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日々の思いをたまに綴るブログ。

オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(4)

2010-10-29 00:00:57 | 生物・生態系・自然・環境
 また、オオサンショウウオの交雑種についての記事が朝日新聞に掲載された。
 25日の夕刊の1面トップだった。
 それほど注目に値する問題だろうか。

 アサヒ・コムの記事から引用する。

中国種と交雑、絶滅危機 賀茂川のオオサンショウウオ

 国の特別天然記念物「オオサンショウウオ」が生息する京都・賀茂川で、中国原産のオオサンショウウオとの交配が進み、日本固有種が絶滅する可能性があることがわかった。京都大の松井正文教授(動物系統分類学)の研究グループが調査した。外来種と分離するなどの対策の必要性が指摘されている。

 松井教授が8月までの1年間、計79匹のオオサンショウウオを賀茂川で捕獲し、DNA型を鑑定した。その結果、揚子江流域などに生息する中国原産と同じ遺伝子型のチュウゴクオオサンショウウオが9匹確認され、チュウゴクオオサンショウウオなどの外来種との交雑種が67匹を占めた。日本固有種は3匹(4%)だけで、うち2匹は体長4、5センチの幼生だった。

 研究グループによると、2008年の調査では捕獲した36匹のうち固有種は15匹(42%)いたが、09年は50匹中14匹(28%)に減っていた。

 チュウゴクオオサンショウウオはペットや食用として1970年代に日本に輸入され、その後、野生化して各地に広がったと見られる。過去の調査では、徳島県でも確認されている。

 チュウゴクオオサンショウウオは固有種と比べて動きが活発で、エサを食べる量が多く、成長が早い。このため、賀茂川では固有種が外敵から身を守るために隠れる場所やえさを奪われているとみられている。また、固有種が幼生の段階で魚やカニに食べられる危険も高まっているという。

 松井教授は「このままでは交雑種が増えるばかりだ。行政と研究機関が連携し、日本固有種以外のものと分離するなどの対策が必要だ」と指摘する。(渡辺秀行)
ウェブ魚拓



 また松井正文教授か。

 何度も言うが、交雑種が増えると何が問題なのか私には理解できない。
 わが国のオオサンショウウオとチョウゴクオオサンショウウオは、別々の祖先から進化してたまたま似たような形質を備えたわけではあるまい。
 同じ祖先をもつ者が、異なる地域で長期間世代交代を経ることにより、若干異なる形質を獲得するに至ったのだろう。
 だからこそ、交雑が可能なのだろう。

 交雑の何が問題なのだろう。
 わが国のオオサンショウウオの独自の形質、あるいは遺伝子が失われるから?
 しかし、交雑しても遺伝子が消滅するわけではない。それは次世代に受け継がれていくのである。
 そして、より環境に適応したタイプのオオサンショウウオが残ってゆくのであろう。
 それはオオサンショウウオという生物の存続にとってむしろ有利なことではないのだろうか。

 上記のウェブ魚拓のグラフを見ていただきたい。
 わずか2年でこれほどまでに交雑種の割合が増加するとは私には信じがたいのだが、この変化が賀茂川におけるオオサンショウウオの交雑状況の実態を本当に反映しているのだとすれば、ここまでくればもう交雑種の増加を抑えることは不可能だろう。
 
 松井教授は「「このままでは交雑種が増えるばかりだ。行政と研究機関が連携し、日本固有種以外のものと分離するなどの対策が必要だ」と指摘」しているというが、さてどうやって分離するというのだろうか。
 分離されるのはチョウゴクオオサンショウウオとその交雑種だろうか、それとも日本固有種のオオサンショウウオだろうか。
 数から言えば後者の方が容易そうだが。

 で、一体一体DNA鑑定して分離するというのだろうか。
 そんなことに何の意味があるのだろう。
 
 わが国固有のトキやコウノトリは絶滅した。
 佐渡や豊岡ではわざわざ中国やロシアからそれらを移入してまで復活を図っている。
 地域的な遺伝子の特性を重視して、交雑はもちろん、国内における移動までをも問題視するような人々は、こうした動きにも大いに反対すべきではないのだろうか。

 また、朝日新聞は不偏不党を掲げている。
 少しは、こうした外来種の問題に寛容な立場の見解も載せてもらいたいものだ。

(関連記事)
オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・
オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(2)
オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(3)


太平洋戦争の開戦目的は資源確保にあった

2010-10-25 00:56:44 | 大東亜戦争
 以前にも書いたように、わが国の対英米蘭戦は資源獲得のための戦争であった。欧米諸国による植民地支配からの解放とは後付けの理屈にすぎない。
 こんなことは開戦前の日米交渉の経過を考えても、開戦後の占領地におけるわが国の政策を考えても自明のことであり、いわば常識だと思うのだが、こんにちでもブログなどで戦中期のわが国のブロパガンダを真に受けたような記述を見ることがままあるのは残念だ。

 古雑誌を整理していると、『文藝春秋』2009年12月号に、司馬遼太郎の「日本人の二十世紀」という論文が再録されているのを見つけた。これは同誌の通巻1000号である1994年4月号に掲載されたものが初出で、『司馬遼太郎が考えたこと15』(新潮社)にも収録されているという。
 「「坂の上の雲」のあとさき」という副題が付いている。このころNHKのドラマ化などで『坂の上の雲』が見直されていたのだったか。

