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白土三平の『ワタリ』あとがきについて

2009-06-28 23:57:49 | マンガ・アニメ・特撮
 だいぶ前に読んだ白土三平の忍者マンガ『ワタリ』(小学館文庫、全7巻、1983-84)を手放すことにした。
 読み返していると、1巻の最後に次のような「あとがき」があるのが目に留まった。

 とかく人は、隠されたものを見たがるものだ。他人の私生活だとか、男なら女性の秘められた部分に、異常な関心を示す。
 ところが、ふし穴ではないが、見えているが見えないものもある。草を食べる動物がある。その動物を捕える肉食動物がいる。野うさぎを食べつくしてしまえば、天敵である山猫も滅びてしまう。動物でも植物でも、死ねばさまざまの菌類が分解し、無機物へと還元してしまう。その無機物をもとにして、植物は再生する。もし、この世に菌類というものがなければ、地球は動植物の死骸に埋もれて廃墟と化していることだろう。ところが、菌類はキノコやカビをのぞけば、人の眼にふれることはない。木が倒れ家の屋根をとばされて風の存在を知り、水にもぐって空気のありがたさを知る。
 だが、人はまわりをうかがう己の姿には、なかなか気づかない。
 この作品をかいて久しい。その時、作中の登場人物たちも私も、見えないものを見ようとして、己らの姿を見ることが出来なかった。0はいまだに健在である。
一九八三年七月


 最後の「0」とは、「ワタリ」に登場する究極の敵「0(ゼロ)の忍者」のことだろう。

 私には、最初に読んだときも、そして今も、この「あとがき」の意味がわからない。

 『ワタリ』は、

第三の忍者の巻
0の忍者の巻
ワタリ一族の巻

の3部構成になっている。

(以下、ネタバレがあるので未読の方はご注意ください)

 「第三の忍者の巻」は、伊賀の国の忍者の里に現れた、伊賀でも甲賀でもない「第三の忍者」である少年忍者ワタリと老忍四貫目が、伊賀忍者を支配する「死の掟」の謎を暴いていく話。伊賀忍者は百地(ももち)と藤林(ふじばやし)の2つの勢力に分かれて対立し、また、掟に触れた者は死ななければならないとされるが、その掟の内容は明らかにされていない「死の掟」によって支配されていた。ワタリと四貫目は、百地の主領直属の部下である中忍「音羽(おとわ)の城戸(じょうこ)」が、藤林の中忍と同一人物であり、かつ百地と藤林の主領も彼の傀儡であって、彼こそが伊賀の支配者であったこと、その秘密に触れた者は「死の掟」によって消されていたことを明らかにする。

 「0の忍者の巻」は、伊賀の真の支配者「0の忍者」の謎をめぐる話。制裁を受ける音羽の城戸は、自分は真の支配者「0の忍者」の指示で動いていたにすぎないと語る。そして現れた仮面の騎馬武者「0の忍者」は、謎の武器を操り、倒しても倒しても甦る不死身の怪人であった。かつてワタリたちと協力して城戸の秘密を暴いた有志たちは倒され、伊賀は「0の忍者」とその意を受けた城戸に支配される。ワタリ一族のもとに戻っていたワタリと四貫目は、再び伊賀に潜入し、「0の忍者」の秘密を探っていく。「0の忍者」もまた、城戸がさまざまな人物を催眠術で操っていた(だから何度でも甦る)にすぎず、真の敵は城戸であったことが暴かれる。追いつめられた城戸は、しかし織田信長と通じており、城戸の合図で織田軍は伊賀に侵攻し、伊賀忍者は壊滅した。城戸1人の陰謀だったのかと不審に思いながらも伊賀を去るワタリと四貫目。山上からそれを見て笑う「0の忍者」。その足下には死亡した城戸の姿があった。

 「ワタリ一族の巻」は、ワタリたち「第三の忍者」ワタリ一族をめぐる話。鳥が渡るように各地を転々とし、誰にも支配されない自由人であったはずのワタリ一族だが、最近武士のいくさに手を貸すことが増えていた。それに疑問を持つ者は次々に殺されてゆく。ワタリも催眠術に操られた仲間たちに命を狙われ、0は生きていると確信する。しかし仲間殺しの罪を着せられ、四貫目ともども逃亡者となる。全ては、徳川家康と手を結んだワタリ一族の主領の策略だった。主領は、戦国の世で一族が生きのびるためにはやむを得ないことだとワタリの友人姫丸を納得させ、味方につける。主領の正体が家康配下の忍者服部半蔵であることをつきとめた(※)ワタリと四貫目だったが、彼らを敵だと信じ込んだ一族の大結界に苦戦する。ワタリを裏切れなかった姫丸の犠牲によって、ワタリと四貫目は結界を破り、たった2人で逃げ延びてゆく。

※元々の主領が服部半蔵だったのか、それとも半蔵が主領にすり変わったのかは明らかではない。しかし、主領は「0の忍者の巻」にも登場しており、その顔は『サスケ』などの白土作品に悪役として登場する服部半蔵の顔と同じである。したがって、元々の主領が半蔵であったとして構成されていたとしても違和感はない。


人はまわりをうかがう己の姿には、なかなか気づかない。

作中の登場人物たちも私も、見えないものを見ようとして、己らの姿を見ることが出来なかった。


このことと、

0はいまだに健在である。


がどう関連するのかがわからない。

 ここに言う「己(ら)の姿」とは何なのだろうか。

 「健在である」0が、「己(ら)の姿」だと言うのだろうか。
 だとすればその0とは、操られる0なのか、それとも真の支配者たる0なのか?

 どうにもわからない。

 この「あとがき」はこう解釈すべきなのだというご意見をお持ちの方がおられたら、ご教示いただければ幸いです。


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3 コメント

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ゼロ (さぶろた)
2011-09-14 23:52:36
なんたら委員会、なんとか諮問機関、など原発問題があって形だけだった保安委員会など、法人組織で決定権のある仕組みを作って、問題があったら委員を取り替え、委員長を取り替える。
その取り替える主体の行政は、人事移動や退職して天下りの「上がり」で、またすげ代えてる。
責任がゼロであるかのように見える権限委譲の制度が、ゼロの忍者に見えました。
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赤目プロ (0の忍者)
2015-10-21 00:51:47
第三部は、白土先生は携わっておらず、当時、病気のため休んでいました。
第三部は赤目プロによって、描かれたものであり、そのため、白土三平全集では、第二部までしかありません。
白土先生の中では、ワタリは第二部までで終わっており、0の忍者で終わってのあとがきなのです。
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Unknown (おとと)
2023-07-15 08:10:23
ふと、「ワタリ」のことを思い出して検索してここに辿り着きました。なつかしいです。あとがきも、同じように不思議に思いました。
いま考えてみると、0の忍者を生み出していたのは、伊賀の下忍たちの恐れる心だったのではないでしょうか。「0の忍者は不死身だ、おそろしい」というようなセリフが多数あったかと思います。作中の忍者たちはその恐れる心を利用されて、0の忍者の存在を信じるようにしむけられ、支配されていたと考えることができます。
私たちが何かを見たいという衝動にかられるのは、その見たい対象が価値あるものだからでしょうか。実は、私たちにそうした行動を駆り立てているのは、対象の価値ではなく、私たち自身の心がそのようにできているから、ではないでしょうか。
となると、ここでいう「0」とは、私たちの心を支配する本能的な性質なのかもしれません。私たちは、こう考えるように作られている、のです。
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