トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

横井邦彦のヨタ話もこれが最後か?

2007-01-29 00:29:33 | 珍妙な人々
 このブログで何度か取り上げてきた自称・拉致未遂事件の被害者なる横井邦彦が、この事件関係専門のブログ「横井邦彦の雑記帳」でまたヨタ話を載せている(「事件の本当の“危機的局面”」) が、その前置きが面白い。

《どうやら「鴨田小学校拉致未遂事件」は黙殺するという“社会的合意”が形成されたようなので私もようやく最後の「証言」をすることができます。
 
 実は、私はこれまで意図的に秘匿していた部分があります。それはそのまま公表してしまうと事件が違ったものになってしまって、人々に変な誤解を与えてしまうと考えていたからです。
 
 しかし、社会の誰もこの事件をもう問題にしないということであれば、公表してもいいでしょう。》

 問題にならないから公表する?
 問題になるなら公表しない?

 問題にならないなら公表する必要はないだろう。
 横井がこの件を問題にしたいから公表するのではないか?
 この人は、以前の「正直に言います」のときも同様のことを述べていたように思うが、世間様に通用しない理屈だろう。
 どうぞ、公表せずに一生脳内にとどめていてもらいたいものだ。

 で、それに続き「事件の本当の“危機的局面”」を述べているのだが、これまでの「証言」への補足にすぎず、論評する価値もない。
 これでは『週刊現代』も続報にはできないだろう。

 私が注目しているのは、冒頭の「どうやら「鴨田小学校拉致未遂事件」は黙殺するという“社会的合意”が形成されたようなので」という箇所だ。
 横井のいらだたしさが伝わってくるが、思うに、『週刊現代』も横井を見限ったのではないだろうか。
 『週刊現代』にこの話を持ち込んだが断られたから、ブログに書いて憂さ晴らしをしているのではないか。『週刊現代』が記事にするなら、それまでは伏せておくだろうから。
 希望的な観測だが、だとすると、横井自身も「最後の「証言」」と述べていることだし、この件で騒がれたことはいい思い出として、とっとと会員1名の「赤星マルクス研究会」の活動に専念してもらいたいものだ。

(以下2007.2.3追記)
 前に記事にしたように、1月13日発売の『週刊現代』は、蓮池薫氏=拉致未遂犯説の「続報」を掲載した。この記事は、「今週のケータイ事情」という連載記事の特別版という体裁で、以前の蓮池薫氏=拉致未遂犯説の記事や関連文書を「モバイル現代」に掲載したので、読者のご意見を求むと述べられていた。
 その次の1月22日発売の号の「今週のケータイ事情」でも、同様に意見が募集されていた。
 しかし、その次の1月29日発売の号の「今週のケータイ事情」には、この件に関する記述がない。このことと、横井の言う「黙殺するという“社会的合意”」とは関係があるのだろうか。

(以下2007.2.4追記)
 私の見方が甘かったようだ。荒木和博のブログによると、明日発売の『週刊現代』に、荒木による蓮池薫氏=拉致未遂犯説の検証記事が載るそうだ。

「合衆国」を考える・・・高島俊男批判を読んで

2007-01-28 16:42:41 | ブログ見聞録
 silverfox という方の「三角点」というブログがある。昨年12月30日の「リベラル系ブログは kaetzchen 氏との関係を見直せ」という記事のことを知って以来、注目していた。
 この「三角点」の過去記事に、高島俊男を批判したものがあることに最近気付いた。昨年12月8日の「「衆寡敵せず」と「合衆国」」と、同月16日の「高島俊男氏の妄言 ─序数と基数の区別がつかない日本人の誤り」の2つだ。
 私は高島俊男の著書のファンだ。たばこに関する見解のように時々納得しがたいものもあるが、たいていは面白く読んできたし、影響も受けていると思う。
 しかし、silverfox さんの「「衆寡敵せず」と「合衆国」」によると、高島の文は必ずしも信頼できるとは限らないという。これは私にとっては重大な問題だ。
 そこで、とりあえずこの記事で取り上げられている「合衆国」の呼称の問題について、検討してみることにした。

 高島俊男は、『お言葉ですが・・・ それはさておきの巻』(文春文庫版では『お言葉ですが・・・ 2 「週刊文春」の怪』)に収録されている「「合衆国」とは何ぞや?」というエッセイで、おおむね次のように述べている。

1.「合衆国」を「合州国」と表記する論者が一部にいるが、程度の低い駄洒落である。
2.アメリカを「合衆国」としたのは江戸幕府の役人であるが、彼らとて United States of America の「States」を「衆」と訳したのではない。選挙により頭目を任期制で選ぶという、かの国の政体を聞いた幕府の役人が、支那の『周礼』という書物に「大封之礼合衆也」(国の境域を定める儀式の際は国人がみな集合する)という文があることを想起して、「合衆国」と呼んだのだ。
3.以後、「合衆」の意味には多少の揺れがあったようで、例えば福沢諭吉は『文明論之概略』で、「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いている。
4.「合衆国」は「合州国」の誤りだと主張する人は、「States」を「州」と訳すことに何故疑問を持たないのだろう。アメリカの「State」は「Commonwealth」ないし「Nation」と言い換え得るものであり、「合衆国」が気に入らないなら「アメリカ連邦」とでも言うべきで、何故「合州国」などと下らない駄洒落を言う必要があろうか。
5.ついでに「共和」の出典について述べる。(省略)