 前述のわが国の戦争目的をはじめ、昭和戦前期のわが国についての見方において、おおむね同意できる記述が多い。
 私の駄文よりも簡潔かつわかりやすいので、ここで一部を紹介しておきたい。
 (ルビは一部の難読と思われるものをカッコ書きで示した。太字は引用者による)

 昭和初年の狂気は、昭和六年(一九三一)、関東軍一部参謀の独走と謀略によってひきおこされた満洲事変によって出発します。ノモンハンと同様、出先機関が勝手に起こした戦争を、やむなく東京が追認するかたちで、国家を冒険へと駆りたてたのです。ノモンハンより八年前のことで、日本国という機械は、あきらかに狂気によって歯車が組みかえられようとし、げんにそのとおりになりました。
 “満洲国”を独立させ、やがて長城線の内部の華北五省に対し、“満洲国”に似た政権をつくろうとし、中国の反発を受け、ついには日中戦争に拡大しました。

 このように、国内機関(いわゆる軍部)によって積みあげられてゆく積木が、時代の気分の肯定を受けなかったとはいえず、批判や冷静な意見は、つねに小声でした。歴代の内閣は、国家の運営に万全の責任を持つという権能と威厳をうしなっており、関東軍の独走に対し、この幻影のような積木を追認したり、糊塗したりするだけでした。軍部の“謀略”は多分に子供じみていましたが、それを亡国の遊びだというふうに根底から批判しつくすという意見が大展開されたということは、なかったのです。
〔中略〕
 “子供”が積んでゆく積木を、いいトシをした大人たちが感心したり、当惑したりしながら、賛美したり追認したりするうちに、戦争の規模は拡大して、仏印(ヴェトナムなど)に進駐し、そのことによって、ヨーロッパの既得権に挑戦することになります。“大東亜共栄圏”などは、むろん美名です。自国を亡ぼす可能性の高い賭けを、アジア諸国のために行うという酔狂な―つまり身を殺して仁を為すような―国家思想は、日本をふくめ過去においてどの国ももったことがありません。かといって、当時の人達は、日本が帝国主義とは思っていなかったのです。このあたり、じつにあいまいに考えていました。考えを深めようにも、事態が事態を生んで、そのころはたれもが多忙でした。いまからみれば滑稽だし、自他の死者たちのことを思うと、心がいたみます。


 そのころのアメリカの新聞読者からみれば、日本は中国をいじめるとほうもない悪者ですが、日本の新聞読者からみれば、日中戦争は“聖戦”でしたし、アメリカは憎むべき大悪党だったことになります。四年後の敗戦によって、日本国民は、日本そのものが、日本史に類を見ない非日本的な勢力によって“占領”されていたことに気づくのですが、一九四一年当時は、政府を信じていました。
 明治後の日本人ほど政府を信じてきた国民はいないに相違ありません。〔中略〕国家や政府が過ちをおかすことはないとどこかで信じていました。これが近代化が遂げられた最大の理由だと思います。その日本近代の国民的な習性を、軍部その他の勢力が、うまく利用して亡国に追いこんで行ったのです。むろん、軍部としても、それが愛国と思っていたのですが。


 占領期に国民はGHQによって洗脳され、わが国が全て悪かったという贖罪意識を植え付けられたとは、こんにちしばしば聞く話だ。
 私はその宣伝工作だけで戦中期に対する批判的見解がわが国に定着したとは思わないが、GHQによってそのような工作がなされていたことは事実だろう。
 ではその洗脳を脱してわが国は戦中期に戻るべきなのか?
 戦中期においてもわが国においては別種の“洗脳”がまかりとおっていたのではないか?

 占領期には確かにわが国に言論の自由はなかった。
 だからといって戦中期において言論の自由があったわけではない。
 占領期の宣伝に誤りがあったからといって、戦中期の宣伝が全て正しいというわけではないということを強く訴えたい。

