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日々の思いをたまに綴るブログ。

朝日社説「集団自決―軍は無関係というのか」

2007-03-31 23:54:02 | 日本近現代史
 今日の『朝日新聞』社説が「集団自決―軍は無関係というのか」と題して、教科書検定で沖縄戦での集団自決に関する記述が修正された件を取り上げている。
社説の魚拓

 「軍は無関係というのか」
 そんなことを誰が言っているというのだろう。
 朝日が報道した文科省の見解にしても、「命令したかどうかは明らかと言えない」というものだ。手榴弾を渡されたというのなら、軍が無関係であるはずがない。言ってもいないことを責め立ててどうしようというのか。

《軍の関与が削られた結果、住民にも捕虜になることを許さず、自決を強いた軍国主義の異常さが消えてしまう。それは歴史をゆがめることにならないか。》

 軍が強制したという点を強調することは、一般民衆は軍に命じられるままやむなく従っていたのであり、何ら責任はないという見方につながる。それは、かえって「軍国主義の異常さ」を理解することを妨げはしないか。
 一般民衆もまた軍を支持し、鬼畜米英を叫び、窮乏生活に耐え、集団自決にも応じたのではなかったか。その心理の異常さにまで思いをはせなければ、「軍国主義の異常さ」を理解することはできないのではないだろうか。
 
《この検定には大きな疑問がある。
 ひとつは、なぜ、今になって日本軍の関与を削らせたのか、ということだ。前回の05年度検定までは、同じような表現があったのに問題にしてこなかった。
 文科省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。
 その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとすれば、あまりにも乱暴ではないか。》

 朝鮮人慰安婦について、以前は教科書には掲載されていなかった。それが朝日のキャンペーンによる「状況の変化」により、掲載されるようになった。それに対し朝日は、「その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとすれば、あまりにも乱暴ではないか」と述べたか? そしてそういった動きに反発してできた「つくる会」の教科書について、朝日はどのような態度を示してきたのか?

《そもそも教科書の執筆者らは「集団自決はすべて軍に強いられた」と言っているわけではない。そうした事例もある、と書いているにすぎない。》

 今日の朝日朝刊の記事に添えられている「沖縄戦・集団自決をめぐる高校教科書の修正例」の一覧表を見る限り、そのようには読めない。
 「日本軍に集団自決を強制された」(清水書院)などと書きつつ、軍の強制以外の集団自決もあったとは書いていないのだから、普通に読めば、沖縄戦における集団自決は日本軍が命じたものと理解されるだろう。
 私はこの問題について詳しくは知らない。しかし、今日の朝日の朝刊の記事(魚拓)が挙げている、

《文科省は、判断基準を変えた理由を(1)「軍の命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある(2)慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている(3)近年の研究は、命令の有無より住民の精神状況が重視されている――などの状況からと説明する。》

という文科省側の理由を考えると、

《日本軍に「集団自決」を強いられた→追いつめられて「集団自決」した

 日本軍に集団自決を強制された人もいた→集団自決に追い込まれた人々もいた》

という今回の修正に、さして問題があるとは思えない。

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再び、光華寮裁判の報道を読んで(1)

2007-03-29 01:08:50 | 事件・犯罪・裁判・司法
 光華寮裁判の最高裁判決が言い渡されたそうだ。原告が台湾(中華民国)だとする下級審の判断を否定し、72年の日中共同声明により「中国」の代表権が中華人民共和国に移った以上、原告も中華人民共和国が引き継ぐべきだと判断し、一審(京都地裁)に審理を差し戻したという。京都地裁がこれに従って原告を中華人民共和国に引き継がせれば、中華人民共和国は提訴を取り下げると見られており、実質的に台湾敗訴の判決だという(魚拓)。

 今この記事を書くためにアサヒ・コムを見ていたら、上の記事はどうも関西ローカルなようだ。全国用の記事の短いこと。28日の朝刊には、1面と社会面に記事が載っていたのだが、関西以外ではやはり扱いは小さいのだろうか。

 上記の魚拓の記事中にはないが、紙面では、大島大輔という記者が、

《日本と中国、台湾との間で外向的なあつれきを生んできた国内最古の未解決訴訟は、最高裁が日本政府による中国の承認を踏まえ、「台湾にはこの訴訟を続ける正統性がない」と明示的に認めたことで実質的に決着することになる。20年前には「二つの中国」を認める学説が有力だったが、現在では「一つの中国」を支持するのが通説になっており、最高裁もそうした現状を踏まえたと見られる。》

