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日ソ共同宣言の「履行を拒否した」のはソ連である

2018-09-25 06:32:59 | 領土問題
承前

 古谷経衡氏の記事「日露平和条約締結は日本の決断次第~そろそろ2島返還で決着の時だ~」には、もう一点大きな疑問がある。
 それは、本年9月12日、東方経済フォーラムに出席したプーチン大統領が、1956年の日ソ共同宣言について「「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張」したと報じられたことについて、

「日本人の多くはこのプーチン発言を「一方的なロシアの言い分ではないか?」と捉えるかもしれないが、いや実際には一理も二理も、プーチン発言は正しい側面がある。〔太字は引用者による。以下同じ〕


と評したことである。

 古谷氏は、これに
「いったいどういうことだろうか? 」
と続けて、その理由を縷々述べるのだが、これが私には理解できない。

 古谷氏が述べるその理由とは、前回も挙げたが、
・1951年、サンフランシスコ条約で日本は千島列島を放棄した。この千島列島には国後、択捉が含まれると当時の日本政府は答弁していた。
・1955~56年の日ソ交渉の途中で、「「ダレス恫喝」が強く影響」して、政府は国後・択捉を含む「四島一括の帰属の確認」の強硬路線に転換した。そのため政府は、「千島列島」には国後、択捉が含まれないと主張を変えた。
・しかし、歴史的に見て、千島列島に国後、択捉が含まれるとされてきたことは明らかであり、政府の主張は「無理筋」である。

というものである。

 そして古谷氏は、

冒頭紹介したプーチン発言の”平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言に言及した上で、「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張”という部分は、こういった意味で、ある意味正解ともいえるのである。

 なぜなら日本政府は少なくとも「ダレス恫喝」の前までは、国後・択捉の放棄を渋々ながら承認し、2島返還で決着(重光)という方向に動いていたからだ。その方針を1956年2月以降、強硬路線に転換したのは日本自身だったからである。


と述べている。

 しかし、日ソ共同宣言は、「ダレス恫喝」の後の1956年10月に署名されたものである。当然、わが国がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後、択捉は含まれないと解釈を変更した後のことである。

 日ソ共同宣言の発効後、わが国が何らかの解釈変更により、共同宣言の内容を反故にするようなことがあったと言うなら、古谷氏の言い分もわかる。
 だが、日ソ共同宣言は、千島列島について何も触れていない。故に、プーチン大統領の「日本が履行を拒否した」発言は、「ダレス警告」や、わが国の千島列島の解釈変更とは何の関係もない。

 前にも書いたが、古谷氏は、自分が何を書いているのか理解していないのではないか。
 あるいは、論理的整合性がとれないことを承知で適当に書き飛ばしている人物なのか、どちらかだろう。

 このプーチン大統領の「日本が履行を拒否した」発言を聞いて、日ソ領土交渉の経緯をある程度知る者の中には、「いや拒否したのはソ連だろ」と思った者もいたのではないだろうか。
 私はそう思った。

 日ソ共同宣言には次のようにある。

9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。
ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。


 確かに、「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」との文言がある。
 しかし、それは「平和条約が締結された後に現実に引き渡される」ものとされている。
 わが国が、いつ、「平和条約の締結に関する交渉を継続すること」を拒否したと、プーチン大統領および古谷氏は言うのだろうか。

 「平和条約の締結」とは、戦争に起因する領土問題の最終的解決を意味する。
 日ソ共同宣言には、歯舞群島及び色丹島以外の領土に関する文言はない。しかしそれは、わが国がその他の領土をソ連が領有することを承認したことを意味しない。
 継続する「平和条約の締結に関する交渉」には領土問題についての交渉も含まれるというのがわが国の立場である。

 1956年8月に重光外相らによる第1次モスクワ交渉が失敗に終わり、鳩山一郎首相は、いわゆるアデナウアー方式、つまり合意が困難な問題(ここでは領土問題)を棚上げしてとりあえず国交正常化を先行する方式による解決を、そしてそのために自らモスクワに赴くことを決意した。
 鳩山はソ連のブルガーニン首相に、領土問題の継続交渉を前提として、抑留者の即時送還、漁業条約の発効、日本の国連加盟支持などの5原則にあらかじめソ連の同意があれば、国交正常化交渉に入る用意があるとの書簡を発した。
 ブルガーニンからの返簡には、5原則への同意は記されていたものの、肝心の領土問題の継続交渉については触れられていなかった。
 このため、松本俊一が9月25日モスクワを訪問し、グロムイコ第一外務次官と会談し、次のような書簡のやりとりを行った(いわゆる「松本・グロムイコ書簡」)。

 書簡をもつて啓上いたします。

 本全権は、千九百五十六年九月十一日付鳩山総理大臣の書簡とこれに対する同年九月十三日付ブルガーニン議長の返簡に言及し、次のとおり申し述べる光栄を有します。

 前記鳩山総理大臣の書簡に明らかにせられたとおり、日本国政府は、現在は、平和条約を締結することなく、日ソ関係の正常化に関し、モスクワにて交渉に入る用意がある次第でありますが、この交渉の結果外交関係が再開せられた後といえども、日本国政府は、日ソ両国の関係が、領土問題をも含む正式の平和条約の基礎の下に、より確固たるものに発展することがきわめて望ましいものであると考える次第であります。

 これに関連して、日本国政府は、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続せられるものと了解するものであります。

 鳩山総理大臣の書簡により交渉に入るに当り、この点についてソ連邦政府においても同様の意図を有せられることをあらかじめ確認しうれば幸甚に存ずる次第であります。

 本全権は、以上を申し進めるに際し、ここに閣下に向つて敬意を表します。

千九百五十六年九月二十九日

日本国政府全権委員 松本俊一

ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官 ア・ア・グロムイコ閣下

(仮訳)

 書簡をもつて啓上いたします。

 本次官は、千九百五十六年九月二十九日付の閣下の次のとおりの書簡を受領したことを確認する光栄を有します。

〔松本書簡の引用略〕

 これに関連して本次官は、ソヴィエト社会主義共和国連邦政府の委任により、次のとおり申し述べる光栄を有します。すなわち、ソヴィエト政府は、前記の日本国政府の見解を了承し、両国間の正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続することに同意することを言明します。

 本次官は、以上を申し進めるに際し、閣下に向つて敬意を表します。

千九百五十六年九月二十九日

モスクワにおいて

ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官

ア・グロムイコ

日本国政府全権委員

松本俊一閣下


 このように、国交正常化後も領土問題を継続して交渉することについてソ連政府の同意を取り付けたから、鳩山首相の訪ソが実現したのである。

 鳩山が赴いての第2次モスクワ交渉で、日本側は当然、日ソ共同宣言にも「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉」といった文言を含めるつもりだった。ソ連が一時呈示した案にはそれが含まれていたが、最終的にソ連は「領土問題を含む」の語句を削ることを要求した。河野一郎農相は抵抗したがソ連の拒否は変わらず、日本側はやむを得ず、歯舞、色丹の引き渡しは平和条約締結の時とする文言を盛り込むことと、先に挙げた松本・グロムイコ書簡を公表することで、共同宣言から「領土問題を含む」の語句を削ることに同意した。

 かくして、共同宣言には、「平和条約締結に関する交渉」から「領土問題を含む」は削られたが、これはもちろん平和条約締結に関する交渉に領土問題が含まれないことを意味するものではない。加えて松本・グロムイコ書簡があるのだから、ソ連政府は書簡のとおり「両国間の正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続す」べきであるというのが、わが国政府の立場である。

 ところが、1960年1月に岸信介内閣が日米安全保障条約の改定を実現させると、当時外相になっていたグロムイコは、次のような覚書を日本政府に送付した(いわゆる「グロムイコ覚書」)。

この条約が事実上日本の独立を奪い取り,日本の降服の結果日本に駐屯している外国軍隊が日本領土に駐屯を続けることに関連して,歯舞,および色丹諸島を日本に譲り渡すというソ連政府の約束の実現を不可能とする新らしい情勢がつくり出されている。

 平和条約調印後日本に対し右諸島を譲渡することを承諾したのは,ソ連政府が日本の希望に応じ,ソ日交渉当時日本政府によつて表明せられた日本国の国民的利益と平和愛好の意図を考慮したがためである。

 しかしソ連邦は,日本政府によつて調印せられた新条約がソ連邦と中華人民共和国に向けられたものであることを考慮し,これらの諸島を日本に譲り渡すことによつて外国軍隊によつて使用せられる領土が拡大せられるがごときを促進することはできない。

 よつてソ連政府は日本領土から全外国軍隊の撤退およびソ日間平和条約の調印を条件としてのみ歯舞および色丹が一九五六年十月十九日付ソ日共同宣言によつて規定されたとおり,日本に引き渡されるだろうということを声明することを必要と考える。


 日米安保改定という「新らしい情勢」が生じたため、共同宣言に規定された歯舞、色丹の引き渡しは「日本領土から全外国軍隊の撤退」後とするとの新たな条件を付けたのである。

 しかし、旧日米安保条約は既に日ソ共同宣言当時には存在していたものであり、これは共同宣言の障害になってはいない。安保改定はわが国の片務性を解消することを意図したものであり、防衛目的であることに変わりはなく、ソ連や中国への脅威を高めるものではない。
 また、共同宣言第3条には

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。


との文言があり、わが国が集団的自衛権に基づいて外国の軍隊を駐屯させることを禁止してはいない。

 にもかかわらず、ソ連は一方的に共同宣言の履行に新たな条件を付したのである。これが背信行為でなくて何だと言うのだろうか。
 さらに、その後ソ連は、日本との間に領土問題は存在しない、領土問題は解決済みと公言した。そのため領土問題は停滞し続けたのである。
 ゴルバチョフ政権の末期になって、ソ連はようやく領土問題の存在を認めるに至った。それはソ連崩壊後のロシアも継承したが、日ソ共同宣言の有効性を認めたのは、プーチン政権発足後のことである。
 日本が共同宣言の「履行を拒否した」だって? とんでもない。履行を拒否してきたのはソ連、そしてそれを継承したロシアである。

 何度も言うが、私は2島返還論それ自体を否定するつもりはない。
 だがそれは、「ダレス恫喝」でわが国が2島返還論から4島返還論に転じたなどという嘘に基づくものであってはならないし、わが国が日ソ共同宣言を拒否したなどという嘘に基づくものであってもならない。
 そして2島返還論者は、わが国が国後、択捉の要求を取り下げることにより、どのような見返りを得ることができるのかを直截に語るべきだ。
 古谷氏は、北極航路の可能性やシベリアの地下資源を挙げ、日露の平和条約締結(国境線画定)がなければロシアとの友好関係の基礎が築けないと説いている。
 しかし、国境線の画定がなければ経済活動は進められないものだろうか。
 わが国は、韓国との間に領土問題を抱えている。中国との間には、わが国としては領土問題は存在しないとしているが、中国側の見解は異なる。しかし、それらはわが国と中韓との経済活動を妨げてはいない。ロシアに対しても同様ではないだろうか。

 鳩山首相が領土よりも日ソ国交正常化を優先したのは、抑留者の問題、漁業問題、わが国の国連加盟という3つの大きな難問を解決するためだった。当時において、その判断は正しかったと私は考えている。
 だが、この3つの難問が解決したこんにち、何故国後、択捉の要求を取り下げなければならないのか。2島返還論者はその理由を十分な説得力をもって語るべきだろう。