 さきに、第一次大戦によって陸海軍が石油で動くようになってから、日本の陸海軍そのものが半ば以上虚構になった、という意味のことを言いました。
 むろん、そのことは、陸軍も海軍も、だまっていた。やがて昭和になって、陸軍が、石油もないのに旺盛な対外行動をおこす。それが累積して歴代内閣が処理できないほどの大事態になり、事態だけが独り走りする。ついにアメリカをひき出してしまう。
 それで、日本は戦争構想を樹(た)てる。何よりも石油です。勝つための作戦よりも、まず一路走って石油の産地をおさえる。古今、こういう戦争があったでしょうか。
 日本の海軍は、全艦隊が数ヶ月走るだけで備蓄がなくなるという程度にしか石油をもっていません。軍艦は動かなければ、単に鉄のかたまりです。
 南方進出作戦―大東亜戦争の作戦構想―の真の目的は、戦争継続のために不可欠な石油を得るためでした。蘭領インドネシアのボルネオやスマトラなどの油田をおさえることにありました。
 その油田地帯にコンパスの芯をすえて円をえがけば、広大な作戦圏になる。たとえばフィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、英国の軍港のシンガポールも、またその周辺にあるニューギニアやジャワもおさえねばならず、サイパンにも兵隊を送る。
 それらを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。日本史上、ただ一度だけ打ち上げた世界構想でした。多分に幻想であるだけに―リアリズムが希薄なだけに―華麗でもあり、人を酔わせるものがありました。
 石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別な言葉につつまれて窺うことができません。この構造を裏づけるに十分な経済力も戦力も日本にないということまで、さまざまなことばによっておいかくされ、人々に輝かしい気分を持たせたのです。〔中略〕
 なにしろ、いまでもこの幻想を持続している人がいます。この幻想のもとにそこに参加して生死した数百万の人々の青春も死霊も、浮かばれない、という気持ちがあるからでしょう。しかし、自己を正確に認識するというリアリズムは、ほとんどの場合、自分が手負いになるのです。大変な勇気が要ります。この勇気こそ死者たちへの魂鎮め(たましずめ)への道だと思うしかありません。
 あの戦争は、多くの他民族に損害を与えました。領地をとるつもりはなかったとはいえ、以上にのべた理由で、侵略戦争でした。ただ当時、日本が宣戦布告したのは米英仏蘭であって、その諸領土のなかの油田を奪おうとし、また英国のシンガポール、米国のコレヒドールなどの要塞を攻撃したのです。この点では欧米との戦いだと当時の日本人は思っていました。
 しかし土地に現実にいるのは土地の人々であって、その人々が、日本軍の作戦によってひどい目にあいました。
 あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、獲得したものを防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです。
 ともかくも開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な思慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。
 地域への迷惑も、子孫へのつけもなにも考えず、ただひたすらに目の前の油だけが目的でした。そこから付属してくる種々の大問題は少しも考えませんでした。


 私がいわゆる大東亜戦争肯定論に与することができないのは、こうした見方を支持しているからだ。
 

フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズの「真実」

2010-10-21 23:25:08 | 大東亜戦争
 前回紹介したJJ太郎さんの記事「恨みは深し通州城」に、次のような文章がある。

当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
「日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」


 凄惨極まる情景である。

 ところで、いわゆる南京大虐殺について、証言者が実際には虐殺を見ていないという批判がある。
 例えば、自由主義史観研究会の公式サイトには、南京大虐殺についての次のようなQ&Aが掲載されている


質問4:
虐殺を目撃した人はいるのですか?

回答4:
当時の資料では南京市内で虐殺を見た人はいません。

〔中略〕

当時の南京在住の国際委員会の欧米人で虐殺を実際に見た証言はほとんどありません。その欧米人たちはもともと中国側と縁が深く中国人に親しみを持った人たちで、国民政府から依頼されたり、そのエージェントと連絡をとって日本を非難する原因を作るような人たちもいました。そのため彼らは手あたりしだいに日本軍の犯罪を記録し抗議しています。しかし、その彼らも南京大虐殺どころか、日本軍による市民の殺害は見てはいません。見たのはただ2件のみで、その2件とも違法な殺害とはいえないものです。

そのうちの1件はマギー神父が東京裁判で証言した事例です。国際委員会のメンバーのマギー神父は、難民のいる安全区を自由に歩き回っていました。そのマギー神父は東京裁判で南京大虐殺の証人として日本軍の暴虐を延々と訴えます。しかし、その裁判で彼は「実際に見たのですか」と質問されたのです。するとマギー神父が実際に見た殺人は、警備中の日本兵に呼び止められて逃げ出した中国人が撃たれた1件だけでした。

〔中略〕

国際委員会の代表のドイツ人ラーベのように、後に日本軍が数万人を虐殺したと述べた人もいます。彼はドイツ政府へは政治的な主張でそう報告しましたが、イギリス大使館には虐殺は数百人だと、日本大使館には49人の虐殺があったと異なった数の報告をしています。しかし、彼は実際には一件の殺人も目撃してはいません。


 この主張自体の当否はここではおく。

 私はJJ太郎さんの記事を読んで、ふと疑問に思った。
 JJ太郎さんは「当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ」と書いているが、この人物は、果たして通州事件の現場をその目で見たのだろうか。
 見たとすれば、彼はどういう状況下でそれを目撃したのか。実際に何人が殺されるのを見たのだろうか。
 また、見ていないとすれば、彼は記述した情報をどのようにして得たのだろうか。

 私はJJ太郎さんのこの記事に対して、
「南京大虐殺については証言が伝聞ばかりだという批判がありますが、このウイリアムズという人物は通州事件を実際に目撃したのでしょうか?」
という趣旨のコメントをしてみた。
 しばらくして確認すると、私のコメントは削除されていた。
 何かJJ太郎さんにとって触れてはいけないことを書いてしまったのだろうか。

 JJ太郎さんがこの記事の参考文献として挙げている、フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(芙蓉書房出版、2009)という本を読んでみた。                                      
 帯にはこんなことが書いてある。

日中戦争前後の中国、満洲、日本を取材した米人ジャーナリストがいた!
日米関係の悪化を懸念しながら発言を続けたウイリアムズが訴える真実とは?


