沖縄戦の集団自決の記述をめぐる教科書検定の訂正申請が承認された(アサヒ・コムの魚拓)。
《「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。》
玉虫色の決着だと言えるだろう。
しかし、こんな具合に、大衆行動を受けた政治的判断で、検定結果が変えられていいのだろうか。
こんなことがまかりとおるなら、特定の政治勢力が大衆行動をあおることにより、教科書の記述を変えることが可能になってしまう。
いわゆる近隣諸国条項については、国際協調の上で、やむを得ないものだという弁明も有り得たと思う。しかし、国内融和のために、そこまでの配慮が必要だろうか。学問への政治の介入を許すものではないか。
将来に禍根を残す決断とならなければよいがと思う。
* * * *
27日の『朝日新聞』社説「集団自決検定―学んだものは大きかった」(ウェブ魚拓)は、
《今回、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に改めて諮った。審議会は新たに沖縄戦の研究者らの意見を聴いて、審議の基準となる見解をまとめた。
軍の直接的な命令は確認できないとしながらも、集団自決の背景には当時の教育や訓練があり、集団自決が起きた状況をつくり出した主な要因には手投げ弾の配布などがある、と指摘した。
この見解は多くの人が納得できるものだろう。米軍への恐怖心をあおり、住民に捕虜になることを許さないという異常な軍国主義の下で、住民は集団自決に追い込まれたというのだ。》
と述べている。私もこの見解におおむね納得する。
しかし社説はこう続ける。
《ただ、訂正申請の審議で、「軍が強制した」というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある。》
何故疑問があるのだろう。その説明はない。
先の見解によれば、「軍の直接的な命令は確認できない」のだから、その理由は明らかではないのか。
結局、事実はどうであれ、何が何でも「軍の強制」を載せるべきだというのが、朝日の見解なのだろう。
* * * *
しばらく前の朝日の夕刊で、沖縄出身者が多い大阪市大正区で、集団自決に関する聞き取り調査が進められているという記事(ウェブ魚拓)を読んだ。
しかし、
《昨夏から沖縄戦体験者から聞き取りを進めている。》
が、
《これまで集団自決に関する聞き取りに応じた生存者はこの女性だけだ》
という。大きく扱われている割には、さみしい内容の記事だった。
《「もう忘れたさ。なんでそんなこと聞くの」。11月末、金城さんが再び訪れると、女性の口は重かった。「なぜ自決したのって気軽に聞くけれど……」。言葉は途切れ途切れだった。》
ずいぶんと、むごいことをするものだと思った。
集団自決に関する証言がごくわずかしかなく、その実態が明らかでないから、体験者からの聞き取りを少しでも増やさなければならないというのなら、それはやむを得ないだろう。
しかし、集団自決に関する証言など、これまでいくらでも集められているだろう。それをさらに、60年以上も経って集めることにどれほどの意味があるのか。
この女性の証言にしても、今問題になっている軍の強制性を裏付けるものではない。
《女性には自決を直接命じられた記憶はないが、兵士たちが玉砕を厳命されていることは知っていた。「いざというときは自決」。そんな空気が島を覆っていた。》
この「そんな空気が島を覆っていた。」というのが、実態を的確に表しているのではないか。この問題が表面化してから報道された諸証言を読んでみても、そう思う。
そして、「空気」は軍が強制できるものではない。民間人の側にも、集団自決を受け入れる素地があったということだろう。当時のわが国が、そうした「空気」に支配されていたということだと思う。
だからといって、集団自決に踏み切った人々を非難することはできない。私もその時代、その場所に生きていれば、同じようなことをしでかしただろうからだ。
ただ、「軍の強制」の削除にあれほどこだわる沖縄県民の姿勢からは、私たちは軍に強制された、悪いのは軍だけだ、私たちは悪くない、私たちは純粋な被害者だというような心性がうかがえる。
それでは、経験を次に生かすことはできない。
沖縄戦について、現代の我々が何らかの教訓を汲み取るとすれば、それは、「空気」に支配されるような社会にしてはならないということではないだろうか。
勝つ見込みのない戦争に踏み込み、玉砕を称揚するような、現実を無視して観念だけをもてあそぶ人々に支配されてはならないということではないだろうか。
現代で言うなら、憲法9条は(実態と乖離していたとしても!)一切変えるべきではないとか、核武装は検討することすらも許さないとか、そういった主張もまた同様と言えるだろう。
* * * *
新聞というメディアは、もともと、「空気」を作り出し、あおりたてるようなところがある。
だから、朝日をはじめ多くの新聞がこの問題について沖縄サイドに立った論調をとるのも当然かもしれない。
しかし、読者がそれにどこまでも付き合う義理はないだろう。最後まで付き合った結果が、先の敗戦ではないだろうか。