と述べている。
 
 前にも述べたことだが、この、20年前には「二つの中国」説が有力、現在では「一つの中国」説が通説だという見方は正しいのだろうか。

 Web上で見る限り、読売、産経の記事にはその種の言及はない(毎日のサイト、MSN毎日インタラクティブにはこの判決の記事自体が見当たらない)。朝日独自の見解だろうか。

 産経の記事がさすがに詳しい。(魚拓その1)(その2

 ↑その2の記事によると、
 
 昭和27年4月に、日華平和条約が締結される。
 同年12月に、台湾が光華寮を買い取る。
 昭和42年に、台湾が光華寮の明け渡しを求めて提訴する。
 昭和47年に、日中共同声明で日本は中華人民共和国を承認し、台湾と断交する。

とある。
 中華人民共和国が成立し、中華民国政府が台湾に逃れたのが1949=昭和24年だから、光華寮を中華民国が購入したのはその後のことだ。つまり、台湾に逃れてからの資産であり、中国を支配していた時代の資産ではない。この経緯も、これまで下級審で中華民国が勝訴していた理由の一つだろう。
(続く) 

「立ち位置」を読んで

2007-03-28 23:56:46 | ブログ見聞録
 zombiepart6さんのブログの記事「立ち位置」を読みました。

 私は、zombiepart6さんと私との見解の違いは、同じ事象が見る角度によって違うように見える場合、そのいずれを重視するのかといった感じの違いだと考えていましたので、「立ち位置からモノの見方、考え方まで全部が完全に違うから」と断じられたのは意外でした。

 さららさんの所でのコメントでも書きましたが、先の私の記事は、単にお二人の記事を読んでの私の感想というか、意見を述べたものにすぎません。私は別にzombiepart6さんに論戦を挑んでいるわけではありませんし、議論それ自体を楽しむような趣味もありません。

 今回の記事にも、ツッコミどころはいくつかあるのですが、本題からどんどんずれていきますし、先に述べたような理由から、それには触れません。
 ただ、誤解されているように思われる箇所があるので、その点についてだけ述べておきます。

>そもそも、日本軍は大陸で蛮行のし放題だったとする人達
>国際的な問題になるのを恐れて軍が不祥事を隠蔽し続けていたという立場
>日本軍は中国全土で「見せしめ」の為に虐殺を行ったが、国際的批判を恐れて計画的かつ徹底的に隠蔽した
>日本軍は倫理的にも思考能力的にも破綻していた

 私は、先の記事でそのようなことは述べていませんし、そのように考えてもおりません。
 私が述べてもいないことを勝手に類推して断定して、「全部が完全に違うから」と言われても、私としては釈然としません。
 反論するにせよ何にせよ、zombiepart6さんにはとりあえず、相手の主張それ自体について考えをめぐらせていただきたいものだ、と思いました。

フィリピン戦での辻政信のエピソードについて

2007-03-26 23:22:45 | 大東亜戦争
 zombiepart6さんのブログの記述について、もう一点思ったことがあったので、昨日に引き続き述べておく(度々ネタにさせてもらって申し訳ありません)。
 
 zombiepart6さんは、「文書」という記事の中で、太平洋戦争でのバターン半島の戦いの際に、辻政信が独断で大本営の名を騙って、降伏を受け入れずに米軍を殲滅せよとの命令を下したが、前線の士官連中からは、こんな重大な命令を電話でよこすな! 本当に大本営の命令ならちゃんと文書で寄越せ! というクレームが殺到したというエピソードに触れている。
 この「文書」という記事の趣旨は、このエピソードに見られるように、日本軍において、重大な命令は文書によることが原則であったのであり、慰安婦論争における、強制連行を命じる文書が発見されないのは、その性質上文書化されなかった可能性があるとの説は、問題外であるというものだ。
 その結論については私も全く同意するのだが、その過程の辻政信のエピソードの扱いについて、疑問を覚えた。

 zombiepart6さんはこう述べている。

《実はその米軍からの降伏の申し入れがあった時に、前線に対して大本営令という名目で、「降伏の申し入れを受けずに戦闘を継続して米軍を殲滅すべし」という内容の命令が通達されたという話がある。その命令が電話で通達された為、具体的な証拠が残ってはいないのだが、当時、関係者が色々と話を聞き集めた結果では、ガダルカナルへ赴任する途中にバターンに立ち寄っていた辻政信が、独断で大本営の名をかたってその命令を出したらしい、という事になっている。まぁ、恐らくそれが事実なのだろう。

