トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

自民党の大敗を受けて

2007-07-31 23:35:09 | 現代日本政治
 昨日の夕刊を各紙比べてみると、『毎日新聞』の記事がなかなか読み応えがあった(以下、いずれも引用はウェブ魚拓から)。

’07参院選:津島派、全員落選 青木氏の政治力低下--1人区
(紙面での見出しは「自民津島派 大打撃 青木氏の影響力衰退必至」)

《自民党惨敗で大きな打撃を受けた派閥が津島派だ。改選前に35人の参院最大勢力だった津島派では21人が改選期にあたり、引退した6人を除く現職15人が挑んだが、当選者はわずか2人。非改選議員は14人で、新人の加入があっても20人程度にとどまる見通しだ。

 参院津島派は1人区をはじめとする地方と、業界団体を足場にした議員が多く、「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎前首相の改革の波にのまれたところに、党への逆風も襲いかかった。選挙区で出馬した10人のうち1人区で戦った9人は、片山虎之助参院幹事長ら全員が落選。当選したのは2人区の長野から出た吉田博美氏のみ。比例の5人も当選したのは日本遺族会の支援を受ける尾辻秀久元厚生労働相1人にとどまり、日本医師会に支えられた武見敬三副厚労相も落選した。

 改選前の津島派は参院自民党の3分の1を占め、青木幹雄参院議員会長の力の源泉ともなっていた。参院自民党の「青木王国」化は、92年の旧竹下派分裂の際、青木氏が竹下登元首相の意を受け、参院竹下派の大部分を小渕恵三元首相支持にまとめたことに起因する。青木氏は参院幹事長、官房長官(小渕、森内閣)、参院議員会長と歴任するにつれ、参院自民党を掌中におさめた。小泉氏でさえ首相時代、組閣の際には参院からの人事推薦については青木氏に委ねたほどの勢威を振るったが、安倍晋三首相になって、参院選の候補選定などを巡り首相と青木氏はしばしば対立した。青木氏も「首相の周囲がよくない。参院選に閣僚のエラーが直撃した」と首相の責任を口にすることも多かった。

 しかし今回、青木氏が重用していた片山氏と同じく津島派で島根出身の景山俊太郎参院筆頭副幹事長らも落選した。

 一方、首相の出身派閥の町村派が21人と参院第1派閥にのし上がり、青木氏の政治力減退は確定的な状況となっている。青木氏は「私のあとの議員会長は片山君がついでくれると思っていたんだが」と肩を落とした。

 衆参合わせた新勢力は、最大派閥の町村派が82人、第2派閥の津島派62人で、両派の差は改選前の8人から20人に拡大した。その他の派閥は古賀派46人、山崎派35人、伊吹派25人、高村派、麻生派16人、谷垣派、二階派が15人。【田中成之】

==============

 ◇自民党各派閥の参院新勢力

     改選前議員数 今回の当選者 新たな議員数

町村派  28(13)      8     21

津島派  35(14)      2     16

古賀派  14( 5)      3      8

山崎派   5( 3)      0      3

伊吹派  13( 5)      1      6

高村派   2( 0)      2      2

谷垣派   4( 2)      1      3

二階派   2( 2)      0      2

麻生派   2( 1)      2      3

無派閥   4( 1)     18     19

合計  109(46)     37     83

(注)改選前議員数のカッコ内は非改選の議員数。前議長は除く。今回当選者の無派閥議員には所属先未定を含む 》


 参院自民党を牛耳っていた津島派の減少により、安倍総裁は参院自民党をむしろコントロールしやすくなったと言えるだろう。
 また、派閥別の当落を見ると、町村派の一人勝ちと言える状態だ。こうした傾向を見ると、今回の選挙結果は、必ずしも安倍首相に対する不信任とは言い切れないように思う。

’07参院選:公明に自民票回らず 選挙区絞り込み手法に壁
(紙面での見出しは「公明の戦略 行き詰まり 3人区 自、民とのすみ分け崩れ」)

《選挙区選挙では、1人区で自民党が惨敗したことに加え、選挙区を絞り込んで確実に議席を確保してきた公明党の手法が壁にぶつかったことが注目される。

 公明党は5選挙区に公認候補を立てたが、いずれも3人区(改選数3)の埼玉、神奈川、愛知3選挙区で前職が落選する苦杯をなめた。公明党候補が選挙区で落選したのは89年以来18年ぶり。

 3選挙区とも6年前の参院選では自民、民主、公明が1議席ずつ分け合った。しかし、今回は民主党が2候補を擁立。自民党への批判票を全面的に取り込むことに成功、01年に比べ得票数を3選挙区とも100万前後も増やした。この結果、民主党候補はいずれも2人当選、公明党候補を当選圏外に押し出した。

 与党の戦略は、自民支持層の票の一部を公明党候補に回し、民主党を1人落選させるというものだった。しかし、毎日新聞の出口調査で自民支持層の4分の1が民主党候補に流れたことが示すように、自民党は自らの陣営を引き締めるのに精いっぱいで、公明党に票を回す余裕はなかった。

 公明党の3選挙区の得票数自体は、逆風下にもかかわらず01年の「小泉ブーム」の際よりも数万票上積みしており、強固な組織力が健在であることは示した。ただ、無党派層への広がりがあまり期待できない同党にとって、ひとたび「自民、公明、民主のすみ分け」が崩れた際のもろさが露呈したといえ、今後の戦略の再構築が求められそうだ。【坂井隆之、林哲平】》


 なるほどなあ。
 2人区で自民と民主が分け合い、3人区で自民、民主が2対1もしくは1対2で議席を獲得すれば、公明党の入る余地はなくなる。
 2大政党化が進行すれば、公明党は議席を減らさざるを得ない。
 もっとも、2大政党が拮抗すれば、キャスティングボートを握る機会もあるだろうが、それでも議席が減れば、その力も低下するだろう。

 保阪正康の参院選評も興味深いものだった。

《自民党はなぜ、歴史的な敗北を喫したのか。確かに今回は、年金問題をはじめ閣僚の失言や不祥事疑惑が相次いだ。一般的にはこれらを敗因と見るのだろうが、私は、より本質的な問題こそが敗因だったと考えたい。それは、安倍首相自身の政治姿勢、そして歴史認識である。

 安倍政治を象徴するのが「美しい国」だ。「美しい」は形容詞だが、安倍首相はその内容について抽象的な説明に終始し、国民に分かるように説明しない。このことは、権力が「美しい」という言葉の意味を勝手に定義し、国民はそれに従えと言っているに等しい。まるで戦前の「すめらぎの国」のようであり、森喜朗元首相の「神の国」発言に匹敵する無神経さだ。

