治期(明治四十年ごろまで)をとおして、風流韻事である。すなわち学問は法律理財哲学歴史から医学農学物理天文まですべて西洋の学である。
〔中略〕
 日露戦争に勝って国家は目標をうしない民心は渙散した。自由と個性の大正時代はおおむね明治四十年ごろからはじまる。
 国家はこの民心渙散を恐怖した。大逆事件の度はずれた苛刻な判決はこの恐怖のあらわれである。
 なにによって国民のこころをまとめるか。「文明開化、富国強兵」のスローガンは日露戦争の勝利をもって用がすんだ。もうやくにたたない。天皇のもとに帰一せしめるほかない。しかしなにをもって?
 ここで国家が「五十年まえの塵溜から拾い出してきた赤錆刀」(末弘嚴太郎の言)が、孔子孟子、すなわち漢文であった。〔中略〕
 東京帝国大学の漢文科が国家教学の総本山にしたてられた。元来「まごころ」というほどの意味であった「忠」が、もっぱら天皇への帰服の意にもちいられることとなった。孔子は支那人に相違ないが、しかし孔子の精神は支那においてはとうのむかしにたえはて、わがくににおいてただしくうけつがれてきた、と教授たちは主張した。漢文の目的は教育勅語の精神をのべひろめることにある、と明確に規定された。全国の中等学校の「漢文」はこの趣旨による道徳教育の教科になった。支那人のつくった書物が天皇に対する純一無雑の忠誠をおしえているとはおわらいぐさだが、大正と昭和の二十年たらずとはこのおわらいぐさの時代である。
 すなわちおなじ漢文が、幕末から大正期までのほんの五十年あまりのあいだに、「学問のすべて」から「風流韻事」へ、そして「天皇帰一の国家教学」へと変転したのである。》

 現代の国語教育における漢文とは、その残滓ということなのだな。
 なるほどそれでは「さっさとよすべし」となるのも無理はない。
「孔子の精神は支那においてはとうのむかしにたえはて、わがくににおいてただしくうけつがれてきた」
 これも、清朝時代の李氏朝鮮で、似たような説が唱えられていたことを思い起こさせる。
 儒教という点では、わが国と朝鮮は似た部分が多いのかもしれない。

 高島ファンならもちろん、日本語と漢字の関係などに思いをめぐらしたことがある方には面白く読めると思います。

(注1)「木屑録」の「録」の字は、正しくはかねへんに「碌」のつくりの部分になっているが、パソコン上で見当たらなかったため、「録」で代用した。

(付記)引用文を読んでいただくとわかるように、本書の文章はやたらとひらがなが多い。これは、和語(本来の日本語)はできるだけかなで書くべきであるという著者の持論によるものである。ただし、私はこの論には同意しない。

呉智英『健全なる精神』(双葉社、2007)

2007-06-23 10:36:56 | その他の本・雑誌の感想
 小谷野敦が、こんなことを述べている。

《若いころ呉を読んでいた時、私は、左翼(=戦後民主主義)を批判しながら、保守派知識人をも批判する呉の「自由人」的なスタンスに、まあ「しびれた」。》(『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)p.124)

 昔は、私も大いにそうだった。

 しかし、前にも書いたことだが、最近の呉には、以前ほどの魅力を感じない。
 これは、一つには、私が年をとって、呉の主張に慣れて、飽きてしまったためだろう。
 また、呉の主張は本当に正しいのか、ある種の極論で世間を驚かせているだけなのではないか、あるいは、面白さを優先するあまり正確性に欠けることが多いのではないかという疑問を強く覚えるようになったためでもある。
 さらに、これは呉による啓蒙の成果なのかもしれないが、呉の近代主義批判、民主主義批判、大衆批判といったものは、多少なりとも物事を考える人々にとっては、もはや共通認識になっているようにも思われるということもある。
 だからといって、近代主義を廃して、呉の言う「封建主義」に復帰するわけにもいかない。結局は近代主義を地道に改良していくしかあるまい。
 呉にもその程度のことはわかっているはずだが、それでも、古くからの読者には手垢の付いた感のある、年来の主張を繰り返しているだけのように思える。

