トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

安倍元首相銃撃翌日の朝日社説に思う

2022-07-10 16:35:56 | マスコミ
 朝日新聞は7月9日の朝刊1面で安倍元首相の死亡を報じるとともに、社説「民主主義の破壊許さぬ」をも1面に掲載した。

銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である。全身の怒りをもって、この凶行を非難する。同時に、亡くなった安倍元首相に対し、心から哀悼の意を表する。

 参院選の投開票日の直前に、しかも街頭で遊説中に、現役の有力政治家である安倍氏が撃たれたことはあまりにも衝撃的だ。

 選挙は、民主国家の基礎中の基礎である。そこでは思想信条の自由、言論・表現の自由、投票の自由が、厳格に守られなければならない。

 その選挙を暴力で破壊する。自由を封殺する。動機が何であれ、戦後日本の民主政治へのゆがんだ挑戦であり、決して許すことはできない。その罪の危険さ、深刻さを直視しなければならない。


 太字で引用した選挙の自由の重要さについては、全く同感である。

 しかし、朝日新聞は、安倍政権時代に、首相による選挙演説の妨害を肯定するスタンスの記事を載せてはいなかったか。

選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/5cee84aecaa464a38ad31e214b00ecb7

朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/636376c375737c82704df8a62ecc3477

 こんな新聞がいくら美辞麗句を連ねたところで、私には全く心に響かない。

政治家は有権者に選ばれ、「全国民の代表」として活動する。任にあらずと見なされれば、選挙で退場させられる。長く政権の座にあった元首相ともなれば、その実績は後世の厳しい吟味を受けるだろう。政治家は皆、いわば「歴史法廷に立つ被告」(中曽根康弘元首相)である。

 そうだとしても、凶器により生身の肉体をもって裁かれるいわれはまったくない。


 それはそうだが、この一節はいったい何が言いたいのだろうか。暴力は許されないが、言論で政治家が厳しく批判されるのか当然だという予防線か。
 政策や人格について政治家が批判を受けるのは当然だろう。しかし朝日は、安倍氏の出自までをも批判の材料にしてやしなかったか。

さりげなく安倍晋三の出自を攻撃する朝日
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/cc8fd27ee8720ab7ff5e0ddc0d97ca95 

 戦前日本の一時期は、5・15事件、2・26事件といった政治的テロが頻発する時代だった。その果ての太平洋戦争の敗北まで、いかに多くの犠牲者が国内外で出たか、改めて銘記しなければならない。

 戦後も、政治家や言論機関を狙ったテロがなくなったわけではない。しかし、私たちはそのつど、卑劣な行為への憤りを分かち合い、屈することなく、ひるむことなく、ともかくも自由な社会を守ってきた。その尊い営みを未来に引き継がなければならない。

 まずは捜査当局に、事件の背景の徹底究明を求める。有権者は、大きな驚きに耐えつつ、投票日に臨もう。

 21世紀に入り、世界各地で民主主義の失調があらわになった。米連邦議会への暴徒乱入はその象徴かと思われたが、今回、日本が直面する危機も深い。

 民主主義を何としても立て直す。決して手放さない。その覚悟を一人ひとりが固める時である。


 朝日新聞が民主主義を支持し、手放さないと誓うのは同紙の自由だ。だが、国民全てが民主主義者であり、その存続を願っているとは限らない。にもかかわらず、「その覚悟を一人ひとりが固める時である」と強要し、思想の統制を図る。こんなことで「自由な社会」が守れるのか。
 私は民主制を支持しているが、こんな社説で「覚悟を」「固め」たりはしない。空虚な思いが募るだけである。

「#検察庁法改正案に抗議します」でお祭り騒ぎの朝日新聞を読んで

2020-05-12 17:24:20 | マスコミ
 今朝の朝日新聞の1面トップ記事の見出しは
「抗議ツイート急拡大
 検察庁法改正案 なお強行」。

 1面の記事には、

ツイッター上では9日夜以降、俳優や歌手ら著名人から「#検察庁法改正案に抗議します」という投稿が相次いだ。リツイートも繰り返され、投稿の数は、11日午後8時すぎで680万件を超えた。


とある。
 Twitterをよく知らない人が見たら、680万人もの人が抗議しているのかとさぞ驚いたことだろう。

 2面は
「「火事場泥棒」「後付け」批判」
「検察内にも異論「唐突な特例」」。
 3面は法制法案の問題点、4面は国会での論戦を大きく取り上げ、10面の社説は「検察庁法改正 国民を愚弄する暴挙だ」、25面にも「芸能人に変化? 政治的ツイート続々」。
 お祭り騒ぎである。

 社説のタイトルを見て、どう国民を愚弄しているというのかと読んでみたら、末尾に

 コロナ禍で人々は検察庁法どころではないし、最後はいつも通り数の力で押し切ればいい。政権がそう思っているとしたら国民を愚弄(ぐろう)すること甚だしい。


とあるのをタイトルにとったようだ。
 たらればの話で「愚弄する暴挙だ」と断じるとは、こちらが愚弄されている気にさせられる。

 25面の記事には、こうある。

歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんは、いったんは法案への反対を表明したが、おって削除した。ファン同士で意見が割れ、「激論が繰り広げられて悲しくなり消去させて頂きました。」と理由を書き込んだ。「政治を勉強してから発言を」「歌手は歌っているだけで良い」といった攻撃も目立つ。


 だが、削除を伝えるツイートできゃりーさんがこう続けていることには触れない。

若い方でもわかりやすいように画像を掲載させて頂きました(この画損は間違えてる等の指摘も頂きました。ごめんなさい)


 きゃりーさんが載せていた画像とはこれである。



 間違えているというか、端的に言って誹謗中傷ではないかと私は思う。
 いちいちどこがどうと口にしたくもない、くだらないレベルのものである。

 今日、「#検察庁法改正案に抗議します」のハッシュタグを付けたツイートでこんな画像も見かけた。



 なるほどこれらの事件は確かに不起訴になっている。
 しかし、黒川氏が不起訴にしたとはどういう意味だろうか。事件を直接担当した検察官でもなく、その直属の上司でもない黒川氏が、どのように影響力を行使したというのだろうか。
 仮に黒川氏一人の力でこれらの事件が不起訴になったのなら、その他の検事総長をはじめとする検察官はいったい何をしていたのだろうか。
 検察がそんな無能者の集団なら、黒川氏の検事総長就任を阻止したところで、いったい何を期待できるというのだろうか。