 これに対しsilverfox さんは、「「衆寡敵せず」と「合衆国」」で、おおむね次のように述べている。

A.「The United States of America」 は「アメリカ合州国」と書くのが良いのではないかという意見があるが、ネットで検索するとこの意見は大層叩かれている。その論拠の多くが高島俊男の「「合衆国」とは何ぞや?」だ。
B.しかし,高島は,「合衆国」は republic の訳語であると主張しているにすぎず、「the United States」 の訳語であることを説明するものではない。したがって高島の文は,「the United States」を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。
C.私(silverfox)は高島の文を読んで上記のような違和感を覚えた。そして、「合衆国」の「衆」は「衆寡敵せず」の「衆」ではないかと思った。「states」 という「複数」を表現するために「多くの」という意味の「衆」を使ったのではないか。
D.最近、早稲田大学の千葉謙悟氏が精緻な調査をされていることを知った(http://nihon.korea.ac.kr/ronbun/060318sympo/chiba.pdf)。私(silverfox)は高島説よりこの千葉論文の方のはるかに説得力を覚える。
  千葉によると、「合衆国」は 1844 年以前にアメリカ人宣教師ブリッジマン周辺で 「the United States」 の漢訳語として作られたもので,「衆国」は「多くの国」という意味を意図したものである。これが日本でも使われるようになったのは 1848 年頃である。ところが,日本では「衆」は大勢の人間の意味で使われるため,「合衆」は「大衆が集まる」と解釈されるようになった。高島説はこのように変容した後の意味を本来の意味としたものである。
E.高島は『周礼』からとったとしているが、これは高島の想像によるものであって根拠があるわけではない。それでもこれが定説であるかのようにネット上で広まっているのは,如何にもネットらしい現象である。
F.高島の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだ。

 私は最初にsilverfox さんのこの文を読んだとき、説得力を覚え、なるほど高島の他の文章にも注意する必要があるなと思った。
 その後、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」を読み直し、さらにネットで
会議室:「ことば会議室」アメリカ合衆国
アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集
などを読んだ結果、次のように考えるに至った。

 まず、高島が、江戸幕府の役人が「合衆国」と名付けたとしていること、これはやはり誤りだろう。
 日本より先に中国(清)に用例があるのだから、中国で用いられていたものが日本に伝わったと考えるのが自然だろう。中国と日本が別々に「合衆国」という呼称を生み出したとは考えにくい。
 この点については、高島は読者からの指摘を受け、文庫版ではその旨の追記をしている。
 高島の『お言葉ですが・・・』の文春文庫版は「あとからひとこと」と題して後で判明したことなどの追記がなされている。この「「合衆国」とは何ぞや?」にも、文庫版では、読者からの御教示を受けたとして、
・日本より中国が先行していたこと
・1844年の望厦条約で最初に使用されたこと
・この訳語をつくったのは当時マカオに在住したドイツ人宣教師カール・ギュツラフらであること
・ギュツラフが周礼の言葉を知っていたとは思われないので、清朝官僚との合作であると思われること
を追記している。

 次に、「合衆国」の語源は何なのか。
 上記の「アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集」を見ると、「合衆」という言葉が『周礼』に見られるのは確かなようだ。
 しかし、「合衆国」と名付けた人が、『周礼』に基づいて考案したのかは、わからない。
 「資料集」によると、中国起源との立場をとる人でも、『周礼』の名は挙げていない。
 にもかかわらず、高島は『周礼』が起源だと断定している。silverfox さんが「これは高島氏の想像であって根拠があるわけではない。」と述べるのももっともだ。

 次に、「合衆国」の意味について。
 silverfox さんが挙げている千葉謙悟は、「合衆国」の元々の意味は「衆を合した国」ではなく「衆国(多くの国)を合した」であると考えている(silverfox さんも同意見なのだろう)。しかし、リンクが張られている千葉の論文は、「衆」の字の中国と日本での意味の違いにより、その後「合衆国」の意味が日中で変遷していったことを論証しているのであって、「衆国(多くの国)を合した」説については、この論文の参考文献に挙げられている千葉の2004年及び2005年の論文を読む必要がありそうだ。残念ながらネット上では見つからなかった。したがって現時点では、千葉説が妥当なのかどうか判断しがたい。
 そして、千葉自身が述べている(p.10)とおり、先行研究は「合衆」を「衆人が協力して経営する国」と解釈してきたのである。千葉説は新説なのだ。
 したがって、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」が発表された1996年当時、当時の通説に従って高島が合衆国の意味を説明しているのは当然だろう。

 あと、silverfox さんは、

《高島氏が書いているのは,「合衆国」は republic の訳語であると主張するものであり,"the United States" の訳語であることを説明するものではない。》

というが、高島は、「合衆国」は republic の訳語であるとは主張していない。米国の政体を聞いた幕府の役人が『周礼』に基づいて「合衆国」と名付けたとしているだけだ。
 高島は、のち「合衆」の意味には多少の揺れがあったとして、福沢諭吉が「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いていることを挙げているが、その中で、

《一つは、「合衆政治にて代議士を撰ぶに入札(いれふだ)を用いて多数の方(かた)に落札するの法あり」のごときもの。これはおおむね今日の「民主」の意味であって、幕府の役人の意図に最も近い。》(ルビは丸括弧に改めた)

と述べている。つまり、高島は、当初の語義は「民主」に近いと考えている。

 silverfox さんは、続けて、

《したがって高島氏の文章は,"the United States" を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。》

と述べているが、そうだろうか。
 高島のこのエッセイの趣旨は、「合衆国」という言葉が既にあるのだからそれを使えばいいし、それが気に入らなければ「アメリカ連邦」とでも呼べばよい。「がっしゅうこく」の音に引きずられて「合州国」などという珍妙な表現をとる必要はないではないか、「State」と「州」と訳すこともおかしいのだから、というものだろう。
 これは、「"the United States" を「合州国」と書くことへの批判」としては十分成立していると思う。
 
 まとめると、
・高島が江戸幕府の役人が考案したとしたのは誤り(高島も指摘を受けて修正)
・高島は『周礼』が語源と断言しているが、確たる証拠はないのでこれも不適当
・しかし、合衆国が「衆人が協力して経営する国」の意味で用いられてきたとするのは通説だから、その点では高島は間違っていない。
・「州」の意味を考えても、「合州国」という表現は不適切
・千葉論文は興味深いが、検証できなかった
となる。