 本書は、そんな呉の最新刊。『産経新聞』の名物コラム「断」をはじめ、近年の様々な新聞や雑誌に掲載された文章が収録されている。

 呉が長年主張してきた、「すべからく」の誤用の指摘や、「支那」は差別語ではないといった論説が本書にも見られる。
 呉は還暦を迎えたという。今後も「すべからく」や「支那」を語り続けて、評論家としての一生を終えるのだろうか。これまでの呉の活動を考えると、どうもそんな気がする。

 それでも、いくつか注目すべき箇所はあったので、書き留めておく。

○「オカルトまみれの産経新聞」と題する文で、
・2004.9.6付け同紙の「正論」欄に、村上和雄・筑波大学名誉教授による「人の思いは遺伝子の働きを変える」との主張が掲載された
・2005.1.28付けの同欄では、女性実業家吉川稲美の、近年の災害は「人間のエゴが引き起こしているように思えてなりません」という主張が掲載された
・2005.3.23付け同紙では、「子供の三割が胎内記憶を持ち、二割が誕生時の記憶をもっていると、六段抜きの大記事を載せている」
ことを挙げ、
《保守反動が概してオカルトと結びついていることは興味深い。同時に前引村上和雄の「人間は、素晴らしい可能性を誰もが持っている」という発言に見られるような民主主義・人権思想まる出しの思想が現代オカルティズムの土壌になっていることも、これまた興味深い》(p.159)
と述べている。

○「断」の「マンガな日本語」で、小池一夫が代名詞に必ず傍点を付すこと、「ん」を全て「ン」としていることを批判。
 これは、多くの人が気付いているのだろうが、正面からの批判はあまり目にしない。
 呉は、単行本化に伴い付けられた補注で、
《小池一夫が斯界の超大物であるため、編集者は誰もこのおかしさを指摘できないのかもしれない。小池の原作原稿は一字一句の修正も許されないといった話も聞いたことがある。》
《どうも、小池一夫は字音という概念を理解していないようだ。》
とも述べている。

○岩中祥史『中国人と名古屋人』(はまの出版)という本は、内村鑑三が中国人と名古屋人の類似性を指摘していることを前提に、両者を比較して書かれたもの。しかし、内村の言う中国人とは支那人ではなく本州西部の「中国」人、つまり山口人・広島人であるのにもかかわらず、岩村はこれを支那人のことと勘違いして本一冊を書いてしまったという。
(この話は、以前にも聞いたような・・・・)

○2004年に刊行された宮嶋博史、李成市、尹海東、林志弦の共著『植民地近代の視座―朝鮮と日本』(岩波書店)という本の広告の「近代とは、すべからく植民地近代である」というアオリに噛みついている。
《こうもぬけぬけと植民地主義を賛美した書物を私は知らない。近代国家は、近代人は、義務として植民地主義の道を歩まなければならないと言うのだ。》(p.154~155)
《近代という時代では植民地主義が当然であり、義務であるなどと臆面もなく主張して、よく歴史家を名乗れるものである。〔中略〕宮嶋、李、尹、林らの植民地主義賛美には、開きなおった近代国家主義しか感じられない。岩波書店も落ちるところまで落ちたものである。》(p.156)
 これは「myb」という雑誌に載ったエッセイだそうだが、「断」でも同趣旨のことを述べている(p.232)。
 これらを読んだ読者のうち、呉の主張に慣れ親しんでいいない人、あるいは注意深く文章を読まない人は、この本は植民地主義を当然であり、義務であるとし、賛美するものなのか、岩波書店は右派出版社に転向したのか? と誤解するのではないだろうか。
 しかし、呉の本意は、単に、上記の「近代とは、すべからく植民地近代である」の「すべからく」は誤用であるということにある(呉の主張も含め、「すべからく」について、はてなダイアリーにわかりやすい解説がある)。
 この広告のアオリを考えた人は、おそらく「すべからく」を「すべて」の高級表現だと考えているのだろう。しかし、「すべからく」とは、「すべからく・・・・・・すべし」といったかたちで、「○○するのが当然」「○○する必要がある」といった意味で用いられるべきものだ。「近代とは、すべからく植民地近代である」という言葉は、「近代とは、すべて植民地近代である」ではなく「近代とは、植民地近代であるべきである(あらねばならない)」といった意味になってしまう。呉は、その誤用を逆手にとって、この本の著者や岩波書店を植民地賛美者だと揶揄しているにすぎない。本気で彼らがそうだと論じているのではない。イヤミである。現に、呉は本の内容には全く触れていない。
 しかし、このエッセイ中、「すべからく」の誤用についての説明はないので、呉という人物やその主張を知らない人や、「すべからく」の意味に通じていない人が読んだら、上記のように本書を植民地賛美の書と誤読するのではないかと、私は思う。
 これは、読者をミスリードするものではないだろうか。呉は、結果的にそうなってもかまわないと考えているようにも思える。
 こういう点も、私が近年の呉の言説に対して強く違和感を覚える理由の一つだ。