 小渕優子氏を除く4件は、検察や警察が自ら立件したものではない。市民(?)からの告発を受けて事件となったものだ。
 もともと無理筋だったのではないか。
 こんな見方を肯定するなら、裁判で無罪になろうが何だろうが、とにかく政治家を起訴するのが良い検察だということにならないか。

 また、黒川氏が自民党政治家の事件をつぶしていると見るなら、彼が東京高検検事長に就任してから、先に自民党の秋元司衆議院議員がIR事業をめぐる収賄で逮捕、起訴されたことや、現在、自民党の河井案里参議院議員と河井克行衆議院議員が公職選挙法違反で捜査を受けていることをどう見るのだろうか。

 今日の朝日の2面の記事も、こう伝えている。

 一線の若手検事は「総長が誰になろうとも、現場にはあまり関係がない」。黒川氏をよく知る検察幹部も「黒川氏が官邸の意向で事件をつぶしたことは全くなく、能力的にも総長に適任だ」と話す。ただ、「『政権と近い』と見られている人物が総長になれば、検察が公正とみられなくなる」との不安はあるという。


 「#検察庁法改正案に抗議します」のハッシュタグに同調した多くの方々は、こうした画像や主張の存在を承知で、それに応じたのだろうか。
 そうではないと思いたい。


朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで

2017-10-24 11:09:02 | マスコミ
 私は17日に「選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞」という記事を当ブログに書いたが、18日付朝日新聞朝刊の社会面には、こんな記事が載っていたので、注目して読んだ。

演説中のヤジ、選挙妨害?

 公選法基準なし■静穏に聞く権利は

 街頭演説にヤジはつきものかと思いきや、最近は「選挙妨害だ」と弁士たちが反応する場面が目立つ。街頭演説は黙って聞くべきなのか? 演説中に聴衆が意思を示すのはダメなのか。街頭演説の「作法」とは――。

 「わかったから、黙っておれ!」
 14日、大阪府守口市での街頭演説で、二階俊博・自民党幹事長のこんな声が響いた。演説中、聴衆から「消費税を上げるな」との声が上がり、その後もヤジがやまなかったためだ。
 安倍晋三首相もあちこちでヤジを浴びる。15日の札幌市の街頭演説では「辞めろ」「安倍内閣は金持ちの味方だ」といったヤジが飛んだ。演説中に「やめろ!」というプラカードが掲げられる一方、逆に聴衆から「静かにしろ」などの声が上がることもある。
 演説中のヤジやコールに焦点が当たったのは、7月の東京・秋葉原で安倍首相が発した言葉がきっかけだ。東京都議選の応援演説中に、首相に対する「帰れ」「やめろ」のコールが起こり、首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と返した。
 菅義偉官房長官は記者会見で「妨害的行為があった」と述べたが、小林良彰・慶大教授(政治学)は、「公選法に明確な基準がない以上、マイクを取り上げるなど物理的行為がなければ、選挙妨害とまでは言えないのではないか」とみる。一方で、「聴衆が演説内容を聞くことができなければ、選挙妨害に該当する可能性が高い」(岩渕美克・日大教授=選挙研究)との見方もある。
 演説中のヤジは昔からある。NHKの映像によると、1960年に浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺された演説会には、右翼団体が入りこみ「演説が聞き取れないほど」のヤジを飛ばしていた。古くは明治時代の自由民権運動の際、「各地の演説会では、ヤジや投石が行われ」(高知県宿毛市史)との記録がある。
 とはいえ、政治コミュニケーション論が専門の逢坂巌・駒沢大准教授は「演説を聞きたい人の権利はどうなるのか」と指摘する。「話が聞き取れなくなるほどの集団的なヤジやコールは、演説を静穏に聞く権利をふみにじる」と批判。逢坂さんは秋葉原で首相の演説を聞こうと最前列に陣取っていたが、首相に抗議する人たちが来て、その場からはじき出されたという。

「対応 政治家判断の材料に」

 声を上げる側はどう思うのか。さいたま市の武内暁さん(69)は「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」。秋葉原での首相の演説に友人と駆けつけた。最近の国会答弁を見て、議論が成り立っていないと感じた。「ならば、直接民主主義の手法で、主権者が声で権利を行使する場所があっていい。演説を聞いて欲しいなら『聞いてくれ』と言えばいい。それが対話だ」
 秋葉原で首相に「こんな人たち」と指されたC.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の野間易通さん(51)も「そもそも街頭は異論が混じり合う場所。どう対応するかも含めて政治であり、政治家を判断する材料になるはずだ」という。
 さらに野間さんは、「市民が圧倒的な力を持つ権力者に向かって肉声で叫んでいるのに、『静かに聞くべきだ』なんて学校的道徳を持ち出してなぜ断罪できるのか」とも提起する。街頭での政治活動を取材してきたフリーライターの岩本太郎さんは「秋葉原のような『事件』を繰り返しながら、なんとなく答えが定まっていくのが社会というもので、答えも一つではない。演説の聞き方に善悪の線引きができると考えること自体、怖いことだと思う」と話す。 (田玉恵美)


 この記事の問題点は2つある。
 1つは、聴衆が散発的に発する単なるヤジと、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも大声でしゃべり続ける行為は違うということ。
 聴衆が演説を聴いていて、ヤジを飛ばしたくなることはあるだろう。それは演説に批判的なものだけでなく、肯定的なものもあるだろう。また、演説の内容などについて周りの人間としゃべりたくなることもあるだろう。そんなものまで否定する必要はない。演説の最中は、映画を見たり講演を聞いたりするときのように、一言もしゃべらず、シーンと静まりかえって拝聴しなければならないなんて、そんな主張は誰もしていない。少々のヤジは、演説それ自体を妨げるものではないからだ。
 だが、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも、前回の当ブログの記事で私が引用した、演説中に

《聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ》

るような行為は、演説それ自体の妨害だろう。
 今回の朝日の記事は、その点をごっちゃにしている。

 なるほど自由民権運動においてヤジや投石はあったろう。投石にまで及べばそれはもう妨害だろう。自由民権運動はいわゆる壮士に支えられていて、暴力的な部分も多々あった。決してお行儀の良いものではなかった。
 だからといって、こんにちの世の中で、同様の振る舞いをしても許されるのだろうか。

 さいたま市の武内暁さんが
「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」
と問うているのは、意味がわからない。
 有権者の意思表示によって演説の遂行が妨げられるのなら、それは当然演説の妨害だろう。
 声を上げるのが「直接民主主義の手法」だというのも、意味がわからない。
 直接民主主義とは、古代ギリシャのポリスのように、市民が直接政治に参加するというものだ。こんにちでも、憲法改正の際の国民投票や、地方自治における住民投票は、直接民主主義の手法だと言えるが、街頭で首相に対して声を上げることは直接民主主義とは何の関係もないし、そんな「対話」をする「権利」など、憲法のどこにも書かれていない。