 あと、silverfox さんは、「合州国」使用者の本来の意図を理解していないように見受けられる。
 「アメリカ合州国」というのは本来は侮蔑的表現である。
 この表現を最初に用いたのが誰かはわからないが、これを広めたのは『アメリカ合州国』の著者である本多勝一だろう。本多は同書で次のように述べているという。

《改めて「合衆国」を考えてみますと、衆は people に通じ、あたかもさまざまな人民、さまざまな民族がひとつにとけあった理想社会であるかのような誤解を与えます。それが理想または将来の希望的現実であると好意的に解釈もできますが、現在は弱肉強食が“自由”にできる典型的社会であって、強食側にはいいけれど、弱肉側には実に恐ろしい国です。また州によっていかに法律や性格を大きく異にするかは、一度でもアメリカ国内を旅行した人は痛感したことでしょうから、「合州国」という名は正訳であるのみならず、その実状にもよく合っています。この「合州国」は、南北戦争当時のような分裂するかもしれない危機を、今なお包含しているという見方も、あながち全くの見当はずれとはいえないのです。ただ私としては、日本語として定着した「合衆国」を「合州国」に変更してやろうといった野心があるわけではなく、これはこの本のための個人的趣味に過ぎません。》(注1)

 このように、「合州国」という用語は反米志向の産物であり、しかも、「合衆国」などおこがましい、オマエラは「合州国」で十分だという、侮蔑的な要素ももつ。また、ある種の言葉遊びとも言えよう。いずれにせよ、表立って使うにははばかられる言葉であるはずだ。
 このような言葉が、真面目な文章にも使われるようになっている。反米的な意図がない人にも、訳語として「合衆国」より正しいという思いこみで通用しつつある。そうした傾向に高島は警鐘を鳴らしているのではないか。

 とはいえ、今回高島にも誤りが見つかったので、silverfox さんが

《高島氏の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,氏の他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだと感じた次第である。》

と述べているのは正しい。私も心して読もうと思った。

注1 上記の「資料集」に掲載されていたものからの引用なので、正確でないかもしれません。しかし、確かにこのような趣旨のことを読んだ記憶はあります。

阿部知子のふるまいに対する疑問(2)

2007-01-27 16:48:28 | ブログ見聞録
承前
 ところで、私はこの阿部の「たくさんのご意見をちょうだいして」を読んで、この人は当時神戸に行っていたのかと驚いた。

 私は、最初に阿部のメルマガが問題になった時、

《実情をよく知らずに、うろ覚えの記憶を元に書いたのだろう。当時関東にいた人間の感覚とはこんなものかなとは思う。》

と書いたように、阿部が神戸に行っていたとは思わなかった。それは、阿部の前回のメルマガにそのような記述が一切なかったことに加え、阿部のホームページ上のプロフィールに、当時関東の病院に勤務していたとあったからだ。
 と思って、プロフィールを確認してみると、

《1994年~1999年 大和徳洲会病院、千葉西総合病院、湘南鎌倉総合病院勤務。》

とある。
 あれ? 「大和徳洲会病院」とはどこにある病院だろう? 奈良県?
 私が前回見たときには、一目で関東とわかる病院しか載っていなかったはずだ。「大和徳洲会病院」ではどこの病院かわからないので調べるはずだが、そんな記憶はない。おかしい(検索したら、神奈川県の病院と判明)。

 不思議に思っていたら、もあいさんの「おやじの独り言」というブログで、阿部のプロフィールが修正されていることがわかった。

《1994年~1999年 湘南鎌倉総合病院勤務。》

とあったのが、上記のように修正されているそうだ。

 阿部は今回のメルマガの記事で、阪神大震災当日のことについて、

《この日、私自身は千葉県内の病院で小児科の仕事に追われながら、》 

と書いているが、プロフィールにはその期間は湘南鎌倉総合病院勤務とあるので、矛盾を突かれるのをおそれて修正したのだろう。

 この点について、もあいさんは、阿部は本当に神戸に行ったのかと疑問を呈している。
 これで、もし行っていないということにでもなったらさらに大問題なので、おそらく行ったことは行ったのだろうとは思う。
 しかし、ならば上記の経歴の修正は何なのか。何故最初は大和徳洲会病院と千葉西総合病院を伏せる必要があったのか。そして、矛盾しないようにするためには千葉西総合病院だけ出せばよいのに、何故大和徳洲会病院も出す必要があったのか。疑問は残る。

 この件についてのまとめサイトがリンクしている、徳洲会の「徳洲会グループの阪神大震災における医療活動報告」によると、長田区で巡回診療を行ったとか、須磨区の大黒小学校に診療班が常駐したとあるが、阿部が挙げている「垂水病院」の名はない。
 この報告者のグループとは別のグループに従事したのかもしれないが。

 「垂水病院」を調べてみると、神戸市垂水区ではなく神戸市西区にこの名の病院がある。西区の中でもかなり北部、三木市に近いあたりにある。神戸ではかなりの奥地になる。しかも、神経科・精神科の病院だ。ここに医療チームが置かれたとは考えがたい。
 と不審に思ったのだが、試しに阿部が勤務していた徳洲会系の病院が垂水区にないか調べてみると、まさに「神戸徳洲会病院」が垂水区にある。人口密集地だし、ここのことなら納得がいくが、この病院の人や地元の人は、ここを「垂水病院」と言うのかなあ?
 阿部は、上記の大黒小学校に常駐したのかもしれない。

 医療支援に従事していたのなら自衛隊の活動ぶりは知らないのかもしれないし、仮に知っていたとしても認めたくないのだろう。イデオロギーが全てに優先するのだろう。

阿部知子のふるまいに対する疑問(1)