コメント

千島列島の範囲の変更は許されないか――古谷経衡氏の2島返還論を読んで

2018-09-23 07:12:43 | 領土問題
 以前の記事で述べたように、「ダレスの恫喝」で4島返還論に転じたという古谷経衡氏の主張(古谷氏に限らず、同様の論者はしばしば見かけるが)は嘘であるが、ほかにもこの古谷氏の記事にはいくつか疑問がある。
 その最大のものは、千島列島の範囲をめぐるわが国政府の解釈の変更をやたらと強調している点である。

 古谷氏は概略次のように述べている。
・1951年、サンフランシスコ条約で日本は千島列島を放棄した。この千島列島には国後、択捉が含まれると当時の政府は答弁していた。
・1955~56年の日ソ交渉の途中で、「「ダレス恫喝」が強く影響」して、政府は国後・択捉を含む「四島一括の帰属の確認」の強硬路線に転換した。そのため政府は、「千島列島」には国後、択捉が含まれないと主張を変えた。
・しかし、歴史的に見て、千島列島に国後、択捉が含まれるとされてきたことは明らかであり、政府の主張は「無理筋」である。
・千島列島ではない歯舞・色丹なら辛うじて返しても良い、というのがロシアの最大限度の譲歩であり、「北方新時代」の扉を開くため、「結局、2島返還しか道はない」。

 これも、2島返還論者にしばしば見られる主張である。

 サンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲について、条約締結当時と日ソ交渉時以降で政府の解釈が異なっているのは、古谷氏の指摘するとおりである。
 しかし、これはそれほど重要視すべき問題なのだろうか。

 そもそもわが国は何故千島列島を放棄したのだろうか。
 サ条約で日本の領域を定めた第2条には、確かに次のようにある(太字は引用者による。以下同じ)。

第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

〔同条文以下略〕


 だが、わが国が連合国に降伏すると決めたのはポツダム宣言を受諾したからである。ポ宣言は降伏後のわが国の領域について次のように規定している。

八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝〔ナラビ〕ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 「吾等ノ決定スル諸小島」とあるから連合国が好き勝手に決められるように思うかもしれないが、その前に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある。
 カイロ宣言とは、1943年に米中英3国の首脳名で発表された、連合国の対日方針を示したものである。その文中に次のようにある。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス


 日本の侵略に対する懲罰が戦争の目的であり、領土拡張の念を有するものではないとしている。
 そして、第一次世界大戦以後にわが国が奪取または占領した太平洋の島々の剥奪、満洲、台湾及び澎湖島などの中国への返還、わが国が暴力及び貪欲により略取した一切の地域からの駆逐、朝鮮の独立が述べられている。
 しかし、千島列島及び南樺太についての言及はない。これはソ連がこの宣言に加わっていない以上当然のことだが、ポツダム宣言に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある以上は、わが国の主権の及ぶ「吾等ノ決定スル諸小島」の範囲は、カイロ宣言の精神にのっとって決定されるべきだろう。

 日露戦争により獲得した南樺太は、「暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域」に含める余地もあるかもしれない。
 しかし、千島列島のうちウルップ島以北の北千島は1875年の千島樺太交換条約により平和的に取得したものだから「略取」した地域には当たらないし、国後、択捉は1855年のロシアとの国境画定以来のわが国固有の領土だからなおさら「略取」したものではない。

 では何故、サ条約でわが国が放棄すべき地域に千島列島が含まれたのか。
 それは、古谷氏も述べているように、1945年2月に米英ソ3国首脳が秘密裏に結んだヤルタ協定で、次のように定められていたからである。
 
二、千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルヘシ (イ) 樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」連邦ニ返還セラルヘシ
〔(ロ)(ハ)略〕

三、千島列島ハ「ソヴィエト」連邦ニ引渡サルヘシ


 南樺太は「返還」なのに千島列島は「引渡」とされていることに留意されたい。
 つまり、千島列島が「略取」された地域でないことは、米英ソはいずれも承知した上で、ソ連の対日参戦を決めていたのである。
 米英は、カイロ宣言で領土不拡大を掲げながら、ソ連にはこれを適用しなかったのである。

 サ条約で千島列島の放棄が定められているのは、このヤルタ協定(戦後公表された)を受けてのことだろう。
 だが、ソ連はこのサンフランシスコでの講和会議に参加はしたが、条約には結局署名しなかった。
 サ条約第25条には

第二十五条

 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定〔引用者註:中国と朝鮮の権利に関するもの〕を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない


とあるから、わが国が千島列島を放棄したのはサ条約を締結した国々に対してであり、ソ連に対してではない。ソ連と、それを継承したロシアは、千島列島領有の根拠にサ条約を援用することはできない。
 また、わが国が放棄した千島列島や南樺太の帰属は、わが国を除いたサ条約の締結国が決めることである。それらの国々がソ連、ロシアによる千島列島や南樺太の領有を承認したことはない。
 そもそも、ソ連が千島列島や南樺太を自国領に編入したのは、サ条約にはるか先立つ1946年2月のことである。サ条約とソ連による領有は直接関係ない。

 以上のことを前提に、サ条約における千島列島の範囲の変更について考えてみたい。
 政府による千島列島の範囲の解釈の変更は、果たして許されないことなのだろうか。
 わが国は、サ条約の会議に出席して意見を述べることはできた。しかし条約の文言を変更する権限はなかった。戦勝国が決めた条約の文言をただ受け入れるほかなかった。それが嫌なら、そもそも条約を拒否するしかなかった。しかしそうすれば、わが国の独立はますます遅れたことだろう。
 したがって吉田茂首相は、サ条約の受諾演説でこう述べるにとどめるしかなかった。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(吉田『回想十年』第3巻、中公文庫、p.103-105)


 そして、1951年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、外務省の西村熊雄条約局長はこう答弁した。

 条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島〔引用者註:国後、択捉〕の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございますあの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。(松本俊一『日ソ国交回回復秘録』朝日新聞出版、2012、p.258)


 やがて、吉田は退陣し、鳩山一郎政権の下で日ソ交渉が始まった。その中で、日本政府は、サ条約で放棄した千島列島に国後、択捉は含まれないと解釈を変更した。これが「無理筋」だと古谷氏は言う。

 しかし、サ条約の文言の解釈を決めるのは誰か。それは、わが国を含むサ条約の締結国である。
 サ条約の締結国が、わが国の解釈変更は不当である、国後、択捉も放棄したと言ったではないかと主張するなら問題となるのもわかる。しかし、そんな主張をどの締結国がしているというのか。
 米国は、1956年に、サ条約の千島列島に国後、択捉は含まれないとのわが国の見解を支持すると表明した。当時、英国は態度を明確にしなかったが、後にわが国のソ連への要求を支持したと記憶している。そして、解釈変更に異を唱えた国があるとは聞かない。
 わが国がサ条約の解釈を変更したとしても、他の締結国がそれに異を唱えなければ、それがその後の条約の解釈として通用するのである。そして非締結国であるソ連、ロシアに異を唱える権利はない。
 したがって、この解釈変更は、それほど重要視すべき問題ではないのである。

 この政府の解釈変更は、当然国会でも指摘された。1961年10月6日、小坂善太郎外相は衆議院外務委員会で、自民党議員の質問の際にこう答弁している。

先般〔1961年10月3日〕予算委員会において講和条約締結当時の政府委員の答弁〔上記の西村熊雄条約局長の答弁〕が取り上げられて問題になっておった〔池田勇人首相は「その政府委員の発言は間違いと考えております」と答弁し、社会党から追及された〕のでありまするが、この答弁はその当時における政府の一応の見解を述べたものでございますが、一方においていわゆる千島の中には南千島も入ると言いながら、他方日本政府としては南千島と北千島は歴史的に見て全く違うものであると考えており、その考え方は今後も堅持すると言っております。この二つの答弁は矛盾した内容を持っておるのであります。そこでそういう矛盾した内容を持つ明確を欠いた答弁がなされたわけでございまするがこのことはひっきよういたしまするに条約発効以前の各国の微妙な事態を反映して、その当時においてまだ占領下にあるわけでありますし、また各国も平和条約を批准していないというその事態において、わが国の立場のみを強く前面に押し出すことを避ける考慮もあったと考えられますが、これはいずれにもせよその当時における一応の考え方を述べたものにはかならないと思うのであります。その後さらに慎重に検討をいたしましたる結果、今申しましたように各種の交渉からいたしましても国後択捉が日本国の領土であることは明らかでございまして、しかもなおサンフランシスコ講和条約で放棄いたしました千島列島の中には含まれていないとの解釈が明確化いたしまして、昭和三十一年重光外務大臣の言明となっておる次第でございます。


 占領下では、条約の文言に従って、放棄したと答弁せざるを得なかった。
 その後実際にソ連と交渉が始まって、国後、択捉も返還を要求すべきわが国の領土であるとの結論に至った。

 解釈変更を問題視する見解に対しては、この答弁で十分反駁できるのではないかと私は考える。
コメント

「ダレスの恫喝」についての古谷経衡氏の嘘

2018-09-19 00:33:20 | 領土問題
 またか!
 私は慨嘆した。

 BLOGOSに引用されたYahoo!ニュースの記事「日露平和条約締結は日本の決断次第~そろそろ2島返還で決着の時だ~」で、古谷経衡氏がこんなことを言っている(太字は原文のまま)。

 
ではサンフランシスコ講和条約で放棄した「千島列島」とはどの島々を指すのかといえば、当然、国後島・択捉島を含む占守島までの全千島である。事実、1951年9月7日、吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約で「放棄した千島列島には、北千島と南千島(国後島・択捉島)が含まれる」と明言し、同年1951年10月19日、西村外務省条約局長は衆議院での国会答弁でも同様の政府見解を繰り返した。

〔中略〕

 そしてこの路線のまま1955年から1956年まで、ロシアとの国交回復・平和条約交渉が開始される。以下、『日ソ国交回復秘録~北方領土交渉の真実~(松本俊一著、朝日新聞出版)”モスクワにかける 虹 日ソ国交回復秘録”から改題』は日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する。

 そしてこの本の中で、紆余曲折はあったものの、当時、日本側の重光葵全権大使は、 

「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、一週間ばかり経つと『事ここに至っては已むを得ないから、クナシリ、エトロフ島はあきらめて、平和条約を締結する』」といって来た。

出典:前掲書。強調筆者〔深沢註:筆者とは古谷氏〕)


 と、無念の思いは強いが、国後・択捉の両島を諦めて平和条約を併結する方針だったのである。ところが重光外相(鳩山一郎内閣)の態度はこの後急変し、国後・択捉・歯舞群島・色丹の「四島一括の帰属の確認」と強硬路線に転換した。なぜだろうか。公な文章にはなっていないものの、ここに冷戦下にあって日ソ和解を嫌うアメリカの横やり、つまり有名な「ダレス恫喝」が強く影響したのだ。

ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった

出典:前掲書


 これが「ダレス恫喝」である。

・態度を急変させた日本

 この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる。結局、『日ソ共同宣言』がなされ日ソの国交は回復したが、平和条約の締結ができないまま、この異常な状態が70年以上続いたまま現在に至る。