 訳者田中秀雄による解説によると、原書は1938年に米国で出版されたという。

 JJ太郎さんが引用している箇所は、「第二章 西安事件と頻発する日本人虐殺事件」中にあった〔注〕。
 その前後を含めて読んでみても、ウイリアムズが虐殺を直接目にしたと読み取れる箇所はない。
 どのようにして情報を得たのかも明らかではない。
 おそらくは、当時わが国で報道されていた内容に基づいているのだろう。
 これもまた、伝聞にすぎないということになる。

 伝聞にすぎないからといって、当時通州で上記のような惨劇がなかったなどというつもりはない。
 しかし、伝聞にすぎないから南京大虐殺についての証言は当てにはならないといった批判をする者は、このウイリアムズの通州事件についての記述に対しても、同様に取り扱うべきだろう。

 ちなみに、訳者の田中秀雄は、自由主義史観研究会のメンバーあるいは関係者であるらしい。


 本書を読んでみると、JJ太郎さんによる引用箇所の前に、次のような文章があるのが気になった(太字は引用者による)。

私が住んでいた北支の百五十マイル以内のところに、二百名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。二十名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。


 通州事件とは、前回も書いたとおり、わが国の傀儡政権である冀東防共自治政府の保安隊(支那人で構成)が自治政府の置かれていた通州で反乱を起こし、日本軍を攻撃し、民間人を虐殺したというものだ。
 反乱の首謀者である張慶餘は、JJ太郎さんが書いているとおり、宋哲元と接触して抗日の決意を述べていたという。
 であったとしても、張慶餘をはじめ、保安隊の支那人を「共産主義者」「共産党員」と表現するのはおかしいのではないか?

 また、JJ太郎さんによる引用箇所の末尾「拷問をかけていたのだ」の後には、次のような文章が続いている。

 これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されることだろう。この血まみれの事件に三百八十人の日本人が巻き込まれた。しかし百二十人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって二十四時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。


 380人のうち120人が逃げおおせたのだから残りは260人。
 その多くが子供だったという。
 しかしこれは、私が先に引用した
「二百名の男女、子供たち」
「二十名はほんの子供のような少女だった」 
とはやや異なる数字ではないか。

 そして、通州事件が起こった経緯については何も触れられていない。
「友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵」
とはあるが、それが傀儡政権の保安隊であったとは説明されていない。そのため、中華民国の正規軍が日本人を虐殺したと受け取られかねない。
 また、既に日中戦争が始まっていたことにも言及はない。まるで平時に虐殺事件が勃発したようである。


 読み進めて、さらに不審なことに気付いた。
 通州事件の箇所の後には、次のような文章が続いている。

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む六万人の中国人は平和に生活していた。彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。危険や恐怖など何も知らない表情だった。
 かたや中国では、かの国人が暴徒と化して、日本人の子供を好きなように捕まえていたのである。
〔中略〕
 世界はこれらの非道行為を知らない。もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし日本人は宣伝が下手である。
〔中略〕
 中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐには動かない。彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されたことが分かっていた。また西洋諸国が日本を世界貿易市場から締め出した以上、北支との間でビジネスをしなければならないことが分かっていた。率直に言って、中国とは戦争をしたくはなかったのである。中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に絡め取られていることも分かっていた。しかしそれでも中国の人々とは戦争をしたくはなかったのである。なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。


 そして盧溝橋事件についての次の文章に至る。

 日本人虐殺は続いていた。掠奪、殺人が継続した。そして盧溝橋で日本軍が銃撃された。中国共産主義者がこれをやった。火をつけて引火させたのだ。というのも日本軍の軍服は天皇を表象する聖なるもので、日本人は深く永遠なる愛で天皇を仰募していたからだ。つまり心の中にある火が大きく燃え上がったのだ。
 日本は今度は迅速に対応した。共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟していた北京市民は、日本との門が開かれたことを喜んだ。


 通州事件をはじめとする日本人虐殺、掠奪にたまりかねて、盧溝橋事件を契機に日本軍がついに立ち上がったという文脈になっている。

 しかし、通州事件は盧溝橋事件の後に生じたものである。
 この順序はおかしい。
 当時の日中関係の経緯を知る者ならば、何らかの特定の意図がなければ、このような構成にするはずはない。

 これは、わが国の意を受けた外国人によるプロパガンダ本なのではないだろうか。

 巻末の訳者解説を読んで、その疑問はあっさり解決した。

ラルフ・タウンゼントと同じく、Foreign Agents Registration Act 「外国代理人登録法」(以下=FARA)違反で捕われたウイリアムズは、一九四二年五月十一日に法廷に立ち、三週間の審理後に、登録法の九つの違反と謀議を理由に有罪となった。六月五日に十六ヶ月から四年間という不定期の服役刑に処せられている。「謀議」というのは、「時局委員会」という在米の日本の貿易と情報に関する団体の日本人と「謀議」をしていたということである。時局委員会は日本政府の統制下にあり、資金もそこから出ていた。アメリカに対する宣伝――ラジオスピーチや日本びいきの月刊誌やブックレット刊行などの活動をそこでやっていた。
 ウイリアムズは二人のアメリカ人共謀者(ラルフ・タウンゼントとウォーレン・ライダー)と親密で、五人の日本人エージェントと共に支那事変を日本側に立って宣伝する役目を負っていた。ウイリアムズは形式上、日本郵船会社で雇われていることになっていたが、東京で発行されている英字紙の特派員として働いていた。時局委員会の資金は、横浜正金銀行のウイリアムズ名義口座に預けられていた。振込みはサンフランシスコの日本領事がしばしば自ら行っていた。


 フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズとは、れっきとしたわが国のエージェントだったのだ。

 ちなみにラルフ・タウンゼントとは、本書と同じ芙蓉書房出版から現在『暗黒大陸 中国の真実』という著書が出ている米国の外交官である。

 訳者田中秀雄は、上記の文に続けて次のようにウイリアムズを擁護している。

 これを見ると、確かにウイリアムズは日本政府と深い関係を持ってアメリカで活動していたのだろう。しかしそれは中国政府がアメリカでロビー活動、宣伝活動をしていたのとどこが違うのだろうか。


 違わないだろう。
 だから何だというのだろう。
 中国は中国でロビー活動、宣伝活動に精を出し、わが国もまたそれを行った。
 その戦いに中国は勝利し、わが国は敗れた。それだけのことだろう。

 私は本書の内容をまだ詳しく読んでいない。しかし、既に挙げたように通州事件を盧溝橋事件の前に持ってくるような構成をとるようでは、悪質な宣伝文書として米国人に相手にされなくても当然ではないかと思う。
 
仮にFARAを中国側に適用しようとすれば可能ではなかったのか。既にアメリカ民主党政権自体が反日的に傾いていただけに、戦争などしたくない日本側は「日本はアメリカの敵ではない」と宣伝するために、法律など無視して必死ではなかったのか。また一九三八年という意味深な年にできたFARAなど、日本に地雷を踏ませるためにできたようなものではなかったのか。ウイリアムズは、「日本人は宣伝が下手だ」と嘆いているのだが、なぜこれがプロパガンダになるのだろう。下手な日本人に代わって義侠心から、自らアジアの真実をタウンゼントと共に告知してくれていたのが彼でなかったのだろうか。日本にとって二人は英雄なのである。〔中略〕何度でも言うが、アメリカの中国支持は間違っていたし、その間違いを糾すために、彼が日本政府と結びついていたとしても問題はなかったのだ。


 FARAの中国側への適用が可能だったと田中が考えるのは勝手だが、少しは何らかの根拠を挙げてはどうか。
 「法律など無視して必死」であったのはわが国の都合によるもので、米国にそんな事情を考慮してくれと要求するのは虫が良すぎるのではないか。
 
 「日本人は宣伝が下手だ」と嘆くことが何故プロパガンダになるのだと言うが、そう嘆いたということ自体がウイリアムズの罪状なのだろうか。とてもそうは思えない。
 ましてや、ウイリアムズに有罪判決が下されたのは1942年、対英米蘭戦開戦後のことである。
 本書の出版後も、ウイリアムズはわが国の意を受けて様々な宣伝活動に従事していたのだろう。

 わが国からの資金提供を受けていたことまで明らかにしながら「義侠心」を持ち出す田中の態度には開いた口がふさがらない。そんなことを言うなら、中国側に立って宣伝に従事した欧米人にしても、ある種の「義侠心」を持ち合わせていたとは言えないか。

 そして、このようなれっきとしたわが国のエージェントを、上記のように

日中戦争前後の中国、満洲、日本を取材した米人ジャーナリストがいた!
日米関係の悪化を懸念しながら発言を続けたウイリアムズが訴える真実とは?


と煽る出版社あるいは訳者の態度は、読者を馬鹿にするものだろう。

 Amazonでレビューが現在7つ付いているが、いずれもこの点には全く触れておらず、客観的報道であるかのごとく扱われている。
 愚劣この上ない。

〔注〕
 JJ太郎さんによる引用は、本の現物と対比するといくつか異なる箇所がある。
 以下に本の現物からの私による引用を示す(太字はJJ太郎さんと異なる箇所)。
「日本人友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼の同国人が彼を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」
 自分の文章で「中国」を使わずに「支那」を使うのはJJ太郎さんの自由である。
 また、他人の文章を書き写す際に、自分の好みに基づいて漢字をひらがなにしたり、ひらがなを漢字にしたりするのも、それが私的な利用である限りは、JJ太郎さんの自由である。
 しかし、公の場で(インターネットは公の場だ)、カギ括弧による引用をする場合は、原文を一字一句変えないのが当然のルールである。
 それをせずに恣意的な引用をするJJ太郎さんは、引用の一般的ルールについてよほど無知であるか、あるいはルールを熟知していながらも面倒がってそれに従おうとしないテキトーな人物であるかのどちらかなのだろう。


(関連記事)
大戦前の米国における対日輿論についての一見解


通州事件について

2010-10-18 00:03:07 | 大東亜戦争
 JJ太郎さんのブログ「偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」」の記事「恨みは深し通州城」の冒頭に次のような記述がある。

 日本人が大虐殺された歴史。隠された歴史、通州大虐殺。

日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。例えば岩波新書「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子著を開きますとこの事件については一切触れていません。