2007-01-27 14:54:15 | ブログ見聞録
 先日取り上げた阿部知子衆院議員が、ホームページに掲載していたメルマガの文章をこっそり修正していたと、miracleさんのブログへのへげもんさんのコメントなどで知る。


《阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、国による命令を受けて救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、国土保安隊として出発し、防災のたねにも働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。》

        ↓

《阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、知事の要請を受けて本格救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、警察予備隊として出発し、防災のために働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。》


 批判を受け入れて修正するならその旨明記しておくのがマナーだと思うがなあ。こっそり修正するのはかえって火に油を注ぐのがわからないのかなあ。

 この修正後の記事は、現在阿部のホームページでは見ることはできない。代わりに次のメルマガが掲載されているからだ。
 その新しいメルマガの記事は、「たくさんのご意見をちょうだいして」と題して、まず

《先回のメルマガには、たくさんのご意見を頂戴致しました。私自身の表現の足らぬ部分、また事実認識のあいまいさに起因する部分もあったと思います。そこで私の伝えたかったことと合わせ、皆さんからご指摘のあったことも含めて今回のメルマガとします。》

とした上で、自分が阪神大震災当時、神戸に赴いて医療支援に従事したことを詳しく述べた上、

《頂戴しましたご意見の中に、自衛隊が必死にがんばっていたことへの感謝が述べられたものも多々ありました。その通りだと思います。
 初動の遅れは、当時被災状況を迅速に把握し自衛隊の出動を要請する自治体側の被害がひどく、知事も含めて身動きがとれなかったこともあると思います。また、それを受ける内閣側の体制も情報収集など不十分でした。後にこの震災に学んで96年5月に内閣情報集約センターが設立されて今日に至っております。
 当時の内閣の最高責任者は村山首相であることから、村山首相の対応の遅れを指摘されるご意見もありますが、1月17日午前10時、国土庁長官を本部長とする非常災害対策本部を設置、午後4時に村山首相は、官邸で緊急記者会見を行い、万全の対策を講じることを表明しました。私を含めてだれもが未曾有の災害に対して、十分な判断や迅速な行動がなしえなかったことについて、多くの教訓が残されたと思います。
 その重い課題を受け止め、今なお癒えぬ被災者の抱える問題を解決するために今後も政治活動に努めます。》


と締めくくっている。
 何が言いたいのか一読して判然としない。
 前半部の、震災時に神戸で医療支援に従事したという経験談は、前回の話とは直接関係ない。
 多くの人が批判していた、自衛隊の初動が遅れたのは村山首相に責任があるのではないかという点については、当日の非常災害対策本部の設置、万全の対策を講じるとの表明を挙げるだけで、「私を含めてだれもが未曾有の災害に対して、十分な判断や迅速な行動がなしえなかったことについて、多くの教訓が残されたと思います。」と述べるのみ。村山の対応は遅れたのか、そうでないのか、遅れたけれどもやむを得なかったのか、もっと明確な見解を示してほしい。
 それに、一見自衛隊の活動に肯定的に評価しているように書いているが、よく読むと、「ご意見の中に、自衛隊が必死にがんばっていたことへの感謝が述べられたものも多々ありました。その通りだと思います。」と、寄せられた意見の中の自衛隊への感謝の気持ちを肯定しているだけで、阿部が、自衛隊は必死にがんばったと評価しているわけではない。
 また、前回、自衛隊が「救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。」と事実誤認を犯していたことへの訂正や謝罪は全くない。

 そもそも、「私の伝えたかったこと」とは何だったのか? 「多くの教訓が残された」ことか? 「今なお癒えぬ被災者の抱える問題を解決するために今後も政治活動に努め」ることか? 違うだろう。
 前回私が指摘したように、軍隊や警察は国民を守らない、地方自治にゆだねられている消防や救急こそが真に国民を守るものであり、自治体主導の防災体制づくりが重要だというのが、阪神大震災の経験に照らして、本来阿部が主張したかったことではないのか? 今回の記事には、そういった持論が一言も見られない。

 結局今回の記事は、「ご意見は承りました。」というたぐいの、無内容なものだ。
 私は今回の件までこの議員について何も知らなかったが、この対応を見て、強い不信感を抱いた。(続く

「禅譲」とは単に譲ることではない

2007-01-26 00:12:20 | マスコミ
08年非常任理事選、日本出馬の意向 モンゴル「譲る」(朝日新聞) - goo ニュース

 今日の『朝日新聞』朝刊紙面上では、上記の記事の見出しが、

《「非常任理事国 日本に」 モンゴルが〝禅譲〟》

というもの。
 現在モンゴルが非常任理事国で、それを日本に譲るというのかと思いきや、

《大統領は、08年秋の国連安全保障理事会の非常任理事国選挙への立候補を辞退する考えを伝え、日本に出馬を要請。》

《非常任理事国の任期は2年間で、毎年半数が改選される仕組みだが、2期連続しては選出されない。》

単に立候補をとりやめて、日本の立候補を支持したということだそうだ。
 ならば、「禅譲」ではないだろう。
 記事中には「禅譲」の文字はないので、見出し付け係の人(何て言うのかな)が思いこみで間違えたのかな。しかし誰もチェックしないのか。

 ウィキペディアによると、禅譲とは、

《一般的には、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁の者でない徳のある人物に譲ることである。しかしながら、歴史上「禅譲」と称されても、譲られる側が強制して行われることが多い。このような場合を簒奪(さんだつ)という。また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり地位を奪うことを簒奪ということがある。言い換えれば、中国の歴史で「禅譲」が行われてきたことを踏まえ「首相や大統領、社長などの地位を他の有力な人物に譲ること」を指す。》

とある。
 日本の政治では、中曽根が後任に竹下を指名したケースなどが禅譲と呼ばれている。

 立候補すること自体は「地位」ではなく、どの国でもできることだから、「禅譲」はふさわしくないだろう。
 単に「譲渡」、あるいは「モンゴルが辞退」とでもすればよいのだから、敢えて高級な表現を試みようとしなくてもよいものを。