 政府の4島返還論に批判的な論者がよく持ち出す、わが国は歯舞・色丹の2島返還でソ連とまとまりかけていたのに、米国の「ダレスの恫喝」で4島返還論に転じざるを得なくなり、領土問題は膠着したとの主張の典型である。

 私はこれまでに何度も述べているが、これは嘘である。

 重光は元々対ソ強硬論者であった。外相としてこれまでの交渉(その多くは松本俊一が携わった)でソ連に歯舞・色丹の線で妥結の用意があることはわかっていた。しかし、このモスクワ交渉で、歯舞・色丹以外の領土についてはしばらく棚上げとしようとするなど、より多くのものを獲得しようとがんばった。だがソ連は、あくまでも歯舞・色丹の引き渡しをもって平和条約の締結、つまり領土の画定とする姿勢を崩さなかった。
 すると重光は豹変し、やむを得ずソ連案をそのまま呑む以外にはなく、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと松本に言い出した。
 松本は、これまでの交渉で、歯舞・色丹で妥結の可能性があったのにもかかわらず、重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受けて苦労した経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対し、重光もしぶしぶ請訓することに応じた。
 請訓を受けた鳩山政権の閣僚、自民党の3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。交渉はまたも決裂した。

 「ダレスの恫喝」とは、この第1次モスクワ交渉の帰路、重光がロンドンに立ち寄ったときのことである。
 重光はロンドンの米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明した。このときに「国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」云々といった話があったという。
 しかし、これは鳩山首相が重光の2島返還での妥結の請訓を拒否した後の話である。それ以前に、松本俊一を全権とする日ソ交渉で、重光外相は既に国後、択捉を貫徹せよとの訓令を出していたのである。
 だから、2島返還でまとまりかけていたのに、「ダレスの恫喝」でわが国が4島返還論に転じたとの主張は成り立たない。

 こんなことは、古谷氏が挙げている、松本俊一の『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』をちゃんと読めば全て書いてあることである。
 古谷氏は、もっともらしく「日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する」と述べているが、本当に本書を読んだのだろうか。読んだとしても拾い読みではないのだろうか。

 古谷氏が挙げている本書からの引用2箇所のうち、「ダレスは全くひどいことをいう」以下の箇所は確かに本書にあるが、「かくて重光君は」以下の箇所は、私が今確認した限りでは本書には見当たらない。
 本書の第1次モスクワ交渉の箇所で、松本は「重光全権」と記している。松本から見て外交官としても衆議院議員としても先輩の重光を「重光君」とは言わないのではないか。
 また、「モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、〔中略〕といって来た」とあるのもおかしい。松本は第1次モスクワ交渉で重光に同行しているからだ。
 これは、鳩山一郎の回顧録あたりからの引用ではないのか。

 また、古谷氏は
「この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、1956年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる」(太字は引用者=深沢による。以下同)
と述べているが、重光が2島返還で妥結しようとした第1次モスクワ交渉は、古谷氏がどこからか
「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが」
と引用しているとおり、7月末以降のことである(「ダレスの恫喝」は8月)。これでは因果関係が前後している。
 古谷氏は、自分が何を書いているのか理解していないのではないか。

 北方領土問題が停滞して久しい。
 この際、2島返還でもいいから、日露平和条約締結で関係改善をという主張が出てきても不思議ではないと思う。
 4島かそれ以上を要求しないなど日本国民としてあってはならないかのような雰囲気が蔓延するよりは、はるかに健全なことだろう。

 だが、嘘で国民を騙すのはやめてもらいたい。
 著名人であればなおさらのことである。



関連過去記事

領土問題をめぐる議論のウソ(1) 「ダレスの恫喝」でわが国は4島返還論に転じたというウソ(2016)

領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ(2016)

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について(2012)

北方領土問題を考える(2009)

「2島」は4島の半分ではない(2009)



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領土問題をめぐる議論のウソ(5) 日ソ中立条約違反ではないというウソ

2016-04-02 23:04:21 | 領土問題
承前) 

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 大前氏の記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

日本人の多くは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後にソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法に占拠し、以来、実効支配しているのだ、と思い込んでいる。しかし史実は異なる。

連合国側で戦後の対日政策が最初に話し合われたのは、第二次大戦中の1943年に開かれたカイロ会談で、出席したのはルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、そして蒋介石中国国民政府主席の3首脳。日本の無条件降伏、日本軍が占領した太平洋の島々の剥奪、満州、台湾、澎湖島の中国返還、朝鮮独立などを盛り込んだカイロ宣言が発せられて、これが後のポツダム宣言につながっていく。

その後、1945年2月のヤルタ会談において戦後処理問題が本格的に話し合われることになるのだが、ドイツの分割統治やポーランドの国境策定などテーマの中心はヨーロッパの戦後処理だった。対日政策については、ヤルタ会談に先立ってルーズベルト米大統領、スターリンソ連共産党書記長、チャーチル英首相の間で秘密協定が交わされている。それがヤルタ会談で「ヤルタ協定」として取りまとめられた。

スターリンが主張したのは南樺太の返還と千島列島の領有で、ルーズベルトはこれを認める見返りとしてスターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。実は、ルーズベルトは日米開戦当初から何度もソ連に対日参戦を要請してきた。スターリンは日ソ中立条約を表面上は守ってきたのだが、ヤルタ協定でドイツ降伏後2カ月ないしは3カ月というソ連の対日参戦のタイミングが決まった。

ドイツが無条件降伏したのは1945年5月。その3カ月後の8月8日にソ連は日本に宣戦布告(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に進攻。千島列島に到達したのは日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降。

したがって、ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない。戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていたのだ。満州および南樺太、千島列島に対するソ連の出兵がアメリカの強い要請によることは明白だし、北方四島を含む千島列島を「戦利品」としてソ連が得ることをアメリカは認めていた。日本固有の領土、というなら、ロシアに対して主張するのではなく、アメリカに対して“取り消し”を迫らなくてはならない。


 これを読んでも、何故
「ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない」
となるのか、私にはわからない。

 どうも、「戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていた」し、「アメリカの強い要請」もあったから、「ポツダム宣言を受諾した8月14日以降」に南千島を占拠したのは不当ではないと言いたいように読み取れる。
 「戦争がすでに終わってい」るのなら(言うまでもなく、降伏文書に調印したのは9月2日だから、それまでは戦争は終わっていないのだが)、何故侵攻を続け、他国の領土を併合することが認められるのか、私には不思議なのだが、大前氏には不思議ではないらしい。

 わが国が受諾したポツダム宣言には

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ


とある。
 カイロ宣言の主な内容は大前氏が挙げているとおりだが、その中には次のような一文がある。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス


 このカイロ宣言にはソ連は加わっていないが、ポツダム宣言の日本の領土についての条項はカイロ宣言の履行を前提としたものなのだから、一度もロシアまたはソ連領となったことのない北方4島を併合するのは領土拡張以外の何物でもなく、やはり不当なのではないだろうか。

 そうしたことを抜きにしても、何故ソ連の対日参戦が日ソ中立条約違反とならないのか、理解できない。
 米ソ間でどんな取り決めがなされようが、それは米ソの問題であって、わが国が関知するところではない。
 日ソ中立条約には

第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ


とあり、さらに

第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス


ともあるのだから、対日参戦がこれに違反することは疑いようがない。

 また、大前氏は

(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)

とさりげなく挿入して、不延長を通告済みであるからもはや無効であるかのような印象を作り出しているが、同条約には

第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ


とあり、同条約が締結されたのは1941年4月であるから、不延長を通告したとしても1946年4月までは有効だったことは広く知られている事実である。
 大前氏が領土問題におけるわが国の方針を批判するのは氏の自由だが、見えすいたウソはやめていただきたいものだと思う。

 なお、ソ連の中立条約違反については、日本も独ソ開戦(1941年6月)を受けてソ連侵攻を計画し、1941年7月にはそのために関特演(関東軍特種演習)と称して北方への兵力の動員を行ったのだから、ソ連を非難する資格はないという主張があるが、計画は計画、演習は演習でしかなく、実際にわが国がソ連に侵攻することはなかったのだから、これは強弁でしかない。
 米国が対日戦を想定しており、ハル・ノートが苛酷な内容であったとしても、わが国から米国に開戦した事実に変わりはないのと同じことである。

(続く)
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領土問題をめぐる議論のウソ(4) 4島全てを放棄したというウソ

2016-03-26 22:51:51 | 領土問題
承前) 

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 大前氏の記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

スターリンが主張したのは南樺太の返還と千島列島の領有で、ルーズベルトはこれを認める見返りとしてスターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。実は、ルーズベルトは日米開戦当初から何度もソ連に対日参戦を要請してきた。スターリンは日ソ中立条約を表面上は守ってきたのだが、ヤルタ協定でドイツ降伏後2カ月ないしは3カ月というソ連の対日参戦のタイミングが決まった。

ドイツが無条件降伏したのは1945年5月。その3カ月後の8月8日にソ連は日本に宣戦布告(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に進攻。千島列島に到達したのは日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降。

したがって、ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない。戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていたのだ。満州および南樺太、千島列島に対するソ連の出兵がアメリカの強い要請によることは明白だし、北方四島を含む千島列島を「戦利品」としてソ連が得ることをアメリカは認めていた。日本固有の領土、というなら、ロシアに対して主張するのではなく、アメリカに対して“取り消し”を迫らなくてはならない。

実は当時、スターリンは北海道を南北に割って北半分をソ連が占領することを求めた。もし米大統領がルーズベルトのままだったら、実現していた可能性もある。しかしドイツ降伏直前にルーズベルトは病死、後を受けたトルーマンはスターリンの要求を拒絶、戦勝権益として代わりに南樺太の返還と南クリル(北方四島)を含めた千島列島の領有をソ連に提案したのだ。

こうした経緯を日本人はほとんど知らされていない。ただし、政府・外務省はよくわかっていて、戦後10年以上、北方領土の返還を求めてこなかった。それどころか1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。

▼日ソ関係の修復をアメリカは警戒した

これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。


 これを読むと、いわゆる北方4島(歯舞、色丹、国後、択捉)の全てが「千島列島」に属し、わが国はサンフランシスコ平和条約で一度はそれを放棄していたかのようだ。
 これも正しくない。
 わが国は、確かにサンフランシスコ平和条約締結時には、国後、択捉は同条約に言うところの「千島列島」に含まれているとの見解をとっていた(後に含まれていないと変更した)のは事実だが、歯舞、色丹については、同条約に言うところの「千島列島」に含まれるとはしていなかったからだ。

 1951年9月7日、サンフランシスコ会議における平和条約の受諾演説で、吉田茂首相はこう述べている。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕千島列島及び樺太南部は日本降伏直後の一九四五年九月二十日一方的にソ連領に収容されたものであります。また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(吉田茂『回想十年 3』中公文庫、1998、p.103-105)


 そして、同年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、北海道出身の農民協同党の高倉定助議員と吉田茂首相及び西村熊雄外務省条約局長との間に次のようなやりとりが交わされた(国会会議録検索システムより)。