 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』は、タイトルどおり満洲事変から日中戦争に至る経過を描いたものであり、日中戦争自体を深く記述した本ではない。盧溝橋事件から南京戦までの記述はわずか11ページにすぎないから、一エピソードにすぎない通州事件が省略されていても不思議ではない。
 大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)にも、太平洋戦争研究会『日中戦争がよくわかる本』(PHP文庫、2006)にも、通州事件についての記述はある。小林英夫『日中戦争』(講談社現代新書、2007)にも年表中に記述されている。

 私が通州事件について知ったのは、おそらく産経新聞の連載「教科書が教えない歴史」(1996~1997年)であったように思う。もしかしたらそれ以前にもどこかで目にしたかもしれないが、印象には残っていない。
 この連載は単行本化され、のち文庫化もされ、さらに現在でも普及版が版を重ねている。
 
 通州事件は「隠された歴史」「日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件」などではない。


 ただ、たしかに、こんにち広く知られている事件ではないだろう。
 また、語られる機会も少ないと言えるだろう。

 では、それは何故なのだろうか。
 
 私は最近まで知らなかったのだが、こちらのサイトによると、犠牲者の半数は朝鮮人なのだという。
 信夫清三郎の『聖断の歴史学』という本に次のような記述があるという(引用元では著者名は「信夫信三郎」とあるが、誤り)。

 当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人一〇四名と朝鮮人一〇八名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。


 戦後、原爆投下や東京大空襲がこんにちまで語られ続けているのは、語り続けた者がいたからである。数多くの証言が残されているからである。
 満洲からの引揚者がいかに辛酸をなめたかも、それらが語り続けられたことにより広く知られている。

 戦後、通州事件について語られることが少なかったのだとすれば、その理由の一端は、上記のような事情によるのかもしれない。
 
 また、これも私は知らなかったのだが、同じサイトによると、通州事件については冀東防共自治政府が日本政府に対し謝罪と賠償をすることにより解決済なのだとという。
 
 朝鮮は当時日本領であったから、朝鮮人も当然日本国籍であった。したがって、対外的にはどちらも日本国民だった。
 しかし、わが国内で、朝鮮人と日本人が全く同様に扱われていたわけではもちろんない。朝鮮人の戸籍は日本人とは区別され、権利も制限されていた。
 だからこそ、犠牲者が日本人何名、朝鮮人何名と特定できたのだろう。
 それを、JJ太郎さんのように、

「支那保安隊による日本人大虐殺」
「婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された」
「日本人民間人を殺戮しました」
「日本人はなぶり殺されました」

と表現するのは、誤解を招くものではないだろうか。

 JJ太郎さんが、

この事件の背景には支那共産党と中華ソビエト共和国が昭和10年の八・一宣言を契機に反日組織を続々誕生させたことがあります。昭和10年11月に冀東防共自治委員会が成立しています。宋哲元が委員長に就任します。保安隊の第一総長は張慶餘(ちょう けいよ)で、彼は宋哲元と会い、抗日決意を述べ、宋哲元は軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれ、と命じカネを渡します。すでに共産思想にそまっていたわけです。


と書いているのも不可解だ。昭和10年11月に成立した冀東防共自治委員会とは、この通州事件を起こした保安隊が所属していた冀東防共自治政府の前身であり(同年12月に自治政府と改称)、委員長は記事中でも触れられている殷汝耕だ。
 宋哲元が委員長を務めたのは「冀察政務委員会」だ。これは、日本軍の傀儡である冀東防共自治委員会に対抗して、南京の国民政府が北京に設立した自治的機関であり、河北省と察哈爾省を管轄していた。

 両者の名称は似ているから、JJ太郎さんは混同してしまったのかもしれない。
 しかし、冀東防共自治委員会にしろ冀察政務委員会にしろ、日本軍による華北分離工作の結果成立したものであり、中国共産党が誕生させた「反日組織」などでは全くない。JJ太郎さんが何を根拠に上記のように書いているのか理解しがたい。

 JJ太郎さんはそもそも、冀東防共自治委員会や冀察政務委員会がどういう事情の下で成立したものなのか理解しているのだろうか。
 ブログタイトルで「偏った歴史観を見直す」とうたいつつ、その実、自らが別種の「偏った歴史観」の産物のみを真に受けて、十分に理解しないままそれを広めているにすぎないのではないだろうか。
 そんな印象を受けた。

外来カメに関する報道を読んで

2010-10-05 00:47:11 | 生物・生態系・自然・環境
 しばらく前に、朝日新聞に次のような記事ウェブ魚拓)が載っていた(太字は引用者による)。

外来種カメ持参で入園無料 須磨海浜水族園

 神戸市立須磨海浜水族園は7~13日、国内で大繁殖している北米原産のミシシッピアカミミガメを捕まえて持参した人の入園を無料にする。日本固有種のイシガメが激減するなど深刻な影響を受けているが、生態はよくわかっていないため、国内初の研究施設を設けて駆除方法を探る。

 ウミガメ研究者で「カメ博士」とも呼ばれ、今春就任した亀崎(かめざき)直樹園長(54)の発案。研究施設は約600万円かけて既存設備を改修し、7日にオープンする。アカミミガメ約3千匹を収容できる大型水槽を備え、来園者の見学もできる。