光華寮裁判の報道を読んで

2007-01-25 00:18:17 | 事件・犯罪・裁判・司法
 昨日の『朝日新聞』の1面トップに、光華寮裁判の記事が出ているのを見て驚いた。

中台因縁の「光華寮」明け渡し訴訟決着へ 提訴後40年(朝日新聞) - goo ニュース

 この裁判のことは、はるか昔に聞いた覚えがあるが、まだ続いていたのだな。もうとっくに決着のついた問題だと思ってた。
 中国が抗議したことは当時も大きく報道されたが、それを受けてその後訴訟は棚上げされていたのだな。

 上でリンクしたネット上の記事には載っていないが、新聞紙上の記事には長文の「解説」が付いている。その見出しは
《「中国が代表」進む通説化》
というもので、文中には
《高裁判決当時は、国際政治学でも、領土の実効支配が残り新政府が完全に承継したわけではなく、「二つの中国」だとする学説が有力だった。
 (中略)
 しかし、中国の経済成長などを背景に、中国国民を代表するのは中華人民共和国だとする見方が一般化。今回の審理入りは、こうした現状を踏まえたものとみられる。》
とある。
 ほんとかなあ。
 私は高裁判決当時のことは一応覚えている。そのころ既に、「中国国民を代表するのは中華人民共和国だ」という見方が一般的だったと思うがなあ。日中平和友好条約がその立場をとっているのだし。国連も中華民国を追い出して中華人民共和国を迎え入れたわけだし。

 この裁判は、「一つの中国」か「二つの中国」かとか、どちらが正統かといった問題ではなく、日本が承認していない国家が、日本において財産権を主張しうるかどうかという点が争点となっていたように思っていたのだが、私の勘違いだったのだろうか。時間がなくて今調べられないが。
 もし、この記事が言うように、最高裁が「一つの中国」の立場に立って原告を中華民国(台湾)から中華人民共和国に変えるのなら、司法の場で「政治決着」を試みるようなもので、一国の最高裁にふさわしくないふるまいだと思う。

 上記の「解説」には、
《一方で、最高裁第二小法廷は戦時中の中国人強制連行をめぐる訴訟で(中略)中国人原告側を敗訴させる見通しだ。》
とあるので、なおさら取り引きめいたものを思わせる。

 なお、ネット上での記事のタイトルは上記のとおりだが、紙上では、まず
《「光華寮」最高裁判断へ》
とあり、その左上に横書きで
《台湾が原告、日中の火種》
とある。
 何やら台湾が原因で日中双方が迷惑をこうむっているかのような言い方だなあ。 

安倍政権を倒すために共謀罪を成立させよと説く美爾依さん

2007-01-23 00:18:33 | ブログ見聞録
 また美爾依さんの話になってしまうが・・・。
 ブログ「美爾依さん観察日記【Goo本店】」で、美爾依さんが、安倍政権を倒すために、敢えて共謀罪を成立させるべきだと説いていることを知る。

《私としては、安倍の最後の悪あがきなんだから、受け入れてあげたらいいと思う。今共謀罪を成立させたら、これに反対する国民は自公から離れるだろう。参院選で自公を失脚させるには、共謀罪を今成立させて、安倍内閣の支持率をますます落とし、政権交代を実現させることだ。政権交代後はもちろん、新しい内閣が誕生するわけだから、共謀罪を廃止すればいいのではないだろうか?》

 マジメに共謀罪に反対している人がひっくりかえりそうな珍論だなあ。
 もし私が共謀罪反対運動に加わっていたら、「おまえは安倍のスパイか~!」と胸ぐらをつかみたくなるような話だ。

 いったん成立した法律は、政権が変わっても、そう簡単には廃止できない。
 それに、支持率がいかに低下しても、それだけでは政権は交代しない。
 仮に与党内で反安倍の気運が高まり、安倍内閣が退陣したとしても、衆院選や政界再編がない限り、成立するのは自公政権だろうから、共謀罪は廃止されないだろう。
 美爾依さんって、ホントーーーーに何も知らないのな。
 ついでに言うと、一般国民にとって、共謀罪なんか、限りなくどうでもいいことだろう。
「話し合っただけで逮捕!」
などとおどかしたところで、
「何で犯罪の話し合いなんかするの? 私には関係ない」
と引かれるのがオチだ。
 
 美爾依さんがたくさん紹介している共謀罪に反対する人々の反応が見ものだ。
 いやスルーかな? 彼らとて、どこまで本気で反対しているのやら。反対のための反対ではないのかな。

納豆ダイエットに右往左往する美爾依さん

2007-01-22 01:22:03 | ブログ見聞録
 「カナダde日本語」の美爾依さんが、1月15日の記事「納豆ダイエット」で、とあるサイトの納豆ダイエットを紹介したところ、読者から納豆ダイエットはインチキであるとの指摘を受け、さらに日本ではこれを紹介したテレビ番組「あるある大事典2」での捏造が発覚したことも教えてもらい、21日に「納豆ダイエットはニセ科学だったって?」との記事を載せている。
 「ニセ科学」・・・美爾依さん意味わかってます?