 余談だが、「声を上げる側」のもう1人の野間易通さんについては、「C.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の」と所属団体を明記しているのに、何故、この武内暁さんについては、何の説明もつけずに、自然発生的に集まった市民の1人であるかのように書くのだろう。
 氏名で検索しただけで、「「九条俳句」違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会(通称:「九条俳句」市民応援団)」なる団体の代表であるとすぐわかるのだが。

 問題点のもう1つは、選挙のための演説と、単なる政治家の演説をごっちゃにしていることである。
 朝日の記事が挙げている、1960年の浅沼委員長刺殺の時の演説会は、選挙演説ではない。
 武内暁さんも野間易通さんも、秋葉原の安倍首相の演説が選挙演説であったことに触れていない。

 前回も書いたが、選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 選挙演説でない、単なる街頭演説を妨害したとしても、刑法の威力業務妨害罪でやはり処罰の対象になるだろう。だが、その刑罰は、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」となっており、先に挙げた選挙の自由妨害罪の「四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」の方がより重い。
 それだけ、わが国において、選挙における自由は重んじられているということである。
 今回の朝日の記事には、その視点が見当たらない。
 「直接民主主義の手法」を当然視する者が、間接民主主義の制度である選挙を軽視するのは別に不思議ではない。しかし、朝日新聞がそんなことでいいのだろうか。

 この朝日の記事は、「演説中のヤジ、選挙妨害?」とクエスチョンマークを付け、妨害に当たるとする側と当たらないとする側の両論併記のかたちをとっているが、「公選法基準なし」「対応 政治家判断の材料に」という見出しといい、それぞれの人数及び記事中の割合といい、記事の重心は明らかに、妨害に当たらないとする側に置かれている。
 朝日がこのような記事を載せていたことを、私はよく覚えておくことにしよう。
 そして、仮に、野党候補の選挙演説が妨害されたり、あるいは「反差別」や反原発、反米軍基地などを訴える示威行動が妨害されたりしたときに、朝日がそれをどのように評するか、注目することにしよう。

選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞

2017-10-17 07:10:28 | マスコミ
 10月11日付け朝日新聞朝刊の社会面には、連載記事「「安倍発言」を歩く」 2017衆院選」の第1回が載っていた。
 見出しは「こんな人たちに… 見えた分断」。
 7月1日に安倍首相がJR秋葉原駅前で都議選の応援演説をした際の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」発言を引き出した、「帰れ」「やめろ」コールに加わった60代の女性の話が載っている。

 10日、安倍晋三首相は福島市で演説していた。
 「みんなで安心できる日本をつくっていきたい」
 千葉県のヨガ講師、60代の由美子さんはテレビで演説を聞いて思った。
 「だけど、『こんな人たち』の声は聞かないんでしょ……」
 由美子さんは当初、フルネームでの記事掲載をログイン前の続き了承していたが、政権を批判した知人に脅迫状が届いたという話を聞き、怖くなった。
 政治への関わりはさほどなかった。7月、東京・秋葉原で首相のあの言葉を聞くまでは。
 シングルマザーだった30代のころ、息子2人を育てるため、朝から晩まで働いた。清掃員や飲食店員など三つの仕事を掛け持ち、「生活に必死だった」という当時、投票に行った記憶はない。自身の年金は月額にして3万7千円程度。必死で税金を納めてきたのに、年金だけでは暮らせない。休日返上で働いていた宅配会社勤務の息子も残業代をカットされた末に退職した。
 そんなとき、首相が7月1日に秋葉原で都議選の応援演説をすると知人から聞いた。初めて「政治がおかしい」と思いをぶつけたいと考えた。「無駄かな」と気持ちは揺れたが、首相に直接声を伝えるチャンスは今しかないと決意し、向かった。
 選挙カーの首相がマイクを握った。プラカードや横断幕を掲げた人たちが、首相への「帰れ」コールを始めた。その後も「やめろ」コールが途切れなかった。由美子さんは遠巻きに見つめた。すると、通りすがりのサラリーマンや子連れの人も足を止める。「おかしいじゃないか!」「もうやめてくれ!」。いつしか由美子さんも声をあげていた。
 そのとき、首相が自分たちのほうを指さして声を張り上げた。
 「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」
 由美子さんは言葉を失った。「やっと声をあげたのに。この人は私たちの暮らしを守ってくれないんだ」。空しくなった。
 「やめろ」コールを続けた内装業の井手実さん(37)は「国民は言いたいことがたくさんあるけど、全部は伝えられない。だから『安倍やめろ』で意思表示した」という。
〔後略〕
(貞国聖子)


 選挙演説はいつから国民が政治家に「声をあげ」る場所になったのか。
 選挙演説は、選挙の立候補者の人物や主張を有権者に広く知ってもらうためのものである。反対派が政治家と団体交渉する場ではない。
 そして、選挙演説はただの街頭演説とは違う。その妨害は法律で禁止されているというのに。

 と思っていたら、12日付け朝刊の政治面には、「首相 聴衆に「法律守って」 9条改正への抗議 「選挙妨害」の声に呼応と題して、こんな記事が。

衆院選で街頭演説していた安倍晋三首相が12日、新潟市内で聴衆の女性から憲法9条の改正について抗議され、「選挙は民主主義の原点だから、しっかりと法律を守っていこうじゃありませんか」と呼びかける一幕があった。女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考えを述べたとみられる。

 首相が同市内の商店街で街頭演説をしていた際、聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ、聴衆の男性が「選挙妨害するな」と声を上げた。聴衆から男性に拍手があがり、首相は「皆さん、ありがとうございます」と述べ、法律を守ろうと呼びかけた。

 首相は7月の東京都議選で、東京・秋葉原で街頭演説をした際、聴衆の一部から「帰れ」コールを受け、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と反論して批判を浴びた。
(永田大)


「女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考え」
とあるところを見ると、朝日新聞としては、安倍首相はそう考えているが、そうでない考え方も有り得ると見ているということなのだろうか。
 
 公職選挙法には次のようにある。

(選挙の自由妨害罪)
第二百二十五条 選挙に関し、次の各号に掲げる行為をした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。
一 選挙人、公職の候補者、公職の候補者となろうとする者、選挙運動者又は当選人に対し暴行若しくは威力を加え又はこれをかどわかしたとき。
二 交通若しくは集会の便を妨げ、演説を妨害し、又は文書図画を毀棄し、その他偽計詐術等不正の方法をもつて選挙の自由を妨害したとき。
〔後略〕