 アカミミガメの体長は最大約30センチで、幼名ミドリガメ。1966年に大手食品会社が景品として大量に消費者へ贈り、川などに捨てられたのが繁殖の始まりとも言われる。研究員の谷口真理さん(27)が5~7月に兵庫県内のため池6カ所で調べたところ、見つかったカメ84匹のうち61匹がアカミミガメだった。

 餌や越冬方法などの生態はほとんどわかっていないという。亀崎園長は「不妊化などの効果的な駆除方法を研究したい」と意気込む。

 入園料は18歳以上1300円、15~17歳800円、小中学生500円。問い合わせは同水族園(078・731・7301)へ。(日比野容子)


 しかし、その少し前にはこんな記事ウェブ魚拓)も載っていたのだ。

クサガメ、実は大陸から来ました 京大など外来種と指摘

 日本の在来種とされてきたクサガメが、大陸から持ち込まれた外来種だったことが、京都大などの調査でわかった。固有種のニホンイシガメの遺伝子や生態系へ影響を与えている恐れがあることもわかった。東京工業大学で開かれている日本進化学会で3日、発表する。

 クサガメは、川や沼にすみ、脚の付け根からくさいにおいを出すことで知られる。在来種とされてきたが、化石や遺跡からの出土例がないため、外来種の可能性が指摘されていた。

 大学院生の鈴木大さん、疋田努教授らは、本州、四国、九州の野生のクサガメ134匹のDNAを分析。103匹は韓国産と同じタイプで、日本の各地域による差がほとんどないことから、最近、移入したものと結論した。

 文献を調べると、18世紀初めに記載はなく、19世紀初めに記載されていることなどから、18世紀末に朝鮮からもちこまれたと推定した。

 外見がニホンイシガメとクサガメとの中間であるカメのDNAを調べ、交雑が起こっていることも確認した。交雑で生まれたカメに生殖能力もあった。今回は一部の遺伝子だけ調べたので、さらに調査が必要と疋田教授は話している。(瀬川茂子)


 だったら、クサガメや交雑種の駆除も図るべきではないのかな。
 そして、わが国には、南西諸島を除いて、カメといえばニホンイシガメしかいなくなる(あ、スッポンもいたな)。

 しかし、それでいいのだろうか。

 以前にも似たようなことを書いたが、交雑種に生殖能力があるなら、それは近縁種だからだろう。
 先祖が同じで、何らかの理由で別々の種となったのだろう。
 それが交雑したところで、何が問題だというのだろうか。

 たしかに、それによって、純粋のニホンイシガメがさらに減少し、その血統が絶えてしまうかもしれない。
 だとしても、それが生態系に大きな変化を及ぼすだろうか。交雑種の生態も似たようなものだろうに。

 生物の目的は子孫を増やすことにある。
 交雑してもニホンイシガメの遺伝情報は子々孫々受け継がれていくのだから、生物としては何の問題もない。
 人間が、希少種の血統は自然に介入してでも維持しなければならないと勝手に思い込み、騒いでいるにすぎない。

 そもそもミシシッピアカミミガメは本当にニホンイシガメの減少の原因なのだろうか。
 たしかに、公園の池などでミシシッピアカミミガメは本当によく見かける。人を見かけると餌がもらえるかとわざわざ向こうから寄ってくる。もっとも身近な亀だろう。
 しかし、その幼体であるミドリガメを私は野外で見たことがないし、そんな話も聞かない。
 繁殖しているのではなく、単に大きくなりすぎて捨てられたミシシッピアカミミガメが人目についているだけなのではないだろうか。

 ニホンヤモリも外来種だと聞く。
 身近なダンゴムシや、田んぼに現れるカブトエビも外来種だと聞く。
 そうした生物をも全て排除すれば、わが国古来の生物相が蘇るのかもしれない。
 しかし、そんなものにどれほどの意味があるのだろうか。
 また、そのためにどれほどのコストがかかることだろうか。

 外来種狩りよりも、まずは在来の生物が住める環境の維持に力を注ぐべきではないのだろうか。

私の考える「保守」

2010-10-04 00:12:15 | 「保守」系言説への疑問
 前回の記事を書きながら思ったこと。

 江藤淳は保守派の言論人と呼ばれている。
 たしか『保守とはなにか』という著作もあったはずだ。

 私も政治的立場としては保守であると考えている。
 しかし,その意味するものは大きく違うらしい。

 私の考える保守とは リアリズムを基調としている。
 「革新」と相対する立場を指す。
 「革新」という用語は、戦後は左翼政党を指すものとして用いられたが、戦前は右翼的立場を指していた。
 私の言う保守とは、その双方を排する。
 ユートピアを掲げた革命やファナチックな国粋主義に陥らず、現実に立脚して、日々の営みを崩さずに漸進していく。そうした立場を指す。

 対するに、江藤流の保守が基調としているのは、ロマンチシズムではないか。
 わが国はアジア解放のために白人国家と堂々と戦い、力及ばず敗れたが、その精神は誤ってはいない、占領下での洗脳から脱し、民族の誇りを取り戻せと説くものではないか。
 実体に目を向けず、観念の世界に生きる人々ではないか。
 そうした思考法こそが、わが国を敗れさせ占領下に置いたにもかかわらず、それに目を向けようとしない人々ではないか。