 また、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と言う。しかし、戦後レジームとは本来、戦前のファシズムの負の遺産を清算し、過去を克服するために作られたものだ。脱却すると言うならばまず、戦後レジームをきちんと評価した上で、今の時代に合わせて変えていくという前向きな発言があるべきだった。「戦後レジームからの脱却」と繰り返すだけでは「戦前レジーム」への回帰を望んでいるようにしか聞こえない。

 安倍氏の首相就任後、日本社会は何かレベルダウンしてしまった感がある。「美しい国」「戦後レジーム脱却」「憲法改正は3年後」などの言葉だけが先行し、実体は何一つ見えない。今回ばかりは国民も「おいおい、これはとんでもない首相だぞ」と気付き、それが選挙結果につながったのではないか。

 安倍首相は敗因を年金問題や閣僚の失言、野党の攻撃と考えているかもしれない。しかし、それだけが敗因なら自民党はここまで大敗しなかっただろう。政策では修正しえない、安倍首相自身の政治家としての資質や歴史認識が問われた選挙だったからこそ、ここまで負けたのだと、安倍首相も自民党も自覚すべきだ。》


 私も、選挙前に自民党の劣勢が伝えられる中、敗因は年金問題や閣僚の失言、不祥事にあるのであって、安倍内閣の施策自体が国民に信任されていないわけではないと見ていた。
 私自身、安倍内閣が進めた教育基本法改正や国民投票法の成立、防衛庁の省への昇格、そして安倍が志向する改憲に賛成で、小泉内閣以来の構造改革路線にも基本的に賛成だから、そういう点で、ひいき目で見ていた部分はあるかもしれない。
 しかし保阪によると、そうではなく、「安倍首相自身の政治姿勢、そして歴史認識」を国民が拒否したのだという。
 保阪は、日本の近現代史に関する著作が多いノンフィクション作家。「軍部が日本を戦争に引きずり込んだ」式の安易な戦前観に拠らず、具体的に誰が何を考え、どう行動したのかを示すため、当事者の取材を積極的に行った。その著作から私も多くのものを得ている。
 首相の靖国参拝には批判的で、小泉前首相の政治手法をヒトラー的であると評したのにはちょっとついていけない思いがしたが。
 保阪の主張にかかわらず、私はやはり年金や閣僚の失言や不祥事が今回の選挙結果に大きく影響していると考える。ただ、安倍内閣が国民に対して十分な説明を果たしていないという点は重視すべき指摘だと思う。
 安倍内閣以後、「日本社会は何かレベルダウンしてしまった感がある。」とまでは私は思わないが、近年、政治家が与野党ともにレベルダウンしているようには感じる。


《この参院選は、いわば市民社会の「リトマス試験紙」だ。有権者は今回、投票で次のことを示した。すなわち、政治家の利益誘導や飾り立てた言葉、脅迫まがいの訴えなどはもはや通用しないこと。「美しい国」ではなく、具体的にどんな国を造っていくのか、論理的に説明しない限り、有権者は評価しないということ。そして、ファシズムや軍国主義には踏み出さない、という決意だ。自民党の今回の大敗で、我々の社会は本当の意味で市民社会になりえた、とすら私は思う。

〔中略〕

 私はずっと小泉純一郎前首相を批判してきたが、国民の中には今なお彼へのノスタルジーがあるように見える。小泉前首相は暴言も多かったが、その言葉には我々の心に食い込んでくる何かがあった。しかし、安倍首相の言葉には、何もない。

 国民から「首相として不適格だ」という判断を受けた安倍首相が、首相の座に居座り続けることは、自分の責任問題への鈍感さや政治感覚のなさを自ら立証することに他ならない。民意を反映しない内閣は国民にとって悲劇としかいいようがない。》


 参院選は政権選択選挙ではないし、安倍内閣はまだ発足後1年に満たない。私が先に述べたように安倍内閣を基本的に支持しているせいもあるが、直ちに退陣すべきだとは思わない。
 政権が、世論調査に示されるような表面的な民意を常に反映しなければならないのなら、消費税は導入すべきではなかったし、日米安保は改定すべきではなかった。世論に迎合するのが政治ではない。
 しかし、わが国の政体が民主制であり、政権の正統性の根拠が国民にある以上、政治指導者は政策の必要性や将来の国家のビジョンを語り、理解を求めなければならない。安倍政権にはたしかにこれまでそういった面が欠けていたと思う。
 それは安倍に始まった話ではなく、前任の小泉の手法からしてそうだった。何故小泉なら許されて、安倍は許されないのか。それは個人の資質の問題かもしれないし、小泉流にもはや国民が飽きたということかもしれない。
 岸信介はたしかに安保改定を成し遂げたが、その際に大混乱を招いたため、その後の自民党指導者は、改憲を棚上げするのみならず、安全保障の面で及び腰であり続けてきた。安倍は、祖父の二の舞を演じてはならない。

 小沢一郎の手法から言って、自民党の津島派や山崎、加藤らと組んで、さらに前回の衆院選で初当選した無派閥議員らも加えて、ごっそり集団離党させて、衆議院でも多数派を形成し、民主党政権を打ち立ててくれないものだろうか。
 そして、前原などの集団的自衛権容認派がそれに反発して離党し、安倍らと合流してくれないものだろうか。
 そういう政界再編がなされれば、田中派的なものと福田派的なものという対立軸で、かなりすっきりするのだが。
 今のままでは、衆院と参院の議席に差がありすぎて、政治がどうにも行き詰まってしまいそうなのが心配だ。
 参議院があまりに強すぎるのが問題だと思うなあ。

オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(2)

2007-07-25 23:23:42 | 生物・生態系・自然・環境
 2月20日の記事「オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・
に、昨日猫目石さんという方からコメントをいただいた。
 返答を書いていたら長文になってしまったので、新しく記事を立てることにする。

 猫目石さん、コメントありがとうございます。
 ウォルフィンのことは初めて知りました。そういう事例もあるんですね。
 調べてみましたが、これは、昔阪神パークにいたレオポンに近いものですね。自然界ではおそらく滅多に生じないケースでしょう。

 奇形というのは、一般に、姿形が異常であることを指します。
 交雑種を奇形種と呼ぶことには違和感を覚えます。

 おっしゃるように、交配可能であるからといって、生物学的に同じ種であると認められているわけではありません。
 ただ、交配可能であるかどうかという点も、種を決めるに当たっての重要な要素の一つでしょう。それに形態や生態や分布といった要素が加わるのでしょう。
 で、交雑が可能であるということは、その生物はそういうふうに出来ているわけです。それを人間の妙な観念で、異種間の交配は交雑だ、異常事態だと見ることを、私は疑問に思うわけです。