(中略)
 
で、この命令が前線に通達された結果、どうなったかと言うと・・・前線で指揮を採っていた士官連中が激怒したらしいね。まぁ、命令の内容に懸念を覚えたというのもあっての事だが、
「こんな重大な命令を電話で通達してくるバカがあるか!コレが本当に大本営の命令ならちゃんと文書で寄越せ!」
というクレームが、司令部の方に殺到したらしい。

前線の指揮官の中には、この命令が本物であった場合を懸念して、命令書が届かない内にという事で、自部隊が直接に対面している敵の降伏を独断で受諾し、武装解除の上で解放した人物がかなり居たと言う。この事は、当時の軍内に、大本営がこうした非人道的な命令を本当に出す可能性があるという認識が広く存在していたという証左であり、また同時に、軍の命令であっても非人道的行為は避けたいと考える者も多く居たという証左でもある・・・が、まぁ、それも置いといて、だ。》 

 私もこのようなエピソードを聞いたことがある。が、だいぶニュアンスが異なる。
 まず、降伏の申し入れがあった時点ではなく、実質的に投降が始まってからのことではないだろうか。
 次に、電話ではなく文書でとの抗議は、「命令の内容に懸念を覚えたというのもあっての事だが」というよりは、まさにその懸念ゆえに抵抗したのではないか。
 そして、そのように抵抗する一方で捕虜を釈放した人物は、「かなり居た」というよりは、ごく限られていたのではないか。

 角田房子による本間雅晴中将の伝記『いっさい夢にござ候』(中公文庫、1975、親本は1972年刊)によると、本間が戦犯裁判で問われた罪の一つに、フィリピン軍捕虜約400人を殺害したことが挙げられているが、本間には全く身に覚えがなく、また部下にそのようなことをする者の心当たりもないので、検察側の悪辣な捏造と考えていたという。
 しかし、第65旅団の歩兵第141連隊長だった今井武夫には、思い当たる節があった。4月9日にキング少将が降伏し、10日朝から続々と投降者が現れたが、

《午前十一時ごろ、兵団司令部からの直通電話に呼び出された今井は、高級参謀・松永中佐の伝える命令の意外さ、重大さに一瞬耳を疑った。
「昨九日正午、バタアン半島総指揮官キング少将は部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的な承諾を与えていない。それゆえ、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」
 戦闘間の命令は事のいかんを問わず、絶対服従しなければならない。だが今井はとうてい従うことのできないこの命令に対し、とっさに心を決めて、答えた。
「本命令は事重大で、口頭命令では実行しかねる。改めて正規の筆記命令で伝達されたい」
 電話を終るやいなや、今井は全捕虜を釈放し、自由に街道を北進してマニラへ行けと指示した。彼は筆記命令が来ることはあるまいと思ったが、もし来ても、その時は手許に一人の捕虜もいない状態にしておけばよいというハラであった。筆記命令ははたして来なかった。
 これについて今井は著書『支那事変の回想』の中に、「戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指揮に派遣された、辻政信参謀が口頭で伝達して歩いたものらしく、某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理が生む行動に、慄然とした」と書いている。
 バタアン作戦終了時に、第十独立守備隊も今井連隊と同じ「捕虜殺戮命令」を電話で伝達された。指揮官・生田寅雄少将は部下大隊長四人を集めて、約一万人の捕虜の処置を協議し、結論が出ないままに時を過していた。その間に彼の高級副官・神保信彦中佐は軍司令部へ行き、この命令が本間軍司令官の関知しないものであることを偵知し、危くこの偽命令の実行を中止することができた。》(p.384~385)

という。
 また、同書によると、フィリピンの元蔵相兼農相で最高裁判所長官であったホセ・アバド・サントスを捕らえた川口清健少将は、本間軍司令官に宛てて、人格識見ともに優れた人物であり日本軍政に参画させるべきと上申したが、処刑命令が下ったという。川口は再度助命を上申したが、再び処刑命令が下り、やむを得ず処刑したという。しかし、これも本間のあずかり知らぬ事であったという。川口は、辻政信が参謀副長をそそのかして命令を出させたと断定しているが、角田によると、その裏付けはないという(p.299~303)。
 この処刑命令が電話であったのか、文書であったのかは、角田の文章からは判然としない。最初の川口の上申は「電報を打った」とあるので、以後のやりとりも電報か電話ではないかと推測されるが、確かとは言えない。