 これを読めば、個別具体的な事例をどう判断するかは別として、一般論としては、選挙演説の妨害が法律違反であることは、誰の目にも明らかであろう。
 朝日新聞は、何故この条文を引用しないのだろうか。
(同じ新潟での首相発言を取り上げた産経新聞のネット記事では、条文を引用している)

 私は朝日新聞の購読者だが、「こんな人たち」発言を批判する記事はたくさん見たが、その原因となった「帰れ」コールについて、選挙妨害だと指摘する意見を見た覚えがない。
 これでは、また同じような事態が繰り返されかねない。

 選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 安倍首相に反対する人がいるのはかまわない。大いに反対意見を表明すればよい。だが選挙演説を妨害してはならない。他人の発言の場で、その発言を封じてはならない。
 そんな単純なことが理解できない人を批判することを「分断」だと朝日新聞が煽るのなら、私は「分断」した批判者の側に付きたい。
 それは結局、選挙を尊重するか、直接行動を尊重するかの差であろうから。


内心の自由を侵すのは誰か

2017-07-15 10:40:44 | マスコミ
 こんなツイートがありまして。



《辞めろコール「共謀罪で逮捕」 自民議員が「いいね!」:朝日新聞デジタル》

 記事本文はこちら。

辞めろコール「共謀罪で逮捕」 自民議員が「いいね!」
2017年7月6日17時59分

 東京都議選での安倍晋三首相の街頭演説で「辞めろ」とコールした聴衆を、「共謀罪」の疑いで「逮捕すべし!」と求めるフェイスブック(FB)の投稿に対し、自民党の工藤彰三衆院議員が「いいね!」ボタンを押していたことが分かった。

 工藤氏は愛知4区選出で当選2回。工藤氏が内容を評価するボタンを押した投稿は、「テロ等準備罪で逮捕すべし!」と題され、「安倍総理の選挙演説の邪魔をした『反対者たち』とは(略)反社会的共謀組織『政治テロリスト(選挙等国政妨害者)たち』なのだから!早速運用執行すべし!」と書き込まれていた。

 工藤氏は6日、朝日新聞の取材に、事務所を通して「昨晩、間違って押してしまった。今後は気をつけていきたい」。取材後、「いいね!」を取り消した。(南彰)


 苦々しく思っていたら、間を置いてさらにこんなことまで。



《朝日新聞デジタル編集部‏

安倍首相の都議選応援演説で「やめろ」コールが起きたことについて、「プロ活動家の妨害」としたフェイスブックの投稿に対して、昭恵さんのアカウントから「いいね!」がされていました。 http://www.asahi.com/articles/ASK775SRTK77UTFK016.html …》

「やめろコールは活動家の妨害」 昭恵氏が「いいね!」
2017年7月7日19時22分

 安倍晋三首相が東京都議選で応援演説する最中に街頭で起きた「やめろ」コールについて、「プロの活動家による妨害」とするフェイスブック(FB)の投稿に対し、首相の妻昭恵氏のアカウントから「いいね!」ボタンが押されていたことが7日、分かった。

 投稿は、首相が1日に東京・秋葉原で応援演説した際に聴衆の一部から「やめろ」コールが起きた様子を報じたテレビ番組を取り上げ、「ヤジじゃなくプロの活動家による妨害」「テレビでは活動家の人しか映っていない。少人数だけれど拡声器使い大音量で流していただけ。日の丸持って応援していた大半の一般人を完全に無視している」と書き込んでいた。

 〔後略〕


 私はFBをやっていないので、FBの「いいね!」ボタンについてはよくわからないが、twitterでは「いいね」をよく使う。
 本当に「いいね」と思ったときに限らず、twitterでは新しいツイートがどんどん届いて過去のツイートを探すのがたいへんなので、気になったツイートはとりあえず「いいね」しておくことがよくある。

 上の朝日の記事が取り上げているFBでの「いいね!」が本人によるものかどうかわからないし、どういうつもりで押したのかもわからないのに、何を騒いでいるのだろう。
 仮に本心から「いいね!」と思って押していたのだとしても、それがどうしたというのだろう。
 政治家やその親族には、たかだか「いいね!」ボタンを押すことも許されないのだろうか。

 共謀罪で内心の自由が侵されると、しきりに危険性を訴えていたマスコミが、思想警察さながらの監視活動を行っている奇怪。
 「いいね!」ボタンを押すことにすら、他人の目を意識せざるを得ない、恐るべき社会。
 マスコミ人にとっても、決して居心地の良い社会であるとは思えないのだが。
 自分で自分の首を絞めていることに気がつかないのだろうか。


バニラ・エアは客にタラップを「上がらせた」か

2017-07-03 07:22:20 | マスコミ
 「車いす客に階段上らせる」
 こんな記事を6月28日の朝日新聞朝刊の社会面で見た。
 
 朝日新聞デジタルでは見出しは以下のように変わっているが、内容は同じ。

車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪

 鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。


 しかし、記事を読んでみると、

 搭乗便はジェット機で、関空には搭乗ブリッジがあるが、奄美空港では降機がタラップになるとして、木島さんは関空の搭乗カウンターでタラップの写真を見せられ、「歩けない人は乗れない」と言われた。木島さんは「同行者の手助けで上り下りする」と伝え、奄美では同行者が車いすの木島さんを担いで、タラップを下りた。

 同5日、今度は関空行きの便に搭乗する際、バニラ・エアから業務委託されている空港職員に「往路で車いすを担いで(タラップを)下りたのは(同社の規則)違反だった」と言われた。その後、「同行者の手伝いのもと、自力で階段昇降をできるなら搭乗できる」と説明された。

 同行者が往路と同様に車いすごと担ごうとしたが、空港職員が制止。木島さんは車いすを降り、階段を背にして17段のタラップの一番下の段に座り、腕の力を使って一段ずつずり上がった。空港職員が「それもだめです」と言ったが、3~4分かけて上り切ったという。


 はい上がったのはこの乗客が自分でやったことで、職員は「それもだめです」と言ったとある。

 また、バニラ・エアはこう言ったともある。

同社の松原玲人(あきひと)人事・総務部長は「やり取りする中でお客様が自力で上ることになり、職員は見守るしかなかった。こんな形での搭乗はやるべきでなく、本意ではなかった」とし、同社は木島さんに謝罪。


 ならば、バニラ・エアが自力ではい上がることを強要したかのような、これらの見出しや。記事中の「自力で上らされる事態」といった表現はおかしくないか?