 そもそも、種とは何でしょうか。
 生物を分類する上での基本となる単位ですよね。
 では、生物の遺伝子上に、「オオサンショウウオ」、「チュウゴクオオサンショウウオ」といったラベルの役割を果たすようなものが存在するのでしょうか。それが両者の交雑種なら「オオサンショウウオ+チュウゴクオオサンショウウオ/2」に変わるとか。
 そういうものではありませんよね。
 種とは、人間が生物を分類する上で、便宜的に定めたものにすぎません。
 だから、人間の考え方次第で、別々の種だと考えられていたものが同一種になったり、またはその逆になったり、亜種が種になったり、属や科が統合されたり新設されたりする。生物の個体自体は変わらないのに。
 そんなものにこだわることにどれほどの意味があるのか、と思うわけです。

 オオサンショウウオについて言えば、おそらくはもともと同種だったものが、中国と日本とで隔離された結果、それぞれ独自の形質を備えるに至り、DNAも多少は変化したのでしょう。
 しかし、もとは同種で、近縁だから、交雑が可能なのでしょう。
 私が先の記事で、
《交雑が可能ということは、遺伝的に同種だということではないのかな?》
と書いたのは、そういう意味です。
 ニホンザルとタイワンザルについても、同様のことが言えるでしょう。

 交雑種があまりにも強い種になりすぎて、他の生物への影響が懸念されるといった話ならわかりますし、そうした面での注意は必要でしょう。
 しかし、既存の分類による種が生物のあるべき姿で、交雑種はあってはならない存在であり排除すべきだという考え方に、私は違和感を覚えるのです。
 例えば、「大阪サンショウウオの会」という団体のホームページを見ると、このチュウゴクオオサンショウウオの問題について、

《生態が似ており、互いに駆逐しあったり交尾したりする危険性がある。西日本各地の川でも見つかっており、専門家は京都府などに対し、駆除などの対策を早急に取るべきだと訴えている。》

《松井教授は「日本のオオサンショウウオと交尾すれば特別天然記念物に遺伝子汚染が広まる危険性が極めて高い。行政は責任を持ってチュウゴクオオサンショウウオの実態を早急に把握し駆除する必要がある」と訴える。》

とあります。
 日本のオオサンショウウオは固有種であり特別天然記念物であるから保護しなければならないが、チュウゴクオオサンショウウオは「遺伝子汚染」をもたらすから早急に駆除せよというのです。
 しかし、チュウゴクオオサンショウウオは日本のオオサンショウウオに外見はかなり似ていますし、生態もおそらく同様だと思われます。そのような似通ったものを、一方は保護し、一方は駆除するという。自然保護を訴える人々からそうした意見が出ること自体、私には不可解です。
 また、実際に駆除が容易とも思えません。正確に区別できるものでしょうか。一体一体DNA鑑定しろとでもいうのでしょうか。
 そんなことよりは、日本産であれ中国産であれ、オオサンショウウオが生息していける環境を維持していくことに力を入れる方が、よほど建設的だと思います。



赤城農水相批判に山口良忠判事を援用する天声人語の珍妙

2007-07-23 23:56:12 | マスコミ
 17日付『朝日新聞』の「天声人語」が、闇米を拒否して餓死したと伝えられる山口判事を引き合いに出して、赤城徳彦農水相と安倍首相を批判している。


《きのう岩波文庫の創刊80年について書いたら、「一番売れたのは何か」と質問をいただいた。答えは、157万部を数える『ソクラテスの弁明・クリトン』である。

 古代ギリシャの哲人ソクラテスは、「神々を信仰せず青年を堕落させた」と告発される。『弁明』は、その裁判での反論演説の記録だ。彼は死刑を宣告される。逃亡もできたのに拒み、毒杯をあおいで死んだ。「悪法もまた法なり」の言葉を最期に残したとされる。

 「昭和のソクラテス」と呼ばれた人を思い出す。戦後の食糧難時代に、違法なヤミ米を拒み、極度の栄養失調で死んだ山口良忠判事である。「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死する」と病床日記に残した。この秋で、亡くなって60年になる。》


 はて、このエピソードは、或る種の伝説ではなかっただろうか。
 たしか、もうかなり昔のことだが、雑誌『諸君!』に、山口判事の遺族が、この話は朝日新聞が作り上げた伝説だとして否定する文章が掲載されていた記憶がある(未読)。
 検索してみたら、現在でも山口判事への関心は失われていないようで、いくつかのサイト見つかったが、伝説云々については、こんな文書が見つかったぐらいで、よくわからない。
 この文書が言うように、この病床日記なるものは、たしかに捏造じみた印象を受ける。
 山口判事については、近年でも関連書籍が刊行されているので、そうした本を当たれば、もう少し詳しいことがわかるのかもしれない。

 で、天声人語子の話は何故か赤城農水相批判に向かう。


《「立派だ」「愚直にすぎる」。感想は分かれよう。だが「ザル法もまた法」とばかりに、事務所費の疑惑に頬被(ほおかむ)りする当節の大臣に比べれば、どれほど「品格」に富むことだろう。論法は同じでも、モラルは天と地ほどに違う。

 「李下(りか)に冠を正さず」と言う。だが赤城農水相は、不自然極まる経理処理で「冠を正し」てしまった。疑惑を晴らすには、李(すもも)を盗んではいないと、手を開いて見せるしかない。この場合は領収書を示すことだろう。》


 「品格」にカギカッコが付いているのは、ベストセラーになった『国家の品格』を意識しているのだろうか。
 しかし、ソクラテスや山口判事には品格があった、赤城農水相には品格がない、と同列に論じられる問題だろうか、これは。
 「悪法もまた法なり」として従容として死につくのと、「ザル法もまた法」として合法性を盾に説明を拒否するのでは、全く話は違うだろう。
 前者は、自分に不利益であっても法律には従うべきであるという覚悟。後者は、合法なのだから社会的に問題はないはずだという主張。「論法は同じ」どころではない。全く別の次元の話なのだ。
 その点について天声人語子も内心後ろめたさがあるのだろう。そこで、「李下に冠を正さず」などという故事成語を持ち出して取り繕っているが、成功しているようには見えない。


《かばい続ける安倍首相にも、「仲良し内閣」と批判が募る。首相と赤城氏は、祖父同士も「首相(岸信介)と農林相」の間柄だった。御曹司ゆえの大甘か。ちなみにではあるが、岩波文庫の2位は136万部の『坊っちゃん』である。》


 結局、岩波文庫で売れている1位と2位が『ソクラテスの弁明・クリトン』と『坊っちゃん』だったことにかこつけて、これをむりやり赤城農水相批判に結びつけているだけではないのか。
 その力業にはおそれいるが、何とも無様だ。