 思うに、今井が機転をきかせて、電話ではなく文書でと述べたのは、当時の日本軍における文書の重要性を示す証拠の一つではあるだろうが、大本営命令はいざしらず、軍クラスの命令となると、同書には、

《サントス(中略)の処刑命令はどこから出たものか。規則通りに解釈すれば、それが軍命令である限り、軍司令官・本間と参謀長・和知が知らなかったはずはない。(中略)しかしこれはあくまでも規則であって、実際には、軍司令官である本間の知らない軍命令が出された例が、いくつかある。また当時の参謀長・和知は「軍参謀長の依命通牒で〝軍命令〟は出たものだ」と私に語った。これによっても軍参謀長の知らない〝軍命令〟が出されるはずはないのだが、それさえ実際には存在している。》(p.302)

とあるので、必ずしも日本軍において文書主義が規則どおりに機能していたとはいえないことがうかがえる。

 元海軍少尉である生出寿の著書『悪魔的作戦参謀 辻政信』(光人社NF文庫、1993、親本は同社『作戦参謀辻政信』1987)は、上記と同様の今井、神保、川口の話を紹介し、さらに、

《第六十五旅団歩兵第百四十二連隊(松江)の連隊副官藤田相吉大尉(東大出身)には、旅団の参謀都渡正義少佐から電話がかかった。
「兵団(旅団)命令の要旨を伝えます。吉沢支隊(連隊長吉沢正太郎大佐の第百四十二連隊)は、明早朝、露営地を出発し、レナチン河支流右岸に適宜陣地を占領し、後退しきたる敵捕虜を捕捉殲滅すべし。細部は出発のとき申します。以上です」
 あきれ果てた藤田は、ガンとして拒絶し、最後にいった。
「わたくしを軍法会議にかけてください」
 一時間後、また都渡から電話があった。
「さきほどの電話命令は取り消し」
 軍法会議では贋命令がバレるからであった。》(p.114~115)

《林〔深沢注・第14軍参謀副長林義秀少将、辻と刎頸の友〕は、ケソン大統領の大蔵大臣で、有能な青年政治家のマニュエル・ロハス(のちの共和国初代大統領)をも、第十独立守備隊に命じて殺害させようとしたようである。
 筆記命令を渡された同守備隊の高級副官神保中佐は、マニラの第十四軍司令部に飛んでゆき、和知軍参謀長に、軍命令の真偽を確かめた。
 和知は、自分の知らない第十四軍の筆記命令に驚愕し、参謀副長の林の部屋にゆき、若い参謀らに神保が持ってきた筆記命令を示して問いただした。
 かれらは贋命令を書き、第十独立守備隊に渡したことを認めた。
 林が、和知にも本間にも無断で、若い参謀に書かせたというほかない。》(p.117)

との話も紹介した上で、

《以上いくつかの奇怪な事件は氷山の一角で、同じような事件がほかにも多数起こった。
 そして、これらの悪魔の仕業のような事件の仕掛人が、(中略)辻政信中佐だった、というわけである。
 辻は、自分では責任をとらず、大本営、つまり天皇、第十四軍、つまり本間軍司令官、第六十五旅団、つまり奈良中将などの名を無断でつかい、各部隊を騙し、米比軍の捕虜将兵、親米派と見られるフィリピン人を、ことごとく殺害させようとした。
(中略)
 ところが、力と謀略で占領地を支配しようという考えは、辻政信ひとりだけのものではなかった。》(p.117~118)

 山下奉文や杉山元も同様の考えだったという。

《辻だけをワル者にするのは片手落ちらしい。
(中略)
 贋命令を乱発して軍紀を紊乱し、多数の不祥事件をひき起こした辻は、なんら責任を問われることがなかった。
 これが当時の参謀本部の体質の一つであったといえそうである。》(p.119)

と述べている。
 私もそのように思う。

 また角田は、上記のロハス処刑の贋命令について、前掲書で、

《のち和知は、自分の不在中に参謀たち数人がこの命令を出したことをつきとめたが、彼らを処罰してはいない。これについて和知は「部下のやったことは、参謀長である私が責任をとるほかない」と説明している。信賞必罰が厳守されるはずの軍だが、同時にこうした親分子分的な、いいかげんな面もあったことがわかる。(中略)独断で軍命令を出したことを「軍司令官、軍参謀長をないがしろにした専横」と、和知は受けとっていない。》(p.304)

と述べている。
 こういった面も、当時の日本軍の体質だったろう。

慰安所がなかったら・・・?