 私はツィッターユーザーだが、この件では、やはりバニラ・エアが自力ではい上がることを強要したかのように同社を非難する発言がタイムライン上に多々見られた。

 ちなみに、読売新聞のサイトを見ると、記事の見出しとリードはこうなっている。

バニラ・エアの車いす客 自力でタラップ、同行者助け認めず

 鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)の「バニラ・エア」が運航する旅客機に搭乗しようとした車いすの男性(44)が、タラップを腕の力を使って自力で上っていたことが、同社への取材でわかった。


 産経新聞のサイトではこうである。

車いすの男性、腕でタラップはい上がる…バニラ・エア搭乗時「歩けない人は乗れない」と言われ 奄美空港

 鹿児島県奄美大島の奄美空港で5日、格安航空会社(LCC)のバニラ・エアを利用した車いすの障害者の男性が階段式タラップを1段ずつ、腕を使ってはって上っていたことが28日、分かった。奄美空港に車いすで昇降できる設備がなく、社員らから「歩けない人は乗れない」「自力で上り下りできるならいい」などと言われていた。同社は男性に謝罪した。


 時事通信のサイトではこう。

車椅子男性、自力でタラップ上る=バニラエア機で

 格安航空会社バニラ・エアの奄美-関西線で、車椅子の半身不随の40代男性が自力でタラップを上っていたことが28日、分かった。


 3社とも、「上がらせる」「上らされる」」といった表現はない。

 毎日新聞のサイトは、朝日と同様、

バニラ・エア 車椅子男性に階段上らす 相談受け謝罪、改善

格安航空会社(LCC)のバニラ・エアを利用した車椅子の男性が今月5日、奄美空港(鹿児島県奄美市)で搭乗する際、「階段昇降をできない人は搭乗できない」と説明され、階段式のタラップを腕の力だけで、はうようにして上らされていたことが分かった。同社は男性に謝罪し、奄美空港で車椅子利用者が搭乗できる設備を整える。


としていた。

 朝日や毎日は、記事に抗議する読者が社に押し掛けて自殺したら、「○○新聞、抗議の読者を自殺させる」と書くのだろうか。

 朝日を読んでいると、フェイク・ニュースが横行していると批判したり、政治家の発言をファクト・チェックすると称する記事が見られるが、まず自社の報道からしっかりしていただきたいものだ。


私は何故朝日新聞を購読しているか

2016-03-14 22:25:03 | マスコミ
 前回の記事の続きです。

 先日の私の記事「「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム」について、マンマークさんという方が、「市役所職員の生活と意見」というブログの
とにかく朝日を責めたい人。
という記事で、やんわりと批判しておられました。

 その批判の内容を読んで、私が少し申し上げたいと思ったことは、前回の記事で述べました。
 今回は、マンマークさんが私のことを誤解しておられる点について述べます。

 マンマークさんの記事は末尾を次のように締めくくってておられました。

このブログ主は朝日新聞を購読しているそうですが、ブログの過去記事を見ると、朝日新聞の記事に対する批判が多いようなので、朝日新聞に対して、批判というか、ケチを付けたいために購読しているようです。

 捻じれてますね。


 それは誤解です。
 私が朝日新聞を購読しているのは、何も朝日新聞を批判するネタを探すためではありません。私にはそんな金銭的余裕も時間的余裕もありません。
 私が朝日新聞を購読しているのは、他紙と比較して、記事の質・量、文字やレイアウトの読みやすさ、取材先や寄稿者、書評、広告、社会への影響力、読者の質・量などを総合的に検討して、家庭で1紙だけを購読するならば、朝日新聞こそがそれに最もふさわしいと考えているからです。
 念のために書きますが、冗談でも嫌味でもなく、本気でそう考えています。
 (日経もいい新聞ですが、家庭で1紙だけ購読するとなると、選ぶのはためらわれます)
 しばらく前に、他紙に乗り換えた時期も複数回ありましたが、気に入らなくて、結局朝日に戻ってきました。

 私のブログの記事に朝日新聞批判が多いのは、単に私が朝日を読む機会が多いからにすぎません。
 いちいちブログで記事は書いていませんが、朝日を読んで良い記事だと思うこともしばしばあります。
 例えば、毎日曜日に2面に掲載されているコラム「日曜に想う」の本月13日の分は、曽我豪・編集委員が「メインにならぬニッチでは」と題して、創生期の民主党で3期衆議院議員を務めた後、落選してソフトバンク社長室長を務め、今年の参院選ではおおさか維新の会から比例区に立候補する予定の嶋聡(しま・さとし)氏による民主党への懐疑を取り上げていました。
 私はこのコラムで初めて嶋聡という方を知りましたが、実に読み応えのある内容でした。

 また、14日の1面左上に掲載されていた「「核の先行使用放棄を」佐藤元首相打診、米拒絶」との見出しの記事は、首相引退後、ノーベル平和賞の受賞が発表されていた佐藤栄作が、キッシンジャー米国務長官に対して、受賞講演で核保有5カ国が核兵器の先行使用の放棄を話し合うため集まるよう呼びかけたいと提案したのに対し、キッシンジャーは、米国は先行使用を放棄するつもりはない、それは日本にとって危険だと答え、佐藤も受賞講演でこれに言及することはなかったというもので、これはスクープではなく春名幹男氏が既に確認済みの事実の紹介のようですが、広く知られていない事実に光を当てる良い記事だと思いました。

 当ブログの過去記事をもっと遡って見ていただければ、産経新聞や自民党の政治家を批判している記事があることがわかるはずです。

 いくつかの朝日批判の記事を見ただけで「とにかく朝日を責めたい人。」だと決めつけるのは、軽率というものです。

(了)

「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム

2016-03-06 23:38:57 | マスコミ
 今年2月28日付朝日新聞の4面のコラム「政治断簡」は、高橋純子・政治部次長によるこんな内容だった。

だまってトイレをつまらせろ

 「だまってトイレをつまらせろ」

 このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。

 ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。

 ①代表団を結成し、会社側と交渉する。

 ②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。

 まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。

 ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。

 ③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。

 チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。

 船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。

 生かされるな、生きろ。

 私たちは自由だ。

     ◇

 念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。

 ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。

 他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。

 気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。

     ◇

 「ほかに選択肢はありませんよ――」

 メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

 「この道しかない」

 固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。

 近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


 私は朝日新聞を購読しているのだが、当日紙面で読んで唖然とした。

 翌日、通勤電車の中でtwitterを見ている時、ふとこのコラムのことを思い出した。
 ツイートを検索してみると、絶賛の声が多くてびっくりした。批判的な声はまるで見当たらない。
 一部をリツイートしておいたので、現物が気になる方はそちらを見ていただきたいが、