 山口判事の「モラル」を持ち出すなら、言論人としての朝日のモラルはどうなのか。
 山口判事は、伝えられるところによれば、単なる遵法精神で栄養失調にまで至ったのではない。闇米を所持して食糧管理法違反に問われた人の裁判を担当していた自分が、闇米を口にすべきではないという考えに立ったためだった。
 朝日が言論人としての「モラル」を考えるなら、嘘やデマだとわかっていることは、たとえ圧力をかけられたとしても報道するべきではない、新聞は権力の広報機関に堕してはならないということになるだろう。
 戦時中の朝日新聞はどうだったのか。そしてそれを戦後朝日は検証してきたのか。多少なりともまともな検証がなされたのは、当時現役だった者が全て引退した90年代以降ではないのか。
 また、山口判事を一躍有名にした朝日の記者は、では闇米を食べてはいなかったのか。

 山口判事自らが、その行動に基づいて、他者を批判するのではあれば、まだ話はわかる。
 また、山口判事を引き合いに出して、当時の他の裁判官なり取り締まりの当局者なりを批判することも、論理的には可能だろう。
 しかし、山口判事並みのモラルを自分の職務において発揮できなかった者が、世の中には山口判事のような偉い人がいる、それに比べてオマエは何だと、一般論として他者をののしってみたところで、何の説得力があるだろうか。

 前にも書いたが、「天声人語」のレベルは昔に比べて低下しているように思えてならない。

ある民主党批判のFlashについて

2007-07-21 22:42:44 | ブログ見聞録
 zombiepart6さんのブログ「ギロニズムの地平へ」で、民主党の沖縄政策を批判するFlashの話を知る。
 そのFlash内では、民主党が「主権の委譲」(沖縄の?)を主張しているという。zombiepart6さんは、この箇所について、売国的であり、常軌を逸していると強く批判している。

 zombiepart6さんが見たのは、naojuvさんという方の「徒然日記」というこちらのブログの記事
 この記事は、れおんさんという方の「My favorite ~Osaka Japan~Eat!!! 」から転載されたもの。
 れおんさんは「御意見番日記」というブログを開いているduneさんという方からこのFlashを紹介されたそうだ。
 duneさんがこのFlashをどこで知ったのかは不明。

 で、私もこのFlashを見てみた(長くて辛かった・・・・・・)が・・・・・・これは、悪質なネガティヴキャンペーンではないのかな。

 Flashの内容は概略次のようなもの。

1.沖縄は今危機に瀕している。沖縄が日本ではなくなろうとしている。
2.民主党は、2005年8月に発表した「沖縄ビジョン」で、
・軍事基地を減らすとともに、基地経済への依存からの脱却を図る
・一国二制度を導入し、東アジアの一拠点をなることを目指す
ことをうたっている。
 しかし、沖縄は中国の軍事的脅威にさらされており、基地を減らすべき状況にはない。
 また、一国二制度は中国が香港返還に際して適用したもので、その結果、香港の自治権は消滅してしまった。
3.「沖縄ビジョン」にはほかにも、以下のような刺激的な主張が見られる。
・地域通貨の発行
・長期滞在中心の「3千万人ステイ構想」
・ビザの免除による東アジアとの人的交流の促進
・中国語などの学習
・無国籍児など多様化している国際児の教育を受ける権利
・安全保障等で沖縄があらためて自主自立の新たな道を開くこと
 ――これらはいずれも、中国人を沖縄に大量に移民させ、やがて沖縄を併呑するという中国の意図にのっとったものである。
4.民主党は、2004年6月に発表した「憲法提言中間報告書」で、「国家主権の移譲」をとなえている。
 これは、日本国の統治そのものを他国に移管し、これを譲渡することであり、すなわち日本の解体であり、亡国的所業である。
 「民主党の最終目標が日本の解体」であるなら、上記の沖縄政策も首肯できる。
 民主党は中国の傀儡政党として、ひとまず沖縄を中国に「献上」しようとしている。そして次の狙いは・・・・・・。

 ツッコミどころはいろいろあるのだが、とりあえずzombiepart6さんが問題視していた「国家主権の移譲」についてだが、民主党のホームページで「憲法提言中間報告書」の本文を見てみると、要は、地球市民主義を背景に、EUのような組織への移譲が想定されていることがわかる。

 「主権の移譲」について触れられているのは、次の5箇所。

《そして、これらの紛争形態の変化、大きな価値転換や構造変動に伴って、これまで絶対的な存在と見られてきた国家主権や国民概念も着実に変容し始めている。EUでは、「国家主権の移譲」や「主権の共有」が歴史を動かしている。
〔中略〕
 こうした大きな眺望の下に立つとき、いま私たちが試みなければならない憲法論議の質が、懐古的な改憲論や守旧的な護憲論にとどまるものでないことは明らかである。いま必要なのは、こうした歴史の大転換に応えて<前に向かって>歩み出す勇気と、日本が国際社会の先陣を切る決意で、21世紀の新時代のモデルとなる、新たなタイプの憲法を構想するく地球市民的想像力>である。》

《そもそも、近代憲法は、国民国家創設の時代の、国家独立と国民形成のシンボルとして生まれたものである。それらに共通するものは、国家主権の絶対性であり、国家による戦争の正当化であった。これに対して、戦後日本が制定した日本国憲法は、国連を軸とした国際秩序に信を寄せて立国の基本を定めたという点で画期的なものであり、国家主権それ自体を相対化する試みとして実に注目すべき内実を備えている。
 21世紀の新しいタイプの憲法は、この主権の縮減、主権の抑制と共有化という、「主権の相対化」の歴史の流れをさらに確実なものとし、これに向けて邁進する国家の基本法として構想されるべきである。国家のあり方が求められているのであって、それは例えば、ヨーロッパ連合の壮大な実験のように、「国家主権の移譲」あるいは「主権の共有」という新しい姿を提起している。》

《5.国民投票制度の検討
日本でも、例えば、主権の移譲を伴う国際機構への参加などの場合について、国民の意思を直接問うことができる国民投票制度の拡充を図るべきである。そのための手続きや効力について詳細な検討を行い、細かく規定していくことが重要である。》

《9.硬性憲法と憲法改正手続き
硬性憲法の実質を維持しつつ、より柔軟な改正を可能とするために、現憲法の改正手続きそのものを改正する必要がある。例えば、<1>憲法改正の発議権は国会議員にあると明記する、<2>その上で、各議院の総議員数の過半数によって改正の発議を可能にする、<3>改正事項によっては、各議院の3分の2以上の賛成があれば、国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする、<4>ただし、主権の移譲など重要な改正案件に限定して国民投票を義務付け、その場合、有効投票の過半数の賛成を条件とする、など改正手続きを見直す。》