2007-03-25 21:18:20 | ブログ見聞録
 さららさんのブログ「花より韓国! ~第2章~」の「強制動員の証拠はない」という記事へのコメントで、nobie さんという方が、

《何れにせよ、慰安所が無ければベトナムと同じことが起こっていたんでしょうね。》

と述べ、さららさんも

《あまり、アタシ的には、同意したくない一文ではありますが・・・、でも、そうなんでしょうね、残念ながら・・・。》

としている。

 これに対して、ブログ「ギロニズムの地平へ」のzombiepart6さんが、「不法」という記事で、

《「可能性」としての話をするなら、その「可能性」は確かに否定出来ないんだが、「蓋然性」の話としてならば、「まずそんな事にはならなかっただろう」と私は言い切るけどね。》

と述べ、伝統的に住民全体が戦争に参加し、敵地での略奪や強姦が奨励されてきた中国と、戦闘員と非戦闘員の区別が明確で、武士道や騎士道が発生した日本やヨーロッパとでは、戦争における一般民衆というものに対する考え方が全く違う、だからといって日本では軍による不法行為は絶無だったと主張するわけではないが、不法行為は不法行為として扱われていたのであり、大多数の日本人は自分が不法行為と認識していることはやれないはずだとして、

《まぁ、仮に慰安所が無かったとしても、それによって日本の兵隊が手当たり次第にそこらの女性を強姦する様になっただろうとは、私は思わない。ある程度増えた可能性は否定できないけど、基本的にそういう事をするヤツは、慰安所が有っても無くてもそういう事をするヤツなんじゃないかと思うね。》

と述べている。

 そして、これを読んださららさんも、その説に納得したとして、「強制動員の証拠はない、の訂正」という記事を設け、

《nobieさん、ゴメンなさい。
私の回答も、
「まずそんな事にはならなかっただろう」
に訂正します。》

と述べた。

 私がこれらの一連の記事を読んで思ったのは、まず、最初にnobie さんが述べた「ベトナムと同じこと」とは、どういう事態を指していたのだろうかということだ。
 私は、ベトナム戦争の時の、韓国人兵士とベトナム人女性との混血児問題のことを指しているのだと解釈していた。
 慰安婦制度がなければ、日本兵も現地の女性に積極的に手を出しただろうから、結果的に混血児が大量に発生しただろうと述べているのだと。

 しかし、zombiepart6さんは、

《仮に慰安所が無かったとしても、それによって日本の兵隊が手当たり次第にそこらの女性を強姦する様になっただろうとは、私は思わない。》

と述べているので、「ベトナムと同じこと」とは、「手当たり次第にそこらの女性を強姦」することだと解釈しているようだ。
 そのzombiepart6さんにさららさんも同意しているということは、さららさんもそのように考えているのだろうか。

 ベトナム戦争の時に、韓国軍や米軍が、「手当たり次第にそこらの女性を強姦」したのだろうか。私にはベトナム戦争にそのような印象はないのだが。

 私は上記のように混血児問題と解釈していたので、「慰安所が無ければベトナムと同じことが起こっていたんでしょうね。」というnobieさんの一文には同意していたのだが、仮にzombiepart6さんの説に従って、慰安所がなかったら「日本の兵隊が手当たり次第にそこらの女性を強姦する様になっただろう」か、という想定をするならば、全ての日本兵が常に、「手当たり次第に」そのようなことを行うとはさすがに思わないが、一部の不心得者というような表現では済まない数の日本兵によりそのような事態が生じる蓋然性は極めて高いと考える。
 というか、実際にそうなったわけだ。例えば南京などで。

 日本軍には明治時代から慰安婦制度があったわけではない。秦郁彦・編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991)の「慰安婦」の項目には次のような記述がある。

《誕生のきっかけは、南京虐殺事件に代表される日本兵の中国女性に対する強姦事件が多発したことにあった.国際問題化しかけたので,あわてた軍部は,兵士たちの性処理のため,日本女性を戦場に連れてきて慰安させようと着想した.》

 また、同書の後に刊行された秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999)によると、最初の慰安所は、さらにさかのぼって1932年の第1次上海事変の際、上海派遣軍の兵が強姦事件を頻発させたことに手を焼いた上層部が発足させたというのが通説だという。