 美爾依さんは、関西テレビの謝罪文を全文引用した上で、

《とにかく、ニセ実験、ニセデータ、御用学者のニセ発言、ニセ科学。
 ここまで見事にニセニセ番組を見せられたら、視聴者は何も信じられなくなっちゃうじゃないか。これからは、「あるある大事典」じゃなくて「ニセニセ大辞典」ってことで、いままでのも全部やらせだったと思われてもしかたないよね。》


と述べている。
 テレビなんて所詮そんなものだろうと思うが、それはさておき、美爾依さんが引用している関西テレビの謝罪文はこちら。

《2007年1月20日
 視聴者の皆様へ
 関西テレビ放送

1月7日(日)午後9時~9時54分放送の「発掘!あるある大事典II」第140回「食べてヤセる!!!食材Xの新事実」におきまして、番組内容に事実とは異なる内容が含まれていることが判明いたしましたので、お詫びを申し上げます。視聴者の皆様の信頼を裏切ることとなり誠に申し訳ございませんでした。
事実と異なる内容につきましては以下のとおりでございます。

1.  アメリカのダイエット研究の紹介におきまして、56人の男女を集めて、実験をしており、被験者がやせたことを示す3枚の比較写真が使われておりますが、この写真について被験者とは無関係の写真を使用いたしました。

2. テンプル大学アーサー・ショーツ教授の日本語訳コメントで、「日本の方々にとっても身近な食材で、DHEAを増やすことが可能です!」「体内のDHEAを増やす食材がありますよ。イソフラボンを含む食品です。なぜならイソフラボンは、DHEAの原料ですから!」 という発言したことになっておりますが、内容も含めてこのような発言はございませんでした。

3. 番組で実験を行った8名の被験者について、放送では「中性脂肪値が高くてお悩みだった2人は、完全な正常値に!」とコメントし数字をスーパーしておりますが、コレステロール値、中性脂肪値、血糖値についての測定は行っておりませんでした。

4. あるあるミニ実験として、納豆を朝2パックまとめて食べた場合と、朝晩1パックずつに分けて食べた場合の比較実験ですが、血中イソフラボンの測定は行っておらず、比較結果は架空のものでした。

5. 番組で実験を行った8名の被験者について「体内で作られるDHEAは20代をピークに減少、食べ過ぎや運動不足によってDHEAの量が低下している可能性があるのだとか!20代から50代の男女8人の血中DHEA量を測定。さて結果は?」として22歳OL、25歳会社員、37歳会社員のDHEA量を測定し年齢の基準値と検査結果をテロップ表示で比較をおこなっておりますが血液は採集をしたものの、実際は検査を行っておらず、数字は架空のものでした。また、ここで使用している「DHEA分泌は加齢とともに低下する」ことを示したグラフは許可を得ずに引用いたしました。

また、アメリカのダイエット研究の紹介部分について、あたかもテンプル大学のアーサー・ショーツ教授が行った研究と受け取られる構成になっておりました。この研究はワシントン大学のデニス教授の研究であります。

尚、1月21日(日)放送につきましては休止いたしますのでご了承ください。

以上 》


 「ニセ実験」「ニセデータ」はいいとして、「御用学者のニセ発言」とは何だろう。アーサー・ショーツ教授なる人物が何故御用学者なのだろう。謝罪文のとおりなら、この人物は発言を捏造された被害者だろう。それを御用学者とは何事か。
 そして「ニセ科学」・・・。「ニセ科学」ってのは、科学に見せかけた疑似科学のことだろう。血液型占いとか、超能力とか、UFOとか・・・。
 関西テレビの謝罪文は、納豆のダイエット効果まで否定しているものではない。ただ、番組中に事実と異なる箇所があったことを認め、謝罪しているにすぎない。

 しかし、美爾依さんは次のように述べている。

《私がその記事を書いた直後から、このダイエットはインチキなので、気をつけた方がいいってTomoさんからアドバイスいただいていたんだけど、なかなか信じられなかったんだよね。でも、昨日、Tomoさんがコメント欄に関西テレビがやらせを認めた下の謝罪文のリンクを送ってくださって、やっと100%やらせだったんだと信じることができた。Tomoさんやその他に納豆ダイエットが嘘だったことに関連した記事をTBしてくださったみなさま、ありがとう。》

 どうして、読者からの指摘には半信半疑で、この(ダイエット効果は否定していない)謝罪文を読んだだけで、100%インチキだと信じることができるのか、不可解だ。
 こうした人物は、何にでも飛びついて、何度でも騙されかねないのではないか。
 現に、この「納豆ダイエットはニセ科学だったって?」の終わりにはこう述べている。

《今回は、たまに書いたダイエットの記事で墓穴を掘ってしまったんだけど(汗)、こういった誰でも簡単にできるダイエットに出合ったら、あまり信用しない方がいいかもね。でも、私としては、これからも、安くて、楽にできて効果的なダイエットを探求していくつもりだけどね。》

 あまり信用しない方がいいけど、自分は探求していくのだそうだ。
 美爾依さんの読者は、信用しないことを前提にこの人のブログをお読みになることをお勧めします。これはダイエットに限らず、政治系の記事でも同様だと思います。

阿部知子衆院議員のメルマガが問題になっている件について

2007-01-22 00:30:43 | ブログ見聞録
 よく訪問するいくつかのブログで、阿部知子という社民党の衆院議員のメールマガジンでの記述が問題になっていることを知る(「カエルニュース」第253号 2007/1/19 「国民保護は地方自治から」)。

《阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、国による命令を受けて救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、国土保安隊として出発し、防災のたねにも働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。》

 この箇所について
・自衛隊は「数日を経て」ではなく当日には出動している
・社民党の前身である社会党出身の村山首相の当初の対応が遅れたことが被害を拡散させた
といった点を指摘する批判が相次いでいる(もあいさん加賀もんさんmiracleさんkkk333hhhさん)。
 その点については確かにそのとおりだし、おそらく阿部知子(かそのゴースト)は、実情をよく知らずに、うろ覚えの記憶を元に書いたのだろう。当時関東にいた人間の感覚とはこんなものかなとは思う。

 ただ、阿部のこの記事は、要は、小児科医という自分の経験から、軍隊や警察は国民を守らない、地方自治にゆだねられている消防・救急こそが国民を守るものだとして、軍隊や警察の役割を否定するとともに消防・救急を賞賛することこそに主眼が置かれているように思える。私はこの点を重視したい。