《安倍政治の本質を突く暗喩に満ち、政治部記者もこうした切っ先鋭い視点で記事を届けてもらわねばと思う。》

《良コラムと読んだ。やるじゃないか。》

《これ結構良かった。無論トイレをつまらせるのは掃除の人が大変だけど。生かされるな、生きろ。》

《これ面白い。権力側の横暴に対し、善処をお願いするのではなく、その横暴がもたらす結果を突きつけてやれと説いた、ある活動家の思想を紹介。》

《言葉が生きてるよいコラムです》

《いや実に爽快だなあ。心に浮かぶ雲を吹き飛ばすような文章。いまの朝日にこんな感性しかも女性の政治部次長がいるとは思わなんだ。いやもう、惚れちゃいそうww》

《中国の「上に政策あれば下に対策あり」と同じ、民衆によるサボタージュ戦略。》

《こういう記者の比率が増えてくると朝日もガーディアンを目指せる…かもしれない。知らんけど。》

《冨歩さんから聞いた「JAM」に似ている。対案を示す必要はない。別のシステムを自ら構築する必要もない。システムに異物を挟めば、流れは変わる。》

《昨年のインタビュー記事も面白かった。この人の記事をもっと読みたい。》

《これは、政権批判です。私は支持します。》

《軽やかな文章。閉塞感あふれる世の中だけに、なおさら爽快。》

 いや大したものだ。
 私のように唖然とさせられる者は、読者の中では異端なのだろう。

《午年総理に話しても聞く耳持たずなら念仏を唱えずに黙ってトイレを詰まらせた方が良さそうだ!安倍手法はヒトラーだけでなく893にも学んでいるように見える》

 紙を用意しないならトイレをつまらせるという実力行使の方がよほどヤクザの手法ではないかと思うが。

 さて。
 「だまってトイレをつまらせろ」。
 鉄道の駅のトイレって、最近はそうでもないようだが、ひと昔は、当然のようにトイレットペーパーは置いておらず、ポケットティッシュの自動販売機が設置されていた。
 利用者は自分であらかじめティッシュを持参して用を足すか、持っていなければ買って下さい、ということだろう。
 そこで、「チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな」と、新聞紙でふいて流してトイレをつまらせてもいいのだろうか。
 そうすりゃ鉄道会社も紙を用意するようになるだろう?
 ほかの利用者はどうなる。
 修理の費用は誰が負担する。
 そもそもつまることを見越して新聞紙を流せば器物損壊という犯罪になるだろう。
 と、まず思った。

 いや、トイレをつまらせろとは例え話であって、高橋次長も
「念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」
と言っているではないか、ただ、そうした自由な精神のありようの大切さを示しているのだ。
 ――といった反論が有り得るだろう。

 しかし、他人の迷惑をかえりみない自由なんてものが、そんなに推奨に値するのだろうか。
 船本洲治という活動家を私は知らない。しかし、おそらく彼が言っているのは、あくまで経営者への抵抗としてそうした手段もあるということだろう。
 それを、「何で拭こうがそもそも自由……という精神のありよう」一般の話に広げて、何をどうしたいのだろうか。

 給料が少なくて食費に困っている者が食べ物を万引きして、給料が十分でないなら万引きせざるを得ないんだ、十分な給料をよこせば万引きをやめてやるよ、と犯人が開き直ったとして、そんな言い分を誰が認めるというのか。

 朝日の購読者である私が、朝日新聞のこのコラムとこの記事とこの投書が気に食わん、こんなものを新聞に載せてくれと頼んだ覚えはない、これらの分を新聞代から差し引いてくれ、と主張すれば、ASAはそれを受け入れてくれるのだろうか。

 私はこのコラムを読んで、「あらゆる犯罪は革命的である」という昔の文芸評論家の本のタイトルを思い出した。
 毛沢東が、革命とは、お上品で、穏やかなものではないと述べたことも思い出した。
 「きらめくなにか」「精神のありよう」を賞賛し推奨してゆけば、結局そういう話になるのではないか。

 そして、このトイレをつまらせるという話が、後段の安倍政権批判とどうつながるのか、私にはまるでわからない。
 政権打倒のためには、社会秩序を守るなんてお行儀良さは少々無視してもかまわない。
 そういう話につながるようにしか思えないのだが、それが高橋次長の本意なのだろうか。
 高橋氏個人がどのような政治観や人生観をもとうが、それは氏の自由だ。しかし、それがもし氏の本意なら、それは、大新聞の役職者が紙面で口にするにふさわしいことなのだろうか。

 安倍政権のメッセージが「ほかに選択肢はありません」というものなのかどうか、私は知らない。
 しかし、「この道しかない」と言われるのが嫌だというなら、ほかの道を示せばよい。
 すぐに示すことができないのなら、時間をかけて考えればよい。
 ほかの道を示すことも、それを考えることもなく、為政者に「この道しかない」と言われるのが嫌だからって、それで何故、
「だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。」
となるのか、そしてそれが何故もてはやされるのか、私には全く理解できない。
 それって、代案は出さないけど、嫌なものは嫌なんだという、単なる好悪の表明でしかないのではないか。
 だから何だというのか。そんな記者個人の好き嫌いを知るために、私は新聞を購読しているのではない。

「道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるもの」
 そんなことはない。一人が歩いただけでは道はできない。多くの者が同じルートを歩くことによって、初めて道ができるのだ。
 だから、ここに道があるということが、後に続く者にわからなければ、道はできない。
 国家をどのように運営していくべきか、為政者がそれを明らかにしなければ、国民はその是非を判断することすらできない。
 なのに、高橋次長は、まるで道を示さない政権が良い政権であると考えているかのようだ。

 では、仮に安倍政権が道を示さず、わが国は将来どうなるかわかりませんが、まあどうにかなるでしょう、自分の足で歩いているうちに自ずと道はできるでしょうからと説いて、何ら将来のプランを語らなければ、高橋次長は
「生かされるな、生きろ。私たちは自由だ」
「ぼくらはみんな生きている」
と言って、それに賛同するだろうか。
 絶対にそんなことはない。為政者たる者、国家の進むべき道を示せ、それが政権を託した国民に対する責任ではないかと絶叫するに違いない。
 批判のための批判。くだらないことこの上ない。