○高倉委員 本会議また昨日の委員会を通じまして、いろいろと條約問題につきまして質問がなされておりますので、われわれの言わんと欲することも大方言い盡されているような次第であります。実は二十四日に大体質問をする考えでおりましたし、本日は総理もお疲れのことと思いますから、頭を冷静にされてからお聞きした方がむしろいいかと思いますので、簡潔に二、三御質問申し上げたいと思います。
 まず領土の問題でありますが、過般のサンフランシスコの講和條約の第二條の(C)項によりますると、日本国は千島列島の主権の放棄を認められたのである。しかしその千島列島というものはきわめて漠然としておる。北緯二五・九度以南のいわゆる南西諸島の地域の條文におきましては、詳細に区分されておるのでありまするが、千島列島は大ざつぱではつきりしていないのであります。そこで講和條約の原文を検討する必要があります。條約の原文にはクリル・アイランド、いわゆるクリル群島と明記されておるように思いますが、このクリル・アイランドとは一体どこをさすのか、これを一応お聞きしたいと思います。

○吉田国務大臣 千島列島の件につきましては、外務省としては終戰以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申入れてあります。これは後に政府委員をしてお答えをいたさせますが、その範囲については多分米国政府としては日本政府の主張を入れて、いわゆる千島列島なるものの範囲もきめておろうと思います。しさいのことは政府委員から答弁いたさせます。

○西村(熊)政府委員 條約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまつたくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があつた通りであります。
 なお歯舞と色丹島が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。しかしながらその点を決定するには、結局国際司法裁判所に提訴する方法しかあるまいという見解を述べられた次第であります。しかしあの見解を述べられたときはいまだ調印前でございましたので、むろんソ連も調印する場合のことを考えて説明されたと思います。今日はソ連が署名しておりませんので、第二十二條によつてへーグの司法裁判所に提訴する方途は、実際上ない次第になつております。

○高倉委員 このクリル群島と千島列島を同じように考えておられるような今のお話でありますが、これは明活八年の樺太・クリル交換條約によつて決定されたものであつて、その交換條約によりますと、第一條に、横太全島はロシヤ領土として、ラペルーズ海峡をもつて両国の境界とする。第二條には、クリル群島、すなわちウルツプ島から占守島に至る十八の島は日本領土に属す。カムチヤツカ地方、ラパツカ岬と占守島との聞なる海峡をもつて両国の境とする。以下省略しますが、こういうふうになつておる。この條約は全世界に認められた国際的の公文書でありますので、外務当局がこのクリル群島というものと、千島列島というものの翻訳をどういうふうに考えておられるか、もう少し詳しく御説明を願いたいと思います。

○西村(熊)政府委員 平和條約は一九五一年九月に調印いたされたものであります。従つてこの條約にいう千島がいずれの地域をさすかという判定は、現在に立つて判定すべきだと考えます。従つて先刻申し上げましたように、この條約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味であると解釈しております。但上両地域について歴史的に全然違つた事態にあるという政府の考え方は将来もかえませんということを御答弁申し上げた次第であります。

○高倉委員 どうも見解が違いますのでやむを得ないと思いますが、過般の講和会議においてダレス全権が、歯舞、色丹諸島は千島列島でない、従つてこれが帰属は、今日の場合国際司法裁判所に提訴する道が開かれておると演説されておるのであります。吉田全権はそのとき、千島列島に対してもう少しつつ込んだところの―歯舞と色丹は絶対に日本の領土であるとは言つておられますけれども、国際司法裁判所に提訴してやるというまでの強い御意思が発表されていなかつたようでありまするが、この問題に対しまして、ただいまあるいは今後も、どういうようなお考えを持つておられるかということについてお伺いします。

○吉田国務大臣 この問題は、日本政府と総司令部の間にしばしば文書往復を重ねて来ておるので、従つて米国政府としても日本政府の主張は明らかであると考えますから、サンフランシスコにおいてはあまりくどくど言わなかつたのであります。しかし問題の性質は、米国政府はよく了承しておると思ひます。従つてまたダレス氏の演説でも特にこの千島の両島について主張があつたものと思います。今後どうするかは、しばらく事態の経過を見ておもむろに考えたいと思います。これは米国との関係もありますから、この関係を調節しながら処置をいたす考えでおります。


 元々、歯舞諸島は、地理的にも行政的にも、北海道の一部とされてきた。
 色丹島は、当初は歯舞諸島と同じく「根室国」に属するとされてきたが、1885年に「千島国」に移された。しかし「千島列島」に含めるか否かは資料によってまちまちで、はっきりしない。地理的には、千島列島の一部というよりは、歯舞諸島とともに別の一群を形成しているように見える(旧ソ連では、歯舞と色丹を合わせて「小クリル諸島」と呼ぶようになった)。
 しかし、サンフランシスコ平和条約締結時には「千島列島」には含まれないと明言されている。

 だから、日本はサ条約で一度は千島列島を放棄したではないかという主張は、少なくとも歯舞、色丹には当てはまらないのである。

続く
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領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ

2016-03-23 08:30:44 | 領土問題
承前

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 前々回も挙げた大前氏の記事の一部を再掲する(太字は引用者による。以下同じ)。

1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ

しかしアメリカがこれに難色を示す。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。


 ここに言う、「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」とはどういう事態を指すのだろうか。
 日本政府が、歯舞、色丹の返還のみで平和条約を締結すると公式に示したことはない。

 ただ、交渉に当たった全権が、2島返還での妥結を日本政府に請訓したことは二度あった。
 その一つは、前々回紹介した、第1次モスクワ交渉での重光外相によるものだ。
 前々回述べたとおり、重光は、元々日ソ国交回復には消極的で、モスクワでも当初は強硬論を唱えたが、ソ連が2島「引き渡し」以上の妥協の姿勢を見せないと、一変して2島案を呑んでの交渉妥結をするしかない、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと全権団に言い出した。しかし松本俊一の反対にあい、しぶしぶ請訓を行った。請訓を受けた鳩山政権の閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。
 鳩山首相は明確に拒否しているのだから、これを「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と見るのは当たらない。

 もう一つは、第1次モスクワ交渉の前年、1955年6~8月に、ロンドンで、松本俊一・衆議院議員(元外務次官)とソ連のヤコブ・マリク駐英大使(元駐日大使)との間で行われた第1次ロンドン交渉でのことだ。
 領土問題について、松本は当初、第二次世界大戦でソ連に奪取されたわが国の領土である歯舞諸島、色丹島、千島列島(国後、択捉はその一部)及び南樺太の全面返還を主張した。マリクもまた当初これを全面的に拒否した。しかし交渉が進む中でマリクは、千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄しているとしながらも、歯舞と色丹の引き渡しの可能性を松本に示唆した。
 松本は政府に請訓したが、政府は、国後と択捉は日本固有の領土であって、サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれていないとし、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属は、サンフランシスコ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきと指示した。松本はこれに従った平和条約案をマリクに呈示したが、マリクは拒否し、交渉は決裂した。

 実は、松本は交渉に臨むに当たって、その根本方針である「訓令第一六号」を受けていた。そこでは、領土については、歯舞、色丹の返還が最低条件とされていたことを、当時産経新聞の記者であった久保田正明が後に『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)で明らかにした。
 したがって、松本としては、マリクに歯舞と色丹の引き渡しの可能性を示唆されて、交渉は妥結したも同然と考えたようだ。
 だが、請訓を受けた重光外相は、これをすぐには鳩山首相に知らせず、外務省の幹部を集めて、上記のとおり、国後と択捉は日本固有の領土であって、サ条約で放棄した千島列島に含まれない、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属はサ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきとの新方針を決定し、松本に指示した。
 重光はその上で外遊に発ち、久保田によると、鳩山には外務省顧問の谷正之が事後報告に訪れ、情報を持たない鳩山は同意するしかなかったという。

 以前にも述べたように、日ソ国交回復交渉は外務省の頭越しに鳩山首相が進めたものであって、重光は交渉に消極的であり、外務省もおおむね同様だったという。
 また、鳩山の回顧録によると、重光は交渉経過の詳細を鳩山に見せていなかったのだという。
 したがって、重光及び外務省が独断で2島返還による妥結を葬ったことになる。

 ただし、「訓令第一六号」は政府の最終的方針ではなく、あくまで交渉開始時における方針だった。久保田が引用している訓令の文中には

先方の態度いかんによっては各問題の相関関係を勘案のうえ、当方の態度を決定する必要あるので、随時事情を詳細に具して請訓されたい。(p.33)


とある。
 これに従って松本は請訓し、外務省は国後、国後をも要求するという「当方の態度を決定」したのだろう。
 仮に、重光が鳩山に報告して「当方の態度を決定」することとなった場合、果たしてすんなり2島返還で妥結ができたのだろうか。
 私はそうとは限らないと思う。
 当時まだ自民党は結成されておらず、鳩山の日本民主党は少数与党であった。第2党である自由党は対米重視で日ソ交渉に消極的であり、日本民主党内でも重光は交渉に消極的で対ソ強硬派であった。世論調査でも旧領土の全て、あるいは旧領土のうち南樺太を除いた千島、歯舞、色丹の返還を望む声が大多数だった。
 ただ、仮に重光が速やかに鳩山に報告し、鳩山政権が方針を検討した場合、2島返還で妥結した可能性はあったとは言えるだろう。
 久保田は次のように書いている。

 ソ連の重大提案にたいして、まず外務省としての態度を決め、鳩山には事後報告の形で、しかも自分が行かずに、出発後に谷を代理として差し向けたのは、おそらく重光の作戦であったろう。松本の機密電がきてから重光の出発まで時日は充分あったはずである。〔中略〕何よりもまず鳩山に会いにいき、政府としていかにすべきか、肚をわって相談するのが当然第一になすべきことである。そのうえで渡米してダレスの考えも聞き、岸、河野とも相談し、帰国後、政府与党で慎重に協議したうえ、右するか左するか政治的決断を下すのが、政治決断の順序というものであろう。このときハボマイ、シコタンの線で妥協するのがよかったのか、さらにクナシリ、エトロフを要求して交渉を継続したほうが正しかったのかは、後世の審判に待つほかはない。しかし重光のやり方は異常であり、故意に日ソ交渉を遅らせるため、手順を逆にしたとみるほかはない。(久保田『クレムリンの使節』p.82)


 私もそのとおりだと思う。

 しかし、現実には重光外相は鳩山首相を差し置いて明確に2島返還での妥結を拒否しているのだから、これもまた「両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と表現するのはやはり妥当ではないだろう。

続く) 
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領土問題をめぐる議論のウソ(2) 2島返還妥結による米国の沖縄領有は有り得たか

2016-03-21 22:17:55 | 領土問題
 前回の続きだが、BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」中の他のウソを指摘する前に、前回述べたいわゆる「ダレスの恫喝」が果たしてどれほど現実味があった話なのかについて述べたい。

 重光葵外相からダレス米国務長官の発言を聞いた、松本俊一の回想録の箇所を再掲する(太字は引用者による。以下同)。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(朝日選書)、2012、p.125-126)


 サンフランシスコ条約第26条も再掲しておく。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 松本が書いている「このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあった」については、重光・松本の第1次モスクワ交渉に同行した産経新聞の久保田正明が後に著した『クレムリンへの使節』における次の記述が参考になる。