 このように、強姦対策として慰安所は誕生したのであり(性病予防の目的もあったという)、それを、仮に慰安所がなかったとしても、日本軍はおおむね品行方正であったとする考え方は、私としては疑問に思う。

《基本的にそういう事をするヤツは、慰安所が有っても無くてもそういう事をするヤツなんじゃないかと思うね。》

という点についても、それ自体はたしかに正しいだろうが(現に慰安所があっても強姦事件は生じているわけだから)、慰安所があればそれで解消できるという層も存在し、そういった層に対しては一定の役割を果たしていたと言えるのではないだろうか。

 なお、中国と日本の非戦闘員観の違いについて、たしかに歴史的にはそういったことも言えるとは思うが、それを20世紀の戦争にそのまま適用していいものかどうかも疑問だ。
 そもそも、日本軍に武士道精神はあったのだろうか。近代戦とは武士道や騎士道を否定することから始まったのではないだろうか。

 私が昔入院したときに同室になった、かつて中国に出征したという老人から、略奪や強姦などを完全に禁止することはできなかった、そんなことをしたらかえって兵の士気が下がってしまう、戦闘する意欲の中にはそうしたことへの期待もあったという趣旨の話を聞いたことがある。
 おそらく、支那派遣軍ではかなりそういう雰囲気が蔓延していたのではないだろうか。

 一方、敗戦後の満洲や北朝鮮におけるソ連兵による略奪や強姦は有名だが、中国本土でのそのような話はほとんど聞かない。
 こういうことを考えると、歴史的に中国人はこう、日本人はこうという話が、現代の事象を考える上で果たしてどれほど有効なのか、疑問に思う。

鴨志田穣さんが死去

2007-03-21 23:15:27 | マンガ・アニメ・特撮
 マンガ家、西原理恵子の元夫。

カメラマンの鴨志田穣さんが死去(朝日新聞) - goo ニュース

 他の記事によると、最近復縁していたそうですね。

 私は古くからのサイバラファンでしたが、鴨志田氏のエッセイの良い読者ではありませんでした(『アジアパー伝』も途中で読むのをやめました)し、正直言って、鴨志田氏にはあまり良い印象を抱いていませんでした。サイバラのマンガの中の「鴨ちゃん」は愛すべきキャラクターでしたが・・・。しかし、あの(元)夫婦をマンガで見ることももうないのですね・・・。ご冥福をお祈りします。

拉致問題に正面から取り組んでいる国は日本のみ(2)

2007-03-15 23:50:11 | 現代日本政治
承前
 先に、大甘の甘太郎さんのコメントで、民主化前の韓国での北朝鮮による拉致被害者の扱いについて教えていただいたが、最近の扱いについて、今月発売の『中央公論』4月号の淵弘「ルポ 中朝国境の現在〈後編〉 なぜ韓国は拉致被害者に冷淡なのか」が参考になった。
 タイトルの「なぜ」に対する答えは結局記事中にもないのだが、北朝鮮に拉致された後中国に亡命した韓国の拉致被害者に対し、在中国の韓国領事館が極めて冷淡な対応をとったこと、朝鮮戦争での韓国軍捕虜が送還されずに北朝鮮で強制労働に従事させられていること、朝鮮戦争時に一時ソウルを占領した北朝鮮軍が撤退する時に多数の指導者層の民間人を連行したことなどを指摘した上で、韓国政府の対応に疑問を呈している。
 その末尾に次のような記述がある。

《フィリピンのセブ島で開かれた日中韓首脳会談に先立つ一月十二日の外相級会談で、韓国の宋旻淳外交通商部長官は浅野勝人外務副大臣にこう語ったと伝わっている。
「拉致された日本人は数十人に過ぎない。韓国には数百人いるが何も言っていない」
 生存が確認されただけでも数百人いる韓国の拉致被害者を、韓国政府として救出する意思はないと明言したも同然だ。》

 仮に、日本の外相がこのような発言をしたと報じられたら、外務省には非難が集中し、外相は辞任を余儀なくされるだろう。
 韓国にも拉致問題を重視せよとの意見が一部にあるが、政権を動かすには至らないようだ。