 また、
「他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を……朗々と歌いあげる」って、人ごとのように言ってるけど、これってまさに、朝日新聞のようなメディアがこれまでやってきて、今も続けていることじゃないの。
 六〇年安保が通ったら大変だ、七〇年安保が通ったら大変だ、PKO法が通ったら大変だ、イラク特措法が通ったら大変だ、特定秘密保護法が通ったら大変だ、集団的自衛権行為容認は大変だ、安保法制が大変だ、国民の人権が損なわれる、いつか来た道に戻ることになると、さかんに煽り立ててきたじゃないの。

「うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない」
って、まさにそれあなたがやってることじゃないの。

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


って、シュプレヒコールを笑顔で促しているじゃないの。

 早野透や若宮啓文が去り、星浩がニュースキャスターへの転身でこれまた去ることとなり、朝日の政治記事に少しは変化が見られるかと期待していたのだが、まだまだその種の人材は尽きないようだ。


  

ソ連が日本の国連加盟を拒否したという史実をさりげなく隠蔽する朝日新聞

2015-11-19 22:27:18 | マスコミ
 朝日新聞の土曜版、青beに、「サザエさんをさがして」という連載記事がある。かつて朝日新聞に連載されていた4コマ漫画「サザエさん」の作品一本一本を切り口に、当時の世相を紹介している。
 11月7日のテーマは「国連加盟」だった。
 記事を読み進めて、おや、と不審に思った。

このサザエさんの漫画が載ったのは1956年12月17日。当時の朝日新聞を見ると、日本の国連加盟が連日のように紙面を飾っている。
〔中略〕
 19日朝刊はまるで国連特集だ。あるページには機構図を大きく載せ、〔中略〕別のページには創設時の51カ国を列記し、あとに続いて何年にどの国が加盟したかを記している。
 日本の加盟は80番目だった。
 東京・渋谷の国連広報センター。「4年ごしだったんです」と根本かおる所長が日本の思いを説明してくれる。「52年、サンフランシスコ講和条約が発効したときにすぐ申し込んだのですが……」
 以来、加盟の機会は何度かあったものの、国家間の思惑にほんろうされてなかなか実現しなかった。大国・ソ連との間に国交が結ばれていなかったことも大きかった。
 「55年には16カ国が加盟したのですが、それにも含まれなかったんですね」と根本さん。
 転機は日ソの国交が回復したことだった。国連加盟の決定を報じる12月13日の朝刊には「日ソ国交回復成る」の記事も載っている。日ソ国交回復と同時に日本の国連加盟が実現した構図になる。


 「サンフランシスコ講和条約が発効したときにすぐ申し込んだのですが」の後の「……」で省略されている語句は何だろうか。
 申し込んだにもかかわらず、何故すぐには加盟できなかったのだろうか。

 「以来、加盟の機会は何度かあった」のに、それを実現させなかった「国家間の思惑」とは、具体的に何を指すのだろうか。

 「大国・ソ連との間に国交が結ばれていなかったこと大きかった」と「も」を用いているが、ではそのほかにどんな大きな理由があったというのだろうか。

 「日ソ国交回復と同時に日本の国連加盟が実現した構図になる」とはどういう意味だろうか。読みようによっては、日ソ国交回復と日本の国連加盟には直接の因果関係がないかのようにも受け取れる。
 日ソ国交回復が成ったから日本の国連加盟が実現したと何故直截に書かないのだろうか。

 この奥歯に物の挟まったようなあいまいな表現は一体何なのだろうか。
 予備知識のない者がこの記事を読んだ場合、ソ連が拒否権を行使したためにわが国はなかなか国連に加盟できなかったという史実を読み取ることは難しいのではないだろうか。

 サンフランシスコ平和条約の発効によってわが国は独立を回復し、国連へ加盟を申請した。しかしソ連はサンフランシスコ条約に加わっておらず、日本の国連加盟を拒否した。1956年に日ソの国交が回復した。ソ連は拒否権を行使しなくなり、日本はようやく国連に加盟できた。
 ――というのは公知の事実ではないのだろうか。

 何か私の理解が誤っていたのかと思い、ネットで確認してみた。

 国立公文書館の「公文書による日本のあゆみ」というサイトで、国際連合憲章及び国際司法裁判所規程・御署名原本が紹介されている。
 その説明文中に、こうある。

昭和27年(1952)6月日本は国際連合に加盟を申請しました。日本の申請は、同年9月の国連安全保障理事会では10対1の圧倒的多数の賛成を得ましたが、ソ連が拒否権を発動したため、否決されました。同年12月の国連第7回総会は、国連憲章が規定する加盟条件を日本が満たしていることを認め、日本の加盟を承認するべきであると決定し、この決定を安全保障理事会が了知するよう要請する決議を採択しました。その後、昭和31年(1956)10月の日ソ国交正常化を経て、同年12月12日の安全保障理事会で日本の国連加盟が承認され、同月18日の総会は全会一致で加盟を承認。日本は80番目の国連加盟国となり、国際社会に本格的に復帰しました。


 コトバンクで「国際連合」を引くと、検索結果の中に、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説がある。
 その文中の「国連と日本」の項にこうある。

日本は戦後、独立を回復するとまもなく、1952年(昭和27)6月23日、国連加盟の申請を行った。しかし、米ソ対立の激しいなか、ソ連はアメリカの推す国は日本をはじめどの国の加盟も拒否権をもって阻止した。1955年になって、日本を含む18か国の一括加盟案が上程されたが、国民政府(中華民国)がモンゴル人民共和国の加盟に反対したため、ソ連は日本にのみ拒否権を行使し、モンゴルとともにこのときも日本は加盟の機を逸した。結局日本の加盟は、翌1956年の12月、日ソ国交正常化交渉の成立をまって実現することができた。なお、日本は国連加盟前に、すでに国際司法裁判所とすべての専門機関に加盟していた。


 やはりそうだろう。

 「サザエさんをさがして」のこの回の記事は、いったい何故こんな持って回った表現をとっているのだろうか。
 冷戦時代じゃあるまいし、共産主義社会実現の理想に燃えてソ連を擁護しているのではもちろんないだろうし、かつていわゆる進歩派に見られたような、ソ連に批判すべき点があったとしても、それを指摘するのは、結果的に保守政権を利することになるから、控えるべきであるといった、党派的な思考法をとっているわけでもないだろうに。

 それとも朝日的には、ソ連を正面から批判することは未だにはばかられるのだろうか。
 ソ連崩壊から20年以上を経ているというのに。

 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説でわかるように、1955年に中華民国がモンゴルの加盟に反対しなければ、ソ連はわが国に拒否権を行使せず、わが国の加盟が実現したのかもしれない。断固とした拒否で一貫していたのではなく、容認の余地はあったのかもしれない。
 先の記事の表現は、そうした事情を考慮した上でのものかもしれない。