 ダレスの発言は電撃のように重光を打った。ただ発言の内容については全然知らないわけではなかった。この数日前、ワシントンで島公使が国務省に呼ばれ日ソ交渉とサンフランシスコ条約との関係について同じような指摘を受け、このことはロンドンの重光に転送されてはいた。だが、ダレスがこの時期、この席で持ち出してこようとは重光はまったく予期しておらず、まして「沖縄」の名を出してこようとは夢想だにしていなかった。(久保田『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)p.157-158)


 このダレス発言は、間もなく日本で報道され、大きな問題になったようだ。
 重光は日本の立場を説明するため再度ダレスを訪問したが、その時にはダレスの態度はかなり変わっていたという。
 松本はこう書いている。

二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 しかし、十九日のダレス長官の発言中の琉球諸島の併合云々のことは外部にもれて、日本の一部の新聞にも掲載された。そのために、日本の世論に相当な動揺を与え、国会においても社会党その他の議員から高碕外務大臣臨時代理等に対して、この点について質問が出て、政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮したのであった。九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静をとり戻した。(松本、前掲書、p.126-127)


 久保田はこの間の事情をもっと詳しく書いている。

 ダレス警告は東京の政界を大きくゆるがした。各紙はその後十日以上もこれにかんする記事を連日取りあげ、国会では野党が高碕外相代理を鋭く追及した。鳩山は「そんなことはとても信じられない」とおどろき、政府。与党のスポークスマンは「まだ重光全権から公電がはいらない」の一点張りでくりかえし否定しつづけた。
 国際的にも波紋を呼び、東京発のニュースがアメリカやイギリスに打電された。〔中略〕
 政府が躍起になって否定しても、ダレス発言の真実性は確かなものになっていった。鳩山主流派は困惑の極みに達し、これに対し旧吉田派などの反主流派は反撃に転じ、ソ連に屈服しようとした日本に、米国が頂門の一針を加えたものであるとして鳩山派を攻撃した。社会党などの野党は不当介入であるとアメリカを非難し、世論もまたアメリカの介入を不快視する声が高まってきた。
 こういう騒然たる空気のなかで重光は五日後の二十四日午後、再びダレスを訪れた。〔中略〕外務省首脳の衆知をあつめてサンフランシスコ条約第二十六条にかんする反論をまとめると同時に、ダレスの感情をやわらげるため、ソ連に領土を譲渡するときは関係国の意見を聞いたうえで決めるという趣旨の国際会議案に近い修正案も用意していた。
 〔中略〕しかし、ダレスは前日とは打って変わり別人のようにおだやかに重光を迎え、発言も慎重であった。
「日ソ交渉にたいする問題はなかなか複雑な問題で、米国としても、いろいろな観点から考慮しなければならない。目下ワシントンで検討させているので、私がここで即答することは好ましくない。帰国してよく検討したうえ、米国の回答を東京に送ることにしたい」
 〔中略〕最も心配していた沖縄についてはダレスの口からはついに沖縄のオの字も出なかった。〔中略〕
 一回目と二回目でダレスの態度がまるで変わったのは、大統領選挙を間近にひかえていた米国政府が日本の対米感情の悪化を心配した結果だろうとみられた。沖縄はクナシリ、エトロフと違って日本の潜在主権が認められている。その沖縄を領有する立場にあると米国からいわれたのでは、日本の国民感情としては素直に受け入れるわけにはいかない。対米感情が悪化し、日米関係にヒビが入るおそれもある。それを憂慮する米本国筋から注意があったのか、最初の発言の理論的趣旨は一応つらぬきつつも沖縄云々は口に出さなかったのだろう。
 〔中略〕
 国内ではなおダレス発言の真偽とその真意をめぐって論争がつづいており、政府側は依然として「公電がこない」をくりかえすだけで容易に認めようとしなかった。しかし当の本人のダレスはスエズ会議が終わってワシントンに帰り、二十八日の記者会見で内外の記者団にハッキリ肯定した。ダレスはサンフランシスコ条約第二十六条を説明したあと、
「米国初めサンフランシスコ条約に調印した諸国は、南樺太と千島にたいするソ連の主権を認めるわけにはいかない。また米国は極東における国際平和と安全にたいする脅威が存在するかぎり、沖縄における諸権利を行使しつづける方針である。私は以上のことをロンドンで重光外相にしておいた」
 と再び沖縄の名前を持ちだした

 これがロンドンでのダレス警告の経過であるが、米国が自発的に警告を発したのか、あるいは他に仕掛人がいたのか、いまなお謎と疑問が残されている。(久保田、前掲書、p.159-162)


 ここで久保田は明らかにしていないが、このダレス発言をスクープしたのは久保田自身だそうである。和田春樹『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990)によると、久保田にリークしたのは松本だという(p.209)。

 さて、このように、「ダレスの恫喝」は、当時広く報道されて、国会審議でも問題となった事案であった。
 しかし、サ条約第26条を根拠とした米国による沖縄領有などという事態が、現実に有り得たのだろうか。
 私にはすこぶる疑問に思える。

 条文には
「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」
とあるから、確かにそういう解釈も成り立たないことはない。
 しかし、「この条約の当事国」とは、わが国と米国だけではない。他に44か国が批准している。それらの国々の「利益」はどうするのか。それを抜きにして、何故一足飛びに米国が沖縄を領有するという話になるのか。
 また、沖縄と、国後及び択捉では、面積も地理も異なるが、これを「同一の利益」と言えるのか。
 さらに、久保田も書いているように、サ条約は、沖縄におけるわが国の潜在主権を認めた上で、米国による信託統治を認めている。わが国が同条約で放棄するとしたが帰属が定まっていない国後及び択捉とは異なる。

 「ダレスの恫喝」を受けた直後の重光や外務省の反応を久保田『クレムリンへの使節』はこう描いている。

 宿舎グロウナー・ハウスには重光全権団のほか加瀬国連大使、西駐英大使、西村駐仏大使、武内駐白大使、大江スウェーデン公使らが集まっており、とくに西村駐仏大使はサンフランシスコ条約締結のときの条約局長である。参集した首脳部は額を集めて対策を協議した。〔中略〕
 第二十六条のとくに後半部分が問題となる。西村らの意見はこの部分は賠償や通商などについての規定であって、領土問題には適用できないし、且つサンフランシスコ条約締結時から三年以上を経過しているのでダレスの言い分は筋がとおらないということに一致した。(p.158)


 それが常識的な解釈だろう。

 仮にわが国がソ連の2島返還を受け入れて平和条約を締結し、米国がダレスの言ったとおりサ条約第26条を根拠に沖縄を領有したら、どんな事態が生じただろうか。
 国民の対米感情は著しく悪化したに違いない。悪くすれば、社会党への政権交代が起きたかもしれない。日米安保条約(旧)だってどうなったかわからない。
 それは米国にとって望ましいことではなかっただろうし、だからこそダレスも重光への態度を変えたのだろう。

 また、当時既に国民は2島返還での平和条約締結には否定的だった。「ダレスの恫喝」は4島返還論を後押しするものだった。だからこそ、松本が書いているように、騒動は鎮静化したのだろう。

 それに、ではその後の政権は、「恫喝」を真に受けて、沖縄を米国に領有されることを恐れて、4島返還論に固執せざるを得なかったのだろうか。本当は2島返還で妥結してもいいと考えていたのに、米国の意向だけを考慮して? 政治家や官僚の口からそんな話が語られたとは聞いたことがない。

 そして、米国は沖縄を「恫喝」から16年後の1972年にわが国に返還したのである。
 ならば、もはや米国の沖縄領有の可能性を心配する必要はない。わが国が2島返還による平和条約締結が望ましいと考えるなら、遠慮なくそうすればよい。
 だが、沖縄返還からもう40年以上が経過しているのに、そうした声が主流にならないのは何故なのだろうか。

 政府・自民党によるこれまでの「北方領土」返還の宣伝によって、国民が4島返還でなければ妥結してはならないと思い込まされているからだろうか。そのように主張する人もいる。
 確かに、宣伝の効果というものはあるだろう。しかし、それだけではないのではないか。
 大前氏だけでなく、4島返還論は米国の押しつけであるとか、2島返還で妥結してもよいといった声は、少数ではあるが昔からあるにはあった。にもかかわらず、それが多数の支持を得られないのは何故だろうか。
 それは、4島返還論が、歴史的経緯に照らして十分根拠があるものであることが、広く理解されているからではないだろうか。
 そして、抑留者の返還や漁業問題、国連加盟といった重大問題があった国交回復交渉当時と異なり、それらが日ソ共同宣言により一応解決したこんにち、国後、択捉の2島の返還を放棄してまでロシアと平和条約を締結することにより得られる利益に政治家も大多数の国民も価値を見出せない、ただそれだけのことではないだろうか。

(続く)
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領土問題をめぐる議論のウソ(1) 「ダレスの恫喝」でわが国は4島返還論に転じたというウソ

2016-03-20 23:51:24 | 領土問題
BLOGOSで

大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】

という記事を読んだ。PRESIDENT Online から転載されたものだ。

 この記事で、大前氏は、

日本人の多くは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後にソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法に占拠し、以来、実効支配しているのだ、と思い込んでいる。しかし史実は異なる。


と述べた上で、北方領土問題の経緯を語っている。
 しかし、氏が語る経緯の中には何点かウソが含まれている。

 大前氏に限らず、わが国の領土問題をめぐる議論において、ウソが語られることがあるのを私はこれまでしばしば見てきた。
 領土問題については、何もわが国政府の見解が唯一絶対ではない。さまざまな主張があってよいと思うが、しかしウソはいけないだろう。
 そこで、とりあえずこの大前氏の記事中のウソをいくつか指摘しておこうと思う。

 まず、北方領土については、2島(歯舞諸島及び色丹島)の引き渡しで日ソが合意寸前だったが、米国がそれを阻止しようとわが国に4島(歯舞、色丹、国後、択捉)返還論を強要したため、こんにちまで領土問題が残ることとなったという主張について。
 大前氏の記事にはこうある。

1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ。

しかしアメリカがこれに難色を示す。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。


 しかし、この説明は正しくない。
 重光-ダレス会談の前に、重光葵外相はソ連との国交回復交渉で、2島返還は受け入れられないと表明しているからだ。

 日ソ国交回復交渉は1955年1月、その前月に内閣を発足させた鳩山一郎首相のもとにソ連の駐日元代表部(占領期にソ連の代表部が置かれたが、サンフランシスコ平和条約の発効により法的根拠を失い「元」代表部と称された)首席代理のドムニツキーが書簡を届けたことに端を発した。
 ドムニツキーは当初外務省に接触を図ったが、重光葵外相により拒否されたため、やむなく鳩山首相に接触したのだった。