 小谷野は、呉の『読書家の新技術』を、十年近く座右の書としていたという。
《だが、私も、呉が『読書家の新技術』を書いた年齢になった。私なりに、呉の勧めるやり方への疑問も生まれる。初版刊行から十七年たって、やはり知的状況も変わってくる。相撲の世界では、稽古を付けてくれた別の部屋の先輩力士に本場所で勝つことを(同部屋の兄弟子には本場所では当たらないので)「恩返し」という。もうそろそろ、呉に「恩返し」してもいいのではないか、と思ったのである。》(前掲『バカのための読書術』p.18)
 そういう思いで書いたのが、『バカのための読書術』であるらしい。

 私は、プロの物書きでも何でもない。小谷野を引き合いに出すなどおこがましい限りだが、かつて呉を愛読していた私にも同様の思いはある。微力でも、少しずつでも「恩返し」していきたいと思う。
 

最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007)

2007-05-23 07:18:58 | その他の本・雑誌の感想
 ショートショートの第一人者とされた星新一(1926-1997)のおそらく初の本格的な評伝。

 著者は、『絶対音感』などで知られるノンフィクションライター。
 「あとがき」でこう述べている。

《私は、生前の星新一に会ったことはない。中学生だった七〇年代に熱中した数多の読者のうちのひとりにすぎない。
 〔中略〕
 ところが不思議なことに、図書館にあったシリーズを全部読み終えてしまうと、ぱたりと関心を失った。あれほど熱中したのに、まるで憑き物が落ちたように読まなくなり、星新一から離れていった。》

 私もそうだった。
 私は中学の時に、父親の本棚にあった『ボッコちゃん』から入り、ハマった。
 なけなしの小遣いでいくつかの短編集を買うとともに、市立図書館にあった作品集を読みあさった。一部の長編を除いては、当時図書館で読めたほとんどの作品を読破したと思う。
 そこからさらに小松左京や筒井康隆、眉村卓、光瀬龍といったSF作家に手を伸ばしていったが、一方、その後は星新一の作品にはあまり興味を持たなくなっていった。
 やがてSF小説も読まなくなり、しばらくして日本の近現代史に興味を持ち始めたころ、星の『人民は弱し 官吏は強し』(父、星一(ほしはじめ)と官僚との闘いを描いた伝奇小説)や『明治の人物誌』(後藤新平、新渡戸稲造など星一と親交ないし関連のあった人物を描いたノンフィクション)を読んだ。これらは面白く読めたものの、どうも物足りない感じが残った。あまりにきれいごとで済ませている感じがしたのだ。

 著者は、星新一の、否定的な面も含めた全人像を明らかにしようとしており、評伝としては逸品だと思う。
 上記の物足りなさを感じていた人にも、得るところは大きい。
 かつて星の熱心な読者であり、現在も忘れがたい思いを抱いている人には、是非一読をお勧めしたい。
 また、日本SF創世記の証言集としても、貴重な作品になると思う。

 読了後、本屋で『ボッコちゃん』を立ち読みした。
 ああ、こんな話があったなあ。
 しかし、正直、また買って読んでみたいとは思わなかった。
 私が未読の、シュールな作風と言われる末期の作品群ならまた別かもしれないが。

 そういえば、昔誰かが、マシュマロのように口当たりが良すぎる、あまりに簡単に読めてしまうと評していた。
 確かに、星の作品にはそうした傾向があると思う。
 しかし私は、星の作品が好きだったし、彼によって小説を読むことの面白さ、そしてSFや歴史について導いてもらったとの思いが強い。そういう点で忘れがたい作家であり、私は本書により星の人物像に触れることができて良かったと思っている。