 日本にいると、拉致を実行したことを北朝鮮が認め、かつその後の対応に誠意が見られない以上、経済制裁など強硬策をとるべきだとの意見が大多数を占めるのは当然のように思うが、この韓国の対応や、あるいはタイやルーマニアで拉致問題への関心が高まっているとは報じられないところを見ると、日本の反応が国際的には異質なのかもしれない。
 わずかばかりの拉致被害者にこだわるよりも、大局を見て国交正常化交渉を進めるべきだといった日本の一部の論者の意見の方が、むしろ世界標準なのかもしれない。
 だとしても、そのような異質さは、日本の民度の高さを示すものとして、世界に誇るべきものだと思う。

 韓国人のナショナリズムの激越さはよく指摘されるが、本来のナショナリストなら、拉致被害者や離散家族の問題には、もっと敏感に反応するのではないだろうか。
 そういったことには目をつぶり、反日や反米には敏感に反応する韓国人を見ていると、これはいわゆるナショナリズムとは別種のものではないかと、最近思うようになった。
 ではそれが何なのかと問われると、うまく説明できないのだが・・・。

拉致問題に正面から取り組んでいる国は日本のみ

2007-03-14 00:42:14 | 韓国・北朝鮮
 今月発売の『文藝春秋』4月号に掲載された、「乱世こそおれの出番」と題する、手嶋龍一による麻生太郎へのインタビューで、麻生が興味深いことを述べている。

《政府が正面切って拉致問題に取り組んでいる国は、国連加盟百九十二カ国の中で日本だけ。国連決議に拉致を念頭に置く文言(人道上の懸念)を書き込ませた国は、ほかにはない。じゃ拉致は日本だけで起きているのかといえば、いろんな人の証言では、韓国はじめ、結構な数の国で起きている。にもかかわらず、みなこの問題には触りたがらない。日本だけが正面切っている。それは、国民の安全と安心を脅かされるような事態は、真っ当な国家として決して許されないという基本姿勢があるからです。》

 たしかに、韓国をはじめ、いくつかの国で北朝鮮による拉致が報じられているが、正面切って取り組んでいるのは日本だけのように思う。タイやルーマニアなどの動きが全く報じられない。
 これは、現職の外相による、言わば自画自賛である点、そしてタイやルーマニアなどとは被害者の人数が異なるという点を差し引いても、重要な指摘ではないだろうか。
 つまり、他国と比較する限りでは、日本政府は一応やるべきことはやっていると言えるのではないだろうか。
 もちろん、被害者やその家族からすれば、日本政府の対応は十分とは言えないかもしれない。
 だが、まず憎むべきは北朝鮮であり、昨今一部に見られるような、拉致問題を解決できなかった日本政府の責任を問うといった論調はどうかと思う。

 世論調査でも、拉致を理由に、北朝鮮への強硬策が支持されている。
 これは、国は自国民の保護に力を尽くすべきだという点で、国民的合意が形成されているということだろう。
 そして、おそらくタイなどでは、そういったことはあまり重視されていないのではないだろうか。
 そういう意味では、日本は人権意識が高い国だと評価してもいいように思うのだが、ほめすぎだろうか。

 太陽政策をとっている韓国の廬武鉉政権や金大中前政権が自国民の拉致問題に消極的だったのは当然だろうが、それ以前の政権はどうだったのだろうか。
 特に、反共色を鮮明にしていた、全斗煥、朴正煕、さらに李承晩政権はどうだったのだろうか。
 これらの政権が拉致問題で北朝鮮を批判していたといった話は聞いた記憶がないが・・・。
 詳しい方がおられたら、御教示いただけたら幸いです。

「小倉侍従日記」を読む

2007-03-12 23:34:20 | 日本近現代史
 今月発売の『文藝春秋』に掲載された、「『小倉庫次侍従日記』 昭和天皇 戦時下の肉声」を読んでみた。
 『朝日新聞』が9日の朝刊で報じたものだ。
(http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2007030802850.html?C=S)
(http://news.goo.ne.jp/article/asahi/life/K2007030900330.html)

 『文藝春秋』の記事には、
「新発見 昭和史の超一級史料!」
 とのアオリがあるが、実のところ、それほどの重要史料ではないと思う。
 少なくとも、『昭和天皇独白録』や『木戸幸一日記』『西園寺公と政局』などと比べれば。
 昭和天皇に関する通説を補強するものという感が強い。