 1955年6~9月と、ロンドンで、松本俊一(衆議院議員、元駐英大使、元外務次官)全権とヤコブ・マリク(駐英大使、元駐日大使)全権らによる交渉が行われたが、領土問題で交渉は決裂した。領土については交渉中に日本側に方針転換があったが、これについては別の機会に述べる。
 1956年1~3月に松本とマリクによる第2次ロンドン交渉が行われたが、進展はなかった。
 1956年4~5月には河野一郎農相が訪ソし、漁業問題についてイシコフ漁業相と交渉し、日ソ漁業協定を締結した。しかし協定の発効は国交回復が条件であり、7月末までに国交交渉を再開することとなった。
 日本側の全権には重光外相が就くこととなった。
 松本の回想録によると、鳩山首相はソ連との国交回復に非常に熱意を持っていたのに対して、重光外相はすこぶる熱意がなかったという。
 重光の訪ソに同行した産経新聞の久保田正明が後に著した『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)によると、外務省では彼らの頭越しに交渉を開始した鳩山への反発が強く、交渉への態度はおおむね重光と同様だったという。
 重光は第二次世界大戦中にも外相を務め、戦後A級戦犯の1人に指名され、東京裁判の被告の中では最も軽い禁錮7年の刑を宣告されたが、重光がA級戦犯に指名されたのはソ連の要請によるものであったという。

 同年7月に重光は首席全権としてモスクワに赴き、シェピーロフ外相と交渉した。松本も全権として同行した。
 重光はソ連側に対して強硬姿勢をとったが、領土についてソ連側から妥協を引き出すことはできなかった。
 すると重光は豹変し、やむを得ずソ連案(歯舞、色丹の引き渡しによる平和条約締結)をそのまま呑む以外にはない、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと言い出した。
 松本の回想録によると、松本は、第1次ロンドン交渉において重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受けてこれまで苦労してきた経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対し、重光もしぶしぶ請訓することに応じたという。
 請訓を受けた鳩山政権の閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。交渉はまたも決裂した。

 大前氏の言う、ダレス米国務長官がロンドンで重光に迫ったというのは、この後のことである。
 この交渉の帰路、重光はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄り、米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明した。
 その際、松本の回想録によると、次のような出来事があったという。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(朝日選書)、2012、p.125-126。太字は引用者による。以下同)


 いわゆる「ダレスの恫喝」である。
 ここでダレスが挙げているサンフランシスコ条約第26条とは次のとおり。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 たしかにそう主張し得る余地がなくもない。
 しかし、このダレスの発言は、松本が述べているように、既に鳩山首相が2島返還での妥結を拒否した後のことである。ダレスにこう言われてわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。大前氏の説明は誤っている。

 また、大前氏は「ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った」と述べているが、「一括」とはダレスは言っていない。ダレスの主張は、国後、択捉の要求を取り下げるべきではないということだろう。
 ここにもウソが見られる。

 それに、このダレスの沖縄についての主張は、果たしてどれほど現実味があった話なのだろうか。
 それは、別の機会に述べたい。

 私がこのダレスの一件についてブログで記事を書くのはこれが初めてではない。

 松本の回想録『モスクワにかける虹』(朝日新聞社、1966)が『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』と改題されて朝日新聞出版から2012年に刊行された時にも書いた。

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

 その前にも、2009年に、mig21さんというブロガーが大前氏と同様の主張をしていたのを見た時にも書いた。

北方領土問題を考える

 こんなことは、北方領土問題について、少し突っ込んで調べていれば、誰でも気がつくことだ。

 大前氏が今回と同様の主張をしているのは、以前にも見たことがある。おそらく、同じ話を何度も繰り返しているのだろう。
 しかし、北方領土問題について少し知識があれば、「ダレスの恫喝」でわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではないことはすぐにわかる。
 だから、大前氏がこれまでにもその点について指摘を受けることはおそらくあったはずである。
 にもかかわらず、氏は何故誤った主張を繰り返すのか。
 それは、

1.誤りの指摘を受け入れて、主張を再構成するよりも、同じ主張を続けた方が楽だから

2.少々誤りが含まれていようが、米国がわが国に4島返還論を強要したという話にした方が、話としてウケるから

ということもあるだうが、さらに

3.国民にわが国の対米従属への疑問をもたせるという政治的目的のためには、多少の誤りなど問題ではないから

ではないだろうか。

 しかし、ウソに基づいた政治的主張は、結局その同調者の首を絞めることになるのではないだろうか。

 大前氏のような著名人に誤った主張を繰り返し発信されれば、私のような無名ブロガーの影響力などたかが知れている。
 それを指摘する側も、何度も同じ主張を繰り返さざるを得ないだろう。

続く
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再び北方領土問題を考える(下) とるべき方策

2013-03-12 23:07:11 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 和田氏の論はさておき、では今後わが国はこの問題にどう対応すべきなのか。
 私の考えは以前の記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で簡単に述べましたが、もう少し詳しく説明したいと思います。

 1956年の日ソ共同宣言で歯舞、色丹の引き渡しが規定され、2001年のイルクーツク声明などで日露がこの宣言の有効性を確認している以上、問題は結局のところ、択捉、国後の2島の扱いに尽きます。
 そして、この2島を実効支配しているのはロシアなのですから、わが国がそれを容認するのか、これまでどおり拒否するのか、あるいは中間点を探るのかということになります。
 そして、交渉事でこちらの主張が100%通ることはまず有り得ませんから、何らかの妥協を余儀なくされることになるのでしょう。

 ここで、大事なことがあります。
 わが国はロシアと妥協することにより、何を失い、何を得られるのか。

 以前にも当ブログで二度紹介したことがありますが、日中戦争期に外務省東亜局長を、大東亜戦争末期に駐ビルマ大使を務めた石射猪太郎は、回想録『外交官の一生』の結びで、外交について次のように述べています

 私は外交というもの、また霞ヶ関外交の姿を、いつも卑近な言葉で人に説明した。
 外交に哲学めいた理念などあるものか。およそ国際生活上、外交ほど実利主義的なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。理念も何もない。外交の意義はそこに尽きる。問題は、どうすればプラスを取り、マイナスから逃れ得るかにある。外務省の正統外交も、これを集大成した幣原外交も、本質的にはこの損得勘定から一歩も離れたものではないのである。
 この意味において、外交は商取引きと同じである。一銭でも多く利益を挙げたいのが商取引きだが、そこには商機というものがある。市場の動き、顧客の購買力、流行のはやりすたり、それらの客観情勢によって、売価に弾力を持たせなければならない。売価を高くつけ得ないために、時によっては見込んだ利益を挙げ得ないのもやむを得ない。あるいは流行おくれのストックに見切りを付け、捨て売りにして、マイナスを少なくするのも商売道であり、薄利多売も商売の行き方である。
 外交もこれと同じなのだ。国際問題を処理するに当たって、少しでもわが方に有利に解決したくとも、自国の国力、相手国の情勢、国際政治の大局を無視して、無理押しはできない。彼我五分五分、あるいは彼七分我三分の解決に満足し、マイナスをそれ以上背負い込まない工夫も必要であり、そこに妥協が要請される。〔中略〕
 要するに外交の行き方は、商売の行き方と全く軌を一にする。外務省正統外交の本領は、国際社会に処して算盤を正しく弾き、正しい答えを出そうとするところにあった。まどろかしく見えても、正直で地味な行き方が、総合的に大きなプラスをわれに収めるゆえんだと信ぜられた。が、軍部や政党や右翼は、目前の利益をのみ望んで、二プラス二イコール五、あるいは五マイナス三イコール三の答えを外交に強要した。こうした強要に屈した外交が、強硬外交と持て囃され、あくまでこれに屈しなかった幣原外交が、軟弱外交中の軟弱外交と烙印された。


 ある意味身も蓋もない主張ですが、これを私は支持しています。
 外交に理念を掲げるべきではないと言うのではありません。理念を掲げることにも意味はあるでしょう。理念を掲げたからこそ国際連合が成立しました。理念を掲げたからこそソ連を崩壊させることができました。しかし理念にとらわれすぎて、利害を軽視してはなりません。
 では、わが国は領土問題でロシアと妥協して、それによって何を得られるのか。

 これはロシア側も同じです。そしてロシアは実効支配しているだけに、妥協に踏み切るハードルはより高いでしょう。ロシアは、既に領土に編入し、近年開発も進めつつある択捉、国後の2島を、敢えて日本に返還することにより、代わりにどんな利益を得られるというのでしょうか(こちらのサイトでは、ソ連末期における、返還はソ連の利益にはつながらないとする学者の見解が紹介されています)。

 端的に言って、この点で両国の折り合いがつかないから、この問題がこんにちまでに至っているのでしょう。
 未解決の原因はここにこそあるのであって、決して、オコジョさんがおっしゃるような、米国の思惑やら、官僚の頑迷固陋といった話ではないと私は考えます。

 オコジョさんは「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」でこう述べています。

 北方領土返還運動は、税金で賄われています。北方領土問題対策協会は独立行政法人です。最近ハヤリの言葉を使えば「シロアリ」の一種です。北方にも生息できる種類のしぶといシロアリなのでしょう。
 このシロアリとその周辺に巣食うグループが、国民の利益など見向きもせずに、自らの利権維持に努めていることが、問題をこじらせています。


 こうした主張は北方領土問題に関する議論において時々見かけますが、私はあまり意味がないと考えています。
 何故なら、利権などというものは、何にだってついて回るからです。
 仮に、2島返還論が国策となれば、それはそれで新たな利権が発生することでしょう。
 利権云々というのは、既存の政策を批判するための方便にすぎないと私は見ています。
 政策は、利権の有無ではなく、その政策自体によって是非を判断すべきです。

 ところで、ここでオコジョさんは言っています。
「国民の利益など見向きもせずに、自らの利権維持に努めている」
 国民の利益と北方領土返還運動は相反するというのです。
 本当にそうなのでしょうか。
 では、仮に4島を諦め、2島返還で妥協するとしたら、どのような「国民の利益」が得られるのでしょうか。
 この点は、オコジョさんの記事では明確でありません。
 オコジョさんはしばしば和田春樹氏を引用しておられますが、前回紹介した和田氏の「日露共生の島、北の夢の島」といった構想に賛同されるのでしょうか。

 以前私が「北方領土問題を考える」という記事を書くきっかけとなったmig21さんは、こんなことを述べておられました

関係を築くことで得るメリットに思いを馳せるべきでしょう。
資源が豊富で国民の教養も高く、広大な国土を持つロシアとの関係強化は大いにメリットがあります。

既に民間企業はその関係強化を進めています。
今やロシアは輸出大国日本の大得意。
ここ数年での日本からの輸出額は10倍以上になっています。

昨今の世界的不況でしばらくは一息つきそうですが、この流れは今後も止まらないはずです。

加えてあまり知られていませんが、日本に対するロシアの感情は非常によいのです。
武道、食事、文学などの日本文化熱はもはやブームでない普遍的なものになりました。
さらにゲームや漫画などニューカルチャーも若者中心に高い支持を集めています。

大学では日本史や日本文学を研究する講座が急増し、Webサイトでは日本文化を学ぶような愛好者サイトの交流も盛んです。

日本を訪れるロシア人も増え、秋葉原などの電化製品免税店ではロシア語の看板も見られるほどです。


 現状でそれほど交流が進んでいるのであれば、別に平和条約は要らないのではないでしょうか。
 ロシアの対日感情は非常に良いのかもしれませんが、わが国の対露感情は良くありません。その原因の多くはソ連時代にありますが、現ロシアがそれを改めないのであれば、その感情は引き継がれていくことでしょう。
 わが国がロシアによる領土の不当な奪取を容認することが、対露感情の好転につながるとも思えません。