堀井憲一郎の「セクシーボイスアンドロボ」評

2007-05-22 21:31:36 | その他の本・雑誌の感想
 堀井憲一郎が、先週発売の『週刊文春』5月24日号の連載「ホリイのずんずん調査」で、ドラマ「セクシーボイスアンドロボ」を取り上げている。「伝説になりそこねたドラマ」というタイトル。1~5話までの感想。
 曰く、
・人気はない。
・1、2話はおもしろかった。2話は泣けた。
・「また、伝説のカルトドラマ創世現場に立ち会うのかとおもったら」、「3話ですこしトーンが変わり、4話5話とドラマの緊張感が落ちた」「伝説的カルトドラマにもならないだろう」
――とのこと。

 私はむしろ、その「泣ける」要素がうっとうしくて、3話以降の方が良くなってきたと思っていたので、こんなふうに観る人もいるんだなあと、意外な思いがした。

 検索したら、
http://weekly.yahoo.co.jp/10/review/dorama4/index.html
http://dogatch.jp/blog/horii/2007/04/post_21.html
堀井は当初かなりこのドラマに入れ込んでいたらしい。

 上記の「ホリイのずんずん調査」の記述から。

(1話で)《ドラマ世界には意味不明の暴力が満ち溢れていて、人と人のコミュニケーションが適当に描かれていた。少なくとも丁寧な説明でストーリーを進めていく気はないようだった。〔中略〕都市のドラマを作りたい、という意志を感じました》

(2話で、強盗が)《謝るシーンが泣けました。〔中略〕ここで誰でも泣くだろうとおもったら、そうでもないらしい。個人の問題のようだ。つまり、おれがもう会えなくなった彼女にこう謝りたいってことなんでしょう。謝っても何ともならないと知っていて、でも謝りたいんだよ。自分のためにね》

 私はあの謝罪シーンを観て、ひどく押しつけがましいものを覚えた。こんなもんで泣けるかよ、と。でも、その種の体験をもつ人は、全く違った受け取り方をするんだなあ。

《でも、2話までだった。3話で死が遠ざけられ、4話からは暴力も排除された。人と人との関係を描こうとしているようだ。それじゃふつうだ。都会的でもない。残念だ。もうどこにも連れていってもらえなさそうだ》

 「都市のドラマ」か。さすがにプロだ。視点が違う。そんなこと考えてもみなかった。
 
 ただ、私としては、原作に忠実なドラマも見てみたかった。

 今日の話も、予告を見るかぎり、あまり期待できそうにないし。

 とか思っていたら、何と、今日10時から放映予定の第7話を、第2話に差し替えることになったと、さっき知った。
 えー何でー。

 読売の記事から。

《第7話はファミリーレストランで起きた立てこもり事件に主人公らが巻き込まれる設定で、愛知県長久手町の籠城(ろうじょう)・発砲事件を想像させるためとみられる。来週は第8話を放送する。第7話の放送は未定。》

 だいぶシチュエーションが違うと思うのだが。
 それに実際の事件はもう解決したわけだし。

 それとも警官が撃たれるシーンでもあるのか?

 今日の朝刊には7話の予告が載っていたのだから、その後に急遽決まったのだろう。クレームでも来たのかな?
 堀井によると低視聴率らしいから、それに加えていらんことで注目されて、さらに足を引っぱるようなことは避けたいということだろうか?
 それとも、幻のエピソードといった、ある種の話題づくり?

 7話自体は未見なので何とも評しがたいが、直前で差し替えが決まったという点が、どうにも釈然としない。




西義之『変節の知識人たち』(PHP研究所、1979)

2007-05-05 00:16:40 | その他の本・雑誌の感想
 昔読んだ本だが、ふと思うところがあって、読み返してみた。

 著者は1922年生まれのドイツ文学者。60~80年代に保守系言論人として活動したらしい。近年の動静は不明(ネットで検索してもよくわからない。同姓同名のマンガ家が現在活躍中らしく多数ヒットする)。同じくドイツ文学者の保守系言論人としては竹山道雄や西尾幹二が著名だが、両者の中間の世代に当たる。

 本書は雑誌に発表した文章を全面改稿したもの。
《第一章 われらが天皇を愛すべし ―津田左右吉の戦後
 第二章 変ったのは誰なのか! ―天皇論をめぐる戦後思想界
 第三章 文化外圧と日本人 ―文化大革命への反応》
の3章で構成。1章と2章は津田左右吉の天皇論をめぐる戦後知識人の動向を、3章はタイトルどおり文化大革命をめぐる戦後知識人の動向を論評したもの。
 