《「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。》
玉虫色の決着だと言えるだろう。
しかし、こんな具合に、大衆行動を受けた政治的判断で、検定結果が変えられていいのだろうか。
こんなことがまかりとおるなら、特定の政治勢力が大衆行動をあおることにより、教科書の記述を変えることが可能になってしまう。
いわゆる近隣諸国条項については、国際協調の上で、やむを得ないものだという弁明も有り得たと思う。しかし、国内融和のために、そこまでの配慮が必要だろうか。学問への政治の介入を許すものではないか。
将来に禍根を残す決断とならなければよいがと思う。
* * * *
27日の『朝日新聞』社説「集団自決検定―学んだものは大きかった」(ウェブ魚拓)は、
《今回、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に改めて諮った。審議会は新たに沖縄戦の研究者らの意見を聴いて、審議の基準となる見解をまとめた。
軍の直接的な命令は確認できないとしながらも、集団自決の背景には当時の教育や訓練があり、集団自決が起きた状況をつくり出した主な要因には手投げ弾の配布などがある、と指摘した。
この見解は多くの人が納得できるものだろう。米軍への恐怖心をあおり、住民に捕虜になることを許さないという異常な軍国主義の下で、住民は集団自決に追い込まれたというのだ。》
と述べている。私もこの見解におおむね納得する。
しかし社説はこう続ける。
《ただ、訂正申請の審議で、「軍が強制した」というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある。》
何故疑問があるのだろう。その説明はない。
先の見解によれば、「軍の直接的な命令は確認できない」のだから、その理由は明らかではないのか。
結局、事実はどうであれ、何が何でも「軍の強制」を載せるべきだというのが、朝日の見解なのだろう。
* * * *
しばらく前の朝日の夕刊で、沖縄出身者が多い大阪市大正区で、集団自決に関する聞き取り調査が進められているという記事(ウェブ魚拓)を読んだ。
しかし、
《昨夏から沖縄戦体験者から聞き取りを進めている。》
が、
《これまで集団自決に関する聞き取りに応じた生存者はこの女性だけだ》
という。大きく扱われている割には、さみしい内容の記事だった。
《「もう忘れたさ。なんでそんなこと聞くの」。11月末、金城さんが再び訪れると、女性の口は重かった。「なぜ自決したのって気軽に聞くけれど……」。言葉は途切れ途切れだった。》
ずいぶんと、むごいことをするものだと思った。
集団自決に関する証言がごくわずかしかなく、その実態が明らかでないから、体験者からの聞き取りを少しでも増やさなければならないというのなら、それはやむを得ないだろう。
しかし、集団自決に関する証言など、これまでいくらでも集められているだろう。それをさらに、60年以上も経って集めることにどれほどの意味があるのか。
この女性の証言にしても、今問題になっている軍の強制性を裏付けるものではない。
《女性には自決を直接命じられた記憶はないが、兵士たちが玉砕を厳命されていることは知っていた。「いざというときは自決」。そんな空気が島を覆っていた。》
この「そんな空気が島を覆っていた。」というのが、実態を的確に表しているのではないか。この問題が表面化してから報道された諸証言を読んでみても、そう思う。
そして、「空気」は軍が強制できるものではない。民間人の側にも、集団自決を受け入れる素地があったということだろう。当時のわが国が、そうした「空気」に支配されていたということだと思う。
だからといって、集団自決に踏み切った人々を非難することはできない。私もその時代、その場所に生きていれば、同じようなことをしでかしただろうからだ。
ただ、「軍の強制」の削除にあれほどこだわる沖縄県民の姿勢からは、私たちは軍に強制された、悪いのは軍だけだ、私たちは悪くない、私たちは純粋な被害者だというような心性がうかがえる。
それでは、経験を次に生かすことはできない。
沖縄戦について、現代の我々が何らかの教訓を汲み取るとすれば、それは、「空気」に支配されるような社会にしてはならないということではないだろうか。
勝つ見込みのない戦争に踏み込み、玉砕を称揚するような、現実を無視して観念だけをもてあそぶ人々に支配されてはならないということではないだろうか。
現代で言うなら、憲法9条は(実態と乖離していたとしても!)一切変えるべきではないとか、核武装は検討することすらも許さないとか、そういった主張もまた同様と言えるだろう。
* * * *
新聞というメディアは、もともと、「空気」を作り出し、あおりたてるようなところがある。
だから、朝日をはじめ多くの新聞がこの問題について沖縄サイドに立った論調をとるのも当然かもしれない。
しかし、読者がそれにどこまでも付き合う義理はないだろう。最後まで付き合った結果が、先の敗戦ではないだろうか。