《安倍晋三政権になってから「国を愛する」・国防の強化などの言葉が氾濫し、あたかも外敵から国民を守るために国家の力=軍隊が必要であるかのように宣伝されるが、実は「軍隊は国民を守らない」という事実は戦争を通して如実に示されてきた。軍隊はもちろんのこと警察も、戦闘のためあるいは犯罪に対しての対処を第一とするため、国民保護は二の次、三の次となる。》

 しかし、それは当然の役割分担というものではないか。
 軍隊は敵軍と戦闘すること、警察は犯人を捕まえることが第一の目的なのであり、国民や犯罪被害者をガードすることが二の次、三の次になってしまうのはしかたないだろう。
 軍隊や警察がガードを第一に考えれば、誰が敵軍と戦い、犯人を捕まえるのか。「専守防衛」では犯人は捕まえられない。犯人を捕まえること、敵軍を撃退することもまた、結果的に国民保護に貢献するのだ。言わば、災害の元を絶つことなのだから。
 国民保護をそれほど重視したいのなら、軍隊や警察とは別に、国民保護隊とでも言うべき別組織を創設するよう社民党として訴えればよい。阿部の、

《住民・国民を守るためには、

第1は、まず国の役割としての平和外交、すなわちこれからも
    平和国家として歩むことを世界に意思として示すこと
   (戦争を引き起こさない)―憲法9条堅持

第2に、環境破壊の進む今日、津波や地震などの予期せぬ大災
    害に対しても自治体主導のしっかりした防災の取り組
    み(その足らざる部分を県や国が支援)とネットワー
    ク体制の確立。

第3に、人間関係が疎遠となる中で、地域での共生力を取り戻
    すこと

 につきると思う。》

という主張は、空疎な語句を並べただけで、せっかく阪神大震災の例を出しているにもかかわらず、はっきり言って何も言っていないに等しい。

 あと、冒頭に引用した箇所の「国土保安隊」とは何だろうか。私の記憶では自衛隊の前身は「保安隊」で、「国土保安隊」なる名称は聞いたことがない。
 Googleで「国土保安隊」で検索してみると12500件ヒットしたが、この阿部議員のこの記事が2件と、「ワーカーズ」なる左翼団体のサイトの文章が1件、あとは全て「国土」と「保安隊」が別れた文章のようだ。やはり、「国土保安隊」なるものはないと思える。仮にも衆院議員のメルマガなら、もう少し慎重に記事を書いていただきたいものだ。

続報あり

(以下2007.1.27付記)
上記の阿部のメールマガジンのリンク先には最新号が出るので、問題の号の号数と日付とタイトルを追記しました。

「証言」者・横井邦彦の奇怪な拉致問題認識(2)

2007-01-21 18:34:00 | 事件・犯罪・裁判・司法
前回からの続き)
 横井邦彦は、自分のブログ「労働者のこだま(国内版)」の「拉致救出運動か拉致報復運動か」(一応Web魚拓)という記事で、拉致問題への対応は被害者の救出こそが目的でなければならないのに、家族会や安倍政権の対応は北朝鮮への報復を目的とするもので誤りだと述べている。
 この記事によって、横井が拉致問題の本質を何ら理解していない(あるいは、敢えてそのようにふるまっている?)ばかりか、拉致問題における横井の立場をどのように考えるべきかという点で大変参考になると思われるので、以下引用しながら検討する。

《われわれを含め、多くの日本の労働者は拉致問題を銀行強盗が人質を取って銀行に立てこもっているようなものであると考えていた。》

 この冒頭のたとえからして既におかしい。拉致問題は銀行強盗の人質立てこもりとは全く違う。
 銀行強盗が人質を取るのは、金を得て逃亡するための交渉の道具として利用できるからで、人質となる人間そのものが必要なのではない。そして、銀行や警察と交渉することが前提となっている。
 北朝鮮による拉致は、拉致された人間自身を北朝鮮の任務に従事させることが目的なのであり、日本と交渉することが目的なのではない。拉致被害者は交渉のための道具ではなく、拉致被害者自身が北朝鮮にとって必要なだけだ。
 敢えてたとえるなら、カルト教団がその教団に従事させる目的で一般人を拉致するようなものだ(しかし、北朝鮮は強盗犯や教団などではなく日本の法が及ばない別の国であるから、いずれにせよ国内犯罪をもってたとえるのは不適切だろう)。

 したがって、これに続く、銀行強盗の人質のたとえを前提とした、

《当然、この場合最優先されるべきは人質の人命であろう。もちろん犯人を逃すわけにはいかないが、人質を救出するためには、犯人の要求をある程度飲んで、水や食料を差し入れることは許容の範囲である。

といった記述は何の意味も持たない。なぜなら、北朝鮮は拉致問題でそもそも交渉すらしていない。だから「犯人の要求」なるものも存在しない。
 北朝鮮の立場は、拉致を実行していたことは認めたが、生存していた5人とその家族は帰国させ、残り8人は死亡した、その他の人物については関知しない、これで解決済みというものだ。強いて「要求」を挙げるなら、この北朝鮮の主張を無条件で呑むことだろう。

《ところが最近分かってきたことだが、どうも「拉致問題」というのはこのような運動ではないらしい。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」と安倍晋三政権は、むしろ銀行に立てこもっている犯人に対して、何の罪もない人を誘拐する許しがたい連中だ、断固制裁すべきであると絶叫している。
 
 もちろん、制裁や報復によって人質が解放されることはありえない。強行突破と言うことになれば、人質の命は非常に危険に陥ることが予想されるが、そういうことを心配する「家族」はいない。》