《一方で、古いタイプの脅威と国家間紛争に代わって、新しいタイプの脅威が地球規模で覆いつつあり、これに対応しうる新たな安全保障と国際協調主義の確立が求められている。私たちは、これまでの日米関係一辺倒の外交と安全保障政策を脱して、2l世紀の新時代にふさわしい、「アジアの中の日本」の実現に向かって歩み出すべき時を迎えている。また、国際協調主義の立場に立ち、国連中心の国際秩序の形成に向け積極的な役割を果たしていくべきである。そのためには、例えば、EUの発展過程に見られるような「主権の移譲」もしくは「主権の共有」を含めた、よりグローバルな視点からの憲法の組み直しにもあえて挑戦する気概が必要だと感じている。》

 ここで語られている「主権の移譲」が、このFlashが言うような「日本国の統治そのものを他国に移管し、これを譲渡する」ものではないことは明白だ。
 おそらくは、東アジア共同体構想、あるいはもっと進んだ世界政府的なものを想定しているのだろう。

 私は、東アジア共同体構想には反対だし、引用した「憲法提言中間報告書」の主張にも同意しない。国民国家の枠組みは、少なくとも当面は崩すべきではないと考える。現在の東アジアは、EUのような共同体を形成しうる条件を満たしていないと思う。
 しかし、民主党の言う「国家主権の移譲」が、日本の主権の中国への移譲だ、だから民主党は売国政党だという批判は、筋違いというものだろう。
 そしてもちろん、この「憲法提言中間報告書」の「国家主権の移譲」という語句をもって、日本が中国に沖縄を売り渡そうとしている、といった批判も。

 あと、このFlashは、国家主権と国民主権を混同して、参政権が失われるだの何だのと珍妙なことを述べている。じゃあEUの国民には参政権はないのか(笑)。
 もっとも、危機感をあおるために敢えて混同しているだけかもしれないが。

 zombiepart6さんが、「民主主義という制度が与える「権力の正統性」の限界を逸脱した話」で、「「憲法改正」なんかメじゃないくらいの大問題」などと述べているのも理解しがたい。
 民主党の主張は沖縄ではなく、あくまで憲法についてのものであり、移譲の対象は他国ではなく、EU的なものを想定しているのであり、しかも例えば上記のように、

《主権の移譲を伴う国際機構への参加などの場合について、国民の意思を直接問うことができる国民投票制度の拡充を図るべきである。》

と、国民主権をないがしろにしているわけではないのだから。
 Flashだけで判断したのかもしれないが、それにしても「根本的な反民主主義組織」とは言い過ぎだろう。

 このFlashには、ほかにも問題点が多い。
 一国二制度により香港は中国に自治権を奪われたというが、沖縄を一国二制度にすれば、中国に相当するのは日本なのだから、日本の主権が沖縄にあることに変わりはないわけで、何が問題なのか。香港が中国に吸収されたように、沖縄も中国に吸収されるというイメージを与えたいのだろうが、いささか混乱が過ぎるのではないか。
 「3千万人ステイ構想」にしても、中国人3000万人がやってくるかのようにあおっているが、「沖縄ビジョン」では、

《従来の大量輸送・大量消費型マスツーリズムといった環境面に負荷がかかる観光形態ではなく、自律的な持続可能な観光へと転換すると共に、アジアからの外国人を含む国際型観光地および長期滞在中心の観光地への転換を図り、各種コンベンションなどを通して観光客のみならずビジネスマンや学生等も含め幅広い年齢層が訪れる「3 千万人ステイ構想」の実現に取り組む。》

と、単に来訪者が3000万人であるというにすぎないし、そもそもこの構想の具体的な中身や、3000万人という数字が何を意味するのか(年間の来訪者数? まさか常時3000万人が沖縄に滞在可能だと考えているわけではないだろう)すら、明らかではない(検索してみたが、見当たりませんでした)。
 「ビザの免除」により中国人がノービザで大量流入するかのように言うが、「沖縄ビジョン」では、

《地理的に近い台湾に対しては観光ビザの免除をするなどの入国管理の適切な運用によって、東アジアの人的交流の拠点を目指す。その一方で、麻薬をはじめとした不法物の沖縄への流入防止に一層努め、安全で健全な沖縄のイメージをアピールする。》

とあるのみで、中国に対するノービザなど想定されていない。 
 「無国籍児など多様化している国際児の教育を受ける権利」にしても、普通に考えれば沖縄におけるその種の問題と考えると思うのだが、このFlashは何故か、中国の無戸籍児2176万人が流入してくるかのように印象づけている。「沖縄ビジョン」では、

《アメラジアン※18)だけでなく、無国籍児など多様化している国際児の教育を受ける権利の確立のため、公的助成を含めた教育環境の整備、及び養育費を確保するための米国との協定締結等の措置の実現を図る。

※18)アメラジアンとはAmerican と Asian の造語。アメリカ人とアジア人を両親にもつ子ども。特に日本では沖縄においてアメリカ軍人および軍属と日本人女性との間に生まれた二重国籍児を指す。》

と述べられている。これを中国の無戸籍児流入に結びつけるとは、曲解にもほどがあるというものだ。
 
 このFlash、端的に言って、まともに取り上げるに値しない、悪質なデマ攻勢としか思えない。
 私は、こういうやり方は嫌いだ。

 このFlashに見られる主張は、既に「沖縄ビジョン」発表当時からネットで話題になっていたらしい。それが、今回の選挙に際して、復活したということなのだろう。

 ところで、このFlashを取り上げていた、れおんさんの「My favorite ~Osaka Japan~Eat!!! 」は、《民主党、「シナの生活が第一!」 》という記事で、小沢・鳩山・菅トリオのバックに毛沢東を配置する画像と、民主党議員数名の横に「一〇〇〇万人移民受け入れ構想」という見出しを付けた画像(おそらく、雑誌記事のコラージュなのだろう)を掲載している。ともに、実に不快な印象を受ける。

 以前、「反日ブログ監視所」の篠原静流氏が命名した「嫌安倍厨」のふるまいと、方向性こそ違えど、同質のものだろう。
 その種の輩は左右を問わないと私は思う。

 このれおんさんは、維新政党・新風支持者であるらしい。

 先日、miracleさんのブログで、維新政党・新風支持者のある行動が問題になっていると知ったが、新風の支持者って、たいがいこんなレベルじゃないのかな。

宮本顕治の訃報を聞いて

2007-07-19 21:44:02 | 日本共産党
 志賀義雄、袴田里見、伊藤律、椎野悦朗、野坂参三、村上弘、鈴木市蔵・・・・・・
 共産主義者というのは長命な人が多いものだと常々思っていたが、中でも宮本はとうとう最後まで生きながらえたのだなと、あらためて思った。
 もっとも晩年は恍惚の人だったと聞くが。