 江藤は、文芸評論家でもある。
 文芸の世界には,ロマンチシズムは当然あっていいだろう。
 だが、それを政治の世界に持ち込まないでほしい。

 責任者を追及するのは,スケープゴートを作って事たれりとするためではない。
 過去の出来事を教訓として、再度同じ過ちを繰り返さないためだ。
 それがなされなければ、被害者はそれこそ犬死にではないか。

 『忘れたことと忘れられたこと』に収録されている『朝日ジャーナル』に掲載されたインタビューで、江藤は次のように述べている。

いったいわれわれは死んだ人のことを思い出さないでいいのか、という問題があります。これは日本人にとって非常に大事なことで、今でも宗教宗派の別を超えて、お盆というと、先祖の墓へ行くわけです。ところが、戦争中の死者に関しては、死に損だったということにしている。国が勝てば名誉の戦死で、国が負けると、献身的な、私を滅する行為も否定されなければいけないものになるのか。ギリシャの昔、孔子の昔から、私を滅するということは悪いことではなかった。全体の生存をはかろうとするために犠牲になるのは、立派な行為だったはずです。もし、小林多喜二が立派だったというなら、特攻隊だって同じように立派だったのではないか。


 大東亜戦争肯定論者にしばしば見られる主張だが、私にはこうした思考が理解できない。
 「献身的な、私を滅する行為」が賞賛に値するものであることもあるだろう。
 しかし、特攻隊をそのようなレベルで論じてよいのか。

 特攻隊は、志願という建前になってはいるが、事実上の強制だった。
 そして、高島俊男が述べていたように、
「戦果をあげるのが目的ではなく」「多数の若者をつぎつぎに死なせるのが目的であった」
「陸海軍のホンチャンたち(陸士や海兵を出たプロの軍人)が、自分たちのメンツのために、少年飛行兵や学生出身などのしろうとの飛行機乗りを大勢殺した行為」
であった。
 こうした行為を賞賛できる神経を私は理解できない。
 彼らの死は本当に必要だったのか。彼らが死ななければならなかった理由は何か。
 理性的な人間であれば誰しもがそう考えると思うのだが、江藤のようなタイプの人間は決してそうは考えない。逆にそれを、戦死者に対する冒涜だと説く。
 そういう人々は、イスラム原理主義勢力による自爆テロや、韓国などで見られる抗議のための焼身自殺をも同様に礼賛すればいいはずだ。
 だが、彼らは決してそうしない。実に不可解なことだ。

 江藤はこうも述べている。

戦争に負けたことが〝悪〟であり、それは大日本帝国によってもたらされたというのはおかしい。大日本帝国が負けたのは負かしたものがいたからです。それが国際的ダイナミックスの感覚ですよ。もちろんそれ以上戦い得なかったから負けたのだけれども、何のためにか知らないけど、日本人はよく戦った。われわれは今日までその恩恵を受けているということを忘れてはいけないのです。


 もちろん負けたのは負かしたものがいたからだ。
 だからといって、負かしたものに敵愾心を燃やし、「何のためにか知らないけど」「よく戦った」と自らを慰撫するだけでよいのか。
 私は戦争や政治を善悪で論じたくはない。しかし、敗戦によって生じた膨大な犠牲を考えると、負けるべきではなかった戦争であったことは自明だろう。
 ならば、何故負けたのか。敗戦は予測できなかったのか。予測できたとしたら何故開戦したのか。ほかにどんな方策があったのか。今後同じようなことを繰り返さないためにはどうすればよいのか。
 そうしたことに目を向けるのは当然のことだと思うのだが、江藤のようなタイプの人間は決してそうは考えない。「よく戦った」と自らを慰撫し、占領下での宣伝工作批判に傾倒するのみである。

 無宗ださんは、「国のために・・・」という記事で次のように述べている。

たとえば、無能ゆえに会社を潰してしまった経営者というのは、
多くの人に多大な迷惑をかけることになる。
でも、その人は、犯罪者ではありませんよね?

けちな犯罪者が、
他人に及ぼす迷惑より
はるかに大きな影響を、世の中に及ぼしたとしても。


 奇しくも、私もこの問題について似たような例えを考えていた。

 ある巨大企業が無謀な拡大方策を続けた末倒産し、外資の支配下に置かれて再建を図ることになった。
 事ここに至って、経営陣が社員に対し次のような声明を発した。
「社員ことごとく、静かに反省するところがなければならない。我々は今こそ総懺悔し、心を新たにして全社一丸となって再建を図ろうではないか」
 しかし、その陣容は旧態依然としたものであり、さらに失策の最大の責任者が平の取締役に加わっている。
 社員は果たしてそんな経営陣の言葉を支持するだろうか。また支持するべきなのだろうか。
 それとも人心一新を図るべく経営陣の刷新を要求すべきなのだろうか。
 経営陣同様感涙にむせび、失策の原因を追及することなく、心地よいスローガンにのみ頼った「再建」を続けるなら、そんな会社に未来はないだろう。

 曲がりなりにも、わが国がそうした道を進まなかったことは、わが国にとっても、私自身にとっても、幸運であったと私は思う。