 津田左右吉(1873-1961)は歴史学者。戦前、古事記や日本書紀の内容についても、通常の歴史学と同様の史料批判を行うこと(記紀批判)を主張したことで知られる。そのため、国粋主義者から攻撃を受け、一部の著作は発禁とされ、さらに出版法違反で執行猶予付きの有罪判決を受けた。逆に戦後は、進歩派陣営からヒーローとして迎えられた。
 しかし津田は、皇室を崇拝する保守主義者であり、天皇制と民主主義は両立すると説いたため、天皇制廃止を志向する進歩派の期待は裏切られた。この津田論文を掲載した雑誌『世界』の吉野源三郎編集長は、巻末に、自身が津田に書き直しを懇請し、快諾を得たと明らかにしたという。書き直させたことを何故公表する必要があるのか。それは、編集部として修正を求めたけれども出来上がったのはこの程度のものだった、その内容に編集部としては必ずしも同意しているわけではないという表明ではなかったか。
 著者はのちに発表された吉野の回想を用いて、当時の津田論文をめぐる吉野の対応を批判している(1章)。

《氏は津田の天皇論が「学者としての権威に裏付けられている」ことを、一応承認する。吉野氏はこの方面の専門家ではないが、それでも津田が正しいのではないか、少なくとも説得的ではあるまいかということを予感しているらしいのである。だからといって津田に賛成するかと言うとそうではない。逆である。説得力があると感ずれば感ずるほど、敵に利用されるのではないかと恐れているかのごとくである。
 戦後史においてかなり長い間、このような論理が影響力をもっていたような気が私にはする。かなり長い間というのは、私がドイツの難民について関心を抱いたころにも―つまり六〇年安保の近くでも―ときどき耳にしたからである。
「それは真実かも知れぬ、しかし、いまそれを言うと敵を利するだけである!」。この論理によって、日本の戦後は、社会主義国家の欠陥を指摘することをタブー視してこなかったか? スターリン批判もこの国では、いつのまにか曖昧とならなかっただろうか? ハンガリー動乱も、東ドイツ、ポーランドの内乱も、東ドイツからの難民流出も、この論理の前にいくどかほかへそらされてしまわなかっただろうか?》(p.53~54)

 やがて津田は変節漢、転向者と非難され、家永三郎からは「蓑田胸喜の亡霊が乗り移ったという印象」「権力のイデオローグ化した思想家」とまで評される。著者はこれに対し、津田は断じて変わらなかった、変わったのは周囲の現実であると述べている(2章)。

 3章は、文革を支持し擁護した日本の一部知識人の言行を論評したもの。
 この種のものは他にもあるが、あまり指摘されることがないであろう点が2つ、目についたので、書き留めておく。
 一つは、文革中に投獄された日本人がいたということ。1967年12月、柿崎進さんとその次女久美子さんは、天津革命委員会にスパイとして逮捕され、紅衛兵たちの法廷で裁かれ、天津の監獄に延べ1532日間投獄され、72年に国外追放されたという。当時14人の邦人が同様に検挙されたが、この父子以外の人々は災難と諦めて口を閉ざしてきたが、柿崎さんだけは無実を訴え続けたところ、中国側もそれを認めて謝罪し、父子を招待したというニュースが、78年の『朝日新聞』で報じられたという。
 父子の無実の訴えに対して、日中友好運動の関係者の対応は、全く冷たかったそうだ。父子の支援者はこう語ったという。
「異国の、非公開裁判の裏情報をうのみにして、絶望の日々を送る家族の不安、願いに耳をかそうともしない。これでも日本人なのか」
「長いものには巻かれろ、という日本人の卑屈さ、トラの威をかるキツネみたいに、中国の御用聞きをしてのさばっている中国屋たちの、軽率さ、いやらしさ。こんどの出来事は、中国人の問題である以上に、私たち日本人の心の貧しさを浮彫りにした面があった」
 近年の北朝鮮による日本人拉致問題への親朝派の対応を思い起こした。
 このころに比べれば、日本人も少しはマシになったと言えるだろうか。