 私は反共主義者なので、彼の死を悼む気はしない。それに、98歳で老衰死なら大往生だろう。

 彼が主導権を握ってからの、共産党の議会主義や自主独立路線は、党勢の拡大と定着に大きく貢献したものと言えるだろう。
 逆に言えば、彼に排除されたソ連派や中国派が主導権を握っていれば、今日のようなかたちで共産党は存続しえなかったろう。
 もっとも、その方が反共主義者としては喜ぶべきことかもしれないが。

 1987年の大韓航空機事件について、即座に北朝鮮の仕業だと断定して批判したことが強く印象に残っている。
 近年北朝鮮への擦り寄りが見られる不破・志位指導部は、宮本の爪の垢でも煎じて飲んでほしいものだ。

 志位和夫が書記局長に起用され、事実上の後継者とされたのが1990年。この時宮本81歳、不破60歳、志位35歳。
 今、不破77歳、志位52歳。志位は年齢的にはまだまだやれるだろうが、志位の後を継ぐ者は現れるのだろうか。
 

民団職員が民主党から参院選に立候補中

2007-07-15 17:44:39 | 現代日本政治
 少し前に、加賀もんさんのブログで、金政玉という在日韓国人2世で日本国籍を取得している人物が、今回の参院選に民主党から比例区で立候補していることを知った。
 日本国籍があるから、国政選挙に立候補できるのは当然なのだが、問題なのは、この人物は在日本大韓民国民団(以下「民団」と略す)の職員を兼ねているのだそうだ。

 民団は、その名のとおり在日する韓国民のための組織であるはずだ。その構成員が、日本国籍という事態が許されるのか?
 私は、帰化者の増加と日本人との婚姻により在日韓国・朝鮮人は減少傾向にあり、それは今後もさらに強まることは明らかなので、民団はいずれコリア系日本人のための組織に変質せざるを得ないと見ている。しかし、今の民団はそのようなものではないはずだ。

 もっとも、職員といっても、幹部クラスでなく一般職員なら、そのようなこともあり得るのかもしれないと思い直した。日本国籍を取得したとしても、いきなり解職されては困るだろうし。
 ところが、さらに調べてみると、金政玉氏は現在、民団葛飾支部の国際課長を務めているという。
 これは一般職員ではないだろう。いよいよ不可解だ。
 しかも同支部は、金政玉氏の支援団体への協力を呼びかけている。

《参政権を持たない私たちは一票を投じることはできませんが、ご賛同いただける周囲の知人・友人等の有権者の方々を、一人でも多く、「金ジョンオクの政治参加を応援する在日同胞と市民の会」に御紹介いただきたいのです。裏面にあります紹介者記入欄にお知り合いの有権者のご承諾をいただきその方の氏名・ご住所・電話番号など記入しFAXしていただければけっこうです。》

 これは、端的に言って、内政干渉ではないのか。


 加賀もんさんが挙げているように、民団中央本部のホームページに掲げられている綱領の1節には、

《大韓民国の国是を遵守する
  在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します。》

とある。
 したがって、韓国籍の保持者でないと、民団の構成員にはなれないように思うのだが、どうなのだろう。
 こうした団体には綱領とは別に規約があり、そこで組織の構成について細かく定められているはずだ。
 民団の規約をネット上でしばらく探してみたが、見当たらなかった。
 どのように整合性をつけているのか、気になる。

 私は、日本国籍取得者であれば、民族がどうであれ、国政に参加しようとすること自体は何ら問題ないと思うし、マイノリティが国政の場に登場することは十分に意義があると考える。
 ただ、民団はあくまで韓国民としての在日のための組織であり、その地方幹部を務める金政玉氏が、民団の組織力を背景に選挙運動を進めるのであれば、それは国政選挙の場にはふさわしくないものだと思う。

 また、彼を擁立する民主党がその点についてどう考えているのかについても興味がある。

《民主党は党として説明責任があるし、有権者は、この点に注目すべきであろう。》

との加賀もんさんの主張に賛成だ。

「引用」ではなく「盗用」では?

2007-07-15 00:38:50 | マスコミ
 先の記事に関連して。
 宮沢喜一の死去に際し、静岡新聞が記事中でウィキペディアの以下の記述を引用したことが先日問題となった。


《1970年代の外務大臣在任時、旧ソ連の古強者グロムイコ外相との北方領土交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(北海道新聞でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。普段はハト派を標榜しながらも、国益のためには強硬な姿勢も示す国益主義者だった一面がうかがえる。》


 この件についての朝日新聞の記事はもう「アサヒ・コム」には見当たらないが、朝日の記事と、静岡新聞のコラム及びそのお詫び記事が「雅楽多blog」さんというブログに転載されていたので、リンクを張らせていただく

 この宮沢とグロムイコのエピソードは初めて知った。あまり知られていない話だと思うが、実話だろうか。一応、北海道新聞が出典とはされているが、いつのどのような記事だろうか。
 私はこの件は、ウィキペディアレベルの出所不明な怪しい話を、新聞の論説委員が、「広く知られたエピソードと思い込」んで記事にした点が問題なのだと思っていたのだが、共同通信読売新聞の記事もあわせて読むと、どうも、ウィキペディアの記述を引用したこと自体が問題になっているらしい。

 ウィキペディアに記述する者は、多くの場合、一次情報を記述しているわけではあるまい。
 何かしらに既に発表された情報を元に記述しているのだから、ウィキペディアの記述を参考にしたからといって、必ずしも、「出典 ウィキペディア」と明記しなければならないものでもあるまい。
 もし出典を明記するなら、ウィキペディアではなく、さらにその元の出所を明記すべきではないのか。

 と思っていたのだが・・・・・・「国家鮟鱇」さんというブログの記事を読んで、ようやく問題の根本がわかった。
 こちらにはウィキペディアの記事と静岡新聞の記事の該当箇所が対比されている。これによると、両者の記述は酷似している。つまり、静岡新聞は、単にウィキペディアから宮沢とグロムイコのエピソードを取り上げただけでなく、もう一つのサンフランシスコ講和会議50周年の式典でのエピソードを含め、丸々ウィキペディアの記述自体を盗用したということだ。
 「国家鮟鱇」のtonmanaanglerさんが、

《これと『論説委員は「このエピソードが広く知られていると思い込んだ」と引用の事実を認めた。』は話が噛み合っていない。もし「このエピソードが広く知られている」にしても、丸写ししているだけだからアウトですよね。》

と述べているのは全く正しい。
 それにしては、新聞や通信社の反応は鈍いのではないか。そもそも「引用」ではなくて「盗用」だろう。
 以前、新聞の社説の盗用が問題になったが、相手が誰とも知れぬウィキペディアだから、軽く見ているのではないだろうか。執筆者のモラルが問われるという点では変わりはないのに。
 