 一方で私は、前々回で述べたような心情と経緯から、択捉・国後には固執すべきという思いが捨てられません。
 以前にも紹介しましたが、久保田正明『クレムリンへの使節』は、新訓令により第1次ロンドン交渉を妥結できずに帰国した松本俊一に対して重光葵外相が「君、日ソ交渉が妥結しなくて、日本として何か困ることがあるのかね」と言い放ったと伝えています。
 私はこの箇所を読んで慄然としました。日ソ交渉を妥結して国交を回復しなければ、なお残されている抑留者の送還が進まない。漁業問題も解決しない。そして国連にも加盟できない。困ることだらけではないか。重光は、『昭和の動乱』などを読む限り、非常に知力に優れた人物なのだとは思いますが、どこまでも天皇の外交官であって、民主制の下での政治家ではなかったのだなと感じました。
 しかし、ロシアとの間に国交があり、それなりに経済関係も交流もある現在、このままで何が困るのでしょうか。

 オコジョさんが言及している、『北方領土問題』(中公新書、2005)の岩下明裕・北海道大学スラブ研究センター教授は、同書でフィフティ・フィフティによる解決案を呈示していますが、一方でこうも述べています。

重要なことは、私たちが目指し続けてきたゴールそのものが、果たして実現可能なものだったかどうかを忌憚なく検討することだろう。〔中略〕
 もし、ソ連やロシアが四島返還にかなり踏み込んだ姿勢を何度も示したことがあり、日本外交の粘りや駆け引きが不足したからこそ、今まで返還にこぎつけられなかったとすれば、今後も戦術を練り直し、返還運動に向けて国民の声をより集約していくことで事態を動かすことは十分なしうる。しかし、私たちのこれまでの努力とは裏腹に、私たちが一方的に幻想を抱き続けてきただけであったのならば、私たちは今後のアプローチを再検討すべき時期にさしかかっていると思われる。
 もし後者であれば、私たちは四島返還の早期実現が容易ではないことを率直に認めることから再出発すべきである。その再出発において、四島返還を堅持するとしよう。その場合、たとえすぐ返ってこなくてもいいから、旗は降ろさない。四島が返ってくるまで何世代かけてもがんばり抜こう。ロシアと平和条約を結ぶことなど気にかけることもない。とにかく島を返還させることが、日本外交のトップ・プライオリティだ。こう決意を新たにしたらいい。ただし、現状維持(つまりロシアの実効支配とそれに伴う国境線の未画定状態)がこれからも長く続くことを私たちは甘受しなければならない。その状態が今後続いても、それが国益にかなうと言い続けなければならない。だが惰性によって「思考停止」に陥り、これまでの方針を念仏のように繰り返すことだけはもう止めよう。そして、四島返還に向けた新しくかつ具体性を伴ったプログラムとそれが実現しうる道筋を探そうではないか。私も喜んでその隊列に加わりたい。
 私個人は四島返還に向けての国民の意思確認ができ、かつそれが国益にかなうことが説得的に説明できるのであれば、長期戦を覚悟の上、旗を掲げ続けるのも合理的な一つの選択肢だと考える。〔中略〕双方が納得しえないかたちでの中途半端な妥協をするよりはましだろう。中途半端なかたちで譲ったり譲られたりすると、未来の報復への口実にされる。〔中略〕したがって、今、フィフティ・フィフティに基づく政治的妥協を決断するのであれば、どうして妥協をするのか、なぜこのラインで国境を画定するのか。その意味を徹底的に日ロ双方でつめる必要がある。そして、その結果が「互いの勝利(ウィン・ウィン)」だと国民に説得できないかぎり、将来に禍根が残る。未来への「借金」を背負うくらいであれば、無理に動かさずに惰性に応じて「思考を停止させ」、展望がないままに四島返還を訴えた方がまだましだ。(p.198-200)


 岩下氏が2006年に関西大学法学研究所で行った講演の記録を読むと、単純な対露柔軟派、2島返還論者と見られることを迷惑がっていることがわかります。

 また、オコジョさんが以前「在京英国大使館極秘電報公開事件」を引用された丹波實・元駐露大使は、『日露外交秘話 増補版』(中公文庫、2012)に収録された2012年5月24日付読売新聞への寄稿「北方領土交渉――四島返還要求は正義のため」で、次のように述べています。

重要なのは、この時代〔引用者註・エリツィン・プーチン時代〕を通じ、日本が四島返還を求めるのは歴史を通じて正義を実現するためであることを忘れ、二島返還論、二・五島論、三・五島論、面積折半論、二+αなど、バナナのたたき売りのような外交をやってきたことである。こういう人たちの意見を聞きたい。尖閣をどうするのか、竹島をどうするのか。これらの問題も折半論で解決するのか。
 最近入ってくる情報では、日本の対露・対中外交の現状に東南アジア諸国・モンゴルなどの国々が失望しているという。日本は、露中に対して歴史の正義を求めて行くべし。国家にとって、領土・領海・領空の確立は国家存立の座標軸であり、その基礎を軽々しく動かせばアジア諸国のみならず、米欧をはじめとする全世界に軽蔑されることになる。日本人はそんな日本を望まないはずである。
 かつて英国の老政治家は、この世に永遠の友も永遠の敵もいないと言った。国際情勢は動くのだ。今後のロシア、中国、欧米・ロシア関係など世界は動いて行く。焦らず、慌てず、諦めず――。日本はじっくりと腰を落とすべきだ。今は忍耐と我慢の時代である。(p.375-376)


 領土の返還要求という言わば私事が「正義」とはいささか面映ゆい気もしますが、強盗犯から被害品を取り戻すことは単に私益ではなく社会秩序を維持するという公益でもあるのですから、確かにそう言えるでしょう。

 久保田正明『クレムリンへの使節』は、重光外相が2島返還での妥結を試み鳩山一郎首相に拒否されて失敗に終わった第1次モスクワ交渉の際の新聞の論調を紹介しています。2島返還でもやむなしとして早期妥結を主張した読売新聞は少数派で、毎日新聞、朝日新聞、産経時事はソ連案は受け入れられないと主張し鳩山の拒否を支持したとしています。そのうちの朝日についての記述に、

朝日は重光が羽田を発った翌日の七月二十七日、「ソ連首脳に与う」という社説を掲げ、「領土問題について戦勝、戦敗ということで割り切ることは力は正義だという困った考えを肯定することになり〝力の政策〟以外の何物でもない。端的にいって、われわれは少なくともクナシリ、エトロフ両島の問題についてはソ連はあっさり返還する寛大さを示すか、さもなくばアメリカが沖縄、小笠原にたいして潜在主権を認めたと同じような措置をとるべきだと信じている」と領土問題についてきわめて具体的な立場を明らかにした。〔中略〕イズヴェスチヤ〔引用者註・ソ連政府の新聞〕から非難されると七日「イズベスチヤに答える」として「われわれは国際情勢の正常化のためにも、日ソ両国のためにも早く妥結させなければならないと固く信じている。従って妥結を支持することにおいて誰にも後れをとるものではない。しかし日ソの正常化はあくまで永続的な基礎の上に建てなければならない。日本固有の領土であるクナシリ、エトロフの返還を主張する日本の要求に何の不法があろうか、また少なくとも潜在主権を認める措置を求める、われわれの主張のどこに非難すべきものがあろうか」と激しく反論した。(p.147-148、太字は引用者による)


とあります。
 至極当然の内容だと思います。

 こうした、言わば「正論」を放棄して、妥協に転じることによって、得られる利益とは何なのか。
 それが納得できるものでない限り、「正論」を放棄する必要などないのではないかというのが私の考えです。

 例えば、軍事力の増強を続ける中国は、周辺諸国の脅威となりつつあります。
 ロシアと中国は国境をフィフティ・フィフティで画定させましたが、最近の中国の歴史教科書には、清の時代に不平等条約によってロシアに広大な領土を奪われたとの記述が登場したといいます。中露国境の現状を中国がいつまでも容認し続けるとは限りません。
 仮に中国が日本にとってもロシアにとっても潜在的敵国となったとすれば、これに共同して対処しようという気運が生まれるかもしれません。その場合、未解決の領土問題を、中国の脅威に比べれば小さいことだとして、双方の妥協により解決して結びつきを強めようということになるかもしれません。
 そうした国際情勢の大幅な変化などによって、日露関係の強化が求められる事態にならない限り、この問題の解決は極めて困難ではないかと思われますし、そして未解決であってもそれはそれでかまわないのではないかとも思います。

 なお、私は、4島一括返還に固執する必要はないと思っています。もともと歯舞、色丹と国後、択捉とでは経緯が異なるのですから、国後、択捉の継続協議を前提に、日ソ共同宣言にのっとって歯舞、色丹を先行返還させるという選択肢も有り得ると考えます。あるいは、国後、択捉については、ロシアがわが国の潜在主権を確認した上で、現状を考慮した特殊地域とするといった方法もあるでしょう。
 しかし、歯舞、色丹の2島の返還だけで最終的解決とすることには反対です。

 私は、妥協によって得られる利益がわからないのでこのように考えますが、いや、現状においても、妥協することによって得られる利益は大きいはずだと考えられる方は、どうぞそう主張すべきだし、議論はオープンになされるべきだと思います。
 上記の岩下氏は、同書への反響の大きさから、のちに領土問題についての発言を自粛されたと聞きます。単純な対露柔軟派、2島返還論者と誤解されたことによる批判が原因だとしたら、悲しいことだと思います。

 また、私はこの地域に全く利害関係がないので、このように「正論」に固執できますが、旧島民や北海道民、漁業関係者といった言わば利害関係の当事者が、それ故に妥協を求めるのであれば、それを否定するつもりもありません。

 さて、オコジョさんは「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」の最後で、唐突に在日米軍の話を持ち出して、記事を締めくくっています。

親米右翼というのがインチキだとは、よく言われます。
 「カイロ宣言」やら「大西洋憲章」の「領土不拡大」の原則を持ち出して、ソ連の「北方領土」占領を非難する人たちがいますが、私は大きな違和感を覚えます。
 「領土的たるとその他を問わず、いかなる拡大も求めない」というのが大西洋憲章です。

 戦争前と比べて戦後にはどうなっていたか、の問題ですね。
 戦前、日本に米国の基地なんかありましたか。米軍の基地は、実質的に日本の中の米国領土です。仮りに領土そのものでないとしても、上の「その他」であることは否定できないはずです。

 北方領土の総面積は「5,036km2」です。
 対するに、米軍基地の総面積は、専用基地に限っても「308,614km2」、共同の使用可能な基地なら「1,011,359km2」になるのです。
 前者で60倍以上、後者なら200倍以上になります。

 戦前にはなかったものが、戦争が終わってみたらこれだけ存在するのです。
 60分の1に対するこだわりが、どれほど不自然なものか、しっかり認識する必要があると私は思います。


 しかし、米軍基地は敗戦による賠償として提供されたのではありません。わが国が新憲法によって非武装化されたため、それを補うものとして置かれたのです。旧日米安全保障条約に次のようにあります。

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。

 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。

 平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。

 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。

 よつて、両国は、次のとおり協定した。

第一条

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


 米国が日本の基地を独立後も維持することにしたのは、もちろん単に日本を護ってやろうという義侠心などからではなく、それが米国の極東戦略のために必要だったからでしょう。わが国の吉田茂政権もそれが国益であると考えたから、同意したのでしょう。
 そしてこれは条約ですから、どちらかの国の意向次第で廃棄することができます。現行の新安保条約には次のように定められています(太字は引用者による)。