 通勤電車の中で読んだのだが、率直に言って、半藤一利による注がわずらわしい。
 文語調の原文の後に、半藤による現代文の注釈が入ると、どうしても現代文の方に目がいってしまい(読みやすいので)、原文の読解が妨げられることがしばしばあった。
 原文の理解を助けるための必要最小限度の注釈ならいいのだが、どうもその範囲を大幅に超えているように思う。
 半藤の昭和史論は、多数の著書によりよく知られているのだから、ここは必要最小限の範囲にとどめてほしかった。小倉日記そのものではなく、小倉日記について書かれた半藤の文章を読んでいる気がする。
 上段に原文を、下段に注釈を置くとか、注釈だけを末尾にまとめるとか、いろいろ方法はあると思う。
 もし単行本化の機会があれば、検討していただきたいものだ。

 特に印象に残ったのが、朝日でも報じられていた、昭和天皇が息子を自分の元に置きたがっていたというエピソード。
 当時4歳の義宮(現常陸宮)を、しきたりに従って天皇の元から離し、青山御所の一角に住居を移すよう側近が提案したのに対し、
「宮城を出ることになれば、東宮〔皇太子〕と一緒か。」
「東宮と同居と云ふことを考えてゐたが、同居になれぬ位なら宮城の方がよくはないか。」
「宮城内に設備しては何故いかぬか。」
「青山御所の建物は、修理を加へても陰気だ。絶対反対である。明るい気持ちのよい御殿を新築してほしい。」
「青山御所は大宮御所、秩父宮御殿に近か過ぎる。そちらにおなじみになりはせぬか。淋しい。」
などと、様々に理由を挙げて反対し、最終的には許可したものの、さらに
「英国皇室に於ては宮中にて皇子傅育をしているが、日本では何故出来ぬか」
との御下問があったという。
 天皇主権と言われる旧憲法下でも、こうしたことすら天皇の意のままにはならなかったわけで、何とも痛ましい話だと思った。
 こういった昭和天皇の肉声が明かされるのは、確かに初めてなのかもしれない。

 あと、ヒトラーがフランスを降伏させた際に、第1次世界大戦でドイツがフランスに降伏したのと同じ場所で降伏文書に調印させたことについて、

《コンピエーニュの森の独仏会談のニュースの御話を申し上げたるに、「何うしてあんな仇討めいたことをするのか。勝つとああ云ふ気持になるのか、それとも国民がああせねば承知せぬのか。ああ云ふやり方の為めに結局、戦争は絶えぬのではないか」など仰せありたり。》

という箇所も印象的だった。
 いくつかの発言をとらえて、昭和天皇は好戦論者だった、侵略戦争を積極的に支持したと主張する論者を見かけることがあるが、こうした発言に見られるように、やはり昭和天皇は本質的には平和主義者だったと思う。

 その他の注目すべき箇所は、
「自分は支那事変はやり度くなかつた。」
「自分の花は欧洲訪問の時だつたと思ふ。」
「皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」
など、おおむね朝日が既に報じているものだった。

服の上からの撮影は無罪?

2007-03-10 23:49:28 | 事件・犯罪・裁判・司法
 goo ニュースでこんな記事がランキング1位に入っていたので、読んでみた。

女性の臀部撮影に無罪 「服の上から、違反でない」 旭川簡裁(北海道新聞) - goo ニュース

 ふーん?
 北海道迷惑防止条例を見てみる。

《第2条の2 何人も、公共の場所又は公共の乗物にいる者に対し、正当な理由がないのに、著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。
(1) 衣服等の上から、又は直接身体に触れること。
(2) 衣服等で覆われている身体又は下着をのぞき見し、又は撮影すること。
(3) 写真機等を使用して衣服等を透かして見る方法により、衣服等で覆われている身体又は下着の映像を見、又は撮影すること。
(4) 前3号に掲げるもののほか、卑わいな言動をすること。》

 はて? 記事を読む限り、この(2)には十分該当するのではないのかな?

 ああそうか。記事によると、

《判決は「道条例では、衣服等で覆われている内側の身体や下着を撮影することを禁じており、服の上からの撮影に関する規定はない」と弁護側の主張をほぼ認めた。卑わいな言葉を発したことは認定しなかった。》
 
とあるから、条例の

《(2) 衣服等で覆われている身体又は下着をのぞき見し、又は撮影すること。》

の「身体」というのは裸体のことで、服の上からの撮影は該当しないと判断されたのだな。
 しかし、本当にそんな解釈でいいのかな?
 服の上からの撮影も含むという解釈も、十分成立すると思うけど。
 そうでないと、服の上からなら、どの部位であろうと、撮影し放題ということになってしまう。
 条文には、

《著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。》

とあるのだから、その精神にのっとった解釈をすべきではないのかな。