 ところで、ウィキペディアの宮沢の記事には、この件について今のところ何の注記もない。グロムイコとのエピソードについて、「要出典」との指摘もない。
 ウィキペディアの執筆者たちにとって、この一件はさして問題ではないらしい。
 私は先の記事でウィキペディアの有用性について疑問を呈したが、ますますその思いを深くした。

宮沢喜一雑感

2007-07-09 23:57:48 | 現代日本政治
 石川真澄『人物戦後政治』(岩波書店、1997)を読んでいたら、宮沢喜一についての記述があったので、先日の訃報を思い出した。

《宮沢氏とは、宏池会の他の政治家に比べれば、私としては会った回数は多い方だと思う。正直に告白すると、私は会う前から宮沢氏に好感を抱いていた。古手の記者たちが噂しているのを聞くと、この人は原則として記者たちの「夜回り」は拒否しているという。その理由は、夜になると酒が回って、多弁あるいは、ひどいときには酒乱に近い状態になるからだと解説する人がいた。後述する社会党の委員長になった成田知巳氏も夜回りお断り組で、理由も宮沢氏と同じことがいわれていた。どちらも「目から鼻へ抜ける」タイプの大秀才であるところも共通していた。
 理由はともかく、夜回りお断りなんて、いいじゃないかと私はひそかに好意をもった。》(p.21~22)

 何で「理由はともかく」なんだか、その前後を読んでもあまりよくわからなかった。
 酒は呑んでも呑まれるな。

《先輩記者たちによると、池田首相に対して「ディスインテリ」というあだ名をたてまつったのは宮沢氏だということだった。これは池田氏が吉田内閣の蔵相時代にとった「ディスインフレ」つまりディスインフレーション政策をもじったものである。〔中略〕また、「池田は書籍は読まない。読むのは書類だけだ」などというジョークも、宮沢氏作と伝えられた。そうした話は野次馬的には面白かった。》(p.22)

 池田が蔵相の時、宮沢は大蔵官僚であり、蔵相秘書官を務めていた。
 池田がディスインフレをもじって「ディスインテリ」と呼ばれていたという話は聞いたことがあるが、その名付け親が宮沢だとは知らなかった。
 秘書官が大臣をこのように評すものかなあ。池田は京大卒、宮沢は東大卒。宮沢が学歴に異常にこだわるというエピソードはよく知られているが、その学歴故なのか、あるいは仕えている宮沢に「ディスインテリ」だと感じさせるものが池田にあったということなのだろうか。たしかに、宮沢は《「目から鼻へ抜ける」タイプの大秀才》だったらしいが。それとも、偉い方々の世界ではこういった感覚が普通なのだろうか。

《宮沢氏の書いたもので心に残るのは簡単な新書判ながら池田内閣が終わった後のころの自身の考え方をよく言い表した前出の『社会党との対話』である。とくにその中で日米安保体制について、「とにもかくにも安保体制によって、この十数年日本の平和と安全が守られてきた」ことを「第一の効用」としたうえでだが、「第二の効用」として、「日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と指摘したことが当時は印象的であった。今では誰もが知っている「安保効用論」だが、それを活字のうえで肯定的に明言したのはこの本が最初ではないかと思う。》(p.22~23)

 そのような効用があったことはたしかだが、60年代ならともかく、経済発展を成し遂げた80年代や90年代に至っても、その枠組みを崩そうとしなかったことが、以後様々な面で歪みを生じさせる結果となったと思う。

 宮沢はよく「護憲派」「ハト派」と称されるが、佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書、2001)によると、自民党の機関誌『月刊自由民主』平成8年5月号で、宮沢は、《「集団的自衛権行使違憲」論を「いや、そんなことはない」と切って捨て、憲法第9条が禁じているのは「外国における武力行使」だけで、自衛目的であれば「それ以外のことは何をしてもいい」と弁じている》という。佐瀬はこれを中曽根康弘の集団的自衛権合憲論とともに「実に驚くべき光景」と評している。
 宮沢は、イラク戦争における自衛隊派遣も支持していたように思う(出典を探したが見当たらず。記憶違いかも)。単なる「護憲派」「ハト派」としてひとくくりにできる人物ではなく、ましてやその代表格と見るのもどうかと思う。

 酒井三郎『昭和研究会』(講談社文庫、1985)によると、近衛文麿のブレーン集団だった昭和研究会が設けた「昭和塾」(1938-41)は、のちに各界で活躍する人材を多数輩出し、

《宮沢喜一なども熱心な入塾希望者であったが、当時はあまり若いというので、採用にならなかった。》(p.177)

という。宮沢は1919年生まれなので当時は二十歳前後。たしかに若い。大蔵省入省は42年なので、当時は学生だったのだろうか。

 宮沢は政界の中で随一の知性派だったとは思う。ではその知性をもって、彼は政治家として何がしたかったのか、判然としない。それは単に宮沢政権が時機に恵まれなかったというだけではなく、彼が派閥領袖となってから引退するまでの行動を見ても、ビジョンとか哲学といったものがおよそ感じられないように、私には思える。
 

年金は預金ではない

2007-07-07 23:45:08 | 珍妙な人々
 在日コリアンの評論家、河信基が、自身のブログ「河信基の深読み」で、「年金は生活保護でない」と題して、次のように述べている。


《言葉尻を捕らえるわけではないが、今朝、TBSのニュース番組でキャスターが「年金は生活保護みたいなものですからね」と繰り返していたのは聞き捨てならない。
 この種の素朴な誤解が「宙に浮いた5000万件の年金問題」を引き起こした根底にあることに、いい加減気付く頃である。

 年金は“お上”にいただくものではない。預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のものである。
 その点を明確にしておかないと、他人の金をでたらめに扱い、食い潰す年金不祥事はこれからも繰り返されるだろう。》


 いや、わが国の年金は「預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のもの」ではない。
 年金制度には賦課方式と積立方式がある。河信基の言うのは、積立方式だ。つまり、自分が納めた保険料を、引退してから自分が受けとる。
 賦課方式とは、現役世代が、その時点での引退した世代の年金を負担する方式。わが国の年金制度は、積立方式の要素を加味しながらも、賦課方式を基本としている(厚労相年金局の「年金財政ホームページ 用語集」参照)。

 高度成長期は、賦課方式で問題なかった。
 少子高齢化の進行に伴い、賦課方式では世代間の不公平が著しくなってきた。そのため段階的に積立方式の要素を強化することにより世代間のバランスをとろうとしているんじゃなかったかな。
 こんなことは、ド素人の私でも知っていることだがなあ。