 だとしても、当初のわが国の申請を拒否したのは事実だし、結果的には1955年にも拒否したのだし、別にここまでぼやかすこともないと思うのだが。

 それとも、何かまだ私が気付いていないほかの理由があるのだろうか。

 記事の末尾に「依光隆明」と署名がある。
 調べてみるとこの記者は、元々高知新聞の記者で、社会部長や経済部長を務めた後、朝日新聞にヘッドハンティングされたという。
 そして、特別報道部長に就任して、現在も連載されている「プロメテウスの罠」を企画、展開した人物だという。現在は朝日新聞編集委員だという。
 そのような記者にして、何故このような記事になるのか。
 あるいは、そのような記者だからこそ、このような記事になってしまうのか。

 ハフィントンポストに、日本ジャーナリスト教育センターが、ジャーナリストキャンプ2014なる催しで行われた「日本のジャーナリズムは「危ない」 ソーシャル時代に必要な記者のスキル」と題する依光氏らによる座談会を掲載している。
 その中で、氏は「ソーシャル時代に求められる記者のスキルは何ですか?」という質問に対して、次のように述べている。

依光:相手の立場を分かっておく必要があります。「この人はどう思っているのだろう」を考えるのが大事であり、「自分はこう思う」というのは、究極、新聞記者にはいらないのでは、とさえ思います。常に気を付けているのは「ファクトは何か」ということです。「論」というのはかっちりしたファクトがあって初めて成立します。ファクトは隠れていることが多くて、掘り出すには労力がいります。個人的には「~という」「~だそうだ」「約~」はできるだけ消すように事実関係を突き詰めています。あとは、人の言うことを信用しないこと。飲み屋でママさんが「あなたかっこいいわね」というのは絶対嘘ですから(笑)官僚や政治家はその場の言葉がうまい。そういうことを考えるのは初歩の初歩ですが、その積み重ねだと思います。


 ファクトを掘り出す労力が必要なのは、政治家や官僚の言葉だけではなさそうである。


日本はアウシュヴィッツの側、ソ連は解放者?

2015-02-01 23:26:49 | マスコミ
 今年1月27日、ポーランドのアウシュヴィッツで解放70周年の記念式典が行われた。
 これを受けて、同月28日付朝日新聞夕刊の1面コラム「素粒子」はこう述べた。

 アウシュビッツ70年。虐殺工場を解放したソ連軍に敗戦を決定づけられた国。どちら側だったかを思い戦慄(せんりつ)する。

    ☆

 当時迫害されたユダヤ人といま誤解を受けるイスラム教徒。情勢込み入る中東で安倍首相の言葉は妙に勇ましく。

    ☆

 11月に気づきながら確認できなかった現実と邦人救出に自衛隊もという飛躍。あぜんとする間もなく期限は迫る。


 「どちら側だったかを思い戦慄」?
 わが国はアウシュヴィッツに強制収容所を建設したナチス・ドイツの側、ソ連の後身であるロシアはその解放者の側ということか。
 しかし、わが国は、ドイツのように占領地に強制収容所を建設し、ホロコーストを行ったのではない。

 中国の王毅外相は1月28日イスラエルの外相と北京で会談した際に、この解放70周年について「欧州にはアウシュビッツ収容所の悲劇があり、中国には南京大虐殺があった」「歴史的な事実は否定できず、不正なことと正しいことを混同してはならない」と述べたと報じられているが、いわゆる南京大虐殺は戦争の過程で生じた不祥事であって、わが国は政策として中国人の絶滅を企図したのではない。

 また、アウシュヴィッツ収容所などで何が行われていたかは、ドイツの敗北後明らかになったことだ。
 わが国はそれを承知の上で日独伊三国軍事同盟を結び、第二次世界大戦に加わったのではない。

 「どちら側」と言うなら、ロシアは解放者の側だと安易に言えるのか。
 ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった1939年9月1日に先立つ8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれた。ドイツはソ連から攻撃を受けるおそれを解消して、ポーランドと同盟を結んでいたフランス及びイギリスとの開戦に臨んだわけだが、この条約にはさらに秘密議定書があり、ドイツとソ連で東ヨーロッパを分割占領することで合意していた。ドイツの侵攻にポーランド軍が後退を続ける中、ソ連は9月17日にポーランド東部に侵攻した。ソ連の占領下では捕虜となった4000人以上のポーランド軍将校らが虐殺されるカティンの森事件などが生じた。ポーランドにとってソ連もまた侵略者であった。

 1941年6月、ドイツはソ連に宣戦した。ドイツ軍はポーランド東部からソ連軍を駆逐し、さらにソ連領内に侵攻した。ソ連は当初敗退を重ねたが、スターリングラードの戦いを機に反攻に転じ、やがてポーランドを「解放」し、共産党政権を打ち立てた。しかし戦後のポーランドのソ連との国境は、戦前に比べて大きく西にずれたものとなった。ソ連がかつての占領地を併合したからである(一方敗北したドイツの東部がポーランド領に組み入れられた)。

 第二次世界大戦における連合国は、領土不拡大を原則としていた。その主要国の中で唯一領土の大幅な拡大に成功したのがソ連であった。
 わが国に対しても、日ソ中立条約を破って侵攻し、北方領土を併合し、長期にわたって捕虜の不当な抑留を続けたことは言うまでもない。
 そしてまた、当時のソ連国内にも強制収容所が設けられていた。

 ロシアが自国を解放者だと強弁するのはロシアの自由だ。それがロシアの国益に資すると考えているのだろう。
 しかし、被害を受けた側の国の人間が、そんな強弁を真に受けて、自国を卑下してみせることもあるまい。

 朝日新聞の報道によると、アウシュヴィッツでの記念行事にはコモロフスキ・ポーランド大統領をはじめガウク独大統領、オランド仏大統領ら各国の元首級が出席しているが、10年前の式典でスピーチしたロシアのプーチン大統領は早々と欠席を表明したのだという。

アウシュビッツを解放したソ連軍を継承し、「ファシズムに勝利した」自国の歴史を強調するプーチン氏の欠席はひときわ目立った。

 ロシアはプーチン氏欠席の理由として「ポーランドから招待されなかった」ことを挙げた。一方、ポーランド側は「どの個人も招待していない。各国代表団の構成を決めるのはそれぞれの国だ」とする。両国が激しく対立するウクライナ問題をめぐってのさや当てである可能性が強い。


 時代はかくも動いているというのに、わざわざ時計の針を巻き戻して「戦慄する」不可解。