 もう一つは、「ふたたび茶番を演じないために」という一節で、次のように述べられている点。

《とくに中国に対しては、私たちはややもすれば、自分の感情を投入しすぎるきらいがある。(中略)二子山親方は、帰ってからすっかり中国びいきになったそうだ。会う人ごとに、一時は中国を讃歎してやまなかったらしいが、その言葉はいつも次の一句で終っていたという。
「中国はいいですよ。若いものがきびきびと規律正しくて、まるで日本の戦時中のようじゃった」
 自民党のあるタカ派議員が中国を訪問して、やはり同じような感慨を洩らしたことが、新聞をにぎわせたことがあった。
(中略)
 たしか中国訪問して、日本には自由が多すぎると発言したのは石川達三だったようだ。共通しているのは、自己への嫌悪、自己の住む自由世界(資本主義社会)への反発、自由放恣に見える若い世代への不満、贅沢と過剰への後ろめたさ、逆に言えば、純真、規律、醇乎、献身、簡素への憧憬、それらは発言者の思想方向の左右を問わず共通のものとして存在するようである。
 重要なのは、それらを新しい中国のなかに見たように思うことだろう。いかにも革命に湧き立っている新生・中国のことだから、理想への献身、厳正なる規律などが支配していることはたしかであるが、それは日本のような自由主義社会においてもないわけではない。日本の社会が退廃一色でないと同様、中国の社会も純真と規律で塗りつぶされているのではない。常識をもってすれば、それらは当たり前すぎることであるが、社会主義国家においては、自由主義国家には不足乃至欠如する、それらの徳目を見たと思うのであろう。
 思えば―中国に限って言えば―戦前・戦中のいわゆるシナ浪人といわれた人たちにも、その自己の心情の過剰なる投影があったように思う。今日の中国観にも彼らと、しばしば似たところがあるように思われる。
(中略)
 中国の文化大革命と日本の知識人との関係は、ひろく言って外国との文化接触の問題を考える歴史的な事件となるだろう。しかし私たちが、この経験をこれからもくりかえすか、くりかえさないかは、だれも言うことはできない。私たちは、これまでも何度も、性こりもなくこの経験をくりかえしているからである。
(中略)
 日本人が―いや、人類が―歴史に学ぶことができるかどうか、疑わしいところもあるが、にも拘わらず、私たちは何度でも歴史をふりかえってみようと呼びかけねばならないだろう。》(p.201~205)

 以上のほかにも、興味深い記述が散見される。
 
《いずれにせよ、叱責されるたびに彼らは「恐懼おく處を知らずして退出」するのだが、本当に恐懼したのかどうか、面従腹背というべきか、あとはケロリとして天皇の叱責もヌカに釘、つねに無視してしまうのである。さきの原田日記の一節「これは又瞞すのかと思召されたらしく」は痛烈である。ひょっとすれば、天皇は事変のはじめから、自分がていよくダマされていることを自覚されていたかも知れないと想像したくさえなる。(中略)天皇と国民(の一部)との関係は、「宸襟を安んじたてまつる」などの美辞麗句とはまったく縁もゆかりもないどすぐろい不信の関係だったようにも考えられる。(中略)
 ひょっとすれば美濃部達吉や津田左右吉の天皇観は、この不信の関係をいかにもありそうな忠君愛国で飾ろうとする偽善への怒りから発していたかも知れない。東京裁判で被告たちが、天皇を戦争責任から遠ざけようとしたとき、はじめて彼らはその生涯において「忠義」を示したのかも知れない。》(1章、p.38~39)

《戦後、日本には俄かづくりの「民主主義者」「戦争反対者」が満ちあふれた。平和と文化国家が突然、この国の合い言葉となった。こんなに沢山の民主主義者がいたのに、どうして結核の私が軍隊に引っぱられ、やがて乞食同然の外地引揚家族と、馬小屋を改造した、その名も「平和寮」という板張りのバラックに住まなければならなかったのか?
 戦中派たるもの、いささか憮然たる思いであったことは書いておいてもいいであろう。》(あとがき、p.207)

 著者の名は、近年まるで聞かない。私は本書ともう1冊しかこの著者の本を読んだことはないのだが、今日においても十分読み返すだけの価値はある文章だと思う。

(引用文中、旧かな、旧漢字は新かな、新漢字に修正した。また傍点は省略した)

(以下2011.2.11付記)
著者は2008.10.9に86歳で逝去されたと2009年1月に公表された。