 ところで、「年金は“お上”にいただくものではない。」と河信基は述べるが、では生活保護なら「“お上”にいただくもの」なのか?
 生活保護の原資は税金である。“お上”のポケットマネーではない。富裕層から徴収した税金を、貧困層の生活に充てているわけだ。所得の再分配というやつである。
 税金も年金原資も、官僚や政治家にとって「他人の金」であることに変わりはない。どちらも、官僚や政治家が恣意的に運用していいものではない。しかし河信基はこう述べる。


《生活保護は税金から負担する。それはそれで国民の生活権を保障する重要な社会福祉政策である。
 だが、自ら預けたカネを返してもらう年金とは性格を異にする。それをごちゃ混ぜにすると、財政倫理が乱れ、双方とも崩壊することになりかねない。》


 生活保護と年金とは別の財政倫理を適用すべきなのだそうだ。
 生活保護は税金だから少々甘い運用でも可、年金は加入者が返してもらうべきカネだから厳正に運用せよ、ということなのか。
 何を言ってるんだろうなあ。
 きっと、生活保護は富裕層のカネだし、弱者のためのものだから堅いことは言わないが、年金は自分のカネだから減らすことは許さん!という感覚なのだろう。
 河信基が受けとる年金は現役世代が納めたものだから、少子高齢化で減るのはやむを得ないと言われたら、河信基は何と答えるのだろう。「そんなことを了承した覚えはない!」とでも言うだろうか。
 
 最近、河信基のブログを定期的に見ているが、彼の専門である朝鮮問題とは関係のない記事について、しばしば珍妙な主張が見られる。例えば、都会で蚊が増えたのは都市住民が燕の巣を壊したからだとか・・・・・・。(朝鮮問題についてもどこまで信用してよいのか疑問を覚える記事も多いが、ここでは置く)。

 著名人がブログを開くメリットというのも、それはそれでいろいろあるのだろう。しかし、あんまりバカげた記事を載せると、かえって自分のバカさ加減を公衆にさらしてしまうというデメリットだけが目立つように思う。
 私のような無名の一市民にとって、このように匿名で自分の見解を語ることのできるブログという場は貴重だ。しかし、メディアを利用できる立場にある著名人が、同様の感覚でヨタ話を語っては、かえって自分で自分の首を絞めることになるのではないだろうか。


天皇訪中が「朝貢」だってさ。

2007-07-05 23:52:25 | 珍妙な人々
 渡部昇一が例によって妙ちきりんなことを述べている。
 5日付け『産経新聞』の「正論」欄「中国政府の対日傲慢化の起源」によると、傲慢化の起源とやらは天皇訪中にあるのだそうだ(ウェブ魚拓)。

 渡部は、日本は中国の冊封体制の外にあり、歴史的に中国とは対等だったということを縷々述べた上で、

《ところで宮沢内閣の時、天皇陛下の中国ご訪問を実現させた。これは中国から見ると周辺国の君主の朝貢である。朝貢という言葉を知らない世代のためにあえて品の悪い言葉を使わせてもらえば、サルやカバにおけるマウンティングの儀式である。蒋介石も周恩来も毛沢東も日本を敵視しても軽蔑しなかった。天皇陛下訪中以後、急に江沢民も温家宝日本に対し傲慢になった。日本政府が聖徳太子や秀吉の気概も知識も持たなかったからである。私は小学校のころに聖徳太子と秀吉のシナに対する態度を学校で教えられたというのに。》

と締めくくっている。

 疑問が2つ。
 まず、朝貢とは、本当にそのようなものなのか。
 封ぜられた国王が直々に皇帝に拝謁するのが朝貢か。
 国王の使者が出向くというのはそりゃあるだろう。
 しかし、国王自身が出向いて、皇帝と面談するのなら、それはむしろその国王と皇帝が対等であることを示すのではないか。

 『山川 世界史小辞典』(2004)で「朝貢」をひいてみる。

《旧中国に対する海外諸国の偏務的外交・貿易形態。漢代以降の外国貿易は地大物博を誇る中国が、中国の物資に憧れてくる外国人に施す慈恵という形の下に運用された。中国皇帝から承認された朝貢国は、所定の年度に所定の人数の朝貢使節団(商人を含む)を所定の入国地点(開港場、互市場)を経由して派遣した。朝貢使は入国の港ないし首都で貢物を呈し回賜を受けた。〔後略〕》

 なんで天皇訪中が朝貢なものか。

 次に、渡部は、では天皇は訪中すべきではないと言うのか。
 中国の国家主席は訪日するのに、天皇は訪中してはならないとは、かえって天皇を中国国家主席より上位に置くものではないか。

 1992年の天皇訪中よりだいぶ前の1983年に、胡耀邦党総書記が訪日している。
 また、92年の天皇訪中に先立って、まだ国家主席になる前だが、江沢民党総書記が訪日している。
 渡部の論法で言えば、中国は首脳の外国訪問を朝貢とみなすというのだから、これらの訪日は日本に対する中国の朝貢ということになるのではないか。
 そんなバカな。

 渡部は雑誌『Will』では、同様の論理をさらに押し進めて、宮沢喜一が天皇を中国に売ったなどと述べているらしい。
 ああ、宮沢の死去に合わせた話だったのか。なるほど・・・・・・。
 この雑誌の記事を引用している方がおられたので、参考までにリンクを張っておく
 これによると、渡部は次のように述べている。


《聖徳太子以来、日本はシナと対等の立場を崩したことはありませんでした。その積み上げてきた歴史を一切、葬り去ってしまった。

 諸外国の大統領が来日した時、代わりに各国を訪問するのは日本では首相です。それが対等の立場です。そして、天皇陛下はその上にいらっしゃる。ですから、各国の大統領が来日したとき、天皇陛下の晩餐会に出席すると皆、緊張する。フォード大統領も震えたと言われています。それくら畏敬の念を持っている。

 しかし、宮澤喜一首相が中国をつけあがらせました。そもそも、温家宝は、中国のナンバー3ですから、天皇陛下の晩餐会に呼ぶ必要などない。それを外務省のチャイナスクールが動いて画策したのでしょう。》


 諸外国の大統領と日本の首相が対等だという。そして天皇はその上に位置するのだそうだ。
 ならば、天皇は、大統領や国家主席といった共和国の元首よりも偉いということか。
 君主制国家の国王、皇帝、天皇といった君主に相当するのが、共和制国家の大統領、国家主席、総統といった国家元首なのであり、これらはそれぞれ対等だと思うのだが。
 渡部は、支那と対等な日本ではなく、世界に冠たる日本を望んでいるらしい。

 江沢民や温家宝が、周恩来や胡耀邦に比べて、わが国に対して厳しい言動を行ってきたことは事実だろう。
 また、中華思想が、現代の中国指導部にも影響を及ぼしている可能性もあるだろう。
 だからといって、中国の反日傾向の原因を中華思想に求めたり、天皇訪中を売国的所業と評するのは、およそ現実的だとは思えない。