 制裁は強行突破とは違う。強いて横井のたとえに従うなら、警官隊が銀行を包囲することが制裁に当たると言えるだろう。北朝鮮に軍事力を行使することが強行突破だろう。
 ところで、何故、「家族」とカギカッコが付いているのだろう。家族を名乗るが、本当は家族ではないとでも言うのか。それとも、家族ではあるが、家族がとるべき行動をとっていないと言うのか。何という不遜な表現だろうか。
 家族会が制裁を唱えるのは、拉致被害者が危険にさらされる可能性を考慮しても、それが最善の選択だと考えたからだろう。
 「そういうことを心配する「家族」はいない。」とは、何を根拠に述べているのだろう。心配は当然あるだろう。しかし、小泉訪朝までは拉致被害者の存在すら認めてこず、それを認めた後も「死亡者」については誠意ある対応がみられない北朝鮮に対し、日本国の問題解決への意志を示すには、制裁を実施すべきだと考えたのだろう。

《現に、北朝鮮政府は「安倍晋三政権を相手にせず」という態度を明確に打ち出しており、安倍晋三政権のもとでは「拉致問題」の解決どころか、話し合いの場すら設けられることがないことがはっきりとしてきた。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」はそれでもいいというのだから、はっきりいってこれは驚きだ。ここには子どもを人質に取られている親の心情とはまったく違う感情が流れている。
 
 むしろこの人たちを支配し、つき動かしているのは拉致した者への復讐、もしくは報復の感情であり、人質を救いたいという感情ではない。 》 


 何をどう考えればここまで曲解できるのだろうか、驚きだ。
 「話し合いの場」を設けるための制裁ではないか。
 「話し合いの場」など設けなくてもいいなどと、家族会や救う会がいつどこで言ったというのか。
 この人物こそ、人の心がわからない。だから平気でこのように被害者をおとしめることができる。さすが共産主義者だ。

《だとするならば労働者はこのような運動を支持することはもうできないだろう。なぜならは北朝鮮は犯罪者国家であるとはいえ、国家である以上、「国際紛争は平和的手段によって解決すべき」であるという日本の“国是”が適用されるべきであり、「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」がすでに拉致被害者の救出をあきらめている現状では、事態の緊急性も重大性もすでに喪失しているからである。 》

 趣旨がよくわからない文章だが、家族会や救う会が「救出をあきらめている」とは何とも失礼な表現だろう。横井が制裁は逆効果だと考えるのは横井の自由だ。しかし家族会や救う会は制裁が救出に有効だと考えているのであって、救出をあきらめているわけでは決してない。

《むしろ逆に、北朝鮮への復讐、もしくは報復が主目的であるという運動は世界の平和を脅かすという点で、労働者にとって許しがたい運動になりつつある。
 
 つまり「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」は、拉致問題を口実にして、民族主義、排外主義を煽って、日本を軍国主義化しようとする安倍晋三政権の道具へとますます純化しつつあり、運動の大衆的な基盤を失いつつある。》


 仮に復讐が目的であるとして、それが何故「世界の平和を脅かす」ことになるのか、何故「労働者にとって許しがたい」のか、さっぱりわからない。ターゲットは横井の言う「犯罪者国家」北朝鮮だけなのだから。
 
《こういうことは本当の拉致家族にとってもあまりいいことではない。なぜならば、拉致被害者が全員死んでしまっているという前提に立てば、拉致をした北朝鮮を政治的、経済的、軍事的に制裁しようという報復運動もありうる(それが全国民的な支持をうるかは別にして)だろうが、かならずしもそうとばかりは言い切れない場合、すなわち、拉致被害者の何人かはまだ生きているかも知れないという観点に立てば、むしろこういった運動は拉致問題の解決を妨げるからである。》

 「本当の拉致家族」という言葉がまた意味不明だ。家族会のメンバーは本当の家族ではないとでもいうのか。
 そして横井は、ではどのように、拉致問題の解決を図るべきだというのか。
 上記の文章から推察するに、結局、北朝鮮の要求をある程度呑んで、交渉せよということだろう。身代金を払ってでも、感謝の言葉を捧げてでも、被害者を取り戻せということかもしれない。
 しかし、日本はこれまで北朝鮮にコメ支援やKEDOなどさまざまな協力的アプローチをとってきたのではないか。そして国交正常化交渉の席で拉致問題に触れても、北朝鮮が頑としてその存在すら認めてこなかったのではなかったか。小泉訪朝で存在を認めてからも、「死亡者」について誠意ある対応はしてこなかったではないか。
 そもそも北朝鮮は交渉の席にすらついてはいない。北朝鮮を交渉に応じさせるために制裁が必要なのであって、復讐が目的なのではない。そんな簡単なことを横井は理解していないか、理解していないふりをしている。

 共産主義者にとっては、全ての事象は共産主義運動に利用できるかどうかという観点からしか見ることができないのだろう。だから、荒唐無稽な証言まで創作して、このように被害者や家族をおとしめることができるのだろう。要は、自分の「運動」への注目と、安倍政権叩きが目的なのではないか。

 特定失踪者問題調査会の荒木和博会長は、この横井について、同調査会ニュースで、

《ご本人のブログなどを見る限り、横井氏の証言に妄想と思われるようなところはありません。左翼は左翼ですので、私自身は思想的に相容れないところがありますが、北朝鮮に対しては非常に厳しい見方をしており、見解の違いは別にして冷静な分析であるように思います。》

と肯定的に評し、その後もたびたび蓮池薫氏に対する疑問を表明しており、私はその動きを危惧していたが、今回の「拉致救出運動か拉致報復運動か」を読めば、少なくとも横井に対する評価は変わるのではないだろうか。これは、北朝鮮に対する「非常に厳しい見方」ではないだろう。
 拉致被害者、家族会、救う会、特定失踪者問題調査会の分裂や内紛は北朝鮮や日本の親北派にとって望むところだろう。横井自身が何を目的にしているかはともかく、荒木の立場で横井を肯定し蓮池薫氏に疑念を表明することが、客観的に見て拉致問題の進展にどのような影響を及ぼすか、十分考慮した上で発言してもらいたいと願う。