第十条  この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。
 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。


 しかし、こんにちまで日米の歴代政権は「条約を終了させる意思を通告」することはありませんでした。わが国は民主制ですから、国民は在日米軍の存在を容認しているということになります。

 そもそも、「他のあれこれは、何ら本質的な問題ではありません。」と、サンフランシスコ平和条約でわが国が放棄した「千島列島」に択捉、国後が含まれるか否か以外の論点を切り捨てていたオコジョさんが、在日米軍に言及する際にはカイロ宣言を持ち出すのは実に不可解です。
 北方領土問題でサンフランシスコ平和条約以外の論点を持ち出すべきでないのなら、在日米軍問題で日米安全保障条約以外の論点を持ち出すべきではないでしょう。
 議論の必要に応じて論点を切り捨て、また必要に応じて持ち出す。ちょっとお付き合いし難い手法です。

 鳩山由紀夫が首相辞任後に述べたように、「日本の防衛を米軍という他国に依存していることが未来永劫続くのは、国のあり方としては望ましくない」とは私も思います。
 しかし、全く性質の異なるこの二者を同列に論じようとするオコジョさんの感覚が私には理解できません。

 固有の領土論を「単なる心情論」と一蹴するオコジョさんが、戦前にはなかった米軍基地は北方領土の60倍、200倍にも及ぶと心情論に訴えている。
 これは結局、単なる反米論の変形にすぎないのでしょうか。
 オコジョさんの北方領土問題に関する一連の記事の意図は、領土問題それ自体を検討することにはなく(別の記事では「「領土問題」は私たちとは無関係」とも言っておられます)、問題の発生には米国が関与しており、米国が日ソ関係をこじらせたこと、また在日米軍基地は北方領土よりもはるかに広大なわが国土を占めていることなどを指摘し、つまりは米国の存在こそがわが国にとって有害なのであり、米国を排除することがわが「国民の利益」であると思い至らせることにある。
 そんな印象を受けました。


 これで、オコジョさんの北方領土問題に関する一連の記事への論評を終わります。

(完)
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再び北方領土問題を考える(中) 千島列島の範囲をめぐる議論について

2013-03-06 20:48:58 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」は、まず、千島列島の範囲についての和田春樹氏の主張と、伊藤憲一氏との論争を取り上げています。
 私もこの論争を昔読んだことがあります。オコジョさんの同記事へのコメントでも述べましたが、これは和田氏が正しいのだろうと思いました。

 ただ、オコジョさんの

 前年の国会質疑を見ると、なんだか不思議な気持ちもします。
 伊藤は、公衆の面前で“論破”されるべく登場した感があります。しかし、その辺の事情は後日までの課題としておきましょう。


この箇所は、何度読み直しても意味がわかりません。「前年」とは、和田氏の論文が発表される前年の1986年ということになるのでしょうが、この年に何か北方領土に関する重要な国会質疑があったとは聞きません。
 どなたかおわかりになる方がおられたら、お手数ですがご教示願います。

 しかし、そもそもこの範囲の話は、さして重要ではないと私は考えます。
 何故なら、わが国は、択捉、国後がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれていない「から」、その返還を要求しているのではありません。
 前回私が述べたように、まず、固有の領土たる択捉、国後までをも奪われることは承伏しがたいという心情があり、それ故に返還を要求しているのです。放棄した「千島列島」に含まれていないという主張は、その要求を理屈づけるための方便にすぎません。
 
 そしてソ連、ロシアも、択捉、国後はわが国が放棄した「千島列島」に含まれる「から」、返還に応じないのではありません。
 ソ連は単に戦争による占領地を自国領に編入したにすぎません。自国が締結もしていないサ条約を持ち出してわが国が放棄したと主張するのは、占領と編入を正当化するための方便にすぎません。

 それに、択捉、国後がサ条約で放棄した「千島列島」に含まれるとしても、それ故にわが国がその返還をソ連に要求できないというものでもありません。現に、和田氏はそのような主張をしています。

 私は最近まで、和田氏は2島返還論者なのだと思っていました。和田氏は、択捉、国後はサ条約で放棄した「千島列島」に含まれると主張しているのですから、論理的にはそうなるはずです。
 現に、氏の論文集『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990)に収録された最初の論文「「北方領土」問題についての考察」(初出は『世界』1986年12月号)を確認すると、わが国は択捉、国後をサ条約で放棄したことを認めた上で、北方4島を(1)非軍事化(2)資源保護(3)共同開発(4)自由往来の4原則に基づいてソ連と協力経営し、択捉、国後はソ連領、歯舞、色丹は日本領とすると提案しています。2島+アルファ論です。

 ところが、和田氏の近著『領土問題をどう解決するか』(平凡社新書、2012)について朝日新聞に掲載された書評には、氏は3島返還論を唱えているとありました。どういうことなのかと思い同書を確認してみると、氏はこんなことを言っています。

 長い間日本は北方四島は日本の領土、「固有の領土」なのだから、ロシアは「不法占拠」をやめて日本に返せと要求してきて、拒絶されてきたのです。「固有の領土」論をすて、日ソ共同宣言を基礎にすれば、次のように主張するほかありません。
 北方四島はもとは私たちの国の領土であった。そのことは一八五五年の条約でロシアにも認められたところである。しかし、六五年前に戦争に負けて、ロシアを含めた連合国に降伏したあと、あなた方に奪われてしまった。〔中略〕たしかにわれわれが日露戦争で南樺太まで取ったのは、取りすぎだったろう。しかし、だからといって、こんどはサハリン(樺太)もクリル諸島も全部ロシアが取るというのは、取りすぎではないか。「日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して」二島を引き渡してくれる〔引用者註・日ソ共同宣言を指す〕というなら、もちろん受け取ろう。残りの島はサンフランシスコ条約で放棄した島だが、日本としてはロシアが領有することにいまさら異論はない。日本としては、ロシア領と承認しよう。まず、こういわざるをえないのです。(p.178-179)


 では、何が3島返還なのかというと、

しかし、ここでとどまるべきではありません。
 共同宣言の文言は「日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して」二島を「引き渡すことに同意する」となっているのですから、日本としては、この考えに立って、ロシア側に、もう一島、国後島の引き渡しに同意することを要請することができると思います。(p.179)


 では何故国後にとどまり択捉は含まないのかというと、

もとより択捉島の引き渡しまでも要請できないという文言ではありません。しかし、ロシア側は二島引き渡しが最大限だと一九五五-五六年交渉で言い続けたのですから、あたらしく要請するとすれば、五六宣言から出発して、三島を引き渡してくれないかと交渉するのが理性的な方針でしょう。
 択捉島はサンフランシスコ条約で放棄してしまった領土なのですから、ロシア化がもっとも進んでいるこの島について、敗者復活戦を戦うことは無理なのです。択捉島については断念せざるを得ません。
 国後島の引き渡しを要請するなら、それが日本国民の強い要望であること、そして、日本の利益にどれほどかなうかということをしっかり議論を組み立てて説明し、交渉を行わなければなりません。〔中略〕場合によっては、国後島をロシアと日本で分けるという案の検討を求めることも可能です。(p.179-180)


 こう説明されても、何故国後と択捉をこのように分けて取り扱わなければならないのか、私にはよくわかりません。
 そして、これは論理の組み立て方がやや異なるだけで、実質的には「固有の領土」論と何が違うのでしょうか。

 さらに和田氏は、2009年に行われたインタビューでは、1990年代後半から2000年代初めは4島返還論だったとも述べています。

 そこで96年10月16日の日ソ共同宣言40周年に際して、朝日新聞に談話をもとめられたとき、私は「国民が4島返還を望むのならば、4島を返してもらうようにどういう道があるか、考えたい」と述べました。それまで私は2島返還、4島共同経営を提案してきたのですが、4島返還にベースを変えたのです。これによって外務省とは、ますます関係が良くなったということですね(笑)。


 2+アルファ→4→3 と変わってきたわけです。

 この間、わが国はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したという和田氏の主張は一貫しています。
 にもかかわらず、具体的な返還論となると、何故このようにコロコロ変わるのか。
 それは、この千島列島の範囲をめぐる議論が、前回も述べたように、結局のところ、問題の核心とは無関係だからでしょう。

 それでも、これまでとは違った和田氏流のアプローチにより、ロシアからもこれまでとは違った柔軟な対応が引き出せるのであれば、試みる価値はあると思います。
 しかし、本当にそのような可能性があるのでしょうか。
 オコジョさんがおっしゃったように、「単なる心情論」「過去へのノスタルジーが、外交交渉の根拠になるはずもない」として一蹴されてしまうのではないでしょうか。
 現に和田氏も次のようにも述べています。

 国後島の引き渡しを要請して交渉して、ロシア側がとても渡せないと最終回答してきたら、それ以上、交渉し続けることはできないと思われます。そこで次の提案としては、国後島はロシア領ということでいいから、日本に渡してくれる色丹島と一緒にして、日露共同経営、共同開発の地域にしないかという交渉を行うのがよいと思います。「三島引き渡し案」から「二島引き渡し、二島共同経営案」に移るということです。
 すでに述べたように、私は一九八六年に「二島返還、四島共同経営」を提案したことがあります。現在日露間では、四島共同開発を進めるという案が漂っているようです。しかし、二島引き渡しということを棚上げにして、四島の共同開発を進めると、二島引き渡しが消えてしまうという事態が生じる恐れがあると見ています。(『領土問題をどう解決するか』(p.180-181)


 和田氏はこの「二島引き渡し、二島共同経営案」の具体的な構想を詳しく語り、最後にこう締めくくります。

 最終的には、クナシリ島と色丹島は、ロシアと日本がそれぞれ領有する島ですが、ロシア人と日本人がまざりあって暮らす日露共生の島、北の夢の島になるのが望まれます。これが現状維持からはじめて、異なる人々の利害の調和にたどりつく道です。北方四島問題の解決とはそういうことではないかと私は考えます。(p.184)


 まるでユートピアですが、こんなことが本当に可能なのでしょうか。
 和田氏の過去の言動と、その後に起こったことをいくつか思い起こすと、疑問に思わざるを得ません。

 和田氏は、ソ連のゴルバチョフ共産党党書記長の時代に、ペレストロイカを礼賛し、新しい社会主義の可能性を説きました。しかしゴルバチョフはクーデターで軟禁され、クーデター失敗後も求心力を取り戻せず、やがてソ連は崩壊しました。
 金日成批判本を日本で出版した亡命北朝鮮人について、実在しないのではないかと主張しました。しかしソ連崩壊後、その実在が明らかになりました。
 謝罪と補償による韓国との和解を説き、村山内閣が設けたアジア女性基金の専務理事、事務局長を務めました。しかし、こんにちでも相も変わらず日本は謝罪を要求され続け、慰安婦問題は未だ日韓の火種となっています。
 北朝鮮による日本人拉致について懐疑的な主張を続けていました。しかし金正日自身が拉致を認めるに至り、氏の面目は潰れました。

 この人はしばしば将来を見誤っていると思います。北方領土問題においても、同様の事態が生じないとは限りません。

続く

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